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2006年8月26日 (土)

「M:i:III 」

Miiii (2006年・米:パラマウント/監督:J・J・エイブラムス)

アクション満載、トム・クルーズはカッコいい。気分爽快。・・・

それで終わり。この映画に批評はいらない。頭をカラッポにして楽しめばいい。

突っ込もうと思ったら、いくらでも突っ込みどころはある。しかし、こういう他愛ないアクション映画に突っ込み入れてどうする?
とにかくエンタティンメントなんだから、気楽に楽しみましょうよ。

 

 

で、これで終わりですが、それでは素っ気無いので(笑)、ちょっと雑談を…。

この映画の元ネタは、テレビの、“ミッション・インポシブル”(邦題「スパイ大作戦」)なのだが、そもそもは例の「007シリーズ」が空前の歴史的大ヒットを記録し、無数のスパイ・アクションものが作られた時代があり、本作もその1本として作られたという経緯がある。

イアン・フレミング原作の“ジェームズ・ボンド-007”シリーズが、如何に世界的に多大な影響を与えたかについては、以下の事実で明らかである。

まずは亜流としてのスパイ・アクションものの氾濫…。

やや本格的なものとしては、マイケル・ケイン主演、「国際諜報局」シリーズくらい、後はパロディあり、荒唐無稽アクションありと収拾がつかない状態。

ジェームズ・コバーン主演「電撃フリント」シリーズ、ディーン・マーティン主演、“マット・ヘルム”シリーズ(「沈黙部隊」を1作目として、シリーズすべて「XX部隊」の邦題)などは珍兵器も登場し、かなり笑える。

同じ英国情報部所属で、ボンドの同僚だというチャールズ・バインものも登場した(「殺しのライセンス」シリーズ)。

バッタもんが得意のイタリアでは、なんと「077」シリーズ(笑)が登場。「077/連続危機」という邦題作品まであり、配給会社も悪ノリしてます。

我が国も負けじ…と、「国際秘密警察」(三橋達也主演)シリーズを製作。なお、後にあのウディ・アレンが、このシリーズの2本を継ぎはぎし、吹き替えセリフをまるまる違うものにして「タイガー・リリーに何が起こったか」なる爆笑コメディ(?)をデッチあげた事もあった。他に、「百発百中」シリーズもあり(これも「危機一発」のもじり)。主演はボンド・ガールの浜美枝を起用。あやかってるの丸見えです(笑)。

アメリカでも、「0011ナポレオン・ソロ」なるテレビ・シリーズを製作。映画もテレビと同じ出演者で数本作られた。

なお、邦題に「00…」とつける事が大はやり。西部劇なのに「0088/ワイルドウェスト」とつけたり、「006は浮気の番号」とか「00H・その時一発」に至ってはもう大笑い。…こういうセンスが最近なくなりましたね。

そういう流れで、「スパイ大作戦」が登場したわけである。

「007」とちょっと違うのは、それぞれプロの腕を持つ数人のチームによるミッションという点で、どちらかと言うと映画「プロフェッショナル」の流れを汲む作品として見た方がいい。リーダーは、フェルブス君、ことピーター・グレーブス。

(なお、「…大作戦」という題名もこの頃大流行。「スター・トレック」もテレビでは「宇宙大作戦」だったし。我が国でもお色気秘密作戦もので「アイフル大作戦」というのがあった(例の消費者金融とは全然関係ありません(笑))。

トム・クルーズ主演の本シリーズ、1・2作目は、トム一人が活躍し過ぎて、チーム・プレイ主体だったオリジナルとはかなり異なった作品になっていた。テレビの主人公だったフェルブスをあんな設定にしてしまうし…。テレビ・ファンはかなりガッカリしたのではないだろうか。

で、本作は初心に帰って、テレビのイメージに近いチーム・プレイものになっていた。監督に、テレビで活躍するJ・J・エイブラムスを起用したのも成功。前2作が監督の個性が前面に出すぎていたのを反省したのだろうか。

とにかく、楽しさ、面白さではシリーズ中一番だと思う。娯楽映画とは、本来こうあるべきだろう。観終わって何も残らないが、それも良し…である。

 (採点=★★★☆

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2006年8月13日 (日)

「ゆれる」

Yureru1 (2006年・シネカノン/監督:西川美和)

これは、ここ数年において久しぶりに登場した、人間ドラマの秀作である。

物語は、都会でプロのカメラマンとして成功している男(オダギリジョー)が、母の一周忌で故郷に帰る所から始まる。

男は小さな田舎町でガソリンスタンドを細々と経営する父(伊武雅刀)の次男で、長男(香川照之)が後を継いでいるが、勝手に家を飛び出した弟と父とは折り合いが悪い。そんな弟を兄は優しく擁護する。

西川美和監督は、「蛇イチゴ」に次いでこれが2作目だが、非凡な人間観察眼を見せる。

何事においても積極的で要領のいい弟に対し、不器用で要領が悪い兄…という対照的な人物配置が、宴席での会話で手短に語られる。
特にうまいな…と思ったのが、激昂した父が膳を蹴飛ばし、それを兄が黙々と拭き取るシーン、そのズボンに、倒れた徳利からこぼれる酒がポタポタとかかる場面(兄は気付かない)は、何でもないようだが、観客に一目で兄の損な性分、要領の悪さが画として伝わる、秀逸なショットである。

スタンドで働く智恵子(真木よう子)は兄弟二人の幼馴染。兄は智恵子に好意を抱いているのに、不器用でうまく伝えられない様子。それを見ていた弟は、あっさり智恵子を抱いてしまう。

翌日、兄弟と智恵子の3人はドライブに出かけ、そこで事件が起きる。

ゆれる吊り橋の上で、高い所が苦手な兄は智恵子に取りすがる。しかし弟に抱かれたばかりの智恵子は気持ち悪がって振りほどこうとする。
次のシーン、離れた所にいた弟は、橋の上で一人座り込む兄を目撃する。智恵子の姿はない。

一体橋の上で何があったのか…そのシーンは観客に示されず、謎のまま、事態は兄の智恵子殺人容疑→裁判へと急転する。

素晴らしいのは、この裁判シーンにおける兄の証言が何度も変化し、あれは本当に事故だったのか、故意による殺人だったのか、観客にも分からなくなって来る、そのミステリアスかつスリリングな展開のうまさである。そして、まるでアガサ・クリスティの法廷ミステリー「検察側の証人」(ビリー・ワイルダー監督による映画化題名「情婦」)を思わせる、まったく意外な証言によって物語は急転して行く。

証言の都度、そのイメージショットが違う映像によって何度も反復されるあたりは、黒澤明の「羅生門」的でもある。そして、ラスト、兄弟の子供の頃に吊り橋で撮った8mmフィルムによって、真実が明らかになって行く構成は「市民ケーン」を思わせる。

・・・という具合に、部分的に映画史に残る名作を思い起こさせるシーンがいくつかあるが、それらが巧妙に物語に溶け込んでいて違和感を感じさせない。なおかつ、それらの作品のテーマでもある、“人間の不可思議さ”“人間という生き物のおかしさ、哀しさ”がこの作品のテーマでもある事が観客にも伝わる仕掛けとなっているのである。そうした芸術作品的な要素を持ちながら、サスペンスフルなエンタティンメント作品としても成立している。これは凄いことである。

Yureru2 役者もそれぞれ練達の人を揃えている。演技賞を何度も受賞しているオダギリ香川が安心して見ていられるのは当然だが、父親役の伊武雅刀、その兄で弁護士役の蟹江敬三、裁判長田口トモロヲ、スタンドの従業員新井浩文などもそれぞれピッタリの役柄で適材配置、そして検事に扮した木村祐一、これがネチネチと香川をいたぶる狡猾ぶりを絶妙に好演。「花よりもなほ」の孫三郎役に感心したばかりなのに、まったく違う役柄を自在に演じているのだから凄い。今年の助演演技賞はこの人に差し上げたい。

脚本が秀逸。巧みに配置された伏線も見事(私が何度も書いているように、伏線が良く生かされた脚本は傑作が多いのである)。本年度の脚本賞候補に挙げてもいい秀作である。ラストの香川照之の表情もいい。お奨めです。

それにしても、配給会社のシネカノン、一昨年の「誰も知らない」、昨年の「パッチギ!」2年連続ベストワン記録更新中)に次いで、またしてもベストワン級の秀作を送り出した。いやはや凄いヒット率である。

 (採点=★★★★★

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2006年8月 9日 (水)

これは宮崎アニメ・フラッシュ?「ゲド戦記」

前回お約束しました、「ゲド戦記」に見る宮崎駿作品からの引用(あるいは両者の関連性)について・・・・

(1)まず、旅に出たアレンが荒野でオオカミに襲われるシーン。
 ここで宮崎ファンなら、宮崎駿が場面設計を担当した「太陽の王子・ホルスの大冒険」(高畑勲監督)を連想するでしょう。なかなか抜けない剣を持っている所も似ている。そう言えば、農耕に精を出すシーンもありましたねぇ。

(2)故郷を捨てて、ヤックルに似た馬に乗って旅をする辺りは「もののけ姫」ですね。もっとも、「もののけ姫」自体が本作と同じく、宮崎駿が20年ほど前に描いた絵本「シュナの旅」を原案としてるわけだから似てるのは当然か。ジコ坊のようなキャラクターも出てるし…。夢の中で、真っ黒なドロドロとした液体に飲み込まれるシーンも「もののけ姫」のタタリ神に取りつかれるシーンを連想させます。
ラストでアレンがテルーに、「また会いに来るよ」と言って別れるシーンもそっくりですね。
ついでに、クモの目の下の縦長のペイント(?)は、サンのメイク(千尋のカオナシだという説もあり)に似てますね。

(3)何より感じたのは、「風の谷のナウシカ」が「ゲド戦記」からかなりインスパイアされてNau014 いる事。ユパは明らかにゲドがモデルだし…。村人がいなくなった村の家を覗いて、「この村もだめか…」とつぶやく所は「ナウシカ」の冒頭とそっくりです。
ついでに、クモと配下のウサギは「ナウシカ」のクシャナとクロトワですね。

(4)柵に縛られたテルーが、もの凄いパワーで杭を引っこ抜き、縄を解くシーンは、「未来少年コナン」ラナがコナンを助ける為、縄を歯で食いちぎるシーを彷彿とさせます。宮崎アニメの少女ヒロインはパワフルなのです(笑)。

(5)ラストの、お城の塔屋での追っかけとアクションは、宮崎アニメでは定番と言っていいでしょう。「ルパン三世・カリオストロの城」、そして宮崎駿が原画とアクション・シーンを担当した「長靴をはいた猫」を見れば一目瞭然です。悪魔を追っかけ狭い階段を駆け上り、そして朝日が射してくる時悪魔は滅びます。まったく「長靴-」そのまんまです(笑)。ついでながら「長靴-」における「朝日よのぼれ」というセリフは、宮崎駿自身が「もののけ姫」でセルフパロディにしてました(笑)。
城がガラガラと崩れ、主人公が落っこちそうになってぶら下がる…というパターンも「カリオストロ-」から「天空の城ラピュタ」に至る宮崎アニメではお馴染みシーンですね。

(6)「ゲド戦記」の原作でも主要テーマであり、本作でも出てきた、真(まこと)の名前に関するくだりは、「千と千尋の神隠し」でも重要なテーマとなっていましたが、あれは「ゲド戦記」からのいただきだったわけですね。
ラストで、○に変身した×××に乗って空を飛ぶシーンもそのまんま「千と千尋-」のラストと同じです。うーん、ここまでやりますか(笑)。
 

・・・といった具合に、宮崎吾朗監督は意識的なのか、無意識なのか、親父さんの作品の名シーンを片っぱしから本作に取り込んでおります。逆に言えばそちらに神経を注ぎすぎて、本編が支離滅裂になっちまったのか、それともジブリ・アニメファンを喜ばそうとするサービス精神が行き過ぎた結果…

なあーんて事はないでしょうねぇ(笑)。

 

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2006年8月 6日 (日)

「ゲド戦記」

Gedosenki (2006年・東宝/監督:宮崎吾朗)

宮崎吾朗監督に対してかなり手厳しい意見が多いが、いったい何を期待しているのだろうか。

アニメの経験も、監督の経験もまったくない新人が演出をまかされて、それで天才・宮崎駿監督作品と同レベルの作品が出来上がる…とでも思っていたのだろうか。

残念ながら、天才の子供が父と同じ才能を開花した例は、皆無と言っていい。だから私は、まあ何とか観れる程度の出来だったらオンの字と思っていた。

そういう意味では、本作は予想を上回って良く健闘した方だと言えるのではないか。

 

で、私は先にも書いたとおり、宮崎駿は真の天才だと思う。私見では、20世紀において文化・芸術の分野で真の天才と呼べるのは、手塚治虫黒澤明、そして宮崎駿の3人しかいないと思う。

無論、天才と呼べる人は他にもいる。木下恵介、山中貞雄、北野武なども私は天才だと思っている。
しかし、これらの人は天才ではあるが、真の天才ではない。強いて言うなら、準・天才(?)である。

どう違うのかと言うと、真の天才とは、“その分野において先駆者となり、その後に続く人たちに多大な影響を与え、夥しい模倣とオマージュ作品を伴う多くの信奉者を生み出すに至った”人である・・・とでも定義出来るだろう。

手塚は、戦後日本漫画のスタイルを確立し、“すべてのストーリー漫画の源流は手塚治虫である”とまで言われている。彼がいなかったら今の漫画ブームの隆盛は無かったと思う。それほどまでに偉大な存在である。藤子不二雄も赤塚不二夫も石ノ森章太郎も、手塚を神様のように尊敬している。

黒澤も、「七人の侍」という世界映画史上に残る傑作を残し、ルーカス、コッポラ、スピルバーグなど黒澤の弟子を自認する信奉者を生み出し、「椿三十郎」における人を斬る効果音と血しぶきの噴出は、その後の時代劇にことごとく模倣された。

宮崎も同様、それまで子供が見るものだと思われていたアニメを、壮大なイマジネーション、深遠な世界観、アニミズム志向などにより、大人の観客や評論家層にも信者を作り出し、多くの亜流作品を生み、ジョン・ラセターを始めとしてディズニー内部にすらファンを獲得している(ディズニー作品「ビアンカの冒険/ゴールデン・イーグルを追え」は飛翔シーンをはじめ、明らかに宮崎アニメからの影響が見られる)。

そういったわけで、宮崎駿のような天才は、100年に1人か2人しか現われないのではないかと思う。それ故、宮崎駿以外に彼のようなレベルの作品を作れる人はまずいないだろう。ジブリ作品で言えば、「耳をすませば」は近藤喜文監督作品だが、脚本・絵コンテは宮崎だし、宮崎本人が手掛けたイバラードのイメージ世界のみが突出しているだけの、ごく普通の作品に留まっている。

天才の子供の例を挙げれば、手塚治虫の子、手塚眞は映像作家として活躍しているが、出来栄えは可もなし不可もなし、私は彼の作品を大抵観ているが、心を動かされるものはない。

黒澤明の息子、久雄は黒澤プロのマネージメントをしているだけ。娘の和子は映画の衣装デザイナーとして活躍しているが、突出した存在ではない。

こういう例を見れば、私が吾朗監督にまったく期待しないのは当然だろう。もし万一、心を揺り動かす秀作が完成したなら、確率数億分の1の奇跡ということになる。

公式ぺージの監督日誌を読むと、吾朗監督自身の言葉として、次のように書かれている。
私が『ゲド戦記』監督を引き受けた理由は二つあります。『ゲド戦記』という物語に魅力を感じていたことが一つ目。そして二つ目は、父との関係もありこれまで長く気づかないふりをしてきたアニメーションへの想いが拭いがたく自分の中にあることに気がついたからです。

宮崎吾朗は、若い時から「ゲド戦記」を愛読していたそうだ。また上にもあるように、アニメーション作家になる夢も、ずっと抱き続けていたのだろう。

Gedosenki2 従って、自分がもし監督するとしたら、どういうストーリー展開にするか、かなり早い時期からイメージを膨らませていたことが想像できる。
多分吾朗の頭の中には、アースシーの世界観やゲドのそれまでの人生もとっくに完結していたのだろう。だから、膨大な原作を2時間に収めるに当って、“親との確執、迷い、自立、成長、冒険”という彼の描きたいテーマが凝縮された、原作の第3部「さいはての島」を中心に物語を構成した…という事も理解出来るのである。

その彼の描きたかった世界を、ジブリというクォリティの高いスタッフを得て、思う存分に映画化する事が出来た。

そういう意味では、吾朗監督にとっては満足できる作品になっただろう。

 

ただ残念な事に、そうした、アニメーションへの熱い思いがあったにもかかわらず、吾朗監督には、天賦の才がなかった。

・・・そういう事なのである。
天才の子は天才にはなり得ない。鈴木敏夫プロデューサーも過信しすぎたのではないか。

それを知っていたからこそ、父駿は息子が本作を監督する事に猛反対したのだろう。

映画には、確かに原作に対する熱い思い、熱意が感じられるし、部分的にはいいシーンもあった。
しかし、全体として眺めると著しくバランスに欠け、しかも父の作品に対するリスペクトのせいなのか、あるいはこれまでの宮崎駿作品が
「ゲド戦記」からかなりヒントや着想を得ていたせいなのか(という事が本作をみてよく分かった。父が反対したのもそれも理由の一つかも知れないが(笑)…)、あまりにも過去の宮崎アニメとそっくりなシーンが多すぎる。これがメル・ブルックス作品のように、原典へのオマージュ・パロディ作品ならそれも楽しみなのだが…。

そんなわけで、私自身としてはまあまあ楽しめた方であるが、原作「ゲド戦記」ファン、ジブリ・アニメ・ファンにとっては失望する出来であろう。

もし宮崎吾朗が本当にアニメーション作家になりたかったのなら、父親が歩んだのと同じように、アニメーターもしくは原画マン、美術設定などの下積みからスタートし、テレビアニメの絵コンテ、演出を経験し、そこで才能を認められて、やっと本編の監督…という道を歩むべきであった。それでもなれるかどうかは保証の限りではない。

 

なお、本作には前述のように、過去の宮崎アニメとそっくりなシーンがいくつかあるが、それは次のお楽しみに・・・→(こちらをどうぞ)。 (文中敬称略)

  (採点=★★★

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