2009年11月11日 (水)

「ロボゲイシャ」

Robogeisha1  

(2009年・角川映画/監督:井口 昇)

海外で製作したスプラッター・アクション「片腕マシンガール」が逆輸入され、予想外のヒットとなった井口昇監督が、今度は日本国内で監督した、これまたギャグと脱力パロディ満載のSFアクション。

芸者の姉、菊奴(長谷川瞳)に蔑まれ、付き人として惨めな人生を送っていたヨシエ(木口亜矢)が、その潜在能力を謎の製鉄会社の御曹司ヒカル(斎藤工)に見込まれ、姉と共に芸者姿の暗殺マシンとして育成されるが、日本征服を企むヒカルたち悪の組織の正体を知ったヨシエは彼らに敢然と戦いを挑む…。

前作は、海外のオタク向けに、シ、テンプラ、ヤクザ、ニンジャ、等のレトロ的日本趣味を網羅していたが、本作も出てくる出てくる、ゲイシャ、フジヤマ、サムライ、ハラキリ、天狗、セーラー服、チャンバラ、巨大ロボット…と、こちらもガイジン好みの日本的要素をゴッタ煮でぶち込んだ、楽しい快作に仕上げている。公式HPに解説文を寄せている江戸木純氏に言わせると、「戦略的国辱映画にして究極のジャパン・エクスプロテイション・ムービー」という事なのである。

Robogeisha2 前作同様、SFXはチープだし、冒頭の掴みエピソードは本筋と全然リンクしてないし、アクションもゆるいし、“ロボゲイシャ”といいながら、ヨシエの体は単に部分改造を施したサイボーグに過ぎないのだが(サイボーグとタイトルにありながら実態はロボットだった「僕の彼女はサイボーグ」とは正反対(笑))、シーンによってはターミネーターを思わせる赤いセンサー主観映像があったり、ロボコップよろしくチーチーと機械音を出したりで、いつから全身がロボットになったのだ?…といった具合に、ツッ込みどころは満載である。

だが、そんなチープさも、辻褄の合わなさも、B級らしさを醸し出す為に井口監督はわざとやってるのだろう。まさに確信犯である。

むしろ、ここには、井口監督が子供の頃から見てきたであろう、ゲテモノSF、怪獣映画、戦隊もの、忍者もの、ロボット・アクション、等を含めたB級、C級アクションへの思い入れをぎっしり詰め込んで、観客と共に楽しもう、という1本芯の通ったスタンスがある。

それは、井口監督が敬愛してやまない鈴木則文監督が、'70年代に東映で量産して来た、エロ、グロ、下ネタ、パロディ、ギャグを満載したサービス精神溢れるB級アクション作品群に共通するファクターでもある(そう言えば鈴木則文さんのフィルモグラフィには「温泉スッポン芸者」などの“芸者もの”があったなあと思い出す。案外ヒントはこの辺か(笑))。

ヒカルの父親で、悪の組織のボスを怪演してるのが、懐かしや志垣太郎(「狼の紋章」他)、その一味に娘たちを拉致された家族会のリーダーの老女がこれまた懐かしい生田悦子(かつては「命果てる日まで」(66)などの松竹女性映画の可憐なヒロイン)、その家族会の一員に竹中直人!と役者が結構豪華だったりする。

美女をはべらせたり、核兵器を弄んだり、拉致家族の会が出て来たりと、明らかにこの親子、某北の独裁国家を思わせたりもするのも笑える。

ヨシエの改造された下半身が戦車となってハイウェイを疾走し、ビルの壁を垂直に走ったり、敵の城!が巨大なロボットにトランスフォームしたり(「大魔神」を思わせる)、ビキニに丸髷の美女たちが尻から刀を出したり、とまあやりたい放題。

そのB級C級活劇へのオマージュといい、下品さといかがわしさに満ちたコテコテのサービス精神といい、井口監督は日本のクエンティン・タランティーノを目指している、と言っていいかも知れない。

 
しかし、本作は単なるバカ映画に終わってはいない。全編を通して、姉と妹の憎悪と確執の愛憎劇が作品のコアとなっており、最後は果てしなき戦いの末の和解へと収斂して行く、姉妹の愛と哀しみのドラマにもなっている。

その物語は、あたかも、鈴木則文監督の直弟子である関本郁夫監督による、やはり姉妹の愛憎劇の傑作「天使の欲望」(79)を彷彿とさせたりもするのである…と書けばちょいとほめ過ぎか(笑)。

 
とにかく、これは楽しんだもの勝ちである。人によってはバカバカしさについて行けない方もいるかも知れないが、こういうのはタラちゃんのグラインドハウスものと同様、ガハハハと笑いながら突っ込んで、お祭り騒ぎで楽しめばいいのである。そうした楽しみ方の出来る映画ファンにはお奨めの快(怪?)作である。

ただ、海外製ゆえタブーを思いっきり無視した前作に比べると、本作は日本の製作委員会(なんと角川映画がメイン)が作ってる為か、血まみれスプラッターも、首チョンパの切り株シーンもない、比較的女性や子供でも見られる作りになっている(キャッチコピーは「ギリギリ、デートに使える映画」だそうだ(笑))。その辺りが前作のファンには、やや物足りないかも知れない。    (採点=★★★★) 

 Youtubeの予告編はこちらを参照。 ↓
 http://www.youtube.com/watch?v=pgdcTczR88M&feature=related

 
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(付記)
関西では、天六のホクテンザ2のみでの上映。ここは今年は「鎧 サムライゾンビ」を上映したりと、本作の雰囲気にピッタリの劇場。また公式ブログ等では、同劇場の絵看板が写真入りで紹介されたりと、結構人気のある劇場である。まだ行った事のない方は、話のネタに一度見に行ってあげてください。客が少ないのによく頑張ってます。

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2009年11月 6日 (金)

「母なる証明」

Mother_2 (2009年・韓国/監督:ポン・ジュノ)

「殺人の追憶」「グエムル-漢江の怪物-」と、1作ごとにレベルの高い傑作を生み出して来たポン・ジュノ監督が、またまた傑作を作り上げた。絶対お奨めの見事な秀作である。

静かな田舎町で暮らす母(キム・ヘジャ)と、その息子トジュン(ウォンビン)。トジュンは、やや知恵遅れだが、小鹿のような目を持った純真な青年。ある日、女子高生の惨殺死体が発見され、現場に残された遺留品からトジュンが容疑者として逮捕される。弁護士も頼りにならない。息子の無実を信じる母は、自ら犯人探しに乗り出す事を決意するが…。

脚本が実に見事である。(以下、ややネタバレがありますのでご注意ください)
まず冒頭で、明るく広々とした野原で踊る母の姿が描かれる。なぜ彼女は踊っているのか…その疑問は物語が進む事で明らかになるのだが、この冒頭の掴みで、この母親が、どこかに少し異常な性格を内在しているのではないか、と、ふと観客に思わせもする。それが伏線にもなっているのである。
また物語が始まると、この明るさと対比して、暗い家の奥で黙々と薬草を裁断する母の姿が描かれる。明から暗へ、このコントラストも見事だし、この母親がどこか心に深い闇を抱いているのではないかとも想像させる。…うまい出だしである。

その後の、トジュンがベンツに轢かれそうになり、トジュンと友人のジンテ(チン・グ)がベンツを追ってゴルフ場まで行く、という、一見本筋とは関係ないエピソードにも、実はかなり重要なポイントが含まれている。このシークェンスで、気弱で他人に流され易いトジュン、行動的で面倒見はいいが荒っぽいジンテ、息子の危機に我も忘れてしまう(指を切った事にも気付かない)母親…という登場人物たちのキャラクターを一気に紹介すると共に、トジュンの拾うゴルフボール、池に投げ捨てたゴルフクラブ―等の小道具が後に重要なアイテムになる…といった具合に、実は寸分の無駄もなく、巧みに構成されている事に唸らされる。

バス停で、トジュンが立小便をしている所を、母がじっと見つめている(視線の先は彼の一物だ)シーンも重要だ。トジュンと母の異様な関係も匂わせるし、バスが行った後、母は立小便の跡をそっと隠そうとするが、これも“息子の不始末を無理やり隠そうとする”母の性癖をさりげなく描く事で、後の伏線になっているのである。その他、あちこちに仕掛けられた何でもないようなエピソードが、すべて後半部への伏線になっている辺りも憎いくらいに小気味良い。…まったく、呆れるほどに脚本が秀逸である。
(どこかの、お粗末な脚本でガッカリさせられる最近の日本映画の脚本家は、この映画の爪の垢を煎じて飲むといい)

トジュンが殺人犯人として留置させられた後の、母が自ら犯人探しを進めるうちに、疑わしい人物が浮かんでは又消える、というプロセスも、上質のミステリーを読んでいるかのようにスリリングで澱みがない。

その過程で、少しづつ、母と息子の間の、隠された闇が次第に明らかになって行く辺りも巧妙である。

(以下完全ネタバレに付き隠します)
母は、実はトジュンが5才の時に、農薬を飲ませて心中を図った事実が明らかになる。…この事は母がトジュンに対し、ずっと負い目になっていた事を示している。…何しろ、一度は最愛の息子を殺そうとしたわけなのだから。…その贖罪の為には、息子を守る為には、殺人だろうと何だろうと、母はやりかねないであろうという事を、観客は充分に納得するのである。…これが、冒頭から薄々感じられた、母の狂気の正体なのである。

だから、捜索の結果、遂におぞましい真実…犯人はトジュンだった…にたどり着いた時に、母が取った行動も、衝撃的ではあるが、観客には充分理解出来るのである。…なんと見事な、絶妙に計算され、構築されたシナリオである事か。

ここまででも充分、ミステリーとしても良く出来ているが、さらに最後、もう一度どんでん返しが用意されている。

母が、焼け跡に置き忘れてきたものを、トジュンが母に届ける。「大事なもの、忘れちゃダメじゃないか」…。

それまで、一見、純朴でピュアな心を持っているように見えたトジュンの、本当の正体が浮かび上がる。…トジュンに感情移入していた観客は、ここで打ちのめされてしまうはずである。

なんとまあ、意地悪く人間を見つめる作者であることか。…だが、「殺人の追憶」でもそうした底意地の悪さを見せたポン・ジュノならではである。…そう言えば「グエムル―」でも最後、もう少しで助かるはずの少女を殺してしまったし…。
(ネタバレここまで)

犯人探しミステリーとしてもよく出来ているが、物語を通して浮かび上がるのは、人間という存在そのものの愚かしさ、哀しさである。

真相が分かって見ると、被害者の少女もまた、心に闇を抱えていたわけであり、無論、母も、そしてトジュンも、心の中は闇で充たされていた事が分かる。

そしてラストで、母はバスの中で、踊りの輪の中に入って行く。…冒頭の踊りともリンクしているわけだが、意味合いは大きく異なる。

母は、心におぞましい闇を抱えたまま、それでも生きて行かざるを得ない。息子の為にも…。その決意が、この熱に浮かされたような、ラストの踊りに込められているのである。逆光で、顔が見えなくなっている様が象徴的である。

人間という、か弱くもあり、愚かで、またふてぶてしい、不可思議な生き物の表も裏も照射し、容赦なく生木を剥ぐように描き切った巨匠、ポン・ジュノの、これは最高作ではないかと思う。その鋭い刃の切っ先は、我々自身にも突きつけられているのである。見事な傑作である。必見!。     (採点=★★★★★

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(付記)

原題は、単に“MOTHER”=母 であるのだが、これに「母なる証明」という邦題を付けた配給会社のセンスは素晴らしい。ベスト邦題賞を与えてもいいくらいである。

子供の為には、地獄にだって堕ちる覚悟も厭わない…。それが母親の存在証明である事を、この邦題はズバリ指摘しているのである。いや、人間という存在の証明でもあろう。そういう事まで、映画を観終わって考えさせてくれる。見事な題名である。

この邦題から、「人間の証明」という映画の事もふと思い出した。1977年の角川映画(監督は佐藤純彌)であるが、思えばこの作品もまた、自らのエゴの為に殺人を犯してしまう、一人の母親の心の闇を描いた作品であった。殺したのが[自分の子供]だった、というのがなんとも皮肉な事ではあるが…。

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2009年11月 4日 (水)

「さまよう刃」

Samayouyaiba (2009年・東映/監督:益子 昌一)

人気作家、東野圭吾のベストセラー小説の映画化。

最愛の一人娘を無残に殺された父親が、少年法によって現在の日本の法律では犯人を極刑に出来ない故に、復讐を誓い、自ら犯人たちを追詰めて行く。

題材としては面白い。現実に少年法の壁で、犯人を死刑に出来ないばかりか、数年経てばまた社会に舞い戻ってくる(未成年者には更正の機会を与えるという大義名分も理解出来ないではないが)現行の司法制度の問題点に怒りを覚える被害者家族は少なくないだろう。そういう点では、こうした社会派テーマに切り込もうとする意欲は買える。

だが、映画として観てみると、せっかくの題材を生かし切れていない。一番の問題は、私が常々指摘している、脚本の弱さである。

(以下、ネタバレになります。未見の方は注意ください)
まず、主人公・長峰(寺尾聰)のキャラクターが全然描けていない。彼はどんな職業に就いて、どのような役職で、どんな性格なのか、娘に対してどのくらい愛情を注いでいるのか…まずは冒頭で、最低このくらいの事は短いエピソードを繋いで描いておくべきである。そうでないと、観客はこの主人公に感情移入出来ない。

そもそもこの主人公は、ほとんど喋らない。人との付き合いもない。感情を露わにする事もない。普通の人間だったら(家族が他にいなかったとしても)友人とか親類とか、誰かとのコミュニケーションがあるだろうに。まるで引き篭もりみたいで、不気味ですらある。
それでいて、最初の、犯人の少年を刺すシーンでは、全然物怖じせずに、まるでスパイ映画の主人公並みの俊敏さである。いったいどんな仕事をやってるのだろう(まさか「96時間」の主人公のような仕事??)。

密告する少年は、どうやって長峰の自宅の電話番号を知ったのだろうか。なんで警察でなく、都合よく復讐を心に秘めている長峰に電話したのか、その辺のプロセスが描かれていないので疑問符だらけとなる(原作ではちゃんと描いているのだが)。

警察の対応も間が抜けている。長峰が信州方面に向かった事が分かっているのなら、ホテル、ペンションに手配写真を配布するなり、検問を強化するなりの事は当然しなければいけないだろうに。
長峰がほとんど素顔でペンションに泊まるのも疑問。通報してくれと言わんばかりである。最低、あの目立つヒゲはきれいに剃り落すべきでは(しかし寺尾聰、どの映画に出ても、いつも同じ不精ヒゲなのはいかがなものか…)。

ペンションの管理人である山谷初男が、いつ長峰の正体を知ったのか、なんで彼に、人を殺す道具である猟銃を渡して手助けするのか、その心理の変化のプロセスも全く描かれていないから、すべてが唐突で、ご都合主義に見えてしまう。

密告少年も、この管理人も、犯人が川崎駅に現れる事を教える刑事の織部(竹野内豊)にしても、こうした協力者が1人でもいなかったら長峰の復讐も成立しなかったはず…というのがいかにも弱い。
―て言うより、この人たち、無理矢理長峰に人殺しをさせる方向に持って行く為だけに登場したような気が…。

 
小説は、登場人物のキャラクターや、その内面や、心の声や、置かれている状況もすべて文章で説明出来る。だから主人公の行動にも読んでいて説得力が生まれる。

だが、映画となると、すべてを映像で説明しなければならない。それに加え、時間も足りないから、原作を端折る事にもなる。
そこを工夫して、物語に説得力を持たせるのが脚本の腕の見せどころとなるのだが、最近のダメな日本映画の脚本は、そこの所がほとんど手抜きである。

冒頭にも書いたが、何気ない日常描写を積み重ねながら、登場人物のキャラクターを丁寧に描写し、細かい伏線を網羅し、それらがラストに向かって一つ一つ、解きほぐすように全貌を現して行く、丁寧な脚本作りが望まれる(その点、韓国映画「母なる証明」は、そうした要素が網羅された、脚本作りのお手本のような、寸分の隙もない見事な出来である)。

ビデオに映る娘の姿を見た時の、寺尾聰の迫真の演技はなかなかのもので、一番の見せ場ではあるが、そこだけしか見どころがないというのも困ったものである。

脚本・監督は新人の益子昌一。まだほとんど実績のないこの人に脚本までまかせたプロデューサーの見識を疑う。監督が新人なら、脚本は錬達のベテランに書かせる等のバランスをとるべきであった。益子監督が悪い訳ではない。適正な人材配置をコントロール出来ない、プロデューサー不在の現行システムに、一番の問題があると私は思う。

…と思ってスタッフを調べてみたら、なんとまあ、「製作」が14人!、「企画」3人、「プロデューサー」3人、「プロデュース」1人…プロデューサーらしき人間が21人!もいる。製作委員会が出来る前の昔は、社長が名前を出してるケースでも、製作・企画としてクレジットされてる人は多くても3人どまりだったし、筆頭プロデューサーは、脚本から現場まで、隅々まで目を光らせていた。人数が増えた分だけ、プロデューサーたる責任の所在がボヤけてしまってるのではないか。

そこそこ観客が集まるからといって、こんな事をしていては、作品の質は低下する一方となるだろう。猛反省を促したい。    (採点=★★

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2009年10月27日 (火)

「クヒオ大佐」

Kuhio (2009年:ショウゲート他/監督:吉田 大八)

アメリカ空軍のパイロットなどと偽って、女性たちから約1億円を騙し取ったとされる、実在した結婚詐欺師をモデルにした、吉田和正原作の小説「結婚詐欺師 クヒオ大佐」の映画化。監督・脚本は「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」で注目された新進、吉田大八。

 
この所絶好調の堺雅人が、つけ鼻をした、米軍パイロットと自称する怪しい人物、ジョナサン・エリザベス・クヒオ大佐に扮している。

ハワイ出身で、父はカメカメハ大王の末裔、母はエリザベス女王の妹の夫のいとこ…という経歴自身、充分怪しいのだが、この怪しい人物に、なぜか女性たちが騙される。実在したクヒオ大佐は、1億円を騙し取るほど、詐欺師としては成功?しているが、映画の方は事実とは離れて自由なアレンジを行っている。早い話、主人公クヒオ大佐は結構ドジでカッコ悪いのだ。

吉田監督の前作、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」も、微妙にツボを外した奇妙なコメディだったが、本作もかなり笑える。

(以下、ややネタバレ)
冒頭から、いきなり「第1部・血と砂と金」というタイトルがまるで「仁義なき戦い」ばりのドギツイ筆書文字で登場し、湾岸戦争の頃の映像が流れ、国際貢献に金しか出さない当時の日本を揶揄する。…つまりこれは、アメリカの言いなりに大金を貢いでしまう日本国そのものが、クヒオに騙される女性のようなものだという痛烈な皮肉なのかも知れない。―そして、「第2部・クヒオ大佐」のタイトルが続く。吉田監督らしいツイストの効いた出だしが快調である。

彼に騙される女性は、弁当屋を経営するしのぶ(松雪泰子)、博物館の学芸員春(満島ひかり)、ホステスの未知子(中村優子)という三人なのだが、それぞれの騙され方も結果も三人三様。

しのぶは一番騙されて何がしかのお金を貢ぐのだが、その額も百万円程度と知れてるし、途中から登場したしのぶの弟・達也(新井浩文)にはクヒオは完全に振り回され、逆に強請られる。流暢な英語を話す達也に、英語が喋れないクヒオが慌てる様がなんともおかしい。「日本語で話してもいいよ、解るから」と言うのが精一杯のクヒオのうろたえ振りには大笑いした。

春もすっかり騙されるのだが、金ではなく心の方を奪われるのが哀しい。絶叫したり、海に落ちたり(吹き替えでなく本人が飛び込んでいる)、傑作「愛のむきだし」に続く満島ひかりのエキセントリックな怪演は見どころ。

未知子はクヒオ以上にしたたかで、逆にクヒオの方が金を巻き上げられそうになる。

女たちを騙す手口として、安アパートでラジカセから航空機の飛行中のエンジン音を流して電話をかけるシーンがあるが、なんとも子供騙しでわびしく、せつない(高速で飛んでる戦闘機のパイロット席から日本に電話をかけられるはずがない)。

結局、クヒオは詐欺師としても二流なわけである。

クヒオの、子供の頃の回想シーンも出てくるが、これも物悲しい。彼が空を見上げるシーンも何度か登場するが、米空軍パイロットに扮したのも、世界のあらゆる地域に飛んで行く事が出来る米空軍への憧れがあったのかも知れない。

ラストに、シュールな展開が待っていて驚かされるが、これは、妄想の中で米空軍兵士になり切る事でしか、自分の出口を見つけられなかった、クヒオという男の悲しい人生を象徴しているのかも知れない。冒頭の政府高官(内野聖陽)がここに唐突に登場するのは、冒頭のテーマの追い討ちだろう。

これは、“面白うて、やがて悲しき”人間コメディなのである。

微妙にズラした笑いを盛り込む事で、人間という存在の悲しさをも描いた吉田大八監督の演出センスは新人離れしている。

これまでの日本人監督にはあまり見られないタッチである。強いて挙げるなら、イギリスのイーリング・コメディ(ややシニックでブラックなテイストを含んだコメディ。例えば、アレクサンダー・マッケンドリック監督の「マダムと泥棒」とか、リチャード・レスター監督「ナック」等)に通じる才気を感じる。…ただ欲を言うなら、大金持ちの有閑マダムなんかをまんまと騙す、爽快な詐欺シークェンスも前半に入って欲しかった気もするが…。

ともあれ、今後の展開が気になる監督である。次回作が楽しみである。    (採点=★★★★

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2009年10月18日 (日)

「空気人形」

Kuukiningyou (2009年:アスミック・エース/監督:是枝 裕和)

「幻の光」「誰も知らない」「歩いても 歩いても」等の秀作を作り続けている是枝裕和監督の最新作は、なんと性欲処理用人形ラブドール(昔はダッチワイフと言っていた)が心を持って動き出す…という不思議なファンタジー。原作は業田良家の短編コミック「ゴーダ哲学堂 空気人形」。

Itazuralolita こういう話はどちらかと言うとポルノ映画向き。実際、にっかつロマンポルノにも似たような話があった。今をときめく金子修介監督の「いたずらロリータ 後ろからバージン」('86)は、ゴミ捨て場に捨てられていた西洋人形が夜になると人間に変身し、拾ってくれた男の子に恋をする話。
セックスシーンもあるし、まかり間違えると本当にポルノまがいの映画になりかねない。

だが、さすが良質な力作を連打して来た是枝監督(と言ってもこの人、上記のような日常的リアリズム映画を作る一方で、天国を舞台としたファンタジー「ワンダフルライフ」、とぼけたタッチの時代劇「花よりもなほ」も手掛けている。守備範囲の広い、あなどれない人である)、とてもピュアで心に沁みる秀作に仕上がっている。お奨めである。

(以下、ややネタバレです)
独身でファミレスに勤務する秀雄(板尾創路)が愛玩する、“のぞみ”と名付けられたラブドールが、ある日心を持って、メイド服を着て街を歩き出す。やがて彼女はレンタルビデオ店でアルバイトを始め、店員の純一(ARATA)に恋をする。

うっかり腕に穴を開けてしまい、空気が洩れ出した“のぞみ”を助ける為、純一が彼女のお腹に空気を吹き込むシーンでは、息を吹き込む度にのぞみがため息を洩らすのだが、これが何ともエロティックで、セックスシーンよりよっぽどセクシーなのがなんともおかしい。

 
最初は産まれたての赤ん坊のように、何も分からない、無垢な存在だった空気人形が、人間と付き合い、さまざまな事を学んで行き、愛する喜びを知るが、やがて自分を買ってくれたはずの秀雄に裏切られ、街をさまよい、人間という存在の愚かしさ、悲しみをも知って行く。

自分という存在は何なのか、人間はなぜ自分のようなものを作るのか、愛するとはどういう事なのか…。さまざまな寓意が込められた物語は、最後に悲劇的な結末を迎えることとなる。

“性の代用品”として作られた空気人形は、文字通り、血が通っておらず、代わりに空気だけが詰まっている。空気が抜けてしまっては、彼女は生きてゆけないのだが、人間もまた、空気がなくては生きて行けない。目には見えないけれど、確実に人間に取っては、必要な存在である。“本当に必要なもの”とは何であるのか、“生きていること”とは何を求め、何を失う事なのか…。映画はのぞみという存在を通して、様々な事を考えさせてくれる。

物語とは直接絡まないのだけれど、画面を横切る、さまざまな街の人たちの点描も面白い。元国語教師だった老人、交番通いが趣味の未亡人、過食症のOL、うっ屈した浪人生…等々。みんなそれぞれに一人ぼっちで、孤独を抱え、暮らしているように見える。言ってみれば、それぞれに内面に心の空洞を抱えているわけで、生身の人間もまた、空気人形のようなものである…という辛辣なテーマが浮かび上がる。こういう人々に、高橋昌也、富司純子、余貴美子といった味のあるベテラン俳優を配置したキャスティングも絶妙。

ラストも悲しい。愛する純一をも失ったのぞみは、さすらいの果てに、人形としての運命を悟ったかのように、ゴミ捨て場に自身を横たえる。代用品の人形でありながら、人並みに心を持ってしまった、その事自体が罪だと彼女は思ったのかも知れない。あまりにイノセントでピュアな心を持った、のぞみの末路に涙せざるを得ない。

空気人形に扮したペ・ドゥナが素晴らしい。クリクリした、キョトンとした目がまさに人形っぽい。ごく自然に、堂々と裸体を晒した、その役者根性も見事。彼女なくしては本作の成功はなかっただろう。

ファンタジーの形を通して、人間とは寂しく、悲しい存在である事を描ききった見事な秀作である。お奨め。     (採点=★★★★☆

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(久しぶりに、お楽しみはココからだ)
のぞみと純一が働くレンタルビデオ店の壁にかかったポスターに注目したい。

目に付くのが、フランス映画、アルベール・ラモリス監督の「赤い風船」である。

この作品は、風船がまるで生きているように、少年になつくが、悪ガキどもに悪戯され、空気を抜かれて萎んでしまう。やがて無数の風船が集まって来て少年を空に運んで行く…というファンタジーの傑作である。

考えれば、この風船も中味は空気(厳密には水素かヘリウムガスだが)が詰まった子供の愛玩物で、ある日心を持って動き出し、男の子と交流する―といった具合に、本作と構造はよく似ている。

そう言えば、本作のラストでは、のぞみが倒れた目の前にあったタンポポの胞子が風に乗って空中に飛び、主要な登場人物の元を訪れる、という結末になるが、これも「赤い風船」のラストの、無数の風船が空を覆うシーンに対比しているのかも知れない(CGで描かれた大きなタンポポの胞子が、風船のようにも見える)。

もう1本、F・フェリーニ監督の「道」のポスターがあった。ジュリエッタ・マシーナが無垢な心を持った白痴の女・ジェルソミーナを演じた、映画史に残る傑作であるが、“純粋無垢な心を持った少女が、まるで男の愛玩物のように扱われるが、最後に少女は眠っているうちに、ボロ切れのように男に棄てられる”…という展開が、本作と通じるものがある。

これらの作品のポスターを目立つ位置に貼ったのは、意識しての事かも知れない。この2本、共にとても心が洗われる素晴らしい傑作である。映画ファンであれば、是非ご覧になる事をお奨めする。

DVD「赤い風船」
F・フェリーニ「道」

金子修介監督「いたずらロリータ 後ろからバージン」

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2009年10月 6日 (火)

「しんぼる」

Symbol(2009年・松竹/監督:松本 人志)

「大日本人」に次ぐお笑いタレント・松本人志の監督第2作。

 
一言で言って、“わけの分からん映画”である。

メキシコのとある町で、1人の覆面プロレスラーが、朝家を出て、試合で闘うまでの話と、真っ白い部屋に閉じ込められた男が脱出を試み、悪戦苦闘する話とが並行して描かれる。最後は、誰もが口あんぐりとなる結末が控えている。

 
別に、難解な、わけの分からない映画はあってもいいと思っている。古くはルイス・ブニュエル監督「アンダルシアの犬」とか、日本では衣笠貞之助監督「狂った一頁」とか(アバンギャルド映画と呼ばれた)、近年ではJ・L・ゴダール監督「東風」、大島渚監督「東京戦争戦後秘話」、この映画でちょっと参考にしたらしいS・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」…等々、観客が頭を捻る難しい映画はいくつも作られて来た。私はどれも観ているし、またどれも嫌いではない。
むしろ、脳を刺激され、思考を巡らせ、いろいろ作者の意図を想像してみるのも結構楽しい。「アンダルシアの犬」「2001年-」などは、観れば観るほど逆にハマってしまう不思議な魅力を持っている。

だが、これらの作品と、松本が作った本作とは決定的な違いがある。

それは、これらを作った監督は、どなたもそれまでに数多くの名作、傑作を作って来た一流監督、だという事である。分かり易い、心に沁みる秀作も作っている
そういう、名声を残し、映画の事を知り尽くしている作家だからこそ許される冒険なのである。

画家・ピカソの後期の作品(「泣く女」など)も難解だが、若い頃には無数の写実的な、デッサンのしっかりした絵を描いている。
作家としての行き詰まり、苦悩の末に到達した境地とも言えるからこそ、高く評価されているのである。

無論、若い作家でも難解な映画を作る人はいる。大学の映画研究会(映研)の自主制作作品には難解なのが多いし、今年の横浜聡子監督「ウルトラミラクルラブストーリー」もわけが分からんと言われた。

だが、大学映研の作品は、多分作っている本人も分かってないだろうし(笑)、自分たちの資金で、身内だけで観賞するだけだから文句は出ない。「ウルトラミラクル-」は、ストーリーそのものはしっかり作られているし、作者の言いたい事はじっくり観察すれば見えて来る。しかも、ミニシアター系でコアな観客に向け、小規模で公開されている。

 
こうした作品に比べてみれば、本作の問題点がはっきりして来る。

まず、ちゃんとした映画を作った経験がないのに、奇をてらい過ぎている。絵画で言うなら、デッサンの基礎を勉強してないのに抽象画を描くようなものである。生徒がこんな事をしたら教師に怒られる。

次に、映画というものは、作者が作りたいテーマがあって、そのテーマに向けてストーリーが収斂して行くものである。土台がきちんと構築され、それに枝葉をつけ、幾重にも肉付けされて完成されるものである。土台がしっかりしていれば、少々の事では揺るがない。
そこが、短いコントを並べるだけで終わるテレビ・バラエティ等との根本的な違いである。

本作は、とりとめのないエピソードを乱雑に並べただけの、まさにテレビ・バラエティに毛の生えた程度の出来である。これでは映画とは言えない。

前作の「大日本人」でも感じたが、松本人志監督は、出だしのアイデアは面白いひらめきがあるのだが、風呂敷を広げっぱなしで、畳もうとしない。オモチャを、あれもこれもと並べて、片付けずに帰ってしまう子供みたいなものである。広げたら、風呂敷はきちんと畳むのが常識である。

そして、独りよがりでわけの分からん映画をどうしても作りたいのなら、身内だけで、あるいは熱烈な松本ファンだけを集めて、自宅で上映会を開いたらいい。それなら文句は言わない。

だが、本作は、かなりの製作費をかけ、全国242館で拡大公開されている。それなら観客の共感を呼ぶ、楽しい映画を作るべきである。興行的に厳しい数字が出れば、製作プロは大きなリスクを背負う。金と名声がある松本だから、何をやっても許されるわけではない。不特定多数の観客に、金を払って損した、と思わせる映画を作るのは、将来の映画観客を失う結果にもなる事を、肝に銘じて欲しい。

 
では本作について、具体的にどこがダメなのかを検証してみよう。(以下、ネタバレあり)

冒頭、メキシコの荒野を自動車が激走して来るシーンから映画は始まる。運転しているのはサングラスに咥えタバコの修道女。
荒野を進む車の姿にタイトル「しんぼる」が重なる。これから何が始まるのだろうかとワクワクさせられる。この出だしは悪くはない。

こういう描き方をするなら、映画文法的には、“この女が後に何らかの重要な働きをし”“急いでいるのは、何かそれなりの理由があるに違いない”という事になる。誰しもそう思うだろう。

だが、急ぐ理由はまったくなかったし、いかにも意味ありげに登場したこの修道女は、途中からまったく出て来なくなる。ではあの冒頭のシーンは何だったんだという事になる。

プロレスラーが、朝から何か深刻に悩んでいるシーンが何度も出て来る。観客は、“あれだけ悩んでいるのはどんな理由だろうか”、“多分彼は何かの不治の病にかかっている事を知ったのか、あるいは対戦相手が過去に因縁のある、戦いたくない相手なのか”と想像し、そうした要素が物語に絡んで感動のラストが訪れる事を期待する。―が、結局ラストに至っても、そうした要素は何も出て来ない。

こういう思わせぶりで、伏線めいたシーンを随所に登場させながら、後で何の関係もなかった…という肩透かしばっかりを食らわせている。

この、メキシコのパートがかなりのウェイトを占めているので、密室に閉じ込められた松本とどう関係して来るのか、期待していたら…

結局それだけかい、という、しょうもないオチとなる。またしても肩透かしだ。

その後に登場する、同じように松本がアレを押したら起きるヘンな事象…ヘビメタロックバンド、手品師、のエピソードが僅か数分なのに、何故プロレスラーのエピソードだけが無闇に長いのか(しかも退屈だ)。ご丁寧にも、ポスターにも、プロレスラー、ヘビメタバンド、手品師の顔がほぼ均等に描かれている。この3者のエピソードを並行して描くのなら分かるのだが、このアンバランスさはどう説明するのか(それにしても、どの話もダラダラ退屈で面白くも何ともない)。

とにかく、万事この調子で、ギャグは寒く全然笑えない、思わせぶりなだけで中味空っぽのエピソードは冗漫で退屈極まりない、意味ありげに9.11だのオバマ大統領だのと、とりとめのない無駄な映像はタレ流され、観客はおいてけぼりにされる。

脳を刺激される事はついにない。これで映画と呼べるのだろうか。これで観客から金を取れると思ってるのだろうか。

 
松本が何を考えてこんな映画を作ったのか。その考えを知りたくて、彼の映画評をまとめた「シネマ坊主」(2002年・日経BP社)を図書館で借りて読んだ。

映画評と言うより、単なる感想雑記でどうって事はないのだが、巻末のあとがきを読んで驚いた。

「僕自身は決して映画好きでもなんでもなくて、どちらかと言えば嫌いなほうだということです」、「連載のために映画を見てても、しょっちゅうだるいなと思うし(中略)、多分あまり好きじゃないんやろうな、と思います」、「だから、監督や俳優に対する思い入れも全くないし、ただ2時間かけて見る価値があったのかどうか、ということだけで評価をしています」

何なんだ、この気のない文章は。映画は嫌いだと。だったら見るなよ、文章書くなよ、映画作るなよ。

異業種から参入して映画を作るなら、映画を愛して、とことん惚れ込んで、好きな監督や俳優への思い入れを込めて作るべきではないのか。意余って力は足りずとも、映画に込められたその思いは観客にもきっと伝わるはずである。和田誠さんが監督する映画はそうした思いがぎっしり詰まっているし、水野晴郎さんが監督した映画は、演出も演技もヘタクソだが、映画に対する熱い思いはひしひしと伝わって来る。

“あまり好きじゃない”など、そんな気持で映画を作ってくれるな。この映画が、どことなく投げやりな印象を受けるのは、それで理解した。

今年のワーストワンは、本作で決まりである。作品の出来以前に、取り組む姿勢がダメなのである。

先ほどのあとがきは、次の文章で締めくくられている。

「お笑いでもなんでもそうですけど、中途半端なものが一番つまらんということですね」

松本人志さんよ、その言葉、そのままあんたに返すよ。     (採点=××

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2009年9月30日 (水)

映画の脚本について考える

はや9月も終わりである。

今月は、仕事が立て込んで忙しかったのと、これと言った作品がなかった事もあって記事のアップが減ってしまい、熱心な訪問者の方には申し訳なかったと思う。

本音を言うと、政権交代に関するニュースが面白くて目が離せなかった事もある(笑)。実際、ヘタなドラマよりもよっぽど劇的でワクワクさせてもらった。落選したり、追い上げられて慌てふためく自民党の長老たちの顔が、時代劇の悪代官に見えて仕方なかった(笑)。鳩山首相と、両脇に従う菅、岡田の3人は、さしずめ水戸黄門と助さん、格さんですな(笑)。

 
閑話休題、本論に入る。

Tajomaru2_2 前回、「TAJOMARU」の、特に脚本について酷評させてもらったら、お二人の方からコメントで、あの脚本は市川森一氏の書いた第1稿が、製作費がかかる割に芸術的過ぎる…と製作委員会(特にフジテレビ)からクレームがつき、プロデューサーの山本又一朗氏がほとんど書き直したものだと教えていただいた。

出来が悪い脚本を修正して良くする、のであれば問題はないのだが、“素晴らしい出来”(山本P談)だった第1稿の脚本が、書き直してこんな酷い出来になったのなら、本末転倒である。

同じような事が「アマルフィ 女神の報酬」でも起きている。真保裕一氏の書いた第1稿には、イスラム系のテログループが登場するのだが、クレームが出るのを怖がったのか、これらのエピソードをカットして脚本が大幅に書き直され、真保氏が降りた為にクレジットから脚本家名が消えるという前代未聞の椿事を巻き起こしている(ちなみに、これにもフジテレビが噛んでいる)。

こちらのケースも、元の脚本はそれほど悪くはなかったのだろうが、書き直された為に突っ込みどころだらけの支離滅裂なシロモノになっている。

昔はこんな事はなかった。…と言うより、シナリオライターの書いた脚本はもっと尊重され、ほとんど書き直される事はなかった(稀に、部分的に良い方向に修正される事はあったが)。

そもそも、脚本は映画の基本設計図である。プロのシナリオライターが時間をかけて綿密に作り上げたものである。ヘタに触れるものではない。建築設計図を無視して素人があちこち手を加えたら、地震が来たら倒壊してしまうような家が出来上がってしまいかねない。

 
これらの他にも、今年の作品だけを見ても、「感染列島」「真夏のオリオン」「MW-ムウ」、それに「カムイ外伝」―と、脚本の不出来な作品が目立つ。脚本家の質が落ちて来ているのかも知れない。

 
かつて、黒澤明監督は、「いい脚本があれば、誰が監督しても立派な映画が出来るが、出来の悪い脚本はどんな素晴らしい監督が撮っても凡作にしかならない」と言っていた。黒澤作品の傑作の多くは、黒澤を含めた超一流の名脚本家が4人も5人も集まって、何ヶ月もかけて徹底討論して完成され、黒澤監督は演出の際には、基本的にはほとんど脚本を直さずに撮ったという。

映画の父と呼ばれた牧野省三は、「スジ(脚本)、二ヌケ(映像)、三ドウサ(演技)」と言って、脚本が一番大事、と強調していた。

ヒッチコックは、脚本と、それに基づく絵コンテが出来上がれば、もうそれで「私の映画は撮る前にすでに完成しているのだ」と言ったそうだ。後は絵コンテの通り、粛々と撮ればいいのだから、という事のようである。

 
これらの先人の言葉を聞いても、脚本がいかに大切かがよく分かる。

まず、時間をかけて、じっくり脚本を練り、しっかりしたものを作るべきである。それでも不満足であれば、さらにプロの脚本家に手直しさせて、より完璧な脚本を完成させる。こうすれば誰が演出しても、見応えのある力作が出来るだろう。…少なくとも、ワーストに挙がるような酷い映画はまず出来っこないだろう。

製作会社やプロデューサーは、この原点に帰って、いい脚本家を育て、いい脚本が出来るよう配慮すべきである。出来の悪い脚本を使ったなら、そこそこヒットはしても、良い観客を失い、将来的にはマイナスになると思う。

 
…と考えているところに、現在発売中の雑誌「ドラマ」10月号に、市川森一氏のロングインタビューが掲載されていた。

Itikawa この中で市川氏は、「映画の脚本は、誰かが書いたものを、分業で複数の人間が携わって、より完璧な脚本作りを目指す、いわゆるハリウッド方式の、システマティックなやり方でいい」、「自分の脚本も、よりよい物になるのであれば、手を加えて直されても構わない」、「そうして出来あがった脚本は、現場では変えるべきではない」という意味の事を言っている。今回、山本Pに、直して構わないと言ったのは、そういうポリシーを貫いたからなのだろう。

さすがは大人である。よい脚本を作る為にはどうしたらいいかがよく分かっている。

そして、「アマルフィ」の、クレジットに脚本家の名前を掲載しなかった問題を、脚本の重要性を軽視しているという観点から厳しく責め立てている。

ほとんど私と同意見であり、感銘を受けた。「TAJOMARU」評で市川さんを責めたのは、大変申し訳なかった。お詫びしたい。

それにしても、シナリオ界の重鎮と言っていい市川さんの、良い脚本作りの為の、こうした提言が日本映画界では生かされていないのが残念である。プロデューサーの方々(特に駄作の多いフジテレビ!)は、肝に銘じていただきたい。

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2009年9月24日 (木)

「TAJOMARU」

Tajomaru (2009年・ワーナー/監督:中野 裕之)

芥川龍之介の小説「藪の中」を原案として、乱世の中、運命に翻弄される男女の姿を描いた時代劇。

観る前は不安だらけだった。
まず題名がまたしてもアルファベット。何で日本古来の時代劇なのに、こうもアルファベットにするのか。それも、ことごとく駄作、凡作の山。…そう言えば、同じ「藪の中」を原作にした「MISTY」(1997)というこれまた駄作があったなあと思い出す(もう誰も覚えていないだろう(笑))。そもそも、この題名では“タジョマル”としか読めない。

監督が中野裕之というのも不安材料。デビュー作(だったか?)「SAMURAI FICTION」はまあまあ面白かったのだが、2作目「STEREO FUTURE」でボロを出し、東映に招かれて撮った「RED SHADOW 赤影」が大チョンボ。時代劇をバカにしているとしか思えないワースト映画だった(しかしアルファベットだらけだな)。

それでも観る気になったのは、プロデューサーが山本又一朗、脚本が市川森一という組合せに惹かれたからである。山本又一朗プロと言えば、私にとっては大傑作「太陽を盗んだ男」を作ってくれたという事で今でも尊敬している方である。市川森一も、テレビで「傷だらけの天使」「港町純情シネマ」「寂しいのはお前だけじゃない」、映画で大林宣彦監督「異人たちとの夏」などの秀作を書いた事で記憶に残る方である。こういう人たちが噛んでいれば、少なくとも酷い作品にはならないだろうと予測したのだが…。

 
一応主人公は、「藪の中」に登場する盗賊・多襄丸。ではあるが、実は原作とはほとんど関係ない。まったくオリジナルと言っていいほど別の作品である。“森の中で、侍の夫と妻が盗賊に襲われる”という原作のエピソードが申し訳程度に登場するが、これを入れた為、却ってここだけ全体のトーンと合っていない。こんなのはバッサリはずしてオリジナルで行った方がマシだったのではないか。

中野演出は、思っていたより正攻法で、「赤影」のチャラチャラした演出よりは大分良くなっている。この点は一安心。

だが、問題は市川森一の脚本の方である。これがなんとも中途半端。思いつきであっちこっちからくっつけ継ぎはぎしたような、穴だらけのヒドいシロモノで、これがあの市川森一が書いた脚本だろうかと絶句した。思えば市川が書いた、1昨年のテレビの黒澤明作品のリメイク・ドラマ「生きる」が何とも気の抜けた凡作だった(奇しくも、本作も黒澤監督作品「羅生門」の原作である)。秀作を書いていた昔とは別人のようである。もう才能を使い果たしてしまったのだろうか。

(以下、ネタバレになるので隠します)
問題点は一杯ある。畠山直光(小栗旬)が、絶望したとは言え、何で盗賊の多襄丸の名前を引き継ぐのか意味不明。阿古姫(柴本幸)の性格も中途半端。直光一筋ならずっと彼に付いて行けばいいだけの話しだし、逃げ出して、また兄の元に帰るのが分からない。

一番分からないのが、畠山家を乗っ取ろうとする桜丸(田中圭)の行動で、直光を追い出し、兄を殺害して直光を名乗って当主に収まっていると聞かされるが、畠山家の家臣は何をやってたのだろう。家の中で当主が殺害されたのなら、まず桜丸の行動を疑うべきと思うのだが。
直光が家に戻った途端に牢にぶち込まれるのも不思議。余所者でうさんくさい桜丸の命令に従って、帰った当主を牢に入れる家臣など聞いた事がない。
ラストで直光は、それまで存在感の薄かった家臣の山田に家督を譲るのだが、それほど信頼してる男が何で桜丸のなすがままにしてたのだろう。こいつがしっかりしてたら問題はもっと早く解決してるだろう。
(以下もネタバレあるが、隠すほどでもない)

お白州の辺りから、話がどんどんあらぬ方向に行ってしまって観客はおいてけぼりである。以下突っ込みどころを列記。

金塊のありかを知ってる(はずの)阿古姫を、何で地獄谷に突き落とす?姫と結婚した者が大御所の命令で管領になれるんじゃなかったのか?
女を谷に突き落とすだけなのに、何で全員鎧兜で武装している? 
何で桜丸ら、引き揚げずに朝まで鎧姿で崖の前で待機してる?
谷に落ちたのに、何で骨折すらせずにピンピンしてる?
都合よくぶら下がってる鎖、2人がよじ登れるほどの強度を、どうやって支えてた? (以下多過ぎて省略)

 
登場人物のキャラクターも不鮮明で不得要領。

阿古姫はなんで出だしからずっと仏頂面なのだろう。心理の変化の理由が見えない。

直光も、元祖多襄丸に簡単にやっつけられ、あげくに気絶してる。弱すぎ。かと思えばラストでは、相当剣の腕が立つ桜丸と互角に延々闘ってる。強いのか弱いのかさっぱり分からない。

一番ミスキャストなのが桜丸に扮する田中圭。足利義政が寵愛するくらいなのだから、「御法度」で同じような役柄を演じた松田龍平とか、一昔前のピーターのような、妖艶な美少年でなければならない。少なくとも、小栗旬以上のイケメンでなくてはならないだろう。なのにまるで存在感がない。

結局は、何度も言うが脚本が不出来なせいである。キャラクターの掘り下げが出来ていないし、個々の心理の変化に説得力がない。そしてご都合主義も極まる取って付けた安直な展開。

ラストの、まるで昭和30年代の東映時代劇のような(笑)、予定調和ハッピーエンドにはズッこけた。前半の、ギリシヤ悲劇のような展開とは水と油である。
そう言えば、松方弘樹の人のいい豪傑ぶりもまさに往年の東映チャンバラ活劇そのまんまである(でも本作の重苦しいトーンに合っていない(笑))。

救いは、萩原健一の復活である。さすが、見事な貫禄を見せつけ、存在感をアピールした。今後のさらなる活躍を期待したい。

山本又一朗さん、もっと脚本を見直して、ダメな点をチェックすべきですよ。それがプロデューサーの仕事のはずです。

それにしても、配給はまたもワーナーである。昨年ワースト作品を連発して(やはり横文字時代劇「ICHI」があったね)、「映画秘宝」誌にて見事最低特別賞を受賞したが、今年も健在(笑)である。反省する気はないのだろうか。    (採点=

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2009年9月 7日 (月)

「BALLAD 名もなき恋のうた」

Ballad

(2009年・東宝/監督:山崎 貴)

2002年に製作された感動の傑作アニメ、「クレヨンしんちゃん/嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」(監督・原恵一)の実写によるリメイク。

前述の「クレしん/嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」(以下「戦国大合戦」)は、大人も泣ける傑作として、当時大人気を拍した。私もリアルタイムで劇場で観て、ボロボロ泣いてしまった(当時の作品評はこちらを参照)。

アニメだとバカにしてはいけない。映画ファンは絶対の必見作である。迫力の戦闘シーン、戦場に引き裂かれる、悲しくもせつない大人の恋の物語…どれも実写のハリウッド大作にも引けを取らない出来で、なおかつ、しんちゃん親子の家族愛にも感動させられる、文句のつけようのない素晴らしい完成度であった。

私は当時、“こういう作品を実写で映画化出来ない日本映画界は猛反省して欲しい”と、かなり厳しく批判したが、おそらくは山崎貴監督もその事を痛切に感じていたに違いない。
いつか、これを実写でリメイクしたい…という思いは強かった事だろう。

だが、当時はまだ我が国のCG技術レベルが未成熟だったし、またそれをクリアしても、戦闘シーンを含め相当な製作費がかかるだろうし、企画を立てても、製作に踏み切る勇気のある映画会社はなかっただろう。

「ALWAYS 三丁目の夕日」が大ヒットして山崎監督の信頼度も上がり、また日本映画がこの所好調で、実写時代劇大作にも客が呼べるようになって、やっと7年ごしで実写映画化が実現した事は、まことにご同慶の至りである。

 
さて、本作についてであるが、まず良かった点、
戦闘シーンの迫力は期待以上の出来である。相当数のエキストラも使っているし、CG技術はさらに向上し、ほとんどCGらしさは感じられない。
これもCGを駆使した、山城である春日城とその周辺の映像も見事。段々畑の田んぼも実にリアル。驚くのは、城の全景や、城下の地理、城から見下ろす風景等が、アニメ版と、まったくと言っていいほどそっくりである。

槍を、突くのではなく、上から振り下ろすちょっと変わった戦術もアニメ版そのままである。

山崎監督の、原作アニメに対する、深いリスペクトが感じられ、ちょっと感動した。逆に言えば、原監督のオリジナル版は、細かい所まで考証が重ねられた、実に丁寧な作品であった事を今更ながら実感したのである。

廉姫を演じた新垣結衣も、予想以上の好演。清楚だが、凛とした、芯の強い戦国の姫君らしさが充分出ていた。

 
と、ここまでは良かったが、全体として観ると、やや期待はずれ。

クレしんでなく、普通の家族の物語に設定を変えてあるのだが、そうなると奇想天外なタイムスリップ・ファンタジーである作品スタンスと、この普通家族の設定とがうまく溶け込んでおらず、やや水と油になっている。

主人公の少年・真一が毎朝、廉姫の夢を見る…という発端は、実はアニメ版では“いつもきれいなおねいさんと一緒にいたい”という、マセた色ガキ(笑)・しんのすけの願望とリンクしているが故、観客はさもありなん、と納得出来るのだが、学校で苛められている内気な少年、という本作の設定ではここが不自然に見えてしまう。

何故毎日姫の夢を見るのか(しかもアニメ版では家族全員が同じ夢を見る)という理由も、実は野原家の庭が、夢に出て来る、廉姫がいつも佇む池のすぐ近くだった、という事で説明されている(従ってタイムスリップもその庭で起きる)のだが、本作ではその場所が、家から離れた、クヌギの大木の根元に変更されている。これだと姫の夢を見る理由がいま一つ説得力に欠ける。

しんちゃんが天正2年にタイムスリップした後も、しんちゃんの物おじせず、好奇心が旺盛で、大人に対してもズバズバ言ってのける天真爛漫の性格が状況を変えて行くのだが、真一の性格だと、最初に又兵衛と出会う時など、怖くなって逃げてしまいかねないし、家族が恋しくて泣いてしまうのが普通と思えるのだが、割と平然としているのも違和感がある。

真一の両親が、真一が過去にタイムスリップした事をわりと簡単に信じてしまうのも、お話としては弱い。アニメ版だと、これまでもSFありファンタジーあり、世界征服を企む巨悪と対決したり…と、荒唐無稽何でもあり、の世界観が確立しているからこそ納得出来る展開なのである。そこに、家族全員が廉姫の夢を見ている、という伏線がダメ押しで生きて来る。

オリジナルの父親、ひろしは、普段は大人しいが、キレるとムチャクチャ暴走し、息子の為なら火の中水の中も厭わない…というキャラであり、これがラストの自動車による敵陣突入、という展開に生きて来るのだが、本作の筒井道隆扮する父親では、そこまではやりそうもない。これも弱い。

ラストシーンも、オリジナルは例によっての下ネタギャグてんこ盛りで(敵将を倒すのも、しんちゃんの○○チョーである(笑))、大いに笑わされた後での、まったく予想もつかない意外な展開(ギャグアニメだから、又兵衛は死なないとばかり思っていた)であったが故、強烈なインパクトとなって泣けてしまったのだが、本作ではシリアスな展開になった分、オリジナルを未見の人でも多分そう来るだろうと予測出来る結末で、インパクトは幾分弱まった気がする。

そう考えて見れば、オリジナルの原恵一が書いた脚本は、実に練りに練られた寸分の隙もない、秀逸な出来であった事が、今更ながらよく分かるのである。

山崎貴監督の脚本は、そういうきめ細かさを欠いたまま、展開はほとんど原作アニメ版そのままに進んでいる点で問題がある。せめて筒井扮する父親のキャラクターは、もっと型破りの暴走オヤジに設定すべきであったと思う。
これは、彼単独で書かずに、もう少し数人が加わってディテールを詰め直すべきでなかったか。何なら、原恵一にも加わってもらってもよかったと思う。

 
――と、やや辛口の採点になってしまったが、戦闘シーンの迫力には感動したし、やはり元のお話がよく出来ている事もあり、結末は分かっていても何箇所かでは泣けてしまった事もまた事実である。

とにかく、最近では稀な、本格的戦国時代劇大作、かつ泣けるラブストーリーの力作であり、オリジナルを知らない方なら充分楽しめる出来である。少なくとも最近やたら多い、アルファベット入りタイトルの時代劇群「CHACHA 天涯の貴妃」「THE LAST PRINCESS 隠し砦の三悪人」「GOEMON」、ここに多分「TAJOMARU」も入る気がするが(笑))に比べたらずっと出来はいい。
採点が厳しいのはひとえに、「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズで我々を感動させてくれた山崎貴監督への熱い期待ゆえである。

真一が冒険を通して成長し、「もう逃げない」と自転車を走らせるエンディングも、山崎作品らしくていい(彼のデビュー作「ジュブナイル」を想起させる。よく考えればあの作品もタイム・スリップがテーマであった)。

ただ、くどいようだが、比較するならオリジナルの原恵一版「戦国大合戦」の方が出来はずっといい。未見の方で興味のある方は是非レンタルでご覧になる事をお奨めする。   (採点=★★★★

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(さて、お楽しみはココからである)

この作品を観て感じたのは、“黒澤明監督作品に対するオマージュ”である。

黒澤監督自身が、“戦国もの”をこよなく愛しているのは周知の事実である。監督作品に「七人の侍」、「蜘蛛巣城」、「隠し砦の三悪人」、「影武者」、「乱」とズラリ戦国物が並ぶし、脚本のみに限ると、「戦国無頼」、「戦国群盗伝」と、そのものズバリ題名に「戦国」が付いたものが2本ある。

―つまりは、原恵一監督自身が、こうした黒澤戦国時代劇の大ファンであるが故に、映画「戦国大合戦」が誕生したと言えるのである。

山崎監督も、それを強く意識したのだろう。出演俳優を見ても、黒澤映画常連の、香川京子さん(「どん底」、「天国と地獄」、「赤ひげ」他)と、油井昌由樹(「影武者」、「乱」、「まあだだよ」)を重要な役で起用しているし、衣裳担当は黒澤監督の子女、黒澤和子さんである。香川さんと油井さんは「まあだだよ」以来の共演である。

クライマックスの戦闘モブ・シーンは「影武者」、「乱」を彷彿とさせるし、遥か丘陵の向こうに敵の大群が現れるシーンは「七人の侍」を思わせる。

そして、又兵衛(草彅剛)と高虎(大沢たかお)との決闘シーンでは、槍を使っての迫力ある殺陣が展開するが、これは明らかに黒澤監督作品「隠し砦の三悪人」における、三船敏郎と敵将・藤田進との槍の対決へのオマージュだろう。

「影武者」の武田信玄は、本作の又兵衛と同じく、どこからともなく飛んで来た銃弾によって命を落とす事になる

そうそう、廉姫と又兵衛の、身分違いのせつない恋は、「七人の侍」における、勝四郎と信乃の、侍と百姓の娘という、身分違いの悲しい恋にヒントを得ている可能性もありだろう。
いろんな所に、黒澤映画からのアイデアが隠されている気がする。

もう一つ、黒澤時代劇の「蜘蛛巣城」。冒頭、城跡しか残っていない、(恐らくは)現代の蜘蛛巣城跡から映画は始まるが、霧が立ち込め、晴れるといつの間にか戦国時代になっている。そしてラストは再び城跡だけの現代に戻る。
これって、まるで現代から戦国時代にタイムスリップしたように見えるのだが…。
…てのは、ちょっと考え過ぎ?(笑)。

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2009年8月27日 (木)

「3時10分、決断のとき」

310toyuma (2007年・ライオンズゲート/監督:ジェームズ・マンゴールド)

1957年製作の西部劇「決断の3時10分(57)の50年ぶり!のリメイク。
原作は、「ジャッキー・ブラウン」等でも知られる犯罪小説作家、エルモア・レナードが初期の頃に書いた短編西部劇小説「3:10 to Yuma」(53)。

かつては狙撃の名手だったが、南北戦争で片足を負傷し、今は妻と2人の息子と共に、アリゾナで小さな牧場を営むダン・エヴァンス(クリスチャン・ベール)。しかし干ばつが続き、借金の取立てに遭って生活は苦しくなり、このままでは土地を取り上げられてしまう窮地に立たされていた。そんなある日、町で捕まった強盗団のボス、ベン・ウェイド(ラッセル・クロウ)を裁判所のあるユマへ連行する護送役を引き受ければ200ドルの報酬が出ると聞き、ダンは家族の生活の為、父親としての誇りの為に過酷な任務に旅立つのだが…

 
オリジナルは、「折れた矢」などのデルマー・デイヴィスが監督し、グレン・フォード(ベン)、ヴァン・ヘフリン(ダン)が主演した、あまり有名ではない、いわゆるB級西部劇である。

しかし、東映任侠映画や、日活アクション映画がそうであったように、低予算のB級活劇でも、無数に作られた中に、キラリと光る力作があったりするものである。

J・マンゴールド監督は、17歳のころにこのこの作品を観て感銘を受け、いつの日か自らの手で映画化したいと思い続けて来たたという。自身が有名な監督になってからもリメイクの企画を出すが、西部劇がほとんど作られなくなった現在ではなかなかゴーサインが出ず、ついに自身のプロダクションで製作することを決意し、執念で完成させた。アメリカで公開された時は初登場1位になったほどの成果を収めたが、我が国では長い間おクラになっていて、本国より2年遅れ、ようやく公開された事は西部劇ファンにとっては喜ばしい。

で、作品だが、面白い!
冒頭、主人公の自宅が襲われ、放火されるアクシデントがあったかと思うと、続いてベン・ウェイド率いる強盗団が駅馬車を襲撃する、いかにも西部劇的シークェンスがあるなど、次々と見せ場が用意され、アクション映画として、滑り出しは上々である。
その後は、捕まったベンを護送する道行きでのさまざまな難関、ベンの逃亡、追跡、脱出…等、これまたサスペンスフルな展開となり、クライマックスでは列車の到着時刻(これが“ユマ行き3時10分”という題名の由来)までに停車場にたどり着かなければならないタイムリミット・サスペンスに、襲い来る敵との大銃撃戦…と盛りだくさんで、まさに娯楽映画の王道。これだけでも充分楽しめる。

だが、この映画の本当の見どころは、題名通りの、ダン・エヴァンスの父親として、男としての勇気ある“決断”である。

 
ダンは牧場経営がうまく行かず、息子たちからもやや白い目でみられている。のっぴきならぬ状況に追い込まれたダンが金の為、家族を残して護送役を引き受けるわけなのだが、そこに14歳の息子、ウィリアムがこっそり後をつけて来る。これがダンの心を変えて行く。

ベンとダンは、護送の道行きを通して、助けられたり助けたりと、次第に心を通わせて行くのだが、百戦錬磨のダンは彼の弱みをも突き、「俺を逃がしてくれたら1,000ドルやろう」と提案する。ダンは迷う。金は欲しいが、金に目が眩んで悪人を逃がせば、ますます息子に軽蔑されるだろう。

この仕事は、金だけではない。男の意地なのである。

ダンは子供たちを深く愛しており、息子に、男とはどうあるべきかを見せる為に、どんなに過酷な状況に追い詰められようと、毅然と悪に対抗しようと決断する。

ダンの部下たちが町にやって来て、ベンを捕らえている男たちに懸賞金をかける。多勢に無勢。町の保安官たちも恐れをなして逃げてしまい、味方は誰もいなくなる。鉄道会社の依頼人から、200ドルはやるから逃げろ、と勧められるが、それでもダンは逃げない。息子の前で、絶対にベンを3時10分の列車に乗せる…と誓う。

ベンはあきれるが、ダンの心意気に惚れたベンは、一緒に駅まで行ってやろうと決める。
ベンもまた、男の決断をするわけである。

ここから後の、敵の銃弾をかいくぐりながら、二人の男が走り、駆け抜けるシークェンスは圧巻である。男の意地と、友情が迸る。手に汗握ると同時に、男たちの心意気に胸が熱くなる。

これはまさに、この所絶えて久しかった、“男たちの熱い心意気のドラマ”である。泣ける。

そしてラスト、ウィリアムがつぶやく「父さん凄い、本当にベンを列車に乗せたよ」のセリフに私はドッと涙が溢れた。

命を賭けて、息子に、父親として、男の真の姿を見せた、ダンの勇気と決断に涙が止まらなかった。素晴らしい傑作である。

男が、命を賭けて、未来ある子供に熱い思いを伝えるドラマ、という点で、これも今年の傑作、イーストウッドの「グラン・トリノ」と共通する要素も持っている。これらと、ミッキー・ローク主演の「レスラー」と合わせて、“泣ける、男たちの心意気のドラマ”3部作と名付けたい。これらが、(製作年度は違うのに)我が国では同じ年に公開された、というのも不思議な巡り合わせである。

 
役者では、ラッセル・クロウがいい。仲間でも平然と殺す悪人であるのに、何故か憎めない。鉛筆でスケッチ画を描くという趣味の良さが、この男のキャラクター造形に厚みを加えている。ウィリアムが、ベンに人間的魅力を感じ、「あんたは本当の悪人じゃない」と言うくだりも、ラストへの伏線になっている。脚本が見事。クリスチャン・ベイルも、やや線が細い気もしないでもないが、クロウを引き立て、最後はおいしい役どころをさらっている。あとベンの片腕の凶悪だが腕の立つガンマン、チャーリーを演じたベン・フォスター、エンドクレジットでやっと気が付いた、老人のガードマン、ピーター・フォンダがそれぞれ味のある好演。役者がみんないい。

これほどの傑作なのに、東京でも1館、関西でも大阪、京都各1館で神戸での公開は未定。評判がいいのだからもっと宣伝して全国規模で公開すべきである。

それでも、根強い西部劇ファンが多いせいか、ミニシアターで公開された初日に出かけたらなんと満席立ち見だった。観客の方がよく分かっている。今後、評判を呼んでシネコンなどで上映館が拡大される事を切に望みたい。映画ファン必見である。     (採点=★★★★☆

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(さて、お楽しみはココからだ)

1957年に公開されたオリジナル版、「決断の3時10分」の冒頭(メイン・タイトル部分)の映像をYoutubeで見つけたので紹介しておく。 ↓
    http://www.youtube.com/watch?v=nkXDLNRVMxY&NR=1

なんと主題歌を歌っているのがフランキー・レイン! 「OK牧場の決闘」 「ローハイド」(クリント・イーストウッドのTV出世作)などの名曲でお馴染みの、あの人である。

この作品は、その頃無数に作られていたB級西部劇の1本であり、それ故ほとんど話題にもならず、キネ旬ベストテンでは完璧に無視され、誰も1点も入れていない。

だが、よく見ればこの作品、過去に作られた西部劇のパターンが巧みに網羅されており、なおかつ後に登場するいろんな西部劇にも本作のエキスが感じられるのである。
そういう意味では、オリジナル版は再評価されてもいいのではないかと思う。

以下、いくつか気が付いた点を挙げておこう。

 
まず、開巻の駅馬車襲撃シークェンスは、ジョン・フォードの名作中の名作「駅馬車」(39)を彷彿とさせる。
(上記Youtubeで観られる、オリジナル版のメイン・タイトル部分の、モノクロで撮影された駅馬車疾走シーンは、フォード版「駅馬車」と見まがうくらいそっくりである)

主人公一家の、牧場を営んでいるが、立ち退きを要求され執拗な嫌がらせを受けている、という設定は、名作「シェーン」(53)ともよく似ている。
ラストにおけるシェーンの、“男とはどうあるべきか”を子供の心に刻み込む為、無謀な決闘に赴く展開もまた本作と共通する(ただしオリジナル版にはこの設定はなく、リメイク版で追加された要素である)。

ちなみに、オリジナル版でダン・エヴァンスを演じたヴァン・ヘフリンは、「シェーン」のあの牧場主を演じた俳優である。
つまりはヴァン・ヘフリン、両作で同じような役柄を演じた事になる。これはむしろ製作者が「シェーン」にあやかったフシが覗える。

これも名作「真昼の決闘」(52)では、12時に到着する列車を待っている設定、町の人々が誰も味方になってくれず、主人公がたった一人で闘わざるを得なくなる…という展開が本作とよく似ている。ちなみに前述のフランキー・レインが、この作品の主題歌「ハイ・ヌーン」をカバーして歌っている、という事実も興味深い。

つまりはオリジナル版は、それまでに作られたいろんな名作西部劇のエッセンスを巧みに取り入れ、消化していると言えるのである。

 
逆にその後作られた、ジョン・スタージェス監督の佳作「ガンヒルの決斗」(59)は、主人公カーク・ダグラスが、親友アンソニー・クインの息子である犯人を捕まえ、列車に乗せて連れ帰る事となり、その列車の到着を待つ間、犯人奪還を狙う一味の執拗な攻撃にさらされる…という話で、「決断の3時10分」から基本アイデアをうまくいただいている気がしないでもないが、豪華スターの競演とスタージェス演出の巧みさで、映画史的にはこちらの方が名作として知られているのは皮肉である。ちなみにフランキー・レインの大ヒット曲で知られる「OK牧場の決闘」を監督したのもジョン・スタージェスである。

また、家族と牧場を営んでいた主人公が、懸賞金目的の為旅立つ…という設定は、クリント・イーストウッドの傑作「許されざる者」(92)にも登場する。

 
こういった具合に、「決断の3時10分」という映画は、よほどの西部劇ファンでない限り、知っている人は少なく、ほとんど忘れられた作品なのだが、上記に述べたように、さまざまな名作西部劇とリンクする普遍的な要素を多く持っており、映画史の上でもう一度見直すべき作品ではないかと私は思う。

ジェームズ・マンゴールド監督がこの作品を忘れられず、執念の末に再映画化にこぎ付けたのも、そう考えると理解出来るのである。
本作の公開を機会に、もう一度「決断の3時10分」に光が当てられる事を、切に期待したい。

 

(8/29 付記)
無類の西部劇ファン、川本三郎さんと逢坂剛さんの共著「大いなる西部劇」(新書館・刊)を読み直していたら、この「決断の3時10分」の話が何度も出て来る。逢坂さんが選んだ、西部劇ベスト10にも、この作品が入っている。西部劇をこよなく愛する逢坂さんの、目のつけ所は違うと感心した。川本さんもこの作品について何度か言及している。

その川本さんの著作「ロードショーが150円だった頃」(晶文社・刊)にも、「決断の3時10分」について語った部分がある。「ガンヒルの決斗」や「真昼の決闘」との類似点についても述べられている。この本を読んだのは随分前で、内容はすっかり忘れていたのだが、私と同じような意見で、我が意を強くした。

ところで、その文章中に、次のような箇所があって驚いた。
ウィノナ・ライダー、アンジェリーナ・ジョリー主演の「17歳のカルテ」(99)の中に、テレビで、この「決断の3時10分」が放映されているシーンがあるのだという。

私もこの作品は観ているのだが、気が付かなかった。さすが川本さんである。

で、この「17歳のカルテ」を監督したのが、他ならぬ本作の監督、ジェームズ・マンゴールドなのである。

監督が、「決断の3時10分」を偏愛して、ついに自らリメイク映画化した事は上に述べたが、自作の中にまでワンシーンを登場させていたとはねぇ。この頃から、リメイクしたいという思いが募っていたのだろうか。興味深いエピソードである。

 

DVD オリジナル版
「決断の3時10分」

そのワンシーンが登場する
「17歳のカルテ」

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