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2008年3月26日 (水)

「魔法にかけられて」

Enchanted(2007年・ディズニー/監督:ケヴィン・リマ)

これは楽しい!アニメ世界のお姫さまが、魔法で現実世界のニューヨークに飛ばされ、後を追って王子さまや魔女までもがニューヨークに現れ、大騒動となる。…いたる所にディズニー・アニメへのオマージュが散りばめられ、ディズニー・アニメ・ファンなら、最高に楽しめる快作である。

ディズニー・アニメのパロディとしては、ドリーム・ワークス・ピクチャーズが作った「シュレック」があるが、あちらはディズニーを飛び出したジェフリー・カッツェンバーグ・プロデュースによる、ディズニー・アニメを揶揄した、悪く言えば、悪意のこもったイタズラ作品であった。

それに対して本作は、ディズニー・アニメ好きが嵩じてディズニー社に入社し、ディズニー製セル(2D)・アニメの最後の(?)傑作(注1)「ターザン」(99)で長編監督デビューしたケヴィン・リマが監督を担当した事もあって、伝統あるディズニー・アニメへの深い敬意と愛情に満ちた、素敵な作品に仕上がっている。 

導入部からして楽しい。絵本が1ページづつめくられ、簡単な解説が語られるが、このスタイルは「白雪姫」以来のディズニー・アニメのお馴染みパターンである(ちなみにナレーション担当は、ディズニー作品「メリー・ポピンズ」に主演したジュリー・アンドリュース)。

その後登場する、約11分のセル・アニメ・パートは、お姫さまが王子さまと出会い、結婚する…という、数多くのディズニー・プリンセスもののエンディングそのまんまであり、姫を妬んだ王女の陰謀により、姫が下界に突き落とされる…という展開は、「白雪姫」のパターンのこれまた応用であり、その絵柄といい、ギャグといい、ディズニー・アニメを見て育った世代にとっては、ここだけでウルウルとなる事請け合いである。またここで描かれる、姫が怪物に追われ、危うく落下しそうになるシーンが、後の実写パートにおける同様シーンの伏線になっている辺りもうまい。

アニメ・パートが画面両端をカットしたビスタ・サイズで、実写のNYパートになるとシネスコ・サイズに画面が広がるのも楽しい。

以後、実写のニューヨークに飛ばされたジゼル姫(エイミー・アダムス)が、最初はパニックになり、しかしそこでバツイチ弁護士のロバート(パトリック・デンプシー)と出会い、次第に現実世界に順応して行くプロセスが、さまざまなディズニー・アニメへのパロディやオマージュを散りばめながら快調に描かれて行く。

現実離れしたアニメ世界でのお約束ごとが、現実世界ではいかに実情に合わないか…という点を皮肉交じりに描くシーンが笑わされる。ジゼルが当然のように歌いながら踊ろうとすると制止させられたり、部屋を片付ける為、歌声で動物を呼び寄せたはずが、集まったのは都会に生息するドバト、ネズミ、ゴキブリにハエ…といった具合で、元のディズニー・アニメを知っていれば余計楽しめる。

毒リンゴに魔法使いのバアさんだとか、ガラスの靴に12時の鐘…くらいまではディズニー・アニメ・ファンでなくても元ネタが分かるだろうが、その他にも細かい所までいろんな引用がなされているので要注意。舞踏会シーンは「美女と野獣」だし、ラストで王女がドラゴンに変身するのは、「眠れる森の美女」である。全編の音楽を担当したのが、「リトル・マーメイド」を皮切りに、ディズニー・アニメ主題歌でアカデミー賞を何度も受賞のアラン・メンケンであるのもまた楽しい。

ディズニー・アニメ以外にも、セントラル・パークにおいて、大道芸人たちと歌い、踊り出すシーンでは、「サウンド・オブ・ミュージック」を彷彿とさせたり(これは、ジュリー・アンドリュースの家庭教師が主人公…という共通項を持つ「メリー・ポピンズ」繋がりだろう)、ラストでは「キング・コング」のパロディまで飛び出す(怪獣?に摩天楼屋上まで連れ去られるのが男のロバートで、ビルをよじ登り救出に向かうのが女のジゼル…と、オリジナルの逆パターンなのも時代を反映している)。

魔法使いの王女に扮したのは、スーザン・サランドン。メイクがアニメの王女とソックリなのにも笑えるが、これを見て思い出すのが、ディズニー・名作アニメ、「101匹わんちゃん」の実写版リメイク、「101」('96・この邦題は味も素っ気もない。原題はオリジナルと同じ“101 DALMATIANS”)において、これまたアニメとそっくりメイクの稀代の悪女=クルエラ・デ・ビルを怪演したグレン・クローズ。

101

クルエラの悪女ぶりはオリジナルでも強烈なキャラクターであっただけに、このクローズ扮するクルエラを見た時は、あまりのソックリぶりに大笑いしたものだ。

これが好評で、ただちに続編「102」が作られ、グレン・クローズのクルエラ再登場となったが、このパート2の監督を担当したのが、本作の監督、ケヴィン・リマなのである。

102 この作品では、102匹のわんちゃんの大半を、CGで動かすという新機軸を導入している。「ターザン」でセル・アニメを経験し、この作品では実写とCGの融合を経験したことが、本作に生かされた…という事なのであろう。そういう意味では、ケヴィン・リマの起用は大成功である(と言うか、本作の監督を熱望したリマが、本作のために実習作としてこれらを監督した…と考える方がむしろ正しいかも知れない)。
ちなみに、「101」「102」は、ディズニー名作アニメの、おそらくは最初のディズニー・プロ自身による実写リメイクではないだろうか。

 
ともかくも、かつてのディズニー・アニメを見て成長した世代にとっては、なつかしさと、ディズニー・アニメの素晴らしさを再認識出来る、これはディズニー・アニメの集大成とも言うべき、素敵な作品である。本作を見終わった後は、押入れの奥から録画した(あるいは購入した)ディズニー名作アニメを引っ張り出すか、レンタル屋に出向いて借り出してそれらを鑑賞し、いかにディズニー・アニメが巧妙にリスペクトされているかを確認する…という方法もまた、本作をさらに楽しむ一興としてお奨めしておきたい。     (採点=★★★★

 

(注1)ディズニー・アニメは、近年においてもコンスタントに作られてはいるが、「ターザン」以降は、宮崎アニメのパクリと散々騒がれた駄作、「アトランティス/失われた帝国」(2001)、グリッターなみの迷惑撒き散らしエイリアンが登場する「リロ&スティッチ」(2002)、「宝島」をSFアドベンチャーに改悪した「トレジャー・プラネット」(2002)、それにいまさらの2番煎じ「ピーター・パン2/ネバーランドの秘密」(2002)と、SFに続編ものという、ハリウッドの悪しき流れに乗っかった凡作・亜流作品が続いており、近年はそこに3DCGアニメが幅をきかせ、ディズニーらしい夢と感動に満ちたセル(2D)・アニメは途絶えている。本作をきっかけに、本来の子供から大人まで感動できる、手作り感溢れるディズニーらしいセル・アニメが復活することを切に望みたい。

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DVD・ケヴィン・リマ監督作品2本

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2008年3月17日 (月)

「明日への遺言」

Asuhenoyuigon (2007年・アスミック・エース/監督:小泉 堯史)

「雨あがる」「阿弥陀堂だより」「博士の愛した数式」と、1作ごとに着実に実力をつけ、完成度の高い秀作を作り続けて来た小泉堯史監督が、15年間暖めて来た、大岡昇平のノンフィクション本「ながい旅」の映画化作品。

終戦後の極東軍事裁判で、B級戦犯として処刑された、元東海軍司令官・岡田資(たすく)中将(藤田まこと)が主人公である。

映画は冒頭、記録フィルムにより、世界各地の、市街地への爆撃=いわゆる無差別爆撃=の歴史を描く。
ピカソの絵で有名な、ゲルニカをはじめ、日本軍による南京、重慶、ドイツ軍によるロンドン、そして連合軍によるドレスデン、東京以下日本各地、―そして広島、長崎への原爆投下…と、多くの一般市民が命を失った。

国際法では「爆撃は、軍事目標に対する場合に限り適法とする」と定められているにも拘らず、これらの例のように、ほとんど守られてないに等しい。

そのうち名古屋爆撃の際、パラシュート降下したアメリカ兵を、略式命令で処刑した罪で、B級戦犯として横浜裁判の被告となったのが岡田中将である。

映画は、この冒頭の記録フィルム部分を除いて、ほぼ9割までが法廷シーンであり、残りは岡田の独房での生活ぶりくらいしか登場しない。

これは、映画としては冒険である。ヘタな監督にかかると、単調で退屈な作品になりかねない。

しかしさすが小泉監督である。法廷シーンで、検事側のバーネット検察官(フレッド・マックィーン)と、弁護側のフェザーストーン弁護人(ロバート・レッサー)の、それぞれの堂々たる弁論、アメリカ側の無差別爆撃の非人道ぶりを訴える岡田中将の毅然とした態度、空襲の様子を証言する庶民(蒼井優、田中好子など)、ジャッジをくだすラップ裁判委員長(リチャード・ニール)、それらを見守る岡田夫人(冨司純子)ら傍聴人…これらの人たちの迫真の演技と適確なカメラワーク(3台で同時撮影)により、緊迫感に満ちた、出色の法廷ドラマとなっている。

裁判が進むうち、岡田の態度に、弁護人はおろか、バーネット検察官やラップ裁判委員長ですら次第に岡田に畏敬の念を抱くようになって行く様子が感じられる。…敵味方として憎み合うのではなく、相手の気持ちを理解し、尊敬し合う…素敵な事である。みんながこんな気持ちを持ち合えば、戦争なんてなくなるのかも知れない。…そんな事まで考えさせられた。

処刑に対する、すべての責任を背負い、静かに絞首台に向かう岡田の姿に、指導者の責任とは、戦争責任とは何なのか…を考えさせられる。岡田同様、小泉演出も静謐で、落ち着いた風格すら感じさせる、これは見事な秀作である。

藤田まことは、今年の演技賞当確の熱演である。藤田の起用には、意外に思う人がいるかも知れないが(コメディアン、あるいは中村主水のイメージが強いからだろう)、実は藤田は'68年の東宝作品「日本の青春」(小林正樹監督)で、戦争中に上官に虐待された過去を持つ戦中派サラリーマンという難しい役を演じている。小泉監督自身も、あの映画の印象から起用したと言っている。監督が、本作とも縁が深い「東京裁判」を監督した小林正樹であるというのも奇縁である。

個人的には、バーネット検察官を演じた、フレッド・マックィーンの横顔が、父親、スティーヴ・マックィーンとそっくりに見える時があり、それだけで感慨深かった。もっと映画に出て欲しいものである。

やや残念だったのは、竹野内豊のナレーションが作品のトーンにマッチしていない点。もっと落ち着いた、ベテラン(例えば仲代達矢等)にまかせるべきだった。それと冨司純子のナレーション(かモノローグと言うべきか)は不要。

 

・・・・・・・・・・
さて、映画の出来は別にして、岡田中将の法戦(と彼は名付けた)については、大きな矛盾がある。これについて述べたいと思う。

岡田は、「命令した自分にすべての責任があり、部下に責任はない」と部下をかばう(このおかげで部下は減刑される)。

ところが、捕虜となったアメリカ兵に対しては、「国際法に違反する無差別爆撃を行った罪」で処刑を命令しているのである。処刑された中には、戦闘と関係ない無線兵もいたという。

部下に責任はない」と言うなら、爆弾を落としたアメリカ兵も上官の命令に従っただけなのだから、罪はないことになり、処刑するのは筋が通らない。おまけに、銃殺ならまだしも、刀で首を斬り落としている。「首を斬るのは切腹と同じで礼儀にかなっている」と言うのも詭弁である。斬首は屈辱的な刑であり、これは処刑と言うより怒りにまかせた私刑である。

そもそも、投降したアメリカ兵は、捕虜なのだから、捕虜を虐待したり殺す事は国際法で禁止されている。相手に「国際法違反だ」と言いながら、こちらも国際法に違反している事になる。…矛盾だらけである。

無論、岡田中将も、それらを分かった上で(つまり、負けるのを承知で)法戦を展開したのだろう。

もう一つ、この処刑を“報復”とみなせば合法であり(即ち減刑の可能性あり)、“処刑”なら違法で重罪なのだという。なんとも不思議な論理である(普通、“報復”の方が問題だと思うが)。岡田は、“報復”でなく“処刑”と言い通し、有罪になった。なんたる矛盾!

戦争とは、それほどに矛盾に満ちた愚かな行為である。…それが、この映画のテーマなのかも知れない。      (採点=★★★★☆

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2008年3月11日 (火)

「団塊ボーイズ」

Wildhogs (2007年・米:タッチストーン/監督:ウォルト・ベッカー)

アメリカの閑静な住宅街に暮らす4人の男たち。実業家のウディ(ジョン・トラヴォルタ)は自己破産したうえ妻にも逃げられ、歯科医のダグ(ティム・アレン)はメタボリックな腹を抱え、本業は下水配管工だが小説家志望のボビー(マーティン・ローレンス)は執筆活動に励むも芽が出ず家族からはうとまれ、そしてパソコンオタクのダドリー(ウィリアム・H・メイシー)は恋愛運にも見放されていた。そんな人生に行き詰った中年男4人組が、日常を忘れ、共通の趣味である愛車ハーレーでアメリカ横断の旅に出ることになるが…。

題名に異議ありである。“団塊”とは堺屋太一が命名した、昨年あたりから定年を迎えるベビー・ブーマー世代を指すわけで、この映画の登場人物たちはもう少し若い。だいたい団塊とは日本だけの造語である。アメリカには存在しない(笑)。

まあそれはともかく、定年を迎え、少し人生を見直したくなった団塊世代にはお奨めの佳作である。

何よりも、1970年頃に青春を送っていた世代…特に映画「イージー・ライダー」(69)に感動した人には、ある意味必見の映画でもある。

バイクに乗って、男たちがあてどもなく旅に出る…という出だし、まず彼らは携帯を捨てるのだが、これは「イージー・ライダー」の冒頭、時計を捨てるシーンへのオマージュである(このさわりは最後にもギャグとして登場)。

以後も、「イージー・ライダー」のオマージュがいくつも出てくる。

テントをうっかり燃やしてしまい、雑魚寝をしていたら、ホモと間違われるくだりも、「イージー」で、保守的な南部で主人公たちがホモだと蔑まれる展開へのオマージュだろう。

後半は、ヘルス・エンジェルスを思わせるバイク集団との対決となるが、これは「イージー」と同じピーター・フォンダ主演で、その前兆とも言える「ワイルド・エンジェル」に登場するバイク集団を連想させる(ちなみに本作の原題は "WILD HOGS")。

前半で、お気に入りの映画題名を挙げるシーンがあるが、それが「セント・エルモス・ファイヤー」「ワイルド・バンチ」「脱出」と、これも団塊映画ファンの心をくすぐる。これらの映画に対するオマージュもさりげなく盛られているので注意のこと。

で、敵にダドリーが捕まり、さらし者にされているのを、遂に立ち上がったウディたちが敢然と救出に向かうのだが、そのシークェンスが「ワイルド・バンチ」を彷彿とさせるあたりも楽しい。前半で題名が出た意味もここで分かる(気に入らないのは、字幕ではこの作品名が出なかったこと。字幕監修者、しっかりせい!)。分からない方は、末尾の“お楽しみコーナー”を参照のこと。

若さと腕力では太刀打ちできないウディたちが窮地に陥ると、見かねた町の人たちが声援を送るあたりも泣かせる。

そして、危機一髪のラストに、大物ゲストがカメオ出演。これも「イージー」世代には泣ける演出である。

まあ、全体としてはトボけた、ノー天気なコメディである。気楽に楽しんで、そして中高年世代には、キュンと心がくすぐられ、ちょっと冒険してもいいかな…と思わせる、これは、そんな小品佳作である。    (採点=★★★★

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(さて、お楽しみはココからだ)
前述の、「セント・エルモス・ファイヤー」「ワイルド・バンチ」「脱出」の3本の映画には、共通点がある。…判りますか?

 
答えは、“3本とも、4人の男たちが主役である”こと。

正確には、「セント・エルモス-」の主役は男女7人なのだが、うち男は4人である。これらは、ウディたちワイルド・ホッグスが4人組である事に引っ掛けてあるのである。

中でも、「ワイルド・バンチ」は、初老を迎えた男たち(ウイリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ベン・ジョンスン、ウォーレン・オーツというシブいメンツ)が、捕らえられた若者を救う為、大人数のメキシコ軍に殴り込む…という展開で、4人が肩を並べ、敵陣に向かう姿が泣かせる。団塊世代には思い入れのある傑作である。今やその世代も、当時のワイルド・バンチたちと同じ年齢に到達したわけで、そういう意味でもこの作品を引用している意味は大きいのである。
なお、「脱出」も、4人の男たち(バート・レイノルズ、ジョン・ボイト、他)が、軽い気持ちで冒険の旅に出て、酷い目に会う…という、本作とも共通するパターンを持っている。「イージー・ライダー」と並んで70年代初期を代表する秀作である。

そんなわけで、これらの作品を当時観ていて、今も記憶に残っている“団塊”映画ファンなら、本作は間違いなく楽しめるだろう。

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2008年3月 9日 (日)

「バンテージ・ポイント」

Vantagepoint (2008年・コロムビア/監督:ピート・トラヴィス)

これは面白い!同じ事件を異なる8人の視点から見直すうちに、隠された真相が明らかになって行く…という着想がユニークなうえに、凄い迫力のカーチェイスもあり、全然ダレる所なくテンポよく物語が展開する。上映時間も1時間30分と短く、見応えがある。お奨め。

スペイン・サラマンカの国際サミット会場の広場で、アメリカ大統領が狙撃される。しかも直後に大爆発が起こり、その混乱の中で、シークレット・サービスのトーマス・バーンズ(デニス・クェイド)は観光客やテレビ局が撮影したビデオ映像から、容疑者を追い詰めて行く…。

まあ、あまりこの手の作品では、観る前には予備知識を仕入れない方がいいので、ストーリーに関してはこの位にしておく。

 
面白いのは、前述したように、8人の視点を毎回事件の起きる前に戻って、違う角度から検証し直す構成のユニークさである。
それぞれが、中心となった人物の視点で物語を追うので、本人が関与しない事象は描かれない。ただしチラッと視界に入った人物が、後で重要な役割を担う事にもなるので、些細な人物の動きにも注視した方が、映画をより面白く観る事が出来るだろう。

(しかしまあ、このブログのサブタイトルである“いろいろ視点を変えてみれば、映画はもっと楽しくなる”とは、この映画そのものを表してるじゃないですか(笑))

1人のエピソードは、平均10分程度。それも、これからどうなるのだろう…と思わせる所で話が終わって、次のエピソードに移るあたりは、連続活劇の呼吸。その都度高速巻き戻し映像を見せるのは、深作健太監督の「エクスクロス 魔境伝説」でもやってた。

カメラ・アングルは変わるが、毎回、大統領狙撃、大爆発…が何度も繰り返されるので、最初はちょっとうんざりしかけるが、後半は次々意外な真実が明らかにされ、片時も目を離せない。終盤のカーチェイスも、狭いスペインの街中を猛スピードで駆け抜け、その迫力もなかなかのもの。これがまた、単なるアクション・サービスだけに終わっておらず、ラストで重要なカギになってる辺りも憎い仕掛けである。

(以下ネタバレにつき隠します。映画を観た方のみドラッグ反転してください)
大統領に扮したウイリアム・ハートがいい。貫禄たっぷりだが、ブッシュと違って(笑)、割とリベラルな考えを持ち、むしろ補佐官がタカ派で報復を強制する辺りが、よくある大統領ものドラマと異なる、奥行きの深さをもたらしている。

ほとんどアラも突っ込みどころもない、完璧な作品だが、1箇所だけ問題あり。テロリストたちが合流地点と指定した場所が、事件現場から目と鼻の先(小さな少女が歩いても行ける距離)の高架下というのは疑問。まして、近くの陸橋から丸見え(実際、フォレスト・ウィテカーに目撃されてる)。そばは高速が走ってるし。
普通なら、現場からうんと離れた、人気のない、目立たない場所にすべきではないか。…もっとも、母を捜す少女を、ラストのクライマックスで活用させる為にはやむを得ないかも知れないが…。

しかし、ハイテク遠隔操作の狙撃方法にはまいった。こんなのが主流になったら、ゴルゴ13は失業だな(笑)。
↑ ネタバレここまで

面白さでは、近年のハリウッド映画の中では光っている。アクションあり、サスペンスあり、意外な展開あり、しかも、ラストのフォレスト・ウィテカーの活躍ではホロッとさせ、ホッとさせる爽やかな終わり方で後味もいい。必見である。

監督のピート・トラヴィスは、テレビ映画で注目され、本作が劇場映画デビューとの事である。すごい新人が現れたものである。今後も注目しておきたい。  (採点=★★★★☆

 
(すこし蛇足)

この映画について、紹介記事でもいろんな感想でも、“黒澤明の「羅生門」にヒントを得ている”と書かれているものが多いが、私はちょっと違うと思う。
「羅生門」は、同じ場所で起きた事件の当事者の証言が、一人一人みな違っている点がポイントであり、“人間とは自分の為には、平気でウソをつく”というテーマを持った作品である。今でもアメリカの裁判において、証言が食い違う場合を、“ラショーモン・ケース”と呼ぶくらいである。

これに対して、本作は、8人が目撃したものはすべて事実であり、ウソはない。ただ本人に見えてないものが描かれなかっただけである。この点が大きく違う。

むしろ、近い作品を挙げれば、内田けんじ監督による「運命じゃない人」になるだろう。5人の主要人物の、それぞれの視点で時間が何度もバックするうちに、次第に真実が見えて来る手法がそっくりである。この作品は、カンヌ映画祭で絶賛され、4部門の賞をもらったくらいだから、アメリカの映画人も観ているはずである。
ただの通りすがりと思った人や、すれ違った車に乗っていた人が、実は大きな関わりを持っている事が後で明らかになる…という描き方までよく似ている。本作の脚本家(バリー・L・レヴィ)が、「運命じゃない人」を参考にした可能性は大いに考えられる所である。

あともう1本、スタンリー・キューブリック監督の出世作「現金に体を張れ」(56)も、同時に起きている出来事を、時間を繰り返して別の視点で描く手法を取り入れたハシリとして、映画ファンなら覚えておいて欲しい作品である。

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(3/31追加)
これをUPした後気が付いた事があるが、ネタバレになるのでこれまで書かないでいた。
そろそろいいかな…と思うので書かせていただく。

大統領の替え玉…と言えば、思い出す作品がある。
1993年のアメリカ映画「デーブ」(監督:アイバン・ライトマン)がそれで、1日だけの約束で大統領の替え玉になった男(ケヴィン・クライン)が、当の大統領が卒中で倒れ、替え玉をずっと演じざるを得なくなるが、やがて本物以上に立派な大統領になって行く…というハートフルコメディ。

この頃から、大統領には影武者がいる…というのが定説になっていたのかな―と思ったりもするが、注目すべきは、大統領夫人役を好演していたのが、なんとシガニー・ウィーバー

なるほど、本作のシガニーが冒頭だけしか登場しない、ゲストのような扱いだったのは、大統領=替え玉映画つながりでの、プロデューサー(か、監督)のちょっとした遊び心…なのかも知れない(てのは考え過ぎ?(笑))。

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2008年3月 2日 (日)

「ガチ☆ボーイ」

Gatiboy_2 (2008年・ROBOT=東宝/監督:小泉 徳宏)

この題名に主演が佐藤隆太。なので、あまり触手が動かなかったのだが、製作会社がROBOT、監督が一昨年の佳作「タイヨウのうた」小泉徳宏…と聞いて俄然興味が湧いた。同作の批評で、当時まだ25才!のこの新人監督を、
この若さでありながら、観客を映画に引き込む見事な演出ぶり。まさにスピルバーグのデビュー時を思わせる。これからが楽しみな、日本映画のホープである…と手放しで誉めたことがあったからである。

その小泉監督の2作目とあっては観ないわけには行かない。で、初日に観たのだが…

面白い!そして、笑えて、泣ける、感動できる…これは、今年のイチ押しの傑作である。是非観る事をお奨めする。

原作は、劇団モダンスイマーズによる舞台劇「五十嵐伝~五十嵐ハ燃エテイルカ」(蓬莱竜太作・演出)。残念ながらこの映画を観るまで全然知らなかったが、伝説の舞台劇として熱狂的な人気があるのだという。

テーマは、学生プロレスである。主人公・五十嵐良一(佐藤隆太)が、所属する北海道学院大学の、学生プロレス研究会(HWA)の門を叩き、懸命に練習を重ね、プロレス選手としてデビューする…という展開を聞くだけでは、またぞろ「ウォーターボーイズ」まがいの青春スポコンもの…と単純に思ってしまうだろう。―事実、ポスターや宣伝を見てもそんな風なイメージを受けてしまう。

ところが、主人公には人に知られたくない、ある秘密があった。彼は、自転車事故で、一旦眠ると、前日の記憶が消えてしまう、「高次脳機能障害」を患っていたのである。

前半ではその事実が観客にも伏せられているが、いつもポラロイド写真を撮りまくり、話を聞く度にぶ厚いノートにメモをする…という奇妙な行動から、何かある…と感じさせるミステリアスな展開が面白い。

学生プロレスのメンバーが、おかしなリングネーム(玉子王子だとかコケティッシュ谷とか)に、まるっきりヤラセのパフォーマンスで笑いを取ったり、メンバー仲間がはしゃいだツッコミ会話を交わす辺りも、よくある青春コメディのパターンを踏襲しているが、そこに五十嵐の難病を絡ませる事によって、表面的には陽気な素振りを見せるが、内面では病に苦悩し、それでもプロレスを通して、生きている実感を獲得して行く主人公の、素晴らしい人間賛歌ドラマにもなっているのである。

五十嵐を演じる佐藤隆太が素晴らしい。これまではいい役者とは思っていなかったが(失礼)、本作では、仲間たちの前ではいつもの、陽気でちょっと頼りないキャラを見せながら、家に帰ると一転して、シリアスで暗い表情になる、その二面性を絶妙に表現していた。
その辺りを小泉監督は、伏線を巧妙に張りめぐらせ、五十嵐の病が観客に明らかになった直後に、初めて彼の自室の様子を見せ、セリフなしで映像だけで彼の苦悩と努力の跡を的確に示すなど、若手とは思えないほど達者な演出力を見せる。

家族の描き方もきめ細かい。原作では書道教室の先生だった父親を、映画では下町の寂れた大衆浴場の経営者に変え、息子の将来を案じ、家業をどう守るかについても苦悩する、奥行きの深い役柄を創案している。父親役の泉谷しげるが、そうした難しい役柄を好演。
また、妹・茜(仲里依紗)も、兄の事を心配し、それでも兄を応援し、ラストでは重要な働きをするなど、丁寧に描きこまれている。

五十嵐が毎日記録している、「明日の僕へ」と題するノートの存在もうまい。前日の記憶がない為、五十嵐の生きてきた足跡が、すべてこのノートに記されている。それを何度も読み返す事によって、彼は自分の歩んで来た人生を実感出来るのである。

(以下ネタバレにつき隠します。映画を観た方のみドラッグ反転してください)
このノートには、彼の苦悩も余すことなく綴られている。記憶がないのは生きていないのと同じだと絶望し、自殺を考えた事も書かれている。しかし、記憶は失われても、体に残った痣や痛みは消えない。それが生きている証しだと達観し、生きる勇気を取り戻して行く、その五十嵐の思いに、観客は熱く感動し、泣けるのである。
父親は、息子の気持ちが理解出来ず、家族はバラバラになりかけるが、最後のプロレス試合の日、父は事故以来初めて息子の部屋に入り、壁に貼られた無数の写真、そして「明日の僕へ」ノートを読む事によって、初めて息子を理解する。もうここでも泣ける。試合後、会場の隅で心から息子に拍手を送る父親の姿に、また泣ける。
この物語はまた、そうした、家族の絆を取り戻して行く、父と子の物語でもあるのである。

↑ ネタバレここまで

そしてラストのクライマックス、強敵、シーラカンズとのガチンコ対決シーンが大興奮ものである。監督曰く“ノーCG、ノーワイヤー、ノースタント”(まるでタイ映画「マッハ!!!!!!」である(笑))。佐藤隆太以下、スタントを使わず本当に激しいプロレス技を体当たりで演じている。…それだけでも感動するが、敵の荒技に、仲間が何度「ギブアップしろ」と呼びかけても、絶対に諦めず、ボロボロになっても何度も立ち上がって来る五十嵐の不屈の戦いぶりにまた涙。ついには会場の観衆全員が声援を送るシーンにはボロボロ泣けた。もうとにかく後半は涙でグショグショ。観に行かれる際には、タオル・ハンカチは必需品である。持参お忘れなく。

 
本作が素晴らしいのは、スポ根学園コメディと、難病テーマとが絶妙にリミックスし、全体のトーンを揺るぎなく、ラストの感動クライマックスに集約させた演出の巧みさであり、そして、難病を抱えても、決して絶望してはいけない、毎日生きていることを実感し、一日一日を精一杯に、ひたむきに生きる事が大切なのだ…というメッセージの訴求力である。

Koizumi 前作でも感じたが、小泉監督は、難病を描くにしても、よくあるパターンの陰々滅々とした情緒過多シーンは登場させない。無駄なシーンはばっさり省略し、生きている事の喜びを、あくまで明るく、元気いっぱい、テンポよく溌剌と描いている。そこが素晴らしい。

脚本を書いたのは西田征史。本作でレフェリー、ボラギノール日野役も演じている。元はお笑い芸人だそうな。その巧みな構成力は特筆ものである。今後が注目である。

 
「高次脳機能障害」を扱った映画は最近多い。10分しか記憶が続かない「メメント」や、記憶障害を扱った「50回目のファーストキス」、小泉堯史監督の秀作「博士の愛した数式」、などがあるが、重いテーマを見失わずに、かつ良質のエンタティンメントとしても成立している本作のような作品は珍しい。

五十嵐に呼びかける、仲間の奥寺の言葉が素敵である。「自分の記憶に残らなくても、みんなの記憶に刻んでやれよ」…名言である。

そう、まさに本作こそ、“記憶に残る感動の秀作と言えるだろう。

映画ファンだけでなく、年に1本くらいしか映画を観ない人も必見である。あるいは、難病を持つ人にも、生きる目的を見失っているような人にも、きっと、勇気と希望を与えてくれる、これはそんな素敵な作品なのである。

製作に関わったフジテレビにも言いたい。「西遊記」や「HERO」なんかを大ヒットさせるよりも、本作のような、本物の感動作をこそ大ヒットに導くべきである。本作が興収50億円を超えるくらいの大ヒットになってこそ、日本映画が本当に良くなった…と言えるのではないだろうか。多くの観客を呼ぶ事を期待したい。    (採点=★★★★★

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