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2007年5月27日 (日)

「俺は、君のためにこそ死ににいく」

Tiran1945 (2007年・東映/監督:新城 卓)

太平洋戦争末期、特攻隊員から母のように慕われた、鳥濱トメさんを主人公にした実話の物語。

私は、右も左も関係なくどんな映画でも、面白ければ何でも観るし好きになるタチで、戦争映画に関してなら、今井正監督「ひめゆりの塔」、山本薩夫監督「真空地帯」「戦争と人間」も好きだし、舛田利雄監督「二百三高地」「大日本帝国」も好きな作品である。昨年の「男たちの大和」も高く評価している。
特攻隊員をテーマにした作品では、家城巳代治監督「雲流るる果てに」、山下耕作監督「あゝ決戦航空隊」(本作にも登場する大西瀧治郎中将が主人公)なども愛着のある作品である。

だから、石原慎太郎が係っていようとそんな事は関係ない。白紙の状態で観て、面白ければ評価するつもりでいた。

しかし、映画を観てガッカリした。なんともはや、お粗末な出来である。もうちょっと何とかならなかったのか。

まず、脚本がひどい。芥川賞作家であり、かつては日活映画を始め、多くの映画脚本を書いて来た人とは思えない雑なシナリオである。

この映画は、「特攻の母」と呼ばれた、鳥濱トメさんが主人公である。トメさんを演じた岸恵子さんが鹿児島弁でナレーションを担当している点からも明らかである。

しからば、トメさんがどういう経緯を経て食堂を開き、どういう風に特攻隊員たちと接し、どうして隊員たちがトメさんをお母さんのように慕うまでに至ったのか…、あるいはトメさんが何故、自分の着物を質入してまでも特攻隊員を可愛がるようになったのか、そこに至るまでにトメさんが歩んで来た人生や心境の変化を、短いエピソードを積み重ねて丁寧に描くべきではないのか。

ところが、映画が始まると、そうしたプロセスはすっ飛ばされて初めからトメさんは隊員たちから慕われている事になっている。これでは感情移入のしようがない。

また、隊員たちが、特攻に出撃し、死ぬと分かった時、どういう心境だったのか、心の迷いはなかったのか、生きて肉親と再会する事もないと知った時、家族に対しどういう思いがあったのか…。

そういった点もまるで描けていない。徳重聡や窪塚洋介などの一応は主要人物たちも、いつの間にか画面の中にすっと入って来て、またすっと出て行く。人物の肉付けが出来ていないのである。

各エピソードは、多くは事実なのだが、そうした事実を再構成してドラマに組み立てる細工が出来ておらず、ただ単にエピソードをぶつ切りに繋いでいるだけである。

例を挙げれば、韓国人の隊員である金山少尉が、出撃前夜、トメさんたちに“アリラン”を歌って聞かせるという話。

この金山少尉が登場するのは(私の記憶違いでなければ)ここだけ。それまで隊の中でどういう立場だったのか、他の隊員との交流は、そして出撃した結果どうなったのか…等がまったく描かれていない。従ってせっかくのいいエピソードなのに印象に残らない。

原作(「ホタル帰る」)に出て来る話だからとりあえず入れた…という程度の扱いなのである。…万事がこの調子である。

公務に忙しい中で脚本を書いたというハンデがあるにしても、金を取って見せる映画を作る以上は、主役の人たちにはきちんとキャラクターの肉付けをしておくべきだろう。忙しいなら、他のプロの脚本家にリライトを頼むなりすべきである。

もっと合点が行かないのは、“特攻隊生みの親”と言われている大西瀧治郎中将のエピソードである。

トメさんの視点を通じて戦争を描くなら、それはあくまで“一庶民の目線で見た戦争”であるべきである。軍部のエライさんなんかは本筋とは関係ない。…ましてや、終戦の翌日における、大西中将の自決シーンを延々ともったいぶって描く必要などどこにもない。この自決シーンは、映画からは完全に浮いている

無垢な若者たちが、毎日死ぬ為に出撃して行く姿を、トメさんはどういう思いで見つめていたか…それは、「生きて帰って来て欲しい。出来る事なら、無事に親御さんの元に返してあげたい」という思いではなかったか。決して「お国の為に立派に死んで来なさい」というような発想ではなかったはずである。

そうでなかったら、憲兵に毅然と逆らう態度の説明がつかないではないか。

もし、大西中将が切腹したという話を聞いたとしても、「エラい人が責任を取って切腹したところで、その命令によって死んだ数千人の若者たちの命は帰って来ない!」と憤ったに違いない。…そうした、軍人が始めた戦争に翻弄された庶民の目線が本作には完全に欠落している。

そもそも、鳥濱トメさんについては、既に高倉健主演で同じ東映で「ホタル」(降旗康男監督)という映画が作られており、韓国人隊員がアリランを歌う話も、死んだらホタルになって帰って来るというエピソードもあの映画で全部描かれている。同じ題材で映画化するなら、新しい切り口で前作以上に内容の濃いものにしなければ二番煎じになってしまう。…残念ながら本作は、出来はいま一つだった、映画「ホタル」にさえも遥かに及ばない。

新城卓監督の演出も、脚本に輪をかけてお粗末である。そもそもカメラポジションがなっていない。

例えば、田端(筒井道隆)の婚約者の父が食堂を訪ねて来るシーン、カメラは、父親の背後からトメさんを捕らえ、二人が会話している間も父親の顔が全然見えない。

役者が会話するシーンは、それぞれの顔が見える位置にカメラを据えるのが鉄則である。観客は、話している人物が笑顔なのか、悲しい顔をしているのか、険しい顔なのか、とまどった表情をしているのか…その顔を見てその人物の内面を推し量るのである。顔が見えなければ何を考えているのか分からない。

小津安二郎作品が代表だが、一般には会話しているシーンでは、ほとんどの場合、俳優の顔のアップか、バストショットを切り返しカットバックで描くものである。2人が同時に画面に入っているシーンなら、必ず2人の顔が見える位置にカメラがある。他の監督であってもほとんど同様の鉄則が守られている。それが観客に対する親切である。

そういった、会話する相手の顔が見えないシーンが何箇所もある。いったい何でこんな不親切なカメラワークを用いているのか理解出来ない。…しかもやっとその父親の顔が見えたら、江守徹だった。こういう撮り方は、名優江守徹に対しても失礼ではないか。

相米慎二監督のように、延々とワンカット長回しで撮って、顔のアップを撮らない監督もいるにはいるが、その場合でもやはり喋っている人物の顔が見えるよう、カメラは横位置にあるか、あるいは顔が見えるようめまぐるしく移動する。

この監督は、相米監督ばりに役者のアップを撮らないポリシーなのかと思っていたら、終盤近くになって突然俳優のバストショットが2箇所ほど出て来たのでまた分からなくなった。何故ここに、それまで封印して来た(としか思えない)バストショットを入れるのか、私にはさっぱり理解出来ない。…万事この調子で、演出家の力量不足が露呈しているのである。

「二百三高地」や「男たちの大和」が見事な傑作になり得ているのは、笠原和夫や野上龍雄といった、しっかりしたドラマツルギーを構築出来るプロの脚本家がシナリオを書き、舛田利雄や佐藤純弥といった、プログラムピクチャーを無数に作って来たベテラン監督が演出してるからである。やはりこうした骨太でスケール感のある映画を作るなら、脚本・監督とも百戦錬磨のベテランを起用すべきである。本作は残念ながら脚本・演出ともプロのレベルに達していないと言えるだろう。 

 

無論、この映画を観て、感動した、泣いた…という人は多い。確かに、めったに映画を観ない人や特攻の悲劇を知らなかった人には感動出来るだろう。

しかしそれは、実際にあった歴史的事実の重みのおかげであって、決して映画がよく出来ているから感動したわけではない。むしろ、この題材で、NHKスペシャルなどでテレビ・ドキュメンタリーとして取り上げたならもっともっと感動し泣けるだろう。

 

まあ、いろいろ難点は多いが、思ったほど露骨な右翼映画にはなっておらず、戦争の愚かしい部分もそれなりに描けているので、映画そのものは出来は悪いがワーストにするほどの作品でもない。

しかし何ともあきれたのはこの題名である。なんという時代錯誤でくだらないタイトルをつけるのか。私は恥ずかしくてとても窓口で題名を言えなかった。

単に時代錯誤なだけではない。この題名からは、死ぬ事が美徳であるかのような印象を受ける。これが大問題である。

ここ数年、自殺したり、簡単に人を殺したりする事件が頻発している。人間の命は、親から授かったかけがえのない大切なもので、命を粗末にしては絶対にいけない。…そういう事を子供たちに教えて行くのが上に立つ人の責務ではないのか。

戦争は仕方がないと思う。しかし、戦場に行っても、生き延びて無事戻って来て欲しいと、送り出した人は誰もがそう望んでいるだろう。それが当然である。事故や病気や運命であれば仕方がないが、軽軽しく自ら命を棄ててはいけない。

無残にも死地に追いやられた特攻隊員の人々の最期ははいたましいし、その死を追悼するのは当然である。しかし特攻という、人の命を武器にする戦略は絶対に間違いである。ここを取り違えてはいけない。

例え愛する人の為であろうと、死に急いでは絶対にいけない。…その事を教えるべき指導者たる人がこんな死を美化するような題名をつけるとはとんでもない事である。慎太郎と親交があったというトメさんが生きていたなら何と思うだろう。この題名はトメさんの思いをも踏みにじっていると言えば言い過ぎだろうか。

作品自体の点数は1つくらいだが、この題名は大きな減点である。よって採点はそれらを総合し以下の通り。      (採点=××

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2007年5月16日 (水)

「ロッキー・ザ・ファイナル」

Rocky (2006年・20世紀FOX/監督:シルベスター・スタローン)

1976年に作られ、翌年我が国でも公開された「ロッキー」1作目には感動した。貧しいイタリア移民のロッキー(スタローン)が、懸命にトレーニングを積み重ね、誰もが勝てるはずがない…と思っていたチャンピオンに無謀にも戦いを挑み、どんなに打たれてもしぶとく立ち上がり、ついに15ラウンドを戦い抜く(惜しくも判定負けにはなるが)。

この映画が感動的だったのは、“夢を決してあきらめず、夢に向かって努力すれば、いつかはその夢がかなう”という普遍的なテーマをストレートに描いた点にある。この作品はそれ故、無名の脇役俳優から、努力によって一躍アメリカン・ドリームを実現したスタローン自身の人生とも重なり合って、多くの人に、“夢を持ち続ける事の大切さ”を再認識させてくれた点でも評価されるべきである。私にとっても大好きな作品となった。

しかしその後シリーズ化され、次々続編が製作されるにつれ、1作目の夢よもう一度…と柳の下のドジョウを狙う姿勢がハナについて、私は次第に観る意欲を失って行った。従ってこのシリーズは3作目までしか観ていない。

そもそも、1作目があまりに完成度が高いと(その上最初は単発として作られた作品の場合余計に)、2作目以降はどんどんダメになって行くケースが大半である(例を挙げれば「ダーティ・ハリー」、「ジョーズ」、「スター・ウォーズ」、「ダイ・ハード」―これは2作目まではまあまあだったが―等々)。

だから、本作もあまり観る気はしなかった。何よりも、“60才になっても、まだシリーズやるのかよ。ええかげんにせんかい”と、いささか呆れてしまったのが本音である。

しかし、観てみると、前半こそかったるかったが、後半はどんどん物語に引き込まれて行った。

ボクサーを引退し、小さなイタリア料理店を経営し、時たま客に昔の武勇伝を語る日々…。安定はしていて不自由のない生活ではある。しかしロッキーの心の中には、恐らくは何か満たされないものがあったであろう。そして、現役チャンピオンとのシミュレーション対決をテレビで見たロッキーは、いても立ってもいられなくなり、遂に60才!という年齢も省みず、チャンピオンに挑戦する事となる。

60才になっても、安定よりは(無謀であろうとも)夢にチャレンジし続けるロッキー。…それは、僕ら中高年世代に対して、“いくつになっても、夢を追い求める心を失ってはならない”というメッセージを伝えているようにすら感じられる。

そしてまた本作には、嬉しい事に1作目とそっくりなシーンがいくつか登場する。詳しくは映画を観てのお楽しみだが、あのビル・コンティ作曲の有名な「ロッキーのテーマ」が高らかに鳴り響き、懸命にトレーニングしたり、あのフィラデルフィア美術館の階段を駆け上がるシーン等を見ていると、1作目の感動が蘇えり、すごくいい気分になって来る。そしてクライマックス、かなうはずのない強敵に立ち向かい、打たれても打たれても立ち上がるロッキーの姿を見ていると、知らず知らず涙が溢れて来た。あざとい…と分かっていても、つい興奮し、感動してしまうのである。

とにかく、1作目をリアルタイムで観て、感動した方には絶対のお奨めである。忘れているなら、もう一度1作目をビデオで見直してから鑑賞する事をお奨めする。そうそう、エンドロールも絶対席を立たない事。素敵なサービスショットがあります。

 

…で、気付いた事。この作品、1作目が作られてから、ちょうど30年目に製作されている。しかも、60才を超えた俳優が1作目と同じような役柄で、1作目と同じようなシーンを再度演じている。…これ、昨年公開された、市川崑監督作品「犬神家の一族」と同じパターンなんですね。

あちらも、1作目が大人気を呼び、次々と続編が同じ役者で何本も作られ、そして30年ぶりに同じ役者でリメイクされた。そしてどちらも1976年に1作目が製作され、共に2006年12月に(片や日本、片や全米で)!新作が公開された…。

私は新作の「犬神家―」を、「犬神家マスターズ・リーグ版」と名付けたが、「ロッキー・ザ・ファイナル」という映画も、ある意味では「ロッキー」マスターズ・リーグ版と言えるかも知れない。野球のマスターズ・リーグでも、かつての名プレイヤーたちが60才を超えても元気な姿を見せ、それを見ていると懐かしくて感動的な気分になる。―そう考えると、足の運びもパンチの繰り出し方もヨレヨレの還暦ロッキーが現役チャンピオンと対等に戦ってしまうというありえない展開にも、納得させられてしまうのである(……て思ったのは、私だけかな?)。     (採点=★★★★☆

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2007年5月12日 (土)

「ブラックブック」

Blackbook_2 (2007年/監督:ポール・ヴァーホーヴェン)

鬼才、ポール・ヴァーホーヴェン監督が、20年ぶりに祖国オランダに戻って完成させた、第2次大戦下のオランダにおけるユダヤ人女性の数奇な運命を描いた問題作。

キャッチコピーに、「『シンドラーのリスト』『戦場のピアニスト』、そして…」とある。

確かに、“戦火の中を、ナチスの迫害を逃れて必死に生き延びたユダヤ人”というテーマは前2作と共通する。このコピーだけ見れば、同じような感動作と想像してしまうかも知れない。

しかし、あのバイオレンスとセックス(と下品さ)が身上のヴァーホーヴェンが、そんな上品な感動作を作るはずもない。

で、案の定、上記2作のムードを期待して観に行った人はしっぺ返しを食らう、相変わらずいつものヴァーホーヴェン節が炸裂のバイオレンスとエロと下品さに満ちた怪作に仕上がっている(なんせ主役の美女が○○○まみれになるのである(笑))。

ヘンな例えだが、山田洋次監督作品のつもりで映画館に入ったら、実は鈴木則文監督作品だった…くらいの落差がある(笑)ので、上品なオバサマはご覧にならない方が賢明かも知れない。

しかし熱心な映画ファンなら是非観ていただきたい。下品さは確かにあるが、これはひと言では説明出来ない、サスペンス、アクション、謎解きミステリー、危機また危機の波瀾万丈の冒険譚、適度なエロス等、さまざまな娯楽映画のエッセンスを網羅して観客を十分楽しませつつも、戦争という悪に対する痛烈な批判もちゃんと前面に押し出した優れた作品に仕上がっているのである。

特に中心となっているのは、ヒロイン、ラヘル(カリス・ファン・ハウテン)が参加した対ナチス・レジスタンス活動において、情報が筒抜けになって仲間が次々と死んで行き、一体誰が内通者なのか…とみんなが疑心暗鬼になるシークェンスである。これが実に混み入っていて複雑怪奇、犯人探しというミステリー要素を絡めつつも、人間が人間を信じられない諜報戦争のむなしさをも追求しているのである。

戦争が終われば、今度はナチス協力者狩りにも晒され、またまたおぞましい目に会うラヘル。この協力者狩りのパートもヴァーホーヴェンらしく苛烈で容赦がない(「ナチスよりも酷い」というセリフも出て来る)。

ようやくラストに至って真犯人も解明され、「これで静かになるのね」とラヘルはつぶやくのだが、そのまたラストに用意されているオチに、“人間という愚かな生き物がいる限り、戦争はこの世からなくならないのだ”というテーマが鮮明に浮かび上がる。ポール・ヴァーホーヴェン監督久々の快作である。

(ココからもお楽しみ)
ユダヤ人の死体から金品を掠め取る、ズル賢いナチス将校の名前が“フランケン”だが、私などはこれを聞くと、藤子不二雄のマンガ「怪物くん」の家来の一人を思い浮かべてしまう(笑)。あるいは、こういう、したたかで冷酷な人間もまた、戦争が生み出した“怪物”であるという事を暗示しているのかも知れない(…なワケない。冗談です(笑))。

まあそれだけならともかくも、ラヘルが戦後結婚し、その苗字がなんとまあ“シュタイン”というのには笑ってしまった。二人合わせれば“フランケンシュタイン”になるじゃないですか(笑)。これはヴァーホーヴェン監督、ウケを狙った…てことは、まさかないでしょうねぇ(笑)。

 (採点=★★★★☆

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2007年5月 6日 (日)

「バべル」その2

Baberu_1  「バベル」に関する批評で、「なぜ日本が舞台?」というのが結構ありました。

確かに、あのエピソードについては、何処の国が舞台であっても構わない内容ではあります。

それを解くカギとしては、私は主人公たちの役名に着目しました。

Baberu2 役所広司扮する父親の役名は、“ヤスジロー”です。
今の時代に、あんまり見かけない古くさい名前です。

で、ピンと来たのが、映画ファンなら誰もが知っている映画史に残る名監督。
―そう、“小津安二郎です。

彼の代表作で、世界的に知られた傑作が「東京物語」(53)ですが、この作品のテーマもまた、“親子の断絶”なのです。

東京で生計を営む子供たちに会う為に、故郷尾道から、はるばる東京にやって来た老いた両親(笠智衆と東山千栄子)。しかし子供たち(山村聰、杉村春子)は快く迎え入れず、あげくに住む部屋もないという事で、夫婦はバラバラに子供たちの家や、熱海の旅館へと転々と移り、舞い戻っては迷惑がられる。慌ただしい東京暮らしを通じて、両親は、親子の絆の脆さを思い知らされる事となる。

この作品以外にも、小津監督は「一人息子」(36)、「戸田家の兄妹」(41)など、親子の断絶というテーマに取り組んだ作品を多く手掛けています。

「東京物語」は世界中で絶賛され、ジム・ジャームッシュやヴィム・ヴェンダース、アキ・カウリスマキ、ホウ・シャオシェンなど、海外の多くの映画人からもリスペクトされている不朽の名作です。当然イニャリトゥ監督も観ているはずです。

ついでながら、小津のもう1本の傑作「晩春」(49)では、“妻を早くに亡くし、娘と二人で暮らす男が、娘の行く末を案じる”という、これまた本作と似たようなシチュエーションが登場します。

おそらくは、密かに小津安二郎監督を敬愛するイニャリトゥ監督が、“コミュニケーション不全”というテーマで作品を作ろうと思いたった時、東京を舞台に、親子の断絶を描いた「東京物語」をまず思い浮かべたに違いありません。

だから、本作は東京が舞台となり、主人公の男に“ヤスジロー”という役名を与えたのでしょう。

では、菊地凛子の役名、“チエコ”とは…。
―老夫婦の、妻役を演じた名優、“東山千栄子”さんからいただいた…に違いありません。

もう一つついでに、二階堂智演じる刑事の役名は、“間宮”です。
これも、小津映画ファンならピンと来る。そう、小津の、これも傑作「麦秋」(51)の主人公の、父(菅井一郎)の役名が、間宮周吉です(ちなみに、こちらの作品にも東山千栄子さんが奥さん役で出演してます)。

ここまで一致すれば、もう偶然とは言えませんね。

「バベル」は、小津安二郎リスペクト映画なのです。…誰か、イニャリトゥ監督に聞いてみてくれませんかねぇ。

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