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2006年7月30日 (日)

「日本沈没」

Nihontinbotu (2006年・東宝/監督:樋口 真嗣)

73年に大ヒットを記録したSF映画のリメイク。…とは言っても、後半のストーリー展開は原作及び前作映画とは全く異なっており、どちらかと言えば設定だけを借りたリ・イマジネーションと言った方が正しいだろう。

前作と比較して、物足りないとか、かなり落ちる…とかの声もあるが、なにせ前作は、脚本が「七人の侍」「真昼の暗黒」「切腹」「砂の器」などの日本を代表する巨匠・橋本忍、監督が黒澤明の一番弟子で、「首」「八甲田山」(どちらも橋本忍脚本)「海峡」「動乱」などの骨太作家・森谷司郎、プロデューサーが「ゴジラ」「世界大戦争」「妖星ゴラス」などの世界破滅ディザスター・ムービーの第一人者・田中友幸…と凄いメンツなのだから、初めから勝負にならない。

<注:以下、ややネタバレがあります。未見の方はご注意ください>


で、今回脚本・加藤正人、監督・樋口真嗣のコンビが取った方法は、前作の“国土を失った民族は、世界の中でどう生きるのか”という荘厳なメインテーマをばっさり捨てて、「アルマゲドン」ばりの“滅亡の危機から民族を守る一大作戦”テーマに方向転換を図る事であった。

これは思い切った冒険である。私は33年前のオリジナルも観ているが、主人公たちは、「何もせん方がええ」というセリフに象徴されるように(このセリフは本作にもオマージュとして出て来る)、ほとんど何もせず、ただ滅び行く日本を見つめているだけであった。
つまりは、前作(及び原作)は“運命には逆らえない”という無常観を漂わせた悲観的な作品であったと言える。

それに対し、本作はそのアンチテーゼとして、“運命は努力すれば変えられる”という前向きな発想を打ち出しているのである。

この方向性は正しいと思う。前作の作られた頃は、ちょうど五島勉の「ノストラダムスの大予言」がベストセラーとなっていて(翌年にはやはりこれも東宝で映画化された。出来は超トホホでありましたが(笑))、なんとなく終末観が漂っていた時代であり、その空気と旨くマッチして大ヒットしたのかも知れない。
しかし、今の時代にはそうした“座して死を待つ”空気はそぐわない。やはり“死中に活を求める”希望ある未来が必要ではないかと思う。

突っ込みどころは、探せばいくらでもある。地震で道路も鉄道も寸断されてるはずなのに、小野寺(草彅剛)はどうやって会津を始めあちこちに移動できるのか…とか、日本海溝にあれだけの爆薬埋めたのなら、ついでに起爆剤も一緒にセットしとかんかいっ…とか。まあそれ言っちゃ身もフタもないですが(笑)。

そういった難点を差し引いても、私はポスターにもある、“命をかけて、愛する人たちを守る”為に行動を起こした小野寺の勇気…を正攻法で描き、それなりに感動を呼ぶ作りになっている点を評価したい。

で、ラストにかけての展開は「アルマゲドン」だという声が多いが、私は“愛する人々を救う為”に、“帰れないのを承知で深海に深く降りて行く”という展開から、「アビス」(ジェームズ・キャメロン監督)を連想した。あちらは“爆弾をセットに行く”のではなく、“爆弾をはずしに行く”話でしたが…。

もっとも、こういう“人類を救う為に自己犠牲となる”主人公…という設定は、「ゴジラ」(54年の1作目)の芹沢博士(平田昭彦)をはじめ、「惑星大戦争」(77)の滝川艦長(池部良)など、東宝特撮映画の定番でもあるわけである。

そう考えれば、本作は東宝特撮映画に心酔して映画の世界に入った樋口真嗣監督の、東宝特撮映画へのオマージュ映画と言えるのかも知れない。そう思って観れば、結構楽しめるのである。

例えば、飲み屋“ひょっとこ”の常連たちが、今どきないだろう-と思うリヤカーに家財道具一式乗せて逃げて行くシーンは、これぞまさしく東宝特撮映画ではすっかりお馴染みのシーンである。

海溝に爆弾仕掛けて、マグマの向きを変える…という奇想天外な大作戦は、南極にロケットエンジンを仕掛けて地球の軌道を変える-という「妖星ゴラス」へのオマージュかも知れない。ヘンな怪獣の名前が“マグマ”ていうのは出来過ぎですが(笑)。

最後にネタを一つ。阿蘇山の噴火で首相の乗った飛行機が撃墜される…という展開は、“阿蘇山を人為的に噴火させて倒した”「ラドン」のタタリではないですかねぇ(笑)。

 (採点=★★★☆

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2006年7月26日 (水)

「時代劇ここにあり」(川本三郎・著)

Jidaigeki 映画の本の紹介です。

映画評論家・川本三郎さんが、小学館のコミック誌・ビッグコミック・オリジナル等に長期連載されていた、時代劇についての文章(当時のタイトルは「燃えよ!チャンバラ」)を1冊にまとめたもの。

連載中からずっと読ませていただいてましたが、こうやってまとまると、分厚くて読み応えがあるのは無論ですが(なんせ590ページもある!)、取り上げた作品に一貫した流れがあってまた新たな発見があります。

それは、“時代劇”と謳いながら、かなり傾向が偏っているということです。

なんせ、戦前から戦後に至るまで量産され、多くの観客を魅了し、テレビでは今も繰り返し登場する、「旗本退屈男」(市川右太衛門)、「遠山の金さん」(片岡千恵蔵)、「水戸黄門」(月形竜之介)、「銭形平次」(長谷川一夫)などの時代劇ヒーロー・時代劇スターがまったくといっていいほど無視されているのです。また、演じたスターはあまり有名ではありませんが、これも映画・テレビを通じて有名な「清水の次郎長」も登場しません。

この理由は川本さん自身があとがきで書かれていて、「本書は『笛吹童子』、『紅孔雀』によって時代劇を知った世代による時代劇映画論である」とあります。おお!私もまったくその世代の一人です。うーん、親近感が湧きますね(笑)。

さらに川本さんは、「時代劇で好きなのは、一匹狼のアウトローの孤独な戦いを描く、いわるゆ股旅もの…」であり、「股旅ものが好きになると、権力を背景にした、『旗本退屈男』や『遠山の金さん』、『水戸黄門』や『銭形平次』、あるいは個人より組織を描く『清水次郎長』などに興味がなくなってしまうのは仕方がない」 「本書は、股旅もの中心のきわめて偏った時代劇映画論である」と言い切っています。

こうしたポリシーに貫かれているわけですから、登場する作品もユニークです。

Tiyarihuji 最初に取り上げられた作品は、千恵蔵主演、内田吐夢監督の「血槍富士」(55)。身分の低い槍持ちが、主人が殺された事を知るや、憤怒の形相で槍を無茶苦茶振り回し、泥まみれになって闘う。退屈男や遠山の金さんらの型にハマったチャンバラではありません。リアルで凄惨な立回りです。後の東映集団時代劇、さらには実録路線の遠い先駆けであると言えましょう。千恵蔵が登場する作品はこれと、その集団時代劇の最高傑作「十三人の刺客」のわずか2本のみです。徹底してます(笑)。

Sekinoyatappe そして2本目に登場するのが、私の大好きな「関の彌太ッペ」(63・山下耕作監督)。中村錦之助主演の股旅映画の最高傑作と言われている名作です。以後、錦之助や市川雷蔵主演の股旅もの孤独なアウトローものを中心に105本の時代劇映画が紹介されて行きます。

主演スターの統計を取ってみました。なんとまあ、市川雷蔵がダントツの15本!。中村錦之助が12本、三船敏郎が10本…と続きます。雷蔵、錦之助が多いのは、この二人の主演作に股旅ものやアウトローものが多いからでしょう。

監督を集計してみたら、こちらも雷蔵作品が多い三隅研次がダントツの11本。もっとも、雷蔵だけでなく、勝新太郎の「座頭市」2本、若山富三郎の「子連れ狼」4本も含めてですが。
以下、加藤泰6本、岡本喜八森一生内田吐夢各5本…と続きます。

こういう傾向を見ても分かるように、古くからの日本映画…それも、どちらかと言えばプログラム・ピクチャーを中心に観ている人ほど楽しめる作りになっております。

特に感動!したのは、ほとんど世間には知られていない、集団時代劇の最初の傑作「十七人の忍者」(53・長谷川安人監督)を取り上げている事です。脚本は、今や時代小説の第一人者である池宮彰一郎こと池上金男。氏の最初の傑作脚本です。「十三人の刺客」が好きな方には絶対のお奨めです。この映画が分かる方は本当のツウです(笑)。

Juubei その他では、これも集団時代劇の傑作「十兵衛暗殺剣」、沢島忠監督の最後の傑作?「股旅/三人やくざ」、加藤泰・錦之助コンビの「風と女と旅鴉」、石井輝男監督の日本版「地下室のメロディー」-「御金蔵破り」、菊島隆三脚本の竜馬暗殺の謎を探るミステリー時代劇「六人の暗殺者」など、そのチョイスの鮮やかさにはニンマリしっぱなし。雷蔵ものでは、実に軽いコメディ時代劇「浮かれ三度笠」を取り上げているのも嬉しいやら笑えるやら…。

多分、オーソドックスな時代劇ファンからは反撥が出るかも知れません。黒澤明作品ですら3本しか入っていないのですから。

しかし、冒頭でも触れたように、これは川本さんの“一匹狼のアウトローの孤独な戦い”を描いた作品を中心に据えるという一貫したポリシーの元に編纂されているわけですから当然のことなのです。

そういう意味では、読者を選ぶ本であるとも言えます。しかし、遅まきながらも錦之助の「関の彌太ッペ」や、千恵蔵の「十三人の刺客」や、雷蔵の「ひとり狼」などの、プログラム・ピクチャーが最も栄えた1960年代の時代劇の面白さが分かりかけた方にとっては格好の時代劇入門書であると言えましょう。

私的には満足のおススメ本です。

あと、欲を言えば個人的には私の大好きな次の作品も取り上げて欲しかった所ですが…。あくまで個人的な好みの問題ですが。

「鴛鴦歌合戦」(39・マキノ正博監督)…和製シネ・オペレッタの楽しい快作。
「次郎長三国志・海道一の暴れん坊」(54・マキノ雅弘監督)…次郎長ものは取り上げないそうですが、これだけは別格にして欲しい名作です。
「隠し砦の三悪人」(58・黒澤明監督)…痛快波乱万丈冒険大活劇の最高傑作。
「東海道四谷怪談」(59・中川信夫監督)…我が国怪談映画の最高傑作。
「忍者狩り」(64・山内鉄也監督)…集団時代劇の傑作の一本。

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2006年7月21日 (金)

「タイヨウのうた」

Taiyounouta_2 (2006年・ROBOT/監督:小泉 徳宏)

早朝、高台にある家の窓から、遠くのバス停を眺めている少女の姿から映画は始まる。

やがてバス停にやって来た、一人の少年をじっと遠くから見つめる少女。少年の一挙手一投足に微笑み、憧れるように凝視し、そして停留所の標識に少年の顔が隠れると悲しそうな顔になる…。

そうするうち、少年は友人たちと去って行く。それを見届けた少女は、つまらなさそうにブラインド(フィルターのような色が付いている)を降ろし、太陽が昇りかけているのにベッドに入る…。

セリフも、何の説明もないが、これだけで、少女は昼、外に出られない事情があり、退屈しのぎに外を眺めるうち、この少年に恋をした…という経緯が観客にも理解出来ると同時に、この少女に即座に感情移入する事となるのである(少女は、紫外線に当ると命にかかわるXPという病気なのである)。

旨い導入部である。カットの切り返しも巧みである。何でもないようだが、こうした丁寧な演出は最近なかなかお目にかからない。私は思わず居住まいを正して画面に見入った。

つい最近、「初恋」という、同じように少女の初恋がテーマでありながら、まるで感情移入出来ない凡作を観たばかりなので余計気に入った。「初恋」の監督に言いたい、この映画を観て少しは反省しなさい(笑)。

私がもっと気に入ったのは、題材がいわゆる難病ものであるにも拘わらず、全体に明るく、さりげなく笑わせるシーンが多いことである。

ある夜、バス停を通りかかった少女は、少年の顔を隠したくだんの停留所標識を引きずって移動させる。笑えるが、これはまた少女の一途で健気な思いを伝えるいいシーンでもある。―その後、バスがやって来ると運転手によって早々と標識が元に戻され、少女がガックリするオチもおかしい。
この標識にしろ、少女の弾くギター、ロウソク、ビデオカメラと小道具の使い方もうまい。

少女がある日、意を決して少年に思いを伝えるシーンも出色。不器用だけれど、一途な思いが伝わる。難病にめげず、元気に明るく生きている少女の姿に、笑いながらも観客はいつしか応援したくなる。

少女の父のキャラクターがまたいい。子供を思いやる反面、威勢が良く軽口を叩くユーモラスな面も見せて、作品全体のトーンを支えている。岸谷五朗好演。

そして、演出の冴えを見せるいいシーンがある。

ある日、とうとう少年と少女は一夜のデートをする。バイクで遠出し、時間が過ぎるのも忘れ、海岸で話し込む。少年は「一緒に太陽を見よう、あと10分で日の出だ」と言う。少女は時計を見て愕然となる。彼女は太陽の光を浴びてはいけないのだが少年は知らない。

ここから、一刻も早く家に着かねばならないというタイムリミット・サスペンスが訪れる。ようやく異変を感じた少年はバイクに少女を乗せ、彼女の家に向かうが、空はどんどん明るくなって行く。走るバイク、明るくなる空、やがて山合から太陽の光が射して来る…。これらのシーンを短いカットバックでつなぐ演出テンポが絶妙である。

やっと家に着き、高台の家への階段を駆け上がり、玄関のドアを閉めると同時に射してくる太陽…。観客はよかった…と胸を撫で下ろす。スリリングで緊迫感溢れるこのシークェンスの演出は、サスペンス映画も顔負けである。

並みの難病ものとは明らかに異なる作品である。
普通なら、これ見よがしに、ここで泣いてくださいとばかりに登場するあざといシーンがほとんどない(例えば、突然倒れたり、周囲の人間が泣き崩れたり、病室に駆けつけたり…等)。

彼女の病気が進行した事を示すシーンも、ギターのFが弾けなくなる事で現すあたり、秀逸。苛立ち、弦をかき鳴らしても不協和音にしかならない。この不協和音はまた、少女の内面心理を伝える効果音も兼ねているのである。
セリフで説明せず、こうした間接描写などで状況を伝える演出が至るところに見られる。

ラスト間際、海岸で防護服を来た少女が少年のサーフィンを眺めるシーン。
死期が近い事は前後の状況から観客には分かる。
重たそうな防護服でよたよた歩く少女を見て、父親は思わず「そんなもの脱いじゃえ」と言う。声は軽いが、どうせ死ぬならその前に思いっきり太陽の下で遊ばせてやりたい…という、親としての悲痛な思いが隠されている。
それに対し少女は「私、生きるんだから。もっともっと生きるんだから」と精一杯明るい声で応える。少年に対してもおどけてみせる。

私はここで泣けた。他の難病ものに比べ、ずっと明るくてくったくがないのに、どんな難病ものよりも泣ける。

それは、死に直面してもなお、生きているという事は素晴らしい事であると訴え、与えられた短い命を大切にし、素敵な歌を残し、誰よりも精一杯生きた少女の思いがヒシヒシとこちらに伝わって来たからである。

この後、画面は向日葵に埋もれた少女の葬儀シーンに飛ぶ。

これが唐突ではないかという声もあるが、私はこれで正解だと思う。この物語に、辛気臭い場面は不要だからである。日本映画は昔から情緒過多でダラダラしたシーンを入れたがるが(先だっての「LIMIT OF  LOVE 海猿」でも恋人との長い電話シーンにうんざりした所だ)、そんな悪しき習慣からそろそろ脱却して欲しいと思っていただけに、この大胆な省略はまさに我が意を得た思いである。

そしてラスト、少女の歌がラジオのヒットチャートに昇った事を伝えるシーンも、音楽だけでセリフは一切ないのも小気味良い。

爽やかな初恋、溢れるユーモア、軽やかなタッチ、省略と間接話法から生まれる快適なテンポ、そして緊迫感に満ちたサスペンス描写…。まさに緩急自在、演出テクニックが冴え渡っている。

監督は誰かと見れば、小泉徳宏。初めて聞く名前である。実はまだ25歳!と聞いて驚いた。凄い新人が出て来たものである。

この若さでありながら、観客を映画に引き込む見事な演出ぶり。まさにスピルバーグのデビュー時を思わせる。これからが楽しみな、日本映画のホープである。イチ押ししたい。

少女を演じたYUIがいい。本職はシンガー・ソングライターで演技的にはこれからだが、ひたむきさ、一途な思いがよく伝わって来たし、何より、自分でギターを弾き、歌ってるだけに、歌うシーンは画面に引き込まれる。言っちゃ悪いがテレビドラマの方は見る気がしない(笑)。

今年の日本映画では、将来性では一番の佳作である。お奨めしておきたい。

製作した映画会社、ROBOTについても言及しておきたい。「踊る大捜査線」「海猿」などのビッグヒット作を生み出す反面、「ジュブナイル」「リターナー」「ALWAYS 三丁目の夕日」の山崎貴監督を世に送り、そして今回は新人小泉徳宏をデビューさせた。その他にもユニークな作品が目立つ。この会社の作る作品は、今後も要チェックである。

 (採点=★★★★☆

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2006年7月16日 (日)

「初恋」

Hatukoi (2006年・GAGA/監督:塙 幸成)

三億円事件は、今も強く心に焼き付いている、あの時代を代表する大事件だった。

当時としての金額の大きさ(今の貨幣価値なら30億円!)のみならず、誰も傷つけず、見事に成功したうえ、警察の大捜査にも係らず、時効が成立・・・しかも未だに犯人も、金の行方もわからないまま…。

こんな、多額の強奪事件で、完全犯罪が成立した例は史上空前である。
その為、映画、テレビ、小説、ノンフィクション…あらゆるメディアで取り上げられ、いろんな犯人像が推理されたり、それらの中で描かれた。

映画では、今は東映社長である岡田裕介が犯人役の「実録三億円事件・時効成立」(75・石井輝男監督、原作は清水一行)とか、田宮二郎主演の喜劇仕立て「喜劇・三億円大作戦」(71・石田勝心監督)とか、変りダネではクレージーの植木等が犯人を演じたドタバタコメディ、「クレージーの大爆発」(69・古沢憲吾監督。なんと事件の翌年に作られた!)などがあり、テレビでは沢田研二が犯人役の「悪魔のようなあいつ」(脚本:長谷川和彦)などがある。

まあそれほど、この事件はいろんなクリエイター達の創作意欲を刺激した…と言えるだろう。

で、これまではほとんどすべて、犯人は成人した男であったのだが、本作ではなんと、犯人は女子高校生!だった、というのである。

これは意外な盲点である。それなら、未だに捕まらない理由としては頷ける(警察は男性ばかり追いかけてただろうから)。

う~ん、これは案外面白い映画になるのでは…と期待したのだが…。

 
アイデアとしては面白いのだが、ストーリーもキャラクターも演出も、すべて凡庸である。

なぜ女子高校生なのか、なぜ夥しい遺留品を残しながら犯人に辿り着けなかったのか、なぜ金がまったく使われなかったのか・・・

そうした、多くの疑問点に、納得出来る答がほとんど用意されていない。

主犯は、東大生の岸(小出恵介)で、彼がすべて計画した事になっているが、彼がどうやって白バイのニセ部品を調達し細工したのかがまったく描かれていない(相当の機械知識が必要と思われるのだが。東大生に出来るとは思えない)。
女子高生のみすず(宮崎あおい)が現場に行ったら、もう白バイがあった…という描写は明らかに手抜きである。

あるいは、老バイク店主(藤村俊二)が手伝ったのかも知れないが、そう思わせる伏線がどこにもないし、画面で見る限りは、まったく関係がないようにしか見えない。

そのくせ、みすずが事件を起こす前後の描写は、白バイが水溜まりに嵌ったり、シートを引っ掛けたり、やたらディテールにこだわっている

要するに全体のバランスが取れていないのである。

 
犯罪を描くことより、心理描写や人間の内面を描く事に主眼を置いた…とするなら納得出来る場合もある。

しかし、肝心の人物描写もまたおざなりである。
ジャズ喫茶・Bにたむろする若者たちの人物描写が平面的で、掘り下げが浅い。

彼らが、みすずにどう関わっていったのか、兄である亮(宮崎将)の行動がみすずにどう影響を与えて行ったのか、みすずが岸に何のきっかけで心を寄せ、どんな心の変化を経て大犯罪に加担する気になったのか、あるいは岸はなぜこの事件を計画したのか(そもそもジャズ喫茶に入り浸る学生がなんで東芝府中工場のボーナスの事を知ってるのか)・・・

そうした重要な部分がほとんど描かれていない。これでは主人公たちに感情移入する事も出来ない。

岸とみすずを除く若者たちが、二人にまったくと言っていいほど関わらないのも不思議である。機動隊に殴られ、警察に恨みを抱くプロセスまで描きながら、結局何もしないのでは、何の為に彼らは登場したのか(そのくせラストでは彼らのその後をアメ・グラ並みにテロップで説明している丁寧さも理解に苦しむ)。彼らも共犯者ならまだ納得出来るのだが…。

そもそも、タイトルに「初恋」と謳うのなら、みすずが、岸に淡い恋心を抱くまでのプロセスを丁寧に描くべきだし、岸がそれにどう応えて行ったかも描かれなければならない。

映画を見る限りでは、みすずは打ち明けられた犯罪計画の方に興味を抱いたようにしか見えないし、岸も、単にみすずを利用しただけのようにしか見えない。

そして、三億円はどうなったのか…。トランクを開けて札束を確認するシーンもない(予算がなかったのか?)し、どこに隠したのかも、その後どうなったのかも描かれていない。
若者たちのその後より、三億円のその後の方が、こっちは知りたい(笑)。

 
この映画で一番ダメなのは、他で何度も書いているように、“伏線”がほとんど用意されていない点である。
犯罪ものにしろ、人間ドラマにしろ、周到な伏線をあらかじめ張っておれば、後半に意外な展開があったとしても説得力を持ち得るのである。

まあ文句ばかり言ってきたが、事件を描くのか、“初恋の行方”を描くのか、せめてどちらかだけでもキチンと描いてくれたならまだマシだった。どっちも中途半端では話にならない。

アイデアの面白さに期待しただけに残念である。

Eureka2_1  なお、実の兄妹である宮崎将と宮崎あおいは、6年前の「EUREKA<ユリイカ>」(青山真治監督)という、バスジャック事件に遭遇した人たちのその後を描いた映画にやはり兄妹役で出演している。こちらは素晴らしい傑作だった。時代を反映した社会的事件…という共通性もある。興味ある方はどうぞ。但し上映時間は3時間37分!とムチャ長いので注意されたし。     (採点=★★

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2006年7月13日 (木)

「東京少年」(小林信彦著)

Tokyoboy 久しぶりの、最近読んだ小説のご紹介。

小林信彦さんは、ずっと以前から大のファンです。著作物のほとんどは読んでます。

レパートリーの広い方で、中原弓彦という別名で、ミステリー雑誌「ヒッチコック・マガジン」の編集長をまかされたり、「日本の喜劇人」、「世界の喜劇人」、「おかしな男 渥美清」他の喜劇人たちについての評論集もあれば、ジュブナイル小説「怪人オヨヨ大統領」シリーズ、映画にもなった抱腹絶倒パロディ小説「唐獅子株式会社」シリーズ(映画ファン必読)、パスティーシュ小説「ちはやふる奥の細道」(外国人が間違った日本観で書いたものを小林氏が翻訳した…という設定)、タイムスリップSF「イェスタディ・ワンスモア」もあれば、純文学「ぼくたちの好きな戦争」、そして映画評論、コラムものと実に多彩。どれも独創的で他の追随を許しません。しかも根底には映画、演劇、寄席芸を含めた大衆芸能に対する熱い思いが溢れています。

本書は、これまでも一部で書いて来た、戦争中の学童疎開がテーマです。小林さん自身の12~3歳の頃の体験を描いた、本人によれば、「自伝的作品であるが、自伝ではない」小説だそうです。つまり一部は誇張、フィクションがあるという事です。

小林さんの小説やコラムを読んでると、敗戦後、マスコミや教師が主体性をコロっと変えた(つまり戦争中は国家の戦争礼賛、戦後は民主化推進)ことに根強い不信感を持っており、いまだにマスコミやエラい人(総理大臣も含む)を信用していないようです。そのルーツは、この学童疎開の時代にある事が分かります。

決して、楽しい作品ではありません。しかしあの時代を肌で体験した小林さんならではの思い、そして「今、こんな時代だからこそ書いておかねば」という決意がこちらにも伝わって来ます。何より、“子供の目から見た戦中戦後”という主題がユニークです。
小林さんのファンは無論のこと、終戦前後の時代に興味のある方にお奨めです。

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2006年7月10日 (月)

「花よりもなほ」

(2006年・松竹/監督:是枝裕和)

Hanayorimo 「誰も知らない」で内外から高く評価された是枝監督の新作。

今回は一転、時代劇コメディである。まあ、かつて「ワンダフルライフ」と言うファンタジーものも手掛けており、決して重苦しい作品ばかりを作っているわけではない。
ジャンルを縦横に行き来する、是枝監督の柔軟な姿勢は好ましい。

テーマはズバリ、仇討ちの是非…である。

2種類の仇討ちが登場する。主人公、青木宗左衛門は、父の仇討ちの為、江戸へ出てきて長屋で暮しながら仇を探している。しかし腕はからっきしダメ。だから仇を見つけても見守るばかりでなかなか仇討ちに踏み切れない。

もう1組は、同じ長屋に住む赤穂の浪人たちによる、吉良上野介宅への討ち入り…有名な忠臣蔵の話である。

赤穂浪人たちは、一国も早く討ち入りしたいのに、家老大石内蔵助が決断しないものだからジリジリしている。

彼らは、“赤穂浪士”という名の組織の一員だから、組織を乱す行動は取れないのである。(その間、江戸町民からは“腰抜け”と嘲られている)

対して、宗左衛門の方は一人だから自由気まま。そして本心は…どうやらあまり仇討ちには乗り気でないようである。出来れば仇討ちせずに郷里に帰りたい…。

その結果が、ラストの何ともスッとぼけたオチに繋がるのである。

(以下ややネタバレになります。未見の方はご注意)

 

 

赤穂浪士の方は、ようやく大石の決断が降りて吉良邸討ち入りに向かう。

しかしその途中、宗左衛門と仲の良かった寺坂吉右衛門は、突然隊列から外れ、帰って来てしまう。

彼も宗左衛門に感化され(?)、仇討ちなんて無意味だ…と思ったのかも知れない(かどうかは作者はうまくボカしているが)。

吉右衛門が討ち入り後に姿をくらましたのは事実で、その理由は内蔵助に頼まれ、赤穂へ討ち入りの仔細を伝える為だとか(これが一番有力)、いろいろ説があるが、真相は不明である。

映画は、その史実を元に、“真実なんて、案外こんなものかも知れない”…という皮肉なオチをつけている。

そうした皮肉を交えて、是枝監督は、浪士たちの武士道精神と組織に縛られた窮屈さと、長屋の住人たちの、金はないけど何にも縛られず自由で屈託のない生活ぶりを対比させて、サムライの意地仇討ちという復讐装置のバカバカしさ……を徹底的にコケにし、笑い飛ばしているのである。

とは言え、是枝監督の生真面目な性格が災いしてか、いま一つハジけたコメディの快作にまでは至っていない。ウェルメイドな出来ではあるが、どこか物足りない。それが残念である。

 
(さて、お楽しみはココからだ)
長屋もの時代劇…というジャンルは、昔は良く作られていたが、高度成長期に入ってからはバッタリ作られなくなった。時代劇は金がかかるうえに、“貧乏”が次第に現実味を失って来たからだろう。

そうした作品をいくつかピックアップしておこう。
ちなみに、ほとんどは落語をネタとしている。

「落語長屋」シリーズというのがあった。エノケンこと榎本健一主演で、「落語長屋は花ざかり」(54)を第1作として数本作られた。柳家金語楼、森川信など当時のコメディアンが多数出演していた。

マキノ雅弘監督の「江戸っ子繁昌記」(61)は、落語の「芝浜」と、怪談番町皿屋敷(お菊と播磨)をミックスした珍品。中村錦之助が長屋の魚屋と播磨の2役を演じた。

落語・漫才が大ブームとなった66年頃には、落語家や漫談家を大挙主演させた「落語野郎」シリーズというのがあったが、これはつまらなかった。大体、落語家は喋りは旨くても、演技はダメである。しょうもないギャグだけではもたない(山のアナアナ…―古いな(笑)-は一世を風靡したが今は寒いだけである(笑))。

そんな中で私が大好きなのが、山田洋次監督の「運が良けりゃ」(66)である。

自身も落語の台本を書いている大の落語ファンである山田監督が、落語の「らくだの馬さん」、「寝床」、「黄金餅」などをアレンジして、庶民のバイタリティを絶妙の間で描いている。凄くリアルな長屋のセットとか、掃溜めに鶴の美人(倍賞千恵子)とか、肥汲み屋とか、本作に共通するネタもある。

是枝監督は、こうした落語ネタをかなり調べた形跡が窺える。国村隼演じる大家の伊勢勘などは落語に登場する大家そのまんまである(ちなみに、落語に登場する大家の名前は、大体は“伊勢屋宗右衛門”である)。ニセの死体で代官所をだますくだりも落語っぽい。

なお、長屋と仇討ちの両方が出て来るのは、これもマキノ雅弘(稲垣浩と共同)監督の「決闘高田の馬場」がある。主人公は後に赤穂浪士となる中山安兵衛。
本作と縁が深い映画と言えよう。

 (採点=★★★★

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2006年7月 7日 (金)

「嫌われ松子の一生」

Kirawarematuko (2006年・東宝/監督:中島 哲也)

ようやく今日、観ることが出来た。ナビオ東宝プレックスはいつ行っても満員札止め。空振りする事4度!。大ヒットしてるのは嬉しいのだけれど、観たいのに観れないのはフラストレーションが溜まる。東宝も融通が利かない。もっと大きな劇場でやらんかいっ

さて、この作品、観た人の評価は絶賛不評が合い半ば。確かに、原作からは想像も出来ない、ポップでカラフルな映像にコミカルで、かつミュージカル仕立てになっているのだから。

あの快作「下妻物語」の中島監督作品であるから、並みの作りではないとは予想しても、ここまでとは誰も思わないだろう。題名からイメージするに、多分「鬼龍院花子の生涯」のような作品と思った人もいた…のじゃないかな(そこまで期待しないって(笑))。

しかし、私は面白かった。楽しんだ。見事な快作であった。
何故面白かったか―。作品評とは離れるかも知れないが、その理由を以下に述べることとする。

 

この主人公の生涯は悲劇的である。とても悲しい。
しかし、悲しい話を悲しいまま、ストレートに描いても、それは面白くない。監督もそう考えたのだろう。

そこで中島監督が考え出した手法―― それは、悲劇の物語に、それとは正反対のテクニック=笑いとポップな味付け…を掛け合わせ、そこから生ずる不思議な効果を映画のエネルギーに転換したのである。…違う種類の薬品を混合することでまったく新しい成分を生み出す“科学反応”のようなものである(特に、父親に愛されたいあまりにクセのようになってしまった、寄り目に口を尖らせる、所謂“ひょっとこ顔”は、普通の監督ならまず思いつかないぶっ飛んだアイデアである。―無論、原作には出て来ない)。

一つ例を挙げよう。
山田洋次監督の大ヒット・シリーズ、「男はつらいよ」。これはコメディの傑作であるが、実は悲しい物語なのである。

中学生の時に親と大喧嘩して家を飛び出し、あてもなく日本中を放浪し、ヤクザな稼業を生業とし、生活は最低レベル、短気で喧嘩っぱやく、周囲にトラブルを撒き散らす嫌われ者、そのうえ顔は不細工、いろんな女性に惚れてはいつもフられて惨めな思いをする。そしてテレビ版のラストでは、南の島でハブに噛まれて野たれ死にしてしまうのである。

まるで川尻松子の生涯とそっくりである。上のような梗概だけを読んだら、とても悲しく惨めな話と思ってしまうだろう。

それを山田監督は大笑いするコメディに仕立て、これが多くの人の共感を呼んで国民映画にまでなってしまった。これもまた“科学反応”の成功例である。

もう一つ、同じ山田洋次監督の、あまり知られていない傑作に「吹けば飛ぶよな男だが」(68)というのがある。

しがないチンピラ、サブ(なべおさみ)が主人公。カツあげや美人局などでなんとかシノいでいる惨めな人生。家出少女の花子(緑魔子)を売り飛ばそうとするが、いつか惚れてしまう。しかしサブはつまらない喧嘩で刑務所に入り、その間に花子は流産の出血で誰にも看取られずに死んでしまう。出所したサブはそれを知って号泣する…。

なんとも暗く悲しい話である。しかし山田監督はこれを、脇に有島一郎、ミヤコ蝶々、犬塚弘、佐藤蛾次郎(実質デビュー作)などの達者なコメディアンを配して喜劇に仕立て、なおかつ全体の進行とナレーションをなんと、活動弁士に扮した小沢昭一に語らせる…という大胆な手法を使った。街中をサブを探してあてどなく彷徨う花子の姿に小沢が、「泣け、花子、サブの為に泣け~っ」と活弁口調で絶叫するのだから、悲しいのに笑いがこみ上げる。ここにも山田流の相反する要素を混ぜ合わせる科学反応を見ることが出来る。

私はこの作品を観ている間中は笑っていたが、ラストでは号泣していた。山田作品中では最も好きな作品であり、隠れた秀作として山田洋次映画の裏ベストテン(!?)の1位に推したい作品である(ちなみに私の選ぶ山田洋次裏ベスト5は、以下「馬鹿が戦車でやって来る」「運が良けりゃ」「喜劇・一発大必勝」「九ちゃんのでっかい夢」となる。うーん、アマノジャクだなぁ(笑))。

山田洋次監督は以前、次のようなことを語っていた(記憶が曖昧になっているので多少違っているかも知れない)。

「哀しい話を悲しく、暗く描く事は簡単である。しかし哀しい話を笑いの中で描くのはとても難しい

そうした作品をずっと作って来て、評論家からも観客からも絶賛されて来たのだからまったく凄い事である。まさに天才のなせるワザである。

もう一つの例を挙げよう。
黒澤明監督の、映画史上に残る傑作「七人の侍」(54)。重厚かつダイナミックな名作だが、この中に一人、場違いなキャラクターがいる。三船敏郎扮する菊千代である。おどけ、フザけ、笑わせるコメディ・リリーフ的な役柄である。…だが、登場人物の中で一番悲惨で哀しい人生を歩んで来たのもこの男なのである。黒澤監督は脚本を練る中で、どうしてもジョーカー役が必要だと考え、本来は久蔵役(宮口精二が演じた凄腕の侍)だった三船を急遽こちらに回したそうだ。

これもまた、哀しい話を笑わせつつ描いた、“化学反応”の例である。重厚かつダイナミックな時代劇を撮る監督は、稲垣浩、伊藤大輔、内田吐夢、三隅研次…等々数あれど、こういうキャラクターを生み出した監督は黒澤だけである。天才は常人には及びもつかない発想をするのである。

しかも映画の中盤、村の子供たちの前で講釈を垂れる菊千代は、オマンマが食べられなくなったら…という例として、目を寄せ口を尖らす“ひょっとこ顔”をして見せるのである。

なんたる偶然か。いや、ひょっとしたら中島監督は松子のキャラクターを創造して行く中で、この菊千代をヒントにしたのかも知れない。その可能性は十分にある。

 
脱線ついでにもう一つ、これも若き天才監督、山中貞雄の「丹下左膳餘話・百萬両の壷」において、それまではニヒルで陰惨、グロテスクなキャラクターだった左膳を、なんと世話女房に頭が上がらない、マイホーム教育パパにして作品全体をコメディにしてしまったのである。原作者の林不忘がこの改変にツムジを曲げたので題名に“餘話”を入れることになったということである。これもまた見事な科学反応の例。

ええい、さらに追加。鈴木清順監督の「東京流れ者」(66)は、本来は日活の単なるB級アクションであったのが、なんとまあ、ポップでカラフルで、なおかつミュージカルという楽しい怪作に仕上がっていた。「嫌われ松子-」で中島監督が目指した方向と一緒ではないか。

 

長々と書いて来たのは、これらの監督はいずれも天才と呼んでもいい人たちばかりで、しかもどの作品も、哀しい話や虚無的なヒーローの話を、思いっきりはじけた笑いやポップな装いを網羅して、結果的に主人公の悲しみをより強調させつつ、観客を楽しませようとする素敵な作品に仕上げ、しかも多くは映画史に輝く名作となっているのである。

中島監督による本作が、天才の仕事であり、後世に残る傑作になるかどうか…は定かではない。

しかし、哀しい話を、凝りに凝った絵作りや、さまざまな化学反応を駆使していかに観客を楽しませつつ描くか…という点においては先人たちと同じ方向を目指しているのは間違いないと思う。

その方向性に私は共感し感銘を受けた。

終盤にかけて、誰も信じられなくなった松子が、久しぶりに訪ねてきた友人、沢村めぐみ(黒沢あすか)を最初は追い出し、名刺も捨ててしまうが、やがて夜中に飛び出し、必死の思いで名刺を探すシーンにはジーンと来た。

人を信じ、もう一度人生をやり直そうと思ったのかも知れない。
その矢先のあっけない死。

人間の一生とは、そういうものかも知れない。諸行無常である。

そして、最後に、彼女をずっと愛し、待ち続けていた妹の所に松子(の魂?)は帰る。

「ただいま」   「おかえり」  ・・・・・

心がふっと温かくなる、素敵なエンディングである。

 

松子が、昭和22年生まれ…というのも私のツボである(同世代である)。

さまざまな昭和の想い出、万博、オイルショック、「平成」を掲げるオブチ官房長官。・・・

さりげなく描かれた、そうしたシーンにも是非目を配っていただきたい。傑作である。

 (採点=★★★★☆

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2006年7月 2日 (日)

「カーズ」

Cars (2006年・ピクサー/監督:ジョン・ラセター)

CGアニメ界を常にリードして来た、ピクサー社の新作で、しかも監督がピクサーの総帥、ジョン・ラセター。実に7年ぶりの監督復帰である。

大いに期待する半面、ちょっと心配もあった。なぜなら、同じく監督業を休業して製作総指揮に回っていたジョージ・ルーカス久々の監督復帰作「スター・ウォーズ・エピソード1」が駄作だったからである。やはり永年のブランクは大きいと思った。

おまけに、これまでの“おもちゃ”、“虫”、“お化け”、“魚”などは一応生き物か、手足のある、擬人化し易いものだったのに、“車”という表情も手足もないメカを主人公にするというのは相当な冒険(と言うか暴挙)である。果たして楽しめる作品になっているだろうか・・・と不安を抱きつつ観た。

結果として…面白かった。いや、ピクサー作品としては「モンスターズ・インク」以上に感動した。これは本年でもベスト3に入れたい心温まる秀作であった。

まず何より、キャラクター造形が素晴らしい。フロント・ウィンドウを目玉にする…という発 想が秀逸。マブタもあるし。これで凄く表情が豊かになった。パトカーはいかにもちょっと冷たくてコワそうだし、町の重鎮、ドック・ハドソンは老獪さと渋みがにじみCars3出ている。レッカー車のメーターは人懐っこくて愛嬌があるし、ヒロインのサリーはマブタにアイシャドーがかかってる!(笑)。どうでもいいけど、ちょっとクレヨンしんちゃんに似てます←(笑)。

CG技術はさらに進化している。車のボディには周囲の風景が映ってるし、山の上から見たアリゾナの広大な自然は実写と見まがうほどリアル!
細部のこだわりはハンパじゃなく、サーキットのタイヤスリップ跡、タイヤのゴム滓が走行の都度飛び散ったり、ハドソンの物置では舞い上がったホコリが差し込む陽光に反射しているところまで描いている(アニメでそこまでやりますか!)。

Cars2  

 

 

 

そうした技術的な素晴らしさにも十分堪能出来るが、
この映画の素敵な所はそれだけでなく、“人が生きてゆくうえで、本当に大切なものは何なのか。勝つことよりも、速く走ることよりも、もっと大事なことを忘れてはいないだろうかという点にテーマを絞り、それをきちんと描いている所にある。

主人公のマックィーンは、レースに勝つことだけが目標の傲慢な若者。友人もいないし、信頼出来るピットクルーもいない。

そんな彼が、レースの最終舞台カリフォルニアに向かう途中、ひょんなことから幹線道路から外れた小さな田舎町“ラジエーター・スプリングス”に迷い込んでしまう。

おまけに、パトカーに追われ、慌てて逃げるうちに道路を壊し、裁判の結果、道路を修復するまで町を出る事を禁止される。

レースに出たいマックィーンは何度か町を逃げ出そうとするが、その都度捕まり、渋々工事車を牽引して道路工事をする事となる。

だが、人懐っこいメーターや、純朴な町の住人、愛らしく、世間から見捨てられたようなこの町を心から愛しているサリーたちと暮すうち、マックィーンは次第にこんな田舎町もいいもんだと思い始めるようになる。

そのマックィーンの心境の変化を観客に納得させる為には、サリーに案内されてマックィーンが見た、町はずれの山から望むアリゾナの大自然の風景を雄大かつ美しく描く必要があるのである。

ラストでマックィーンが選択する、ある勇気と決断には、目頭が熱くなる。
それが前述のテーマである。

マックィーンは、勝つことよりも、本当に大事なものを得たのである。

 

観終わって、古く懐かしい、アメリカ映画のいくつかの秀作を思い出した。

フランク・キャプラ監督「のいくつかの名作「素晴らしき哉、人生!」「我が家の楽園」「オペラハット」・・・

シドニー・ポワチエが、荒野の真ん中に教会を建てる工事をするハメになり、最初はイヤイヤながら、やがては進んで工事に取り組む…というラルフ・ネルソン監督「野のユリ」(63)…。
特にこれは、舞台の土地もアリゾナという共通点もある。

まさか、21世紀、コンピュータ・グラフィック、自動車…というハイテク・アイテムだらけの映画で、キャプラ的世界を味わうとは思っても見なかった。
CGが格段に進化しても、人間味や温かいハートは少しも失っていない。むしろ、近代化、ハイテク化が進む中で多くの現代人が失ってしまっているモノが、ここにはある。

それだけに、余計感動したのである。

オトナが見ても感動する見事な傑作だが、子供にも是非見せてあげて欲しい。きっと大切な何かを学ぶはずである。
特に、物を壊したら、必ず償いをしなければならない…というモラルを頭に教え込むには持ってこいである(笑)。

アニメでは、とかく派手にモノをぶっ壊したまま、後始末を何もしない…という作品がほとんどだけに、これには溜飲が下がりました。見習って欲しいですね。

エンドクレジットも、いつもながら楽しい。過去のピクサー作品のパロディには大笑いしました。絶対最後まで席を立たないように。    (採点=★★★★★

 

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