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2006年12月31日 (日)

「暗いところで待ち合わせ Waiting in the Dark」

Kuraitokorode (2006年・ファントム/監督:天願 大介)

ほとんど宣伝もされず、ひっそりと公開されていたので、私もつい見過ごす所だった。たまたま入手したチラシを見て、原作・乙一、監督・天願大介と言う名前を見つけて俄然興味が湧いた。

乙一は「GOTH」を読んでいて、気になる作家ではあったし、天願大介と言えば今村昌平の息子であり、前作AIKIがなかなか良かったので注目している作家の一人である。

観に行った時はレイトショーだけの上映だった(シネリーブル梅田)。で、観終った感想…面白い!これは拾い物である。こんな隠れた秀作を多くの人に見せないなんて、けしからん!映画メディアも評論家もなんで無視してるのだ。特にミステリー映画ファンにはお奨めである。

まず、着想が面白い。交通事故で盲目になり、母は離婚し、父も突然死去して高台の家に一人住む少女の家に、殺人事件の容疑者の男がこっそり忍び込んで、気配を隠して同居するようになる。少女は誰かいる気配を感じるが、その正体に気付かない。果たして少女の運命やいかに…。

うーん、このシチュエーションだけでもハラハラする。「フラガール」の時にも書いたが、着想がユニークな作品は、それだけでもポイントが高くなる。加えて、周到に伏線が張りめぐらされ、先の読めないスリリングな展開の末に、さまざまな疑問点がラストに至ってすべて集約されて行き、あっと驚く意表を突いた結末になだれ込む。

それでいて、互いに心を閉ざした少女と男の、それぞれの心の暗闇、哀しみ、切なさも丁寧に描かれていて、単なるサスペンスに終わらず、人間ドラマとしても見応えがある。

セリフを極力抑え、ほとんど主演2人の沈黙の演技だけで持たせている。これは脚本、演出、そして主演俳優の演技力が絶妙のアンサンブルでバランスを保っていないとなかなか成功しないものである。お見事と言いたい。

つい先日、大森一樹監督のやはりサスペンス・ミステリー「悲しき天使」をかなりケナしたが、あれがダメな理由は本作と比較すればよく分かるだろう。設定が陳腐なうえに伏線もなく、登場人物の感情表現もおざなりで取ってつけたよう。何を考えてるのかよく分からず、主人公たちに感情移入出来ない(うーん、またケナしてしまったな。御免なさい)。

本作は、原作も良く出来ているが、脚本・監督の天願大介による映像化へのアダプテーションがうまいのである。

“ミチルの章”、“アキヒロの章”―と、少女ミチル(田中麗奈)と男アキヒロ(チェン・ボーリン)の出会いに至るまでの日常生活を別々に丹念に追い、まずそれぞれに観客が感情移入し易いように配慮されている。

原作では日本人だったアキヒロを、映画では中国とのハーフという設定に変更しており、これを疑問視する声もあるが、勤務先の先輩、松永(佐藤浩市)がアキヒロを執拗に苛め、しまいにはアキヒロが殺意を抱くまでに至る、その理由としては松永の中国人に対する差別意識があった…とする方がより自然であるという事だろう。日本人で、あそこまで他人を寄せ付けない暗い性格なら、観客が感情移入し難いだろうし…。そう考えるなら、私はあれで正解ではないかと思う。

多少難点もなくはないが、それらを補って余りある、ミステリーとしての意外な展開、すべてが終わった後の、余韻の残る爽やかなラストシーン、難しい役柄を見事にクリアした田中麗奈の好演…等も相まって、 実にいい気分で映画館を後にする事ができた。

ここからは完全にネタバレです。未見の方は読まない事。映画を観た方のみ、ドラッグ反転させてください。
実は松永を突き落とした犯人は別にいたのだが、劇中何度も登場する松永転落の回想シーンでは、アキヒロが突き落としたかのようにモンタージュされていて真犯人の姿は見えない。これは反則スレスレのミスディレクションである。

しかしこれもいい方に解釈するなら、ラストでアキヒロが独白するように、アキヒロ自身にも殺意はあったわけで、このイメージショットは現実シーンではなく、アキヒロの妄想の具象化とも感じられるのである。無論、ミステリーとしても真犯人が早くから突き止められてはまずいという点もあるが…。

伏線の張り方もうまい。ヒントはあちこちに仕掛けられているのであって、従業員のさりげない会話の中に、よく聞けば松永がハルミ(井川遥)を捨てたらしいと想像できる部分もある。

アキヒロがミチルの家に忍び込んだ本当の理由は、警察に追われ逃げ込んだのではなく、駅のホームにハルミが現れるのを監視していた為だと最後に判明するのだが(それでいつも窓際に座り込み、外をチラチラ覗いていたわけである)、観客はその様子が、警察が見張っていないか、怯えているのだと錯覚する。これも巧みなミスディレクションである。

 
(お楽しみはまだ続く)
ところで題名だが、映画ファンなら、「いところでち合わせ」というタイトルからすぐに、A・ヘップバーン主演のサスペンスの快作くなるまでって」を思い出すだろう(どうでもいいが、大森一樹の長編デビュー作のタイトルが「暗くなるまで待てない」である(笑))。

「暗くなるまで待って」のストーリーも、盲目のヒロインの家に悪人が忍び込み気配を殺して部屋の中にいるのに、ヒロインは気付かない…と、本作とよく似た展開となる。
恐らく原作者は、この映画に多少ヒントを得て本作を書いたのではないだろうか。題名が似ているのは、ヒントにした事をカンのいい観客に悟らせる為かも知れない。

またネタバレになります。↓
「暗くなるまで待って」を観た観客は、あちらが、殺人犯が最後で正体を現わし、ヒロインを殺そうとする…という展開も知ってるから、余計アキヒロがミチルを襲うのではないか…と錯覚しハラハラする。-そこまで考えてこの題名にしたのなら、乙一もなかなか策士である(笑)。

ついでだが、本作のサブタイトルは "Waiting in the Dark" … 古い映画ファンなら、これがフレッド・アステア主演の傑作ミュージカル「バンド・ワゴン」の中で使われ、今ではスタンダード・ナンバーとなっている名曲 "Dancing in the Dark" のモジリだと気が付くだろう。も一つついでに、このタイトルを拝借したと思しい、ビョーク主演のミュージカル映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」 "Dancer in the Dark" の主人公も失明の恐怖に怯えているのである。―こんな具合に、タイトルからいろいろ連想してみるのも面白いものである。

 
そんなわけで、これはミステリー・ファンにはお奨めの秀作である。もし原作を未読なら、映画を観てから後に読むほうがいいだろう。また、ビデオで観る場合には、出来るだけ真っ暗で、一切の物音がしない環境で観る方がより楽しめる。―その意味では、劇場で観るのが一番いい鑑賞方法と言えるだろう。     (採点=★★★★☆

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2006年12月30日 (土)

「007/カジノ・ロワイヤル」

(2006年・ソニー・ピクチャーズ/監督:マーティン・キャンベル)

Casinoroyale 最近の007シリーズは、アクションがどんどん派手になり、「M:Ⅰ」シリーズとかスティーブン・セガール主演アクションものとほとんど似たり寄ったり、最近作の“透明になるボンドカー”に至ってはあきれて、次に悲しくなった。初期の頃の、スパイの非情な世界、それでいてオシャレで、エレガントな味わいは影も形もない。ここ数作なんて、どの題名がどんな作品だったかほとんど覚えていない。まあ初期の頃は東西冷戦構造という当時の時代背景もプラスしていたせいもあるが…。

そんな中、ボンド役者がぐっとクールで若くなった本作。

当初は、ダニエル・クレイグの風貌が、ボンドというよりは敵の悪役が似合ってるようでちょっと危惧したのだが、なんとなんと、初期の味わいにかなり戻った素敵な佳作になっていた。これは、特に初期の作品が好きな人にはおススめである。

本作は、シリーズをずっと手掛けているイオン・プロダクション作品としては唯一原作を映画化していなかったもの(別の会社で過去に、ウディ・アレンなどが出演するドタバタ・パロディ作品として作られている)で、原作の第1作でもある。

そういう事もあって、本作はこれまでの作品を一度リセットし、“00”の番号を初めて手に入れた頃の若き日のボンドの活躍を描いている。言わば、新しいシリーズの1作目-と言ってもいいだろう。

新ボンドはとにかくよく動く。冒頭の追っかけアクションなど、走る、走る、まるでターミネーターT-1000並みだ(笑)。新兵器もあまり登場せず、ひたすら体を使う。裸になった時の筋肉が引き締まったボディも初期のショーン・コネリーを思い出させる。

かと思うと、中盤のカジノにおけるポーカー勝負は一転緊迫感に満ちて息を飲む。緩急自在の演出がいい。

そして、初期の作品を知っている者にとっては、いろいろ初期作品へのオマージュも感じられて余計楽しむことが出来る。

冒頭、モノクロ映像で、敵の部屋に居座り、敵と対峙する緊迫シーンは、第1作「ドクター・ノオ」にも似たシーンがあった。で、オチはやっぱり座ったまま顔色も変えずに相手を射殺する。
1作目でボンドが注文する「ドライウォッカ・マティーニをステアせずにシェイクで」というカクテルは流行になったものだが、本作でも(より詳しいレシピ付で)登場している。

舞台も、バハマジャマイカと、1作目、4作目(サンダーボール作戦)の舞台と同じ。ベニスは2作目「ロシアより愛をこめて」のラストシーンに登場する。そして、3作目「ゴールドフィンガー」で颯爽と登場した名車、64年型アストン・マーティンもしっかり登場するのだから、それだけでも初期のファンはニンマリしっぱなしだろう。

「ドクター・ノオ」で、初めてボンドが登場するシーンも忘れ難い。カジノのシーンで、ずっと手元のみをカメラが写し、美女の「お名前は?」との問いかけに、やっとカメラがアップしてショーン・コネリーの顔、そこにあのセリフ "My Name Is Bond, James Bond" …もうこれだけでシビレましたね。

だから、本作は、逆に最後の最後で、その決めセリフが登場し、ジ・エンド。

そして、あの、モンティー・ノーマン作曲の名曲「ジェームズ・ボンドのテーマ」がエンド・クレジットで高らかに鳴り響くのである。

これはまさに、ショーン・コネリーが活躍する初期の、とりわけ1作目「ドクター・ノオ」に対する素敵なリスペクトであり、オマージュでもあるのである。もうこれだけで私の目はウルウル、初期ファンは何はともあれ必見だろう。

ただ、どうしても初期作品にあって本作にないもの…それは、ショーン・コネリーがかもし出す、“粋(いき)-である。表現が難しいが、エレガントさとダンディズム、男の色っぽさ…等が絶妙にミックスされた雰囲気…とでも言おうか。まあ、現代の俳優にそれを求めるのは無いものねだりかも知れないが。

ともあれ、この作品の空気は是非次作以降にも引き継いで行って欲しいものである。間違っても、初期の5作目以降ほとんど荒唐無稽なマンガと化した、その轍だけは踏んで欲しくないと切に願う。     (採点=★★★★☆

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2006年12月28日 (木)

「犬神家の一族」

(2006年・角川ヘラルド=東宝/監督:市川 崑)

Inugamike 懐かしや石坂浩二の金田一耕助。まさか21世紀になって石坂金田一に再見出来るとは思っても見なかった。もうそれだけで、30年前のオリジナル作品をリアルタイムで観た私などは大感激である。

実際、冒頭に道の向こうから金田一耕助がトランクを下げてやって来るシーンを見たら、本当に涙が出て来た。ああ、変わっていない、石坂浩二も、そして巨匠、市川崑監督のスタイリッシュな演出もそのまんま変わらない。お二人とも、永遠の青年である。もう映画の出来などどうでもいい心境になって来た。

…て、それじゃ批評にならないので(笑)、冷静に気分を落ち着かせて書く事とする。

最初に、市川崑監督、石坂浩二主演という、オリジナルそのままのコンビで「犬神家の一族」をリメイクすると聞いた時は、首をかしげた。そんな事になんの意味があるのだろうかと思った。

セルフリメイクというのは、市川監督自身も「ビルマの竪琴」でやっているが、あの場合は、初作がモノクロでしかもビルマ・ロケが出来なかった…という無念の思いがあってのリメイクと聞いている。それなら意味があるのだが、本作はオリジナルで十分完成されていると思う。あれ以上のものが出来るとは思えない。

ところが、本作は市川崑監督が思い立ったのではなく、「帝都物語」、「リング」などのヒット作をプロデュースしてきた一瀬隆重プロデューサーが企画したものだという。確かに、当時あの映画を観て感激したという一瀬氏としては、どうしても自分の手で、あの感動を次の世代に伝えたい…と言う思いがあったのだろう。

多分今まで、世界の映画史上でも誰もやった事のない、“30年前の作品を、同じ監督同じ俳優で、同じ脚本を使ってそっくりそのまま作り直す”(しかもテーマ曲も同じ)というプロジェクトを実行するという作業は、それだけでプロデューサーとしては楽しくて仕方がなかった事だろう。…もっともこれは、監督の腕が落ちておらず、俳優もそれほど老けていない…という極めて稀な条件をクリアしなければならない。市川崑、石坂浩二といった、いつまでも若さを失っていない人たちが係っていた事はまことに幸運であった(無論、加藤武、大滝秀治が健在であった事も)。

 
30年前に前作が登場した時に、圧倒的な支持を受けたのは(キネマ旬報読者のベストテン第1位)、大手映画会社が活力を失い、日本映画全体がマンネリ化し、衰退モードにあった時に、大手映画会社以外から彗星のように角川春樹が登場し、かつ社会派ミステリーに押されて本格ミステリーがほとんど読まれなくなり、半ば忘れられた存在だった横溝正史にスポットライトを当てる…という斬新なメディアミックス戦略に多くの映画観客が時代の変革を感じたからである。

だから私も含めて当時の観客は、作品の出来以上に、この映画にとてもフレッシュな感銘を受けたのである。
市川崑監督のスタイリッシュな演出も相乗効果となった。

そういう時代から比べると、今本作を観ても当時の感銘には及ばない。前作を知ってる観客には、ストーリーも、ラストの結末も分かってるだけに余計インパクトは弱い。

一方、前作を知らない観客にとっては、前作のいくつかのシーンが削除されていたり、セリフだけの説明になっていたり(前作における、冒頭の犬神財閥の歴史をスチール写真で手際よく紹介するくだりは残しておいて欲しかった)と、やや解り辛い作りになっているうえ、物語の内容も今の時代には古めかしく見えてしまうかも知れない。なにしろ、“復員”という言葉すら、若い人には理解できないだろうから。

そんなわけで、総体的には作品評価は厳しいものにならざるを得ないだろう。

 
しかし、冒頭にも書いたように、この作品は30年前の俳優・スタッフが、年月を経て再度集まって、今も元気な姿を見せてくれる…という点こそがポイントであり、私にとっては、新作映画を鑑賞していると言うよりは、懐かしい同窓会に出席しているような気分であった。分かり易く言えば、野球のマスターズ・リーグを観戦している気分なのである。

そういうつもりでこの映画を鑑賞すれば、とても感動に浸ることが出来る。多少ヨタヨタするのも、足がもつれるのもご愛嬌。例えを変えれば、落語界の長老(人間国宝の桂米朝のような)の得意ネタを数十年ぶりに聞くようなもので、噺の調子はスローになってもやはり独特の味わいがあり、じっくり堪能出来るのと同じである。加藤武のお約束の、「ヨーシ、分かった」が、そら来るぞ…と思った頃にきっちり登場してくれるのも、まさに古典落語を聞いている気分であった。
 

 
で、お楽しみはまだある。
冒頭のメイン・タイトルに続くスタッフ・キャストのクレジット部分も楽しい。例のバカでかい明朝体のタイトルも崑さんのトレードマークとして楽しめる(前作よりはちょっとだけ小ぶり)が、そのクレジットの合間に金田一の動きをストップ・モーションで止めるカットが、かつて市川崑演出で人気を博したテレビ「木枯し紋次郎」のクレジット・タイトルを思い起こさせ、ちょっと懐かしかった。

で、よく考えれば、その紋次郎役を演じたのが中村敦夫。…そう、本作で古舘弁護士を演じているあの人である(凝ったメイクなので最初は誰だか分からなかった)。
なるほど、ここにも配役のお遊びがあったのか…と私は一人ニンマリしたのであった。これだけ楽しませてくれれば、採点もぐっと甘くなるのもむべなるかな…である。        (採点=★★★★

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2006年12月22日 (金)

「悲しき天使」

(2006年・ツインズジャパン/監督:大森 一樹)

Kanasikitensi_3 全く久しぶりの大森一樹監督作品。かつては「ヒポクラテスたち」「恋する女たち」「ゴジラVSキングギドラ」(この組合せもすごい(笑))などの才気溢れる力作を発表し、若手監督のホープとして(特に地元関西出身という事もあり)、私もデビュー以来ずっと熱い視線を送って来たが、ここ数年はどうもイマイチでパッとしない。「ドリーム・スタジアム」「走れイチロー」「T.R.Y」も、企画としては悪くないのに映画はつまらなくて失望した。
映画館を舞台とした「明るくなるまでこの恋を」に至っては、(いくらたった1日で撮影したとは言え)自主映画を撮っていた頃に逆戻りしたのかと思うほどタルんだ作品だった。

その彼が久しぶりに取り組んだのが、なんと松本清張サスペンス「張り込み」のリメイク。…と言っても、刑事が殺人犯の逃亡見込み先に張り込み、逮捕に至るまでの1週間を描くという基本線のみ拝借しているが、登場人物のキャラクターやストーリー展開はまったく異なる、オリジナル作品と言ってもいい。大森監督にとっても、初の犯罪サスペンス・ドラマである。

ポスターには、「その後の恋する女たち」とある。あの秀作から20年、主要登場人物に、それぞれ30歳台の3人の女性を配置しているところからして、あの3人の少女たちのその後の姿か…と思いきやそうでもない。こちらの3人は事件までは全く面識がないのだから。しかもそれぞれに悩みや重い人生を抱えており、あの、軽々と青春時代を飛び跳ねていた少女たちの面影もない。何よりこちらは犯罪ドラマなのだから。まあ何となく、3人のキャラクターが旧作の3人を少しづつ反映させているようには見えるが…。

東京の河原で死体が発見され、犯人は男の娘であることが判る。犯人は拳銃を持っており、逃亡先として可能性のある、かつての恋人であり、大分で旅館を経営している男を2人の刑事が張り込む事となる。期限は1週間、果たして犯人は現れるのか…。

刑事の1人を30歳台、恋人はいるが結婚に踏み切れず悩む女性・薫(高岡早紀)とし、犯人を被害者との間に忌まわしい過去のある女・那美(山本未来)とした所が面白い設定で、これで両者の女性としてのシンパシー、葛藤、そして薫の成長…等が描けておれば秀作になったかも知れない。

が、正直言って食いたらない。女性映画としても、サスペンス映画としてもどっちも中途半端。携帯、パソコン、ネット、120倍デジタルズームビデオカメラ、電話盗聴器等ハイテク機材をうまく活用している辺りは面白いが、見どころはそこだけ…と言ったら厳しいか。

脚本は大森1人で書いているが、誰かベテラン(出来ればサスペンスものが得意な)シナリオ・ライターと組んだ方が良かったのではないか。サスペンスとしてはいろいろがあるからである。

まず、犯人が長期逃亡する気なら、死体の身元が割れるものは剥がすなり、顔を潰すなりの細工をすべきである(同じ清張原作「砂の器」のように)。また弟も、簡単に自白せず、犯人は知らぬ存ぜずで粘らなければならないのではないか。あまりに簡単に犯人が割れ過ぎる。隠蔽工作にも拘らず、わずかの手がかりから犯人を突き止める…という方がサスペンス味が増すと思うが。

犯人の女がなんで拳銃を持っていたかも曖昧。父親を殺すつもりだったとしても、いくらでも方法がある。拳銃を所持する必然性が欲しい。

ベテラン刑事と組む相方が若い女性というのも、実際にあるのだろうか。問題が起きそうな気がするが。まあそれはドラマとして割り切るとしても、同じ旅館に長く泊まっているうちに、プライベートな事で話し合ったり、悩みを打ち明けたりする場面もあってもいいと思うが。最初は反感を感じていた先輩刑事に対して、一緒に仕事をしているうちに心を通わせ、信頼感を増してゆく…といったプロセスがあればなお良かったと思う。

以下、ネタバレになるので隠します。読みたい場合はドラッグ反転させてください。
そして分からないのが、男の妻(河合美智子)が積極的に犯人の国外逃亡を助けること。男が足を折ったおかげで男と知り合い、結婚できたと説明しているが、それが、犯人隠匿で逮捕されるリスク(旅館経営がピンチになることもあり得る)を犯してまで実行するほどの理由になるのだろうか。むしろ、幸福な今の生活を守る為に警察に密告する方が女性心理としては普通ではないだろうか。ここが一番弱い。

サッカー競技場から那美を逃がすシーンでも、ちょっと運に頼り過ぎてる。地元警察の協力で、もう少し見張る人数が多かったらすぐに逮捕されてる所だ。見張ってる刑事が2人しかいないと分かってたとは思えないし。

まあ、私はツッコミ所が多くても、ドラマとして面白く出来ておれば文句は言わない。女性映画としての犯罪サスペンス…という難しいジャンルに挑戦した大森監督の意気込みは買うが、若い時なら大目に見ても、ベテランの域に達した今では、この程度では満足出来ない。

口幅ったい事を言うようだが、女性心理の綾を繊細な演出で見事に描いた成瀬巳喜男監督の諸作品をじっくり観て、研究して欲しい。例えば、珍しい犯罪サスペンス「女の中にいる他人」の脚本・演出の卓抜さは是非見習って欲しいところである。

残念ながら、テレビの2時間サスペンスドラマとして放映されたなら、ちょうどいいくらいの出来である。捲土重来を期待したい。

蛇足ながら、タイトルの「悲しき天使」とは、'70年代に大ヒットしたメリー・ホプキンが歌うポピュラー・ソングの題名(副題も同曲の原題"Those Were The Days")。私も大好きな曲で、多分大森一樹も好きな曲なのだろうが、映画のテーマを表しているとは言い難い。この題名で映画を観たいという気にはならない。犯罪刑事サスペンスに相応しい題名にすべきではなかったか(うーん、なんか文句ばかり言ってしまったな。とにかく頑張ってよ、大森監督)。      (採点=★★

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(PS)内容はともかくとして、低予算映画の割には出演者は豪華。高岡早紀に筒井道隆(懐かしや青春映画の秀作「バタアシ金魚」の主演コンビ)、河合美智子(「ションベン・ライダー」の少女がすっかりオバサンになってた。ショック!)、岸部一徳、松重豊、松岡俊介、久しぶりの峰岸徹、そしてチョイ役で根岸季衣、伊佐山ひろ子…と映画ファンにはたまらない競演。大森監督の人徳か。この顔ぶれを見るだけでも料金の値打ちはある…と、ちょっとだけ持ち上げておきましょう。     河合美智子
Kawaimitiko

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2006年12月20日 (水)

「硫黄島からの手紙」

Ioujima (2006年・ワーナー/監督:クリント・イーストウッド)

イーストウッド監督の並々ならぬ凄さは、本作と対をなす「父親たちの星条旗」1本でも十分にテーマに鋭く切り込んでいるにも関わらず、さらに本作で日本側からの視点で戦争そのものを見つめる事によって、前作のテーマを更に深化させている点にある。

1本だけでもそれぞれ優れた作品であるが、この2本を続けて観ることによって、1+1が3以上の効果となって、イーストウッドが描きたかったテーマが更に明らかになる。

だから是非とも、2本をまとめて観るべきである。出来れば最初に「父親たちの星条旗」を観た後、本作を観て、更にその後もう一度「父親たち-」を見直すのがベターである。前作で作者が言いたかったことがさらにハッキリするだろう。

 
本作では、史実を踏まえながらも、激戦の中で必死に生き抜く“個人”=名もなき庶民としての兵士-を中心に据え、国家同士の対立という巨大な歯車に飲み込まれ、遥かな孤島の前線において殺し殺される兵士たちの悲惨な末路を冷徹に見つめる事によって、“この戦争は本当に正義の戦いなのか”というテーマをより顕著に表現している。

アメリカ人監督が撮った、アメリカの戦争映画であるにも拘らず、“アメリカの正義”などどこにも存在していない。投降して来た日本兵を、邪魔だからと射殺する米兵、火炎放射器で平然と日本兵を焼き殺す惨たらしさ。

日本側の描き方も、脱走兵を射殺したり、上官の言う事を聞かず、兵士たちを無駄死にさせ、自分は生き残ってしまう情けない中尉もいたりと、決して美化してはいない。手榴弾による集団自決シーンのなんたる惨たらしさ。

そんな中で、兵士たちに愛情をそそぎ、死ぬことよりも生き抜く事の大切さを説く指揮官、栗林中将(渡辺謙)の軍人らしからぬ人間性を丁寧に描く事によって、“戦争がなかったなら、きっと優れた指導者として功績を残したであろうかけがえのない人材を散らせてしまう戦争の愚かさ”がこちらに伝わって来る。LAオリンピックに出場し、アメリカ人からも慕われたバロン西(伊原剛志)にしても同様。

アメリカは正義でもなかったし、日本軍人も悪ではなかった。それぞれがこの地球に生きている人間であった。その彼らを戦い合わせ、殺し合わさせる、戦争こそが最大の悪であった。…これが2作を通じて浮かび上がって来るテーマである。

観終わって、深く考えさせられる、すべての人たちに観て欲しい、見事な秀作である。 
(採点=★★★★★

 

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「父親たちの星条旗」

Flagoffarthers (2006年・ワーナー/監督:クリント・イーストウッド)

クリント・イーストウッドは、衰えを知らない作家である。76歳を越えても、旺盛な創作意欲はますます勢いを増している感すらある。「ミリオンダラー・ベイビー」に続き、本作と並行して作られた「硫黄島からの手紙」もアカデミー作品賞最有力と聞く。凄い事である。

第二次大戦の激戦を描いた戦争映画はこれまでにも無数に作られているが、本作はそれら凡百の戦争映画とは大きく異なる要素を持っている。

何故なら、ほとんどのアメリカ製戦争映画は、“戦争とは正義を守る為の戦いである”というスタンスに立っているからである。
その為には、戦う相手は明快な“悪”である必要があり、幸いにもヒットラーという悪役がいた事によって、ヨーロッパ戦線を舞台とした戦争映画では、ドイツは徹底して悪玉になっているのである。「ナバロンの要塞」「テレマークの要塞」など、それこそ007に登場する秘密結社スペクター並の扱いまでされている作品もある。

第二次大戦後もその意識は継続されており、アメリカは世界の警察として正義を振りかざし、今に至っている。映画界もまた、そうした国家戦略を肯定する形で“正義の戦争”を映画の中で描き続けているのである。

無論、ベトナム戦争後は「ディア・ハンター」「帰郷」「プラトーン」など、いくつもの反戦的な映画が作られたが、それはあくまで、“負けた戦争”であるが故の反省に立っているからであり、勝っていたなら作られる事はなかったかも知れない。その証拠に、ここ数年はまた「U-571」とか「エネミー・ライン」とか「ステルス」とかいった“正義の戦争”映画がいくつか復活している。わが日本ですら、「パール・ハーバー」では卑劣な奇襲を仕掛けた国として、正義の戦争のダシに使われている。

 

そこで本作だが、さすがイーストウッド、勝者の戦争を描きながらも、決して“正義の戦争”としては描いていない。ここがこの作品のポイントである。

Flagoffarthers2 硫黄島の戦いで星条旗を立てた3人の兵士を戦争の英雄に仕立て、戦意高揚戦略に利用する国家と、その戦略に飲み込まれ、押しつぶされて行く兵士(=個人)のその後を描く…という物語を通して、イーストウッドは、“国家とは、大衆やマスコミを巧みにコントロールし、戦争への道に誘導する危険な装置である”というテーマに深く切り込んでいる。

これは、現在のイラク戦争において、ありもしない大量破壊兵器をデッチあげる事によって強引に世論誘導して行ったブッシュ政権に対する批判にもなっているのである。

“戦争とは、本当に正義の戦いなのか”― イーストウッドのこの問いかけは、この作品と対になっている「硫黄島からの手紙」においてさらに露になって行く。(続く)

 (採点=★★★★☆

 

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2006年12月18日 (月)

2006年度 鑑賞作品一覧

2006年度に鑑賞した新作映画のタイトルと、採点です。
タイトルをクリックすれば、リンク先に飛びます。リンクがないものは未掲載です。

  タイトル 採点
1月 博士の愛した数式 ★★★★★
プルーフ・オブ・マイ・ライフ ★★☆
THE 有頂天ホテル ★★★☆
単騎、千里を走る。 ★★★★☆
フライトプラン
2月 エリ・エリ・レマ・サバクタニ ★★☆
燃ゆる時 ★★★
スタンドアップ ★★★★☆
ミュンヘン ★★★★☆
オリバー・ツイスト ★★★☆
3月 かもめ食堂 ★★★★☆
クラッシュ ★★★★☆
PROMISE ★☆
ジャーヘッド ★★★★
ウォーク・ザ・ライン/君につづく道 ★★★★
シリアナ ★★★★
ブロークバック・マウンテン ★★★★
イーオン・フラックス ★★
ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ! ★★★★☆
SPIRIT ★★★★
サウンド・オブ・サンダー ★★★★
4月 寝ずの番 ★★★★☆
小さき勇者たち~GAMERA ★★★★
運命じゃない人(05) (ビデオ) ★★★★★
ファイアーウォール ★★★★
プロデューサーズ ★★★★★
RENT/レント ★★★★
タイフーン ★★☆
ナニー・マクフィーの魔法のステッキ ★★★★
V フォー・ヴェンデッタ ★★★☆
5月 明日の記憶 ★★★★☆
ナイロビの蜂 ★★★★☆
グッドナイト&グッドラック ★★★★☆
アンジェラ ★★
LIMIT OF LOVE 海猿 ★★★☆
6月 ポセイドン ★★☆
迷い婚 ~すべての迷える女性たちへ~ ★★★★
ダ・ヴィンチ・コード ★★★
夢駆ける馬ドリーマー ★★★★
インサイド・マン ★★★★
嫌われ松子の一生 ★★★★☆
かにゴールキーパー (ビデオ)
花よりもなほ ★★★★
初恋 ★★
バルトの楽園 ★★★
タイヨウのうた ★★★★☆
7月 カーズ ★★★★★
日本沈没 ★★★☆
ゲド戦記 ★★★
ゆれる ★★★★★
時をかける少女 ★★★★☆
力道山 ★★★★☆
8月 UDON ★★★
シムソンズ  (ビデオ) ★★★★☆
M:i:III ★★★☆
9月 グエムル 漢江の怪物 ★★★★☆
イルマーレ ★★★☆
紙屋悦子の青春 ★★★★☆
46億年の恋 ★★★★
日本以外全部沈没 ★★
雪に願うこと  (ビデオ) ★★★★☆
バックダンサーズ ★★★☆
フラガール ★★★★★
レディ・イン・ザ・ウォーター ★★
スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ ★★★
10月 地下鉄(メトロ)に乗って ×
ワールド・トレード・センター ★★★★
16ブロック ★★★★
ブラック・ダリア ★★★★
スネーク・フライト ★★★★
父親たちの星条旗 ★★★★☆
11月 デスノート the Last name ★★★★
虹の女神 Rainbow Song ★★★★☆
ナチョ・リブレ/覆面の神様 ★★★☆
手紙 ★★★★☆
トンマッコルへようこそ ★★★★☆
氷の微笑2 ★★☆
トゥモロー・ワールド ★★★★☆
12月 椿山課長の7日間 ★★★★
武士の一分 ★★★★★
パプリカ ★★★★☆
硫黄島からの手紙 ★★★★★
犬神家の一族 ★★★★
待合室 -Notebook of Life- ★★★☆
悲しき天使 Those were the Days ★★★
上海の伯爵夫人 ★★★★
007/カジノ・ロワイヤル ★★★★☆
暗いところで待ち合わせ ★★★★☆
カミュなんて知らない (ビデオ) ★★★☆
鉄コン筋クリート ★★★★☆
無花果の顔 ★★★★

 

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2006年12月16日 (土)

「椿山課長の七日間」

Tubakiyama (2006年・松竹/監督:河野 圭太)

浅田次郎の原作ものだが、この間観た同じ原作者の「地下鉄に乗って」がしょーもない駄作だったので、あまり観る気は起きなかった。

たまたま友人から「面白いよ」と奨められたので、時間もあったし、大して期待せずに観に行ったのだが…。

いやあ、映画は観ないと分からない。泣ける泣ける、ラストはとてもいい気分で映画館を後にする事が出来た。期待して裏切られる作品は多いが、期待してなくて思わぬ拾い物だった作品としては本年一番ではないだろうか。

お話としては昔からよくある、“天国に行く前に(あるいは成仏する前に)一時的に現世に戻って来た人が繰り広げるファンタジー・コメディ”というパターンである。バリエーションとしては、幽霊になって戻って来る場合もあり、これらも含めると枚挙に暇がない。

古くは「幽霊紐育を歩く」(41)、そのリメイク版、ウォーレン・ベイテイ監督・主演「天国から来たチャンピオン」(78)、最近では、デミ・ムーア主演で大いに泣かせてくれた「ゴースト/ニューヨークの幻」(ジェリー・ザッカー監督)が記憶に新しい。日本では、ショーケン主演の「居酒屋ゆうれい」(渡邊孝好監督)が良く出来た佳作。「黄泉がえり」(塩田明彦監督)も広い意味で含めていいだろう(コメディではないが)。

で、本作は、さすが泣かせの浅田次郎、さまざまな泣かせる要素を一杯取り込んでいるのだが、映画の方は原作の無駄な部分を上手に刈り込んで、シンプルに、うまくまとめている。これは脚本の勝利だろう(脚本は「星に願いを」「子ぎつねヘレン」(ノベライズ)の川口晴。泣かせるのは得意なようだ)。

デパートの売り場担当課長である椿山和昭(西田敏行)は、ある日仕事中に突然亡くなってしまう。天国との中継所である中陰役所で目を覚ました椿山は、死をまったく予期していなかったので、ボケて施設にいる老父やまだ小さい子供の事が気がかり。とてもこのままでは成仏出来ない。

ここで、中陰役所の案内係として天使(和久井映見)が登場し、どうしても現世にやり残した事がある人には、審査のうえで3日間だけ他人の姿で戻る事が出来るが、それには厳守すべきルールがあると説明する。
それは、絶対に自分の正体を明かしてはならないこと。その代わりに、現世にいる間は、服でも何でも出て来る“よみがえりキット”(ドラえもんのポケットのようなもんですね(笑))を使って自由に行動出来る。連絡も携帯テレビ電話というハイテクを使っている辺りも楽しい。
(どうでもいいが、これだったら題名は「椿山課長の3日間が正しい気もするが…)

こうして、同時に現世に帰ることが出来た、椿山と、本当の親に会いたい少年と、子分の暴走が気がかりなヤクザの親分(綿引勝彦)の―但しそれぞれ美女(伊東美咲)と、少女と、イケメンのデザイナー(成宮寛貴)に姿を変えた―3人のおかしくて笑えて泣ける物語が始まることとなる。

腹の出たデブの中年男絶世の美女に姿を変えているという設定がまずおかしいし(原作では、美女の姿になった椿山が全裸になって鏡の前で悶える…というスケベな場面があるが、映画はテーマ(後述)に合わないと見てかそんなシーンはない)、それが原因で巻き起こる誤解(遺影の前で美女が泣き崩れたら、誰だって愛人と思う)を始め、てんやわんやのドタバタ騒動も笑えるし、堅気という触れ込みの成宮がついヤクザ言葉を吐いてしまう辺りもおかしい。

それでも、全体的には、いかにも浅田次郎らしい、さまざまな人との触れあい、心の温もり、愛する人との別れ…等々を絶妙に配して、爽やかな人間讃歌にまとめている。

しかし、この映画における真のテーマは、親と子の絆だと私は思う。

実はよく考えると、3人ともそれぞれ異なる、親と子の問題を抱えている(ヤクザの方は分-分だけどね(笑))。―それは、毎日報道されない日はないほどの、親が子を殺す、子が親を殺す…という殺伐とした光景が広がる今の時代だからこそ、親と子はどう触れ合って行くべきか、考えて欲しいという事なのだと思う。また、ボケた親を泣く泣く施設に入れざるを得ない椿山の苦悩も、同じような境遇を抱えた人には他人事ではないだろう(この老父を演じているのがなつかしや桂小金治。まだご存命でしたか(失礼))。

だからこの映画は、是非とも親子で観るのが望ましい。前述のようにイヤらしいシーンがないのもその為だと思う。

少女に化けた少年が実の父母に会いに行くエピソードも泣ける。よく考えるとえらく古くさい話なのだが、このテーマを言いたかった為にあえて入れたのだろう。原作では正体をバラしてしまった為に一悶着あるのだが、映画では母親が自然に気付くよう変えてある。これは映画の方が正解だと思う。

物語は最後にもう一押し、泣けるエピソードを盛り込んである。ここもドッと泣ける。ハンカチを用意してないと困る事になるので要注意。

フジテレビのディレクターとして、「古畑任三郎」「白い巨塔」などで手堅い演出を見せていた河野圭太の、「子ぎつねヘレン」に次ぐ劇場映画監督作品。丁寧で、かつ緩急自在の演出はさすがである。原作の良さもあるのだが、小道具や秘密のサイン…といったちょっとしたアイテムもいい効果を生んでいる。
親子で観るも良し、カップルで観るのもOK。大笑いしつつ涙腺波状攻撃にやられてしまう。決して名作というほどではないけれど、心が癒されるウエルメイドな佳作としてお奨めしたい。      (採点=★★★★

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2006年12月14日 (木)

「トゥモロー・ワールド」

Tomorrowworld (2006年・英=米/監督:アルフォンソ・キュアロン)

西暦2027年、人類に子供が生まれなくなって18年後、世界は荒廃し、イギリスのみが鎖国体制によってかろうじて秩序を維持している。ある日、役所に勤めるセオ(クライブ・オーウェン)は別れた妻から、人類の運命を託された一人の少女を国外に脱出させる手助けをして欲しいと頼まれる。否応なく協力されられたセオは、翻弄されるままに少女を守り、戦火の中を逃げ延びて行く…。

突っ込みどころを探せばいくらでもある。
①2027年の18年前って言うと、2009年(あと3年!)じゃないですか。その時で既に地球上に1人しか子供が生存していないという事は、いったいいつから子供が生まれなくなったんだ??
②世界中に子供が1人もいないという事はどうやって確認したのか?例えばインドや中国の奥地で下界との接触を絶っている村(トンマッコルみたいな(笑))まで調べたのか、そこらにはひょっとしたら子供がいるかも知れない(笑)。

そもそも、何故子供が生まれなくなったのか理由は描かれていないし、なぜゲリラ組織が人類最後の綱である赤ん坊を国外組織に送り届けるのを妨害するのかも分からない。また、なぜイギリス国内に赤ん坊を置いとけないのかも不明である。

…と、こんな具合に真面目に考え出すと、この映画はアラだらけである(原作はそれらをきちんと説明しているのかも知れないが…)。

むしろ、これは一つの寓話と見るべきだろう。それは、未来だというのに乗り物や、特に兵器なんかがほとんど第二次世界大戦の頃と変わっていない点にも現れている。砲弾が飛び交う戦場の中を逃げ回る主人公を見ていると、なんだかR・ポランスキー監督の秀作「戦場のピアニスト」を観ている気分になって来る。

だからこの作品は、SFというよりは、今も世界のあちこちで起きている内戦、民族紛争に対する痛烈な風刺と考えるべきなのかも知れない。憎みあい、殺しあってばかりいると、人類はしまいに滅んでしまいますよ…というのがテーマなのだろう。

そう考えると、この物語は旧約聖書における、ノアの方舟、あるいはソドムとゴモラなどの人類滅亡エピソードを連想させる。これらにおいて、神は人類の堕落に愛想をつかし、人類を滅ぼしてしまおうとするが、やはりわずかの善意の人は生かして、またそこからリスタートするチャンスを与えてくれる。黒人の少女が産む赤ん坊は父親が分からないが、これもキリストを産んだマリアの処女受胎を連想させる。ラストに現れ、人類の再出発のとなる船は、まさに現代のノアの方舟なのだろう(黒人少女の名前が“キー”であるのも暗示的である)。

荒廃してしまった地上において、暗闇の中の1本のロウソクのようにちいさな命が誕生した、その光景を見て、兵士たちは戦いを一時的に止め、人々はひざまずく…。そのように命を大切に思う人間的な心がある限り、人類にはまだ希望が残されている―と作者たちは言いたいのかも知れない。相米慎二監督作品を思わせるワンカット超長回し撮影がドキュメンタルな効果を生んでいる。観終わってから、いろいろと考えたくなるこれは不思議な味わいの佳作である。

(採点=★★★★

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(蛇足)バックに流れる音楽が、ローリング・ストーンズの「ルビー・チューズデイ」とか、ビートルズの「トゥモロー・ネバー・ノウズ」(邦題はこれに引っ掛けてるのかも)などの'70年代ロック・ミュージックのカバー曲であるのが懐かしくてツボにはまった。これで、バリー・マクガイアの「明日なき世界」でも流してくれれば申し分ないのですがねぇ(笑)。

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2006年12月11日 (月)

「トンマッコルへようこそ」

Tonmakkoru (2005年・韓国/監督:パク・クァンヒョン)

今から56年前、朝鮮半島で勃発した、いわゆる“朝鮮戦争”を背景に、戦争の愚かしさをメルヘンチックに描いたファンタジー反戦映画の快作。

偵察機が不時着したアメリカ兵、仲間とはぐれた北朝鮮の3兵士、脱走兵と衛生兵という取り合わせの韓国軍兵士…の6人が、それぞれ道に迷い、辺鄙な山中で俗世間と離れて暮らす人たちが住む村、トンマッコルにたどり着く。

この村には新聞もラジオもないらしく、下界からは隔絶している為、朝鮮半島全域が戦争状態であることを知らない。…いや、村の歴史においても全く戦争や争いごとを経験した事がないようで、兵士たちの武器を見てもそれが何か全く解らない。さらにはちょっとオツムの弱い少女ヨイル(カン・ヘジョン)が無邪気にまとわり付く。

こうして、対立する南北兵士たちは、このなんとものどかな村で暮らすうちに、次第に刺々しさから解放され、心を通わせ、協力し合い、戦争の空しさを悟って行く。が、やはりいつまでも平和ではいられない。村が誤解からゲリラ基地と間違われ、爆撃される事を知った兵士たちは、この平和な村を守る為に命を張って戦うことになる。

全体がトボけたコメディのような作りである。銃を突き付け対立する兵士たちの前を、「アホなことに構ってられない」とでも言いたげに悠々と通り過ぎる村人たち。手榴弾のピンを、アクセサリーに欲しいとヒョイとと抜いてしまうヨイル。極めつけは襲って来たイノシシを兵士たちが力を合わせて退治するシーンの超スローモーション。「スウィング・ガールズ」のイノシシ退治シーン(やはり-と言うか静止画像に近い超スロー)を思い出して笑った。

無益な殺生をする軍隊、いやその向こうにある国家そのものを痛烈に笑い飛ばし、我々に「世界がみんなトンマッコルのような平和な世の中になったらどれほど素晴らしい事だろう」と思わせてくれる。

Kingofheartこの映画を観て思い出したのが、フランス映画「まぼろしの市街戦」(67年:フィリップ・ド・ブロカ監督)である。まあ簡単に紹介すると、第一次大戦さ中、精神病院の患者だけが取り残された村に派遣された伝令兵(アラン・ベイツ)が、のどかで平和な精神患者達と暮らすうちに、次第に彼は戦争の空しさを悟って行く…というもので、テーマ的に似た内容である。ヨイルの扱いから見ても、多少ヒントにした形跡も覗える。

こちらの作品が訴えるものはズバリ、“戦争とは狂気である”という事であり、その象徴として精神病院患者と、殺し合う兵隊を対比させ、“本当に狂っているのはどっちだ”と訴えているのである。

ビデオ屋でもほとんど見かける事はないが、本作に感動した方には是非観ていただきたい、反戦映画史上に残る秀作である。

「トンマッコル-」に戻ると、本作は秀作であることは疑いないが、うっかりすると「やはり平和を守る為には、誰かが犠牲になってでも戦わなければいけないのだ」という軍事力必要論に収斂してしまう危険性も孕んでいる。ラストの兵士たちの戦いぶりがそれまでのトボけたユーモアとうって変わって悲壮感溢れる描き方であるだけに、余計そう感じてしまう。

それと、冒頭とラストの戦闘で夥しい血糊をぶち蒔けているのもメルヘンチックな物語からは浮いている。国民性の違いなのだろうか。「まぼろしの市街戦」が銃撃戦においてもまったく血が飛び出ず、キョトンとしているうちに全滅してしまうあっけらかんさとは対照的である(まあ、あの時代はそれが普通だったのだが)。

そういう難点はあるものの、やはり是非観ておいて欲しい秀作である。
ただ、やはり現在も南北分断の悲劇を継続し、緊迫した空気にある韓国国民の鬱屈した思いは、平和ボケに慣れた我々日本人には理解不能ではないかと思うと、忸怩たる気分にならざるを得ないのだが…。

 (採点=★★★★☆

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2006年12月 9日 (土)

映画俳優・木村拓哉の可能性―「武士の一分」その2

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「武士の一分」に関する批評やブログを読んでると、「主演の木村拓哉が、早逝した市川雷蔵を彷彿とさせる雰囲気がある」という意見が多数ありました。

言われてみれば、確かにいくつかの雷蔵主演映画を連想させる要素が見受けられます。
今回はその辺りについて…。

 
まず、“主人公の武士が、身体障害者となって絶望にさいなまれ、かつ妻を陵辱され、その復讐のために剣をふるうというストーリーライン、さらに、夫婦の愛情がテーマとなっている点…などが、雷蔵の傑作「薄桜記」(59年・森一生監督)と非常に良く似てます。

Hakuouki こっちは視力を失いますが、「薄桜記」では片腕を失います。さらにその作品では、夫婦愛の象徴として、1対の紙雛人形が印象的に使われてますが、本作ではつがいの文鳥がポイントとなってます。
妻を離縁した後、新之丞は1羽が死んだのを知って、もう1羽を空に放ちますが、ラストで妻が戻った時「また鳥を飼わねばな」とつぶやきます。つがいの文鳥が、夫婦愛の証しとなっているわけで、これも「薄桜記」の紙雛人形と同じ役割を果たしていると言えます。

視力を失ったことで絶望にさいなまれる辺りの木村の演技は、そう考えると、まさに雷蔵が乗り移ったかの如き虚無感と妖気が漂っている感じを受けます。

ついでながら、どちらにも片腕を斬られ、ドサリと腕が落ちるシーンが出てきます。あちらでは主人公、こちらは坂東三津五郎扮する島田藤弥という違いはありますが(笑)。

 
Daibosatutouge さて、もう1本、これは主人公が盲目になる…という共通点から、これも雷蔵主演の秀作「大菩薩峠」(60年・三隅研次監督)を思い出させます。

で、この作品には、なんと、“主人公・机龍之介(雷蔵)と試合する相手の妻が、尋常では勝ち目がないと思い、試合の前日の夜、龍之介に手加減してもらうよう頼みに訪れ、その代償として操を奪われる”…という、前作「隠し剣 鬼の爪」とまったくそっくりなシーンが登場します。

本作でも、禄高を維持してもらうようにと、理由は異なりますが、やはり妻が頼みに行って、その代償として体を玩ばれてしまう展開となります。玩んだ相手があちらでは主人公の方(笑)という違いはありますが…。

原作者の藤沢周平さんは、ひょっとしたら雷蔵映画(または中里介山の原作)から本作のヒントを得たのではないでしょうか。そんな風にふと思ってしまいました。

 
Kiru もう一つついでに、雷蔵主演の傑作映画「斬る」(62年・三隅研次監督)という作品の中で、主人公(雷蔵)が三味線の持ち方にヒントを得て、“三弦の構え”という必殺剣法を編み出すくだりが、藤沢作品における、“隠し剣”をいやでも連想させます。

で、この主人公がラストで、警護を任されていた大目付を死なせてしまった事から、責任を取り、切腹してしまいます。武士の一分を果たした…というわけです。

 

こんな具合に、よく思い起こせば市川雷蔵主演映画と本作との間には、驚くほど共通点を見ることが出来ます(ちょっとこじつけ紛いの所もありますが(笑))。

今後ですが、木村拓哉は、本気で取り組めば、間違いなく平成の市川雷蔵になれるだけの力はあると私は思います。剣道の腕前も素晴らしいし。

こういう、ルックス、雰囲気、演技力、オーラをすべて兼ね備えた俳優というのは現在では稀有な存在です。映画界の発展のためにも、是非木村拓哉が本腰を入れて映画俳優の道に進んでくれる事を期待したいと思います。

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  → 「武士の一分」その1 も参照ください。

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2006年12月 5日 (火)

「武士の一分」

Bushinoitibun_1 (2006年・松竹/監督:山田 洋次)

山田洋次監督による、藤沢周平原作時代劇3部作の最終作。

こういうのを、職人技…と言うのだろう。まさに一分のスキもなく見事に完成された名品である。

物語はムダなく、よどみなく流れ、四季折々の風物の中で人間の営み、所作が丹念に綴られ、一幅の名画を見ているかの如き満足感が得られる、クオリティの高い作品である。

しかしそれでいて、笑えるし、泣けるし、迫力あるチャンバラ・アクションは堪能出来るし、ラストは爽やかな余韻が残る…といった具合に、誰もが楽しめる大衆娯楽映画としても素晴らしい出来なのだから、もう脱帽するしかない。

黒澤明監督作品もやはり芸術性と娯楽性を併せ持った力作が多いが、どちらかと言うと、庶民にはちょっと近寄り難い威厳・オーラがあるような気がする。

その点、山田作品は、「男はつらいよ」に代表されるように、ごく普通の大衆・庶民が観ても安心して楽しめる居心地の良さがあると言えるだろう。

ある意味では、格調高い芸術作品を作るより難しいかも知れない。お見事…としか言い様がない。参りました。


製作発表された当時、キムタクこと木村拓哉の主演を懸念する声もあった。アイドル人気に頼った企画…とも言われた。

しかし、天下の山田洋次がアイドルというだけで俳優を起用するはずがない。キムタクの俳優としての資質を十分見抜いた上での起用である。

キムタクはその意向に十分応えた。もともと剣道をやっていたということもあるが、殺陣の迫力、目が見えなくなってからの鬼気迫る熱演、いずれもピタリ役に嵌まって好演である。

この映画のポイントは、丹念な四季の移り変わりの描写であり、また食事や、城の侍の勤務振りなど、日常の何気ない生活のディテールをきっちりと描いた部分である。

庭の落ち葉が、季節ごとに変わって行くし、夏のホタルも美しい。これをわざわざCGを使って動かしているが、我々観客が綺麗…と思えば思うほど、もう新之丞(木村)はこの美しい風物詩を一生見ることは出来ないのだ…という悲しみが胸を打つのである。こういうさりげない描写に手を抜かない所が山田洋次監督の良さである。

殿を待つ植え込みで群がって来るヤブ蚊までCGを使っている。普通の監督はここまでしない。これがある事で、暑い夏の季節感、下級藩士の悲哀、さんざん待たせて“大儀!”のひと言だけの殿さまに対する風刺…がそれぞれ強調される結果となる。うまい!

他にも、雨、稲光、強風…といった自然描写が、主人公の心情(悲しみ、怒り、絶望感等)の暗喩となっている辺りもきめ細かな心配りである。

前2作は数編の短編を拠り合わせて長編の映画に仕立てたが、本作は短編「盲目剣谺返し」1本のみが原作である。従って、如何に原作にないエピソードを(原作の雰囲気を壊さずに)追加してお話を膨らませるか…という所が山田洋次を中心とした脚本チームの腕の見せ所となる。

その膨らませた部分が、まったく原作の味わいを損ねることなく、作品の厚み、風格として見事に生きている。これが職人の技である。

これも原作にないエピソードだが、新之丞が子供好きで、将来は早く隠居して子供たちに、個性に合った剣道を教えたい…と夢を語る部分がいい。川べりで子供相手に、楽しそうにふざけるシーンがちゃんと伏線になっているし、盲目になった後、伯母の子供相手に木刀で稽古をつけるシーンも出て来るが、これらの描写から、もしかしたら新之丞は将来、子供相手の剣道場を開いて夢を実現するのかも知れないと私は思った。それであれば将来の生活の心配も解消されるだろう。あの感動のラストと合わせて、私は見終わった後、心の底から“よかった”と思い、胸が熱くなったのである。

憎き敵役の島田(坂東三津五郎)との決闘シーンも凄い迫力。やや短いとの声もあるが、原作ではもっと短い。ダラダラやるより、私はあれで十分だと思う。坂東三津五郎はスクリーンでは初めて見たが、堂々たる悪役ぶりでお見事。目の演技、刀さばきも素晴らしい。さすが歌舞伎俳優である。もっと映画に出て欲しい。

キムタクは、特に目が見えなくなってからの演技がいい。見えない目で不貞を働いた妻を凝視する、暗闇に光る目はゾッとする凄みがある。妻・加世を演じた壇れいもさすが宝塚女優。役にピッタリ収まっている。そしてピカ一が中間・徳平を演じた笹野高史。山田映画の常連だが、本作では素晴らしいバイ・プレイヤーぶりを見せる。軽妙な受答えで、暗くなりがちな物語にホッとする明るさをもたらしている。それでいて、先代からずっと三村家に仕えて来た年輪の重みも感じさせ、まさにいぶし銀といっていい名演技である。今年の助演男優賞はまず決まりである。

作品の完成度は、「たそがれ清兵衛」にやや分がある。しかし、本筋とは関係ない日常描写、自然風物などのディテールも含めたら、3部作中、本作が最高の出来だと私は思う。何度観ても心がなごみ、堪能出来る素晴らしい名工のマスターピースだと言えよう。傑作である。    (採点=★★★★★

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(で、お楽しみはココからだ)
3部作を比較してみると、いろいろ微妙な関連性と言うかリンクしている部分(遊んでいる部分もある?)があって、これも楽しい。

①1作目は、短編3本を縒り合せていたが、2作目では短編2本に減り、そして本作では短編1本…と、1作ごとに原作の数が減っている。従ってこれで山田監督による藤沢作品映画化は打ち止めになるわけである。

②主人公の裃(かみしも)が1作目では極端にくたびれていたが、2作目ではややマシになり、本作ではかなりピンとなっている。まあ妻がいるから当然だが(炭火を使ったアイロンをあてるシーンがある。江戸時代からアイロンあったんですね(笑))。なお冒頭で徳平が裃を触って直すシーンにはニヤリとさせられた。

③中間が、いつも狂言回し的な役柄で笑いの部分をカバーしている点が共通している。前2作ではこれも山田組常連、神戸浩が勤めたが、1作目で神戸が、朋恵の家に口上伝達に行くシーンが本作での徳平が島田の家に果し合いの口上を伝えに行くシーンとリンクしている。

④3作とも、小林稔侍が主人公の上司を演じている。

⑤1作目の決闘の相手、田中泯が2作目では剣道の師匠に扮しているが、2作目の敵役・緒方拳が3作目でこれまた剣道の師匠に扮している。この調子で行くと次作では坂東三津五郎が剣道の師匠になるか(笑)。

⑥2作目で、親友・狭間弥市郎の妻(高島礼子)が家老(緒方拳)に、亭主の命を救うというエサで手篭めにされるが、本作では加世がやはり同じようなシチュエーションで手篭めにされる。で、どちらの悪役とも必殺剣(共に“隠し剣”シリーズ)で倒される。

 

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2006年12月 2日 (土)

「手紙」

Tegami (2006年・ギャガ=松竹/監督:生野 慈朗)

東野圭吾の同名ベストセラー小説の映画化。

犯罪者でなく、犯罪者を身内に持つ人間の苦悩を描く…という着眼点がいい。これまで、あまり小説でも映画でも描かれて来なかった題材だが、差別や、いじめによる自殺等が多発する今の時代に合ったタイムリーな企画だと思う。

生野慈朗演出は、さすがテレビドラマや、'88年の劇場映画「いこかもどろか」などの監督で実績があるだけに、泣かせどころや演出のメリハリもしっかりしていて見事な作品に仕上がっている。

なによりもこの作品のいいところは、本当に悪い人間が登場しない点である。

無論、アパートに落書きしたり、ネットで身内に殺人者がいる事を書き込んだりする心ない人たちはいるが、それらは一切姿や実体が画面に登場する事はない
それに対し、主人公直貴(山田孝之)の周囲に登場する人たちには、悪い人間は一人もいない。

兄の剛志(玉山鉄二)が殺人を犯したのも、つい出来心から生じたはずみで殺意はなかったし、刑務所で彼は出所したら真人間になる事を誓っているであろう。

直貴と喧嘩した同僚(田中要次)を、最初はいやな奴だと思わせて置いて、実は大検の勉強をしていて、直貴に教わりに来るなど、本当は彼なりに必死で生きている人間である事が判るという様に、脇の登場人物に対しても細かい配慮がなされている。

直貴のクビを切る経営者は、本心では何とかしてあげたくても、それによって客が減れば死活問題になるし、なにより、「最初に言ってくれれば何とかしてあげられたのに。嘘をつかれたのでは雇用原則である信頼関係が保てない」という言葉は本質を突いている。

後に登場する家電販売店会長(杉浦直樹-好演)の言葉にしても同様だが、社会の荒波の中で修羅場を生きて来た人たちの考え方は、実に説得力があり、兄や世間の冷たい風を憎む直貴が逆に人間的にまだまだ未熟であることを浮き上がらせている。

唯一、令嬢の朝美(吹石一恵)に直貴の兄の事を告げ口する婚約者がいるが、これもいつかは必ずバレる事実を隠していた直貴の方が明らかに悪いのであって、この男が間違っているわけではない。

悪い人間が主人公を苦しめているわけではなく、むしろ彼を温かく見守る人間の方が多く登場する。

それにもかかわらず、何事もうまく行かず主人公は苦悩し、迷い、現実から逃げようともがく。重苦しいけれど、それゆえ単なるドラマを超えたリアリティが感じられる。

 

この映画が素晴らしい点は、“加害者の家族の苦悩”をテーマにした事もさりながら、決して、世間の冷たい風にさらされる主人公を、同情を寄せるべき可愛そうな人間…という描き方をしていない点で、ある意味ではむしろ彼を、はっきりと主体性を打ち出せない、優柔不断でいいかげんな人間…という捉え方をしているようにも見えるのである。

一部で言われているように、世間からひっそり隠れて生活しているかと思えば、お笑い芸人を目指したり、金持ち令嬢と結婚しようと思ったりする直貴の行動は確かに一貫性がなくて、私も最初はこんな主人公には共感できない…と思った。

しかし、後半のクライマックス、家電販売店会長の言葉によって、この作品のテーマがはっきりした。

『差別のない場所を探すんじゃない。君は“ここ”で生きていくんだ』
『殺人犯の家族が差別されるのは、当然なんだ。その差別も含めて、君のお兄さんの罪なんだよ』

原作では、ジョン・レノンの名曲「イマジン」が象徴的に登場するが、
確かにレノンが歌う同曲の一節
「国境のない社会を想像してごらん、強欲も貧困もない、みんなの心が一つになる世界を想像してごらん…」は理想である。

原作では、これは主人公が一番好きな歌となっている。そんな世の中になればいいに決まっている。

しかし理想は理想であり、現実ではない。我々が生きているのは、なかなか思い通りにならない現実社会である。ならばその現実を認め、その中で共存し生きて行かなければならないのである。

原作ではミュージシャンを目指していた直貴を、映画ではお笑い芸人志望に変えてあり、これはどうかな…と思ったのだが、ラストの刑務所慰問シーンで、「兄貴は兄貴ですから」と語る直貴の、ようやく前をしっかり見据えた姿を描きたかった為には、この変更はやっぱり必要だったのだろう。

ラストは泣けるけれども、凡百の泣かせる映画とは明らかに違う。兄の剛志は弟の手紙で、弟を如何に苦しめて来たかを知り、その罪の重さを悟った故の涙であり、直貴はまた、それでも兄はやはりかけがえのない肉親であり、自分もその罪を引き受け、前に向かって兄と共に生きようと決意する、その明るい笑顔にうたれる故に泣けるのである。

この物語は、直貴の人間としての成長ドラマであり、そして人間は愚かで間違いもするし、憎しみあったりもするけれど、それでも人間はみんなと力を合わせ、共存して生きて行かなければならないのだ…というテーマに迫った力作である。

原作も素晴らしいが、原作の意図をしっかり見つめ、2時間の映画としてまとめた脚本、演出も見事。お奨めである。

ただ、満点にならなかったのは、直貴を支える由美子を可愛い沢尻エリカが演じている点で、沢尻の演技がいけないという事ではなく、もっと普通の、目立たない(あるいはちょっとブスな)女の子にすべきではなかったか…という事である。あんなに可愛いくてしかも献身的な子ならすぐに仲良くなりそうである(笑)。ついでに、関西弁はまったく不要。

これで思い出したのが、浦山桐郎監督の傑作「私が棄てた女」(1969)である。

主人公の男(河原崎超一郎)には、ちょっとブスだけれど心はとても清らかで、献身的に彼を愛してくれる女ミツ(小林トシエ)がいたのに、金持ちの令嬢(浅丘ルリ子)と結婚したい為にミツを棄てる。最初はこんな女…と思っていた男は、ミツの死でミツの愛に初めて気付き泣き崩れる。

フェリーニの「道」にしてもしかり、無垢な心を持つ女はブスかちょっと足りない方がいのである。そこがちょっと残念であった。

 (採点=★★★★☆

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