映画俳優・木村拓哉の可能性―「武士の一分」その2
「武士の一分」に関する批評やブログを読んでると、「主演の木村拓哉が、早逝した市川雷蔵を彷彿とさせる雰囲気がある」という意見が多数ありました。
言われてみれば、確かにいくつかの雷蔵主演映画を連想させる要素が見受けられます。
今回はその辺りについて…。
まず、“主人公の武士が、身体障害者となって絶望にさいなまれ、かつ妻を陵辱され、その復讐のために剣をふるう”というストーリーライン、さらに、夫婦の愛情がテーマとなっている点…などが、雷蔵の傑作「薄桜記」(59年・森一生監督)と非常に良く似てます。
こっちは視力を失いますが、「薄桜記」では片腕を失います。さらにその作品では、夫婦愛の象徴として、1対の紙雛人形が印象的に使われてますが、本作ではつがいの文鳥がポイントとなってます。
妻を離縁した後、新之丞は1羽が死んだのを知って、もう1羽を空に放ちますが、ラストで妻が戻った時「また鳥を飼わねばな」とつぶやきます。つがいの文鳥が、夫婦愛の証しとなっているわけで、これも「薄桜記」の紙雛人形と同じ役割を果たしていると言えます。
視力を失ったことで絶望にさいなまれる辺りの木村の演技は、そう考えると、まさに雷蔵が乗り移ったかの如き虚無感と妖気が漂っている感じを受けます。
ついでながら、どちらにも片腕を斬られ、ドサリと腕が落ちるシーンが出てきます。あちらでは主人公、こちらは坂東三津五郎扮する島田藤弥という違いはありますが(笑)。
さて、もう1本、これは主人公が盲目になる…という共通点から、これも雷蔵主演の秀作「大菩薩峠」(60年・三隅研次監督)を思い出させます。
で、この作品には、なんと、“主人公・机龍之介(雷蔵)と試合する相手の妻が、尋常では勝ち目がないと思い、試合の前日の夜、龍之介に手加減してもらうよう頼みに訪れ、その代償として操を奪われる”…という、前作「隠し剣 鬼の爪」とまったくそっくりなシーンが登場します。
本作でも、禄高を維持してもらうようにと、理由は異なりますが、やはり妻が頼みに行って、その代償として体を玩ばれてしまう展開となります。玩んだ相手があちらでは主人公の方(笑)という違いはありますが…。
原作者の藤沢周平さんは、ひょっとしたら雷蔵映画(または中里介山の原作)から本作のヒントを得たのではないでしょうか。そんな風にふと思ってしまいました。
もう一つついでに、雷蔵主演の傑作映画「斬る」(62年・三隅研次監督)という作品の中で、主人公(雷蔵)が三味線の持ち方にヒントを得て、“三弦の構え”という必殺剣法を編み出すくだりが、藤沢作品における、“隠し剣”をいやでも連想させます。
で、この主人公がラストで、警護を任されていた大目付を死なせてしまった事から、責任を取り、切腹してしまいます。武士の一分を果たした…というわけです。
こんな具合に、よく思い起こせば市川雷蔵主演映画と本作との間には、驚くほど共通点を見ることが出来ます(ちょっとこじつけ紛いの所もありますが(笑))。
今後ですが、木村拓哉は、本気で取り組めば、間違いなく平成の市川雷蔵になれるだけの力はあると私は思います。剣道の腕前も素晴らしいし。
こういう、ルックス、雰囲気、演技力、オーラをすべて兼ね備えた俳優というのは現在では稀有な存在です。映画界の発展のためにも、是非木村拓哉が本腰を入れて映画俳優の道に進んでくれる事を期待したいと思います。
→ 「武士の一分」その1 も参照ください。
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