「ランボー 最後の戦場」
(2008年・ミレニアム・フィルムズ/監督:シルベスター・スタローン)
S・スタローンのヒット・シリーズ「ランボー」の20年ぶりの続編。スタローンもう1本の人気シリーズの(今のところ)最終作「ロッキー・ザ・ファイナル」に続き自ら脚本・監督も手掛けている。
本作の舞台は、軍事政権が支配するミャンマー(旧ビルマ)。軍政府の圧政に対し、反政府運動が頻発している、政情不安定な国である(ジャーナリストの長井健司さんが殺害された事は記憶に新しい)。シリーズ3作目ではアフガニスタンに侵攻したソ連を敵に設定しており、本シリーズに限らないが、実在する国家を堂々悪玉に仕立てるのは、アメリカ映画ならではである。
物語は、タイでひっそり暮らすランボーの元に、アメリカからやって来たNPOキリスト教支援団が、ミャンマーで政府に迫害されている部族(カレン族)に医療品を届けるため、船で現地まで送って欲しいと依頼する所から始まる。支援団の一員サラ(ジュリー・ベンツ)の真摯な姿に心を動かされ、海賊の襲撃をかわしながら何とか彼らを目的地に送り届けるが、支援団は軍に拉致され、今度はその救出に雇われた5人の傭兵を現場へ送ることになり、ランボーはまたしても戦いに参加する事となる…。
「ランボー」1作目(82年)は、デヴィッド・マレルの小説「一人だけの軍隊」(原題:First Blood)の映画化である。ベトナム戦争で殺人マシンとして訓練され、過酷な捕虜体験がトラウマとなって、帰国しても心が落ち着く事のないランボーの孤独な戦いぶりを通して、戦争が終わっても、帰還兵の心の傷は容易に癒せない点を鋭く描き、アクション映画でありながらもこの映画は、鋭い戦争批判をも盛り込んだ秀作となった。
その後に作られた2作目、3作目は、マッチョなスーパー・ヒーロー・アクションの色が濃く、1作目のテーマはかなり後退して、ヒーローがただ暴れまわる大味なアクション映画に堕していた感がある。
ところが、4作目となる本作では、戦うべき相手が、人民を虐げる残虐な政府軍(現実のミャンマー軍事政権の実態をかなり反映)になった事で、方向性が1作目のテーマ(戦争の愚かしさと空しさ)にほぼ回帰したものとなっている。
それを端的に表わしているシーンがある。支援団を目的地に送る途中で、ランボーが海賊を一瞬のうちに皆殺しにした時、団のリーダー、マイケル(ポール・シュルツ)が「なんて事を!人を殺してはいけない」とランボーをなじる。それに対しランボーは、「これが戦争なんだ!」と突っぱねる。
ところが最後、おぞましい地獄絵図を体験したマイケルは、自分を殺そうとした兵士を殴り殺してしまうのである。―戦争は、人の心を荒廃させ、悪鬼に変えてしまうものである事を示す、実に皮肉なシーンである。丘の上からその姿を冷ややかに見つめるランボーに、マイケルはただ立ち尽くすのみである。
ストーリーはいたってシンプルである。捕らえられた人々を救出する為、ヒーローが大活躍し、最後に悪の軍隊は全滅する。…作り方によってはカッコいいアクションものになってしまう所であるが、スタローンはそんな作品にしたくない為、あえて殺戮シーンをリアルに、残虐に描いている。戦争で人を殺すという事は、これほどに残酷で、凄惨な事なのだ、という点を強調しているのである。
ところが、そのリアルに描かれた人体破壊シーンが、残酷で正視に耐えないとして、作品そのものを否定的に評価する人がいる(しかもおエラい評論家にも少なくない)のにはガッカリとした。
戦争で、弾薬が体に当たったら、爆薬が破裂したら、人体が破壊するのは当たり前である。平和ボケした日本で、フカフカした椅子に座ってデレーっと映画を観てるからそんな事が言えるのである。
今この時にも、世界のどこかで、無数に埋められた地雷で、いたいけな子供たちが足を吹き飛ばされている。米軍の投下する爆弾で、テロ攻撃で、人の体が肉塊となって飛び散っている。クラスター爆弾が1発炸裂したら、首が、手がバラバラに吹き飛ぶのである。…それが現実の姿である。
目をそむけてはいけない。そんな地獄絵を作り出しているのが、他ならぬ我々人間である事を認識すべきである(なお、スタローンはミャンマーの現状を徹底リサーチし、実情は映画よりもっと残酷だと言っている。映画に登場する手足がない子供たちは、実際に地雷で手足を吹き飛ばされたカレン族の子供たちである)。
「ソルジャー・ブルー」(70・ラルフ・ネルソン監督)という映画をご存知だろうか。ラスト間際、騎兵隊の兵士たちがインディアン部落を襲い、大虐殺が始まるのだが、女を裸にひん剥き、レイプする、乳房を切り取る、銃弾で人体が破壊される(子供の頭が銃弾で吹っ飛ぶシーンもある)とまあ、当時としては凄惨なシーンで話題を蒔いた。明らかにベトナム戦争でのソンミ村虐殺事件をモチーフにしているのだが、正視に耐えないと言って否定する人などあまりいなかったと記憶している。本作に文句を言う人は、まずあの作品を見てから言って欲しい。
ラストで、ランボーは故国の古里に帰って来る。それは丁度1作目の冒頭シーンと同じである。だが、1作目では心に傷を負い、暗い眼をしていたが、本作ではずっと穏やかな眼になっている。歳を経て、故国を安住の地に選んだのであろうか。ランボーにとってミャンマーが最後の戦場となったのかどうか…。だが、世界から残酷な殺し合いが無くならない限り、ランボーに安住の地はないような気がしてならない。
ミャンマーに平和な日が来る事を祈りたい、これはそんな願いが込められた、スタローン老骨に鞭打った渾身の快作である。直視せよ。 (採点=★★★★☆)
(付記)
冒頭の製作会社ロゴと“ミレニアム・フィルムズ”という会社名、はて、どこかで見覚えが…と考えたら、思い出した。正月に観た秀作「勇者たちの戦場」を作った会社である。
allcinemaでスタッフを調べたら、やはり“製作”としてクレジットされている人たちのうち、アヴィ・ラーナー、ジョン・トンプソン、ランドール・エメット、ジョージ・ファーラ、トレヴァー・ショート、ボアズ・デヴィッドソン(なんと懐かしや、イスラエル版アメ・グラ「グローイング・アップ」シリーズの監督じゃないですか)といった面々が両方の作品のプロデューサーを兼ねている。
「勇者たちの戦場」も、帰還兵たちの心に負った傷の深さを描いている点で、「ランボー」1作目とテーマはかぶっている。戦闘シーンもかなりハードでリアルである(詳細は作品評参照)。
すなわち、「勇者たちの戦場」という、骨っぽい反戦映画(こちらも、今も多くの人たちが爆弾で傷ついているイラクが舞台)を製作した人たちが、本作にも関わっている事を知れば、余計本作のテーマが鮮明に浮き上がるであろう。「勇者たちの戦場」という映画の事も、是非頭に入れて欲しい。
その作品の監督が、アーウィン・ウィンクラーである。なんと、スタローンのもう一つのシリーズ、「ロッキー」全作のプロデューサーである(当然、「ロッキー・ザ・ファイナル」の製作総指揮も担当)。ますます両作品は縁が深いと言えるだろう。
(さらに、お楽しみはココからだ)
本作のリアルな銃撃戦描写で連想するのは、バイオレンス派の巨匠、サム・ペキンパー監督による西部劇の傑作「ワイルドバンチ」である。
おそらくは西部劇で初めて、銃弾が体に当たると体から血が吹き出るシーンが登場した作品である(前述の「ソルジャー・ブルー」のバイオレンス描写は明らかにこの作品の影響)。
拉致された仲間を数人で救出に向かう設定といい、政府軍の只中に乗り込み、相手の機関銃台座を奪って、主演のウイリアム・ホールデンが機関銃を乱射するシーンといい、銃撃で夥しい血糊が噴出するスプラッター描写といい、本作のクライマックスとよく似たシーンが続出する。ついでに主人公が老骨に鞭打って奮闘するジイさんである点(笑)も共通してると言えようか。
おそらくはスタローンも、この作品が頭にあったに違いない。歯を喰いしばって機関銃を乱射する顔つきまで似ている(笑)。
おまけに、あわやこれまでか…と思ったその時、反乱軍部隊が救援に駆けつける呼吸は、「駅馬車」(ジョン・フォード監督)に代表される、主人公が危機一髪の時に騎兵隊が駆けつける西部劇の典型パターンを思わせる。
そんな具合に、本作の展開はいろんな西部劇(「ソルジャー・ブルー」も含めて)からアイデアを頂いている気がするのである。
そう言えば、1作目にしても、いろんなサバイバル術と、ゲリラ的奇襲戦法で保安官たちを悩ませるランボーの行動が、グレゴリー・ペック主演の西部劇「レッド・ムーン」(ロバート・マリガン監督)の姿なきインディアン(当時はベトコンの隠喩と言われた)の行動と似てるな…と当時思った事を思い出した。ランボーは弓矢(これもインディアンの道具)も使うし…。ひょっとしてスタローンは西部劇ファン?(笑)
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コメント
こんにちは。
いつもありがとうございます。
この映画、観たとき即座に『ワイルドバンチ』が頭に浮かびましたが、
以後、そのことに触れていられるレビューにまったく出会わず、
あれっ、ヤバかったかなと思っておりましただけに、
我が意をえたりという感じです。
しかもラルフ・ネルソンの『ソルジャー・ブルー』まで引用されたときには、
記憶の奥深くあの縛られた女性の後ろ姿のポスターが甦り、
思わずゾクゾクしました。
ロバート・マリガンの『レッド・ムーン』にジョン・フォード『駅馬車』。
なるほど西部劇ですね。
投稿: えい | 2008年6月 1日 (日) 09:23