「ペルセポリス」
(2007年・フランス/監督:マルジャン・サトラピ&バンサン・パロノー)
イラン出身の女流監督であり、グラフィック・アーチストであるマルジャン・サトラピが、自作の自伝的グラフィック・ノベル(イラストによるコミックのようなもの)を元にアニメ映画化。
イラン映画と言えば、アッバス・キアロスタミ監督の「友だちのうちはどこ?」、「オリーブの林をぬけて」や、マジッド・マジディ監督「運動靴と赤い金魚」、バフマン・ゴバディ監督の「酔っぱらった馬の時間」などの秀作が輸入・公開されており、イスラム圏の中では映画レベルは高い。
しかし、それらの多くは、当時のイランにおける貧しい庶民の姿を描いたものばかりである(イランは検閲が厳しくて政治的なものは通らないとも聞く)。
それに対して、本作は、1978年の王制崩壊から始まり、当時小学生だった女の子・マルジを主人公に、彼女の成長と並行して、当時から現代に至る、イランの近代史を、ユーモアと皮肉を交えて描いている(これは、監督がフランス在住で、製作国もフランスだからこそ可能だったのだろう)。
共和制への移行から、厳しい弾圧、統制、イラクとの戦争…等の激動の歴史は、話には聞いていたが、それをアニメで見ると、とても分かり易いし、国民が政情にどう反応し、どう生きたかも分かって興味深い。
マルジは名前からも分かる通り、監督自身であり、ほとんどは彼女の自伝である。しかも、少女時代はブルース・リーやアメリカのロックに夢中になり、服装に対する厳しい規制にも反撥し抵抗する等、その自由奔放な生き方が面白い。
ただ一面では裕福な家に生まれ、自己中心的な性格であり、留学先のウィーンでは学校をサボり、マリファナを吸い、生活が荒み、ホームレスにまでなる。
そんな彼女のデスペレートな面もある人生には、共感し難いとの批判もある。
しかし、そうした弱さもまた人間の一面であり、それらを乗り越え、フランスでアーチストとして成功した現在、自己の弱かった部分をもさらけ出した勇気は称えていいだろう(自伝で自分を美化する人も結構多い)。
笑えるのは、マルジと祖母(この祖母のパンクな人生観が面白い)が劇場で「ゴジラ」(ちゃんと東宝の許可済)を鑑賞する場面で、「日本映画って切腹とゴジラばかり」という祖母のセリフには大笑い。テレビで、いかにもアメリカ的なバイオレンス・アクション「ターミネーター」が放映されているシーンも皮肉っぽい。
そうしたユーモアやカリカチュアも交えて、一人の女性の激動の半生を描いた本作は、実写では陰惨になりがちな歴史の暗い断面も、ユーモラスにさまざまな角度から捕え、これまでのイラン映画ではうかがい知れなかった、イランという国の実態を知るには格好のテキストであり、さらには国家と人間についても考えさせてくれる力作である。アニメでありながら、アカデミー賞、ゴールデン・グローブ賞各外国語映画賞にノミネートされたのも納得の出来である。
昔ながらの手書きによるセルアニメの映像は、3DCGアニメに慣れた目には新鮮に写る。またモノクロで描かれた過去部分のシンプルな絵柄が、わが国の藤城清治の切り絵アニメか、棟方志功の版画を連想させ、不思議なムードをかもし出す。
子供から大人へと成長する姿も、実写では別の役者を使わざるを得ない為全然顔かたちが違い、違和感を感じるケースが多いが、アニメだとその点違和感はない(体が大きくなり、顔が変わったり胸がせり出す経過を極端にデフォルメした描写も、アニメの利点を生かした秀逸な表現である)。
こういうのを見ると、アニメがデジタル化され、CGによる、立体感はあるけど無機質な映像の氾濫は、正しい方向を向いているのだろうかと考えさせられる。手書きで1枚ごとに描かれ、ギクシャクと動くアナログ的セルアニメの方が、人間的な温もりがあるように感じるのは私だけだろうか。
声の出演もカトリーヌ・ドヌーブ(マルジの母)、キアラ・マストロヤンニ(マルジ)の実の親子共演、祖母の声がフランスの往年の名女優、ダニエル・ダリューと豪華顔合わせ。これも聴き物である。アニメ・ファンでなくても、観ておいて損はない佳作である。 (採点=★★★★☆)
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コメント
TBありがとうございました。
「ったく、切腹と怪獣」というおばあさんが語る
日本人感は可笑しかったですね。
ともあれ、確かに人間的ぬくもりを感じる作品でした。
投稿: nikidasu | 2008年1月24日 (木) 23:51