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2006年9月24日 (日)

「46億年の恋」

46okunen (2005年・エスピーオー/監督:三池 崇史)

マカ不思議な映画である。刑務所で起きた服役囚の殺人を発端に、警察がその捜査を行ううち、謎が次々深まって行く…という一応のストーリーはあるが、なにしろ監督が鬼才、三池崇史だけに、実に掴まえどころのない、奇妙かつ奔放なストーリー展開とビジュアルの洪水に多くの観客は面くらい、圧倒されることだろう。

低予算を逆手に取ったシュールで簡素化されたセットデザイン、真っ黄色の奇抜な囚人服(ヒンドゥーの修行僧をイメージしたという)、刑務所長の部屋はドイツ表現主義のように傾いているし、そして外の空間にはアステカの神殿のようなピラミッド、なぜかロケットの発射台まである。一体ここはどこなのか、何時の時代なのか…。容疑者の男、有吉(松田龍平)と被害者、香月(安藤政信)はどうやら男同士の愛で結ばれているようだし…。

とまあこんな感じの映画なので、おそらくよっぽどの三池映画ファンでもなければこの映画はつまらないだろうし、面白くもないだろう。

だから、普通の楽しい映画を観たい人にはおススメはしません。観たら多分カネ返せ!と言いたくなるでしょう(笑)。上のような梗概を聞いても、なお観たいと思う人は観てください。

しかし、私にはとても刺激的で面白い作品だった。どこがいいのかと聞かれても説明しにくい。強いて言うなら、考えるより、感じる映画である…と言えるだろう。

何よりも、この映画を楽しむには、三池崇史―という監督の代表作を見ておく必要がある。三池映画は、楽しい娯楽作品もあるが、一筋縄では行かない強烈な個性があるので、一遍ハマッたらその魅力に憑り付かれること請け合いである。

以下、三池崇史監督の代表的傑作、怪作を紹介しておこう。

三池監督の最初の傑作は、1996年の「極道戦国志・不動」である。とにかく、話がイッちゃってるのである。小学生の殺し屋は登場するは、人間の首をサッカーボールのように蹴るは、両性の女殺し屋はアソコから吹き矢を飛ばすは…もう過激さを通り越して笑ってしまった。

こういうバカバカしいまでのバイオレンス作品には、ヤクザがサイボーグロボットになり(ロボコップならぬロボ極道ですな)大暴れする「フルメタル・極道」という怪作がある。題名だけでも笑えるが、やはりかなり過激な映像が多い。北村一輝が胴体真っ二つになるシーンには笑った。主演のロボ極道に扮するは、今やサンプロ司会のうじきつよし。

こうした過激な笑いと、初期から手掛けて来たVシネマ的ヤクザ映画とが合体したのが、三池の名を大いに高めた「DEAD OR ALIVE 犯罪者」(1999)である。冒頭からCGを使ったヘンなシーン(撃たれたヤクザの腹からラーメンが飛び出す)が登場するのが伏線となっており、ラストの、今や語り草となっている○○壊滅シーンには唖然となり、次に大笑いした。この作品で三池信者になった映画ファンも多いだろう。これは必見である。

この路線のピークとも言えるのが「殺し屋1」(2001)だろう。過激なバイオレンス描写に圧倒されるが、イチの悲しみに涙する映画でもある。浅野忠信のイッちゃってる怪演は必見。

その反面で、人間を温かく見つめるウェルメイドな佳作も数多い。「岸和田少年愚連隊・血煙純情編」(1997)、「同・望郷」(1998)は中場利一のこれも過激な笑える暴力小説を、甘く切ないノスタルジックな青春映画として描いた佳作である。「中国の鳥人」(1998)は、中国の奥地で展開するメルヘンチックな秀作。キネマ旬報ベストテン入選(脚本はいずれも、本作も手掛けたNAKA雅MURA)。
沢田研二主演の「カタクリ家の幸福」(2001)は、なんとまあ楽しいミュージカル映画。ミラーボールの下で沢田と松坂惠子がデュエットするシーン(ご丁寧にカラオケ風字幕も出る(笑))は必見。
2003年の「ゼブラーマン」も、父と子の愛情を軸とした泣ける快作である。

こうして見て来ると、三池作品に一貫して通底しているのは、人間という存在を、時には厳しく、時には優しく、時には皮肉とアイロニーを交えて見つめて(あるいは観察して)いる視点の確かさである。“人間とは、悲しい生き物であり、かつ美しい生き物である”と言えるのかも知れない。決して暴力描写だけの作家ではないのである。

ここ数年では、“男たちの生きざま”、“男同士の悲しくも美しい絆”を描いた作品も多くなっている。既に「DEAD OR ALIVE2 逃亡者」(2000)も、哀川翔と竹内力の奇妙な友情が描かれていたが、「天国から来た男たち」(2001)ではフィリピンで刑務所に入れられた男たちの触れ合いが力強く描かれていたし、「荒ぶる魂たち」(2002)「許されざる者」(2003)に至ってはまさに荒ぶる男たち、兄弟の血みどろの戦い、断ち難い絆の無情さをバイオレンスの中に描いていた。

さて、こうした三池作品を観て来たうえで本作を観ると、まさにここにはまぎれもなく三池崇史作品の刻印が印されている

主人公有吉淳(松田)は、人の愛が信じられずに無目的に生きて来た男である。

人を殺して投獄された刑務所で、本能の赴くままに暴力を振るう香月史郎(安藤)と出会った有吉は、そこに人間の激しい生き様を見る。男たちばかりの刑務所で、やがて有吉は香月に深い愛を感じるようになる。

この辺の描写は意外と抑制されている。代りに、奔放なイメージ描写が随所に挿入される。観客の方でイメージから何かを感じ取って欲しいという事なのだろう。それは、まさに感じるしかないのである。ロケットは、天国にたどり着きたいという願望のメタファーであろう。ラストで天空に向かい飛び立つロケットは、願望の迸りだろうか。

少なくとも、男たちの愛をストレートに描いた「ブロークバック・マウンテン」よりは私にはずっと刺激的で面白かった。

46okunen2 個性ある男たちの演技が素晴らしい。逞しい男の美しさを見せる安藤政信。その彼を見つめる松田の男の色気、艶かしさ。刑務所長を怪演する石橋凌がまた見事。三池映画の常連、遠藤憲一も相変わらず。
そして何より、ダンサーである金森穣のダイナミックな踊り。男のオーラさえ感じる。こうした、男たちの奔放な演技合戦を見るだけでも値打ちがある。

ちなみに、石橋凌の映画デビュー作は、龍平の父松田優作が監督・主演した「ア・ホーマンス」である。

私は、この映画を観て、大島渚作品との類似性を感じた。「戦場のメリークリスマス」では、二人の男たち(デヴィッド・ボウィと坂本龍一)の哀しい愛が描かれていたし、「御法度」でも男同士のセックスが描かれていた。奇しくも、ここでも松田龍平が男たちの愛の対象となる美しい男を演じていた。

そう思えば、大島渚と三池崇史はいろいろと共通点が多い。

大島も、難解な問題作を作って来た。「新宿泥棒日記」「東京戦争戦後秘話」「帰って来たヨッパライ」などは、初めて観たら何がなんだかさっぱり分からないだろう(笑)。しかし反面、とても心優しく少年たちを見つめた秀作「愛と希望の街」「少年」なども撮った人でもある。

Kousikei 大島の問題作「絞死刑」(1968)は、拘置所の死刑囚の死刑が失敗した所から始まる、ブラックな笑いと政治批判に満ちた傑作である。所長、検事、拘置所の役人たちの問答が面白い。本作となんとなく似た作品である。低予算の簡潔なセットという共通点もある。

大島一家とも言われる、常連の脚本家、俳優を抱えている点も三池の場合と似ている。
そう言えば、どちらもカンヌ、ベネチア映画祭で人気がありますね。

 

もう一つ、この作品を解くキーとして挙げておきたいのが原作者である。クレジットでは、原作:正木亜都(題名「少年Aえれじい」)となっているが、これは実は故・梶原一騎の遺稿を元に、弟の真樹日佐夫がまとめたもので、そう思えばこの作品には、この二人の傑作群を連想させる要素がいくつかある。

刑務所に入るなり受刑者たちを殴り倒す香月は、少年院に入るなり鉄拳を振るい少年たちを殴り倒す「あしたのジョー」の矢吹丈の姿にかぶるし、冒頭の父が息子を鍛えようとするシーンは、「巨人の星」の父一徹と飛雄馬を思わせる。そして彼らの究極の愛の姿は、まさに男たちの「愛と誠」である。
思えば、ジョーと力石の関係、女房役の伴宙太と飛雄馬が涙でヒシと抱き合うシーン、今から考えるとちょっと過剰なこれらの描写も、あるいは男たちの愛の世界だったのかも(うーむ、ちょっと考え過ぎ?(笑))。そういう意味ではこの作品もまた、紛れもなく梶原ワールドなのである。
真樹日佐夫もまた「ワル」を始めとして暴力世界に生きる男たちを描き続けて来ている。

とまあ、こんな具合にいろいろ連想してみるのも、映画を楽しむ1手段なのである。

とにかく三池ワールドは面白い。いつもこちらの予想を超えてハジけている。現在東京で公開中という「太陽の傷」(三池映画の常連・哀川翔主演)も凄いらしい。楽しみである。

(採点=★★★★

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2006年9月17日 (日)

具が多すぎた「UDON」

Udon (2006年・ROBOT/監督:本広 克行)

本広監督は香川県生まれ。前作「サマー・タイム・マシン・ブル-ス」も香川県でロケしていたが、本作では遂に“香川県人による、香川県人のための本格的な香川県映画”を製作するに至ったわけである。

実は、私も香川県生まれ。従って本作を鑑賞するについては、県人として特に思い入れがあり、感慨深いものがある。
なにしろ、見覚えのある風景はバンバン出て来るし、題名通り、讃岐の誇り、讃岐うどんが全編にわたってフィーチャーされているのだから。無論、私も讃岐うどんは大好物。あの、独特のコシの強さが特色の讃岐うどんを食べ慣れたら、言っちゃぁ悪いが他のうどんは食べれたもんじゃない(笑)。

…さて、それでは本作を手放しで誉めるかと言えば―そうは行かない。作品は作品として厳しく採点させてもらう。
―結論から言えば、辛い点数にせざるを得ない。

問題点は一言で言って、いろんな題材を盛り込み過ぎである。要約すると――

①一流の芸人になる夢を追いかけ、挫折した若者が、友人たちに励まされ、さまざまな経験を経て再び夢にチャレンジする物語。

②頑固一徹の父親と意見が合わず家を飛び出した男が、故郷に帰り、父親の仕事を見ているうちにやがて父親の職人魂に打たれ、父親が死んだ後、その職人技を継ぐ決心をし、亡き父と和解する話。

③タウン誌が仕掛けたブームの加熱ぶりと、やがてそのブームが醒めて行く経過を描き、ブームとは何かを探るブーム文化論的映画。

④そして、讃岐うどんに関するウンチクと、讃岐うどん礼賛映画。

 

どの題材についても、十分1本の映画が出来上がるくらいである。

むしろ、どれか1本に絞れば、―特に、②の話だけで纏めていればもっと傑作になったかも知れない。

なにしろ、ラストのシークエンス・・・幽霊になった父親との和解、復活した父のうどんの味を求めて凄い数の行列が押し寄せる光景を俯瞰撮影で捕える…という展開が、まるまる私の大好きな感動の秀作「フィールド・オブ・ドリームス」(フィル・アルデン・ロビンソン監督)へのオマージュになっているだけに、とても残念なのである。

④の讃岐うどんに関する部分は、むしろテレビのスペシャル・ドキュメント番組にした方がずっと楽しめる。これだけで2時間は十分持つ。

さらには、本広監督の好みなのだろうが、例によっていろんな小道具やら、本筋とは関係ないスーパーヒーロー、キャプテンうどんが活躍する「ブレード・ランナー」のパロディ(二つで十分云々)、まで登場するのだから余計混乱する。

うどんの味とは、素朴でシンプルなものである。おいしい讃岐うどんの食べ方は、麺に醤油をかけ、薬味を添えるだけとか、(本編にも出てくる)伊吹島のイリコ(干し魚)をじっくり煮て作る麺汁に漬して食べる―それだけで十分である(うーんついローカル・ネタになってしまった。すんません)。

本作の場合は、うどんメニューに例えれば、うどんの上に天婦羅乗せて(ここまでは許せる)その上にお好み焼きを乗せて、さらにソースとマヨネーズをたっぷりかけたようなものである。

1品ずつはそれぞれ美味しいのに、これではうどんの味が台無しである。早い話、うどんにソースとマヨネーズかけたらどんな味になるか試してみてください(何の話してたっけ(笑))。

…というわけで、それぞれはとても美味しくなりそうなネタだったのに、そして、泣けるエピソードもいくつかあったのに、全体としては纏まりに欠けたデコボコな作品になってしまっている。残念である。

 

でも、楽しめないか…と言えばそうではない。テンポよく、笑いあり、ペーソスあり、感動出来る部分ありで、特に香川県―いや、四国生まれの方にはお奨めである。それと、讃岐うどん・ファンの方は必見である。3本立ての映画をいっぺんに観たような満腹感はあると言っていい。…但し、映画の出来とは別にして…の話である(うーん、なんだか複雑な心境(笑))。

役者では、主人公の父親を演じた木場勝己がとてもいい。不思議な存在感がある。

主人公の友人役を演じたトータス松本も意外な好演。
個人的にジーンと来たのは、タウン誌の編集長が語る、連絡船で食べるうどんに関する件(味はたいした事ないが、これを食べる事自体が故郷への挨拶のようなものである…)。これは、四国出身の人なら誰もが共感する、いい話である。そう、瀬戸大橋が出来るまでは、高松と宇野を結ぶ宇高連絡船が四国と本州を繋ぐ唯一の交通手段だったのである。私も、あのうどんには随分お世話になった。懐かしい…。

―というわけで、私に限らず、香川県生まれの人にとっては、この映画は思い入れが深過ぎて客観的に評価不可能である…という事をお断りしておきたい。採点は、難しい所だが、映画の出来=★★☆、香川ネタ=★★★★、間を取って総合点=★★★

ツッ込みを少々。
まず誤解無きよう。香川にクマはいない (どうでもいいが、もう少しクマらしく演技せんかいっ)

もう1点。ラストで、コースケが飛行機の窓から、実家の製麺所に押し寄せる群集を見るシーンがあるが、高松から東に向かって飛ぶ飛行機からは、あの付近(高松よりずっと西)は見えない。せいぜい目印の讃岐富士が豆粒のように見える程度である。
あのラストは、コースケが父の家業を継いで、そして友人のトータス松本が飛行機から製麺所に向かう群衆を見つける…という展開にした方が無理がないと思うのだが…。

 

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2006年9月 9日 (土)

「力道山」

Rikidouzan (2004年・韓国=日本/監督:ソン・ヘソン)

力道山と言えば、50歳以上の日本人にとっては未だに忘れられない、当時の国民的ヒーローであった。

「ALWAYS 三丁目の夕日」にも、この映画にも出て来るが、テレビがようやく普及し始めた頃、テレビのプロレス中継に大多数の日本人は狂喜乱舞、歓喜雀躍したものだった。テレビが爆発的に売れる原因となったのも、プロレスのお陰とも言われている(当時の資料によると、視聴率は50%を超え!力道山が倒れるまで毎年視聴率ランクのトップを独占していた)。

実は私もこのプロレス中継はリアルタイムで見ている。忘れもしない金曜日の夜8時。日本テレビ系列。提供は三菱電機。何故か、ウォルト・ディズニー本人が進行役を勤める「ディズニーランド劇場」と1週間交代で放映されていた(おかげでディズニー・アニメのファンにもなってしまった(笑))。

なぜプロレスがそれほど日本人の心を掴んだのか…それは、敗戦で落ち込んでいた時代に、シャープ兄弟など、アメリカから呼んだレスラーを伝家の宝刀、空手チョップでコテンパンにやっつけてくれたからである。

あの戦争で完膚なきまでに痛めつけられたアメリカをやっつける・・その事がどれだけ多くの国民を勇気付けたことか。これは敗戦へのリベンジでもあったわけである。

だから、木村政彦などの日本人対決ではあまり燃えなかった。外国人をやっつける事に究極の意味があったのである。シャープ兄弟の後、鉄人ルー・テーズ、オルテガ、キングコング(というレスラーがいたのです(笑))、ボボ・ブラジル、そして咬み付きブラッシー…ことごとく倒してくれた。もうその燃え具合は尋常ではなかった。今のワールドカップもWBCも遥かに越える、ほとんど神がかり的なほどの人気者・ヒーローだった。

愛国心云々と言われるが、まさにアメリカを打ちのめす力道山こそは日本人の愛国心を鼓舞し、日本人に“頑張ればアメリカにだって勝てる”という勇気と自尊心とパワーを与え、ある意味では当時の我が国高度経済成長(=世界進出)の心の支えにもなっていたとさえ思えるのである。

 

ノスタルジーに浸り過ぎたので(笑)映画の話に戻るが、その日本人の心の拠り所であった力道山が朝鮮人だった…という事実は最近までずっと隠されていた。いや、あえて純粋の日本人である・・・と経歴が意図的に捏造されていたのである。当時の資料が手元にあるが、そこにははっきり、「本名百田光浩。長崎県の農業百田巳之助の三男として生まれる」とある。

そりゃそうだろう。日本人が日本人である事を誇りにした、その心の拠り所が、当時はバカにし、差別していた朝鮮人だと分かったら大変な事になるからである。ヒーロー伝説が根底から揺らいでしまう。せっかく勇気を取り戻した日本人の心がまた萎んでしまうかも知れない。特に、多くの子供たちの夢を壊すことにもなる…これは絶対に封印すべき秘密だったのである。
当時の子供たちも熟年になり、朝鮮人への差別意識もかなり薄まり、韓国映画が日本映画界を席捲するほどの実力を持つようになった21世紀だからこそ、ようやくその封印が解かれた・・・という事なのだろう(でもやっぱり私にもショックだった)。

そして映画は、その国民的ヒーローの、裏側の顔も明らかにしている。

なにせ、すぐブチ切れる(笑)。暴力を振るう。もうほとんど「血と骨」の金俊平(ビートたけし)状態(笑)。無論その背景には、国籍の為差別され、苛められてきた鬱屈があるのだろうが…。

後半は、後援者だった管野(藤竜也)、や粗暴な振る舞いにもじっと耐えて温かく見守ってきた妻・綾にも反抗するようになり、やがて管野からも妻からも愛想をつかされる。

それは、次第に国民的ヒーローになって行くに連れ、負ける事が許されない、そのプレッシャー(映画でも、妻に乞われ負けるつもりだったのに、声援する子供の姿を見たらつい敵レスラーをブチのめしてしまうシーンがある)や、さらには国籍を伏せ、日本人である事を演じ続け、自己のアイデンティティを偽り続ける事にたまらない自己嫌悪を感じていたせいなのかも知れない。

その苦悩は、常人には計り知れないものがあっただろう。それが些細な事でもキれてしまう要因にもなっていたのかも知れない。

その結果が、ヤクザとのケンカ―刺され、そして結果として彼の命を失う事に繋がったと考えると、実に皮肉である。

私は当時、なんで力道山がヤクザに刺されたりしたのだろう…と不思議で仕方がなかったのだが、映画を観てその理由が判った。そりゃ、あれだけ誰にでもキれてたらヤクザも本能的に刃物向けるわな(刺した方が被害者だったりする(笑))。

その意味では、力道山に心酔していた人たちにとっては、この映画で明かされた真実は2重のショックだろう。ああ、神様の尊厳がどんどん失墜して行く(笑)。

私はと言えば、一時はショックだったが、映画を観終えて、素直に感動した。そこには、神様ではない、苛立ち、苦悩しつつも、不器用に時代と戦い、夢を追い続けた一人の人間の生きざまが見事に描かれていたからである。

試合のシーンの迫力も凄い。体重を28kgも増やしたソル・ギョングの吹き替えなしのプロレス・シーンには当時を思い出し、胸が熱くなり、涙が溢れた。ヒーローの闘う熱い姿は、国籍など関係ないのである。

「朝鮮人である限りは、笑いたくても笑えない。成功した時に初めて笑えるのだ」という力道山の言葉も重い。

それを思うと、あのラストシーンも感慨深い。綾と神社に行き、写真屋に「笑って」と言われ、必死に笑おうとするが笑えない。その顔がストップモーションになった時、又涙が溢れた。

綾に扮した中谷美紀が素晴らしい。「嫌われ松子」とは別人の、いつも穏やかな笑みを絶やさず、愛した男をじっと支え続ける女を好演。藤竜也も相変わらずいい。ソル・ギョングの日本語は、一部たどたどしい所もあるがほとんど完璧。見事に役になり切っている。CGも使った時代考証も、日本人から見ても日本映画以上に忠実に再現されている。

これは、韓国だからこそ作れた、伝説のヒーローの真の人間像を描き切った秀作である。日本人だからこそ、力道山ファンなら尚のこと是非観て欲しいと思う。  

 (採点=★★★★☆

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2006年9月 5日 (火)

「グエムル 漢江の怪物」

Guemuru (2006年・韓国/監督:ポン・ジュノ)

韓国製の、珍しい怪物パニック映画。SF怪獣映画はもともと大好きで、それもどちらかと言えばB級作品が好み。

しかも監督が、「殺人の追憶」という傑作サスペンスを撮ったポン・ジュノ―と聞いて、これは見逃せない…という事で、初日に観に行った。

まず言っておきたいが、これを「エイリアン」とか「ジョーズ」とかのホラー怪物映画ジャンルの作品だと思ったら期待外れとなる。
かと言って、我が「ゴジラ」のようなSF怪獣映画とも違う。

ポン監督の前作「殺人の追憶」では、ラストに至ってもついに犯人の正体が分からなかったし、一見平和に見える風景の中にも、“得体の知れない現代の闇”が潜んでいる事をシンボリックに描いていた。
そして見え隠れするのは、国家、警察組織に対する不信感である。

こうしたテーマを、“怪物パニック映画”というカテゴリーで更に追求したのが本作である。言わばここに登場する怪物は、その“得体の知れない現代の恐怖”シンボライズした存在であると言えよう。

加えて、ポン監督演出の特徴は、ストレートに描くべき所を、笑える要素を配合したりして、わざとハズしている点にある。
「殺人の追憶」でも、ソン・ガンホ扮する刑事は、突然容疑者に飛び蹴りしたり、現場に陰毛が落ちてないのは犯人が無毛症だからだ…と銭湯に張り込んだり…といった笑えるギャグを随所に散りばめていた。

そんなわけで、本作における登場人物の設定もユニークである。主人公カンドゥ(ソン・ガンホ)は昼間から寝てばかり、客に出すスルメの足はちょろまかす…といったダメ人間である。その弟、ナミル(パク・ヘイル)は大学を出ながら無職で酒好きで、カンドゥに突っかかってばかり。妹のナムジュ(ペ・ドゥナ)はアーチェリーの選手ながら精神的な脆さで優勝出来ず。

そんなある日、カンドゥと彼の父親が営む売店のある漢江に突然怪物が現われ、次々と人間を襲い食いまくる。

カンドゥは娘ヒョンソ(コ・アソン)の手を引いて逃げるが、他人の子ととり違えてしまい、その間にヒョンソは怪物にさらわれてしまう。

・・・といった具合に、パニック映画でありながら、脱力するような笑える部分が随所にある。

こうしたコミカルな部分に違和感を感じる人もいるかも知れない。

しかし、ポン監督は、こうした描写を入れることによって、“失敗したり、落ち込んだりするのが人間の人間らしい所なのだ”、“そんな落ちこぼれ人間でも、勇気を奮い起こして懸命に頑張れば、怪物だって倒せるのだ”と言いたいのかも知れない。

この、何とも頼りない一家が、さらわれたヒョンソを助ける為に、警察にも国家にも頼らず、武器を手に入れ、怪物と対決する中で、次第に家族の絆を取り戻して行く。
ちょっと笑福亭馬之助に似た(笑)一家の父親(ピョン・ヒボン)がなかなかいい味を出して好演している。

Guemuru1 ラストでは、3兄弟はそれぞれに力を合わせて怪物と戦い、ダメ人間だったカンドゥは愛する娘の為に獅子奮迅の働きをし、ナムジュは精神的にタフになって行き、結果として大活躍することになる。

(以下ネタバレになりますので、映画を観た方のみドラッグして反転させてください)

前半で描かれた、大学で民主化闘争をし、火炎ビンを投げたこともあるというナミル、アーチェリーの選手であるナムジュ…という設定がクライマックスでの伏線になっている辺りもうまい。

そしてラストも、普通ならハッピーエンドにする所を、批判が出るのを承知のうえであえてハズしている。

これも監督の狙いなのだろう。あれだけの死闘の中でヒョンソが都合よく助かる…というのはハリウッド的ご都合主義過ぎる―という事なのかも知れない。

こういうラストにしたことによって、この映画は単なるパニック怪物映画を超えて、現代社会の不条理、そして家族と言うもののありようを見つめた問題作になっているのである。無論、傲慢なアメリカという国や国家権力に対する批判精神を見ることも可能。

また、'50年代に盛んに日本、アメリカで作られたB級SF映画へのオマージュとしてみても面白い。さまざまな見方が出来る映画であるが、それもまたこの映画の奥の深さを示している…と言えるだろう。

SFXはかなりグレードの高い出来。それもそのはず、クリーチャー造形を「ロード・オブ・ザ・リング」「キング・コング」などのWETAワークショップ、視覚効果を「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」などのハリウッドのオーファネージ社に外注しているのだから。手持ちで激しく揺れるカメラが追っかける怪物の映像はまるでドキュメンタリーを見ているかのようである。

ボン・ジュノ監督、まことにあなどれない異色の作家である。次回作が楽しみである。

 (採点=★★★★☆

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2006年9月 2日 (土)

「時をかける少女」

Tokikake (2006年・角川ヘラルド/監督:細田 守)

かつて大林宣彦監督、角川春樹監督によって2度も映画化された、筒井康隆原作のジュブナイルSFファンタジーの3度目のリメイク。

・・・とは言っても、前2作と大きく異なるのは、まずアニメである事と、次に主人公もストーリーもまったく原作と異なる。簡単に言えば、題名と、少女がタイムスリップするという設定のみを借りた、オリジナル作品と言ってもいい。

この夏の某アニメも原作を大幅に変えて顰蹙を買っているので、ちょっと不安になったが、結論から言って、面白く、そして感動した。これは意外な拾い物(と言っては失礼になるか)の秀作である。

主人公、紺野真琴は元気な高校生。何故か千昭と功介という2人の同級生の男の子とキャッチボールをするのが趣味。

ある日、自転車で学校から帰宅途中、坂道でブレーキが利かず踏切に激突、電車に撥ねられる…と思った瞬間、彼女は数分前に戻っていた。

この時から以降、真琴は思いっきり跳んだ時に過去に戻れることを知り、その能力に夢中になって何度も過去に戻る事を楽しむようになる(タイムスリップではなく、“タイムリープ”と劇中では呼ばれる)。

笑えるのは、せっかくの超能力を得た…というのに、真琴が利用するのは、妹に食べられたプリンを過去に戻って先に食べる…とか、カラオケに行って、何度もリープして長時間歌い続ける…とか、セコイ(笑)ことばかり。

Tokikake1タイムリープしたい時に、毎回ジャンプした後、派手にひっくり返ってはどんがらがっしゃんと扉やロッカーにぶち当る描写もいかにもアニメ的で笑える。生身の人間が演じたら痛そうであまり笑えるものではない(宣材でよく見る左の絵は、実はとんでもない所からのジャンプである。これには大笑いした)。

また、千昭と功介との三人模様の微妙なバランスが、功介を好きな少女が現われ、千昭からは愛の告白をされるなどで崩れそうになると、その都度リセットする…という真琴の心理も面白い。タイムリープは、そうした“三人の友情をいつまでも続けたい”と願う真琴の思いの具現化―と言えるのかも知れない。

そうした、ドタバタコメディ調の前半から、後半は一転、サスペンスと、少女の切ない思いに感動する展開となる。緩急をうまくミックスした細田守監督の演出は見事である。

 

何度も過去にタイムリープするという話では、昨年「バタフライ・エフェクト」という傑作があった。

今起きた事をなかった事にしたい為に過去に戻るが、却って状況を悪くしては又リセットし、しかしそれが又違う悪い結果をもたらす…という展開も「バタフライ…」と似ている。

しかし、こちらの作品はもっと楽しい。躍動感がある。笑いがある。そしてラストでは切なくなり、ホロッとさせられる

映画とは、やはりこうあるべきである。・・・・ましてや、子供や若い人が観るアニメならなおさらである。

くどいようだが、某アニメ(どうせ分かるから言ってしまうと「ゲド戦記」のこと)、がダメなのは、こうしたアニメ(を含むエンタティンメント)に不可欠な笑い、躍動感、楽しさ、明るさ、そして夢…が決定的に欠けているからである。

この夏のアニメ対決…は、圧倒的に「時をかける少女」の勝ちである(でも興行的には「ゲド-」の方が上なんでしょうね。悔しいけど)。

  (採点=★★★★☆

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