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2008年7月31日 (木)

「ホットファズ 俺たちスーパーポリスメン!」

Hotfuzz (2007年・英・仏=ユニバーサル/監督:エドガー・ライト)

イギリス発の、スカッと笑えるポリス・アクション・コメディの佳作。

本国イギリスでは、3週連続No.1になりながらも、配役が地味目の為かDVDスルーとなりかけた所を、熱心なファンの2,000件を超えるWEB署名が集まった結果、劇場公開が決まったといういわく付の作品。

いろんな映画の引用が一杯盛り込まれているが、例えば「裸の銃を持つ男」とか「最終絶叫計画」などのおバカ・パロディ満載コメディとは似て非なる出来。
パロディと言うよりは、映画への熱いオマージュとリスペクトに満ちた、知的なブラックジョーク・コメディである。

これは、イギリス作品という所がミソで、イギリスのコメディは、「モンティ・パイソン」とか、その原型となったリチャード・レスター監督の「HELP!」「ナック」に代表されるように、どことなくシックで上品で、かつシニカルでブラックな笑いに満ちている。
コーエン兄弟の「レディ・キラーズ」の元ネタである、「マダムと泥棒」(55・アレクサンダー・マッケンドリック監督)という傑作コメディもイギリス製である。

こうしたイギリス・コメディの流れを、本作はちゃんと継承しているからこそ、本国では大ヒットしたのだろう。

だから、邦題から連想される、単純おバカ映画を期待したらはぐらかされる事となる。
(同じGAGA配給だからといって、「俺たちフィギュアスケーター」のヒットにあやかったような、このサブタイトルはヒドい。作品の質を見誤りかねない)

 
成績優秀ながら、堅物で融通の利かないエリート警察官ニコラス・エンジェル(サイモン・ペッグ)が、かえって署内で疎まれ、英国一平和な田舎町に左遷され、そこで不可解な事件に巻き込まれるが、持ち前のバイタリティで事件解決に乗り出す事となる。

相棒を組まされるのが、警察署長のグータラ息子、ダニー・バターマン(ニック・フロスト)で、こいつが警察アクション・ビデオの収集家で、映画のようなヒーローになるのを夢見ているというのがおかしい。

この二人が、互いに感化され、友情を深めて行き、ニコラスは堅物な性格が解きほぐされ、ダニーはダメ男から、一人前の警察官に成長して行く…という展開がきっちり描けている。

ストーリーそのものも、さすが英国はアガサ・クリスティやコナン・ドイル等の本格ミステリーを生んだ土地柄だけあって、謎の連続殺人事件に、容疑者のアリバイ、複数の犯人像…と、クリスティを思わせるミステリー趣向が巧妙に盛り込まれていて楽しい。

被害者の殺され方が、首の切断教会の尖塔の落下串刺し…とグロいが、これは某ホラー映画からの引用である事に映画ファンなら気付くはず。

万事この調子で、細かい所までいろんな映画からの引用があちこちに張り巡らされている。しかし、あくまでストーリー重視で、伏線もいたる所にさりげなく配置され、それらが後に生きてくる展開は、おそらく見直す度に、その巧妙さに唸る事になるだろう。監督のエドガー・ライトと主演のサイモン・ペッグが共同で書いた脚本がうまく練られていて見事。
従って、古い映画を知らなくても十分に楽しめるが、知っていればもっと楽しめる仕掛けになっている。

その引用された映画は、ダニーが愛蔵する「ハートブルー」をはじめとする無数のハリウッド製刑事アクション、ジョン・ウーのハードボイルド・アクション、さらにホラー、バイオレンス・サスペンス、マカロニ・ウエスタン、本格ミステリー…と実に多彩。最後には東宝怪獣映画までパロられているのは、ちょっとやり過ぎの気もするが(笑)。ともかく、そうしたオマージュをいくつ見つけられるかを友人と競うのも一興だろう。

なお、ストーリー・ラインのベースになっているのは、1973年製作のイギリス製カルト・ホラー「ウィッカーマン」(ロビン・ハーディ監督)である。

行方不明の少女を探すために、スコットランド本土から小さな島へやって来た警部が、謎の儀式を行う集団に翻弄されて行く…というストーリーで、その主役の警部を演じたエドワード・ウッドワードが、本作でも、近隣監視同盟連絡係・トム・ウィーバー役で出演している事からも、これが同作のオマージュであるのは明白。

怪しげな集団のボスを怪演しているのが、「007/黄金銃を持つ男」でボンドと対決したクリストファー・リーであったり、ボンド・ガールのブリット・エクランドがエロい美女役を演じたりしているのだが、本作で怪しい村のボスを演じているのが4代目ボンド役者のティモシー・ダルトンであるのも、同作との関連を考えれば当然かも知れない。

とにかくそういった具合で、これは映画への熱いオマージュと、凝りに凝ったいろんな仕掛けが施された、熱烈な映画ファンであればあるほど余計楽しめる快作である。

こういう楽しい作品は、映画会社もちゃんと宣伝して、もう少し興行的にもヒットさせて欲しい。また、観客も、有名スターが出てるとか、ヒット・シリーズの続編であるとか、派手な宣伝などに惑わされず、たまには「映画秘宝」誌なども読んで(笑)、本当に楽しい映画を見つけて映画館に足を運ぶようになって欲しいと思う。…そう、お楽しみはココからなのである。    (採点=★★★★☆

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2008年7月27日 (日)

「ハプニング」

Happening (2008年・20世紀フォックス/監督:M・ナイト・シャマラン)

「シックス・センス」で大ヒットを飛ばすが、以後1作ごとにテンションが落ちて行ってる(ようにしか見えない)シャマラン。

「ヴィレッジ」までは、いろいろとラストにどんでん返し的オチを持って来ていたが(それとて「シックス-」の衝撃には遥かに及ばないが)、前作「レディ・イン・ザ・ウォーター」では、アッと驚くオチを捨てて、ファンタジーの世界に逃げ込んだようである。残念ながら、それがどんでん返しを期待するシャマラン・ファンにも一般ファンにも不評で大コケだった。

それでも、ちゃんとメジャーが資金を出して映画を作らせてもらえるのだから、ある意味幸せな映画監督である。
本作は、これまでのブエナ・ヴィスタ、ワーナーとは離れて堂々、20世紀フォックス配給である(製作プロダクションはこれまでと同じスパイグラス・エンタティンメント)。

で、本作は、これまでの判り易いオチを捨てて、“得体の知れない恐怖”という、(彼にとっては)新ジャンルに挑戦している。

ある日突然、多くの人々が理性を失い、次々と自殺を始める。それはアメリカ東部に次第に蔓延して行き、恐怖にかられた人々は逃げ惑い、パニックになって行く…。

“正体の分からない恐怖”に人々が恐れおののく…というタイプの作品は、これまでにもいくつかある。有名な所では、スリラー映画の巨匠、アルフレッド・ヒッチコック監督の傑作「鳥」がある。
原因がついに解明されないまま終わる”という画期的なエンディングを用意した…という点でもこの作品は革命的な傑作であった。

シャマラン監督は、おそらくはこの「鳥」から多くのヒントを得ていると思われる。突然死体が現れて観客を驚かす手法とか、疑心暗鬼にかられてヒステリックになる人間とか、全体としては、これは世界が滅びる前兆ではないかと匂わすエンディング…等である。

そう言えば、シャマランの「サイン」にも、「鳥」とそっくりのショッカー演出が取り入れられていたのを思い出す。シャマランは、ヒッチコックのファンではないかと思われる。

また、これも名作、ドン・シーゲル監督「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」では、原因は宇宙からの侵略であるのだが、人々が次々と体を乗っ取られ、別人格となった人間が世界中に蔓延して行く…という恐怖が描かれていた。

また、ジョージ・A・ロメロ監督の「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」に始まる“ゾンビ”ものも、ゾンビ化した人間がどんどん増殖して行く展開や、感染すれば自分もゾンビになるのではないか…というサスペンス描写に本作との類似点がある。

ゾンビものと言えば、そのバリエーション「28日後」(ガイ・リッチー監督)も、恐怖が世界中に蔓延して行くサスペンスの佳作だった。

本作は、そうした、得体の知れない恐怖に追い詰められるサスペンス映画のパターンを巧みに応用した作品であり、“自分もいつかは狂うのではないか”という恐怖と合わせて、そんな絶望の中で、どことなく冷えかけていた主人公夫婦の絆が、この事件をきっかけとして回復して行くプロセスも描かれている(妻の浮気相手の声シャマラン自身だとエンドロールで分かるのにはニヤリとさせられた)。

また、さりげないエピソードではあるが、ある一軒家で、人間不信となった住人が、ドアをしつこくノックする若者を猟銃で簡単に撃ち殺したり、世間を捨て、誰とも付き合わない孤独な老婦人を登場させたりと、現代社会が抱える歪みもきちんと描写されている辺りも、作品に厚みをもたらしている。

 
そういう点では、「シックス・センス」の感動を期待するシャマラン監督ファンには、やはり物足りない作品とは言えるが、半面で、シャマラン監督作品だと思わなければ、これはこれで面白いサスペンス映画なのである。

ただ惜しいのは、本作の直前に、“得体の知れない恐怖”を描いた快作「ミスト」が公開されたばかり。これがなければもう少し評価が高くなったかも知れない。ラストのオチも負けてますしね(笑)。

というわけで、採点するなら、シャマラン監督に期待するファンから見れば、またガッカリの★☆程度、シャマランを意識しなければ、 (採点=★★★☆)という所だろうか。

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2008年7月23日 (水)

「崖の上のポニョ」

Ponyo (2008年・東宝/監督:宮崎 駿)

アニメーションの天才・宮崎駿の4年ぶりの新作。

モチーフは、アンデルセン童話「人魚姫」だが、単に、“人間になりたい魚と人間との交流”という設定だけ借りて、後は宮崎監督が頭の中で膨らませたイマジネーションを自由奔放に展開させた、いかにも宮崎監督作品らしい快作である。

例によって、「もののけ姫」以降顕著となった、自分でも制御できないくらいに溢れて来るイメージを、あたかも天才画家が、好き勝手にキャンバスに塗りたくったような出来で、ある意味では破綻しまくっているのだが、それがまた“なるほど、天才の頭の中はこうなっているのか”…と想像したくなる、奇妙な魅力に溢れている。

それはあたかも、宮崎駿という作家の、最新の傑作・習作・失敗作もすべて並べた、新作個展会場を眺めているような趣がある。

通常の、一貫したストーリーがあるべき作品としては、謎だらけだし、物語の整合性が無視されていたり、辻褄が合わない所あり、…といった点で、厳しい採点をする人もいるかも知れない。

しかし、「千と千尋の神隠し」でもそうだったが、その謎をあれやこれやと解きほぐす事も、映画を観る上での楽しみでもあるのである。

また本作では、これまでの宮崎作品で見たようなシーンも散見される。明らかに自作の焼き直しをやっているようなシーンもある。
そういう意味では、これは宮崎駿作品の集大成…と言えるのかも知れない(それらについては“お楽しみ”コーナーで詳述)。

以下、やや独断と偏見?的な部分もあるかも知れないが、本作の魅力と、示された謎の解明について述べてみたい。

 

まず、本作のテーマについて

冒頭、海の底の光景が描かれる。
無数のプランクトン、小さな海の生き物、やがてクラゲ、蟹、魚等の海の命が登場し、その美しさに息を呑む。

海はあらゆる命の源泉であり、海こそ“生”の象徴である。しかし、時には狂おしく荒れ、人の命を奪う事もある。

本作のテーマは、そこにある。命が生まれ、まさに人の人生そのもののように、おだやかな時もあれば荒波にもまれる時もある海…。それを乗り越え、生きる事こそ素晴らしい事なのである。

本作のコピーが「生まれてきてよかった」というのも象徴的である。(「もののけ姫」のコピーも「生きろ!」であった)

命が軽んじられ、自殺したり、平気で人の命を奪う、殺伐としたこの時代に、宮崎駿は、生きる事の大切さ、命の尊さをこの作品で訴えているのである。

主人公の、5歳の宗介(土井洋輝)が通う幼稚園の隣が“老人介護施設”であるというのも象徴的である。
ポニョという、小さな命を必死で守りたい宗介が、長い人生を生き、老い先短い老人と心を交わすシーンが印象的である。

また中盤には、船で母を捜しに出かけた宗介たちが、ボートに乗った、赤ん坊を抱いた若夫婦と出会うシーンがある。

物語とはあまり関係がないこのくだりで、むずかる赤ん坊をポニョがあやすシーンはほのぼのと心が和み、命の尊さがより強調されている。

そして、いくつかの謎のシークェンス…
①ポニョが人間の姿になってやって来た日、嵐が収まって、水面も道路を洗う程度だったはずなのに、翌朝、宗介たちが目を覚ますと、いつの間にか水面が家のすぐ外に広がっている。
海が荒れた様子も、雨が降った形跡もないのに、何故水面が上がったのか?

②宗介の父・耕一(長島一茂)が、航海途中に遭遇する船の墓場と、その向こうの高く盛り上がった、月にも届きそうな海面の意味は?
また、ラストで月がどんどん地表に近づき、それをポニョの父フジモトが懸念するのは?

③ラストに登場する老人施設・ひまわりの家は、海中に沈んでいるのに、何故老人たちや宗介の母・リサ(山口智子)は平気で海中にいるのか?

 
①、③の明らかに変な情景の意味する所は一つ、この、①のシーン以降の展開は、すべて夢の世界なのである。
そう考えると、おもちゃの船を巨大化して、宗介とポニョがこの船にのってメルヘンチックな船旅をするシークェンスも、いかにも5歳の子供が見るにふさわしい夢の世界ではないだろうか。

水中で普通に会話が出来るのも、現実世界ではありえない。夢の世界ならではである。

②の、船の墓場で思い起こすのは、「紅の豚」の1シーン、ポルコが夢の中で、飛行機の墓場に遭遇するくだりである。
テーマ的にも、両者のシーンは対であると考えるべきであろう。そのシュールな光景といい、この、船の墓場シーンが夢だと確信する根拠である。

巨大なグランマンマーレが、何故か人間と等身大になってリサと話をしているシーンも不得要領だが、夢であるなら納得出来る。

では、いつ夢が覚めるのか…その境界は、映画は最後まで曖昧なままで、もともと物語全体がファンタジーで、非現実的な空想世界なのだから、作者自身もこだわっていないような気がする。

そういう意味では、前作「ハウルの動く城」と同様、物語の破綻をきちんと収束出来ず、強引にハッピーエンドに持って行ったきらいがある。

そういう綻びを欠点として、本作を低く評価する人がいても当然ではあろう。

しかし、作者の強い思いが溢れ過ぎたからこその迷走であり、逆に言えば暴走しているからこそ、作者の言いたい事がはっきりと出た作品にもなっているのである。

「ハウルの動く城」では、戦争への強い怒り、反戦のメッセージ性が強調されていたが、本作で強調されるのは、前述の“生命の大切さ”にプラス、環境破壊、地球温暖化への怒りである。

海面の上昇、町の水没は、すべて地球温暖化の結果の象徴とも取れる。

また冒頭、逃げ出したポニョがゴミ浚渫の網に引っかかるシーンが登場するが、その汚泥にまみれた廃棄物の描写は、「千と千尋の神隠し」の河の神、オクサレさまの体内から排出される産廃ゴミのシーンに相対する。

生命の源である海…その海を汚し、はたまた温暖化で地球そのものが危うくなっている。
荒れ狂う海の描写は、自然の、人間に対する復讐であるかのようである。
それらを優しく包み込み、海を穏やかに静めさせる、海なる母=グランマンマーレは、生命の源たる海の女神でもあるのだろう。

自然を慈しみ、自然界と共存してこそ人類の生きる道がある…というテーマは、「風の谷のナウシカ」から「もののけ姫」に至る、宮崎アニメの永遠のテーマである。

そうしたテーマを打ち出しながらも、全体としては、宮崎アニメの原点でもある、少年と少女の愛と冒険の物語(未来少年コナン、天空の城ラピュタ)になっている所が楽しい。…そもそも、波打ち際で少年が、流れ着いて気を失っている少女を見つけるシーンからして「未来少年コナン」の出だしそっくりである。

人間の姿になったポニョが、海の波の上を疾走するシーンの躍動感は、まさにこれぞアニメである。CGを使わず、温かみを感じる手書きで、丁寧にこれらの絵を仕上げた事自体が、“テクノロジーを追い求めるのをこの辺で止めて、手作りの良さを見直そうよ”という宮崎駿監督の、時代の進化に対する異議申し立てを象徴しているようで、私は観終えて胸が熱くなった。

本作は、そういう意味でも、天才宮崎駿が、未来に生きる子供たちに夢を与えるアニメの原点に戻って作り上げた、珠玉の傑作であると言えるだろう。    (採点=★★★★★

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(さて、お楽しみはココからだ)
では、本作に見られる、過去の宮崎アニメ・セルフオマージュについて一挙公開。

①まず、メイン・タイトルが、デフォルメされた銅版画風の絵であるのが、「天空の城ラピュダ」のそれと同趣向である。

②ポニョがクラゲの背に乗って旅立つ出だし。透明なクラゲの笠の下でまどろむ姿が、「風の谷のナウシカ」の冒頭、オームの透明な目の抜け殻に入ってまどろむナウシカを想起させる。(本来半透明なクラゲをわざと透明にしているのは狙い?)

③宗介が、波打ち際で気を失っているポニョを発見するシーンが、「未来少年コナン」のオマージュなのは既に述べたが、「天空の城ラピュタ」でもやはり、少年(パズー)が、気を失っている少女(シータ)を見つけている(こちらはからではなく、から現れる)。

④宗介の母リサが自動車で、海岸沿いの道路を猛スピードで突っ走るシーンは「ルパン三世・カリオストロの城」と同じ。なお、女性が自動車をムチャクチャ暴走させるシーンは「名探偵ホームズ/ドーバー海峡の大空中戦」(宮崎絵コンテ・演出)にも登場している(運転するはハドソン夫人)。

⑤ポニョの父フジモトが操縦する、4本足の潜水艇は、「名探偵ホームズ/海底の財宝」でモリアーティ教授が操る潜水艇とよく似ている。

⑥水没した町と、水面をのんびりと船を進めるシーンは、「パンダコパンダ・雨ふりサーカスの巻」にそっくりそのまま出てくる(「パンダ-」ではベッドを船代りにしているが)。
なお、“水没した町”は「カリオストロの城」や「千と千尋-」など、宮崎アニメには再三登場するおなじみシーンである。

⑦幻想的な“船の墓場”シーンが、「紅の豚」でポルコが夢みる“飛行機の墓場”の焼き直しであるのは先述。

老人介護施設・ひまわりの家にいる老人のうち、ヨシエ(奈良岡朋子)の容貌が、「ハウルの動く城」介護老人となった、荒地の魔女とそっくりである。

⑨水没した町の水中を泳ぐ古代デボン紀の水中生物たちは、「風の谷のナウシカ」の、腐海で空中遊泳する古生代生物を想起させる。

⑩船を下りてひまわりの家に向かう途中、何故だか「千と千尋の神隠し」に登場したのとそっくりなトンネルをくぐり抜ける。
 

 (関連作批評) 「ハウルの動く城」
           「ゲド戦記」

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2008年7月18日 (金)

「カメレオン」

Camereon (2008年・東映/監督:阪本 順治)

企画・黒澤満、脚本・丸山昇一、製作・セントラルアーツ…懐かしい名前である。かつて1970年代後半から'80年代にかけて、数々のB級アクション・ドラマを世に送り出して来た名コンビである。―特に、松田優作主演作品に傑作が多い。テレビの「探偵物語」(79~80)、映画では「処刑遊戯」(79・丸山の劇場デビュー作)、「野獣死すべし」(80)、「ヨコハマBJブルース」(81)…日本映画には珍しい、硬質なハードボイルド・ムービーの傑作群であった。

だが、優作はやがて「陽炎座」(81)、「家族ゲーム」(83)、「それから」(85)等の非アクション・文芸作品路線に方向転換し、黒澤+松田+丸山トリオの作品は86年の「ア・ホーマンス」(松田優作・監督)で途切れる事となる。

だが、実は優作と丸山とは、深い絆で結ばれた盟友であり、優作が丸山に依頼し、丸山が優作主演を想定して書きながら、未映画化となった脚本は30本近くあるという(丸山談)。

そのうちの6本ほどが、幻冬舎から刊行されている松田優作+丸山昇一 未発表シナリオ集」に掲載されている。また、優作主演で企画されながら映画化に至らなかったもののうち、「ドッグ・レース」は'98年に鄭義信が丸山脚本を原案として書き直し、崔洋一監督で映画化された。

そうした優作+丸山コラボから生まれた未発表シナリオのうちの1本が、数十年の時を隔てて映画化されたわけである。どんな作品に仕上がったか、興味津々で出かけた。

 
<映画「野獣死すべし」やTVドラマ「探偵物語」で知られる脚本家・丸山昇一が、およそ30年前に松田優作のために企画した幻の脚本「カメレオン座の男」を映画化した作品>
(eiga.comより)

…という事なのだが、正確に言うと、丸山昇一が脚本家としてデビューしたのが、1979年9月から始まったテレビシリーズ「探偵物語」(黒澤満プロデューサーから“書いてみないか”と勧められて書いた)であるわけだし、劇場映画デビューの「処刑遊戯」は'79年11月公開だから、本作が書かれたのは早くても'79年後半ではないだろうか。

なお、Yahooムービーの解説では「“遊戯シリーズ”第2弾」となっているが、“遊戯シリーズ”はいずれも、殺し屋・鳴海昌平が主人公のスタイリッシュなアクション・シリーズであり、かつシリーズ2作目の「殺人遊戯」'78年12月公開であるので、これは間違いではないか。

 
(以下、ややネタバレになりますのでそのつもりで…)
さて、本作の感想だが、出だしで、ベテラン旅芝居役者たち(犬塚弘、谷啓、加藤治子)や若者たちとチームを組んで仕掛けた、結婚詐欺の模様が描かれる。

あんなに気前良く結婚祝い金をくれるだろうか…という詮索はさておき、この出だしから、私はてっきり後半のクライマックスは、政財界の黒幕を相手に、「スティング」ばりにまんまといっぱい食わせる大掛かりなコン・ゲームを仕掛けるのかと思った。
(実際、企画・黒澤+脚本・丸山コンビ作品には、文字通りコン・ゲームを主題とした「紳士同盟」(86・那須博之・監督)という作品もある)

ところが、後半では、旅芝居役者たちはいつの間にか消えてしまい、前半はひ弱そうに見えた伍郎(藤原竜也)が、突然優作の“遊戯シリーズ”ばりの壮絶なガン・アクションを展開する。

これには面食らう。伍郎がそんなに拳銃捌きとか、ジャッキー・チェンばりのアクション(階段を一気に滑り降りる)が得意であるなら、前半で何らかの伏線を撒いておくべきではないのか。
まるで、前半と後半とが、別の作品のように見えてしまう。これはマイナス。

せめて、“遊戯シリーズ”お約束のように、主人公が黙々と身体を鍛え、拳銃射撃の練習をしているシーンを入れておけば良かったのに…。そういう意味では“遊戯シリーズ”の面白さに残念ながら及んでいない。

敵の、まるでCIAかと思えるような劇画チックな秘密組織も、前半の老役者たちとのほのぼのとした擬似家族ムードとはミスマッチで、違和感ありあり。

エンディングの、証拠写真ばら撒きで事件が解決するなら、もっと最初からばら撒けよ…と突っ込みたくなる。国会の証人喚問の場にあんなに簡単に侵入出来るか…とか、義手シーンの必要性は?…とか、突っ込みどころは一杯ある。
…これが元のシナリオ通りであるなら、はっきり言ってお粗末なシナリオである。
優作主演で企画されながら、映画化が実現しなかったのは、脚本の出来がイマイチだったからではないのか。丸山としてもデビューしたばかりで、優作からあれもこれもと要求され、まとまりを欠いた、不満足な出来になったのかも知れない。

そうであるなら、元の脚本を叩き台に、黒澤+丸山+阪本のトリオでみっちりと脚本を改訂すべきではなかったか。

 
ただ、つまらなかったかと言えばそうでもない。ホテルからの要人拉致シーンは、阪本順治監督の秀作「KT」のセルフパロディのようで笑えたし、中盤の廃工場を舞台のカーチェイスは、“遊戯シリーズ”1作目「最も危険な遊戯」をはじめとする、いくつかのセントラルアーツ製作のB級アクションやVシネマを思い起こさせ、楽しませてくれた。
後半のガン・アクション・シーンも、そこだけを取ってみれば“遊戯シリーズ”を彷彿とさせ、ワクワクさせてくれる。
部分的には、優作映画へのリスペクトも含まれた、適度に見せ場が配置されたB級アクションとして楽しんでもいいだろう。

しかし、この映画に決定的に不在であるもの……それは、松田優作の肉体である。藤原竜也も今の若手の中ではよく頑張ってる方だが、優作の引き締まった身体、機敏な身のこなし、クールで情念を秘めた表情…どれも遠く及ばない。彼がいたなら、あるいはもう少し良い出来になったかも知れない。
優作死して19年…未だに彼を超えるアクション・スターを日本映画界は得ていない。―その事を、本作を観て、改めて痛感せざるを得ない。惜しみて余りある。嗚呼。

(付記)
敵のリーダーを演じた豊原功補が、昔は気の弱そうな役柄が多かったのに、本作では貫禄充分な悪役を演じていたのに目を瞠った。
出て来た時は、一瞬、韓国映画の名優、ソン・ガンホかと思ったよ(笑)。   (採点=★★★☆

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映画のノベライズ本

映画では省略されたエピソードや、説明不足だった部分も含まれている。

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2008年7月16日 (水)

「ミラクル7号」

Miracle7 (2008年・ソニー・ピクチャーズ/監督:チャウ・シンチー)

「少林サッカー」でわが国でも一躍人気俳優・監督になったチャウ・チンチー製作・脚本・監督・主演の、ハートフル・SF・コメディ・ホームドラマ(欲張りすぎ(笑))。

超ビンボーなティー(チャウ・シンチー)とディッキー(シュー・チャオ)親子が主人公。ある日、ティーは、ゴミ捨て場でUFOが忘れていった緑のボールを拾い、ディッキーに与える。やがてそれは可愛い4本足のペットに変身。ディッキーはそいつを“ミラクル7号―ナナちゃん”と名付け、可愛がるのだが…。

ハチャメチャでぶっ飛んだギャグで、いつも楽しませてくれるチャウ・シンチー作品。今回は、スピルバーグの「E.T.」をベースにしたSFファンタジー色の濃い作風で、そこに子供同士の交流や、親子の情愛をからめた、今までとは一風変わったジャンルに挑戦している。

しかも、今回は主演ではなく、脇に回り、子役のシュー・チャオ扮するディッキーが中心なのである。

この子がとてもうまい。完全にシンチーを食っている。
昔から、映画界では“子供と動物にはかなわない”と言われている。可愛らしいうえに、名演技をされると完全に食われてしまうからである。本作では、子供がうまくて可愛いのに、その上にイヌに似たナナちゃんまでがとっても可愛いらしくて、これでは大人はかなう訳がない(笑)。

(以下ネタバレにつき隠します)
無論、シンチーらしいおバカで下品な笑いは健在で、夢の中ではドラえもんやら「M.I.Ⅱ」やら、自作の「少林サッカー」「カンフーハッスル」のパロディも盛大に飛び出して楽しませてくれるが、肝心のナナちゃん、現実にはまったく役に立たず、ひねり出したのはウ○チだけというお下品ぶりには大笑い。ただ、家の中をゾロゾロ這い回るゴキブリ潰し遊びはさすがに気色悪く、小さなお子さんは真似しないでください(笑)と言っておきたい。
↑ネタバレここまで。

これまでのシンチー作品と明らかに異なるのは、お笑いギャグが、夢のシーンを除くとかなり少なく、特に後半部に至ってはほとんど影を潜めている。

主流となっているのは、ディッキーの学校生活であり、お金持ちグループとの喧嘩、そして仲直りと進展する。

即ち、大半は、子供たち同士の交流、あるいは子供の目線で、父親におもちゃをねだったり、嫌味な先生を観察したりといった、ありふれた日常生活が描かれているのである。

この辺り、これまでのおバカでハチャメチャ・ナンセンスな笑いを提供して来たシンチー映画のパターンに、明らかな変化が見られ、新境地を開いたと言えるだろう。

 
特に興味深いのは、チャップリン映画、―特に「キッド」からの影響である。

その超リアルなビンボー生活ぶりや、父子の心あたたまる交流など、「キッド」を彷彿とさせるシーンは多い(「キッド」は本当の親子ではないが)。
チャップリンの子供時代は極貧であった事は知られているが、シンチーもやはり子供時代は超ビンボーだったそうだ(ゴキブリ叩きは実体験に即しているらしい(笑))。

本作は言わばシンチーが、ドタバタ・ナンセンス・ギャグからスタートし、次第にそこから脱却し、ペーソスや人間模様を描く独自の世界を築いて行った天才・チャップリンの後を追いかけようとしているのではないか…と思わせる作品なのである。

自分で製作・脚本・監督・主演と何でもこなしてしまう所も、チャップリンとよく似ている。

 
この映画で泣かせる所は、工事現場監督(シンチー映画常連のラム・ジーチョン)が、最初は口うるさいけれども、本当は人情家である事が分かるくだりである。…この辺り、小津から山田洋次に至る、松竹大船人情コメディを思い出し、ホロっとさせられた。

人々は貧乏だけれども、人情があり、親子の情愛があり、子供たちも喧嘩はしても、思いやりや優しい心は失っていない(その点は、わが「ALWAYS 三丁目の夕日」と合い通じる所がある)。
単なるナンセンス・コメディには終わっていないのである。

そこが、受け入れられる人と、そうでない人と意見が別れる点だろう。「少林サッカー」等のおバカ・コメディに笑った人は少々物足りない出来かも知れない。…そもそも、“貧乏”自体、今の時代には死語と化しているのだから。

しかし、安定したナンセンス・コメディ路線に安住せず、こうした冒険にチャレンジするシンチーの姿勢は、私は大いに評価したい。

そのうちに、チャップリンの名作にも匹敵する、映画史に残るような傑作コメディを作ってくれるかも知れない。…それを期待したい。

(蛇足1)
ナナちゃんを失って傷心のディッキーの元に、大量の○○○が押し寄せる感動のラストは、ひょっとして、A・ラモリスの名作「赤い風船」(最近リバイバル公開)のパロディ? 

(蛇足2)
日本ではチャウ・シンチーで通っているが、クレジット・タイトルでは“スティーブン・チョウ”と表記されている。

成 龍がジャッキー・チェン、李 連杰がジェット・リーと我が国では英語表記で呼ばれているのに、なんで周 星馳はチャウ・シンチーで、スティーブン・チョウではないんでしょうか?
李 連杰も当初はリー・リンチェイと呼ばれていて、こっちが馴染み深かったのに、途中からジェット・リーに変わったくらいだから、彼だけ例外というのは納得できない。

まあ、スティーブン・チョウ…よりは、チャウ・シンチー…の方がコメディアンっぽい語感でいいとは思いますがね(チョウでなくチャウになったのもよく分からんが…、チョウ・ユンファ(周 潤發)と同じ漢字だし。チョウ・シンチー…う~ん、チャウがな…と間寛平にでも言われたのでしょうか?(笑))。    (採点=★★★★

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2008年7月 9日 (水)

「告発のとき」

Inthevalleyofera (2007年・米/監督:ポール・ハギス)

「ミリオンダラー・ベイビー」で脚本賞、「クラッシュ」で作品賞と、2度アカデミー賞に輝くポール・ハギス監督の、イラク戦争を題材とした社会派ミステリーの秀作。

ベトナム戦争に従軍し、今は自動車修理業を営むハンク・ディアフィールド(トミー・リー・ジョーンズ)の元に、イラクに派兵されていた息子のマイクが行方不明との連絡が入る。捜索の為ニューメキシコのフォート・ラッドに赴いたハンクは、そこでバラバラに切り刻まれ、無残な姿となったマイクの死体と対面する事となる。いったい、息子を殺した犯人は誰なのか…

2003年に、実際に起きた事件をモデルにしているそうだが、ポール・ハギス自身による脚本は、元軍警察にいた、捜査のプロでもあるハンクによる、警察でも見逃していた、わずかの手がかりや聞き込みによる独自の探索で真犯人を追及して行く、探偵ミステリーの味わいもある。

捜査の過程で、容疑者にはアリバイがあった、とか、新たな容疑者が浮かび上がり、捕まえるが、実は犯人ではなかった…とかの、二転三転する謎解きミステリーのお約束も抜かりなく用意されている。

また、現地警察の刑事で子持ちのエミリー・サンダース刑事(シャーリーズ・セロン)が事件の解明に乗り出し、最初はハンクの強引なやり方に反撥しながらも、彼の父親としての怒りと、軍警察の経験を生かした鮮やかな推理に次第に共鳴し、協力して行くようになるプロセスも面白い。

これは、言ってみれば、全く対照的な2人の捜査官がコンビを組んで事件を解決するバディ・ポリスもののパターンをも踏襲しているのである。

そういう、犯罪捜査ミステリーとしても十分面白いが、背景にあるのは、泥沼のイラク戦争の只中で、次第に人間性を失い、PTSD(精神的外傷)にさいなまれて行く、帰還兵士たちの心の闇である。

かつては、ベトナム戦争時でも、泥沼化し、敗退して行ったアメリカ軍兵士たちの、帰還後の心のトラウマを描いた「帰郷」「ディア・ハンター」(スタローン主演の「ランボー」もその変型バリエーション)や、戦争の空しさを正攻法で描いた「プラトーン」等の秀作が作られたが、ここ数年、イラク戦争に関する同様の作品が次々と作られており(「勇者たちの戦場」「さよなら。いつかわかること」 etc...)、アメリカ映画界の懐の深さに感嘆するが、同時にアメリカという国は、本当にかつての教訓を生かせない、懲りない国だな…とつくづく思う。

 
さすが、優れた脚本家であるハギス、シナリオにもいろいろな工夫が凝らされている。
うまいと思ったのは、マイクが残した携帯に保存されていた動画が、さまざまな真実を解くカギになっている辺り。
戦場に兵士がビデオカメラを持って行く事などはありえないだろうが、携帯くらいなら持って行けるだろうし、それで映像を興味本位で撮りまくるのも今では当たり前。それを巧妙に物語に生かしているのがいかにも今様である。時代も変わったものである。

ハンクが、旧約聖書の、巨人ゴリアテに立ち向かった勇者ダビデの話をエミリーの息子に聞かせるエピソード(原題「エラの谷にて」はそこから取られている)も、さまざまな寓意が読み取れる。ただ、ラストでハンクが、息子が送って来た国旗をわざと逆さに掲揚(SOSのサインだそうだ)するエピソードは、病んだアメリカの現状がSOSを求めるほど深刻である事の寓意なのだろうが、ちょっとわざとらしい感じがしないでもない。

ともあれ、スリリングでサスペンスフルな犯罪捜査ドラマの形を借りて、現代アメリカが抱える問題点を鋭く切り取った、これは見事な秀作である。アカデミー演技賞受賞者であるトミー・リー・ジョーンズ、シャーリーズ・セロン、それに短い出番ながら存在感を示すスーザン・サランドン、いずれも素晴らしい名演。観ておいて損はない。お奨め。   (採点=★★★★☆

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(で、お楽しみはココからである)
この映画、よく観ると、黒澤明映画のいくつかの名シーンを巧妙に採り入れているのに気が付く。

野良犬 ハンクに、次第に心を許すようになったエミリーが、ハンクを自宅に招くシーンがあるが、これは黒澤作品「野良犬」において、同じように、コンビを組んで捜査をしているうちに心が打ち解け、ベテラン刑事(志村喬)が相棒の若い刑事(三船敏郎)を自宅に招くシーンの焼き直しである。

ハンクの、執拗で暴走気味の捜査ぶりもまさに“野良犬”さながらである。

また、荒っぽいだけでなく、タバコや酒を勧めて、やんわりと参考人の証言をうながすやり方も、「野良犬」の志村喬が取調室で、参考人にアイスキャンデーをおごってやって証言を促すシーンのバリエーションだろう。

ハンクが、寝る前に自分のズボンに、丁寧に折り目をつけるシーンは、黒澤作品「生きる」で、志村喬扮する主人公が、毎日必ず寝る際に、ズボンを丁寧に寝押しするシーンからの頂きであろう。いずれも、主人公の性格を端的に示す印象的なシーンである。
「生きる」の主人公もまた、信じていたはずの最愛の息子に裏切られる父親であった。

ついでながら、「野良犬」の殺人犯人も三船刑事も、戦争から帰って来た復員兵という設定だが、復員兵=即ち帰還兵である。…この点においても、「野良犬」と本作とはテーマ的にも繋がりがあると言えるだろう。

サスペンスフルでダイナミックなエンタティンメント作品の中に、現代社会や国家に対する怒りといった骨太テーマを盛り込む手法も、黒澤映画ではお馴染みである。

そう言えば、ポール・ハギスが「ミリオンダラー・ベイビー」、「父親たちの星条旗」と立て続けにコンビを組んでいるクリント・イーストウッドも、黒澤「用心棒」の盗作「荒野の用心棒」や、やはり「野良犬」を部分的に取り込んでいる「ダーティ・ハリー」などで、黒澤映画と縁が深い映画人である。

まあ、アメリカの著名な映画作家の多くは、みんな何らかの形でクロサワの影響を受けているとも言えるのだが(笑)。

ノベライズ版

黒澤明監督「野良犬」DVD(普及版)

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