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2007年9月29日 (土)

「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」

Django (2007年・ソニー・ピクチャーズ/監督:三池 崇史)

笑った、笑った、楽しんだ。私はQ・タランティーノが「キル・ビル」を撮った時、あるいは昨年「スネーク・フライト」なるおバカ底抜けパニック・ムービーが登場した時、日本映画にもこうした、徹底してパロディ・オマージュてんこ盛りだったり、おバカなお話を、ビッグ・バジェットでやってくれる面白い映画が登場しないものかと嘆息したのだが、三池崇史監督、遂にやってくれました。
これは恐らく、日本映画初の、“金をかけておバカをやって楽しんでる超おバカエンタティンメント”の快作である。

何しろ、日本のどこかで、源氏と平家が対立する村に、西部のガンマンがやって来て、派手なガン・アクションがあって、出演者全員が英語でセリフを喋るのである。

「何で日本が舞台なのに英語を喋るんだ」と文句を言う人は、まずこの映画を楽しむ資格がない。
“これは西部劇なのだから、西部劇なら英語である”という発想なのである。
だから、胸に星バッジをつけた保安官がいても当然なのである。
日本の、しかも置屋が舞台なのに、全員英語を喋ってる「SAYURI」の不自然さに比べたら数段納得出来る。

(しかし特訓の甲斐あってか、結構サマになってる。少なくとも「キル・ビル」のルーシー・リューが喋るカタコト日本語(笑)よりはずっとマシである)

そして、バックボーンはマカロニ・ウェスタンである。この映画には、それこそいろんなマカロニ・ウエスタンへのオマージュがぎっしり詰め込まれている。マカロニだけでなく、アメリカ西部劇からも、我が黒澤明時代劇からも引用されている。いわば、「キル・ビル」日本版・マカロニ・ウエスタン・バージョンとでも言うべき作品なのである。(スキヤキと言うより、闇ナベ・ウエスタンと言いたい(笑))

だから、この映画は、かつて一世を風靡した、マカロニ・ウエスタンに思い入れの深い人ほど楽しめる。さらには、それ以前の、アメリカ製A級、B級とりまぜた正統西部劇、さらにさらに、昭和30年台前半の日本映画全盛期に、主に日活で量産された和製西部劇(これについては後で詳述)を含め、数多くの娯楽映画を見続けて来た人であればなおの事楽しめるのである。

基本ラインとなっているのは、「荒野の用心棒」である。2つの勢力が対立する町にフラリと現れた謎のガンマンが、巧みな戦略と見事なガンさばきで両者を全滅させ、また何処ともなく去って行く。一時は悪者たちに手ひどく痛めつけられるが、やがて傷を治し、最後は壮絶な決闘の末に勝利する…というパターンも忠実になぞっている。

そこに、「続・荒野の用心棒」(原題:DJANGO)を中心に、数本のマカロニ・ウエスタンのエピソード、小道具が散りばめられていて、マカロニ・ウエスタンをリアルタイムで楽しんだ私などはもう頬が緩みっぱなし。大いに笑って楽しんだうえに、エンドロールではなんとまあ、御大・北島三郎による「続・荒野の用心棒」の主題歌「さすらいのジャンゴ」の大絶唱(「ジャンゴ~さすらい」と改題)があって、これがまた絶品。ベルト・フィア(=アメリカ歌手、ロッキー・ロバーツの変名)が歌って、マカロニ・ウエスタン主題歌の中でも最高傑作だと思っているこの名曲をサブちゃんが歌うとは…それもピッタリと映画にハマっていて、私はここでウルウル泣けてきた。

ここまで、映画ファンをとことん喜ばせてくれる日本映画は何年ぶりだろう。―いや、日本映画史上、これだけ金をかけて、個性的な俳優をふんだんに使って遊びまくった贅沢なおバカ映画は初めてかも知れない。それだけでも快挙である。

この映画の楽しみ方は、映画を観終わった後、映画仲間と、あそこに出てきたアレはどの作品のドレだとかをワイワイ言いながら当てっこし合う事から始まる。少しでも早く見つけたもん勝ち。見つけられなくて指摘されて気がついては地団太踏んで悔しがって、それならこれはどうだ…と他愛なく反撃する。これだけでも数時間は楽しめる(笑)。「キル・ビル」の鑑賞の仕方と同じである。

それから、ストックしてあるビデオの山からマカロニ・ウエスタンの数本を再鑑賞し、あ、こんなものもあったなぁ…と改めて発見する事も出来る。ビデオが出たら、時々画面を止めて、一瞬登場した小ネタをもう一度確かめる…という方法で、またまた楽しむ事も出来る。―例えば、バックの看板や、墓標に刻まれた墓碑銘にもいろんな遊びが仕込まれている事に改めて気付くだろう。

そういったネタをここで列記したいが、未見の方の為にここでは書かない(これが礼儀)。観終わった方で興味があれば、ココをクリックして開いてください。一杯挙げてあります。

俳優では、桃井かおりが最高。ラストのガンアクションにはシビれた。佐藤浩市もいい(「ヘンリーと呼べ」に大笑い)。伊藤英明のガンプレイー特に銃をクルクル回してホルスターに差し込む早業―は決まってるし、伊勢谷友介は刀さばきが惚れ惚れするほどうまい。こんなにカッコ良くアクションが出来る俳優とは思わなかった。和製ゴラム(映画を観れば分かる)の香川照之は相変わらずいい味出してます。木村佳乃は泥まみれになって大奮闘。役者がみんないい。

一つだけ指摘しておく。静(木村佳乃)の夫(小栗旬)の役名がアキラなのは、タランティーノが「オレはアニメオタクだから」と言うセリフから考えて、「AKIRA」から来ていると思われがちだが、彼の母の名前が“ルリ子”と聞けば、これでピンと来るのが映画ファン。

アキラとルリ子…と来れば、我々映画ファンに取っては、これはもう小林旭と浅丘ルリ子しかないのである。そう、二人が共演した「渡り鳥」シリーズこそはまさに元祖スキヤキ・ウエスタン!日本映画なのにこのシリーズはまさに和製西部劇だった(当時は無国籍アクションと呼ばれた)。中でも代表作「大草原の渡り鳥」ではアキラはシェーンそっくりの鹿皮服、ライバル宍戸錠はこれまた「シェーン」の悪役ジャック・パランスそっくりの黒づくめにテンガロン・ハット。二人がガンプレイで競い合うシーンにはニヤリとさせられた。宍戸錠主演の「早射ち野郎」なんかはモロに西部劇。今観ても十分楽しめる。
本作はその辺りからしても、日活無国籍アクションに対するリスペクトも含まれていると私は見た。

とにかく、この映画はコアな映画ファンであるほど楽しめる快作(怪作?)である。―映画なんて、所詮お祭りである。頭カラッポにして(しかし映画的記憶は頭にギッシリ詰め込んで)、笑って楽しむべし。         (採点=★★★★☆

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2007年9月18日 (火)

「夕凪の街 桜の国」

Yuunagi (2007年/監督:佐々部 清)

広島出身の漫画家・こうの史代の同名コミック原作を、誠実で丁寧な演出では定評のある佐々部清監督が映画化。

佐々部清監督と言えば、「チルソクの夏」「カーテン・コール」で、韓国と我が国の間に根強く潜在する差別意識を、声高ではなく静かに訴えて共感を呼んだ実力派監督である。

本作でも、原爆がもたらした悲しい現実を、やはり静かに、優しく描いて、見終わった後に深い余韻を残す秀作に仕上げている。

映画は、二部構成で、一部「夕凪の街」では、昭和33年の広島・川沿いの、いわゆる原爆スラムで暮らす被爆女性、皆実(麻生久美子)が、会社の同僚・打越(吉沢悠)に思いを寄せられながらも、やがて原爆症で短い一生を終えるまでを描く。

原爆の怖さは、落ちた直後のみならず、その後何年にも亙って人々を苦しめ、何十年経っても命を絶たれる恐怖が去らない所にある。

皆実の、打越に愛される幸せな日々を、昭和33年の、(もはや戦後ではないと言われた)平和な風景の中で淡々と描いているからこそ、その幸せを無残に奪ってしまう原爆の恐ろしさがヒシヒシと伝わって来るのである。

さらに悲しいのは、健康な人間の側に、身内が被爆者と交際する事を拒絶する心理がある事を窺わせるくだりである。いわゆる被爆者差別である。

これは、皆実の母(藤村志保)が、(疎開で被爆を逃れた)皆実の弟、旭が被爆女性と恋に落ちた際に、その交際に反対し、「何の為に疎開させたのか」と嘆くシーンでより強調されることとなる。

被爆者の身内ですら、その心理がある事に余計我々は愕然とするのである。

皆実役を熱演した麻生久美子が素晴らしい。自分の背中で息絶えた妹、翠を思い、「自分だけが幸せになっていいのだろうか」と悩む姿に心打たれる(同じように悩む娘を描いた、黒木和雄監督の秀作「父と暮らせば」が思い浮かぶ)。今年の主演女優賞の最有力候補になるであろう。

昭和33年が舞台という事で、「ALWAYS 三丁目の夕日」を連想するが、多分監督も意識したのだろう、ミゼットとフラフープがさりげなく登場する。画面の色調まで似ている気がする。

戦争の影など感じさせない、あのホンワカとしたドラマと同じ時代に、原爆で命を落としてゆく人々がいた事もまた忘れてはならない…という事まで考えさせられた。

 

第二部「桜の国」は現代が舞台であり、皆実の弟、旭(堺正章)とその子供たちが主人公となる。

旭が突然家を出て、広島に向かい(目的は50年前の、姉・皆実ゆかりの人々を訪ね歩く旅である事が後に分かる)、それを旭の娘、七波(田中麗奈)が追う…という展開なのだが、このお話は、第一部の誠実な物語と比べ、やや唐突過ぎ、かつ無理がある気がする。

無論、言わんとする事はよく分かるのだが、そもそも広島へ行きたければ家族にちゃんと説明すれば済む事だし、黙って裏口から逃げるように出て行った理由が分からない。

それを、七波がサンダル履きで追いかけ、たまたま出会った友人に促され、そのまま広島まで追って行くのも無茶である。交通費とホテル代とで相当な費用が必要だが、通りがかりの友人がよくその金を持っていたものだと余計な心配までしたくなる。

原作がどうなのか知らないが、例えば平成2年の、七波が小学生の頃から順に、“桜の国”の物語を中心に描いた方が自然だったのではないかと思う。

無論、ラストはそれなりに感動的ではあるのだが、やや違和感が残ったのも事実である。

旭役に堺正章を起用したのも疑問あり。少年の旭とはイメージが違いすぎるし、年齢から言っても現代では60歳台後半のはずであるが、そんな年齢には見えない。
もっと疑問なのは、子供たちが若過ぎる。逆算すれば旭が40歳以上の時に生まれた事になる。結婚したのは20歳台と思うが、それまで何をしてたのだろうか。

……とまあ、難点もなくはないが、全体としてはやはり感動で胸が熱くなる秀作に仕上がっている。髪飾りや、金魚といった小道具をうまく利用した演出も見事。

二部の無理な展開も、何も知らなかった七波が、父の後を追う事で、母と父の思いを知り、そして伯母の皆実の儚い人生を知り、自分が生かされている事に思いを新たにする…というテーマを訴えるには必要であったのかも知れない。しかしもう少し工夫が欲しかった。

第一部に限ってなら満点を与えたいが、第二部の構成がやや減点なので、総合採点は (★★★★☆

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PS.原爆の悲劇を描いた映画は沢山作られている。愛した相手が原爆症で死んで行くラブストーリーの秀作としては、蔵原惟繕監督「愛と死の記録」(66)がある。主演は吉永小百合と渡哲也。

河沿いの原爆スラムをドキュメンタリー風に捕え、被爆者の悲しみを描いた「河 あの裏切りが重く」(67・森弘太監督)という作品もある。残念ながら自主制作作品なのでビデオはないようだ。

被爆者に対する差別を糾弾した問題作としては、熊井啓監督「地の群れ」も秀作である。あと、原爆投下直前までの庶民の姿を描いた黒木和雄監督「TOMORROW 明日」(88)は必見の傑作である。

本作は、これらの作品に対するリスペクトも含んでいるように私には思えた。

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2007年9月17日 (月)

出張先で見つけた良心的ミニシアター

今年の1月から続いた単身赴任も、この9月で終りです。

前にも書きましたが、レンタルビデオ屋は全然ないし、映画館も家から遥か遠い所にシネコンしかないしと、映画ファンにとっては住みにくい所でした(いざ去るとなると、ちょっと名残惜しい…)。

しかし偶然、家から10分くらいの所に小さな映画館があるのを知りました。

しかも、大阪で見逃していた、佐々部清監督「夕凪の街 桜の国」が掛かっております。

これは都合がいい、とイソイソと観に行きました。(作品評については別項で)

Daimoncinema1 名前は、「津大門(だいもん)シネマ」
定員140人の、こじんまりとした小劇場です。

場所は、表通りから少し入った、少々目立たない所にありました。

番組を見て驚きました。
先週までが「しゃべれども、しゃべれども」と「あるスキャンダルの覚え書き」(入れ替え制)。
今週が「夕凪の街―」と「プロバンスの贈り物」。

Daimoncinema2_2 以降の予定が、新藤兼人脚本「陸に上がった軍艦」、「それでも生きる子供たちへ」、「シッコ」、「22才の別れ」、「サッド・ヴァケイション」・・・・ と、大阪で言うなら、テアトル梅田シネ・ヌーヴォ九条あたりの名物ミニシアターと同レベルの、格調高い作品が並んでいます。
入場料金も当日 1,600円と、割安です(なんせ、ミニシアター系作品は前売り料金でも 1,500円が普通ですから)。

多分、映画人口が少ないであろう、この街で、こういう地味な秀作を上映し続けて行くという事は、苦労も多い事だと思います。採算が取れているのか、人ごとながら気になります。

それでも上映が始まって後ろを見ると、観客は30人はおりました。ちょっと安心しました。

上映が終り、出口に向かうと、ドアの近くで支配人らしき年配の方(70才くらいに見えました)が、出て行く観客一人一人に「ありがとうございました」と頭を下げていました。

これにも感動しました。こういう光景、あまり見たことはないからです。

声を掛けたかったのですが、次に観に行きたいシネコンの上映時間が迫っていたので、そのまま出てしまいました。月末までには、もう1回は行くと思いますので、出来れば一度お話も聞きたいと思っています。

こういう映画館は、映画愛好家として応援してあげたくなります。頑張って欲しいですね。
(しかし、もっと早く見つけていれば、もっと色々なミニシアター系の秀作を鑑賞出来たかも知れないと思うとちょっと残念です)

映画館の公式HPも貼り付けておきます。  ↓

http://tsudaimoncinema.fan.mepage.jp/

津かその近辺にに住んでいて、映画ファンの方は、是非行ってあげてくださいね。

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2007年9月14日 (金)

「河童のクゥと夏休み」

Kappanokuu_2 (2007年・シンエイ動画=松竹/監督:原 恵一)

原恵一監督と言えば、「クレヨンしんちゃん/嵐を呼ぶ、モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「同/嵐を呼ぶ、アッパレ戦国大合戦」の2本のアニメで、子供ではなく中高年のオトナたちを大感動させたアニメ界の鬼才である。無論、私もこの2本は劇場でリアルタイムで観て絶賛した(それぞれの批評については作品名をクリックして ください)。

子供向けアニメの枠の中で、ゲリラ的に自分の作りたい映画を作って来た原監督の戦略は見事であった。それでいて、子供たちにもしっかりとしたメッセージを伝える事にも成功しており、子供向けアニメであっても大の大人を感動させる事は可能である”という結果を示した事で、これはまさに画期的な事件であり、映画史に残る快挙であった。

その原監督が、5年の沈黙を破って新作を発表した。題材は、木暮正夫の原作を元にした、少年と河童の子供との交流を描いたものであり、ジャンルとしてはやはり子供向けのファンタジー・アニメである。

並みの監督なら、「E.T.」とか、ポケモンまがいの、ごく普通のありふれた子供向けアニメになるところであろう。
しかしさすが原監督、さまざまな深いテーマを内在させ、やはり我々映画ファンの心を打つ見事な秀作に仕上げている。

素晴らしいのは、何気ない日常生活描写の確かさである。河童を拾った康一少年の家族4人の、それぞれのキャラクターがきちんと描けているし、康一のほのかな初恋も、ちょっとした会話やリアクションを通して実に自然に表現されている。

アニメにおけるこうした日常描写のきめ細かさは、高畑勲監督作品にも通じるものがあるし、演出も高畑作品からの影響が感じられた。例を挙げれば、プールサイドで同級生の紗代子と康一が会話するシーン、うっかりすると見過ごしがちだが、康一の返事に紗代子がニコッと微笑む所で、紗代子の頬に一瞬、“えくぼ”が出るのである。これは高畑監督の「おもひでぽろぽろ」(91)で、主人公タエ子が幼馴染のトシオと会話するシーンで、タエ子の頬にえくぼが描かれたのと同じ手法である。他にも、脇の人物のちょっとした仕草や会話もリアルである。

高畑監督作品における日常生活描写の確かさは定評があるが、原監督はこれらの描写から見ても、高畑リアリズムの正統な後継者と言えるのではないだろうか。

そして、もう一つの特徴は、人間という存在に対する鋭い批判精神である。冒頭からして、クゥの父親がエゴイスティックな代官によって無残に斬り殺される。子供には刺激が強いと思われるこうした人間の残酷な側面も、原監督は容赦なく描く。学校におけるイジメ、河童を取材するマスコミ人種や野次馬たちの傍若無人ぶり、河童のような異生物が人間と共存出来なくなった現代社会状況に対する鋭い批評精神と観察眼…が作品ムードを壊す事なく巧妙に配されている。

さらには、康一一家が飼っている、“おっさん”と呼ばれる犬の存在である。普通は単に、一家のペットとして点景にしか過ぎない存在であるこの犬が、実は前の飼い主に虐待されていたという過去が明らかになる。人間とは、かくも愚かしく悲しい存在である事がさらに強調されるのである。おっさんの悲しい最期は泣ける。

映画全体を覆う、こうしたきめ細かな観察眼が、この作品を、単なる子供向けアニメという枠を超えて、幅広い世代に向けてメッセージを放つ骨太の秀作として成立させているのである。前述の、2本の“クレしん”アニメに見られた、原恵一の大人のエゴイズムに対する痛烈な批評眼はここでも健在であり、その視点はまったくブレていない(「戦国大合戦」でも、大人たちが始めた戦争によってバタバタ人が死んで行く。子供向けアニメでここまで人間が大量に死ぬのは空前にして絶後であろう)。

過去に、子供向けアニメ・シリーズの中で、自分のやりたい世界をゲリラ的に構築した例としては、押井守監督の「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」(84)があった。
しかし、押井作品が、あまりに自分の世界に没入したが故に、子供たちや原作ファンからは総スカンを食らってしまったのとは対象的に、原作品は決して映画を見にやって来た子供たちをおきざりにはしない。子供が見ても十分楽しい作品としても成立させている。

大人たちの残酷さやエゴイズムを描いたうえで、それでも子供たちに「君たちもやがては大人になって行くのだよ。でも、決してこのような、子供の心を忘れた愚かな大人にはならないで欲しい」というメッセージを伝えているのである。

私は本作も含めた原恵一作品に、異なる2種類の視点を感じ取った。
1つは、子供の目線である。低い位置で、じっと子供たちと同じ視点で子供たちを描いている。従って子供の観客にも十分共感できる世界がそこにある。

そしてもう1つは、その子供たちや、彼らを取り巻く大人たちを醒めた視線で観察する、言わば“神の目線”とでも言うべき視点である。

普通は、作品における目線は1つである。天才、宮崎駿の作品ですら、「トトロ」は7歳と4歳の子供の目線で物語が進むし、「魔女の宅急便」では13歳の少女の、「千と千尋-」では12歳の子供の、「紅の豚」は中年男の、「もののけ姫」は少年アシタカの目線でそれぞれ描かれており、その目線から逸脱する事はない。それが普通である。複数の視線を持つ例としては、実写を含めてもやはり高畑勲作品「火垂るの墓」くらいしか思いつかない。

ところが原作品では、常に子供の目線を保ちながら、なおかつ“神の視点”で彼らを取り巻く大人たちをも冷ややかに見つめ、その愚かしさを子供の視点から逆照射し、糾弾するのである。
これはよく考えたら凄いことである。原恵一以外に、誰がこんな事をやれるだろうか。本作の、そして2本の「クレしん」アニメの素晴らしさ、凄さはそこにあるのである。

上映時間は2時間20分と長いが、決して退屈する事はない。原監督の熱い思いがぎっしりと詰め込まれていて、最後はジンと胸が熱くなる。クゥと康一が遠野の川で泳ぐシーンの躍動感、美しさは永遠に忘れがたい。傑作である。必見!

   (採点=★★★★★

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2007年9月 9日 (日)

テレビ版「天国と地獄」

テレビ朝日系で9月8日に放映された、黒澤明監督作品のドラマ化「天国と地獄」を観た。

Tengoku2_2  私はテレビドラマはほとんど観ない。忙しくて時間がない事もあるが、正直言ってつまらない作品が多いからである。積極的に観ているのは、三谷幸喜脚本作品くらいだろう。

そんな私が観る気になったのは、演出が鶴橋康夫さんだったからである。この人の演出なら、まあ酷い出来にはならないだろうと思った。

で、観終えての感想…。さすがオリジナルがずば抜けて面白いだけあって、それなりに鑑賞に耐える出来になっていた。

元の脚本(黒澤明・菊島隆三・久板栄二郎・小国英雄)をほとんどそのままに使っていたが、やはり名シナリオである。改めて凄さに敬服した。今の時代、これほどの脚本を書ける人はまずいない。

本作を観て再認識したのは、窮地に追い込まれた人間が、そこでどう苦悩し、どんな葛藤を経て人生最大の決断するに至ったか、そのプロセスが実に無理なく、きめ細かに描かれていた点である。

自分のお抱え運転手の子供が、自分の子供と間違われて誘拐され、その身代金を自分が出さなければならなくなる。しかもその金は全財産を投げ打って会社乗っ取りの為に用意したものである。身代金を渡せば自分は破滅する。最初は他人の為に金なんか絶対出さないと突っ撥ねていた権藤(佐藤浩市)が、自分の妻や運転手に懇願され、片方では権藤の片腕の部下、河西からは絶対出すな…と説得され、両者の間で心が揺れ動く、その人間のエゴと良心の相克、人間感情のぶつかり合いがスリリングで一瞬たりとも目が離せない。

この物語が面白いのは、単なるサスペンス・ドラマを超えて、自分がもしそうした状況に直面した場合、いかなる決断をしなければならないか ――  人は他人の為にどこまでしてやれるのか ― を一緒になって考えさせられ、そしてテーマとして浮かび上がるのは、“人間とは、人間の良心とは何なのか”という点に行き着く、奥の深さである。

鶴橋演出も、そのテーマの重要さを認識していると見え、この部分にかなり力が入って、見応えあるシークェンスとなっている。―その為、時間の制約で後半の捜査会議や、刑事たちが足でコツコツと犯人の足取りを追う部分がかなりカットされているのは残念である。尤も、それらを描いていたらCM入れて3時間くらいはかかってしまうだろうが。

難点もいくつか。まず主役の権藤を演じる佐藤浩市。線が細くて叩き上げの常務取締役には見えず貫禄不足である。それに時代の違いもあるが「ワシだって金を出してやりたい。だがどうにもならんのだ」という大時代なセリフには似合わない。犯人の竹内役、妻夫木聡も、貧乏が身に染み付いて心が荒んだ、冷酷非情な犯人には見えない。まあ今の時代、そんな役者を探すのは困難である事は認めるが…。

現代を舞台にするには、いくつかの無理もある。オリジナルでは暑い夏の最中、汗だくになって歩き回る刑事や、額に脂汗を浮かべている犯人…等が描かれていたが、舞台が小樽という事もあってか、みんな涼しそうで、汗まみれの人物はいなかったように思う。だいたい当時と違い、今時どんな安アパートだってクーラーはついてるだろう。だから、オリジナルでは説得力があった犯人のラストのセリフ、「僕のアパートの部屋は、冬は寒くて寝られない。夏は暑くて寝られない」(これが動機に繋がる)がどうにも浮いてしまうのである。

Highandlow オリジナルでは、汗だくで歩き回る刑事が権藤邸を見上げて思わず「ホシの言い草じゃないが、ここから見るとあの屋敷は腹が立つな」とつぶやいてしまうシーンがあるが、刑事ですらそう吐き捨てたくなるほど、当時は金持ちの大邸宅が大衆のやっかみの対象だったのである。ほとんどの国民が中流意識を持ってしまった現代では、その感覚は到底理解出来ないだろう。その点でも犯人の動機がいま一つ弱く説得力を持たない。

さすがに、映画にあった、裏通りに入れば貧民窟やヘロイン中毒患者の吹き溜まり…等はカットされているが、それでもネットでドラッグが簡単に手に入る時代、犯人の手足となったヘロイン中毒者夫婦が、分け前の金があるのに竹内に対して「ヤクをくれ」と脅迫するのはどう考えてもおかしい。

オリジナルでは、かなりユーモラスな会話ややり取りがあって、重苦しい話の息抜きになっていたが、それらがことごとくカットされていたのはどうしてか?(例えば田口刑事のセリフ「ひでえもんだ。裏の塀から出たり、また戻ったり、これじゃ刑事なんだか泥棒なんだか分かりゃしない」、「いいか、デカってツラすんじゃねえぞ」「僕は大丈夫ですけど、ボースンのその顔は整形手術でもしないとね」)あるいは、電車の音から路線と車種を擬音入りでユーモアたっぷりに解説する駅員(沢村いき雄。絶妙)、ラストで金は戻ったものの、権藤の家財は差押競売され、ソファに赤紙が張られ刑事たちが思わず腰を浮かす場面…等々。その度に大笑いしたものである。

こうした、緩急自在の演出が作品に厚味をもたらしていたのだが、鶴橋さんは真面目すぎるのだろうか。私には一本調子に感じられてちょっと残念であった。

 

まあそんな訳で、オリジナルを知らなければそれなりに緊迫感に満ちた、今のテレビドラマの中では水準以上の出来にはなっていたが、やはり黒澤作品の方が何倍も面白いし何度見直しても堪能出来る(まあ黒澤作品と比べるのが度台無理なのだが)。未見の方は、是非レンタルビデオでもいい、黒澤作品を観る事をお奨めする。

9日の「生きる」はどうにも観る気が起きないですね(笑)。

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2007年9月 2日 (日)

「ダイ・ハード4.0」

Diehard40 (2007年・20世紀FOX/監督:レン・ワイズマン)

「ダイ・ハード」1作目(ジョン・マクティアナン監督)の登場は衝撃的だった。それまでの刑事ものと言えば、「ダーティ・ハリー」「フレンチ・コネクション」に代表される、コワもて、クールでタフで強靭な神経を持つ行動派のスーパー・ヒーローか、「コロンボ」のような頭脳で謎を解いて行く名探偵型、はたまた「砂の器」「張り込み」などの松本清張原作もののように、地道な捜査と足でコツコツ事件を解決して行く社会派ドラマ…のいずれかに分類されていた。

本作の主人公、ジョン・マクレーン(ブルース・ウイリス)は決してコワもてスーパー・ヒーローでもなく、頭脳で事件を解決する名探偵でもなく、エリート・キャリアとして出世してるわけでもなく、どちらかと言えば警察内部でも冷遇され、妻からも疎まれ(妻のホリー(ボニー・ベデリア)は自己紹介する時、旧姓で名乗る)、行きがかりで否応なく事件に巻き込まれてしまい、「なんでオレがこんな目に」と愚痴を連発する、なんとも冴えない男なのである。

そのショボくれた、どこにでも居そうに見えていた男が、人質となっている妻を救う為、必死で行動し、次第に智恵と行動力を発揮して行き、最後は遂にヒーローとなる、その姿に多くの観客は感動し、純粋アクション・エンタティンメントでありながらなんと!この1作目はお硬い(?)キネマ旬報ベストテンで堂々ベストワンに輝いたのである。まさに前代未聞の快挙であった。

この1作目が大ヒットした為、パート2、パート3と続編が作られたが、回を追うごとに質的レベルはダウンして行き、前作「ダイ・ハード3」は同じマクティアナン監督作品とは思えないつまらない出来であった(この原因の一つとしては、1作目、2作目を製作した名プロデューサー、ローレンス・ゴードンならびにジョエル<マトリックス>シルバーの降板が大きいと私は思っている)。

さて、そんな不安の中で新作「ダイ・ハード 4.0」を観る事になったのだが、
結論から言うと、思った以上に良く出来ていた。派手なアクションと頭脳プレイが程よくブレンドされ、アクション映画としては十分楽しめる出来になっていた。

監督のレン・ワイズマンは、1作目の大ファンだそうで、本シリーズを監督する事が念願だったという。そんなわけで、随所に1作目へのオマージュが盛り込まれ、1作目を知っている人にはニンマリしたくなるくだりもあちこちにあって余計楽しめる出来となっている(例えば、人質となったマクレーンの娘が、事件解決後に、自分の姓名を名乗るシーンは、ファンならニヤリとし、次に感動出来るはずである)。

ただ、CGをふんだんに使ったアクション・シ-ンは良く出来てはいるが、「いくらなんでもそれはやり過ぎだろう」という部分もあり、マクレーン刑事も1作目の頃よりずっとタフでマッチョなヒーローになっており、頭をカラッポにして楽しむにはうってつけだが、1作目の感動が忘れられないファンにはちょっと寂しい感じを受けたのも事実である。

まあ言ってみれば、007シリーズのうちで2作目「ロシアより愛をこめて」を最高傑作だと思っているファンにとっては、いくら後期の作品がアクション映画としては優れていても、ジェームズ・ボンド映画としては認められない・・・と感じるのと同様なのである。まあアクション主体のシリーズとしては悩むところであろう。

そんなわけで、「ダイ・ハード」シリーズとしては 1作目>本作>2作目>3作目という所に位置付けられる出来で、採点は(★★★★)、 但しシリーズを度外視してアクション映画として観るなら★★★★☆ を差し上げたい…とまあ難しい評価になりました(笑)。

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