2009年7月 8日 (水)

「ディア・ドクター」

Deardoctor (2009年・エンジンフイルム=アスミック・エース/監督:西川 美和)

「ゆれる」で高い評価を得た、西川美和監督の新作。

都会の医大を出た若い研修医・相馬(瑛太)が、山間の僻村に赴任して来る。ここでは人の良さそうな伊野(笑福亭鶴瓶)が、村唯一の医者として奮闘している。病気を抱えたさまざまな老人を治療し、話し相手まで引き受ける伊野は、村人から大きな信頼を寄せられていたが、ある日突然、伊野が失踪する。警察が捜査するうちに、伊野のある秘密が明らかになって来る…。

「蛇イチゴ」「ゆれる」でもそうだったが、西川監督は、人間をじっくりと観察し、その行動を通して、人間という存在そのものの不可思議さ、哀しさを容赦なく暴いて行くのが得意のようである。

前作までは、全体にピンと張り詰めた緊張感が漂い、見てて息苦しくなる部分もあったが、本作では(舞台はいつもと同じ田舎なのに)鶴瓶というキャラクターのおかげもあるが、どことなくトボけたユーモアが絶妙にブレンドされ、作品にさらに厚味と風格が加わった。この作家はどんどん進化しているようだ。

伊野は実は偽医者なのだが、夜は医療関係の書物を読みあさり、勉強もしているし、何よりその人当たりの良さ、相手を包み込むような優しい応対によって、患者の心を解きほぐす事にも力を注いでいる。気軽に往診に出向き、孤独な老人の話相手にもなってあげる。

医者というのは、むしろそうあるべきだろう。2時間待たされて、診察は3分…という、現在の都会の診療システムでは、身体は治せても、心の病は治せない。

法律的に見れば、伊野の行為は犯罪なのだろうが、だが、免許を持ったどんな医者よりも、伊野の方がずっと人間的に魅力があり、山間の僻村には望まれるべき存在である。医療制度の現実と矛盾に鋭く斬り込む西川監督のアプローチが冴える。

若い相馬も、やがて伊野の人柄に惚れ、研修が終わった後も、伊野の元で働きたいと申し出る。だが伊野は「自分はそんな立派な人間ではない」と言う。いつかはがばれるだろうという不安が伊野を苛む。

この、伊野と相馬の関係は、黒澤明監督の「赤ひげ」を想起させる。赤ひげの人柄に心服した若い保本は、出世を捨て、養生所に骨を埋めると決意を述べるが、赤ひげは「わしを買いかぶるな。わしは下劣な人間だぞ」と保本をたしなめる。

伊野は、現代の赤ひげであろう。…だが、伊野が偽医者と知った後の村人や相馬のリアクションに、人間を厳しく凝視する西川監督のシニカルな視線が感じられる。

余貴美子が、「おくりびと」に続いてまたも見事な助演ぶりを見せる。医療経験は伊野より確かで、陰ながら伊野を助ける。おそらくは、伊野が偽医者である事も見通しているのではないか。それが、逆に伊野にとって知らず知らずプレッシャーになっていた事も感じられる。

鳥飼かづ子(八千草薫)という独り暮らしの未亡人と、伊野との交流も味わい深い。このかづ子に頼まれて、伊野はの胃カメラ写真をかづ子の末娘、りつ子(井川遥)を見せる事となる。偽物を使ったを共有する事によって、伊野とかづ子の間に共犯関係が生まれ、これが、ラストのニンマリさせられるオチの伏線にもなっている。…西川監督の構成力の巧みさには、いつもながら感服させられる。

伊野が突然失踪する理由はボカされているが、観客がいろいろと想像するのも映画を観る楽しみの一つである。

おそらくは、りつ子の母に対する冷たい態度に、かづ子に頼まれた嘘をこれ以上つき通すのに耐えられなくなり、ついでに自分の嘘にも耐えられなくなった…というのが妥当な所であろうが、
もう一つ、かづ子の病状の進行は、もうこの村では処置出来ず、都会の総合病院に入れざるを得ない。―従って、この村でいる限りは、伊野はかづ子の傍に居てやれなくなる…と考えたとも取れる。

その想像が正しいかどうかは、ラストシーンを見て、観客が判断すればよい事である。

 
ともかくも、これは本年屈指の秀作である。形だけの本物よりも、心のこもった偽者の方がずっと価値があるという、アイロニカルなテーマに迫り、かつ社会的な問題を提起しつつ、人間の存在をハートフルに見つめるという離れ業までやってのけている。まったく西川美和、おそるべし。    (採点=★★★★☆

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(お楽しみはココからである)
―以下は私の独断と偏見(またはお遊び)です。まあこういう観方もあっていいのではないかと。

この映画を観てて感じたのは、山田洋次作品との類似性である。

本作の構成は、“正体不明の男がフラリとある町にやって来て、町の人々を助けるが、ある日またいずこともなく去って行く”…という、昔からある風来坊もの(西部劇や、日活無国籍アクション等)のパターンを巧妙にアレンジしてあるのだが、山田洋次作品にもそうしたパターンの作品が多い。

山田の出世作となった「馬鹿まるだし」がそうだし、前述パターンの典型である西部劇「シェーン」を換骨奪胎した「遥かなる山の呼び声」は、いろんな点で本作との共通点が多い。主人公の高倉健は、フラリと町に現れ、未亡人の倍賞千恵子に陰ながら援助の手を差し伸べ、彼女にほのかな思いを寄せるが、実は高倉は警察に追われる殺人犯だった…という話で、秘密を背負っている点、共に未亡人に思いを寄せている点、そしてラスト間際で、未亡人の前にそっと姿を見せるという辺りなど、似ている点が散見される。

ヒットシリーズ「男はつらいよ」にも、寅がある田舎の村に現れ、いつの間にか村人に慕われ未亡人に恋をしたり、ラストでひっそり姿を消す…という展開がよく登場した。

中でも、「口笛を吹く寅次郎」という作品では、寅はやはり田舎の町にやって来て、お寺に居ついてしまい、檀家の人にもすっかり気に入られ、あげくに偽の坊主となってありがたい法話を聞かせるまでになる。で、やはりある日そっと姿を消してしまう。

おそらく、寅の語る法話は、本物の坊さんが語るどんな法話よりも面白くて、人の心を打ったのではないか。

つまりここでも、偽者が、資格を持つ本物よりも本物らしく見え、人の心を掴んでいるのである。
それはとりもなおさず、建前、格式や法律に縛られ、本当のものが見えなくなっている現代人への痛烈な皮肉にもなっているのである。

本作の、人情味と善意に溢れ、人を疑う事を知らない村の人々の純朴ぶりも、山田洋次映画ではお馴染みのパターンである。

山田洋次と言えば、落語の大ファンで、小さん師匠の為に落語の台本を書いたり、落語ネタの「運がよけりゃ」という映画も撮っているが、本作でもかづ子が夫の遺品の落語のカセットを聞くシーンが出て来るし、冒頭の食物を喉に詰まらせた老人を死んだと思い、伊野が死体を抱きかかえる辺りは、落語の古典「らくだ」を思わせる。ちなみに、やはり山田作品の長屋ものの「一発大必勝」ではなんと、死人を抱いて踊っているうち、その死人が生き返ってしまうのである。

主役を演じた鶴瓶が本職は落語家だし、本作を挟んで「母べえ」「おとうと」と、山田洋次作品に連続出演しているという事実もまた興味深い。

 
(蛇足)

偽者が本物に勝ってしまうというシニカルなコメディが、実は昭和7年に既に作られている。

監督作「赤西蛎太」や「無法松の一生」の脚本で知られる、伊丹万作の監督作品「国士無双」である。

片岡千恵蔵扮するニセモノが、本物の将軍家御指南番と二度勝負して、二度とも勝ってしまうという痛快ナンセンス・コメディ。残念ながらフィルムは現存していないが、'86年に保坂延彦監督が、中井貴一主演でリメイクしており、DVDも出ているので興味ある方はご覧になってはいかが。

なお、伊丹万作と山田洋次とは、「母べえ」を通じて繋がりがある…というのも、これまた奇妙な縁である(拙作品評参照)。

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2009年6月29日 (月)

追悼その1 マイケル・ジャクソン

マイケル・ジャクソン マイケル・ジャクソンが亡くなった。

彼の全盛期だった'80年代には、私も彼の音楽を聴き、ビデオ・クリップをビデオに収録したり、結構ハマッていたのは事実。

だが、訃報を聞いて、びっくりはしたが、特にショックというほどのものはなかった。

と言うのは、'87年の「バッド」以降は、発表する曲にさほど魅力も感じず、そのうち次第に興味を失い、最近ではCDを聴く事もなく、私にとってはもう過去の人…になっていたからである。

しかし、間違いなく一時代を築いた、プレスリー、ビートルズと並ぶ20世紀最大のスーパースターであった事は疑いがない。

 
彼の素晴らしかった事は、曲の良さもさることながら、歌いながら踊る、華麗なダンス・パフォーマンスのスタイルを確立し、多くの歌手に影響を与えた事だろう。ムーンウォークはマイケルの独壇場だった。

そしてやはり、ビデオ・クリップのレベルを飛躍的に高めた事でもその功績は大である。

単に、歌手が歌ってる所をベタに撮る程度だったそれまでのビデオ・クリップに、ストーリー性を導入し、斬新なモンタージュ、特殊効果(SFX)の採用…など、その革新性はプロモーション・ビデオの歴史を変えたと言っていいかも知れない。

特筆すべきは、ハリウッドの映画監督を大胆に起用した点で、「スリラー」では、ジョン・ランディス、「バッド」ではなんとマーティン・スコセッシという大御所を監督として招いた。どちらも15分にも及ぶ長時間バージョンで、PVと言うよりは、どちらかと言えば短編映画に近い。「バッド」は冒頭からずっとモノクロ映像で、ハーレムの青年(マイケル)が都会に旅立つが、否応なく社会の悪意に晒される…という展開で、スコセッシらしい秀作に仕上がっていた。無論ダンス・シーンも見応えあり。

「スリラー」には、特殊メイクアップに、これまた大御所リック・ベイカーを起用し、本編映画並みの予算とクオリティを保った(ちなみに、ランディス+リック・ベイカーはホラー映画「狼男アメリカン」でもコンビを組んでおり、その線での起用だろう)。

これが大成功し、アルバム「スリラー」は全世界で1億枚を売り上げる大ヒット、ビデオ・クリップとメイキングをセットしたビデオも売れに売れた。

ついでだが、やはりジョン・ランディスと組んだクリップ「ブラック・オア・ホワイト」では、当時実用化されたばかりのCG技術・モーフィングを大胆に採用。エンディングで、歌っている男女の顔が次々変化して驚かせてくれた。SFX技術の積極的採用という面でも、彼はPV界のパイオニアであったと言えるだろう。

それから、忘れてならないのは、ディズニー・ランドでの3Dアトラクション、「キャプテンEO」である。製作総指揮がジョージ・ルーカス、監督がフランシス・コッポラという超豪華版で、私も東京ディズニー・ランドで見せてもらった。

こうして見ると、結構、ハリウッド第9世代の連中とのコラボレーションも多い。もっと映画にも出て欲しかったが、本格的出演作はミュージカル「ウィズ」(78)と「ムーン・ウォーカー」(88)程度で、後者はとりとめのない駄作だった。

 
さて、その死去のニュースを聞いて、私が興味を引いたのが、長いブランクを経て、ようやく十数年ぶりにロンドンでコンサートを再開する、その矢先の急逝で、死因はどうやら強度の鎮痛剤「デメロール」の注射の打ち過ぎらしいという点である。

聞く所によると、マイケルは腰痛に悩まされていたらしく、その痛みを抑える為にデメロールを多量に摂取していた可能性があるという事だ。

確かに、あの激しいダンスは腰を痛めるだろう。彼ももう50歳。決して若くはない。

だが、ファンはマイケルが何歳になろうと、コンサートではあのムーンウォークを始め、華麗なダンスを期待するだろう。

そのファンの期待に応えようとして、激しいダンスのリハーサルを重ね、腰には激痛が走り、やむなく鎮痛剤を濫用したのだろう。…その結果が、早すぎる死であるとしたら、何とも痛ましい。

 
この話で連想するのは、先頃公開された、ミッキー・ローク主演の「レスラー」である。

主人公の男は、若い頃は人気絶頂であったが、次第に人気が凋落し50歳を超えた今は顔も崩れ薬物を濫用し、それが元で心臓発作で倒れ、もう観衆の前に立つ事も出来なくなっていた。

それでも、自分の生きる場所はリングの上しかないと決心し、心臓の痛みに耐えながら練習を重ね、そして無理がたたって、遂に命を縮めた事が暗示されて物語りは終わる。

…マイケルの人生と、なんと似ていることか。

ひょっとしたら、50歳という年齢でステージに立とうとしたマイケルは、ステージの上で死んでもいいと思っていたのかも知れない。

伝説のスーパースターに祭り上げられ、常に最高のパフォーマンスを自らに課し、スーパーヒーローで居続ける事の孤独とプレッシャーに、終生悩み続けていたのかも知れない。

マイケルの死に、「レスラー」の主人公、ランディの孤独な戦いぶりを重ね合わせて見ると、思わず涙が出て来てしまう。

その死は残念だが、もう腰痛にも、プレッシャーにも悩まされる事はないだろう。安らかに眠らん事を…。 ―合掌―

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追悼その2 ボブ・ボーグル(ベンチャーズ)

Bob_bogle_3 マイケル・ジャクソンの死は残念だが、私にとってはむしろ、今月14日に亡くなった、エレクトリック・ギター・バンドの草分けであるベンチャーズのベーシストで、設立メンバーであるボブ・ボーグルの逝去の方がショックであった。

ベンチャーズは私の青春だったし、今も毎年日本にやって来る、現役のスーパー・ロック・グループである。彼の死を知ってしばらくは呆然としてしまった。

ボブ・ボーグルは、元々は建設作業員として働いていた。ある日、中古車セールスマンとして働いていたドン・ウィルソンと出会う。互いに音楽好きな二人は意気投合、最初は2人だけのデュエット・ギターバンドとしてスタートしたというのが面白い。

Ventures2やがてベース、ドラムをメンバーとして追加、4人編成のバンドとして、デビュー作「ウォーク・ドント・ラン」が大ヒットする。当時はボブがリード・ギターだった。その後、ベース担当だったノーキー・エドワーズのギター・テクニックが見事だったので、彼をリード・ギターとし、ボブはベースを担当する事となる。

やがて日本でも「ダイヤモンド・ヘッド」、「パイプ・ライン」が大ヒットし、日本中がエレキ・ブームに突入して行った。

彼らもまた、ポップスの歴史を変えたスーパースターだったと言えよう。

以後、40年以上に亙って、毎年日本でコンサート・ツアーを行うのが恒例となった。無論、今年もやって来る。
私も、何回かコンサートを聴きに行った。

その後ボブは、ホジキンリンパ腫を発病、余命10年と診断され、12年間闘病生活を送った。痛みを押してその後も日本に来ていたが、さすがに病には勝てず、'04年のツアーからライブに不参加となった(代わりに、ボブ・スポルディングが参加)。ただ、スタジオ録音には参加してたらしい。

'96年には、ドラムのメル・テイラーが癌で亡くなり、息子のリオンが後を継いでいる。彼の死去もショックだったが、設立メンバーであり、初代リード・ギターのボブの死の方がショックは大きい。

ノーキー・エドワーズもメンバーを離れ、それでも時たまコンサートには参加するらしいが、これで正式レギュラーで設立時メンバーはドン・ウィルソンしかいなくなった。

Ventures  

あと何年、元気な姿が見られるか分からないが、身体の続く限り、日本にやって来て、素敵なテケテケ・サウンドを聴かせて欲しい。

ともかく、ボブ・ボーグルさん、長い間お疲れ様でした。あの世でメル・テイラーと、ベース・スティック奏法(アンコールの「キャラバン」にて、メルがスティックでボブのベース弦を叩く、コンサートお馴染みの光景)を久しぶりに再開して楽しんでください。     ―合掌―

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2009年6月25日 (木)

「劔岳 点の記」

Tsurugidake (2009年・東映/監督:木村 大作)

「八甲田山」「復活の日」「駅 -STATION-」「鉄道員(ぽっぽや)」等の、スケール感ある日本映画の名作を撮って来た名キャメラマン、木村大作が、69才にして初監督に挑戦した、本年の日本映画を代表する秀作。原作は新田次郎の同名小説。

明治40年、陸軍参謀本部陸地測量部の柴崎(浅野忠信)は、軍部より、地図上で空白となっている劔岳の登頂と測量の命令を受け、現地の案内人、宇治長次郎(香川照之)の助力を得て、仲間と共に劔岳に挑む。が、そこには想像を絶する困難が待ち構えていた…。

感動したのは、この映画に映し出される映像は、すべて本物だという事である。先頃公開の「チョコレート・ファイター」ではないが、ノーCG、ノー・ワイヤー、ノー・ブルーバック合成、ノー・ヘリ空撮…俳優には本当に重い荷物を背負ってもらい、本当に数時間かけて山に登り、本物の雪と氷と吹雪の中で演技している。
雪崩に遭うシーンも、ダイナマイトを使って本当の雪崩を起こしたのだそうだ。

冒頭、夏八木勲扮する修験者が吹きすさぶ山の頂上で立っているシーンでは、命綱(ワイヤー)もつけておらず、吹き飛ばされた時の為に、画面に見えない50メートルほど下でスタッフが受け止める用意をしていたという、嘘みたいな逸話がある。
よくまあ死人が出なかったものだ(重傷者は1名出たそうだが)。

そこまで、本物を求めた努力は、確かに画面から感じられる。雄大で美しい自然の風景は、それを見ているだけで崇高な気分にさせられる。

Tsurugidake2_2 下に雲海を見下ろす、天狗平の山頂で、柴崎と長次郎が夕陽を眺めるシーンの美しさには、感動のあまり、ジンワリ涙が出て来てしまう。そうした、絵になるシーンを撮影する為に、ひたすら何日も、何時間も待ち続けたという、その忍耐力にも感服する。

体感温度・氷点下40度超の劔岳を中心とした撮影は、延べ200日にも及び、ほぼ順撮りで撮影しているので、俳優のヒゲも本当に、徐々に生えて来るのをそのまま撮っている。

その成果は充分出ており、主演の浅野や、香川や、特に測量隊メンバーの松田龍平は、映画の開始直後とラストでは、明らかに顔付きが変わって、精悍になっているのが分かる。

 
Tsurugidake1 そして、大自然の美しい風景もさりながら、一番感動的なのは、山に登る男たちが、最初はギクシャクしたり、報酬の安さに文句を言っていたのが、物語が進むに連れて、次第に心を通わせて行き、ライバルであった山岳会の人たちも含めて、打算も損得も抜きで、みんなが互いに尊敬し合い、勇気を称え合い、一つの目的を成し遂げた、人間という存在の素晴らしさ、美しさが至福感となって広がるラストである。

人間は、やろうと思えばどんな事でも出来てしまうのである。

この映画の、圧倒的な本物のパワーに比べたら、CGバリバリの最近の「スター・トレック」「ターミネーター4」「トランスフォーマー」など、空虚で薄っぺらく見えてしまう。

比較するのも何だが、「チョコレート・ファイター」や、その原点たるサイレント時代のキートンやロイドの諸作品と同様、人間が身体を張って、限界に挑戦する姿は美しく、畏敬の念を感じざるを得ない

 
木村大作は、昭和33年、東宝に入社し、黒澤明監督の「隠し砦の三悪人」から映画キャリアをスタートしている。以後、「悪い奴ほどよく眠る」「用心棒」「椿三十郎」「どですかでん」等の黒澤映画に撮影助手として付き、黒澤から、妥協を許さない、徹底して本物にこだわる映画作りの精神を学んだ。

それが生かされたのが、3年もの歳月をかけ、本物の雪山と自然の脅威をリアルにフィルムに収めた「八甲田山」の成功である(脚本は橋本忍、監督は黒澤作品のチーフ助監督だった森谷司郎、共に黒澤映画のよき協力者である)。

以後も、木村は、しばしば監督やプロデューサーと衝突しながらも、妥協を許さない、本物の絵作りに、頑固にこだわり続けている。

また本作では、クラシックの名曲を随所に使用しているが、黒澤も編集の際には、ヴィヴァルディやチャイコフスキーなどのクラシックを流して、場面音楽のイメージを掴むのだという(本作の音楽監督は、これも黒澤映画でお馴染みの池辺晋一郎)。

黒澤明がこの世を去って10年…映画作りにおいて、黒澤の精神を、心・技・体、共に受け継いでいるのが、木村大作と言えよう。

そう思って観れば、自然を知り尽くした長次郎と、測量士の柴崎の関係は、黒澤の「デルス・ウザーラ」におけるデルスとアルセーニエフの関係によく似ている(本人の談では、実際意識していて、似たシーンがあるのだという)。

あの映画も、本作と同様、“大自然の中では、人間はいかにちっぽけな存在であることか”が重要なテーマとなっている。

その意味からも、この作品はDVDやBLなどではなく、絶対に映画館の大スクリーンで観るべきである。

ちいさなモニター・ディスプレィでは、雪渓の遥か彼方を進む人間の姿は、アリンコのようにしか見えないからである。…いや、そもそも、人間がどこにいるのかすら判別出来ないだろう。

そんな事では、本作品の素晴らしさを、100分の1も体感出来ないだろう。

映画ファンなら、何をおいても、いや、1年に1~2本程度しか映画を観ない人でも、是非映画館で、そして出来るだけ大きなスクリーンで、映画を体感して欲しい。

エンド・クレジットでは、“仲間たち”とのみ表し、一切の肩書なしで、映画に関わった俳優・スタッフの名前をズラリ列記している。これも感動的である。
すべての人たちが仲間であり、映画作りの同志であるという事なのだろう。

細かい難点も無くはないが、そんな事はもうどうでも良い。厳しい自然に立ち向かい、自然を畏れ、かつ敬愛し、頂点を極めた美しい男たちの勇気に、ただ感動すれば良い。

これはまた、木村大作という、最後のカツドウ屋が、無謀な賭けに打って出て、それを多くの人たちの協力や援助を得て遂に成功させた、勇気の記録であり、ドキュメントであると言えるかも知れない。

前人未到の山に挑んだのは、木村大作その人でもあると言えるだろう。

この映画のコピーが、この映画のすべてを語っている。

      誰かが行かねば、道はできない。 

  必見である。     (採点=★★★★★

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2009年6月20日 (土)

「レスラー」

Wrestler (2008年・米/監督:ダーレン・アロノフスキー)

かつては人気レスラーだったが、今では見る影もなく落ちぶれた男の、それでもレスリングに賭ける孤独な生き様と闘いを描いた感動の力作。第62回ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、主演のミッキー・ロークも第81回アカデミー主演男優賞にノミネートされた事でも注目された。監督は「Π(パイ)」「レクイエム・フォー・ドリーム」のダーレン・アロノフスキー。

 
80年代に、セクシー系俳優として絶大な人気を誇ったものの、その後人気が凋落し、一時はボクサーに転進するが、それも失敗し、今ではほとんど忘れられた存在となっていたミッキー・ローク。

そのロークが、80年代に大活躍したプロレスラーでありながら、今では老いた体にステロイドを打ち、しがない地方興行を細々と続けてかろうじて糊口を凌いでいるという、まさに彼自身を彷彿とさせる役柄を力演し、そして見事に復活した。

 
映画は、冒頭からキャメラが、前を進む主人公、ランディ・“ザ・ラム”・ロビンソン(ミッキー・ローク)の後姿をずっと追い続けている。

それはまるで、テレビの密着ドキュメンタリーのようである。ランディという虚構の男より、ミッキー・ロークという男の実像を追っているようにも見える。これは意図しての事だろう。

面白いのは、試合では反則技の応酬で乱闘しているのに、楽屋裏では対戦相手と、試合の段取りを打ち合わせたり、仲良くスーパーで反則の道具を買い物している。…つまりは出来レースである事をあっけらかんと暴露しているのである。

これまでも、プロレスはスポーツでなく、ショーであり、興行だと言われて来たが、ここまで舞台裏を描いているのは珍しい。
(そう言えば、昔テレビでプロレス中継を見ていた時、敵の反則でコテンパンにやられていた善玉レスラーが、放送時間終了間際になって、突然反撃し敵を完膚なきまでに叩きのめす…というのがお決まりパターンであったが、あれはどうやらシナリオ通りだったのかも知れないな(笑))。

物語は、ランディが、薬の過剰摂取から心臓発作を起こし、医者から「過激な運動をしたら命にかかわる」と忠告され、プロレスをやめてアルバイトに精出し、馴染みのストリッパー(マリサ・トメイ)にアドバイスされて、疎遠になっていた娘との関係を修復しようとするが、不器用にしか生きられないランディは、命の危険があるのにもかかわらず、結局プロレスの世界に戻って行く…という展開となる。

ラスト、心臓の痛みに耐え、ランディはコーナーポストによじ登り、ジャンプする所で映画は終わる。

このラストは、ランディの死を暗示させている。飛翔するランディの姿は、天使になったかのようでもある。このラストは泣ける。

リングに生き、命を削ってまでも、自己の生き方を貫いたランディの不器用で壮絶な人生は、涙なしには見られない。

 
無論、お話そのものは、これまでもいくつも作られて来たパターンである。どん底まで落ち、辛酸を舐めた男が、自分の生きる道を模索し、意地とプライドをかけた闘いに挑む
ボクシング映画では、そうしたパターンの作品が過去にいくつも作られている。シルヴェスター・スタローンの「ロッキー」シリーズがそうだし、我が国にも赤井英和主演の「どついたるねん」(阪本順治監督)という秀作がある。これなどは“再起不能の重傷を負い、引退を余儀なくされた男が、試行錯誤の末に、自分の生きる道はボクシングしかないと悟り、リングの世界に戻り、無謀な闘いにチャレンジする”という展開が本作とよく似ている。主役の男(赤井)の、実人生での転落と復活が、作品にそのまま反映されている所までそっくりである。

しかしそれでも、それら先行作品を突き抜けて、この映画が素晴らしいのは、かつての2枚目スターが、老醜を晒してこの役に体当たりで挑んだ点にある。

2枚目スターというものは、年をとってもカッコいいものである。そして、こんな惨めな役はやりたがらない。いや、ファンも見たくはないだろう。

例えば、アラン・ドロンや高倉健は、70歳を超えた今でもカッコいいし、渋くてダンディである。加山雄三などは未だに“永遠の若大将”で、「しあわせだなァ」と歌い続けている。間違っても、彼らに「レスラー」のような作品のオファーは来るわけがない(笑)。

監督のアロノフスキーは、製作会社の反対を押し切ってまで、断固ローク主演にこだわり、そのため低予算で撮らざるを得なくなったという。

しかし、これは監督が狙った通り、“今では落ちぶれた、過去の人”である、ローク主演だからこそ意味があるのである。かつての、セクシーでスリムだったイメージをかなぐり捨て、容貌は衰え、ブヨブヨの体となったロークが、自らの栄光を取り戻すべく必死で苦闘する姿に彼の実像が重なり、我々観客は共感し感動するのである。

栄光と悲惨を共に味わい、どん底に堕ち、そこから這い上がって来た、ミッキー・ロークという男が演じたからこそ、この映画が作品そのものの力を超えて輝きを放つのである。

 
ミッキー・ロークの渾身の演技の素晴らしさは言うまでもないが、彼を温かく見守るストリッパー役を文字通り体当たりで熱演したマリサ・トメイも見事。彼の娘に扮したエヴァン・レイチェル・ウッドもいい。本物のレスラーも混じった仲間たちも含め、役者たちがみんな素晴らしい。

難点はある。ヤラセとしてのプロレス世界を舞台にしているだけに、ガチンコのボクシング映画に比べたら感動はやや薄いし、そんな環境の中で、耐えて闘う主人公の姿を描いてもしっくり来ない所はある。

だが、そうした難点を補って余りある、ミッキー・ロークの鬼気迫る熱演(額を切るシーンは本当に切ってるのだそうだ)には素直に感動した。人生を、ふと振り返りたくなる中高年世代の人たちには、特にお奨めである。    (採点=★★★★☆

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(付記)
折りしも、プロレスラー、三沢光晴さんが先日試合中に亡くなった。テレビ地上波中継を打ち切られるなど、人気に翳りが見えるプロレス界で、46歳という年齢をおしてプロレス一筋に打ち込み、体をボロボロにし、リング上で壮絶な最期を遂げた三沢さんの生涯が、ランディの生き様とかぶり、あまりプロレスに興味のない私でも涙が溢れた。

奇しくも、亡くなった6月13日は「レスラー」の封切日である。それだけでなく、三沢さんのタイツの色が、ローク扮するランディのものとよく似たである。不思議な因縁である。

Wrestler2_2    
訃報を聞いた翌日に、この映画を観ただけに、余計感動し涙が溢れた。三沢さんの事を思いながらこの映画を観れば、より感動が深まるかも知れない。

 

(さらに、お楽しみはココからだ)
この映画を観てて、クリント・イーストウッド作品との共通項をいくつか見つけた。ひょっとしたら隠し味にしているのかも知れない。

主人公は、不器用で、要領よく生きられない男であるが、イーストウッド映画にもそのような主人公がよく登場する。

例えば、天才的なミュージシャンでありながら薬に溺れ、自己破滅するチャーリー・パーカーの生涯を描いた「バード」しかり、その主人公のキャラクターが反映された「センチメンタル・アドベンチャー」しかり、「ブロンコ・ビリー」しかり、「ミリオンダラー・ベイビー」しかりである。最新作「グラン・トリノ」もまたその系列に挙げられる。

主人公が、娘と疎遠な関係にあり、何とか修復しようと努力する…というパターンは、「ミリオンダラー・ベイビー」とそっくりである。

主人公が、仲間たちと地方巡業を行って糊口をしのぐ姿は、「ブロンコ・ビリー」にも出て来る。

さらに、心臓手術を行い、心臓の痛みに耐えながら、己の道を突き進むという展開は、M・コナリーの「わが心臓の痛み」を原作とする「ブラッド・ワーク」と同じである。

特に、死ぬのが分かっていながら、自殺的行為を取ってまで、己の生き様、死に様を貫く主人公の姿は、まさに「グラン・トリノ」ではないだろうか。

偶然とは言い切れない気がするが、さていかがだろうか。

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2009年6月13日 (土)

「チョコレート・ファイター」

Chocolate (2008年・タイ/監督:プラッチャヤー・ピンゲーオ)

「マッハ!!!!!!!!」「トム・ヤム・クン!」などのトニー・ジャー主演による、ノーCG、ノーワイヤー、ノースタントをウリとする格闘技アクションを世に送り出したプラッチャヤー・ピンゲーオ監督が、またしてもアクション映画の快作を作り出した。

しかも今回の主演は、まだあどけない表情の残る少女。演ずるヤーニン・ウィサミタナン(愛称ジージャー)は11歳でテコンドーを習い始め、テコンドー大会で金メダルを獲得した事もある本物の格闘家。その彼女を2年間特訓させ、さらに撮影に2年かけた…という周到ぶり、徹底ぶりにも驚く。それだけの力の入れようは画面からもヒシヒシと伝わって来る。
格闘技の経験もない柴咲コウを1年間訓練させた、というのがウリの「少林少女」など、この作品から見れば子供だましだ(笑)。

一応、病気になった母の入院費が必要となり、主人公ゼン(ジージャー)が、母が貸した金を取り立てに回るが、相手にされない為、やむなく闘うハメになる…という筋立てはあるが、そんなお話などはどうでも良い。ただひたすら、可憐な美少女が、体を張って大の男たちと傷付きながら延々と闘う姿をカメラが追う。…それだけで感動的である。

バトルの場所や戦いぶりもいろいろと工夫が凝らされ、飽きさせない。しかもラウンドを重ねるごとにパワーアップして行き、闘いも熾烈になって行く。

Chocolate2 主人公のキャラクター設定もなかなかうまく考えられている。生まれた時から“自閉症”という障碍を抱え、しかしそれ故に、隣のテコンドー道場の練習風景や、テレビ放映の格闘技映画やゲームを見ただけで技をマスターしてしまうという才能が開花し、かつ敵への恐怖心も生まれない…というシチュエーションが説得力を持つ。また演技の未熟さもそれでカバー出来ている。

ブルース・リーやジャッキー・チェンやトニー・ジャーの映画を見て、その技をそっくり真似し、それが闘いに生かされる…という展開がまた、それら先達の格闘技映画へのオマージュにもなっている辺りも、映画ファンの心をくすぐる。

最初の製氷工場での闘いでは、ブルース・リーそっくりのポーズを決めたり、怪鳥音を叫んだりしているのだが、ここは明らかに製氷工場での闘いがクライマックスとなっている、リーの本格主演第1作「ドラゴン危機一発」へのオマージュであろう。

そしてクライマックス、敵のマフィアのアジトでの闘いでは、リーの「ドラゴン怒りの鉄拳」を彷彿とさせる武道場での対戦、次々繰り出される武闘家との死闘と屋上への移動は「死亡遊戯」、壁面でのアクロバット風アクションと地上への墜落…はジャッキーの「プロジェクトA」への、それぞれのオマージュが感じられる。

エンド・クレジットでのNGシーンやメイキングは、一連のジャッキー映画でもお馴染みである。

 
それにしてもアクション・シーンは凄い。ジージャーの軽やかな動きも見応えがあるが、対戦するスタントマンの頑張りも特筆ものである。ノーワイヤー、ノーCGゆえ、実際に障害物に激突したり、2、3階から転落し地面に激突するまでをワンカットで撮っている(当然、下にマットも敷いていない)。あれでは瀕死の重傷者も出ているのでは、と思いながら観てたが、エンド・クレジットでは本当に大怪我して、病院見舞いされているシーンが出て来る。ジージャーも出血や打撲の手当てを受けている。このシーンからも、作品に賭ける監督や出演者の意気込みが伝わって、私は不覚にも目頭が熱くなった。

 
映画史を振り返れば、サイレント時代のコメディ映画は、それこそワイヤーもCGもなく、主演者もスタントを使わず、全部自分で演じていた。

ハロルド・ロイドという人は、「用心無用」(23)という映画で、目も眩むビルの上を命綱もなしで動き回り、大時計の針にぶら下がり、あわや落ちそうになるシーンを演じている。ジャッキー・チェンが「プロジェクトA」で引用しているのがこの映画である。ロイドは撮影で何度も重傷を負い、この作品の前にも撮影中に小道具の爆発事故で右手の親指と人差し指を失っており、このビル登りも義指をつけて撮影に挑んだという事である(余計危ないじゃないか)。

バスター・キートンもハラハラするような危ないシーンを、ノースタントで自分で演じている。「荒武者キートン」(23)では、滝壺に堕ちそうなヒロインを、ロープを使ってターザンばりに救出する危険なシーンを本人が演じている(トリックは一切使っていない)。走行する列車の直前を自動車で横切ったり、ハシゴを倒して隣の建物に飛び移ったり、一歩間違えれば重傷どころか死にかねない危険なシーンがキートン作品には頻出する。「キートンの蒸気船」(28)でも、二階建ての家の壁面が倒壊してあわや下敷きか、と思わせて、実は丁度窓の箇所に立っていて難を逃れる危ないシーンが出て来るが、これも計算が狂えば即死である。なお、このシーンも、ジャッキーの「プロジェクトA2」でまるごと引用されている。

ジャッキー・チェンは、こうした体当たりで熱演するロイドやキートンを深く敬愛しており、オマージュを捧げるだけでなく、体を張って危険なシーンにチャレンジするのも、彼らへの敬愛の表れであると言えるだろう。

そうした、キートンやジャッキーらの命がけの、言い換えれば映画の黎明期から脈々と繋がる、原初的な映画の面白さ、醍醐味を継承しているのが、ピンゲーオ監督らによるタイのムエタイ映画であると言えよう。

その映画史に、また新たに記念碑的な本作が加わったと言える。アクション映画ファンのみならず、古くから映画を観てきた生粋の映画ファンも必見である。ただ、やや凄惨なシーンもあるのでその点は覚悟が必要か。

 
それにしても残念なのは、これほどの傑作が、全国でたった8館でしか上映していない!!

関西地区では、京都と、大阪ではなんばパークスシネマのみ。梅田でも、神戸でも上映されていない。どうしても観たかった私は、わざわざ難波まで出向き(しかも駅から無茶遠い!)、その上仕事が終わってからだと21:10からのレイトショーでしか観れない!!!
おかげで家に着いたら深夜12時を回っていた!!!! なんでこんな苦労せにゃならん !!!!!

配給会社が東北新社という、マイナーな会社であるせいかも知れないが、それにしても、噂を聞くほど映画ファンが観たくなる必見作であるだけに、もったいない事である。なんとか、シネコン辺りが努力して、幅広い公開を望みたいものである。      (採点=★★★★☆

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2009年6月 4日 (木)

「ラスト・ブラッド」

Lastblood1 (2009年・仏=香港/監督:クリス・ナオン)

2000年に発表された、日本製フルデジタル・アニメ「BLOOD The Last Vampire」の実写版リメイク(本作の原題も「BLOOD The Last Vampire」)
「グリーン・ディスティニー」「HERO」等の世界的ヒット作で知られる香港の名プロデューサー、ビル・コンが製作に当り、「キス・オブ・ザ・ドラゴン」のクリス・ナオンが監督した。

オリジナル版のアニメ製作は、「攻殻機動隊 Ghost in the Shell」などで知られるプロダクションI.Gが当り、同作の監督・押井守が企画協力として参加。監督は「老人Z」など、パワフルなアニメで評価の高い北久保弘之が担当。

わずか48分の中篇ながら、密度の濃い、ハイテンションのアクション描写が日本より海外で絶賛され、ジェームズ・キャメロン、Q・タランティーノ、ウォシャウスキー兄弟などが熱い賛辞を寄せ、タランティーノはこれを見て、「キル・ビル」のアニメ・パートを、プロダクションI.Gに依頼したくらいである(日本刀を持った少女がバッサバッサ斬りまくる…というコンセプト自体、「キル・ビル」に多大な影響を与えているのではないか)。

なお同作は、いわゆるB級ホラー・アクションでありながら、2000年度の文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞、第55回毎日映画コンクール大藤信郎賞など、多くの権威ある賞を受賞している。いかに作品のクオリティが高かったかが分かる。(当時私が書いた批評はこちらを参照)

評判の高さから、後にはこの劇場版を元に、「BLOOD+」のタイトルでテレビ・アニメとしても製作され、こちらも評判となった。

 
さて、こうした人気の高さから、実写版の製作も以前から待ち望まれていたので、本作の公開は私も楽しみにしていた。が…

Blood2 前半、地下鉄内のヴァンパイア狩りから、アメリカ軍基地内での大バトルまでは、アニメ版と衣装はおろか、カメラアングル、カット割りまでほとんどそっくり。この前半パートはアクションに次ぐアクションで、主人公のサヤ(チョン・ジヒョン)は屋根の上を走るわ、壁はぶち破るわ(笑)の人間離れした大活躍を見せ、ツッ込みどころはあるものの、まずまず楽しめる。アクション演出を担当したのが、「キス・オブ・ザ・ドラゴン」「レッドクリフ」のコーリー・ユンだと聞いて納得。

アニメでは横田基地(本作では関東基地)での翼を持ったヴァンパイアを倒す所で終わっていたので、以降はアニメにはないオリジナル・ストーリー。

が、この追加部分があんまり面白くない。前半の悪ノリ気味の大バトルが、オリジナルよりもマンガチックで、そのムチャクチャぶりが楽しめたのに、後半になると、ぐっとテンションが下がってしまうのだ。

無論、久しぶりの倉田保昭扮するカトウとヴァンパイアとの対決など、それなりの見せ場はあるのだが、前半に比べて、アクションの質がガラリと変わってしまう。言うなれば、前半が火傷しそうなほどホットで破天荒なのに、後半はぐっとクールでスタイリッシュなのだ。
まるで、別の作品を観ているようである。

そして、ラストの最大の敵、オニゲン(小雪)との対決シーンは、なんともしまらない。小雪がアクションが出来ないのが致命的。このラスト対決にこそ、前半をさらに上回るぶっ飛んだ、パワフルなアクションを見せるべきであったのだ。サヤを演じるのが韓国のジヒョンだから、相手役に知名度のある日本人スターをと思ったのかも知れないが、アクションの出来る日本人女優がほとんどいないだけに、ここは香港俳優でもいいからアクションの出来る俳優を使うべきだった(対抗出来るのは、「SAYURI」にも出てたミシェル・ヨーくらいか。個人的には、志穂美悦子の復活を希望したいのだが…)。

そもそも、敵はヴァンパイア=吸血鬼のはずなのに、なんで“オニ”と呼んでいるのか解せない。オニとヴァンパイアは違うでしょうが。さらにカトウとの対決シーンでは、オニたちがなんと忍者装束である。カトウ対オニ軍団との決戦シーンは、ほとんどショー・コスギ主演の“忍者アクション”である。…冒頭では新宿から“富士山”が見えていたし、「007は二度死ぬ」しかり、「ラスト・サムライ」しかり(こちらも小雪が出演)、外国人監督が作る、日本が舞台のアクションは、“忍者”を出すのがお約束みたいになってしまっているのはなんとも困ったものである。オリジナルのアニメ版が持っていた、ヴァンパイアどもをバッサバッサ斬りまくる痛快ハイテンション・アクション・エンタティンメントの輝きは薄れてしまっている。何故アニメ版が舞台を米軍基地にしたのかが、この映画を作った人たちは解っていないようである。

倉田保昭のアクション・シーンは、そこだけ見れば見応えがあり、かつてのカンフー映画ブームの'70年代、香港と日本を又にかけて活躍していた頃の倉田を知っている世代にとっては懐かしさもひとしおなのだが、それはまた別の作品で見たかった所である。

イチャモンついでに、チョン・ジヒョンのアクション・シーンで、セーラー服のスカートがめくれた時に、黒いショートパンツらしきものが見えるのにはゲッソリ。いや、パンツが見たいわけじゃありません(笑)。「愛のむきだし」の満島ひかりの見事なパンチラ・アクションに感動した後だけに、どうせ見せるならあそこくらいまでやって欲しいし、見せないなら、見えそうで見えない撮り方にすべきだった。

というわけで、前半は良かっただけに、後半の尻すぼみが残念な出来と言えよう。アニメ版に感動した人には、あまりお奨めはいたしません。     (採点=★★☆

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(さて、お楽しみはココからだ)

昨年の「片腕マシンガール」、今年の「愛のむきだし」に本作と、このところ“セーラー服姿のヒロインが大暴れするアクション映画”が続いている。

その源流をたどれば、'80年代にテレビ・映画で大ヒットした、「スケバン刑事」―という事になるだろう。

セーラー服姿の女子高校生が、特命刑事となって大活躍する…という、まあ荒唐無稽なお話なのだが、これがヒットして、主演の斉藤由貴、南野陽子をスターダムにのし上げ、勢いを駆ってパート3まで作られたのだが、浅香唯が主演するパート3のサブタイトルはなんと「少女忍法帖伝奇」!。セーラー服姿のスケバン刑事は、なんとまあ忍者の末裔だというわけで、敵もまた忍者!さらに後半に至っては、魔界を舞台に!ダースベイダーそっくりの悪役(これが実は唯の父親だったりする)に、シスの暗黒卿そっくりのラスボスまで登場するという、完全な「スター・ウォーズ」のパロディになっていた(笑)。

刑事の話はどこへ行った(笑)…とツッ込みたいところだが、とにかく勢いがあって、めったにドラマは見ない私もこれは楽しませてもらった。

で、“セーラー服の美少女対、忍者軍団との激闘”というコンセプトが本作と共通する所があり、伝奇的要素も含めて、案外本作の作者はこれを参考にしたのではないか…と勝手に想像したりする。

ちなみに同時期、同じフジテレビで放映していた人気アニメ「うる星やつら」の主人公・ラムちゃんもやはりセーラー服姿で、こちらは普段はトラ皮のビキニを着てツノを生やしている、いわゆるオニ娘である。

つまりは、どちらも“セーラー服の美少女が活躍するアクション”で、しかも片や忍者に、片やオニである。…本作「ラスト・ブラッド」の後半、オリジナルで追加されたエピソード部分に、両方の要素が含まれているのは、偶然にしても興味深い。

…と言うよりは、アニメの「BLOOD The Last Vampire」自身が、これらセーラー服アクションにインスパイアされて作られた、と見る方がむしろ正しいのかも知れない。

なにしろ、「BLOOD-」の企画協力者・押井守は、くだんの「うる星やつら」のチーフ・ディレクターだった人である(押井が監督した劇場版「うる星やつら/オンリー・ユー」にも「スター・ウォーズ」のパロディがてんこ盛りである)。参考にした事は大いに考えられる。

ちなみに、テレビの「スケバン刑事」と「うる星やつら」を企画したプロデューサーは、実はどちらも、岡正という同一人物である。これもまた興味深い事実である。 

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2009年5月31日 (日)

「重力ピエロ」

Juuryokupiero (2009年・ROBOT=アスミック・エース/監督:森 淳一)

直木賞候補にもなった、伊坂幸太郎のベストセラー小説を、秀作「Laundry」の森淳一監督が映画化。

仙台市内で、壁や構築物への謎の落書き(グラフィティ・アート)と、放火事件が頻発する。大学院で遺伝子を研究する泉水(加瀬亮)と、落書き消しの仕事をしているその弟の春(岡田将生)は、この二つの間に関連性があること、さらに落書き文字が暗号になっている事に気付き、事件の解決に乗り出すが、その裏には24年前に彼らの家族に起きたある悲しい出来事が絡んでいた…

伊坂幸太郎の小説は、一風変わった、独特の味わいがある。デビュー作の「オーデュボンの祈り」からして、未来を予言するカカシが殺人事件の被害者になる―という、何とも奇妙な作品だし、「アヒルと鴨のコインロッカー」といい、「フィッシュストーリー」といい、どれも一筋縄では行かない、しかし一旦ハマれば中毒になってしまいそうな、ユーモアありミステリーありの、独自の世界観に満たされた不思議な世界が展開する。

そんな伊坂作品の中では、本作はわりと普通の(?)、家族をめぐるジンワリと心に響く、初期の代表作である。

原作を読んだ時は、“これは映画にしにくいな”と感じた。冒頭の「春が二階から落ちて来た」という、文学史に残りそうな名文からして、これは、小説として読んでこそ味わいのあるお話であり、映像化したら作品イメージが壊れてしまうのではないか、と危惧した。

しかし、さすがは「Laundry」で独自の味わいある作品世界を構築した森監督、原作の持ち味(もしくは伊坂ワールド)を壊すことなく、見事に映像化に成功し、なおかつ森淳一作品としても成立させている。原作を先に読んだ方にもお奨めの力作である

 
前述の、「春が二階から落ちて来た」の出だしを、きちんと画にしただけでも秀逸。ここで一気に作品世界に入って行ける。

落書きに描かれたアルファベットが、遺伝子配列の暗号になっている事に泉水が気付く辺りから、謎解きミステリーになって行き、その過程で24年前の連続レイプ事件との関連性が炙り出されるにつれ、春の忌まわしい出生の秘密が明らかになって行くが、やがてお話はミステリーよりも、泉水と春と父との、深い絆に結ばれた家族愛の物語が中心となって行く。

(以下、ネタバレ部分がありますので、映画を未見の方はお読みにならないでください)

春が子供の頃から、絵の天才であった事、泉水が大学院で遺伝子を研究している事から、放火犯人が誰かは、勘のいい観客ならほぼ見当がつく。ただ難しいのは、小説ではなかなか気付かない事が、“画”になると観客には分かってしまうという点である。落書きアートの絵があまりにも上手過ぎ、なおかつ観客は、子供時代の回想で、春が展覧会で金賞を取った絵を見ている。この絵を見れば、あの見事な落書きを描いたのは、春以外にいない事に容易に気付いてしまう。むしろ泉水がなかなか気付かないのが不思議なくらいである。

しかし謎解きは本流ではない。映画は泉水の赤ん坊時代から、二人の仲の良い子供時代を経て現在に至るまでの、泉水と春の成長、それを優しく見守る父(小日向文世)と母の姿を丁寧に描き、どんな不幸な出来事があろうとも崩れない、家族の固い絆が胸をうつ。

この父が、母と初めて知り合う回想シーンにおいて、大変な状況なのに悠然と構えている、という彼の性格が、後の物語の重要な伏線となっている辺りが秀逸。

小日向文世の存在感が見事。いつも笑顔を絶やさない、自分の死期を悟っても、ただ泰然と構えていて、そして家族の中心であり続ける父親像を演じてサマになる役者は、彼以外に思いつかない。一歩間違えれば、ただ気の弱い小心な人間に見えてしまう所を、実は芯が強い、包容力のある理想の父親と思わせるのは、簡単なようで相当難しい。

加瀬亮と岡田将生の兄弟の演技も見事である。鈴木京香の母親も含め、それぞれが役柄を完全に把握し、ドラマに厚味をもたらしている。

そしてレイプ犯、葛城を演じる渡部篤郎である。これがまた見事。ほとんど反省の色を見せず、自分勝手な論理をまくし立てる唾棄すべき悪人を完璧に演じている。刑期を終えているとは言え、泉水たち家族にとっては許されざる存在である。兄弟が殺意を抱くのも当然ではある。…だが、その悪の論理が、自分勝手に生きている多くの人間の本性でもある所が怖い。ともあれ、「愛のむきだし」と本作で、本年度の助演男優賞は確定であろう。

 
人によっては、放火、殺人の春が、裁かれないのは納得が行かないと感じるかも知れない。

だが、伊坂作品の多くがそうであるように、この物語はファンタジーである。彼の描く舞台はほとんどが仙台という実在の街なのだが、物語が進むうち、次第にこの街が、どこでもない、異世界に見えて来る。

ちょうど、リドリー・スコット監督が「ブラック・レイン」の舞台として選んだ、大阪の町が、明らかに大阪でロケしているにもかかわらず、まるで、「ブレード・ランナー」の未来世界(ロサンゼルス)に見えて来るように…。

だから、落書きをしてても、放火しても、どこにも人間の姿(警察も)が見えないという不自然さも、ファンタジーなら納得出来るのである。

「二階から飛び降りる」春にしても、普通なら足を挫くか、大怪我するだろうに、平然としているのもファンタジー的である。

あるいは、超イケメンで、しかも頭脳優秀で、絵の天才でもある“春”そのものが、現実を超越した、天使のような存在なのかも知れない。

ラストで、冒頭と同じシーンで締めくくった演出もうまい。この、「二階から落ち」ても平然としていられるシーンが、題名の由来でもある、「愛さえあれば、重力さえも消してしまえる」という名文句ともリンクしているのである。まさに文学的なエンディングと言えようか。見事。

 
原作の持つテイストを見事に映像として定着させた、これは素敵な秀作である。原作者も、映画の出来栄えに満足しているそうである。

個人的に1点だけ不満を。原作では父親も、入院中のベッドにいながら事件を推理する(安楽椅子探偵のようである)のだが、映画ではそれが省略されていた。これがあれば、父親の人物像がさらに魅力を増したのに。そこがやや残念。    (採点=★★★★☆

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(付記)
製作に「タイヨウのうた」「ALWAYS 三丁目の夕日」(小日向文世好演!)と、爽やかな家族愛を得意とするROBOTが参加している点にも注目。ついでながら、アカデミー短編アニメ賞を受賞して話題の「つみきのいえ」(これも家族がテーマ)もROBOT製作作品である。

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2009年5月21日 (木)

「60歳のラブレター」

Loveletterfrom60 (2009年・松竹/監督:深川 栄洋)

某銀行が毎年行っている、1枚のはがきに綴る応募企画「60歳のラブレター」に着想を得て、「ALWAYS 三丁目の夕日」「キサラギ」の古沢良太がオリジナル脚本を書き、「真木栗ノ穴」等の深川栄洋が監督した、3組の熟年男女が織り成すさまざまな人生模様を描くオムニバス風ドラマ。

60歳前後という人生の節目を迎えた人たちが、ふと立ち止まって、人生を見つめなおしたり、第2の人生を始めようとしたりする、言わば大人のラブストーリー。団塊の世代が次々と定年を迎えている今の時代に、タイムリーな企画と言えよう。

中心的に描かれているのが、大手建設会社の専務取締役を、60歳を期に退職し、離婚することになった橘孝平(中村正俊)とちひろ(原田美枝子)。これに、夫が糖尿を患い、口喧嘩しながら励ましあう魚屋夫婦(イッセー尾形と綾戸智恵)、愛妻に先立たれ娘と暮らす医師・静夫(井上順)と、翻訳家として活躍する麗子(戸田恵子)との遅咲きの恋…の3組のカップルのドラマが微妙にすれ違いながら進行する。

脚本が、「キサラギ」など、絶妙に交錯する人間ドラマを得意とする古沢良太だけあって、いろんな波風を立てながらも、紆余曲折を経た後、それぞれタイプの異なるラブレターを契機として、収まる所に収まるドラマ展開は手馴れたもの。深川栄洋の演出も丁寧で、ベタつかず、爽やかで後味のいい作品に仕上がっている。

一番ジンと来たのが、魚屋夫婦。ビートルズのコピー・バンドとその追っかけ…という馴れ初めがいかにも団塊世代らしくて面白いし、喧嘩しながら、文句を言いながらも実は仲がいい夫婦というのが、3組の中で一番リアリティがあって観客目線に近く親近感を感じさせる。夫がジョギングの帰り、いつもウインドーで指をくわえて眺めていた、27万円もするマーチンD28のアコースティック・ギター(ビートルズのポールが愛用していた)が絶妙の小道具として使われ、“やはり夫婦は以心伝心だな”と改めてしみじみと思わせる。一番庶民的だけど、実は一番理想としたい夫婦像であるのかも知れない。私もビートルズ世代であるだけに、“ミッシェル”には泣かされてしまった。映画初出演のジャズシンガー・綾戸智恵が意外にも魚屋のカミさんがよく似合っていたのには新鮮な驚き。

 
これに比べると、他の2組は少々ドラマが作り過ぎの感無きにしもあらずで、特に中村扮する
橘孝平に関するエピソードの、リアリティのなさは問題。大手ゼネコンの専務が、あと数年はガッポリ役員報酬をもらえるはずなのに、あえて退職して不倫相手と、不安定なベンチャーを起業したりするだろうか(下記、付記参照)。おまけに、退職してもまだ自分の力が通用すると過信している辺り、かなり甘チャンである。さらに、離婚してるのに、未練たらしくノコノコ元妻の家の前をうろついたりするなんて不自然すぎる。

こういう、身勝手で自信過剰の甘ったれは、とことんドン底に叩き落してやるべきである。堕ちる所まで落として、そこでやっと目が覚めて、本当に必要としていたのは元の妻だった…と気付いてこそ感動のドラマになっただろう。

さらに、後半で発生するベンチャー会社の危機も、リスク管理が出来てなさ過ぎだし、それを回避するために孝平が取った奥の手も、あまりにリアリティに欠ける(あんな事したらもっときついしっぺ返しを食らうだろう。ゼネコンを舐めてはいかんぜよ)。

そんなわけだから、本来「幸福の黄色いハンカチ」並みの感動を呼ぶはずだったラストの孝平の行動が、ドラマの中で浮いてしまっていて、感動にほど遠い事となる。これは計算違いであろう。30年かかって手元に届いたラブレターのエピソードが感動的なだけに、この誤算は惜しい。

それにしても、「地下鉄に乗って」(浅田次郎原作)、「象の背中」、それに本作と、涙と感動のドラマになるべき作品に、なんでいつも“主人公の不倫”を持ち込むのだろう。結局どれも主人公の人物像を薄っぺらにし、ドラマをぶち壊す結果にしかなっていないのに…。

脚本も、監督も共に30歳代。この題材なら、主人公たちと同世代の(いわゆるアラ還の)脚本家、監督にまかせた作品を観たかった気がする。

…とまあ不満はあるが、綾戸智恵と井上順が予想外の好演だったし、アラに目をつぶれば、ジンワリ感動できる大人のドラマになっていた事は評価したい。団塊の世代以上の方にはお奨めの佳作…という事にしておこう。    (採点=★★★☆

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(付記)
少し気になったのが、作品紹介記事でも公式HPでも、専務取締役である孝平の退職を、“定年退職”としている点。

普通、役員には定年はない。最近ボチボチ導入する所が出て来ているが、それでも最短で65歳である。私のいた会社は専務が70歳くらいまで就任していた。そこまで行かなくても、大抵は一般社員より長く在籍する。専務取締役が60歳で退任するケースは稀である。60歳なら、早期退職の部類である。

ここでは、重役にしたりせず、ヒラ部長で十分だったのではないか。それだと60歳での定年退職でスジが通るのだが。…うーむ、性格だろうか、こんな事が気になって仕方がない(苦笑)。

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2009年5月17日 (日)

「THE CODE/暗号」

Thecode (2008年・日活/監督:林 海象)

2005年に公開された映画、「探偵事務所5~5ナンバーで呼ばれる探偵達の物語」の続編。

なおこの「探偵事務所5」シリーズは、05年からインターネットシネマとしても配信されており、現在までに50話ほどが作られ、100万人を超える視聴者数を記録しているという。

残念ながら前作は観ていないが、林海象監督と言えば、永瀬正敏主演による、「我が人生最悪の時」に始まる映画版3作が作られた「私立探偵 濱マイク」シリーズ(後にテレビでも放映)など、私立探偵ものを多く手掛けており、そもそも自分のプロダクション名を“映像探偵社”とする等、探偵にこだわり続ける作家なのである(濱マイクという名前も、ミッキー・スピレイン原作による、探偵マイク・ハマーのもじりである)。

「濱マイク」シリーズもわりと楽しんだ方なので、本作もちょっと期待したのだが…。

 
冒頭いきなり、川崎市内で時限爆弾を使った同時多発爆破テロが起こり、装置の解除キーが暗号となっていて、それを探偵事務所5に所属する天才的暗号解読のプロ、コードナンバー507号(尾上菊之助)が次々と解読し、爆破を未然に防いで事件を解決に導く…というアヴァンタイトル部分のツカミはスピーディでまずまず。シリーズのレギュラー陣もほんの数カットながら大勢登場するので、シリーズ・ファンには楽しいだろう(なお、映画館で上映していたのが、林監督の長編デビュー作「夢みるように眠りたい」(探偵事務所の501役・佐野史郎が主演)というお楽しみもある)。

だが、本編に入り、507が上海に飛んで、複雑な暗号に秘められた、旧日本軍が隠した財宝の争奪戦に巻き込まれる…という展開になると、俄然テンポがゆるくなる。

敵の上海地下マフィアの連中が、揃ってマヌケだし、銃は近距離でもまったく命中しないし、背中に暗号の刺青を持った謎の美女・美蘭(メイラン・稲森いずみ)の中国語はタドタドしいし、財宝に近づく人間を、ゴルゴ13も真っ青の命中率で次々射殺する謎の男(松方弘樹)の年齢がどう考えても辻褄が合わないし(終戦時30歳前とすると、現在は90歳手前だろう。あんなに機敏に動けるわけない(笑))…といったツッ込みどころは、まあB級アクションと割り切れば見過ごしてもいい。

だが、肝心の暗号が、何やら数字をやたら羅列してるだけでどんな暗号なのかがさっぱり判らないし、それを507が解読するプロセスも観客にはまったく示されず、何か分からないうちに解読が済んでる…というのでは欲求不満になる。「とにかく507は天才だから」というだけでは説得力がない。

暗号もの、と言えば、古くはエドガー・アラン・ポオの「黄金虫」があり、我が国では伊沢元彦の「猿丸幻視行」が有名。最近ではダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」がある。
いずれも、暗号がどうやって解読されたか、そのプロセスがちゃんと読者にも示され、読者も参加してパズルを解いて行くかのような快感があった(「映画の方の「ダ・ヴィンチ・コード」は、長い原作を端折り過ぎて、原作未読の人にはちょっと辛かったが)。

わざわざ、タイトルが「THE CODE/暗号」と大きく出たのだから、ここは有名な暗号小説を真似てでも、観客参加型の暗号解読ミステリーにして欲しかった。

で、結局は暗号解読はざっと流して、宍戸錠対松方弘樹の、老人同士のガンアクション、に落ち着くという展開は、オールド・ファンには懐かしいが、そういう昔の俳優を知らない観客や、「探偵事務所5」シリーズのファンには物足りない、アクションもユルユル、謎解きも中途半端、というしまらない出来になっていたのは残念である。

そういう意味では、これは昔の、宍戸錠が活躍していた頃の、日活や大映や東映のB級活劇を楽しんだ世代には、それらへのオマージュや細かい裏ネタを探して懐かしみ、楽しむ作品と言えるだろう(それらについては後述の恒例お楽しみコーナーを参照)。

林海象監督も、おそらくそれらや、内外の探偵活劇に思い入れがあるのだろう。それはいいのだが、映画としては、昔を知らない人でもそれなりに楽しめ知ってる人は余計楽しい…という作品に仕上げるのが、プロの仕事ではないだろうか。採点は、作品そのものは★★程度だが、個人的にはいろいろ楽しめた分をおマケして…   (採点=★★★

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(では、お楽しみはココからである)
コードナンバー・500の、会長役を演じているのが、宍戸錠(役名も宍戸会長)であるのは、ちゃんと意味がある。

Tantei_23 宍戸錠の日活時代の代表作で、私立探偵役を演じたのが、大藪春彦原作「探偵事務所23」シリーズ。鈴木清順監督の「くたばれ悪党ども」(63)をはじめ2作が作られた。

で、2+3=5である。…つまり本作の主人公が属する“探偵事務所”とはすなわち、宍戸錠主演“探偵事務所23”(にじゅうさんではなく、ツースリーと読む)へのオマージュなのである(これも暗号か?(笑))。事務所名が、単に“5”であり、宍戸錠が事務所の最高幹部であるのは、そういうわけなのである。

細かい所では、宍戸会長が上海警察の幹部に会いに行った時、名刺代りに渡すのが、スペードのエースの中央に“JOE”と印刷したトランプだったりするし(宍戸錠の日活時代のニックネームは“エースのジョー”)、錠さんが西部のガンマンもどきに、ガンベルトを腰に巻き、拳銃をクルクルと回してストンと収める仕草は昔と変わらず、錠さん主演の和製西部劇(早撃ちは「シェーン」のアラン・ラッド並みだと宣伝された)を楽しんだ私などはウルウルしてしまった。

本作を配給したのが、“日活”であるのも嬉しい。

 
で、彼の恩師であり、陸軍中野学校の元スパイ、椎名次郎役を松方弘樹が演じているのも、同様に意味がある。

Nakanogakkou 中野学校の元スパイ、椎名次郎とは、'60年代、大映で作られたスパイ活劇「陸軍中野学校」シリーズの主人公である。演じたのは故・市川雷蔵。66年の「陸軍中野学校」(増村保造監督)を第1作として、5本が作られた人気シリーズである(1作目のみ主人公の役名は三好次郎。椎名次郎は2作目から定着する)。

で、何故松方なのかと言うと、ちょっと込み入った事情がある(笑)。

実は、雷蔵は大映のドル箱スターでありながら、病魔に冒され、'69年に37歳の若さで急逝してしまう。

慌てたのは大映である。稼ぎ頭のスターを失い、おまけにその前年には、ポスター序列で揉めた事が原因で、やはりドル箱の田宮二郎を当時のワンマン社長・永田雅一がクビにしてしまい、稼げるスターは勝新太郎しかいなくなっていたのである。

困った大映は、スターを多く抱える東映に頼み、当時やや精彩を欠いていた松方弘樹を借りて来て、市川雷蔵の後釜に据えようとしたのである。

なにせ、移籍第1作が、雷蔵の代表作「薄桜記」(59)のリメイク「秘剣破り」である。

そして以後は、雷蔵のヒット・シリーズを片っ端から松方主演で量産する。ざっと挙げると…
“眠狂四郎”シリーズ 「眠狂四郎円月殺法」「眠狂四郎卍斬り」(いずれも69年)
“若親分”シリーズ  「二代目若親分」(69)…そのまんまだ(笑)
“忍びの者”シリーズ 「忍びの衆」(70)

しかしそれでも大映の凋落を食い止める事は叶わず、松方の助っ人も焼け石に水で、大映は'71年に倒産してしまい、松方はたった2年足らずで東映に戻る事となる。

で、雷蔵2世(を会社がもくろんだ)松方弘樹が、雷蔵のヒット・シリーズ(2作止まりは除く)中、唯一主演映画化出来なかったのが、くだんの椎名次郎が活躍する「陸軍中野学校」シリーズなのである。

本作の松方が演じた椎名次郎役は、つまりは40年ごしにようやく実現した、幻の雷蔵の当たり役の再演だったのである。本人は感慨深いものがあるのではないだろうか。

 
最後にトリビアなネタを一つ。日活時代に宍戸錠が主演した冒険活劇に、「三つの竜の刺青」(61・野口博志監督)というのがあり、3人の男女の肌に彫られた刺青を寄せると、莫大な金塊の在り処が分かるというストーリーで、宍戸錠+莫大な金の財宝+在り処を示した刺青…と、本作との共通項がいくつかあり、最後も金塊が眠る洞窟での銃撃戦…という所まで似ている。本作のヒントになった可能性は大いにあり…と思う。残念ながらビデオもDVDも出ていないようだ。興味ある方は、CSかなんかで放映された時はお見逃しなきよう。

 

DVD 劇場版第1作 「5ナンバーで呼ばれる探偵達の物語」

DVD 宍戸錠主演 「探偵事務所23・くたばれ悪党ども」

DVD 市川雷蔵主演「陸軍中野学校」シリーズ(1、2作目)
  

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