「パッチギ! LOVE&PEACE」
2年前に、各種映画賞をほぼ独占した青春映画の秀作「パッチギ!」の続編。
今回は、あれから6年後の1974年、舞台も東京に移り、前作のラストで生まれたアンソン(井坂俊哉)の息子・チャンスの難病・筋ジストロフィーの治療の為に一家が奮闘する姿を描く。
前回、「俺は、君のためにこそ死ににいく」批評で、カメラワークがなっていない事について厳しく批判したが、そんな事もあって、本作は特にカメラワークに注意した。本作でもカメラワークやアングルがなってなかったらカッコがつかないからである。
で、結果は杞憂だった。会話シーンではきちんとバスト・ショットのカットバック、心理的な動揺を窺わせるシーンでは顔のアップ、登場人物たちの位置関係を示す場面はミディアム・ショット、さらには不安そうに振り返るチャンスを遠景に手前に人物を配置する奥行きのある構図…などなど、実に的確でバランスの取れたカメラ・アングルに感心した。まさにカメラワークのお手本―とでも言いたくなるほどの正攻法できっちりした演出は安心して見ていられる。これがプロの仕事である。
…しかし、別に井筒監督がすごいのでもなんでもなく、これが当たり前なのであって、多くの映画を撮って来た監督なら誰でも自然に身に付く技術なのである(特にB級映画を数多くこなして来た人ほど)。そんな当たり前の事を指摘したくなるくらい、観客に分かり易く物語を伝える演出技術が未熟な監督が目立つのは嘆かわしい事である。あえて言っておきたい。
さて、そうやって誉めた所で、肝心の映画の出来はと言うと、これが残念ながら前作よりは落ちる。何より、前作ではフォークルの名曲「イムジン河」が全編にフィーチャーされ、この曲が民族分断の悲劇を象徴すると同時に、若者たちの出会いや恋のさまざまな局面で効果的に使われるなど、実にうまい構成に感心したのである。
本作では、それに匹敵するアイテムがないのも弱い。
キョンジャ(中村ゆり)が芸能界に入るというエピソードが、一家がつつましくささやかに生きていた前作のトーンとマッチしていないし(その動機もも一つあいまい)、最近の映画界にやたら流行っている(また韓国映画に多い)難病を題材にしているのにもゲンナリしてしまう。病院で、日本では治せないと聞いたキョンジャが、「どうして私たち朝鮮人は、こんな目に会わなければならないの」と嘆くシーンではシラけた。朝鮮人のせいで難病になった訳じゃないだろうに。
前作の、冒頭とラストに盛大な喧嘩の乱闘アクションを持って来るという構成を、お約束として本作にも用意しているのだが、冒頭はともかく、ラストのは場所といい持って行き方といい、ちょっと無理があって感心できない。
とにかく、全体的に、あれもこれもと、言いたい事を詰め込み過ぎて物語構成が著しく破綻しているのである。
…とまあ、いろいろ難点は多い作品である。
だが、ラストの、キョンジャが出演した戦争映画「太平洋のサムライ」の完成披露試写会の舞台挨拶で、キョンジャが、「自分の父は済洲島出身で、父が徴兵を逃れ、必死で生き延びてくれたからこそ自分が今生きているのだ」と語り出すシーンでは、不覚にも涙が溢れた。
そうか!これが言いたかったからこそ、井筒監督はこの映画を作ったのかと、やっと納得した。途中から挿入される、アンソンたちの父親が南方の島で地獄の戦場を体験するエピソードの意味もやっとここで判ってくる。チャンスの難病もそう考えると、“どんなつらい事があっても、生きる希望を失ってはならない”というテーマに繋がって来る(ポスターにあるキャッチコピー、「生き抜くんだ、どんなことがあっても」は、まさにそのことを訴えている)。
バラバラの時は何だか分からないジグソーパズルで、最後の1ピースを嵌める事によってすべてが見えて来るようなものである(もっとも、力まかせに嵌め込んだ為、食い違ってるピースもあるが(笑))。
何より、「太平洋のサムライ」という映画と、そのプロデューサー(ラサール石井)の描き方は、まさに石原慎太郎が作った「俺は、君のためにこそ死ににいく」という映画に対する痛烈な批判になっているのが痛快である。国の為に死ぬ事を美化した、あの映画に対して、そして憲法改正だの靖国参拝だのとキナ臭くなりつつある時代の風潮に対して、正面からパッチギをかましているのである。
いつの時代であっても、理不尽な事には怒り、告発する知識人がおり、そうした映画も作られて来た。先ごろ亡くなられた熊井啓監督(謹んで哀悼)を筆頭に、山本薩夫監督(「金環食」「不毛地帯」他)、今井正監督(「真昼の暗黒」他)、松山善三監督(「われ一粒の麦なれど」)、深作欣二監督(「軍旗はためく下に」)など多士済々、黒澤明監督も、お役所仕事(「生きる」)、原爆実験(「生きものの記録」)、役人の汚職(「悪い奴ほどよく眠る」)、医療と政治の貧困(「赤ひげ」)等に対し、常に怒り続けて来た作家なのである(映画ではないが、手塚治虫も医療や政治の貧困を鋭く告発する漫画を数多く描いている)。
今のアメリカでも、「華氏911」のマイケル・ムーア監督がいる。
そうした、怒り、告発する映画を作る映画人が最近では非常に少なくなって来た。熊井啓監督が亡くなられた今では、ほとんど絶滅した…と言ってもいい。
この映画は前述のように、映画としては破綻や難点が多い。
しかし、井筒監督は激しく怒っている。怒りのあまりに迷走し、暴走過ぎた感もある。それで不快感を示す観客もいるだろう。
それでも、私は井筒監督の、どこかおかしくなりつつある現状に激しく怒り狂うこの姿勢を評価したい。怒る映画人が皆無となった今の映画界では、こうした存在は貴重だからである。どんなに批判が来ようとも「俺はこれだけは言いたいんや!」という姿勢を貫く井筒監督の意気込みは、高く評価すべきだと思うのである。
なお、井筒監督は、決して在日韓国人を一方的に擁護しているわけではない。魚や鮑を無断で採って、注意する漁民に食ってかかったり、ゴミ捨て場から使えそうな道具類を拾ったり、その行為を咎めた警官にキレたりと傍若無人、アンソンは医療費捻出とはいえ密輸をやったりする。
在日団体から抗議を受けないかと余計な心配をする人がいるが、そういう人は梁石日の小説を映画化した「夜を賭けて」(金守珍監督。これもシネカノン配給)を観て欲しい。大阪の旧陸軍兵器工廠跡地に大量に埋まっている鉄屑を堂々と盗み出し、警察と攻防戦を繰り広げた在日朝鮮人たち(通称アパッチ族)の実話である。…つまりは、在日朝鮮人たちは昔から結構したたかに生きて来ているのである。本作で描かれたような事も、案外実際にあった事なのも知れない。…そういう意味では、むしろ公平でリアリティある描き方をしてると言えるだろう。
黒澤明監督「七人の侍」でも、虐げられて来たはずの百姓が、実は落武者狩りで鎧、弓などをこっそり隠していた…という描写がある。人間とは、そうした具合に悲惨な境遇にあっても、図太く、こすっからく、たくましく生きて来た存在なのだ―という事であろう。
こうした描写があるからこそこの作品は、人間の強い面も弱い面も描ききった秀作たりえているのである。偉大な黒澤監督とは比較すべくもないが、井筒監督の人間の描き方とはどこか共通しているのかも知れない(「生きものの記録」のように、怒りのあまり作品に乱れが生じている所まで似ている(笑))。
ともかくも、破綻はあるとは言え、パワフルでストレートにテーマに迫っている点で、やはり観ておくべき力作であると言えよう。石原作品との勝負?こちらの圧勝ですな(笑)。
そんなわけで、作品としての採点は★★★といった所だが、ラストのキョンジャの涙(中村ゆり好演)と、今の映画界には貴重な怒りのパワー分をおマケして… (採点=★★★★☆)
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コメント
戦争を考えるために、小林よしのり著『戦争論』を読んでみてほしい。
ここが考えるスタートだと思う。
投稿: 田中 | 2007年6月 7日 (木) 01:41
トラックバック、コメント、いつもありがとうございます。ご無沙汰しています。
昔はそうでもなかったのですが、井筒監督は怒っていますよね。そのはけ口を映画化して、私たちに訴えてくる。こういう監督、今は少ないような気がします。以前から井筒監督のカメラは、きっちり構図をとっていて、丁寧で、これには気づいていました。カメラの基本は、まげてない。渡辺典子主演のあの頃から、とても丁寧な撮り方です。切り返しのタイミングもうまい。編集技術に任せようとする現場の姿勢もあるような気がします。
沢尻エリカに断られる前のシナリオは、どうだったのでしょうか。それが気になって気になって。舞台は関西だったのでしょうか。
とても熱のこもった評論を読ませていただきました。ありがとうございます。 冨田弘嗣
投稿: 冨田弘嗣 | 2007年6月12日 (火) 03:07