12月4日、同5日に続いて、三たび「椿三十郎」について書かせていただきます(しつこいって?まあそう言わずに(笑)。いろいろ発見がありましたので)。
まず、黒澤版のオリジナル「椿三十郎」をビデオで再見(以前録画しておいたもの)。

で、じっくり見て気が付いた事。
(1) 三船扮する三十郎の着物が、おっそろしく汚い。袖口や首筋はほつれてボロボロ。襟元に至っては擦り切れてるうえに、鼻水でもこすり付けてるのだろう、テカテカに光っている(笑)(写真1参照)。
そりゃ確かに、一文無しで旅してると、あのくらいになるだろう。「ここんとこ水腹でな…」と言ってるし。
お話は荒唐無稽であっても、細部はとことんリアルに作り込む―のが黒澤流の映画作りなのである。
ハカマも糸が撚れてるし、さらにはラストの決闘後に、カメラが足元を写すと、足袋も穴だらけで白地が見えている(写真2参照)。
もうほとんど橋下のルンペンと同じ(笑)。臭って来そうである。
「七人の侍」でも、着物も建物も、徹底的にリアルに汚していたし、スタッフもよく分かっていて、「赤ひげ」では画面に写らない薬棚の引出しの中も汚したうえに薬包みも入れていたという。
そういう、厳しい完璧主義だからこそ、画面の隅々まで一分の隙もなく神経がピンと張り詰められ、何度見直しても見応えがあるのである。
そこで、森田監督の新作を観ると、織田裕二扮する三十郎の着物は小ざっぱりとして綺麗である。不精ヒゲだって申し訳程度である。
別に黒澤作品くらいまで汚せ…とは言わないが、食うや食わずで旅している浪人の着物にしてはきれい過ぎると思わないか。
織田裕二は2枚目ヒーローなのだから、汚すわけには行かない…と言うのなら何をか言わんや…である。それならオリジナルのシナリオをそのまま使う意味さえない事になる。天国の黒澤が見たら激怒するだろう。
(2) 中盤の若侍たち4人が捕えられ、それを逃がす為に、17人を一気に斬りまくる例のシーン。
ここは、1人たりとも生かしてはまずい上、外に逃げられても計画が水の泡になるわけだから、その点もよく考えてある。
まず、門番に閂(かんぬき)を閉めさせ、中庭に全員を集めさせたうえ、一気に斬りかかる。とにかく無茶苦茶早い。
十人くらいまでを一気に斬り捨て、唖然と見ていた門番が、やっと我に帰って閂を開け、逃げようとした所を、後ろから躊躇なく斬りつける。
その悪鬼のような仕業に、残りの侍たちは恐怖にかられ、逃げ惑う。窓から逃げようとする者、門の陰に逃げ込む者、それらも容赦なく切り倒す…。
時間を計ったら、全員倒すまで、わずか40秒! 1人2秒強である。
これは、1人残らず逃がさずに全員を倒すには、まさにこれ以外に手はない…と計算した上での戦略なのである。実にムダがなく合理的である。
それに引き換え、森田版はと言えば、モタモタしてる。リアリズムだとかで、三十郎が疲れ、ヨタヨタして来る描写があるが、あれだと、門番はラクラク逃げられそうである(笑)。
…て言うか、外へ逃げようとする描写さえなかった気がする。あれだけ三十郎に誰も敵わなかったら、何人かは逃げて知らせに行こう…とする描写があってこそリアリティがあると言える。何がリアリズムなんだか。だから私は中途半端と指摘したのである。
黒澤監督のオリジナル版を観る機会があったら、私が指摘した前記のような箇所も、是非注目していただきたい。
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いろいろな評判が出揃って来たようだが、やはりというか、プロ、あるいは目利きの方々からは厳しい意見が出ているようである。
黒澤監督の研究家である評論家の西村雄一郎氏(近著「黒澤明-封印された十年」)のHP(12月8日付)で、森田版を観ての感想を書いている(こちらを参照)。抜粋すると、
「三船敏郎演じる〝三十郎〟を知っている身には、織田裕二では役不足。どんな時でも冷静に頭が働く知将にはとても見えない」
「首魁の西岡徳馬はもっと腹黒でなくては。家老の藤田まことはもっと阿保面でなくては…」
などと、私とほとんど同意見である。日付を見れば分かるが、私の方が4日早い(笑)。
12月22日付の朝日新聞娯楽欄「サザエさんをさがして」は、「三船敏郎」がテーマであるが、執筆の保科龍朗氏に、
「リメーク版をサザエに見せるわけにはいかない。腰砕けになって、台所でおサカナくわえたドラネコと出くわしても、呆然と見逃してしまうはずである」と皮肉られている。
三十郎に扮した三船については「殺気を察知するとためらわずに人を切れるのだから、狂気を宿して血に飢えた孤高の獣を身中に飼いならしている危うさがある」と指摘しておられる。奥方が三十郎を「ギラギラしている」と表現したのは、そういう意味に近い。
まあ織田裕二にそれを求める気はさらさらないが、リアルタイムで黒澤版を観た人の感想は、それが平均的であった事を付け加えておく。
今月発売の雑誌「月刊・シナリオ」1月号に、「柏原寛司の映画館へ行こう―創り手たちの映画評」というコーナーがあり、ゲストの成田裕介氏(お二人とも「あぶない刑事」等の脚本・監督を担当)との対談で、「黒澤映画のリメイク作品『椿三十郎』の観方」と題し、新作についての感想を述べているが、ここでも森田版について辛辣な言葉が飛び出している。ほぼ私も同意である。興味ある方は一読のこと。
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さて、私も森田監督は永年のファンだし、あまり責めたくはないのだが、最後にこれだけは言っておきたい。
オリジナル版を知らなければ、確かに森田版も面白いと思う。役者もみんな頑張っていると思う。
だが、なにかが微妙に違うのである。
今の時代、黒澤明のような監督も、三船敏郎のような役者も、もう2度と現れないだろう。それは仕方のない事である。ないものねだりしても詮無い事である。
だが、やはり何かが足りない…。
それで思い至ったのだが、最近問題となっている、老舗菓子舗、高級料亭の偽装問題。
実はあれと、根の所は同じではないかと思うのである。
高級料亭の創業者は、味にこだわり、食材、ダシから、食器に至るまで、すべて一流、本物を志向し、味にうるさい食通をも満足させて来た。見えない所にも細心の気配りをして来た。
先代が亡くなり、時代が変わり、それと共に本当の味が分かる人間も減って来た。
多少、材料の質を落としても、誰も分からなくなった。作る方も、手間のかかる方法を面倒くさがり、だんだん手抜きするようになって来た。
その結果が現在の姿である。
だが、味は落ちてるのに、ブランドだけを信用して、不味いものでも味が分からず、ありがたがる客の方にも問題があるのではないか。
これを、映画界に置き換えても同じ事が言える。
黒澤監督は、言わば食材も、食器も本物にこだわった頑固職人である。タレも、コトコト何日も煮て、おいしさを究極まで求め続けた。
森田版の作品は、“もう昔のような比内地鶏(=役者)が手に入らないので、ブロイラーを使いました。ただレシピ(=脚本)だけは昔のものをそのまま使いました”と言ってるようなものである。まあ偽装してるわけではないが(笑)。
しかし問題は、レシピだけ同じものを使っても、昔のような、本物のおいしさには及ばないと言う事である。じっくり、時間をかけて煮込んでもいないし、比内地鶏だからこそ生きたレシピであって、今のブロイラーには合わない。おいしくする為には、今の材料に合った調理をこそ研究しないといけないのである。
それでも、昔の味を知らない若い人は、「これ、おいしい」と喜んでいる。
しかし、昔の味を知っている食通は、「見た目は昔とそっくりに見えるが、煮込みが足りない。食材もいいものを使ってない。先代よりは大分味が落ちている」と文句を言っている。
・・・まあそういった所だろう。
後者の言い分が全面的に正しい…とは言わない。ただ傾聴に値する…と思っていただければいいだろう。
幸い、もう昔のものは存在しない料理と違って、映画は45年前に作られたものがそのまま残っている。昔の職人はこんないいものを作っていた…という事を是非知って、認識を新たにしてもらいたいものである。
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