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2008年5月31日 (土)

「ランボー 最後の戦場」

Rambo (2008年・ミレニアム・フィルムズ/監督:シルベスター・スタローン)

S・スタローンのヒット・シリーズ「ランボー」の20年ぶりの続編。スタローンもう1本の人気シリーズの(今のところ)最終作「ロッキー・ザ・ファイナル」に続き自ら脚本・監督も手掛けている。

本作の舞台は、軍事政権が支配するミャンマー(旧ビルマ)。軍政府の圧政に対し、反政府運動が頻発している、政情不安定な国である(ジャーナリストの長井健司さんが殺害された事は記憶に新しい)。シリーズ3作目ではアフガニスタンに侵攻したソ連を敵に設定しており、本シリーズに限らないが、実在する国家を堂々悪玉に仕立てるのは、アメリカ映画ならではである。

物語は、タイでひっそり暮らすランボーの元に、アメリカからやって来たNPOキリスト教支援団が、ミャンマーで政府に迫害されている部族(カレン族)に医療品を届けるため、船で現地まで送って欲しいと依頼する所から始まる。支援団の一員サラ(ジュリー・ベンツ)の真摯な姿に心を動かされ、海賊の襲撃をかわしながら何とか彼らを目的地に送り届けるが、支援団は軍に拉致され、今度はその救出に雇われた5人の傭兵を現場へ送ることになり、ランボーはまたしても戦いに参加する事となる…。

「ランボー」1作目(82年)は、デヴィッド・マレルの小説「一人だけの軍隊」(原題:First Blood)の映画化である。ベトナム戦争で殺人マシンとして訓練され、過酷な捕虜体験がトラウマとなって、帰国しても心が落ち着く事のないランボーの孤独な戦いぶりを通して、戦争が終わっても、帰還兵の心の傷は容易に癒せない点を鋭く描き、アクション映画でありながらもこの映画は、鋭い戦争批判をも盛り込んだ秀作となった。

その後に作られた2作目、3作目は、マッチョなスーパー・ヒーロー・アクションの色が濃く、1作目のテーマはかなり後退して、ヒーローがただ暴れまわる大味なアクション映画に堕していた感がある。

ところが、4作目となる本作では、戦うべき相手が、人民を虐げる残虐な政府軍(現実のミャンマー軍事政権の実態をかなり反映)になった事で、方向性が1作目のテーマ(戦争の愚かしさと空しさ)にほぼ回帰したものとなっている。

それを端的に表わしているシーンがある。支援団を目的地に送る途中で、ランボーが海賊を一瞬のうちに皆殺しにした時、団のリーダー、マイケル(ポール・シュルツ)が「なんて事を!人を殺してはいけない」とランボーをなじる。それに対しランボーは、「これが戦争なんだ!」と突っぱねる。
ところが最後、おぞましい地獄絵図を体験したマイケルは、自分を殺そうとした兵士を殴り殺してしまうのである。―戦争は、人の心を荒廃させ、悪鬼に変えてしまうものである事を示す、実に皮肉なシーンである。丘の上からその姿を冷ややかに見つめるランボーに、マイケルはただ立ち尽くすのみである。

ストーリーはいたってシンプルである。捕らえられた人々を救出する為、ヒーローが大活躍し、最後に悪の軍隊は全滅する。…作り方によってはカッコいいアクションものになってしまう所であるが、スタローンはそんな作品にしたくない為、あえて殺戮シーンをリアルに、残虐に描いている。戦争で人を殺すという事は、これほどに残酷で、凄惨な事なのだ、という点を強調しているのである。

ところが、そのリアルに描かれた人体破壊シーンが、残酷で正視に耐えないとして、作品そのものを否定的に評価する人がいる(しかもおエラい評論家にも少なくない)のにはガッカリとした。

戦争で、弾薬が体に当たったら、爆薬が破裂したら、人体が破壊するのは当たり前である。平和ボケした日本で、フカフカした椅子に座ってデレーっと映画を観てるからそんな事が言えるのである。
今この時にも、世界のどこかで、無数に埋められた地雷で、いたいけな子供たちが足を吹き飛ばされている。米軍の投下する爆弾で、テロ攻撃で、人の体が肉塊となって飛び散っている。クラスター爆弾が1発炸裂したら、首が、手がバラバラに吹き飛ぶのである。…それが現実の姿である。

目をそむけてはいけない。そんな地獄絵を作り出しているのが、他ならぬ我々人間である事を認識すべきである(なお、スタローンはミャンマーの現状を徹底リサーチし、実情は映画よりもっと残酷だと言っている。映画に登場する手足がない子供たちは、実際に地雷で手足を吹き飛ばされたカレン族の子供たちである)。

「ソルジャー・ブルー」(70・ラルフ・ネルソン監督)という映画をご存知だろうか。ラスト間際、騎兵隊の兵士たちがインディアン部落を襲い、大虐殺が始まるのだが、女を裸にひん剥き、レイプする、乳房を切り取る、銃弾で人体が破壊される(子供の頭が銃弾で吹っ飛ぶシーンもある)とまあ、当時としては凄惨なシーンで話題を蒔いた。明らかにベトナム戦争でのソンミ村虐殺事件をモチーフにしているのだが、正視に耐えないと言って否定する人などあまりいなかったと記憶している。本作に文句を言う人は、まずあの作品を見てから言って欲しい。

 
ラストで、ランボーは故国の古里に帰って来る。それは丁度1作目の冒頭シーンと同じである。だが、1作目では心に傷を負い、暗い眼をしていたが、本作ではずっと穏やかな眼になっている。歳を経て、故国を安住の地に選んだのであろうか。ランボーにとってミャンマーが最後の戦場となったのかどうか…。だが、世界から残酷な殺し合いが無くならない限り、ランボーに安住の地はないような気がしてならない。

ミャンマーに平和な日が来る事を祈りたい、これはそんな願いが込められた、スタローン老骨に鞭打った渾身の快作である。直視せよ。   (採点=★★★★☆

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(付記)
冒頭の製作会社ロゴと“ミレニアム・フィルムズ”という会社名、はて、どこかで見覚えが…と考えたら、思い出した。正月に観た秀作「勇者たちの戦場」を作った会社である。

allcinemaでスタッフを調べたら、やはり“製作”としてクレジットされている人たちのうち、アヴィ・ラーナー、ジョン・トンプソン、ランドール・エメット、ジョージ・ファーラ、トレヴァー・ショート、ボアズ・デヴィッドソン(なんと懐かしや、イスラエル版アメ・グラ「グローイング・アップ」シリーズの監督じゃないですか)といった面々が両方の作品のプロデューサーを兼ねている。

「勇者たちの戦場」も、帰還兵たちの心に負った傷の深さを描いている点で、「ランボー」1作目とテーマはかぶっている。戦闘シーンもかなりハードでリアルである(詳細は作品評参照)。

すなわち、「勇者たちの戦場」という、骨っぽい反戦映画(こちらも、今も多くの人たちが爆弾で傷ついているイラクが舞台)を製作した人たちが、本作にも関わっている事を知れば、余計本作のテーマが鮮明に浮き上がるであろう。「勇者たちの戦場」という映画の事も、是非頭に入れて欲しい。

その作品の監督が、アーウィン・ウィンクラーである。なんと、スタローンのもう一つのシリーズ、「ロッキー」全作のプロデューサーである(当然、「ロッキー・ザ・ファイナル」の製作総指揮も担当)。ますます両作品は縁が深いと言えるだろう。

 
(さらに、お楽しみはココからだ)

本作のリアルな銃撃戦描写で連想するのは、バイオレンス派の巨匠、サム・ペキンパー監督による西部劇の傑作「ワイルドバンチ」である。

おそらくは西部劇で初めて、銃弾が体に当たると体から血が吹き出るシーンが登場した作品である(前述の「ソルジャー・ブルー」のバイオレンス描写は明らかにこの作品の影響)。

拉致された仲間を数人で救出に向かう設定といい、政府軍の只中に乗り込み、相手の機関銃台座を奪って、主演のウイリアム・ホールデンが機関銃を乱射するシーンといい、銃撃で夥しい血糊が噴出するスプラッター描写といい、本作のクライマックスとよく似たシーンが続出する。ついでに主人公が老骨に鞭打って奮闘するジイさんである点(笑)も共通してると言えようか。

おそらくはスタローンも、この作品が頭にあったに違いない。歯を喰いしばって機関銃を乱射する顔つきまで似ている(笑)。

おまけに、あわやこれまでか…と思ったその時、反乱軍部隊が救援に駆けつける呼吸は、「駅馬車」(ジョン・フォード監督)に代表される、主人公が危機一髪の時に騎兵隊が駆けつける西部劇の典型パターンを思わせる。

そんな具合に、本作の展開はいろんな西部劇(「ソルジャー・ブルー」も含めて)からアイデアを頂いている気がするのである。

そう言えば、1作目にしても、いろんなサバイバル術と、ゲリラ的奇襲戦法で保安官たちを悩ませるランボーの行動が、グレゴリー・ペック主演の西部劇「レッド・ムーン」(ロバート・マリガン監督)の姿なきインディアン(当時はベトコンの隠喩と言われた)の行動と似てるな…と当時思った事を思い出した。ランボーは弓矢(これもインディアンの道具)も使うし…。ひょっとしてスタローンは西部劇ファン?(笑)

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2008年5月25日 (日)

「山のあなた 徳市の恋」

Yamanoanata (2008年・フジ=東宝/監督:石井 克人)

1938年の松竹映画「按摩と女」(清水宏・監督)のリメイク。

清水宏監督は、一般的には黒澤、小津、溝口ほどには知られていないが、実は伝説的な巨匠である。
なにしろ、小津安二郎、溝口健二監督をして“天才”と言わしめ、笠智衆も、彼の評価が不当に低い事を憤った。

近年ようやく再評価の兆しが見える事は喜ばしい。DVDボックスも出ているようだが、若手のポップな作風で知られる石井克人監督が清水作品に惚れ込み、興行的に当たり難いのを承知で、わざわざ本作をリメイクした…というのも近年にない快挙である。

ただ、本作は、リメイクと言うよりは石井監督が“完全カヴァー”と称しているように、元の作品の脚本はおろか、アングル、カット割までも完全にコピーした作品である。

そう聞くと、例のガス・ヴァン・サント監督のヒッチ作品のコピー作「サイコ」とか、森田芳光監督の「椿三十郎」などの(個人的には)失敗作を思い出し、嫌な予感を抱く人もいるだろう。…特に私など、そのオリジナルたる「按摩と女」が大好きときている(ビデオも持っている)。

ところが本作は、意外にも、良く出来ているのである。清水作品が大好きな私ですら、ジワっと感動したのである。「椿三十郎」はコキ下ろした、この私が…である(笑)。

その理由は何かと言うと、一にも二にも、清水作品の作風…あるいは、いわゆる“大船調”と呼ばれる、松竹伝統の人情ホームコメディのタッチを現代において完璧に、かつクリアに再現しているからである。

私は、オリジナルの「按摩と女」が好きで、ほとんど頭の中に映像が刻み込まれているのだが、この作品を見ている間中、記憶にある清水作品と、映像も、演技もまったくそのままで、まるでオリジナル作品に、着色して、デジタル・リマスタリングしたのかと錯覚したほどであった。

帰宅して、「按摩と女」のビデオを引っ張り出して再見したら、もうまったく、今観た映画そのまんまであった。―温泉旅館や町並みもまったく同じ(旧作を基にミニチュアを作りデジタル合成したそうだ)、なんとまあ、後ろを通るエキストラの通行人の歩き方や扮装、道端の犬の動きまでまったく同じである。いやはや、そこまでやりますか(笑)。

違う所は、当時は予算の関係なんかで描けなかったであろう、峠の道を行く馬車のロングショット映像や、若干の補足的シーン(旅館の位置関係など)程度である。

ただ旧作は、古い作品である為、また、当時はフィルム感度も音質も悪かった為、映像はややボヤけていて、音は聞き取りにくい所もあった。…それでも感動出来たのだからやはりいい作品なのである。

本作は、むしろそうしたオリジナル作品の映像・音質の劣悪な部分を、最新の技術でカヴァーし、グレードアップした作品なのである。―ほんわかと醸し出される、清水作品の空気や温かみはそのままに、グレードだけはぐんと向上している。
…これは言うなれば、クラシック音楽で編曲やオーケストラ編成はオリジナルそのままに、最新の機材を使ってステレオ・ドルビーサラウンド録音を行ったようなものである。これでは感動するのも当然である。

例えば、徳市(草彅剛)が、東京の女美千穂(マイコ)が道に立っているのに気付かずすれ違うシーン、オリジナルでは全然聞こえなかったのだが、新作では、美千穂がそっと後ずさる時に、かすかに砂利を踏む音が聞こえる。
目の見えない徳市が、その音を聞き分け、美千穂がいる事に気付く重要なシーンなのだから、この音は大事である。…こういう所に、石井監督が最新技術でカヴァーした意味があるのである。

石井克人監督は、清水宏作品の素晴らしさをこよなく愛し、最大のリスペクトをもってそれを現代に甦らせたのである。…それはまた、清水宏という伝説の埋もれた名監督の発掘でもある。
…私はその事に胸が熱くなった。よくぞ作ってくれたと、石井監督に礼を言いたい。

お話は、実に淡々として、のどかで、大した事件も起きない。まあ泥棒騒ぎもあるが、それすらものどかでユーモラスである。

小さな温泉町を舞台に、見知らぬ人同士が出会い、ちょっとした心の触れ合いと、ほのかな恋心の芽生えがあり、そして別れが描かれる。

さりげない仕草や、会話の中に、人の切ない思いが巧みに表現され、温泉の湯に浸かるように、心が癒される。

淡々と進むゆえ、若い人にはとっつき難いかも知れない。しかし、もし小津安二郎作品や成瀬巳喜男作品のように、やはり庶民の生活を淡々と綴った監督の作品にハマった方ならきっと感動出来るだろう。噛めば噛むほど味が出る、スルメのような味わい深い作品である。

けれどもそれは石井監督の力ではなく、オリジナルの清水監督の脚本・演出のうまさのせいである。この映画は、そういう意味では、クレジットこそ石井克人監督だが、まぎれもなく“監督=清水宏リマスタリング修復=石井克人”とクレジットしたい作品なのである。

徳市を演じた草彅剛、相棒の福市を演じた加瀬亮―いずれもオリジナル役を演じた徳大寺伸、日守新一と外見も雰囲気もソックリである。また東京の女役のマイコ(オリジナルでは高峰三枝子)も、いかにも戦前の古風な女の雰囲気をよく醸し出している。

 
清水監督作品では「按摩と女」以外に、あと「有りがたうさん」(1936)、「簪(かんざし)」(1941)が傑作であり、小林信彦さんは20世紀ベスト100本の中にこの3本を入れている。本作に感動した人は、機会があれば、是非これらの作品も探して観て欲しい。   (採点=★★★★☆

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清水宏DVD-BOX

「按摩と女」
「有りがたうさん」
「簪(かんざし)」
「港の日本娘」収録
 

「按摩と女」
単品

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2008年5月23日 (金)

「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」

Therewillbeblood (2007年・ミラマックス=パラマウント・ヴァンテージ/監督:ポール・トーマス・アンダーソン)

「マグノリア」で一躍注目された俊英、ポール・トーマス・アンダーソン監督の、「パンチドランク・ラブ」以来5年ぶりの問題作にして傑作。本年度のアカデミー賞で主演男優賞、撮影賞を受賞。

原作は、社会派の作家、アプトン・シンクレアの「石油!」(1927年)。アンダーソン監督は、これを元に大幅に改定した脚本を自ら手掛け、実に骨太の人間ドラマに仕立てている。

20世紀初頭のカリフォルニアを舞台に、しがない鉱山労働者の男、ダニエル・プレインビュー(ダニエル・デイ=ルイス)が、石油採掘に野心を燃やし、やがて石油層を掘り当て、名声と富と権力を手にするまでを描く。

 
こういうタイプの映画は、ジェームズ・ディーン主演の名作「ジャイアンツ」(56・ジョージ・スティーヴンス監督)とか、「オクラホマ巨人」(73・スタンリー・クレイマー監督)などのように、ハリウッドでいくつか作られてきた。

しかし、「ジャイアンツ」では、“アメリカン・ドリーム”の象徴であった、ジェームズ・ディーン扮するジェット・リンクの成功話が、ここでは徹底的にエゴイズムと醜い欲望にひた走り、破滅に向かう、ダニエルという男の破天荒な生きざまに置き換わっている。

土地を安く手に入れる為、巧みに嘘をついたり、養子にした子供を交渉の場に付き添わせて同情を買わせたり、ある時には暴力を振るったりする。

子供の耳が聞こえなくなり、足手まといになると汽車に乗せて遠方に追いやったり、事業の為になるなら、忌み嫌うインチキ牧師・イーライ(ポール・ダノ)の教会に入信し洗礼を受ける事も辞さない。

人間的には、とんでもない男なのだが、しかしアンダーソン監督は、こんな男を否定するでもなく、肯定するでもなく、冷徹に観察している。

これらを、石油利権や、宗教的対立から、不毛の国家間紛争を続けている現代社会への痛烈な皮肉と取れない事もないが、アンダーソン監督の目はそんな目先のあてこすりには留まらず、更にもっと先―人間という存在そのものの不可思議さ、愚かしさ―をも見据えている。

エゴと野望にひた走る一方で、事故で死んだ労働者には手厚い配慮を見せたり、子供が油井火災に巻き込まれた時は、必死になって走り、助けようとする。

一見矛盾するようだが、彼の心の奥底には、どこかで人間を信頼したい…という思いがあるのかも知れない。
彼に従う仲間たちとは心が通い合っているし、子供といる時の父親としての表情は本物のようである。

従って、途中から彼の前に現れた、“弟”を自称する男の正体が分かった時は、強烈な憎悪を示す。…それは、裏切られた無念さの裏返しなのかも知れない。

そうした矛盾も含めて、彼は怪物であると同時に、常に過ちの歴史を繰り返して来た“人間という存在そのもの”の象徴なのだろう。

養子である息子が大きくなって現れた時も、心が通うことは遂にない(ここで息子との会話が、聾唖である故、手話通訳を介して行わなければならず、コミュニケーション不全のメタファーともなっている所もうまい)。

 
彼は、人生においては大きな成功を収め、富も権力も手に入れた。
しかし、心が満たされる事はなく、心の隅のどこかにポッカリと空洞になった闇を抱えた、ある意味では悲しい人生である。

それで想起するのは、オーソン・ウェルズ製作・監督・主演の映画史に残る傑作「市民ケーン」である。

新聞王・ケーン(O・ウエルズ)もまた、巨万の富と名声と権力を得る事には成功したが、死の床において、遂に心の空洞を満たす事もなく、寂しい人生を終える事となる。―その空洞を埋めるピースが“バラのつぼみ”であった。この映画は、私の大好きな作品の一つである。

 

ラストの、イーライの体から滲み出る真っ黒な血は、冒頭シーンの、地面から滲み出る黒い石油を思い起こさせる。

「それは血になるだろう」という原題の意味もここで明らかになる。

ちなみに、このタイトルの由来は、旧約聖書の「出エジプト記」第7章からの引用で、映画「十戒」の中でも描かれている、モーゼが杖をガンジズ川に立てると、川の水が血のように、真っ赤に変わって行く、あの有名なシーンを示す言葉である。

清らかな水をも、濁った血に変えてしまうように、ダニエルの意識の底に沈殿していた底知れぬ怒りが、血を呼び起こし噴出させたかのようである。

ダニエル・デイ=ルイスの鬼気迫る演技には圧倒される。主演男優賞を総ナメしたのも納得である。が、2時間38分という長尺にもかかわらず、ほとんどダレる事なく、渾身の力を込めたアンダーソン監督の演出も完璧の一語。これは、本年を代表する傑作である。必見。

 
エンド・クレジットに、“故・ロバート・アルトマンに捧ぐ”と献辞が出るが、アルトマン作品へのオマージュ作「マグノリア」からわずか8年。先人をリスペクトするだけに留まらず、遂に敬愛する名匠を乗り越えるまでに至ったアンダーソン監督の並々ならぬ努力と成果には素直に拍手を送りたい。

 

…それに引きかえ、である。わが国の期待される監督たちは何をやっておるのか

森田芳光、本広克行、樋口真嗣…いずれも、先人・黒澤明をリスペクトし、オマージュを捧げる気持ちはあるようである(本広は「踊る大捜査線 -THE MOVIE-」「天国と地獄」のオマージュをやっている)。

が、彼らの黒澤明に寄せるオマージュは、あまりにも子供っぽすぎる。本当に黒澤を敬愛するなら、黒澤作品の足元にも及ばない出来の作品を作ったり、有名シーンをいただく程度で満足せず、アンダーソン監督のように、尊敬すべき先人の作品がなぜ多くの人に愛されるかをとことん解析し、作品と格闘し、それらを乗り越える傑作を作る努力をすべきではないのか。森田監督、特にあなたにはそれだけの力があると信じているからこそ叱咤するのですよ。

 
派手派手なCG大作を作る一方で、このような人間ドラマの秀作を生み出したり、「勇者たちの戦場」「大いなる陰謀」といった、現在も進行する、アメリカが抱えてしまった闇の部分を鋭く追求した秀作を連打するアメリカ映画界は、まだ奥が深く、健全だと言えるだろう(また、大物スターが進んでそれらに協力しているのも素敵な事である)。

日本ではテレビ局に牛耳られっぱなしで影が薄い大手映画会社だが、あちらでは「ONCE ダブリンの街角で」フォックス・サーチライト・ピクチャーズとか、本作のパラマウント・ヴァンテージとか、大手会社がインディーズ部門の子会社を作り、頑張っている。「大いなる陰謀」は20世紀フォックス本体の製作である。こういう姿勢を、わが国のメジャー会社も見習って欲しいものである。    (採点=★★★★★

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2008年5月15日 (木)

「隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS」

Kakusitoride (2008年・東宝/監督:樋口 真嗣)

「椿三十郎」に次ぐ、黒澤明監督作品の再映画化。但し、リメイクではなくリボーン(再生?)だそうな。

森田芳光監督「椿三十郎」公開の際には、私はかなり厳しく批判をした(作品評はこちら)。…しかし、黒澤作品のリメイクは絶対ダメ、と言ってるわけではない。早い話、「姿三四郎」や「赤ひげ」、「野良犬」なんかはテレビも含め何度かリメイクされており、それぞれ出来映えも悪くはなかった。

問題なのは、「椿三十郎」リメイクに際しては、簡単に述べると3つの大きな過ちを犯しているからである。
①「三十郎」のキャラクターは、三船敏郎という豪快なチャンバラ・スター自体をイメージして創造された、日本映画史に残るスーパー・ヒーローであり、三船の存在なくしては産み出されなかった。分かりやすく言うなら、渥美清のキャラから生まれたフーテンの寅のような存在である。寅さんが、渥美清以外の誰が演じてもサマにならないのと同様、三船に匹敵するサムライ・スターが登場でもしない限り、リメイクには向いていないのである。即ち、まず題材の取り上げ時点で間違っているのである。
②それなのに、よりによって織田裕二に三十郎を演じさせた。…三船とはまるで容貌もキャラも違い、そこらの兄ちゃんにしか見えず、豪快な太刀回りすらもやった事もない役者を選んだ時点で、これも失敗である。
③さらに、本来三船敏郎のキャラに合わせて書かれたシナリオを、ほとんど一字一句元のままで使用したのも間違い。…せめて、織田のキャラクターに合わせてシナリオを大幅に改定しておればまだしも…。よって映画は、織田が三船の物真似を必死で演じるという珍妙な出来になってしまったのである。

 
そこで今回の「隠し砦の三悪人」であるが、
①「三十郎」とは違ってこちらは、昔からよくある、“戦さで敗退し、落ち延びた残党が軍資金と世継ぎを守り、お家再興を果たす”という、典型的な講談調・波乱万丈冒険大活劇(中村錦之助主演の「笛吹童子」はその種の代表作)であり、主演のキャラで持つ作品ではない。
②三船が演じた真壁六郎太は、これまでにも痛快チャンバラ活劇の主役を勤め、サムライ・スターの風格もある阿部寛が演じており、これも悪くない。
③さらに、元のシナリオを劇団☆新感線の座付き作者・中島かずきが大胆に脚色、なんと!六郎太と雪姫以外の主要人物を、役名も含め、ガラッと入れ替えている。六郎太は、主役ですらなくなっている。基本設定だけを拝借し、ほとんどオリジナルと言っていいくらいにまで改変してしまっているのである。まさに、RE-BORNである。

こんな具合に、同じ黒澤リメイクでも、こちらは「椿三十郎」における3つの問題点をことごとくクリアしていると言える。出来はともかくとして、戦略としてはこれは正解である。…森田も、せめてこれくらいのチャレンジはして欲しかった。

 
さらに、オリジナルはその面白さゆえ、ジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ/EP4」(77)として巧妙に焼き直しているのは周知の通りだが、本作はその「スター・ウォーズ」からいくつかの要素を逆輸入しており、どちらかと言えば本作は、“「スター・ウォーズ」のリメイク”と言った方が正解のような出来なのである。

「スター・ウォーズ」では、「隠し砦-」のキャラクターについて、真壁六郎太→オビワン、雪姫→レイア、太平→R2D2、又七→C3PO…という具合に巧妙に移行されているが、ルーク・スカイウォーカーに当たる人物はオリジナルにはない。

本作では、そのルークを彷彿とさせる、松本潤扮するイケメンのヒーローを主役に据え、クライマックスで大活躍をさせている。さらに、黒澤作品では不在であった、敵対する悪玉・鷹山刑部(椎名桔平)を新たに創造し、ダース・ベイダーそっくりの扮装をさせている。

これによって、本作は黒澤作品よりもさらにエンタメ性を増し、SFXもフルに駆使して、ラストは敵の要塞(=デス・スターに匹敵する)の大爆破→ハッピー・エンドに至る娯楽大活劇に仕上がっている。

樋口真嗣演出は、これまでの監督作(「ローレライ」「日本沈没」)においてもいろんな娯楽活劇へのオマージュが散見されているが、本作でもさまざまなオマージュ、パロディがふんだんに盛り込まれ、楽しませてくれる。

敵の砦の造形は、「スター・ウォーズ」の要素もあるが、同じジョージ・ルーカス製作の「インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説」の悪の巣窟も連想させる。武蔵(松本潤)と雪姫(長澤まさみ)の手と手を取っての逃避行は、ちょっぴり深作欣二監督「里見八犬伝」の要素も入っている。…そしてラストは言うまでもなく「ローマの休日」である。

本家、黒澤「隠し砦-」における名シーンについても、そのまま再現されているものもあれば、巧妙に捻っているものもあり、そういう意味では、これは本家、黒澤版を先に観ていると、思わずニンマリ出来て余計楽しめるようになっている(鷹山刑部の顔の疵が、黒澤版の田所兵衛(藤田進)のそれとソックリである所も注目)。普通はリメイク作品の場合、旧作は見ない方が良いのだが、本作に関してはDVDで予習しておくのも悪くはないと思う。

 
そんなわけで、もともと期待していなかっただけに、思っていたよりは上出来であった。何より、あの痛快な黒澤作品を、オリジナルのイメージを損なわない範囲で大胆な改変を行い、旧作を知らない若い観客は無論のこと、旧作を知っている人が観ても、十分楽しめる娯楽活劇に仕上げている点は大いに評価したい(その功績の多くは、冒険活劇のツボを心得た、中島かずきの脚本によるところが大きい)。

少なくとも、「椿三十郎」よりはかなりマシである(しつこいかな(笑))。
リメイクするなら、せめてこのくらい、いろんな工夫をすべきである。

 
しかし、手ばなしで褒めるわけには行かない。まだまだ難点や突っ込みどころが多い。もう一押し、脚本を練り直せば、もっと面白くなるだけに惜しい所である。
多分、指摘する人も多いであろう、あのラストの大爆発からどうやって逃げられた?しかも馬まで用意出来るか…くらいはご愛嬌で、この程度なら笑ってすませられる。

困るのは、女衒に売られる所を助けた女が、姫をかばって死んで行くシーン、敵が斬りかかって六郎太がピンチなのに、メソメソ泣いてる場合じゃないだろう。著しくテンポがそがれるこんなシーンは不要である。

それと、あの名セリフ「裏切り御免!」の使い方はないだろう。無理があってシラける(しかも何回も出すぎ)。本来このセリフは、味方から敵に、又は敵から味方に寝返った場合に使うものである。オマージュにしても、これは不要。

さらに、エンドロールに流れる主題歌、まったく不要(だから、「裏切り御免」の使い方、間違ってるだろうが!)。

逆に、オリジナルにはなくて、考えたな…と思わせるのが、“雪姫と、名もなき民衆との信頼関係”を強調した部分で、助けた民衆から恨みがましい視線を受けてたじろいだり、後半の大きなポイント=金塊輸送方法にまつわるくだりなどは、“国の統治は、国民との信頼関係なくしては成り立たない”というテーマを際立たせ、現在の、支持率低迷にあえぐ政治状況への痛烈な皮肉になっている。

…ただ、樋口演出が一本調子の為か、本来なら感動が盛り上がるはずの100人の民衆との対面が、全然そうなっていないのは大いに反省の余地あり。それと、命の恩人である武蔵に、(オリジナルにあったように)姫から賞金を与えるシーンは入れるべきだった。

ともあれ、いろいろアラはあろうとも、予想以上に楽しませてくれた、その努力には敬意を表したい。従って、採点も大マケしておく。     (採点=★★★

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(さて、お楽しみはココからだ)

黒澤作品では太平又七だった2人の下層庶民の名前が、新作では武蔵(タケゾウ)と新八に変更されている点に着目したい。

これはそのネーミングからして、あの吉川英治原作「宮本武蔵」武蔵(本作と同じく、最初の頃は“タケゾウ”と読む)と又八のコンビを意識したものだろう。
やはり戦乱の世、出世を夢見て関ヶ原の戦いに赴き、負け戦さでホウホウの体で戦場を彷徨う武蔵との姿は、まさに本作の武蔵との姿にダブる。

―そう考えれば、本家黒澤作品の方の冒頭、太平(千秋実)と又七(藤原釜足)が負け戦さでボロボロになり、グチりながら歩くシーンもまた、吉川版宮本武蔵のプロローグからインスパイアされたのかも知れない。相方の名前がと、1字違いなのも偶然ではないだろう。

Kakusitoride2 もう一つ、本作のイラスト・ポスターの原画を描いたのが、井上雄彦。…即ち、吉川英治原作「宮本武蔵」のコミック版「バガボンド」の作者である。絵の方も、驚くほど「バガボンド」の武蔵に似ている。

この起用からしても、樋口監督が「宮本武蔵」を意識している事は明らかだろう。

悪玉、鷹山刑部が、決闘シーンでなぜか二刀流で六郎太と対峙していたが、あるいはこれも、宮本武蔵を意識してのこと?(笑)

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2008年5月11日 (日)

「さよなら。いつかわかること」

Sayonaraituka (2007年・米/監督:ジェームズ・C・ストラウス)

映画は、ゴテゴテと話を詰め込んだものよりも、シンプルであってもストレートにテーマを訴えた作品の方が心を打つ場合がある。

本作も、ストーリーを要約すれば、
“母が亡くなった事を、幼い娘たちに伝えるまでのお話”…たったそれだけである。1行で終わりだ(笑)。上映時間も85分と短い。

しかし、そのラストに至るまでの、主人公の心の揺れを、丁寧で繊細な語り口で描き、観終わって心が温かくなる。

これは、そんな、素敵な感動の秀作である。映画ファンなら、たまにはこういう地味な作品も、しみじみと味わって欲しい。

 
主人公スタンレー・フィリップス(ジョン・キューザック)は、12歳と8歳の娘を持ち、妻はイラク戦争に単身出征している。

ある日、妻・グレイスが戦死したとの報せが届く。動揺するスタンレー。

スタンレーは、娘たちにどうやって母の死を伝えるべきか悩む。言い出せないままに、彼は2人の娘を自動車に乗せ、次女ドーン(グレイシー・ベドナルジク)が以前から行きたがっていた、フロリダの遊園地に行くことにする。

幼い次女は無邪気に喜んでいるが、長女ハイディ(シェラン・オキーフ)は突然の父の行動に不審を抱く。

映画は、そうした父と娘たちの、家を出てフロリダに着き、とうとう母の死を伝えるまでの数日間の出来事を淡々と描く、一種のロード・ムービーになっている。

母のいない家庭で、どことなくギクシャクしていた家族が、心を寄せ合い、男にとっては妻を、子供たちにとっては母を失った悲しみを乗り越え、やがてこれまで以上に家族が深い絆で結ばれて行く。

これがデビュー作だという新人監督、ジェームズ・C・ストラウスは、短いエピソードをさりげなく積み重ね、スタンレーが、妻の分まで子供たちを愛して行こうと決断するまでの心の変遷を見事に描いている。

子供たちの演技も自然でとてもいい。特に、多感で、最初は父に反撥していたハイディが、直感で母の死を悟り、動揺してフラフラとあてもなく外を彷徨ったり、大人へと背伸びしたりするうちに(これらのシーンで、私はロベール・アンリコ監督の傑作「若草の萌える頃」を思い出した。分かる人は分かるよね)、やがて父との間に心の絆を取り戻して行く、そのプロセスがとてもうまく描かれている。

脚本も見事(ストラウス自身が手掛けている。サンダンス映画祭の脚本賞受賞)だし、演出も新人とは思えないほど落ち着いている。
特に、留守番電話の使い方が巧みである。スタンレーがこれを使うシーンでは泣けた。他にも、ドーンが母との心の交流に利用するアラーム時計など、いろんな小道具の使い方がうまい。

しかし私がもっとも感心したのは、妻の回想シーンを一切入れていない点である。

これが最近の日本映画だったら、これでもかとばかりに妻との至福の時の回想をベタベタと入れて泣かせようとするだろう。しかし監督はそれを排除し、スタンレーの行動だけを綿密に描いている。…それによって、観客がスタンレーと同化し、彼の心の中に、よりストレートに入って行けるのである。このストイックな演出姿勢を成功させた所に、この新人監督の非凡な才能を感じ取る事が出来る。

イラク戦争に出征した女性兵士…という切り口もいい。正月に観た「勇者たちの戦場」でも女性兵士が登場したが、これをテーマに取り上げる事によって、女性まで駆り立て、残された家族に何重もの悲劇を生む、国家が始めた戦争の空しさがより際立つ様になっている。同時にまた、離婚が極端に多いアメリカ国民に、家族が揃って暮らす幸せの大切さを訴える…という副次的なテーマも見え隠れしているとも言えるだろう。

音楽と主題歌作曲を担当したのがクリント・イーストウッドというのも驚きである。この映画のプロデューサーでもあるジョン・キューザックがイーストウッドに依頼し、作品のテーマに感動したイーストウッドが快く引き受けたとの事である。「父親たちの星条旗」などで戦争の愚かしさを鋭く追及したイーストウッドらしいエピソードである。ギターとピアノを中心とした、しみじみとしたこの音楽も作品にマッチし、素晴らしい効果を挙げている。

 
特に山場もなく、静かで、淡々とした描き方に物足りなさを感じる人もいるかも知れない。

しかし、観ている間は楽しいが、観終わった後に何も残らない映画よりは、こうした作品にこそ真摯に向き合って欲しい。
こういう映画に何かを感じるようになる事こそ、大切な事だと私は思う。

多くの人に観て欲しい、爽やかな小品佳作である。お奨め。      (採点=★★★★☆

(付記)
もう一つ感心した事。

旅を続けるうちに、1日ごとにキューザックの無精ヒゲが濃くなって行く。…何でもないようだが、こういうリアリティを疎かにしない点もストラウス監督、エラい。
そういう事に無頓着な作品が多過ぎるのである。

北野武監督の「菊次郎の夏」という作品がある。これも大人と子供が旅をするロード・ムービーなのだが、途中バス停などに野宿しているのに、たけしのヒゲが全然伸びていない。髭剃りなんて持ってないはずだから、3日も旅したら無精ヒゲがかなり目立つはずである。
お話は悪くないのだが、そういう手抜きがある為、作品にも感動出来なかった。

そういう事もあったから、本作には余計感動出来たのである。…まあ、本来は当たり前の事なのですがね。

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2008年5月 7日 (水)

「相棒-劇場版-」

Aibou (2008年・東映/監督:和泉 聖治)

テレビで人気を博した「相棒」の劇場版。テレビについての感想は昨日UP済。

正確な題名は「相棒-劇場版- 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン」…あきれるほど長ったらしいタイトル(笑)からして、出自の「土曜ワイド劇場」並みだが、映画の方も、あれやこれやと盛り込み過ぎで、散漫な出来になっている。

部分部分を取ってみれば、それぞれのパーツはテレビ版を彷彿とさせる所もあり、テレビ版各話のセミレギュラーも沢山出演しているようなので、テレビシリーズを見続けている人には楽しめるかも知れないが、“映画作品”として観るなら、物足りない出来である。

一番いけない所は、犯人像が支離滅裂である点。

まず、猟奇的な殺人事件が起き、それらの被害者と殺害方法がインターネットのSNSサイトに掲載されている事が判明。

このサイトでは、気に入らない人間について有罪・無罪の投票を行い、有罪が多数を占めれば“死刑宣告”を行う…というタチの悪い遊びをやっているのだが、それを現実に実行する…という点で浮かび上がる犯人像は、現実と空想の境い目の区別がつかないネットオタクか、「羊たちの沈黙」に登場するような狂ったサイコパスか…いずれにしても普通じゃない異常性格者で、こんな犯人には同情のカケラも与えられないだろう。

ところが、犯人は現場に暗号めいた数字記号を残しており、それがチェスの棋譜であり、杉下とチェス・ゲームをやり始める辺りから犯人像が食い違って来る。これでは、犯人は「ダ・ヴィンチ・コード」まがいの暗号パズル好きの知能犯という事になり、先ほどの、頭の悪い犯人像とは明らかに異なる。

それだけでも???と疑問符が浮かぶのに、その次には東京シティマラソンに爆弾を仕掛け、3万人のマラソンランナーと15万人の観衆を人質に取る―という展開。スケールは大きいが、そうなると今度は、フットボール・スタジアム観衆を巻き込んだ「ブラック・サンデー」とか、その作品を換骨奪胎した韓国映画「シュリ」のような、大規模な過激派組織が犯人だった映画を思い出す。つまり、またまた犯人像が違って来るのである(ついでだが、「羊たちの沈黙」と「ブラック・サンデー」の原作者は、偶然にもどちらもトーマス・ハリス)。

まあどっちにしても、警察を振り回して面白がってる、人騒がせなバカが犯人である事は確かだろう。

―ところが、最後に明らかになる犯人には唖然。…前半のゲーム的な、お騒がせ犯人像とはまるで違うじゃないか。

テレビ版には、確かに暗号を使ったゲーム的犯人とか、重い題材を扱った社会派的テーマも出て来るようだが、それらは作品ごとに異なるはずで、1つの作品において、両方のテーマを同時に盛り込んだらおかしくなるのは当然のこと。

後半のような、シリアスな題材をテーマにするのなら、犯行も、例えば松本清張作品(「砂の器」とか)のように地味目にすべきだし、タイトルのように派手な劇場型犯罪を主軸にするなら、犯人は愉快犯的な軽薄なヤツにすべきだろう。

以下ネタバレ。観た方のみドラッグ反転してください。
犯人は、例の海外で人質となってバッシングを受けた人たちをモデルにしているようだが、題材が重過ぎるうえに、犯人の目的が、バッシングした著名人に復讐したかったのか、それともSファイルの存在を訴えたかったのか、どちらなのかがはっきりしないのは問題。

主犯の木佐原(西田敏行)が、仲間だった塩谷(柏原崇)を時限爆弾で殺そうとする意味も不明。それに結局自分の娘を危険な目に会わせてしまってるし。だいたい、末期ガンで余命いくばくもない木佐原役を、丸々と太ってる(笑)西田が演じる事自体ミスキャスト。痩せ細ってないとおかしいだろう。笹野高史あたりが適役ではないか。

Sファイルを作成した元首相(平幹二郎)と、犯人と、杉下の3者が、そろってチェス好きだったというのもあまりにご都合主義である。そんな偶然って、確率何億分の1?
↑ネタバレここまで

前半のゲーム的展開もスリリングで面白いし、後半の社会派的テーマを打ち出すのも悪くはない…。
だが、その2つを、1本の作品の中でやってしまったところが、この作品の致命的ミスである。役者の演技も、演出のテンポも悪くないだけにもったいない。上トロの寿司に、チョコレートを乗せてソースをぶっかけたようなものである。別々に食ったらおいしいはずなのに…。

 

最近のテレビ局製作映画作品、「少林少女」といい本作といい、あれもこれもと詰め込み過ぎて、却ってつまらなくしている。中味を濃くする事と、何でもかんでも寄せ集める事とを完全に混同している。

脚本の戸田山雅司は、「メッセンジャー」(馬場康夫・監督)がとても面白くて注目したのだが、最近は「阿修羅城の瞳」(05)、「UDON」(06)と駄作、凡作が続いている。テレビ版1作目を始め、秀作が多いと聞く輿水泰弘に何故脚本を書かせなかったのか…。もったいない事である。
それでも、興行的には、最近の東映作品では数年ぶりの大ヒットだそうで(実際、私が観た時も超満員だった)、反省はしないんだろうな。困ったものである。      (採点=★★

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(付記)
「砂の器」の話が出たが、よく考えればあれも、熱血直情の若手刑事(森田健作。まさに熱血型だ(笑))と、ベテランの沈着冷静型刑事(丹波哲郎)とのバディ・ムービーだった。

松本清張原作ものでは、他にも昨年テレビ放映の「点と線」における、若手熱情型の三原刑事(高橋克典)と、ベテランでコロンボ並みの観察眼と推理を発揮する鳥飼(ビートたけし)というコンビもあった。テレビの鳥飼はすぐカッとなって暴れたが、原作では温厚で沈着型である。

こうしてみると、「相棒」のキャラクターは、昨日挙げた、黒澤明監督「野良犬」や、松本清張の前記2本の秀作に代表される、(最近はほとんど見なくなった)クラシックとも言える正統派刑事ものパターンの、現代的な復活…と言えるのかも知れない。面白いのも当然と言えるだろう。
それだけに、映画版はもっと丁寧に作って欲しかった。刑事ものの秀作がここ数年登場していないだけに、余計そう思う。残念!

 

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2008年5月 6日 (火)

「相棒」 TV版第1回

Aiboutv 映画「相棒-劇場版-」公開にタイミングを合わせて、テレビドラマ「相棒」の初回放送分(2000年製作)が放映された(5月3日)。

私は、テレビドラマはほとんど観ないのだが(昨年観たのは黒澤リメイク2本と「点と線」だけ。で、なんとか及第点は「点と線」だけだった)、「相棒」は評判が良かったようなので、映画を観る前の予習として観る事にした(裏番組がビデオ必録の黒澤「椿三十郎」なのがもったいない。どうでもいいが、昨年観た3本もこれも全部テレビ朝日作品ばかり(笑))。

簡単に言えば、2人組の刑事の活躍を描く刑事ドラマ。いわゆる“バディ(相棒)ポリスもの”と呼ばれるジャンルであるので、題名はまさにピッタリ。

刑事ドラマでは定番で、古くはアメリカ・TVドラマ「刑事スタスキー&ハッチ」などがあり、日本では松田優作・中村雅俊「俺たちの勲章」から「あぶない刑事」に至るまで多数ある。映画でも「リーサル・ウエポン」シリーズとか、ジャッキー・チェンの「ラッシュアワー」などが目新しいところ。…しかし原典を辿れば、黒澤明監督の「野良犬」(1949)に行き着く事になる。やっぱりクロサワは偉大である。

本作がちょっとユニークなのは、2人のキャラクターがまったく対照的な事。水谷豊扮する杉下右京は、いつも冷静沈着で頭脳が冴えるクール型。一方の寺脇康文扮する亀山薫は、よくあるタイプの直情型熱血漢で、ややおっちょこちょいのホット型…。言ってみれば、古畑任三郎と、あぶデカの大下(柴田恭兵)がコンビを組んだようなものである。この設定が、これまでのバディ刑事ドラマとは一線を画している。

しかし、黒澤の「野良犬」も、よく考えれば熱血直情タイプの村上(三船敏郎)と、ベテランで沈着冷静な佐藤(志村喬)というコンビだったので、製作側にも、黒澤作品が頭にあったのかも知れない。

そう思っていたら、本作の冒頭、亀山刑事が指名手配中の犯人に逆に捕まり、人質となった時、杉下が携帯で亀山にアイデアを授け、見事犯人を逮捕するシーンがあるが、これは黒澤の「七人の侍」で、島田勘兵衛が人質を取って立て篭もる強盗を見事な策略で退治するシーンを彷彿とさせる。奇しくも、沈着冷静な勘兵衛を演じたのがやはり志村喬。…う~む、やっぱり本作は黒澤オマージュなのかも知れない(笑)。

で、このツカミで2人のキャラクターを際立たせ、亀山が左遷されて杉下のいる“特命課”に配属されるきっかけともなる。この出だしもなかなか快調。

ドラマが本筋に入ると、亀山が殺人事件に巻き込まれ、謎を解明するうちに、杉下の頭脳と見事な観察眼によって、意外な黒幕が明らかになる。この謎解きシークェンスも、古畑任三郎、もしくはその原典である「刑事コロンボ」を思わせる。

亀山の軽妙なセリフ回し、彼と、いつも飄々としている杉下との掛け合いも楽しいし、そして彼らを取り巻く脇役陣もなかなか多彩で、しかも、(1作目を観る限りだが)警察内部の不正・腐敗に対する批判も込められているようで、凡百の「土曜ワイド劇場」ドラマの中では抜きん出た存在である。人気を博して6シーズン、8年も続く人気ドラマ・シリーズとなったのも分かる気がする。見逃していたのが、ちょっともったいない。今からでも追いかけて観たくなる。

ただ、テレビドラマとしては面白いが、映画化しても面白いかどうかは未知数である。淡々とした、渋い人間ドラマが持ち味であるように思われるし、どちらかと言えばテレビサイズでこそ魅力が引き立つ素材のような気がする。その点が懸念材料ではある。―映画化するとすれば、例えば、同じく水谷豊が刑事を演じた、市川崑監督による佳作「幸福」のような味が出れば良いのだが…。

ともあれ、劇場版「相棒」に期待いたしましょう。

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