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2007年6月27日 (水)

「複眼の映像」(橋本忍・著)

しばらくぶりに、読んだ本の話です。

Fukugannnoeizou 橋本忍と言えば、黒澤明監督「羅生門」「生きる」、映画史上ベストワン「七人の侍」などの傑作、「真昼の暗黒」「切腹」などの問題作、「日本のいちばん長い日」「日本沈没」「八甲田山」などの大作、さらに、松本清張原作「張り込み」「黒い画集・あるサラリーマンの証言」「砂の器」、等々、日本映画界に常に旋風を巻き起こして来た天才的な脚本家である。その橋本忍の自伝が本作である。

ただし、副題に「私と黒澤明」とあるように、これは著者が黒澤明と出会い、そしてどうやってあれらの素晴らしい傑作を生み出すに至ったか、さらには著者がタッチしていない黒澤作品にまで、脚本家の立場からその問題点を的確に指摘しており、言わば本著は、“タッグを組んだ脚本家・橋本忍から見た黒澤明論”なのである。

一介のサラリーマンだった橋本が、いかにして脚本家になったか…その経緯においては、実に数奇な運命の巡り会わせがある。“あの時、病気にならなかったら”、“その病室にあの人物がいなかったら”、“あの名脚本家の弟子にならなかったら”、“橋本の脚本を預かった人物が黒澤と親しくなかったら”、など、どの要素が抜けても名脚本家・橋本忍は生まれなかったかも知れない。 

これらの経緯については、黒澤作品のスクリプターを永年務めた野上照代・著による「天気待ち」にも書かれてあるが、本人が語ると一層の迫力があリ、読み応えがある。

その運命の偶然、事実は小説より奇なりとでも言いたくなるあまりの出来過ぎぶりや、映画「羅生門」完成までのスッタモンダ、国内の思わしくない評価から、松竹作品「白痴」の酷評による失意、そしてベネチア・グランプリ受賞までの波瀾万丈の展開は、まさにどんなフィクションよりもドラマチックで感動的である。これは是非どこかの局でテレビドラマ化して欲しい。

黒澤映画の脚本の成立過程も興味深い。あの名作、「生きる」「七人の侍」等の素晴らしいシナリオがいかにして出来上がったのか、その秘密が本著で初めて明らかになっている。

特に面白いのは、どちらの作品とも、クレジットに共作となっている小国英雄が実際にはほとんど脚本を書かず、橋本と黒澤が書いたものをチェックするだけの立場だったという点である。「横で英語の書物を読んでるだけで、一切筆を執らず、出来上がって来たものに目を通して多少のダメを出すだけだった」そうだ。
しかしむしろ、黒澤自身も小国を“司令塔”と呼んでいるように、的確なジャッジを下す司令官がいてこそ、作品の欠点が補正され、更にいい作品が生まれるのかも知れない。

その次の「生きものの記録」以降は小国も脚本執筆陣に加わり、橋本らと同時進行で脚本作りを行う方式に変更されるのだが、逆に司令塔がいない為に脚本の欠点が是正されず、橋本曰く「この方式により作り出された脚本はみな失敗だった」という事になるのである。戦争でもスポーツでも、高所から全体を俯瞰し、適切な戦略構築を行い、指揮を執る司令官の存在がいかに重要か、よく分かる話である。

「七人の侍」が誕生するまでの経緯もとても興味深い。最初はある侍の一日を淡々と追う話を書いて見たが、この物語では昼の弁当が重要なポイントとなる。ところが舞台となる江戸時代初期にはまだ一日2食が普通だった事を知り、橋本は苦渋の末にこのシナリオをボツにする。

普通のライターだったら「どうせ誰もそんな事知らないのだから構わないさ」とばかりにそのまま押し切るだろう。ところが橋本は「嘘は書けない」と言うポリシーを頑迷に守ろうとするのである。…橋本が何故日本有数のシナリオ・ライターになったか、このエピソードがその理由を物語っている。

後段で面白いのは、黒澤晩年の「影武者」「乱」を、失敗作だと断言し、その原因は脚本チームにあると指摘している点である。自分の商売仲間であっても、悪いものは悪い…と言い切っている辺り、それらの人々が既に鬼籍に入られているとはいえ、なかなか書けるものではない。…これは、己に厳しい橋本であってこそ、そして今なお橋本をしのぐ優れた脚本家が生まれていない現状だからこそ書ける文章であろう。

とにかく、これは映画ファン―とりわけ黒澤映画ファンは必読の本である。あまりに面白くて私は3度も読み返したくらいである。

なお、本著は昨年の、キネマ旬報誌が選ぶ「映画関係書籍ベストテン」で堂々2位にランクされている。まあ当然であろう。

ちなみに1位は、田草川弘氏の「黒澤VS.ハリウッド」(欄外お薦め本参照)。これも私が昨年読んで感銘を受けたノンフィクションの傑作であり、文句のない所である。

それにしても、映画本のベスト1~2位がいずれも黒澤がらみである点もまた興味深い。黒澤明が、いかに偉大な映画作家であったか、この事が証明しているといえるだろう。 (文中敬称略)

 

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2007年6月24日 (日)

「大日本人」

(2007Dainihonjin 年・松竹/監督:松本 人志)

お笑い芸人が映画を作るのは、私は悪くないと思う。北野武が最も成功した例(ただし、お笑いと全く違う世界にアプローチした稀有な例ではあるが)であろうが、かつては島田紳介も、青春映画「風、スローダウン」を監督し、好評だった(今の所これ1本。もっと監督して欲しいと思っている)。

欽ちゃんこと荻本欽一も、いくつか映画を撮っている。(?!)が孤独な主人公と仲良くなる(まあ、フランス映画「赤い風船」の風船が手になったと思えばよろしい)という、「手」と言う題名の風変わりな短編があるし(私は観ている。なかなか捨てがたい味わいの佳作だった)、長編では「俺は眠たかった」という作品を監督し、堂々松竹系でメジャー公開された(覚えている人、少ないでしょうね)。落語家で大の映画ファンである立川志らくも、マイナーではあるが映画監督でもある。

クリエイターであり、表現者であるという点では、映画作家もコメディアンも同じだと思うし、遠慮なくチャレンジして欲しいと思う。面白ければ結構な事だと私は思う。

さて、松本人志監督の「大日本人」である。どんな作品かほとんど情報がなく、まったく白紙の状態で鑑賞した。

アイデアは奇抜である。よくこんな事が思いついたと思えるほど、型破りな怪(?)作である。普通の映画監督が企画しても、多分どこも出資してくれないだろう(CGにかなり金がかかっている)し、新人監督が会社に脚本を提出したら、間違いなくプロデューサーにホンを叩き返されるだろう。売れっ子芸人、松本だからこそ通った企画であると言えるだろう。

ヘンテコな怪獣(怪しいと言えないので、獣(じゅう)と呼ぶのだそうな)が出没する度、防衛省からの出動依頼で巨大化して戦うヒーロー…ただし、出動する度に街を壊すので住民から非難ゴウゴウ…という設定は、「ウルトラマン」などの巨大ヒーローものへの、シニカルなコメディアン・松本らしい皮肉と諧謔であり、悪くない。

この発想は、ピクサー・アニメ「Mr.インクレディブル」にもあったし、金子修介監督「ガメラ3 邪神(イリス)覚醒 」でも、地球を守る正義の味方であるガメラが、怪獣と対決した結果、街を壊滅させ、多くの死傷者を出し、両親が巻き添えで死んだ少女から恨まれるという筋になっていた。

ただ、そりゃそうだけど、それを言っちゃ巨大ヒーローものは話にならなくなるわけで、ピクサー作品はコメディだし、結局金子ガメラも子供たちからは不評だった。

本作では、そこを突っ込んでいるわけで、本来ヒーローであるはずの大日本人が住民からはうとまれ、妻からは三行半を突きつけられ、孤独な一人ずまいでわびしい生活を送っている辺りをテレビ局のインタビューにボソボソ答えながら進行する展開は、有名になったものの、心の中は充たされない孤独を抱えた売れっ子タレントの(恐らくはやっかみや中傷も受けて来たであろう松本本人の心情でもあろう)内面をも的確に表現しているようで、それなりに楽しく観れた。

トボけた怪獣の造形もユニークで楽しい。よくあんなイメージを思いつくものである。胸にスポンサーの広告を入れている辺りも笑える(しかも、「加ト吉」には大笑いした)。ツッ込めば、あれだけ住民から非難されてたら宣伝にはならないと思うが(笑)。出動も、女性マネージャー(UA)との会話も、いやいやながらやってる様子がアリアリで、「こんな仕事早く止めたい…」という感じがよく出ている。

 
そんな訳で、始まってから30分くらいまでは楽しめた。

しかし、次第につまらなくなって来る。まあ、一種のお笑いコントのような発想なので、テレビのバラエティ番組なら面白いだろうが、起承転結をはっきりさせなくてはいけない映画では、余程ストーリーをきっちり練っておかないと持たない。思いつきだけでは、映画としては成立しないのである。

しかも、中盤、匂い獣(板尾創路)が登場してから、突然それまでのシュールな展開から一転、しょうもない漫才風の掛け合いが始まり、ここから後は、単なる吉本新喜劇に堕落(?)してしまう。

さらに、字幕で「ここから実写になる」と出てからは、CG予算がなくなったのか、ハリボテに安っぽい着ぐるみで、まるで花月の舞台で新喜劇を中継しているかのようなドタバタのどつき合いが延々と続く。

ここから後は、正直言って観るのがつらい。それまでのなかなか良く出来たCG特撮が、マカ不思議な異世界を現出させていてシュールな味わいがあったのに、これで全部台無しである。

エンド・クレジットの掛け合いに至ってはもう最悪である。ほとんど拷問に近い。私はどんな映画でも(余程時間がない時を除いて)場内が明るくなるまで座席に座っているが、今回は一刻も早く席を立ちたくなった。私は最近のお笑い番組の質の悪さに呆れ、ほとんどこれらを見ないが(従ってダウンタウンの芸も昔見たきりだが)、今の人はこんなものを見て笑っているのだろうか。植木等の死で、日本のお笑い芸の歴史は終止符を打ったのだろうか。

くだんの、北野武の「監督・ばんざい!」も後半腰砕けだが、この作品に比べたらずっとマシである。なのに、北野作品には客が入らず、こちらは満員盛況だそうな。情けない話である。

突っ込みどころも一杯だが、例えば、せっかく巨大なパンツを用意して、ヒーローが巨大化した場合、着ている物はどうなるのだ…という疑問(?)に答えているのに、認知症になった祖父が巨大化した時はフンドシがそのままである。自分で締められないだろうし誰も着せてあげられない巨大フンドシを祖父がどうやって身につけたのか教えて欲しい。

老人介護とか、住民エゴとか、いろいろな社会風刺も盛り込まれ、持って行き方次第では奇妙な味わいの佳作になったかも知れないのに、後半のネタ切れ失速が残念である。駄作と言わざるを得ない。   (採点=

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2007年6月16日 (土)

「監督・ばんざい!」

Kantokubanzai (2007年・オフィス北野/監督:北野 武)

北野武の監督作品は、衝撃的なデビュー作「その男、凶暴につき」以来、すべてリアルタイムで観ているし、大好きな作家である。

個人的には、1作目から「キッズ・リターン」までは、どれも大好きな作品ばかりであり、ベスト3を挙げるなら、「キッズ・リターン」「あの夏、いちばん静かな海。」「ソナチネ」という事になる。どれも、青春群像を瑞々しく、あるいは生きることの哀しさをシニカルに描いた傑作である。

この頃は、恐らく自分の内面から湧いて来る創作意欲を、感性のおもむくままにフィルムに写し撮っていたのだろう。だから一般大衆にはあまりウケず、興行的にはどれも散々だったが、私を含めた熱狂的な映画ファンからは熱い支持を得ていた

しかしそれにしても、テレビのお笑いタレントぶりからは想像も出来ない映画作品の、とりわけ2作目「3-4X10月」のほとんどラビリンス巡りとも言いたい不条理描写は衝撃的で妖しい魅力に満ちている。これほどの作家性を持った監督は稀有である。天才であると私は思った。…特にこの作品では、ガダルカナル・タカ、ダンカンといったたけし軍団の面々から、異様な迫力を持った個性派俳優の一面を引き出した慧眼と演技指導に感服した。

しかし、ベネチアでグランプリを受賞した「HANA-BI」辺りから、ややおかしくなる。「BROTHER」も、「Dolls」も、なんだか以前の奔放さが影をひそめ、妙に外国受けするような要素を継ぎはぎしたような、収まりの悪い作品になっていた。

これは一面には、海外で絶賛され、世界的な映画監督の1人として認められるようになって、“世界から注目される映画作家としてうかつな作品は作れない”というプレッシャーが生じて、そうした海外ファンの希望を無理に取り入れようとしてバランスを崩した結果かも知れない。またもう一面として、権威や常識を笑い飛ばして来た毒舌タレントとしてのステータスが、生半可な“良い作品”を拒否した面があるのかも知れない。

それと気になるのは、それまでは映画作品から、慎重に“お笑いタレント・ビートたけし”の要素を排除して、ほとんど“笑い”がなかった(前述のようにたけし軍団からも笑いを排除していた)が、「菊次郎の夏」では後半、たけし軍団のくだらないおフザケ遊びが展開され、作品をガタガタにしてしまった点である。

無論、それ以前にも「みんな~やってるか」というコント集のようなお笑い映画を作ってはいるが、監督名義がビートたけしであったように、これは厳密には“北野武監督作品”ではない。つまりは、“お笑いタレント・ビートたけし”と、“世界が注目する映画作家・北野武”とは全く別の人格であるかのように使い分けていたのである。

「菊次郎の夏」では、遂にそのバランスが崩れ、北野武映画にビートたけし的部分が闖入し、そして前作「TAKESHIS’」ではとうとう、映画の中で主人公は売れっ子タレント・ビートたけしと、売れない無名時代の北野武に分裂し、にもかかわらず物語は過去の“映画監督・北野武”作品のセルフパロディで埋め尽くされるなど、どっちのたけしを描きたかったのか本人にも分からなくなったかのような混迷ぶりを露呈するに至った(「TAKESHIS’」評はこちらを参照)。

明らかに、天才的映画作家・北野武は、作家としての袋小路に入り込んでしまったのではないかと私は思う。

 

そこで本作だが、今度は“北野武監督が、作家として次に何を撮ればいいのか分からなくなった”状況をそのまま映画にしてしまったのである。

かつてはイタリアの名匠、フェデリコ・フェリーニ監督も同じような状況に陥り、そして同じような映画作家の自問自答をそのまま映画にした「8 1/2」を撮りあげた。これが逆に絶賛され、あらゆる映画賞を総なめにしてしまったことがある。

本作は、その意味では北野武監督の「8 1/2」になったのか…。

答は、もう少しでなりかけ、そしてまたしても“ビートたけし的部分”が邪魔をして、混迷の度をさらに強めてしまった怪作になっていた。

前半はいい。いろんな映画ジャンルに次々挑戦し、どれも途中で自分自身でツッ込みを入れて止めてしまうあたりが、最近のワンパターン化したジャンル・ムービーへの痛烈な皮肉にもなっており、かつ「どんなジャンルだって、水準以上の佳作にしてみせる自信はあるぞよ」と言ってるようで頼もしい。事実どの作品も、数分づつではあったが、どれもとても面白くて、“どれも長編として観たい”と思わせる素晴らしい出来であった。

例えば、小津安二郎作品を思わせる「定年」は、ローアングルのカメラ位置といいカット割といい、役者のゆったりとしたセリフ回しといい、まさに小津映画の特徴を完璧に捉えていて感嘆した。小津映画を数多く観て来た人ほどその模倣ぶりに呆れるか感心するだろう。

昭和30年代を舞台にした「コールタールの力道山」は、本人自身が昭和30年代初めに小学生だったこともあって、かなり力が入っている。父親がペンキ職人というのも北野武の父と同じで、まさに自伝的作品である。
「ALWAYS 三丁目の夕日」と似た企画であるが、二番煎じと思われたくないのだろう、あの作品よりはもう少し貧乏で汚らしい。これは是非長編で観たい所であるが、北野武監督はこれすらバッサリ捨ててしまう。もったいない…。

この他にも、ラブストーリーあり、ホラーあり、チャンバラ時代劇あり…と、どれもなかなか面白そうで、しかし必ず最後に欠点を挙げ、ボツにしてしまう。

安易な企画が顔を利かせている、今の日本映画界に対する、これは北野武流の皮肉であり、また注目されるプレッシャーの中で、ありきたりの作品では満足しない、孤高の映画作家・北野武の迷いと苦しみがそのまま本音として出たのが、本作なのであろう。

そういう意味では、映画そのものが“日本映画論”、“映画作家論”にもなっているのである。私はこの前半はとても楽しんだし、このペースで最後まで行ってくれたら、“武版「8 1/2」”として高く評価しただろう。

しかし後半、岸本加代子と鈴木杏の詐欺師親子の映画になった途端に、またしても“お笑いタレント・ビートたけし”が前面に出て来て、ベタベタでくだらないギャグが中途半端に飛び出し、映画のトーンを著しくかき乱すこととなる。

私が特に疑問に思うのは、本人が演じるブルーの制服を来た主人公は、前半はどう見ても“映画監督・北野武”であったはずなのに、後半のパートではいつの間にか“お笑いタレント・ビートたけし”に入れ替わって、ギャグを連発するのである。このギャグがまた、時代遅れだし寒いしで、てんでつまらない。

テレビのお笑い番組中でなら笑う人もいるだろうが、前半の“映画作家・北野武”部分のクオリティの高さとは大きな落差が生じ、せっかくの前半の良さをぶち壊しているのである。

しかし、ラストの大カタストロフィで、やっと映画のテーマがはっきりした。
これによって、一度これまでの“タレント・ビートたけし”、“ベネチア・グランプリ監督・北野武”のイメージを、すべて壊し、そこからリセットして、また新しい世界に踏み込もうとする、これは決意の現れ…ではないかと私は思う。

次回作で、まったく新しい映画作家・北野武が再生するのか、それを見守りたいと思う。

採点は、前半の6短編作品部分が★★★★☆、後半は★★…といったところか。トータルでは、    (採点=★★★★

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2007年6月 3日 (日)

「パッチギ! LOVE&PEACE」

Pattigi2 (2007年・シネカノン/監督:井筒 和幸)

2年前に、各種映画賞をほぼ独占した青春映画の秀作「パッチギ!」の続編。

今回は、あれから6年後の1974年、舞台も東京に移り、前作のラストで生まれたアンソン(井坂俊哉)の息子・チャンスの難病・筋ジストロフィーの治療の為に一家が奮闘する姿を描く。

前回、「俺は、君のためにこそ死ににいく」批評で、カメラワークがなっていない事について厳しく批判したが、そんな事もあって、本作は特にカメラワークに注意した。本作でもカメラワークやアングルがなってなかったらカッコがつかないからである。

で、結果は杞憂だった。会話シーンではきちんとバスト・ショットのカットバック、心理的な動揺を窺わせるシーンでは顔のアップ、登場人物たちの位置関係を示す場面はミディアム・ショット、さらには不安そうに振り返るチャンスを遠景に手前に人物を配置する奥行きのある構図…などなど、実に的確でバランスの取れたカメラ・アングルに感心した。まさにカメラワークのお手本―とでも言いたくなるほどの正攻法できっちりした演出は安心して見ていられる。これがプロの仕事である。

…しかし、別に井筒監督がすごいのでもなんでもなく、これが当たり前なのであって、多くの映画を撮って来た監督なら誰でも自然に身に付く技術なのである(特にB級映画を数多くこなして来た人ほど)。そんな当たり前の事を指摘したくなるくらい、観客に分かり易く物語を伝える演出技術が未熟な監督が目立つのは嘆かわしい事である。あえて言っておきたい。

さて、そうやって誉めた所で、肝心の映画の出来はと言うと、これが残念ながら前作よりは落ちる。何より、前作ではフォークルの名曲「イムジン河」が全編にフィーチャーされ、この曲が民族分断の悲劇を象徴すると同時に、若者たちの出会いや恋のさまざまな局面で効果的に使われるなど、実にうまい構成に感心したのである。
本作では、それに匹敵するアイテムがないのも弱い。

キョンジャ(中村ゆり)が芸能界に入るというエピソードが、一家がつつましくささやかに生きていた前作のトーンとマッチしていないし(その動機もも一つあいまい)、最近の映画界にやたら流行っている(また韓国映画に多い)難病を題材にしているのにもゲンナリしてしまう。病院で、日本では治せないと聞いたキョンジャが、「どうして私たち朝鮮人は、こんな目に会わなければならないの」と嘆くシーンではシラけた。朝鮮人のせいで難病になった訳じゃないだろうに。

前作の、冒頭とラストに盛大な喧嘩の乱闘アクションを持って来るという構成を、お約束として本作にも用意しているのだが、冒頭はともかく、ラストのは場所といい持って行き方といい、ちょっと無理があって感心できない。

とにかく、全体的に、あれもこれもと、言いたい事を詰め込み過ぎて物語構成が著しく破綻しているのである。

 
…とまあ、いろいろ難点は多い作品である。

 
だが、ラストの、キョンジャが出演した戦争映画「太平洋のサムライ」の完成披露試写会の舞台挨拶で、キョンジャが、「自分の父は済洲島出身で、父が徴兵を逃れ、必死で生き延びてくれたからこそ自分が今生きているのだ」と語り出すシーンでは、不覚にも涙が溢れた

そうか!これが言いたかったからこそ、井筒監督はこの映画を作ったのかと、やっと納得した。途中から挿入される、アンソンたちの父親が南方の島で地獄の戦場を体験するエピソードの意味もやっとここで判ってくる。チャンスの難病もそう考えると、“どんなつらい事があっても、生きる希望を失ってはならない”というテーマに繋がって来る(ポスターにあるキャッチコピー、「生き抜くんだ、どんなことがあっても」は、まさにそのことを訴えている)。

バラバラの時は何だか分からないジグソーパズルで、最後の1ピースを嵌める事によってすべてが見えて来るようなものである(もっとも、力まかせに嵌め込んだ為、食い違ってるピースもあるが(笑))。

何より、「太平洋のサムライ」という映画と、そのプロデューサー(ラサール石井)の描き方は、まさに石原慎太郎が作った「俺は、君のためにこそ死ににいく」という映画に対する痛烈な批判になっているのが痛快である。国の為に死ぬ事を美化した、あの映画に対して、そして憲法改正だの靖国参拝だのとキナ臭くなりつつある時代の風潮に対して、正面からパッチギをかましているのである。

 
いつの時代であっても、理不尽な事には怒り、告発する知識人がおり、そうした映画も作られて来た。先ごろ亡くなられた熊井啓監督(謹んで哀悼)を筆頭に、山本薩夫監督(「金環食」「不毛地帯」他)、今井正監督(「真昼の暗黒」他)、松山善三監督(「われ一粒の麦なれど」)、深作欣二監督(「軍旗はためく下に」)など多士済々、黒澤明監督も、お役所仕事(「生きる」)、原爆実験(「生きものの記録」)、役人の汚職(「悪い奴ほどよく眠る」)、医療と政治の貧困(「赤ひげ」)等に対し、常に怒り続けて来た作家なのである(映画ではないが、手塚治虫も医療や政治の貧困を鋭く告発する漫画を数多く描いている)。
今のアメリカでも、「華氏911」のマイケル・ムーア監督がいる。

そうした、怒り、告発する映画を作る映画人が最近では非常に少なくなって来た。熊井啓監督が亡くなられた今では、ほとんど絶滅した…と言ってもいい。

この映画は前述のように、映画としては破綻や難点が多い。
しかし、井筒監督は激しく怒っている。怒りのあまりに迷走し、暴走過ぎた感もある。それで不快感を示す観客もいるだろう。

それでも、私は井筒監督の、どこかおかしくなりつつある現状に激しく怒り狂うこの姿勢を評価したい。怒る映画人が皆無となった今の映画界では、こうした存在は貴重だからである。どんなに批判が来ようとも「俺はこれだけは言いたいんや!」という姿勢を貫く井筒監督の意気込みは、高く評価すべきだと思うのである。

なお、井筒監督は、決して在日韓国人を一方的に擁護しているわけではない。魚や鮑を無断で採って、注意する漁民に食ってかかったり、ゴミ捨て場から使えそうな道具類を拾ったり、その行為を咎めた警官にキレたりと傍若無人、アンソンは医療費捻出とはいえ密輸をやったりする。

在日団体から抗議を受けないかと余計な心配をする人がいるが、そういう人は梁石日の小説を映画化した「夜を賭けて」(金守珍監督。これもシネカノン配給)を観て欲しい。大阪の旧陸軍兵器工廠跡地に大量に埋まっている鉄屑を堂々と盗み出し、警察と攻防戦を繰り広げた在日朝鮮人たち(通称アパッチ族)の実話である。…つまりは、在日朝鮮人たちは昔から結構したたかに生きて来ているのである。本作で描かれたような事も、案外実際にあった事なのも知れない。…そういう意味では、むしろ公平でリアリティある描き方をしてると言えるだろう。

黒澤明監督「七人の侍」でも、虐げられて来たはずの百姓が、実は落武者狩りで鎧、弓などをこっそり隠していた…という描写がある。人間とは、そうした具合に悲惨な境遇にあっても、図太く、こすっからく、たくましく生きて来た存在なのだ―という事であろう。
こうした描写があるからこそこの作品は、人間の強い面も弱い面も描ききった秀作たりえているのである。偉大な黒澤監督とは比較すべくもないが、井筒監督の人間の描き方とはどこか共通しているのかも知れない(「生きものの記録」のように、怒りのあまり作品に乱れが生じている所まで似ている(笑))。

ともかくも、破綻はあるとは言え、パワフルでストレートにテーマに迫っている点で、やはり観ておくべき力作であると言えよう。石原作品との勝負?こちらの圧勝ですな(笑)。

そんなわけで、作品としての採点は★★★といった所だが、ラストのキョンジャの涙(中村ゆり好演)と、今の映画界には貴重な怒りのパワー分をおマケして…    (採点=★★★★☆

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