「山桜」
(2008年・東京テアトル/監督:篠原 哲雄)
藤沢周平の同名短編小説(「時雨みち」所収)の映画化。
藤沢作品の映画化は、山田洋次監督による3部作や、黒土三男監督「蝉しぐれ」などがあるが、いずれもが男性側からの視点で描かれていたのに対し、本作は“女性側からの視点”で描かれている点が目新しい。
舞台はいつもの海坂藩。主人公・野江(田中麗奈)は、最初の夫に死に別れ、2度目の夫は舅共々金貸しの蓄財にしか興味がない下衆な男。姑(永島瑛子)からも「出戻り」と蔑まれながらも健気に耐えている。が、叔母の墓参の帰り、山道で見つけた美しい山桜に心惹かれ、取ろうとした枝に手が届かない野江の背中に「手折ってしんぜよう」と声をかけた侍がいた。彼こそ、密かに野江に思いを寄せていた手塚弥一郎(東山紀之)だった。…
原作は、すごく短い作品で、立ち読みしてもすぐ読める(私は10分で読んだ(笑))。これを99分の映画にする為には、いかにサブエピソードを追加創案して物語を膨らませるかが脚本家の腕の見せ所となる。
脚色は飯田健三郎と長谷川康夫。この2人は「ホワイトアウト」「亡国のイージス」「ミッドナイト・イーグル」と、スケールでっかいポリティカル・サスペンスを手掛け、いずれも原作よりずっとつまらない出来でガッカリさせてばかり。
しかし一方で飯田は田中麗奈主演の「EKIDEN/駅伝」の原案、長谷川は篠原哲雄監督の「深呼吸の必要」と、いずれも青春ものの佳作があり、資質としてはこうした青春ものの方が向いているのでは…という気がする。
篠原哲雄監督も、作品の出来にムラが多い人だが、田中麗奈主演の「はつ恋」(2000年)という傑作を作った実績があり、久しぶりの田中麗奈とのコンビに期待する所があった。
出来映えとしては、名匠・山田洋次作品には及ぶべくもないとしても、脚本・演出ともなかなか健闘している。
傑作と言えるほどの出来ではないが、“佳作”と呼ぶのがピッタリの、ウエルメイドな作品である。
野江の実家の人たちとのさりげない会話で、この家族がいずれも心やさしくつつましく、それによって、婚家先のイジメにも、不幸な運命にもじっと耐える野江の芯の強さが十分納得出来るよう配慮されている。さまざまなエピソードを積み重ね、野江の、弥一郎への思いがゆっくりと醸成されて行く展開にも無理がない。
弥一郎に扮する東山紀之が、凛とした侍の立居振舞いを絶妙に演じている。農民に同情を寄せ、その農民たちを苦しめる藩の重臣に怒りを感じ、とうとうこの重臣を斬り倒す。―しかし無益な殺生はしない。取り巻きたちには峰打ちを食らわすのみである辺りに、弥一郎の下級侍なりの信念と潔さとが示されている。
春から始まり、四季の移り変わりをロケで丁寧に描き、そしてまた春が訪れる。
野江が、1年前に弥一郎が折ってくれた、あの山桜をたずさえて弥一郎の母を訪ねるラストシーン。ほんのわずかの登場であるが、その母を演じる富司純子の気品溢れるたたずまいが絶品である。
それらに重ねて、藩主が江戸から戻って来る、土手の大名行列(いい絵である)と、獄中の弥一郎の姿とを交互に描き、あるいは弥一郎への沙汰も軽いのではないかと暗示させてはいるが、結末の判断は観客に委ねられている。
野江と、弥一郎の母との幸せそうな触れ合い。…弥一郎の沙汰がどうあろうとも、野江にも、ようやく遅い春が訪れた事を示すラストショットにふと涙が溢れ、物語を爽やかに締めくくる。
野江の母を演じる壇ふみも、娘の行く末を温かく見守る慈愛に溢れた母親像を好演。父親役の篠田三郎も短い出番ながら印象的。
惜しいのは、弥一郎に関するエピソードがやや物足りなく、死罪になるのを承知の上で(野江に抱いているであろう、密かな思いを断ち切ってまでも)彼が重臣に手をかけた、その心の葛藤がきちんと描かれていない。また、獄中の弥一郎が髭も頭の月代も全然伸びていない…という手抜きは問題(山田洋次はその点はオーバーな程徹底している(笑))。
――まあここは、牢屋番役人も弥一郎に同情的で、剃髪も自由にさせていたと善意に解釈出来なくもないが…。
もう一つ、一青窈の主題歌の使い方がまるで場違い。物語の雰囲気が台無しである。使うならエンドロールだけにして欲しい。
そういった難点はあるものの、全体としては、短いながらも珠玉の好編である原作の香りを損なう事なく、丁寧な作りで、観終わって爽やかな余韻を残す佳作に仕上がっており、いい気分で映画館を後にした。
篠原監督としても、「はつ恋」に次ぐ出来栄えで、田中麗奈とのコンビはウマが合うのではないか。
奇しくも、「はつ恋」と同じく、“桜の木”が重要なアイテムになっているのは、偶然なのかどうか…。 (採点=★★★★☆)
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