「ディア・ドクター」
(2009年・エンジンフイルム=アスミック・エース/監督:西川 美和)
「ゆれる」で高い評価を得た、西川美和監督の新作。
都会の医大を出た若い研修医・相馬(瑛太)が、山間の僻村に赴任して来る。ここでは人の良さそうな伊野(笑福亭鶴瓶)が、村唯一の医者として奮闘している。病気を抱えたさまざまな老人を治療し、話し相手まで引き受ける伊野は、村人から大きな信頼を寄せられていたが、ある日突然、伊野が失踪する。警察が捜査するうちに、伊野のある秘密が明らかになって来る…。
「蛇イチゴ」、「ゆれる」でもそうだったが、西川監督は、人間をじっくりと観察し、その行動を通して、人間という存在そのものの不可思議さ、哀しさを容赦なく暴いて行くのが得意のようである。
前作までは、全体にピンと張り詰めた緊張感が漂い、見てて息苦しくなる部分もあったが、本作では(舞台はいつもと同じ田舎なのに)鶴瓶というキャラクターのおかげもあるが、どことなくトボけたユーモアが絶妙にブレンドされ、作品にさらに厚味と風格が加わった。この作家はどんどん進化しているようだ。
伊野は実は偽医者なのだが、夜は医療関係の書物を読みあさり、勉強もしているし、何よりその人当たりの良さ、相手を包み込むような優しい応対によって、患者の心を解きほぐす事にも力を注いでいる。気軽に往診に出向き、孤独な老人の話相手にもなってあげる。
医者というのは、むしろそうあるべきだろう。2時間待たされて、診察は3分…という、現在の都会の診療システムでは、身体は治せても、心の病は治せない。
法律的に見れば、伊野の行為は犯罪なのだろうが、だが、免許を持ったどんな医者よりも、伊野の方がずっと人間的に魅力があり、山間の僻村には望まれるべき存在である。医療制度の現実と矛盾に鋭く斬り込む西川監督のアプローチが冴える。
若い相馬も、やがて伊野の人柄に惚れ、研修が終わった後も、伊野の元で働きたいと申し出る。だが伊野は「自分はそんな立派な人間ではない」と言う。いつかは嘘がばれるだろうという不安が伊野を苛む。
この、伊野と相馬の関係は、黒澤明監督の「赤ひげ」を想起させる。赤ひげの人柄に心服した若い保本は、出世を捨て、養生所に骨を埋めると決意を述べるが、赤ひげは「わしを買いかぶるな。わしは下劣な人間だぞ」と保本をたしなめる。
伊野は、現代の赤ひげであろう。…だが、伊野が偽医者と知った後の村人や相馬のリアクションに、人間を厳しく凝視する西川監督のシニカルな視線が感じられる。
余貴美子が、「おくりびと」に続いてまたも見事な助演ぶりを見せる。医療経験は伊野より確かで、陰ながら伊野を助ける。おそらくは、伊野が偽医者である事も見通しているのではないか。それが、逆に伊野にとって知らず知らずプレッシャーになっていた事も感じられる。
鳥飼かづ子(八千草薫)という独り暮らしの未亡人と、伊野との交流も味わい深い。このかづ子に頼まれて、伊野は偽の胃カメラ写真をかづ子の末娘、りつ子(井川遥)を見せる事となる。偽物を使った嘘を共有する事によって、伊野とかづ子の間に共犯関係が生まれ、これが、ラストのニンマリさせられるオチの伏線にもなっている。…西川監督の構成力の巧みさには、いつもながら感服させられる。
伊野が突然失踪する理由はボカされているが、観客がいろいろと想像するのも映画を観る楽しみの一つである。
おそらくは、りつ子の母に対する冷たい態度に、かづ子に頼まれた嘘をこれ以上つき通すのに耐えられなくなり、ついでに自分の嘘にも耐えられなくなった…というのが妥当な所であろうが、
もう一つ、かづ子の病状の進行は、もうこの村では処置出来ず、都会の総合病院に入れざるを得ない。―従って、この村でいる限りは、伊野はかづ子の傍に居てやれなくなる…と考えたとも取れる。
その想像が正しいかどうかは、ラストシーンを見て、観客が判断すればよい事である。
ともかくも、これは本年屈指の秀作である。形だけの本物よりも、心のこもった偽者の方がずっと価値があるという、アイロニカルなテーマに迫り、かつ社会的な問題を提起しつつ、人間の存在をハートフルに見つめるという離れ業までやってのけている。まったく西川美和、おそるべし。 (採点=★★★★☆)
(お楽しみはココからである)
―以下は私の独断と偏見(またはお遊び)です。まあこういう観方もあっていいのではないかと。
この映画を観てて感じたのは、山田洋次作品との類似性である。
本作の構成は、“正体不明の男がフラリとある町にやって来て、町の人々を助けるが、ある日またいずこともなく去って行く”…という、昔からある風来坊もの(西部劇や、日活無国籍アクション等)のパターンを巧妙にアレンジしてあるのだが、山田洋次作品にもそうしたパターンの作品が多い。
山田の出世作となった「馬鹿まるだし」がそうだし、前述パターンの典型である西部劇「シェーン」を換骨奪胎した「遥かなる山の呼び声」は、いろんな点で本作との共通点が多い。主人公の高倉健は、フラリと町に現れ、未亡人の倍賞千恵子に陰ながら援助の手を差し伸べ、彼女にほのかな思いを寄せるが、実は高倉は警察に追われる殺人犯だった…という話で、秘密を背負っている点、共に未亡人に思いを寄せている点、そしてラスト間際で、未亡人の前にそっと姿を見せるという辺りなど、似ている点が散見される。
ヒットシリーズ「男はつらいよ」にも、寅がある田舎の村に現れ、いつの間にか村人に慕われ、未亡人に恋をしたり、ラストでひっそり姿を消す…という展開がよく登場した。
中でも、「口笛を吹く寅次郎」という作品では、寅はやはり田舎の町にやって来て、お寺に居ついてしまい、檀家の人にもすっかり気に入られ、あげくに偽の坊主となってありがたい法話を聞かせるまでになる。で、やはりある日そっと姿を消してしまう。
おそらく、寅の語る法話は、本物の坊さんが語るどんな法話よりも面白くて、人の心を打ったのではないか。
つまりここでも、偽者が、資格を持つ本物よりも本物らしく見え、人の心を掴んでいるのである。
それはとりもなおさず、建前、格式や法律に縛られ、本当のものが見えなくなっている現代人への痛烈な皮肉にもなっているのである。
本作の、人情味と善意に溢れ、人を疑う事を知らない村の人々の純朴ぶりも、山田洋次映画ではお馴染みのパターンである。
山田洋次と言えば、落語の大ファンで、小さん師匠の為に落語の台本を書いたり、落語ネタの「運がよけりゃ」という映画も撮っているが、本作でもかづ子が夫の遺品の落語のカセットを聞くシーンが出て来るし、冒頭の食物を喉に詰まらせた老人を死んだと思い、伊野が死体を抱きかかえる辺りは、落語の古典「らくだ」を思わせる。ちなみに、やはり山田作品の長屋ものの「一発大必勝」ではなんと、死人を抱いて踊っているうち、その死人が生き返ってしまうのである。
主役を演じた鶴瓶が本職は落語家だし、本作を挟んで「母べえ」、「おとうと」と、山田洋次作品に連続出演しているという事実もまた興味深い。
(蛇足)
偽者が本物に勝ってしまうというシニカルなコメディが、実は昭和7年に既に作られている。
監督作「赤西蛎太」や「無法松の一生」の脚本で知られる、伊丹万作の監督作品「国士無双」である。
片岡千恵蔵扮するニセモノが、本物の将軍家御指南番と二度勝負して、二度とも勝ってしまうという痛快ナンセンス・コメディ。残念ながらフィルムは現存していないが、'86年に保坂延彦監督が、中井貴一主演でリメイクしており、DVDも出ているので興味ある方はご覧になってはいかが。
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やがてベース、ドラムをメンバーとして追加、4人編成のバンドとして、デビュー作「ウォーク・ドント・ラン」が大ヒットする。当時はボブがリード・ギターだった。その後、ベース担当だったノーキー・エドワーズのギター・テクニックが見事だったので、彼をリード・ギターとし、ボブはベースを担当する事となる。














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