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2007年4月29日 (日)

「バベル」

Babel (2006年・ギャガ/監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ)

ちょっと個人的な事を書きますと、現在三重県某市に単身赴任しております。
大阪と比べて困っているのは、まずレンタルビデオ屋が近くにない。居住先周辺には電車の駅もないし、足としてはバスだけなのだがこれが終発が早い。仕事が終わるのが深夜になるので結局日曜休日でないとどこへも行けない。映画館はワーナーマイカル1館だけ(それも遠い)。従ってミニシアター公開作品も観ることが出来ない。大阪だと上映中でもスタンプ屋へ行けば前売券が手に入るが、こちらにはそのスタンプ屋も見当たらない。大きな本屋もないし映画関係の書籍も手に入れにくい。…とないないづくし。

そんなわけで、映画好きにとっては非常に住みにくい環境です。…いや某市がド田舎と言ってるのではなく、大阪がいかに便利な街であるかという事を改めて再認識した次第。地方に住んでる方はきっと同じ思いをしてるんでしょうねぇ。文句言ったらバチ当りますね。

そんなわけで、映画を観る本数が昨年と比べて激減しております。ブログ書き込みが減ってるのもその為です(プラス仕事が忙しくてヘトヘトなのも)。申し訳ありません。もう2ヶ月はこの状態が続きそうです。

で、本作はそのマイカルで初日の土曜日に鑑賞。題材的には、ミニシアター単館公開が似合う作品だが、菊池凛子効果(?)のおかげでロードショー公開となって観る事が出来たのは幸いである。

確かに重い作品である。モロッコで、山羊飼いの少年が遊び半分で放った銃弾が、バスで旅行中のアメリカ人旅行客の妻・スーザン(ケイト・ブランシェット)に当たってしまう。その事によって、多くの人の運命が狂って行く。旅先で医者も病院もなく、大使館は国情の不安からなかなか医療ヘリを送れない。苛立つ夫リチャード(ブラッド・ピット)。一方、夫妻の留守宅で子供を預かるメキシコ人メイド・アメリア(アドリアナ・バラッサ)は、夫妻が帰って来ないので、メキシコで行われる自分の息子の結婚式に子供たちを連れて行き、そこでまた悲劇が起る。その頃日本では、聾唖の少女チエコ(菊地)が父(役所広司)との心の確執で悩み、人の愛を求めてさ迷っていた…。

昨年の「クラッシュ」を思わせる、異なる地域のそれぞれの人生模様を並列して描く中で、ちっぽけな地球に住む人間という不可思議な生き物の存在を奥深く見つめた秀作である。

3つのエピソードが交錯するだけでなく、時間もまたシャッフルされ前後するので、やや分かり難いが、慣れればそれもまた心地よいリズムとなる。

タイトルにある通り、これは旧約聖書のエピソード、神が人間のあさましさに怒り、言葉を乱し、人々を世界中にバラけさせた、“バベルの塔”の話をモチーフにしている。

言葉や人種の違いは、コミュニケーションの断絶を生み、現代に至るも人々はお互いを理解し合えず、戦争や憎しみ合いは依然絶えない。

この映画の中でも、登場人物たちはコミュニケーション不全に悩んでいる。リチャードとスーザンは夫婦の溝が深まり、その心の溝を埋めるべく中東を旅している。
そのコミュニケーション不全を象徴するのが、聾唖のチエコである。文字通り、言葉が伝えられないハンディに悩み、愛を求めてさ迷い、傷つく少女を体当たりで熱演した菊地凛子の熱演は見ものである。

よく、聾唖者があんな行動を取るだろうかとか、全裸になる必然性がないとかの批判を目にするが、イニャリトゥ監督の狙いは、“コミュニケーション手段を失った人間は他人とどう係りあって行くのか”という点にあり、彼女の存在はそのテーマをシンボライズさせたものなのである。言葉がなければ、人間は文字通り裸になって相手にぶつかるしかない。
そこからやっと人間は心が繋ぎ合えるのかも知れない。

モロッコで、重傷の妻を看護するうち、リチャードは人の薄情さと、また現地の人の親切さに触れ、そして妻との心の触れ合いを取り戻して行く。失禁しそうになった妻の排尿を助けるシーンは感動的である。リチャードが子供たちに電話しながら泣き出すシーンではこちらも涙が出た。

メキシコではアメリアが子供たちと砂漠をさ迷い、モロッコでは山羊飼いの少年たちが警察を逃れ山中をさ迷う。日本では少女がきらびやかな近代都市・東京の街で愛を求めてさ迷う…(「東京砂漠」という歌がありましたね(笑))。まさに人は迷い、彷徨を繰り返しつつ成長して行くものなのかも知れない。

(ややネタバレになるので、以下は映画を観た方だけドラッグ反転してください)
それぞれに人々は苦しい目に合い、絶望の淵に立たされるが、ラストでそれぞれにホッとする結末が用意されている。

スーザンは、かろうじて命を取り止め、退院する事が出来たし、砂漠で行方不明になった子供たちは奇跡的に救出されたと説明される。チエコは父に抱きつく事で父娘の心の溝は埋められた(と私は思いたい)。

そしてモロッコでは、兄は悲惨な結末となるが、弟はそれを見て、ライフルを叩き壊し、警官たちの前で許しを乞う。
銃というものがあるから多くの人が傷付き、人を不幸にする…。そういうテーマも含まれているように私は思う。折りしもアメリカでまた銃乱射事件が起きたし…。

↑ネタバレここまで。

人間とは、旧約聖書の時代から、間違いと傲慢さを繰り返す、愚かで悲しい存在であると言えるかも知れない。しかしラストにかすかな希望の光が見い出されるように、それでも神は人間たちに絶望はしていないのかも知れない。この物語でも、実は本当に悪い人間は一人も登場していない。

モロッコの弟が示したように、人は間違いに気付き、心から悔い改めれば、世界は少しでも良い方向に進むのかも知れない。

イニャリトゥ監督の人間たちを見つめる眼差しは、厳しいけれども、優しくそして温かい。

その眼差しに私はとても感動した。本年屈指の、これは見事な人間ドラマの秀作である。       (採点=★★★★★

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(以下はおマケです)
冒頭が高いモロッコの山で、ラストが東京の超高層マンションの上であるのも、まさに天に届くバベルの塔の象徴なのかも知れない。東京の場合はバベルならぬバブルの塔かも知れませんが(笑)。そう言えばディスコのシーンを含め、いくつかバブルへGO!!!」と似たシーンがあったように思うのですが…。

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2007年4月15日 (日)

「ホリデイ」

Holiday (2006年・コロムビア・ユニバーサル/監督:ナンシー・メイヤーズ)

「ハート・オブ・ウーマン」「恋愛適齢期」などで知られるナンシ-・メイヤーズ監督による、典型的ハリウッド・ロマンチック・コメディ。あまり期待はしていなかったのだが、予想外に面白かった。

インターネット上に掲載されたサイトを通じて、条件の合う者同士が休暇中に家も車もそっくり交換するという、「ホーム・エクスチェンジ」を題材にしている所が目新しい。

脚本が良く出来ていて、互いに片思いの男に裏切られたり、男の浮気に愛想をつかしたりの女性2人(キャメロン・ディアスとケイト・ウィンスレット)が、その傷心を癒す為に、ロスとロンドンの自宅を交換する事になる。その行動ぶりや、新しい恋に一喜一憂する微妙な心理描写がなかなかきめ細かく描かれていて飽きさせない。

それぞれに違う環境で、いろんな人と出会い、新しい恋人を得、元気を取り戻して行くプロセスが、各俳優の的確な演技、メイヤース監督のスマートな演出によってうまく描かれ、物語は単純だけども楽しめる作品になっている。

そしてジンと来たのが、ロンドンから来たアイリス(ケイト)がビバリー・ヒルズで出会う、今は引退した老脚本家アーサーとの交遊シークェンス。本筋とは関係ないけれど、90歳を超え、足腰も衰えかけたこの老人が、若いアイリスと触れ合う事によって心を癒され、アイリス自身もまた生きる勇気を取り戻して行く。この老人を演じたのが懐かしやイーライ・ウォラック。「荒野の七人」の盗賊の首領や、「続・夕陽のガンマン・地獄の決闘」のティコ役でお馴染みの名優。御歳92歳になるが、元気な姿を見せてくれる。ラストの脚本家協会の表彰式における、現在の映画界をチクリと皮肉るスピーチではホロリとした。

お話としては遥か昔から、ハリウッドでずっと作られてきた王道パターンである。メイヤーズ監督はかなり古いハリウッド・コメディを研究しているフシが覗える。相手役のジュード・ロウには、ケーリー・グラント主演の古い作品を観て研究するようにと言ったのだそうだ。ロウの演じた役柄は、そう思えばケーリー・グラントを彷彿とさせる(アマンダ(キャメロン)の家のホーム・シアターではそのグラント主演の(多分)「ヒズ・ガール・フライデー」が上映されていた)。

(で、お楽しみはココからだ)
アマンダの職業が映画予告編製作会社社長、アイリスの相手役となるジャック・ブラックの職業が映画音楽の作曲家…という設定もあって、随所に映画にまつわる小ネタが散りばめられていて、ここもいろいろ楽しめる。

アーサーが、60年も映画界で働いて来た…と言うだけあって、ハリウッド映画界にやたら詳しいのが面白い。アイリスの住所を聞いて「そこはケーリー・グラントの故郷じゃな」と言い、なんで知ってるのと聞かれて「本人から聞いた」とさりげなく言う辺りも楽しい。

「ルイス・メイヤーの下で働いてた」というセリフもあるが、これは映画会社・MGMの創設者の一人であるルイス・B・メイヤーのことである(MGMの正式名称はメトロ・ゴールドウィン・メイヤー)。うーむ、そんな古くから働いてたのか…。

アーサーが脚本家ということで、ウイリアム・ホールデンが脚本家役を演じた「サンセット大通り」を思い起こす事も出来るが、アイリスがタクシーでアマンダの邸宅に向かう途中で、その"SUNSET BOULEVARD" の看板がチラリと写るシーンもお見逃しなく。

そして楽しいのが、DVDショップでジャック・ブラックがDVDのパッケージを見せながら映画音楽のメロディをハミングするシーン。「風と共に去りぬ」やら「ジョーズ」やら「炎のランナー」やら、いっぱい登場する。傑作なのは「卒業」の“ミセス・ロビンソン”の一節を口ずさんだ時に、後ろでギョッと振り向くのがなんとダスティン・ホフマン。いやあ、遊んでくれますね(クレジットにも登場しないカメオ出演です)。

アーサーが、「カサブランカ」の脚本を手伝い、“君の瞳に乾杯”という有名なセリフを考えたのは私だ、と言う辺りもニンマリしてしまう。どこまで本当か判らないが…。もっとも「カサブランカ」を観ていなければ面白さは伝わらない。
この映画はそういう意味でも、古い映画を多く観ている人ほど楽しめるのである。

昨年紹介した「迷い婚~すべての迷える女性たちへ」も、古い映画ファンには楽しい映画だったが、奇しくもこの作品でも「卒業」「カサブランカ」がネタとして使われていたのは、偶然にしても面白い。やはりこの2本、根強い人気があるんでしょうね。

イーライ・ウォラックについても言及しておこう。大抵は「続・夕陽のガンマン・地獄の決闘」の出演者としてしか語られない場合が多いが、実は映画史において大変な貢献を果たしている。'47年エリア・カザン、リー・ストラスバーグらと共に、多くの映画人を輩出した、アクターズ・スタジオの創設に彼も参加しており、講師として多くの俳優を育てている。このスタジオからは、マーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、ポール・ニューマン、ロバート・デ・ニーロ、シドニー・ポワチエ、アル・パチーノなど、実に多彩な俳優が巣立っており、スティーブ・マックィーンは彼の教え子である。そして、前述のダスティン・ホフマンもここの出身なのである。そう考えると、ラストのスタンディング・オベーションは、ウォラックに対する映画人の本心であるのかも知れない。

こういう事を知ったうえでこの映画を観ると、また新たな感動を受けるかも知れない。映画を数多く観ている人ほど、何倍もこの映画を楽しめるだろう。     (採点=★★★★

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(追記)上記の「迷い婚~」の批評を見直してみたら、なんとウォラック出演の「続・夕陽のガンマン・地獄の決闘」のモリコーネ作曲のテーマ曲が効果的に使われてたのを思い出した。まったくの偶然なんでしょうけど、類は友を呼ぶ…と言うか、考えたら楽しいですね(笑)。DVDが出たら、この2本見比べるのも面白いかも。

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2007年4月 7日 (土)

「デジャブ」

Dejavu_1 (2006年・タッチストーン/監督:トニー・スコット)

出だしと予告編から受けるイメージと、後半がまったく違うというタイプの映画が最近のハリウッド映画では多くなって来た。1昨年の「フォーガットン」がいい例で、いかにも複雑な心理ミステリーあるいは謀略サスペンスと思わせておいて、実は○○だった…というオチに唖然とした。

あっちは伏線も何もない、とってつけたような展開に呆れてしまったが、そんな前科があるものだからこっちも疑り深くなってしまう。本作も、予告編を観ると、いかにも未来予知能力が絡んだオカルト・サスペンスのようである。で、これは前掲作を思い出してひょっとしたらアレかな?と予想したら本当にアレだった(笑)。

しかし、さすがブラッカイマーと言おうか、前掲作のようなトンデモ作にはなっておらず、巧妙に散りばめられた伏線が見事に生かされていて、同じダマされるにしても、まんまとダマされて感心したくなる、なかなかよく出来た佳作に仕上がっている。

無論、人によっては、「どこがデジャブなんじゃい~」と怒りだしたくなる人だっているかも知れない。

しかし、“伏線がよく練られた作品は秀作である”が持論の私としては、この巧妙な伏線に唸ってしまった。と言うのは、伏線とは本来“結末の謎解きのヒント”というのが一般論であるのに対して、本作の伏線はその定義をもう一度捻ってある点がユニークなのである。実は題名の「デジャブ」とは決してインチキではなく、この伏線の二重のヒントにもなっているのである。私はそこに感心して唸ってしまったのである。

以下は完全なネタバレです。映画を観た方のみ、ドラッグして反転させてください。

映画は、フェリー爆破というテロ事件に端を発し、捜査を担当したATF(アルコール・タバコ・火器取締局)の辣腕捜査官ダグ・カーリン(デンゼル・ワシントン)が、衛星を使った政府の極秘装置=通称“タイム・ウインドゥ”―4日と6時間前の、指定範囲内のどんな映像も再現出来る―を利用し、なんとまあ過去の世界にタイムスリップしてしまうという、早い話がタイムマシンものSFになってしまう。

そして、ダグは過去の世界で、現在の世界では500人が死亡したテロ事件を回避し、それにからんで惨殺された美女、クレア(ポーラ・パットン)の命を救おうとする。

過去に戻って、歴史を良い方向に変えてしまおうとするタイムマシンものは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を始め多数作られており、それ自体は目新しい事ではない。

しかし、よく考えると、辻褄の合わない点(それが伏線でもあるのだが)がいくつかある。

何故なら、現代において、既に次の事象が発生しているからである。

①ダグの勤務するATFにかかって来た、クレアからダグ宛のメッセージ電話
②クレアの自宅で目撃する、マグボードに残された"U CAN SAVE HER" の文字
③同じくクレア宅の流しに残された、血の付いたガーゼ
④手袋をつけて捜索したはずのクレア宅の各所に残された、ダグの指紋
⑤犯人のアジトに残る、吹き飛ばされた家とボックスカー

これらすべては、後に過去の世界にスリップしたダグ自身が、過去の世界において行動したか体験した事実ばかりである(過去の世界で追体験することになるこれらの事象はまさにダグにとって“デジャブ”である)。

すなわち、“惨事が起きた現代の世界にも、実はダグが未来から来ていた事を示している。

ダグは、タイム・ウインドゥを利用し、一度過去に戻って事件を防ごうとしたが、結局わずかの差で失敗し、―死んでしまった…… 

そういう事なのである。

そこでまた、気になるセリフがある。

ダグはタイム・ウインドゥで過去に飛ぶ前に、博士に、「本当に2度目なんだな」と聞いている。

またその直前、「これからそっちに行く」とダグからかかって来た電話に、すべてを悟っているかのような表情をする博士。―

つまりは、ダグが過去に行くのはこれで2度目であり、博士はその事を知っているから、いろいろ彼にアドバイスもするのである。

何故知っているかという点については、恐らく未来の博士から現在の博士宛に、転送装置を使ってその事を書いたメモが転送されて来たのだろう。「多分ダグが過去に行きたいと言って来るだろうが、その通りにしてやってくれ」とかなんとか…。

こう考えて来ると、この映画の脚本はなかなかよく練られている事が判る。

まあ、タイムマインものは、どう捻ろうとも絶対に矛盾や辻褄が合わない事が出て来るものであり、私の推論でも矛盾はあるのだが、それ以上は追及しないように(笑)。

こうした、物語が終わってもいくつかの謎を残し、それを観客があれこれ推論して楽しめる映画としては、昨年の「インサイド・マン」があり、私もいろいろ書かせてもらったが(こちらを参照)、よく考えればあれもデンゼル・ワシントン主演作だった(笑)。デンゼル主演作は要チェックのようである。

ラストはいかにもハリウッド的なハッピーエンドであるが、エンタティンメントはこれでいいのである。

派手なカーアクションに、サスペンスに、タイムスリップSF、そして最後はラブロマンスと、いろんjな娯楽要素をてんこ盛りした本作は、ブラッカイマー製作作品としても久しぶりに楽しめた。映画が好きな方ほどいろんな楽しみ方が出来る、お奨めの娯楽映画の佳作である。        (採点=★★★★

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