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2006年11月23日 (木)

「虹の女神 Rainbow Song」

Rainbowsong (2006年・東宝/監督:熊澤 尚人)

新世代の旗手として活躍している岩井俊二がプロデュースを担当し、「ニライカナイからの手紙」などの新進・熊澤尚人が監督した爽やかな青春映画の佳作。

お話は、主人公の青年・智也(市原隼人)が学生時代に付き合ってた女の子・あおい(上野樹里)が事故で死んだ事を知り、その彼女との過去を回想する…というストーリーで、お話そのものはさして珍しくない。

それより私がツボにハマッたのが、彼らが学生時代に映画研究会(映研)で8ミリ映画を作っていた…というエピソード。

映研でなくても、若い頃にホームムービーを含めて8ミリフィルムに触った事のある人なら、きっと懐かしさで胸が一杯になるに違いない。

以下は、やや本論からははずれるかも知れないが、8ミリ映画を知らない世代の為の8ミリ映画講座…と思ってお読み頂きたい。

8ミリ…と言っても今の若い人は8ミリビデオくらいしか思いつかないかも知れない。
しかし20年ほど前まで、ホームビデオが出回るまでは、子供の成長記録を残そうと思えば、8ミリフィルムを使ったカメラしかなかったのである。

実は私も昔、会社で行事記録を撮影するためのカメラ班を任され、この映画にも出てくるようなフジカシングルエイトの高性能カメラで8ミリフィルムの撮影、編集をやっていた事がある。

もう時効だが、そのカメラを練習の為と称して家に持ち帰り、フィルムのみ買って子供の成長記録をそれで撮っていたのである(ズルいな~(笑))。

当時フィルムにはフジとコダック系の2種類があり、(ちょうどベータとVHSのビデオのように)カートリッジの互換性はない。で、フィルムの質感にも微妙な差があり、フジはやや青みがかって落ち着いた色調、コダックは赤の発色がよく、カラフルな色調であった。フジの色調の愛好家もいたが、全般的には(特に自主映画を撮るような人には)コダック・フィルムが好まれた。私も後にコダック系のカメラを買ったので両方の違いも経験済みである。

ただ、コダックの欠点は巻き戻し不可で、オーバーラップなどの特殊撮影が出来なかった事である。

その点、この映画にも出て来るZC-1000などのフジの高性能機は、高速度撮影(スローモーション)、逆回転、オーバーラップなどの特殊撮影が可能で、8ミリで自主映画を撮る人にはこのカメラは垂涎ものであった。会社用フジカシングルエイト・カメラを使って撮った、スローモーションで動く子供の映像は我が家のお宝である(ますますズルい(笑))。

そんなわけで、この映画の後半で、あおいがコダックのフィルムをフジのカートリッジに詰め替えて使っていた…というエピソードが明かされるのはそれで納得いただけるだろう。
智也とあおいの上司、佐々木蔵之介が「その手があったか!」と悔しがるのは、当時コダック・フィルムを使っていた8ミリ愛好家なら多分みな同じ気持ちであろうと推察される。

で、実はこの裏ワザは、プロデューサーの岩井俊二が自主映画を撮っていた頃、実際にやっていた方法だそうで、彼女の8ミリに対するこだわりは、実は岩井俊二の体験に裏打ちされていると言えるのである。

8ミリフィルムの編集もまさにアナログで(アナクロと言えるかも(笑))、
スプライサーというカッターでフィルムを切断し、専用の透明テープでつなぎ合わせるだけである。彼女が映研の部室で、切ったフィルムを紙に貼り付けているシーンも、8ミリに触った経験のある人ならよく分かるのである。

現在ではコダック・フィルムは国内では製造中止になっており、現像もアメリカまで送らないとダメで、今では8ミリで映画を撮る人はほんの一握り(それもほとんどはフジ)…と言われている。

従って、写メールが出来る携帯が登場するこの映画の舞台となった時代(多分今世紀初頭)に、大学の映研で8ミリフィルムで(しかもフィルム入手が困難なうえに、フィルム代と現像コストはもの凄く高くつくコダック・フィルムを使って)映画を撮るなんて事はほとんどないだろう。従ってこのお話は、かつて8ミリフィルムで映画を撮っていたすべての映画少年たちに捧げるノスタルジックなオマージュである…と言えるだろう。

 

・・・さて、本題に戻ると、映画はそうした映画作りを通して知り合った若者たちの、不器用で頼りないけれど、一生懸命に頑張って生きている姿を等身大で描き、新鮮な感動を呼んでいる。

難を言えば、あおいの想いに応えられなかった智也は、いくらなんでも鈍感過ぎないか…と言う点だろう。最初は別の女の子やあおいにストーカーまがいの行動を取ってたくらいなのに。積極的なのか奥手なのかよく分からん性格だ。

それをカバーして余りあるのは、前述の8ミリという素材にこだわる映画愛であり、熊澤監督の若者たちにに向けるやさしいまなざしである。

―もっとも、その原動力はやはりプロデューサーの岩井俊二によるところが大きいだろう。

例えば、物語の冒頭で既に恋の相手が死んでいる事、そしてラストで、あるアイテム(代筆手紙―図書カード)によって、相手の想いが主人公にも観客にも明らかになる…という展開が、岩井俊二監督の傑作「Love Letter」とよく似ているし、そして出演俳優は岩井監督の「リリイ・シュシュのすべて」の市原隼人、同作や「花とアリス」の蒼井優など、岩井映画の常連で固められている。

熊澤監督としては、岩井俊二から離れてもこのレベルの映画が作れるか…という点を次回作で是非証明して欲しいものである。

ともあれ、8ミリへのこだわりによって私の採点はぐっと上がって・・・  (採点=★★★★☆

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2006年11月18日 (土)

鞴(ふいご)座ライブ AT WILDBUNCH

6月の「一期一会」ライブ以来、久しぶりに、前回と同じブックカフェ「ワイルドバンチ」で本日行われた演奏会に行ってまいりました(11月18日 午後6時開演)。

Fuigoza_1

今回の出し物は、ちょっと珍しい、アイルランド楽器、バグパイプをメインに、アコーディオンとギターをフィーチャーしたユニット、鞴(ふいご)座によるライブです。

ユニット名、鞴座とは、使っている楽器がバグパイプにアコーディオンと、どちらも製鉄の際に火を起こすふいごのように空気を送り込んで鳴らすものであるところから付けられたのだそうです(と言っても“ふいご”という道具を知らない世代が増えて来てますからピンと来ないかも。私の世代なら小学校唱歌「村の鍛冶屋」の中に出てくるのでお馴染みですが…)。

で、出し物ですが、バグパイプ中心だからと言ってアイルランドの音楽ばかりではなく、フランス(ミュゼと言うのだそうです)、スエーデン、ジプシー音楽から日本のメロディーまで幅広く、またリーダーの金子鉄心さんは、バグパイプだけでなく、ソプラノ・サックス、大小数種類の縦笛(ティン・ウイッスル、ロー・ウイッスルなど)を取っかえひっかえ見事に演奏して楽しませてくれます(口笛まであり(笑))。

アコーディオンの紅一点、藤沢祥衣さん、ギターの岡部わたるさんと息の合ったセッションで、金子さんが言われたように、踊りたくなるほどリズミカルで楽しいライブでした。

金子さんの軽妙なお喋りもまた楽しくて笑いを誘い、終始なごやかなムードでした。

曲の題名には、「フイゴ座の怪人」「鞴座の夜」(共にCDのタイトルにもなっている)など、思わずニヤリとするものもありました。なかなかシャレてます。

入りの方は、狭いスペースに60人ほどで満席、立ち見状態で、聴衆の反応も良く、拍手のうちに2度もアンコールがあるなど、盛況裏に約2時間のコンサートは終了しました。

聴く前まではどんな演奏会なのかちょっとピンときませんでしたが、聴いてみたら実にノリが良くて、ヨーロッパ的な哀愁味と、テンポあるエネルギッシュなリズム、そしてどことなくノスタルジーをかき立てるサウンドに、すっかり魅了されました。

やはりライブはいいものですね。忙しくてなかなかチャンスがありませんが、出来るだけ機会を捕らえて、いい出会いを期待したいものです。

ワイルドバンチでは、これからもライブ演奏会を定期的に開催するという事なので、興味ある方は是非どうぞ。

ちなみに、来月21日には、元・山下洋輔グループにいた林栄一バンドによるジャズ・ライブがあります。  → http://www.geocities.jp/bcwildbunch/live.htm

 

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2006年11月11日 (土)

「デスノート the Last name」

Deathnote2 (2006年・ワーナー/監督:金子 修介)

前編は評判が良かったが、どうしても都合がつかなくて見逃した作品である。

驚いたのは、10月27日に日本テレビが、6月に公開したばかりの前編をテレビ放映したことだ。ビデオも出ていないのに封切5ヶ月足らずでテレビに流すとは前代未聞である。

しかしこれは結果的に、11月3日に公開される後編の予告編ともなって、私のように前編を見逃している人にも面白い! これなら後編を是非劇場で観たい」と思わせる絶大な宣伝効果を発揮したと言える。
実際、本作は劇場でも大ヒットしているようだ。

考えたな…と思ったのは、放映中、画面の右肩にずっと「金曜ロードショー」のロゴを表示させていた事で、物語の内容は十分理解出来るが録画保存するには邪魔で、結果的に気に入った人はやっぱりDVD買うだろうから、この方法は今後も使えるかも知れない。
もっとも、前編が面白くなかったら逆効果になるというリスクも抱えてはいるが…。

さて、まず前編を観ての感想だが、予想を遥かに超えて面白かった。私は漫画も見ていなくてどんな内容か知らず、てっきりホラー系か「デビルマン」のようなパターンかと思っていた。

ところが、これはむしろ知的ミステリー…とも言えるジャンルの作品であった。簡単に言うなら、
エリートで頭のいい、完全犯罪を企む犯人対、見た目は冴えないが実は頭脳明晰な名探偵の知能対決パズルゲーム―― なのである。

こう言えば、すぐに頭に浮かぶのは「刑事コロンボ」である。「デスノート」は、いわば、“刑事コロンボ、死神バージョン”と言った方が分かり易いだろう。そういう意味では、この手の知的ミステリー大好きな人の方がもっと楽しめる作品なのである。

主人公夜神月(ライト)(藤原竜也)は某帝大の秀才学生で、これまで父の警視庁刑事局長夜神総一郎(鹿賀丈史)の捜査にも協力したことがある。その彼が、名前を書くだけで人を死に至らしめる死神のノートを手に入れた事から、救世主キラとしてこの世の許せぬ悪を滅ぼし、理想の世界を築こうとする。

まあそこまではよくあるパターンだが、この作品がユニークな点は、主人公と対決する探偵役に、L(竜崎)(松山ケンイチ)と呼ばれるちょっと変わったキャラクターを創造した事である。

なにしろ、顔色悪く、猫背で裸足、寝てる時以外はずっと甘い物ばかり食べてる(何で太らないんだろ(笑))人を食ったヘンな男。警察も最初は半信半疑。

しかしすごく頭がいい。ちょっとした手掛かりから、鋭く犯人を割り出して行く。またその正体がずっと謎のまま(収入は、生活拠点は、インターポールとの接点は?)であるのも、コロンボとよく似ている(コロンボも私生活―特にカミさん―など謎だらけ)。

犯人役である夜神月の天才的な知能の冴えも素晴らしい。特に、監視カメラで見張られている中で殺人を実行する、そのアイデアには唸った。

そして前編のクライマックス、監視されている中で、邪魔な人間を抹殺すると同時に、完璧に自分が犯人キラでない…と証明させてしまう、その冷酷な計算には驚嘆させられ、かつゾッとさせられる。まさに“天才は狂気と紙一重”である。

この物語は、さまざまな教訓を孕んでいる。人を守るべき法律が、逆に凶悪犯を守る存在(心神喪失なら無罪等)になっている矛盾。犯罪者の人権は守られるのに、被害者は事件後も心身共に傷つけられる実態。カリスマ的なヒーローを求める大衆心理のコワさ。そしてオウム真理教事件に見られるように、エリートの秀才ほど頭でっかちになって、理想を追うあまりに現実が見えなくなってしまう恐ろしさ……等々。

それらを背景にしつつ、全体は天才的知能犯を追い詰める名探偵の活躍を描くミステリー・エンタティンメントにまとめられている。この物語の面白さはそこにある。

いやはや、こんな知的探偵ものとは想像もしていなかった。前編を劇場で観なかった事が悔やまれる。

そこで後編だが、前編では夜神月にやられっぱなしだったエルが、さまざまな仕掛けて反撃に出る。ひょっとこの面をかぶったり、前編と違ってとぼけた笑いを誘う辺りもますますもってコロンボである。

第2のデスノートが登場したり、アリバイを立証させる為、第3のキラを登場させたり、物語は複雑に絡み合って来るので頭が冴えていないと混乱して来るだろう。

そしてラスト、夜神月を追い詰め動かぬ証拠を突きつけるエルの仰天奇策…これ以上は映画を観てのお楽しみだが、この作戦もいかにもコロンボ的である。ミステリーの醍醐味が味わえる。

とにかく、コロンボや古畑任三郎、そしてアガサ・クリスティや横溝正史などの探偵ミステリーが好きな人にはお奨めの作品である。

エルという名探偵のキャラクターも出色である。松山ケンイチの好演も光る。この作品だけで終わらせるのはもったいない。コロンボも古畑任三郎も終わってしまっただけに、今後はエルを主人公にしたスピンオフ・ドラマを是非見てみたい所である(ラストは死ぬ事になっているようだが、実はまた気まぐれな死神が寿命を延ばしてくれたりして…(笑))。

 (採点=★★★★

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2006年11月 8日 (水)

「地下鉄に乗って」

Metro (2006年・ギャガ=松竹/監督:篠原 哲雄)

浅田次郎は好きな作家の一人である。監督も「月とキャベツ」「はつ恋」「深呼吸の必要」などでお気に入りの篠原哲雄。しかも昭和39年にタイムスリップする…というお話。加えて映画紹介記事に『ALWAYS 三丁目の夕日』に感動した人には是非」とあるからには、これは観ねばならない…と、時間をやりくりして観たのだが…。

観終わってガッカリした。いや、こんな作品だったら観ない方がよかった。久しぶりに金を返して欲しいと思った。

無論、この作品に感動した人もいるだろうし、どうしようもない駄作という訳ではない。原作に感動した方ならご覧になっても一向に構わない。あくまで、私自身の尺度でダメと思うだけである。

しかし少なくとも、「ALWAYS 三丁目の夕日」感動をもう一度―と思う方にはお奨め出来ない。これからご覧になる方は参考にしていただけたらと思う。

 

お話の骨子は、父の家族に対する横暴ぶりに愛想をつかし、父との縁を切った男が、タイムスリップして過去の父の姿を見るうち、父の本当の姿を知って和解する…というもので、なんとなく「フィールド・オブ・ドリームス」や大林宣彦監督の秀作「異人たちとの夏」を思い起こさせ、それだけでも感動の秀作になりそうな予感がした。

なのに何だこれは!  (以下、多少ネタバラシします。そのつもりで)

外で愛人を作ったりする父と縁を切り、籍も抜いて苗字も変えるくらいだから、多分主人公・真次(堤真一)はよっぽど潔癖な性格なのだと普通は思うだろう。
ところが、真次自身、妻子がいるのに会社の同僚と不倫してるのである。まずこれで主人公に共感できない。妻が性格悪くて別れたいと思ってるならともかくも(それでも不倫は良くないが)、映画を観たらごく普通の家庭だし…。なんで不倫してるのか、そこが描けていない。

この父親・小沼佐吉(大沢たかお)が、一代で財をなしたという事なのだが、どうやって戦後の混乱期に蓄財したのか、それがタイムスリップしたおかげで、なんと米軍の横流し物資を売りさばいていたからだと判る。おまけに、あれは明らかに詐欺ですよ。それを真次は父の横に付いてずっと見ているわけなのだが、それで感心してちゃダメでしょ。こともあろうに、自分の家族の豊かな暮らしが、ピストル片手のヤミ取引と詐欺によって築かれたものだと知ったら、私なら余計ガッカリし、縁切りたくなるよ。

もっとヒドいのは、ラストで、長男が死んだというのにこの父親は、通夜にも立ち会わず愛人のところへ寄って、生まれて来る(愛人の)子供の名前はどうとかハシャギまくっており、その光景を真次は横で見ているのである。――バッカじゃないの?私ならブチ切れて父親殴り倒すところである。何考えてんだろうね。普通ならこれでますます父親に愛想をつかすと思うのだが…。なんでその後、父を見舞う気になるのか、私にはさっぱり理解出来ない。

もう一つあきれた点。最初にタイムスリップした時、兄が亡くなる4時間前くらいである事を知り、兄に会って、家から出ないよう懇々と言うのはいいのだが、何でその後確かめもせずに帰っちゃうんでしょう?。亡くなった時間、場所も(普通なら)知ってるはずだから、そこで待ち伏せして事故を食い止めようと何故しないのか。
しかも翌日、会社の社長との会話で、「母に聞いたら、あの後やっぱり家を出ちゃったらしいんですよ」とノー天気にひと事のように言ってるのを聞いて私はイスからズッコケそうになった。兄を助けるチャンスをみすみす逃した事を普通なら激しく後悔するのが当然ではないのか。ホントにこいつ、バカかと思ったよ。

まあそれで社長が言うように、「運命というものは変えられない」という事であるなら分かる。歴史を変えてはならないという事なのだろう。
ところが、ラストではその掟をひっくり返してしまい、過去が変わってしまうのである。一貫性がないではないか。

そりゃ、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」なんかのような、ファンタジー・コメディ・アドベンチャーなら何でもアリだろう。もともとホラ話なのだから。
しかし、いくらファンタジーでも、こういう泣かせる話の中でこんな荒唐無稽な事をやってはいけない。みち子の存在は、過去に間違いなく事実としてあった筈で、存在しない歴史があったとしたら、それはパラレルワールドとして別の宇宙の話になってしまうから。

この他にも突っ込みどころはいっぱいある。

真次は、ほとんど同じ背広姿で過去の佐吉の前に4度現われるのだが、そんなに印象に残る姿なのに、佐吉が毎回全然覚えていない様子なのはなんでだろう?

そのくせ満州では、「オレは占い師(真次のこと)に絶対死なないと言われた」からという事で(そう言われた事は覚えてて、本人が目の前にいるのに何で気付かない?)、民間人を裏から逃がして自分は盾となってソ連兵に向かって機関銃をバリバリ撃ちまくってる。

あのねぇ、そんな事したら、間違いなく死ぬよ(笑)。そうでなくても捕虜になって何年も日本に帰れないと思うが…。どうやって終戦直後の日本に戻れたのか?謎である。

まだまだあるが、キリがないので止めておく。

しかしどうしても許せないのは、真次とみち子(岡本綾)の関係と、みち子の取った行動である。(以下モロネタバレななるので伏せます。読みたい方はドラッグ反転してください)

実はみち子は真次の腹違いの妹である事が分かるのだが、それって近親相姦でしょ?本来は憎んでいた父と和解するハートウォーミングな話がメインと思うのだが、なんでこんな余計な(しかもおぞましい)話を盛り込むのか?ピントがボケてしまうと思うが。

しかもかなりしつこくベッドシーンが出て来る。ますます気分が悪くなる。

そして、身重の母を抱いて石段から転落するみち子の心理も不可解。真次を思って身を引くなら、黙ってどこかへ行ってしまえばいいだけの話だろうに。なんで母を幸福から地獄のどん底に突き落とすという残酷な事をするのだろう。母か、あるいは佐吉に復讐するというのなら分からないでもないが、そうでもなさそうだし…。

なによりいけないのは、“命を粗末にしている”点が問題である。どんな事があっても、自ら命を絶つ…という事を美談のように描いてはいけないと私は思っている。これがこの映画で、私が絶対に許せない部分である。
↑ネタバレここまで。

私は、映画とは、楽しくて夢と感動を与えてくれるものであるべきだと思う。その為には、主人公にまず共感できなければならないし、それによって主人公に感情移入し、頑張れと応援したくなるように展開すべきである。そして、ささやかでもいい、主人公たちにはハッピーな結末を迎えて欲しい「ALWAYS 三丁目の夕日」はまぎれもなくそんな映画だった。だから多くの人々の共感を得たのである。

この映画は、その点ではまったく同作とは相反するような作品である。だから「三丁目の夕日」に便乗したような宣伝(ポスターデザインまで似せてあるし、同作の出演者の一人、堤真一を主演にしたのもそういう魂胆かと勘繰ってしまう)や売りは混乱の元である。止めて欲しい。

大体、話の時代が真次やみち子の年齢からして、原作が発表された1994年頃でなければならないはずである(携帯が現在のものなど、明らかな考証ミスも問題)。その当時映画化していればまだしも、何で2006年の今頃になって映画化したかと言えば、「三丁目の夕日」のヒットにあやかって急遽企画した…のはミエミエである。

そういう不純な動機で、原作を表面的になぞり、いかにも昭和レトロ感動映画ですよといった顔をしてる偽善映画を私は認めるわけには行かない。そんなわけで、あくまで個人的にだが、本作を今年のワースト映画に挙げたいと思う。     (採点=×

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2006年11月 4日 (土)

「スネーク・フライト」

Snakeflight (2006年・ニューライン/監督:デヴィッド・R・エリス)

わぁーっはっはぁ~ 楽しい~ 笑える。頭をカラッポにして、とにかく107分間楽しむ事だ。この映画に理屈やツッ込みはいらない。気分転換にはもって来いのお奨め作である。

前作「セルラー」でも携帯電話を絶妙に生かした展開で唸らせたデヴィッド・R・エリス監督、本作も“飛行機がヘビに乗っ取られたら…”という、とんでもないおバカなお話を、実にうまく料理して最後の最後まで楽しませてくれる。

発想はB級映画そのものである。―大体がヘビが出て来る映画はB級に決まっているのである。題名挙げてみようか。「怪奇!吸血人間スネーク」「残酷ヘビ地獄」「人蛇大戦・蛇」「恐怖!蛇地獄」…まあ題名だけでも想像がつく、むしろC級作品といってもいい。最近の「アナコンダ」は出来のいい方で、B級なのにA級に見えてくる(笑)。

ジャンル的には、“パニック映画”と称される部類の作品だが、映画史的に見ると、このジャンルには大きく分けて2種類に分類される。それは、“動物もの”と“乗り物もの”(語呂悪いな(笑))である。

動物もの”は、かなり昔からある。巨大化したクモとかアリ(ほとんどは放射能の影響)が人間を襲う、典型的なB級SF作品は'50年代によく作られた。逆に小さい方では、人喰い蟻の大群が襲ってくる「黒い絨氈」 (54)が有名。主演は後に猿の奴隷となるチャールトン・ヘストン。鳥が人間を襲うヒッチコック監督の「鳥」(63)は傑作。

これらは単発で飛び飛びに作られて来たが、'75年にスピルバーグが「ジョーズ」の大ヒットをぶちかましてからは、それこそ雨後のタケノコの如く動物パニック映画が量産された。
クマあり、タコあり、ネズミに猫に下水道のワニに蜂の大群、ミミズの大群もあればクモの大群もありと百花繚乱、そのうち下火になったが今もタマにポツリポツリと作られている。まあ息の長いジャンルと言えよう。

一方の“乗り物もの”では、'70年の「大空港」(原題:Airport)が嚆矢で、以後、「エアポート」シリーズが数本作られる。船の方では、最近もリメイクされた「ポセイドン・アドベンチャー」(72)が大ヒット。スケールがでかい分、A級作品が多い。他では、地下鉄やら大陸横断超特急やらといろいろ。我が国でも刺激されて「新幹線大爆破」(75)が作られ、フランスで大ヒット。後にはこの作品のアイデアをパクった「スピード」が作られた。

 
長々と紹介して来たのは、こうした過去の作品を知っておくと、本作が余計楽しめるからである。

何しろ、上の例でも分かる通り、本作はこの2大パニックものジャンルを見事にくっつけているのである。長い歴史があるパニック映画だが、今までこの2つを合体させてみようとは、誰も思いつかなかったのだろうか。考えた人エライ・・・と言いたい所だが、こともあろうに“ヘビ”を乗せるとは…。
何故かと言うと、前記のように、飛行機もの=A級パニックであり、一方のヘビ=C級ゲテモノ…といった具合に、ジャンルがまるでクロスしないのである。考えた人の頭の中を覗いてみたいものである。

しかし映画は予想以上に面白い。過去の、それぞれのジャンルにおけるアイデアもうまく取り入れている。例えば、ヘビに噛まれてパイロットが死んでしまい、操縦をどうするのか…というくだりは、セスナと衝突して機長が吸い出され、副操縦士も重傷を負うというお話の「エアポート’75」からいただいているし、ヘビの目線によるカメラ移動は「ジョーズ」である。

本作は、そうしたスリリングなサスペンスを盛り上げる部分では正統派映画の流れを継承しつつ、時にうんとおバカな笑いを網羅し、それこそ“笑いと恐怖のフーガ”を奏でているのである。

さまざまな難関もうまく配置されている。空の上だから逃げ場がないし、近くに降りる飛行場もない、蛇が特殊な種類で血清が足りない、パイロットが不在でどうやって着陸するのか、なおも襲ってくる蛇はどうやって退治するのか…と絶体絶命の状況をセットし、さて、それらをどうクリアするのか…。その解決方法もまさにおバカで大笑いさせてくれる。

こういう企画は、我が国なら絶対通らないだろう。それを結構な予算もかけて作り、そして大ヒットさせてしまう(初登場第1位!)アメリカ映画界と観客(それにこんな映画に嬉々として参加し楽しんでるサミュエル・L・ジャクソン)のそれぞれの懐の深さを思い知らされる。

エンド・クレジットにおけるミュージック・クリップもこれまた楽しい。

それにしても、韓国の「グエムル―漢江の怪物」といい、金をかけてしっかり本格的に作ったおバカ映画が、それぞれ大ヒットしているのはうらやましい限りである。我が国にそんな時代がやって来るのはいつの日の事だろうか。    (採点=★★★★

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