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2008年6月30日 (月)

「山桜」

Ymazakura

(2008年・東京テアトル/監督:篠原 哲雄)

藤沢周平の同名短編小説(「時雨みち」所収)の映画化。

藤沢作品の映画化は、山田洋次監督による3部作や、黒土三男監督「蝉しぐれ」などがあるが、いずれもが男性側からの視点で描かれていたのに対し、本作は“女性側からの視点”で描かれている点が目新しい。

舞台はいつもの海坂藩。主人公・野江(田中麗奈)は、最初の夫に死に別れ、2度目の夫は舅共々金貸しの蓄財にしか興味がない下衆な男。姑(永島瑛子)からも「出戻り」と蔑まれながらも健気に耐えている。が、叔母の墓参の帰り、山道で見つけた美しい山桜に心惹かれ、取ろうとした枝に手が届かない野江の背中に「手折ってしんぜよう」と声をかけた侍がいた。彼こそ、密かに野江に思いを寄せていた手塚弥一郎(東山紀之)だった。…

原作は、すごく短い作品で、立ち読みしてもすぐ読める(私は10分で読んだ(笑))。これを99分の映画にする為には、いかにサブエピソードを追加創案して物語を膨らませるかが脚本家の腕の見せ所となる。

脚色は飯田健三郎と長谷川康夫。この2人は「ホワイトアウト」「亡国のイージス」「ミッドナイト・イーグル」と、スケールでっかいポリティカル・サスペンスを手掛け、いずれも原作よりずっとつまらない出来でガッカリさせてばかり。
しかし一方で飯田は田中麗奈主演の「EKIDEN/駅伝」の原案、長谷川は篠原哲雄監督の「深呼吸の必要」と、いずれも青春ものの佳作があり、資質としてはこうした青春ものの方が向いているのでは…という気がする。

篠原哲雄監督も、作品の出来にムラが多い人だが、田中麗奈主演「はつ恋」(2000年)という傑作を作った実績があり、久しぶりの田中麗奈とのコンビに期待する所があった。

出来映えとしては、名匠・山田洋次作品には及ぶべくもないとしても、脚本・演出ともなかなか健闘している。

傑作と言えるほどの出来ではないが、“佳作”と呼ぶのがピッタリの、ウエルメイドな作品である。

 

野江の実家の人たちとのさりげない会話で、この家族がいずれも心やさしくつつましく、それによって、婚家先のイジメにも、不幸な運命にもじっと耐える野江の芯の強さが十分納得出来るよう配慮されている。さまざまなエピソードを積み重ね、野江の、弥一郎への思いがゆっくりと醸成されて行く展開にも無理がない。

弥一郎に扮する東山紀之が、凛とした侍の立居振舞いを絶妙に演じている。農民に同情を寄せ、その農民たちを苦しめる藩の重臣に怒りを感じ、とうとうこの重臣を斬り倒す。―しかし無益な殺生はしない。取り巻きたちには峰打ちを食らわすのみである辺りに、弥一郎の下級侍なりの信念と潔さとが示されている。

春から始まり、四季の移り変わりをロケで丁寧に描き、そしてまた春が訪れる。
野江が、1年前に弥一郎が折ってくれた、あの山桜をたずさえて弥一郎の母を訪ねるラストシーン。ほんのわずかの登場であるが、その母を演じる富司純子の気品溢れるたたずまいが絶品である。

それらに重ねて、藩主が江戸から戻って来る、土手の大名行列(いい絵である)と、獄中の弥一郎の姿とを交互に描き、あるいは弥一郎への沙汰も軽いのではないかと暗示させてはいるが、結末の判断は観客に委ねられている。

野江と、弥一郎の母との幸せそうな触れ合い。…弥一郎の沙汰がどうあろうとも、野江にも、ようやく遅い春が訪れた事を示すラストショットにふと涙が溢れ、物語を爽やかに締めくくる。

野江の母を演じる壇ふみも、娘の行く末を温かく見守る慈愛に溢れた母親像を好演。父親役の篠田三郎も短い出番ながら印象的。

惜しいのは、弥一郎に関するエピソードがやや物足りなく、死罪になるのを承知の上で(野江に抱いているであろう、密かな思いを断ち切ってまでも)彼が重臣に手をかけた、その心の葛藤がきちんと描かれていない。また、獄中の弥一郎が髭も頭の月代も全然伸びていない…という手抜きは問題(山田洋次はその点はオーバーな程徹底している(笑))。
――まあここは、牢屋番役人も弥一郎に同情的で、剃髪も自由にさせていたと善意に解釈出来なくもないが…。

もう一つ、一青窈の主題歌の使い方がまるで場違い。物語の雰囲気が台無しである。使うならエンドロールだけにして欲しい。

 
そういった難点はあるものの、全体としては、短いながらも珠玉の好編である原作の香りを損なう事なく、丁寧な作りで、観終わって爽やかな余韻を残す佳作に仕上がっており、いい気分で映画館を後にした。

篠原監督としても、「はつ恋」に次ぐ出来栄えで、田中麗奈とのコンビはウマが合うのではないか。
奇しくも、「はつ恋」と同じく、“桜の木”が重要なアイテムになっているのは、偶然なのかどうか…。    (採点=★★★★☆

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2008年6月26日 (木)

「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」

Indyjones (2008年・パラマウント/監督:スティーヴン・スピルバーグ)

'80年代に、ジョージ・ルーカス+S・スピルバーグという2大ヒットメイカーがタッグを組んで作り上げた人気シリーズの、19年ぶりの復活。

アメリカ映画界も、ヒット・シリーズがなかなか誕生せず、昔の名前を引っ張り出して化粧直しするケースが相次いでいる(「スーパーマン」、「ロッキー」、「ランボー」、「ダイ・ハード」等々)。

ルーカス・フィルムも、「スター・ウォーズ」が終了して稼ぎ頭がなくなった為か、とうとうしまい込んでたお宝を、倉庫から取り出す事になったようだ。

前記に挙げた作品群と異なるのは、このシリーズのみ、製作・監督・主演のトリオにまったく変更がない…という点。こんなケースは、あと「男はつらいよ」以外に思い当たらない(笑)。ブランクこそあれ、第1作から数えて27年!年数に関しては寅さんを追い抜いてしまった。そして、クオリティも27年前と、全くと言っていいほど変わっていない。凄いことである。

私は、1作目から全シリーズをリアルタイムで観ている。1作目が登場した時は、ルーカス、スピルバーグ両人の大ファンであったから、公開を心待ちにして、封切られるや真っ先に観に行った。そして、予想を遥かに上回る面白さ、楽しさに大喝采を送った。これぞまさに、娯楽映画の原点、波乱万丈冒険大活劇そのものであった。理屈抜きに楽しくて、余計な思想も、ウエットさも、思わせぶりなテーマも、何にもない。さらには、古い映画からの引用、オマージュもてんこ盛り。古くから、沢山の映画を観て来た、根っからの映画ファンであるほど楽しさは倍加する、これは、“すべての映画ファンに捧げる、王道を行く真の娯楽映画シリーズ”なのである。

 
さて、そんなわけで復活したシリーズの新作。今回は経過した年数と同じだけ時間も経過し、舞台は前作から19年後の1957年

映画は、シリーズのバックボーンである、昔からある“宝探し冒険活劇”(有名なのはH・ライダー・ハガード原作「キング・ソロモンの宝窟」などの一連の作品)のパターンを忠実になぞっている。
ヒーローがいて、美女がいて、悪辣な敵が邪魔をし、グロテスクな生き物が襲って来て、宝を守るトラップに悩まされ、最後はハッピーエンド…とまあ、お約束通りに話は進む。

これを、「毎回同じような話で飽きる」とか「ワンパターンでつまらない」とかで批判する人もいるだろうが、こういうB級娯楽映画はワンパターン結構、一難去って又一難、ハラハラドキドキ、楽しませてくれればよいのであり、観る方も、毎回頭を白紙にしてどっぷり画面に浸って楽しむべきである。「男はつらいよ」だって、毎回ワンパターンながら、それを承知で、観客は映画を楽しんでいたのである(笑)。

その代わり、随所に細かいネタが仕組まれており、最初はスリル満点のアクションとサスペンスを堪能し、後は細部の小ネタを反芻すれば余計楽しめる。無類の映画好きのお二人が製作・監督してるのだから、小ネタも半端ではない。'50年代が舞台という事もあり、自身の「アメリカン・グラフィティ」から「バック・トゥ・ザ・フユーチャー」などのセルフパロディ、当時無数に作られたB級活劇(H・R・ハガード原作「キング・ソロモン」も1950年に映画化・公開された。主演はスチュアート・グレンジャー、デボラ・カー)のエッセンス、また、時代背景として、当時の大国・ソ連の脅威、それに伴う赤狩り旋風、核実験…等の時事ネタも巧みに取り入れられている。

(ここからややネタバレがあります。ご注意ください)
インディが核実験に巻き込まれ、冷蔵庫に入って助かるシークェンスが、認識不足だとかありえないとか叩かれているが、親日家のスピルバーグが核の怖さを知らない訳がなく、ましてやハリソン・フォードは、ソ連の原子力潜水艦の放射能漏れ事故の実話を題材とした「K-19」に主演している。

あれは、当時の核に対する政府のインチキ・プロパガンダに対する皮肉なのである。

それを証明するのが、冒頭、意味ありげに映される「アトミック・カフェ」の看板である。
「アトミック・カフェ」とは、'82年に公開された、核実験に関するドキュメンタリー映画で、政府が作ったプロパガンダ・フィルム等が引用され、「原爆が落ちたら机の下に隠れなさい」(笑)などのいいかげんなPRがされていたり、兵隊たちが実験直後の爆心地に防護服もなく入って行ったりと、まあ当時の認識とはその程度だったのである。「放射能はブラシでコスれば落ちる」という発想も、当時ではごく自然だったのかも知れないのである。

まあしかし、アメリカ人には大笑いできるギャグだろうが、日本人―特に被爆者の身内―にとっては、やはりいい気はしないだろう。日本向けには、考えて欲しかったところである。

さて、ラストのSFネタも賛否が分かれている。早い話、H・R・ハガードなどの冒険活劇、あるいは、宇宙に飛び出したとは言え、007・ジェームズ・ボンドものに宇宙人が登場するか、という事になるだろう。

まあこれは、宇宙人大好き…のスピルバーグ(「未知との遭遇」「E.T.」)ならではの展開で、また、かならずしも冒険活劇だからと言って、SFネタはご法度…という事もないのである。

山川惣治…という、わが国有数の冒険絵物語作家が書いた「少年ケニヤ」は名作だが、一応前半はアフリカの秘境を舞台とした冒険物語なのに、後半ではナチスが原爆を開発し、それが爆発して時空がねじれ、原始時代と現代とが繋がって恐竜が現れる…といったトンデモSF的展開となる(笑)。

そういう前例もあるから、ロズウエル事件やら、宇宙人と出会った…というアダムスキーの円盤遭遇事件などが世間を賑わした'50年代なら、さもありなん…と妙に納得してしまうのである。とにかく、1950年代とは、そうした時代だったのである。

―まあどうせ、盛大なホラ話、ここは難しく考えず、気楽に楽しめばいいのかも知れない。

1作目を知っている人にとっては、懐かしやカレン・アレンの再登場にジンと来るかも知れない。そして冒頭の倉庫にひっそりしまわれた<聖櫃>にニヤリとするのも一興。

65歳になろうとするハリソン・フォードは、さすがにアクションはやや控え目だが、よく頑張っている。冒頭、ソフト帽を被る姿がシルエットで写るシーンにはジンと来た。

そんなわけで、細かい点で難点はあろうとも、冒険大活劇のヒーローが、昔変わらぬ姿で元気に帰って来た…それだけで映画ファンは満足すべきである。ラストで、まだシリーズは続く…と匂わせているが、宇宙人まで出して、もうネタも尽きたのでは?次があるなら、出来ればSFネタは勘弁して欲しいところである。    (採点=★★★★

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(で、お楽しみはココからだ)
舞台となった1957年とは、ある意味で重要な年である。

この年の10月4日、世界で初めて人工衛星が宇宙に向かって打ち上げられた。宇宙時代の幕開けである。

打ち上げたのはソ連。人工衛星の名前は“スプートニク1号”。米ソがしのぎを削っていた時代に、先を越されたアメリカは大ショックを受けた。

ショックはまだ続く。その翌月11月には、史上初めて、生き物を乗せた人工衛星、スプートニク2号が打ち上げられる。乗っていたのは“ライカ”という種類のワンちゃん。

これがきっかけで、翌1958年、アメリカ航空宇宙局(NASA)が誕生し、アポロ計画のスタートへと繋がって行くのである(出典は"Wikipedia"による)。

これでお気付きだろう。この大イベントのキーワード、“ソ連との対立”、“宇宙への旅立ち”、“犬”が、それぞれ本作の重要なモチーフにもなっているのである。

“犬”について補足すると、冒頭パラマウント・マークに似た盛り土から顔を出したのがプレーリードッグ。続いて車に乗った若者たちがカーラジオから流している歌が「ハウンド・ドッグ」。インディ(これも犬の名前)の息子の名前が、やはり雑種犬という意味の“マット”(007第2作「ロシアより愛をこめて」の主題歌を歌ったのはマット・モンローである。関係ないか(笑))。

こうした、意識的な犬づくしは、恐らくは'57年という年の歴史に残る“ライカ犬”にちなんでいるに違いない…というのが私の独断。もう一つの根拠は、ライカ犬のアメリカでのニックネームが“マットニク”なのである(これも"Wikipedia"に掲載)。

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2008年6月22日 (日)

映画の本「冬のつらさを -加藤泰の世界」

Fuyunoturasawo 私の30数年来の友人で、ヨコハマ映画祭代表を務める 鈴村たけしさんの執筆による、映画監督・加藤泰の全作品についての解説・作品論をまとめた「冬のつらさを -加藤泰の世界」(ワイズ出版・刊)が発刊された。
今回はこの本についての感想を…。

鈴村さんは知る人ぞ知る、日本有数の熱烈な加藤泰ファンである。13歳の時、加藤監督の「瞼の母」(62)を観て加藤泰作品にハマったそうである。錦之助主演「沓掛時次郎・遊侠一匹」(66)を生涯のベストワンと決め、同人誌にその思いを熱く書き綴り、遂に本人に会う為、遠路はるばるヨコハマから京都まで出かけて行ったり、長時間のインタビューを行って同人誌に掲載したり、その熱意には敬服しきり。数年前にはワイズ出版の「日本カルト映画全集」の1冊として、「沓掛時次郎・遊侠一匹」を責任編集している。

そうした、加藤泰ラブコールの集大成(?)として刊行されたのが本書である。

加藤泰に関する書物としては、ほとんどバイブルとも言える、山根貞男編著による「遊侠一匹・加藤泰の世界」(70・幻燈社)をはじめ、リュミエール叢書「加藤泰、映画を語る」(94・筑摩書房)、「加藤泰映画華」(95・ワイズ出版)、三村晴彦著「『天城越え』と加藤泰」(04・北冬書房)などいくつかあるが、いずれも、加藤泰自身が語っていたり、プロの評論家やゆかりの映画作家たちが書き記したものばかりで、1人で、加藤泰の全作品について作品論を展開したものはこれが初めてであろう。
それを、プロではなく、1熱烈映画ファンが作り上げてしまったのである。しかも堂々、映画関係書を多く刊行しているワイズ出版・刊…である。空前の快挙と言えるだろう。

決して仲間褒めからではなく、これは本当に素晴らしい本である。加藤泰作品に対する、熱い思い入れが伝わって来て、ジンと心に響く。
鈴村さんが最も愛する作品「沓掛時次郎・遊侠一匹」論は、同人誌に掲載されたものも読ませていただいてるが、やはり何度読んでも心うたれる。その他では、「瞼の母」、「みな殺しの霊歌」、「丹下左膳・乾雲坤龍の巻」についての一文も読み応えがある。これほど熱意のこもった作品論は、評論家の文章にも類を見ない。
鈴村さんが、加藤泰本人からお聞きになった事もうまく織り込まれており、加藤泰研究家にとっても資料的価値は大きいと言えるだろう。

褒めてばかりだと贔屓の引き倒しになってしまうので、一つだけ不満を。

加藤泰が、生前映画化が適わず、幻の企画となった「好色五人女」についても書かれてあるが、加藤泰に協力し、この作品の映画化に執念を燃やしていたもう一人の映画人について触れられていない。

その人は、奇しくも先般亡くなった映画評論家の水野晴郎氏。

水野さんは、余程の映画通以外には知られていないが、もっとも早い時期に加藤泰監督を評価した映画評論家なのである。

キネ旬はじめ、いくつかの映画雑誌に、本名の水野和夫名義で加藤泰論を発表している。東映任侠映画についても、熱いオマージュを捧げて来た人である。

テレビの解説で有名になってからは、ほとんどそうした活動は見られなくなったが、「好色五人女」の映画化には加藤さんの生前から尽力されており、その証拠として、一部古書店に出回っている、同作品のシナリオには、“脚本/加藤泰、企画・原案/水野晴郎”とはっきりと書かれてある。
→  http://search.newgenji.co.jp/sgenji/D1/?000105830600/

水野さん自身も、いくつかのインタビューで、「好色五人女」を映画化したいと熱く語っていた。市川崑に監督を依頼しようともしたらしいが実現しなかった。

体調を崩されてからも、「『好色五人女』を映画化するまでは、絶対に死ねない!」とも語っている。
→  http://auctions.yahoo.co.jp/html/entget/200401/sibeex/interview1b.html

この事も、是非書いて欲しかった。そうすれば、この本の出版日(6月17日)の丁度1週間前に亡くなった水野さんの、絶好の追悼にもなった事だろう。

まあそれは私の無いものねだり。この本の価値が下がる事はいささかもない。

映画ファン、特に加藤泰ファン、古い日本映画ファンには是非お奨めしたい1冊である。

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2008年6月15日 (日)

「僕の彼女はサイボーグ」

Sybogue (2008年・ギャガ/監督:クァク・ジェヨン)

「猟奇的な彼女」「僕の彼女を紹介します」の韓国監督・クァク・ジェヨンが脚本・監督を手掛けた、タイムトリップ・ラブストーリー。

今回は舞台も、登場人物もすべて日本であり日本人。しかし登場人物のキャラクターや展開はほとんど前2作と同工異曲。そのシチュエーションに、タイムトリップとアンドロイド・ネタをまぶしただけ(て言うか、ほとんど「ターミネーター」+「猟奇的な彼女」であるが)。

設定は面白い。ことによったら、感情を持たないアンドロイド(タイトルやセリフに“サイボーグ”とあるが、どう見てもサイボーグじゃない。こういうデタラメなタイトルはやめて欲しい)が次第に学習し、人間の感情を学んで人間の主人公ジロー(小出恵介)との間に愛が生まれる…という感動の物語が誕生するかと期待した(「ターミネーター2」も、シュワ扮するT-800が人間の感情を学習する感動的な物語であった)。

ところが…タイムトリップの設定がムチャクチャであるうえに、アンドロイドの彼女(綾瀬はるか)が学習するプロセスも全然描かれてない。行き当たりバッタリの辻褄が合ってない展開に強引なオチ…と、突っ込みどころ満載。脚本がひど過ぎる

て言うか、この監督、タイムトリップ・パラドックスについて不勉強過ぎる。もっとロバート・A・ハインラインの「夏への扉」とか「輪廻の蛇」、広瀬正「マイナス・ゼロ」、藤子・F・不二雄「ドラえもん」、手塚治虫「キャプテン・ケン」等のタイムトラベルものの秀作を読んで勉強して欲しい。

(以下、ネタバレがあるが、予告編にも出て来るから隠すほどのものでもない。読みたくない人はパスしてください)
一番説得力のない展開…東京に大地震が発生し、彼女のおかげで危機一髪、助かるのだが、彼女が未来から来て、ジローに起こる災難を前もって知ってるなら、なんで地震発生の前にジローを田舎にでも疎開させない?

それどころか、ジローが、自身が体験した、他人に起きる事故や災厄に心を痛めているのであれば、地震が起きる事を知らせて、少しでも多くの都民を東京から脱出させておくべきではないか。たかだか自動車事故や立て篭もり事件で人助けするより、遥かに多くの人命を救えるではないか

機銃乱射事件で半身不随となるところを彼女のおかげで助かり、歴史が変わったが、いわゆるタイムパラドックスで言う、揺り戻し現象別の事故が起きる…という事はとりあえず説明されてるけど、それは通常、歴史上でほとんど目立たない程度のものであって、ジローが助かった程度であんな未曾有の大地震が新たに発生したりはしない。地震が発生した事は、未来においては歴史上の周知の事実であるはずなのだ。…で、結局半身不随にはならなかったのだから、以前に言ってる事とまた矛盾してる。支離滅裂である。

結局は彼女が地震で潰されてしまい、ジローが号泣する…という泣かせの展開にもって行く為の無理矢理な設定でしかない。
ついでに突っ込んでおくが、瓦礫に埋まった彼女を、ブルドーザーも使わず、素手で掘り起こして見つけてしまったのには唖然呆然。ジローもアンドロイドかいっ!

その後の展開も辻褄が合わない。壊れた彼女を数十年後まで保管して修復した…というのはいいが、2008年の過去に送ったアンドロイドの彼女はどうした?
修復した彼女は未来まで存在するのだから、それとは別に同じ顔したアンドロイドを作ったうえ、彼女を過去にタイムスリップさせなければ、ジローは半身不随か、大地震で命を失ってるはずなのだ。この大事な設定を未来においてまったく描いていないのもいいかげんである。

さらに、100年後において、自分と同じ顔したアンドロイドを見つけた生身の彼女が、2007年にタイムスリップしてジローに会う…という展開も、取ってつけたようで強引。

まあこれは許すとしても、その彼女が目撃した、荒っぽい誕生祝い(ケーキに顔を埋める、シャンパンをぶっかける)を、2008年に現れたアンドロイドの彼女がなんで知ってるのか?アンドロイドの記憶が生身の彼女に転送された事は描かれているが、その逆は絶対にあり得ない。

こういうズサンな脚本を、大勢の日本人スタッフが付いてて、誰も気付かなかったのか?

ジローが彼女に連れられ、10年前の自分に出会うシーンはそれなりにノスタルジックで感動的だが、田舎とは言え、1998年のはずなのに、まるで昭和30年代にしか見えない(ジローが隠していた宝物だってレトロ過ぎる)。

クァク・ジェヨンの演出は、とにかく荒っぽい。もう少しきめ細かく脚本を練り、二人の感情の変化を丁寧に描くべきである。

だが、本作で一番許せない点。それは、冒頭に現れた彼女が、いとも罪悪感なしに、窃盗したり、無銭飲食したり、人の家に石を投げ込んだりするシークェンスで、しかもそれを咎めるどころか、一緒になって犯罪行為に加担するジローの無自覚な行動には呆れる。これでは到底主人公たちに感情移入出来ないではないか。

うまく逃げおおせたけれど、もし警察に捕まったら、ジローの人生が台無しになるではないか。善悪が判断出来ないアンドロイドならともかく、普通の常識ある人間である彼女がなんでそんな無茶をするのか、まったく理解不能である。

ただでさえ、罪悪感なしに万引きをするバカな若者が多い現在、こういう行為をカッコいいかのように描くクァク監督の無神経さは耐え難い。これだけでも本作は大減点である。

クライマックスの大地震のシークェンスが終わった後、ダラダラと余計なエピソードを足したり、冒頭と同じシーンをこれまたダラダラとタレ流す等、とにかく脚本のグチャグチャぶりにはうんざりする。本年度のワースト脚本賞ものである。

まあ見どころを挙げるなら、迫力ある大地震のVFXと、綾瀬はるかのチャーミングなロボット演技くらいであろう。この2点でなんとか救われているが、全体的には今年のワーストを競う駄作である。プロデューサーの責任も重大だが、クレジットを見ればプロデューサーはなんとあの山本又一朗サンである。

かつて、長谷川和彦監督の傑作「太陽を盗んだ男」を手掛け、日本映画界期待の星だったのだが、その後はパッとせず、最近では「あずみ」シリーズを手掛けている程度。私は今でも期待してるのだから、もっと脚本に目を光らせ、ダメな所は徹底して直させ、ちゃんとした映画にしておくれよ。頼むから。      (採点=

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2008年6月13日 (金)

「ザ・マジックアワー」

Magichour(2008年・フジTV=東宝/監督:三谷 幸喜)

舞台・テレビで活躍する名脚本家、三谷幸喜の、「THE 有頂天ホテル」に次ぐ、4本目の劇場映画監督作品。

前作は興行的には大ヒットしたが、作品的にはゴチャゴチャし過ぎてしまりのない作品になっていた(どこがダメかは作品評を参照のこと)。

今回はその点を反省したのか、絶体絶命の危機を、知恵を絞って乗り越える…という、三谷コメディお得意のパターンを取り入れ、スリリングで楽しい作品に仕上がっている。出来としては4作の中では、1作目の「ラヂオの時間」に次いで面白い。

特に今回は、大の映画ファンである三谷幸喜らしい、映画にまつわるお話で、いろんな映画のパロディやらオマージュやらもてんこ盛り。また過去の三谷作品も彷彿とさせるストーリー展開で、三谷ドラマ・ファンにとっても応えられない快作になっているが、映画ファンなら、なおさらあちこちに仕掛けられたお楽しみを見つけて楽しむ事も出来る、1粒で2度も3度もおいしい作品に仕上がっている。

舞台は小さな港町・守加護(すかご)。暗黒界のボス・天塩(西田敏行)の愛人・高千穂マリ(深津絵里)に手を出してしまった、クラブ「赤い靴」のオーナー備後登(妻夫木聡)は、命の代償に伝説の殺し屋“デラ富樫”を探し出さなければならなくなる。期限が迫ってもデラを見つけ出せない備後は窮余の策として、無名の三流役者・村田大樹(佐藤浩市)を雇い、映画の撮影と称して村田をデラに仕立てあげ、天塩をだます作戦を敢行するが……。

まず楽しいのが、天塩に扮した西田敏行。「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドにソックリで、彼の演技を見るだけでも笑える。佐藤浩市も、クサい演技で映画会社から相手にされていない三流役者をコミカルに演じてこれも見応えあり。ちなみに、前作「THE 有頂天ホテル」では、佐藤は汚職事件で雲隠れの悪徳代議士、西田が自信喪失の芸能人…と、ほぼ役柄がチェンジしている点にも注目。

映画の撮影だと思い込んでる村田(佐藤)が、本物の暗黒街のボスを相手に、オーバーな演技で備後をハラハラさせる展開が楽しい。映画用語も交え、微妙にズレてる村田とボス一味との会話、それを慌てながら繕う備後…この掛け合いが三谷脚本の絶妙な味。たまたまロケ中のCM撮影班のカメラをちゃっかり拝借し、映画撮影である事を信用させようとするが、これが後の伏線になってる辺りもうまい。

(以下ややネタバレ、隠します)
ようやく、映画の撮影じゃない事が分かり、あとは知ったことかと憤然と街を出ようとした村田が、街の映画館で上映した、自分が映っているCMのラッシュ・フィルムを見て、感動のあまり泪を流し、もう一度、一世一代の大芝居で天塩たちを引っ掛けようとする展開は、「スティング」のパロディになるかと思ったが、さらに捻ったオチになっている。ただこのラストは、捻り過ぎてあまり成功しているとは言い難い。そもそも、あれだけボスを嫌っていたマリが、なんでボスの元に戻るのか釈然としない。

その後登場する本物のデラ富樫も、なんかパッとしない。ここにこそ、もっと意外な大物スターを使うべきではなかったか(例えば、ゴルゴ13を演じた千葉チャンだったら最高なのだが)。ヘナヘナと逃げて行くのも拍子抜け。そもそも本物のデラは、ニセモノがいると分かった時点で怒り狂ってるわけだから、もっと早く登場すべきではないのか。そこらが説得力に欠ける。
↑ネタバレここまで

そんなわけで、中盤までは面白かったのだが、最後のツメがやや物足りない出来になっているのが惜しい。

突っ込みどころもいくつかあり(例えば、CM撮影のラッシュ・フィルムは東京に帰って現像所の試写室で上映するもので、ロケ地の港町の、しかも映画館で上映する事などあり得ない)、またテンポが冗長で、2時間16分は長い。この物語ならあと30分は短く出来るはずである。
厳しい言い方になるが、三谷さんは脚本家としては超一流だが、映画監督としてはお世辞にも一流とは言い難い。撮影所で鍛え上げられた一流監督が撮ったなら、もっと引き締まった面白い作品になったはずである。

 
しかし、全編に散りばめられた映画ネタは、映画ファンにとってはやっぱり楽しいし、本筋のマイナスをカバーして余りある。故・市川崑監督自身が登場し、自作「黒い十人の女」のパロディ「黒い101人の女」を撮影しているシーンは映画ファン必見である。映画館で上映している古い映画「暗黒街の用心棒」は、「カサブランカ」と、それをパクった裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」のパロディである。ちなみにその併映作として上映されている「暗黒街」は、実際に東宝で作られた昭和31年の山本嘉次郎監督作品である(ポスターには、主演の鶴田浩二、三船敏郎の顔も見える)。その他、映画館内には「野獣死すべし」「100発100中」などの昭和30年代東宝アクション映画のポスターがあちこちに貼られている。

そして、村田が尊敬する「暗黒街の用心棒」の主演俳優、高瀬允が、この街で撮影しているCMのエキストラとして出演しているのだが、その老いた伝説の名優を演じているのが、懐かしや柳沢真一!昭和30年代、日活を中心に多数の映画に出演した俳優であり、またジャズ歌手としても有名。こういう老優を重要な役柄で起用する所にも、映画ファン・三谷のこだわりが感じられる。

そういうわけで、この作品は映画作品としては物足りないものの、昭和30年代の映画全盛期から映画を観ている人は特に必見の、映画への愛に満ち溢れている、映画ファンの為の映画なのである。映画作品としての採点は★★★くらいだが、そうした映画ファン向けサービスをプラスして、総合評価はおマケしておこう。  (採点=★★★★

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(さて、お楽しみはココからだ)
この映画のプロットは、“売れない役者が、ある策略の為、ニセモノになりすまし、地方都市にやって来る”というものだが、実は三谷幸喜作品には、同じプロットの作品が既にある。

平成12年にフジテレビで放映された「合い言葉は勇気」がそれで、昔、賞をとったことがあるが、いまでは落ちぶれている売れない役者、暁仁太郎(役所広司)が、本物の弁護士と間違われ、地方都市に連れて来られ、自然破壊を企む悪徳企業の手先の老獪弁護士と対決する…というストーリー。

Aikotoba_2暁を連れて来る、村の若い男(本作の備後の役回り)を演じたのが香取慎吾、暁に恋心を抱くヒロインを演じたのが鈴木京香。共に本作にもゲスト出演している。

さらに付け加えるなら、このパターンは三谷のオリジナルではなく、ジョン・ランディス監督のコメディ、「サボテン・ブラザース」(86)が元ネタ。

かつて西部劇のヒーローだったが、今では落ちぶれた俳優3人組が、本物のヒーローと間違われ、メキシコの小さな村にやって来て悪党と対決する…というストーリーで、このパターンはさらに1999年の快作SFパロディ「ギャラクシー・クエスト」にも引き継がれている。

ちなみに、「サボテン・ブラザース」の原題は“スリー・アミーゴス”と言い、この名称は、やはりフジテレビのヒット作「踊る大捜査線」の署長以下3人組のニックネームに流用された。…そのうちの1人を演じた小野武彦が、本作でやはり警察署長を演じているのもまた奇妙なめぐり合わせである。

Sabissinoha_2も一つ連想ついでに、旅芝居の一座が、一世一代の大芝居で、ヤクザのボスをまんまとダマす…という伝説的な傑作テレビドラマ「寂しいのはお前だけじゃない」(82・制作:TBS)とも、プロットはよく似ている。このシナリオを書いたのが、三谷幸喜がもっとも敬愛するシナリオライター、市川森一であり、主演が西田敏行である…というのもまた奇妙な縁である。

この作品とペアをなす同じ西田主演、市川森一脚本の「港町純情シネマ」がまた、舞台が港町映画にまつわるお話…である。あるいは三谷幸喜は、敬愛する作家の、この2本の傑作ドラマからヒントを得て、本作のシナリオを書いたのかも知れない。そう言えば、「港町-」の1エピソードで、上映中の「地獄の黙示録」を見て、西田がマーロン・ブランドの物真似をするシーンが妙に忘れられない。機会があれば、是非ご覧になる事をお奨めする。

DVD
「ラヂオの時間」











DVD
「合い言葉は勇気」











DVD
「寂しいのはお前だけじゃない」

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2008年6月10日 (火)

「丘を越えて」

Okawokoete (2008年・ゼアリズ/監督:高橋 伴明)

猪瀬直樹原作による、文豪・菊池寛を主人公にした小説「こころの王国」の映画化。

昭和初期、文壇の中心人物、菊池寛(西田敏行)が社長を勤める文藝春秋社に、小説家志望の細川葉子(池脇千鶴)が入社面接に訪れ、菊池に気に入られた葉子は、菊池の施設秘書として雇われる。やがて葉子は菊池に、そして同社の編集社員である朝鮮人・馬海松(西島秀俊)からも愛されるようになる。

菊池寛は、「父帰る」、「恩讐の彼方に」、「真珠夫人」等の作品で知られる文豪であるが、文藝春秋社の社長をやったり、設立間もない大映映画の初代社長を勤めたりと、経営者としての顔もある多彩な人物である。

西田敏行は、眼鏡をかけ、髪をモジャモジャにすると写真で見る菊池にそっくりである。業績が芳しくないのに仕事中でも将棋に夢中になってたり、オッチョコチョイな所もあったり、温情家で、部下が嘘をついてても、生活が苦しい事を知ると首にしなかったり…その魅力的かつ不思議な人物像を西田が好演。
そんな菊池に惹かれつつも、毅然とした生き方を貫く馬をも愛してしまう葉子を演じる池脇もなかなかの熱演。彼女が次々に着替える、昭和モダン・ガール・ファッションも見どころである(もっとも、そんな高級ファッションをどっさり買えるほど給料貰ってないはず…と突っ込みたくなるが(笑))。

特に楽しいのが、葉子がしょっちゅう口にする、囃子言葉風のセリフ。

「電信柱が高いのも、角のポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ」、「有難(ありがた)山の不如帰(ほととぎす)」、「恐れ入谷の鬼子母神」、「びっくり下谷の広徳寺」等々…

フーテンの寅さんが口にしそうな、江戸下町情緒感あふれる名調子で、これは彼女が下町芸者の娘であるゆえ、周囲から自然に聞かされたセリフなのだろう。昭和初期を再現したセットや小道具も含めて、こうした細部にも気を配った丁寧かつ粋な演出が、作品に脹らみをもたらせ、観客を一時(いっとき)、心地良いノスタルジー世界に浸らせてくれるのである。

葉子の母親・はつ役の余貴美子も、下町芸者を小粋に演じていい味を見せる。ラジオ体操を三味線で伴奏するシーンも楽しい。編集長役の嶋田久作も含め、総じて役者がみんないい。西田は無論のこと、こうしたベテラン役者のアンサンブルを見るだけでも映画は充分楽しいのである。二村定一歌う「君恋し」等の昭和歌謡も中高年世代には懐かしいだろう。欲を言えば、もう少し当時の流行歌をふんだんに聴かせて欲しかった。

後半、雨の中を、葉子を待ち続ける菊池の姿が描かれるが、ここは菊池の豪放磊落なキャラクターとは少しミスマッチな気がする。また葉子を愛しながらも、朝鮮に帰って行く馬海松の心理的変化も判りにくい。せっかくのユニークな題材なのに、安っぽいメロドラマに堕した感があり、もったいない。

映画は、昭和6年の満州事変勃発のニュースがラジオから流れる所で終わる。この事変をきっかけに、日本は暗い戦争の時代に突入するのだが、そんな時代にあって、「丘を越えて」のような底抜けに明るい流行歌が作られていたのが面白い。この歌を主題歌とし、映画タイトルにしたのも、その明るさに庶民のエネルギーを象徴させたかったのかも知れない。

エンディングの「丘を越えて」を全員で歌い踊るシーンは、死んだ人も消えた人もみんな登場する、芝居で言うカーテンコールであり、これはこれで楽しいのだが、しっとりとした作品のムードに対し、そこだけが浮いてる気がするのがやや残念(私は題名を聞いて、てっきりこの歌を大ヒットさせた藤山一郎か、作曲の古賀政男の伝記映画かと思ったよ(笑))。

いっその事、全編を歌い踊るミュージカルにした方が、もっと楽しい映画になったのではないか。まあ真面目な高橋伴明監督では、そこまでのブッ飛びを期待するのは無理だったか。惜しい出来である。    (採点=★★★☆

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(付記)
藤山一郎の歌う「丘を越えて」は、1931年(昭和6年)12月にレコードが発売されている。またこの歌は、同じ12月に公開された映画「姉」の主題歌でもある。

ところが、この映画のラスト、満州事変が勃発したのは同じ年の9月18日。ニュースは遅くともその翌日までに放送されたはずである。

だとすると、この時点では、まだ「丘を越えて」のレコードは発売されていないはずである。従って、葉子とはつがニュースを聞いた後で、「丘を越えて」の歌を三味線の伴奏で歌うシーンは時代考証的にありえないと思えるのだが…。

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2008年6月 6日 (金)

「ミスト」

Mist (2007年・米:ディメンション・フィルムズ/監督:フランク・ダラボン)

「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」という2本のスティーヴン・キング原作による感動の傑作を監督したフランク・ダラボンの、長編としては3本目になるキング原作小説の映画化。

当然ながら、前2作のような感動作を期待したファンも多いだろうが、今回はキングの本領たるホラー映画。それも結構B級テイストであるので、期待した人は面食らうかも知れない(ていうか、グロいシーンも多いから、感動作と思って彼女を連れて入ったら張り手食らうかも知れない(笑))。

(ちなみに、「ショーシャンク-」でブレイクするまでのダラボンは、「エルム街の悪夢3/惨劇の館」「ブロブ/宇宙からの不明物体」「ザ・フライ2/二世誕生」などのB級ホラー映画の脚本家であったりする)

しかしさすがダラボン、並みのホラー映画にはしていない。極限状況下に置かれた人間が、どのように考え、行動し、どのように誤った道を辿るかを丁寧に、しかしかなりシニカルに描いて、観終わって不思議な余韻を残す異色作に仕上げている。

 
凄まじい嵐が吹き荒れた翌日、イラストレーターのデヴィッド(トーマス・ジェーン)は幼い息子を連れてスーパーへ買い出しに出掛ける。軍人たちが慌ただしく街を往来する不穏な雰囲気の中、スーパーの外が突然濃い霧に覆われ、その霧の中から得体の知れない生き物が現れ、人々を恐怖のどん底に陥れる…。

平和に暮らす町の人々を、得体の知れない生き物が襲いパニックになる…というパターンは、特に60~70年代を中心に沢山作られて来た。古典的な名作としては、ヒッチコック監督の「鳥」があり、この作品の恐怖のエッセンスを巧妙に取り入れたS・スピルバーグ監督の「ジョーズ」が大ヒットしてからは、熊だ、蜂だ、ミミズだ、ワニだと動物パニックものが大流行。この辺までは普通の動物だったが、やがては科学実験や廃棄汚染物質によりミュータント化した怪物が襲ってくる「モンスター・パニック」「殺人魚フライング・キラー」(今をときめくジェームズ・キャメロン監督!)、宇宙からやって来た生命体が成長したり、遺伝的変化を起こして人類を襲う「スピーシーズ」「遊星からの物体X」「ブロブ/宇宙からの不明物体」などの作品まで登場するようになる。
ちなみに最後の2本は'50年代に作られた低予算B級SF映画のリメイクであるが、「ブロブ」は前述のようにダラボンが脚本を書き、「遊星から-」は本作冒頭にポスターが登場し、住民の一人がその題名を口にする…といった事からも分かるように、ダラボン監督はこれらB級SF・パニック映画に密かなオマージュを捧げている気配がある。タコのような触手が店員を襲うシーンは、巨大タコがサンフランシスコを襲うハリーハウゼン特撮の名作「水爆と深海の怪物」を思い起こし、ニンマリさせられた。
このシーンがえらくチャチだと文句を言う人がいるようだが、ここはワザと'50年代SF風タッチを狙ってやっているのである。

つまりは、テイストとしては、昔のB級SF・ホラー・パニック映画の現代的復活を試みたと解釈出来、古いSF・ホラー映画ファンほど楽しめる作品なのである。それだけでも充分面白い。

しかしさすが過去にS・キング作品を秀作に仕上げたダラボン、只のホラー映画にはなっていない。

スーパーに閉じ込められた人々が、疑心暗鬼となり、狂信的な宗教信者、ミセス・カモーディ(マーシャ・ゲイ・ハーデン。怪演!)が人々を煽動し、狂気に駆り立てて行ったり、恐怖に耐えかねて自殺する者が出たりする。脱出をめぐっては、意見の対立がとうとう殺し合いにまで発展してしまう。…絶望が、人々を狂気に追いやってしまうのである。

怪物よりも、実は人間そのものが怖い存在なのである。…それは、宗教的な対立や、領土争い、エゴイズムが戦争を生み出し、罪のない人たちが殺されて行く、この歪んだ現代社会の縮図なのかも知れない。

デヴィッドは、人々を誘い、ここから脱出を図ろうとする。名作「ポセイドン・アドベンチャー」のジーン・ハックマン扮する牧師(宗教家!)のように。

(以下ネタバレに付隠します。映画を観た方のみドラッグ反転してください)
昔なら、その行動が正しかった事がラストに証明されてハッピー・エンドとなったはずだが、本作ではなんと、デヴィッドの良かれと思って行った行動が、ことごとく裏目に出てしまう。
ライトを付けた為に、虫や怪物を呼び入れてしまったり、瀕死の被害者の為に薬局に薬品を取りに行こうとして、却って犠牲者を増やしてしまったり、車で脱出を誘った時も、多くの犠牲者を出してしまう。

そして、宣伝で謳われた、衝撃のラスト15分。これぞ最悪の選択である。

伏線として、主人公の息子が父親に「約束して、僕を怪物に食べさせないで」と言うシーンがある。デヴィッドはその約束を守ったわけだが、それが悲劇を生んでしまう。なんともシニカルな結末である。

おまけに、霧が晴れて、軍隊に助けられた人々の中には、最初の方で子供が心配だからと、スーパーを出て行った婦人がいる。

…通常のパニック・ドラマでは犠牲になるはずの行動の方が、すべて正しかったという、なんとも皮肉なオチである。

↑ネタバレここまで

あのラストについては賛否両論のようである。映画にハッピーエンドを求める人にとっては、気分が悪くなるエンディングには違いない。

だが、私は原作を変えてまで、あえてあのラストを選んだダラボン監督の勇気を支持したい。

これがハッピーエンドだったなら、観客はスッキリした気分で映画館を後に出来るだろう。…しかしその場合は、時間が経てば忘れ去られてしまう只のパニック映画の1本になってしまうだろう。

賛否両論が起きるのを承知で、衝撃的な結末を用意する事によって、この映画は忘れられない問題作となったのである。

人間とは、常に間違いを犯す動物なのである。何が正しい判断なのか…それは誰にも分からない。

かの第二次大戦のミッドウェイ海戦において、司令官のちょっとした決断ミスによって、夥しい数の戦死者を出し、日本が敗戦への道を転がりだした歴史的事実。

あるいは、日常生活においても、例えば子供を遊園地に連れて行こうとしてガレージから車を出した時、誤って後輪で子供を轢き殺してしまったケース、または子供に海を見せてあげようとして、波に子供をさらわれて溺死させてしまったケース…等々。子供のためを思ってした行動が悲劇を生んだケースはいくらでもあるだろう。そうした事件で、最愛の子供を死なせてしまった父親は、残された人生をどう生きて行くのだろうか。それは地獄よりも過酷な人生なのかも知れない。

そういった悲劇が、我々の身にふりかからないとは、誰も言えない。そう考えたらゾッとする。これは映画よりもコワい

いったい人生とは、人間の運命とは、生きるとは何なのだろうか…。そういう事をふと思い起こさせ、みんなで考えるきっかけを作ったとしたなら、あの結末を用意した意義は十分にあったと言えるだろう。

そう思えば、ダラボン監督の秀作「グリーンマイル」で、奇跡を起こす大男、ジョン・コーフィが、裁判官という人間が下した誤った判決を運命として受け入れる、あの物語もまた、本作とはテーマとして繋がっているのではないだろうか。

フランク・ダラボン、まったくあなどれない監督である。いや、コワい人である。観ておいて損はない、さまざまな寓意が込められた、異色の問題作としてお奨めしたい。    (採点=★★★★☆

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