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2008年9月21日 (日)

「おくりびと」

Okuribito2 (2008年・松竹/監督:滝田 洋二郎)

“納棺師”という珍しい職業を題材に、人間の喜び、悲しみを丁寧に描いて心温まる、本年屈指の感動の傑作。

チェロ奏者の大悟(本木雅弘)は、所属していたオーケストラが突然解散し、失業してしまう。大悟は能力の限界を悟り、チェロを売り払って妻・美香(広末涼子)と共に故郷の山形へ帰った。亡き母が残した古い実家を根城に職探しを始めた大悟は、たまたま「高給保証!実質労働時間わずか。旅のお手伝い。NKエージェント!!」と書かれた広告に惹かれる。旅行代理店と思った大悟は社長・佐々木(山﨑努)の面接を受けるが、その仕事は遺体を棺に納める“納棺師”だった…。

登場人物それぞれのキャラクター設定が秀逸。豪胆でどことなく人を食ったような、NK(納棺の略)エージェントの社長・佐々木。その社長にあっさり「採用!」と言われて、断るに断れず就職してしまう、小心で気のいい性格の大悟。あっけらかんとしてるが芯は強い妻・美香。
特に、大悟の性格設定がうまい。楽団が解散寸前である事も知らず(周囲は知ってたようだ)、妻に内緒で1,800万円もするチェロを買ってしまい、結局チェロを手放す破目になる。
人はいいのだが、状況把握に疎く、妻に断られそうな話はつい言い出せない…という性格が、後の物語展開に絶妙に生かされている。

サブの登場人物にも、それぞれに人生や、仕事に対するプライドを持たせ、そうした人たちとの触れ合いを通じて、大悟が人間的に成長して行くプロセスが見事である。

これが劇場映画としては初めての脚本となる、小山薫堂のシナリオが素晴らしい。人物の描き分け、エピソードの積み重ね方、大悟や周辺の人物の感情の機微と変化、セリフやちょっとした小道具の使い方、いずれも完璧。本年度の脚本賞は総ナメする事間違いないだろう。

 
最初はイヤイヤながら、食う為に仕方なくこの職についたものの、死体処理の気持ち悪さと、他人からの偏見(妻からさえも、「汚らわしい!」と言われてしまう)に耐えられなくなり、一時は辞めようとするが、やがて佐々木の人間性に惹かれ、また、納棺に立ち会った遺族から深く感謝されるなど、目立たないけれども、丁寧に厳粛に死者を送る納棺師の仕事の素晴らしさを認識し、天職とするに至る大悟の心の変遷が見事に描かれている。
幼い頃に父と生き別れ、父親の温かみを知らない大悟が、佐々木に擬似的な父親の姿を感じ取って行く様をさりげなく描いている辺りも出色である。

最初は謎の存在だった、銭湯の常連、平田(笹野高史)の意外な職業も面白い。彼が、「この人たちは、三途の川を渡るのではなく、門をくぐって行くわけです。私は門番としてたくさんの人をおくって来たんですよ」とボソリと言うセリフにも含蓄がある。そう、大悟もまた、試練の門を通り抜けて成長して行くのである。

後半は、大悟が6歳の時に、家族を捨てて女と共に家を飛び出し、行方不明となっていた父親の死が知らされ、物語は大きく転回する。

最初は葬儀に行くことも拒否していた大悟が、周囲の人々の慈愛に触れ、やがて父へのわだかまりを解消し、丁寧におくり出して行くラストは特に胸に迫り感動を呼ぶ。
ここで使われる、“石ぶみ”のエピソードも効果的。最初は納棺師の仕事を軽蔑していた妻も、夫の真摯な仕事ぶりに心を打たれ、最後には葬儀社の人に「夫は納棺師なんです」ときっぱりと言う辺りもドッと泣ける。

私事になるが、私の父も昨年亡くなり、家族と共におくり出したばかりである。そのせいもあって、後半はもうボロボロと泣きっぱなし。もっとも、周囲でも泣いてる人は多かったが…。

 
“納棺師”という、隙間産業的な仕事を題材にした点で、企画の勝利である(本木がこの仕事に興味を持ったのが企画の発端らしい)。無論、見事なシナリオを仕上げた小山薫堂の存在も大きい。

佐々木が、食にこだわっている辺りも面白い。フグの白子を食べ、「うまいんだなこれが。困った事に…」というセリフも味わいがある。食べる事もまた、生へのこだわりなのである。

舞台を山形県・庄内地方にしたのも成功している。厳しい自然の中での人間の営み、人々の温かな心の触れ合いを描くのに最適の場所である。そう思えば、山田洋次監督による、藤沢周平3部作の舞台も同地であった。

また素晴らしいのは、随所に見られるさりげないユーモアである。冒頭の、厳粛な儀式中の、「アレがついてるのですが」には笑った。PRビデオのモデルにさせられた大悟が、情けない顔をして死人を演じる(明らかに顔が動いてる)シーンは抱腹絶倒。しかし決してドタバタにはならず、実際にもあるだろうな…と思わせる節度は保たれている。

ベテラン、滝田洋二郎監督としても、彼の最高作だろう。シナリオの意図を最大限に掴んだ演出の緩急自在ぶりは、もはや巨匠の風格がある。

私の、本年度のベストワンは本作に決まり、である。素晴らしい傑作を産み出した監督・滝田洋二郎、シナリオ・小山薫堂、そして主演の本木雅弘に惜しみない拍手を送りたい。彼らこそ見事な作品を世に送り出した、映画の“おくりびと”たちと言えるだろう。必見!    (採点=★★★★★

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(さて、お楽しみはココからだ)

本作を観て、思い出した作品がある。黒澤明監督の「赤ひげ」である。

黒澤作品と言えば、デビュー作「姿三四郎」から「赤ひげ」に至るまで、一貫して“未熟な若者が人生の師に出会い、人間的に成長して行く”姿を描いて来たが、本作もまぎれもなくそのパターンの作品である。

特に「赤ひげ」では、最初は意図しない仕事に着かされ、いやいやだった主人公保本登(加山雄三)が、である赤ひげの人間的大きさに触れ、また養生所内の、さまざまな人たちの死の現場に立会い、自分の未熟さを知り、最後には養生所での仕事を天職に定めるに至る。
…全体の構成がよく似ている事が分かるだろう。

また、登が重症患者の手術の手伝いをさせられ、暴れて腸がはみ出した患者を見て気分が悪くなり、ぶざまに失神するシーンがあるが、これは本作で大悟が、老人の腐乱死体処理を手伝わされ、気分が悪くなって嘔吐してしまうぶざまなシーンと相対していると言える。さらに両方とも、主人公は師から「足を持て」と命令されている

笹野高史の“”の話が印象的な本作だが、「赤ひげ」でも冒頭とラストを始め、養生所のが主人公の成長を見守る重要なアイテムとなっている。

赤ひげの「人間の臨終ほど荘厳なものはない。よく見ておけ」と言うセリフも、本作のテーマに近いものがある。

そして、山﨑努は、「赤ひげ」にも重要な役(車大工の佐八役)で出演している…というのも、不思議な縁である。

…だからどうだと言う気はさらさらない。ただ、素晴らしい作品を作る人は、数多くの映画史に残る名作から、何らかの影響を受けている場合が多い(黒澤自身もJ・フォードはじめ多くの作家の影響を受けている)という事を言いたいのである。小山薫堂氏の次回作には、大いに注目・期待したいと思う。

 

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2008年9月17日 (水)

小室等 コラボライブ AT ワイルドバンチ

Komuroparyaso 久しぶりに、ブックカフェ「ワイルドバンチ」ライブのご案内です。

いつも、ユニークなライブ演奏や小劇団演劇などで、楽しませてくれますが、
今回特にお奨めなのは、団塊世代には懐かしい(と言うか、ほとんど伝説の)、元・フォークグループ、“六文銭”のリーダー、小室等さんが、ワイルドバンチにやって来ます。

しかも、コラボ相手が、これまた最近は、市川崑監督作品の音楽担当で映画ファンにもなじみ深い、谷川賢作さんが参加するユニット「パリャーソ」(パートナーは続木力さん)だという点が興味深い。

市川崑と言えば、テレビで「木枯し紋次郎」を大ヒットさせた事でも有名ですが、その主題歌、「誰かが風の中で」の作曲を手掛けたのがその小室等さん-というのも不思議な縁です(作詞は崑監督夫人・和田夏十さん)。

賢作さんのお父上・谷川俊太郎さんも「東京オリンピック」「股旅」の脚本で市川崑監督にも協力しているし、みんな市川崑さんに繋がって来るのですね。

 
ライブのタイトルは「小室等&パリャーソ コラボレーションライブ 『時の過ぎ行くままに』」

開催日はもうすぐですが、9月20日・土曜日 19:00開演です。
料金は、前売(予約):4,500 円 当日:5,000 円

ワイルドバンチの場所、及びライブの詳細はこちら

パリャーソは、続木さんのハーモニカと谷川さんのピアノのデュオユニットで、これに小室さんのギターが加わります。どんなコンサートになるか楽しみですが、個人的には小室さんのナマのお姿を見れるだけでもワクワクします。

いつものように、帰ってから鑑賞報告を行う予定です。お近くの方は是非ワイルドバンチにお出かけください。

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2008年9月13日 (土)

「闇の子供たち」

Yaminokodomotati_2(2008年・ジェネオン/監督:阪本 順治)

タイの裏社会で行われている幼児売買春、人身売買、臓器密売の実態と、その闇に迫る新聞記者・南部(江口洋介)、NGO職員・恵子(宮崎あおい)、フリーカメラマン・与田(妻夫木聡)の奮闘をダイナミックに描いた、衝撃の問題作。原作は「血と骨」、「夜を賭けて」等の梁石日。

これがほぼ実話である…という事に、暗澹とした気分にさせられる。

日本でも、貧しい時代には、子供を奉公と称して手放したり、女衒(ぜげん)を介して遊郭に売り飛ばしたり…という事が現実にあった(ドラマでは「おしん」、映画では「SAYURI」などにそれらが描かれている)。ある程度は、貧しい国ではどこも似たような事があったのかも知れない。

だが、この作品を観てやり切れないのは、子供を性のおもちゃにしたり(買うのは富める国の大人たち)、性交渉の結果エイズにかかった子供を、ゴミ袋に入れてゴミとして処分したり、生きたまま臓器移植が行われたり…という、子供たちを“物”として扱う大人たちの存在である。

昔もひどかったが、少なくとも遊郭に売られた少女は、ある程度成長するまでは男を取らせない…など、“子供を性の奴隷にする”様なことはあまりなかっただろう。

それが現代では、貧富の格差が広がる一方で、豊かな国の人間も、貧しい国の人間もどこかで人間性を喪失し、将来性ある人間であるはずの幼い子供を使い捨ての道具扱いとし、あるいは歪な性欲の対象とする、モラルも、人間性も崩壊したような現状が広がっているのだろう。

しかも悲しいことに、そうした恥ずべき行いをしている人間の中に、我々日本人が少なからずいる…という現実がある。映画はその実態を容赦なく描き出す。

かつては貧しい国だった日本も、今ではアジアの金持ち大国となり、貧しい国に出かけて幼児買春をする、金で子供の臓器移植を行う…。タイの現実も悲しいが、金はあるが人間的な心を失ってしまった日本人たちの現実もまた悲しい(そう言えば高度成長期、韓国への買春旅行が流行り、キーセン旅行と呼ばれていた時代があった。今では韓国も豊かになったが…)。

 
幼児性欲は、ある意味病気で、特殊な人間と片付ける事も出来る。

だが、臓器移植については、さらにやり切れない思いとなる。資産家である梶川夫妻(佐藤浩市、鈴木砂羽)は、重い心臓病である自分の子供の命を救いたい為に、闇ルートである事を、相手の子供の命が失われる事を承知で心臓移植を行おうとする。

その事実を知ったNGO職員・恵子は南部と共に夫婦の家に押しかけ、手術を中止するよう依頼するが、夫婦はそれでも、我が子の命を最優先しようとする。

この夫婦は、少なくとも自分の子供を売り飛ばし、その命を何とも思わないタイの親たちよりは、ずっと我が子に対する愛情は深いのだろう。我が子の為なら、自分の臓器だって提供するだろう。「あなたたちには、私たちの苦しみなんか分からない」と妻は言う。その言葉は確かに私たちの胸を打つ。それだけに、余計悲しい。

自分の子供の命は、地球より重い…だが他人の子供なんか知った事ではない。
そういう人間のエゴを痛烈に突いた映画がある。黒澤明の名作「天国と地獄」である。
主人公・権藤は、自分の息子が誘拐されたと知らされると、何よりも息子の命を優先しようとする。金を払えば破産する事を承知で。警察にも連絡せず、「金なんか又作ればいいんだ」とまで言う。

だが、誘拐されたのがお抱え運転手の子供だと分かると、途端に態度を豹変し、警察に電話したばかりか、金は出さないと突っぱねる。
自分の息子の為ならいい、だが自分が破産してまで他人の子供を救うなど御免だ…と言うのである。

他人なら、無責任に身勝手だとか、金を出してやれよとか言えるだろうが、自分がその立場に直面したら、果たして正しい決断を下せるだろうか…。それが人間のエゴであり、弱さなのである。
(ちなみに、その「天国と地獄」のテレビ版リメイク作品(昨年9月放映。批評はこちら)で主役の権藤を演じたのが他ならぬ佐藤浩市である。本作において梶川役に佐藤がキャスティングされているのは偶然だろうか)

もう一つ、例え梶川夫妻がこの移植を思い止まったところで、別の移植希望者が現れ、結局提供者の少女は犠牲になるわけだから、何ら問題は解決しない。恵子の尽力もまた、彼女の自己満足に過ぎないのだ。

 
こうした、やりきれなく、重い現実を見せ付けられる観客への息抜きだろうか、物語は終盤に至って急転する。

(以下、映画を観ていない方の為に隠します。読みたい方はドラッグ反転してください)
恵子たちのNGOは、幼児売春と仲間の暗殺に対する抗議集会を開催するが、そこにマフィアたちが乗り込み銃撃戦となる。警察が出動し、幼児売春グループは一網打尽となる。―このくだりは、それまでのドキュメンタルかつ静かな展開とは明らかにトーンが異なり、フィクションぽくなる。

また、この現場で、南部もまた、幼児を買った過去を思い出し、自殺するが、この展開も唐突である。無論、南部が施設を訪れた時、子供と戯れるシーンがあり、恵子に「子供が好きなんですか?」と聞かれて言葉を濁すなどの伏線もあるが、それまでのジャーナリストとしての真摯な行動力(恵子に、「見なかったことにするんじゃない。見て、見たままを書くんだ」ときっぱり言うくだりなど)とは大いに違和感がある。南部ですら、完璧な“善”ではない…と言いたかったのだろうか。それは分かる気もするが、私にはすっきりしない何かが残った。事件は終わっても、問題はまだまだ積み残されており、今後も「見て、見たままを書」き続けてもらう為にも、南部には生きていて欲しかった。
↑ ネタバレここまで

ラストシーン。川辺で無邪気に水遊びする子供たちの姿がスローで美しく描かれる。子供とは本来、無垢で穢れなき、未来への人類の希望を託した存在であるはずなのだ。その子供たちを穢す大人たちには激しい怒りを覚えるが、彼らもかつては子供であったはずなのだ。その事を忘れてはならない。

全編、緊迫した阪本演出は、見事の一語である。ネタバレ部分に書いた難点はあるが、それを差し引いても本作は、本年を代表する秀作と言っていい。必見である。    (採点=★★★★☆

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(付記)
タイと言えば、イーライ・ロス監督のグロ映画「ホステル」の元ネタも、タイにおいて実在すると言われている“金さえ出せば殺人を体験出来るビジネス”だそうである。どこまで本当か分からないが、タイのイメージがますます悪くなりそうで心配である(法整備は進んでいる方だそうだが)。

 

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2008年9月 9日 (火)

「片腕マシンガール」

  Machinegirl1

(2007年・FEVER.DREAMS=日活/監督:井口 昇)

アメリカのビデオ製作会社の資本により、日本スタッフ、俳優だけで作られた、B級カルト・スプラッター・ムービー。

ドギツイ、スプラッター描写がある為、日本での公開は無理だと言われていたが、「映画秘宝」誌が取り上げ、ネットでも予告編が公開され、話題を呼んでめでたく日本での公開が実現した。「ホット・ファズ」の輸入といい、「映画秘宝」の尽力には頭が下がる思いである。

公開が限定されている為、私も気にはなっていたが、なかなか鑑賞のチャンスがなかった。
ところが、調べてたら、なんと私の仕事先から歩いて10分!のところにある“神戸アートビレッジセンター”という所で上映している事が分かり、かくして、仕事が終わった後、ゆっくり食事して本作を鑑賞する事に相成ったのである。

近いのはいいが、夜8時20分からの1回のみの上映である。しかも、地下1階の、倉庫のような部屋で、座席がなんと!折畳みパイプ椅子に、座布団が敷いてある(笑)。オイオイ。

映像も恐ろしくヌケが悪い。もっとも、元々ビデオ上映用で、デジタルビデオ撮りだというから映写環境だけのせいでもないようだが。

 
しかし、映画は面白かった。本編が始まる前に、3分ほどのイントロがあり、井口監督と特殊造形担当の西村氏が褌一丁で登場し、「面白い所では盛大に拍手を」と言って拍手の指導をするくだりが楽しい。作者たちははっきり、“この映画はバカ映画ですよ”と宣言しているわけである。ここでノレない人はこの映画を楽しむ資格がないと言えるだろう。
スプラッター描写も、グロと言うよりはおバカで笑える作りであり、ピーター・ジャクソン監督の出世作「ブレインデッド」にテイストは近い。あの作品が好きな人は間違いなく楽しめるだろう。

ヤクザの息子・翔をリーダーとした不良グループのいじめにより、たった一人の弟を亡くした女子高生アミ(八代みなせ)。彼女は弟が遺したノートから、殺した相手の名を知り、復讐を誓うが、翔の父親に捕えられ拷問に合い、片腕を失ってしまう。かろうじて脱出したアミは、同じく息子を失った母親ミキ(亜紗美)に助けられ、ミキの夫が作ったマシンガンを武器に、ミキと共に翔たちに戦いを挑む。…

アメリカのオタク向けのビデオである為、寿司、テンプラ、ヤクザ、忍者、日本刀などの日本ネタが散りばめられている。

笑えるのが、ヤクザである翔の父親・龍二(島津健太郎)が、服部半蔵の血を引く忍者の末裔(笑)で、ジャージ着用の中学忍者部隊!を配下に置き、十字手裏剣が飛び、龍二は武器として空飛ぶギロチン!を使用する…といった具合に、脱力するパロディとギャグがてんこ盛り。タランティーノのグラインドハウスのノリである(服部半蔵や空飛ぶギロチンは「キル・ビル」にも登場するし、片腕ならぬ片足マシンガンは「プラネットテラー in グラインドハウス」でおなじみ)。

空飛ぶギロチンのオリジナルは香港映画「片腕カンフー対空飛ぶギロチン」。そう、こちらもヒーローは片腕である。

マシンガンの型は、どちらかと言うとマカロニ西部劇に登場するガトリング砲。セーラー服の少女が片腕マシンガンをぶっ放すシーンはなかなかカッコいい。「スケバン刑事」といい、「BLOOD The Last Vampire」といい、セーラー服は戦う少女の戦闘服(「スケバン刑事」のキャッチコピー)なのだ。「セーラー服と機関銃」という映画もありましたなぁ。

 
突っ込みどころも満載だし(自動車修理工場主がなんで機関銃を製造出来るの?とか、アミが飛び上がるシーンで無いはずの左手が生えてたり…とか)、予算不足でSFXも特殊造形もチープだとか、役者がヘタでアクションもゆるい…とか、難点は多い。

しかし、そうした難点を補って余りある、井口監督のエンタティンメントとしての過剰なまでのサービス精神には素直に脱帽したい。

 
日本映画が面白かった時代には、そうした観客を楽しませる、過剰なまでのサービス、猥雑なバイタリティが画面狭しと溢れていた。鈴木則文監督のポルノ・コメディやB級アクション、石井輝男監督の「直撃地獄拳・大逆転」、三隅研次監督の「子連れ狼」シリーズ…等々である(ちなみに、すべて東映、東宝等の大手会社配給である)。なお、井口監督の尊敬する監督の1人は鈴木則文さんだそうである。

日本映画が元気がなくなると同時に、こうしたふてぶてしいまでのバイタリティに溢れた映画は影を潜めてしまった。
しかし、映画の根源的な面白さは、そうした猥雑で過剰なサービス精神から生まれるものである。

タランティーノが、こうした過剰なサービス精神溢れる日本映画を愛し、リスペクトを捧げてくれたおかげで(また、「映画秘宝」誌等の努力のおかげで)、そうした映画が見直され始めているのはまことに喜ばしい事である。
もっともっと、特に日本国内でも、サービス精神溢れるB級映画を作って欲しい。そういった作家が、三池崇史や井口昇以外にも、もっと登場して欲しいと願う。

ともあれ、B級おバカ映画を愛する人にはお奨めの怪?作である。主演の八代みなせが可愛いうえに、スタントなしのアクションをこなしているのもお見事である。井口監督には、もっと予算を与えて、「キル・ビル」ばりの豪華なおバカ映画を作らせてあげて欲しい。次回作も楽しみに待ちたい。    (採点=★★★★

 予告編はこちら ↓
 http://jp.youtube.com/watch?v=h7xqgf43ibk

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2008年9月 8日 (月)

「ロードショー」誌の休刊に思うこと

Roadshow_2 先ごろ、映画雑誌「ロードショー」が休刊になるとのニュースが話題になりました。

私は、「ロードショー」など、ほとんど読んではおりませんでしたので、雑誌がなくなる事に、特に感慨はありません。

それに、「ロードショー」誌は後発で、創刊が1972年、…まだ36年の歴史しかありませんし。老舗の「スクリーン」誌が休刊にでもなれば少しは感慨が湧くかも知れませんが。

しかし、この雑誌が何故休刊に至ったか、その理由をいろいろ考えてみると、その背後には現在の映画界の置かれた状況や、映画観客の動向などが密接に絡んでいる…という点が見えて来た気もします。その辺りを検証してみましょう。

 
「スクリーン」、「ロードショー」誌は、映画雑誌と言っても、批評・作品研究中心の「キネ旬」や「映画芸術」誌とは異なり、正確には、“外国映画スターのファン向け雑誌”と言った方が正しいでしょう。映画スターのブロマイド、グラビア写真、ゴシップ記事を満載した、映画スターに胸ときめかせる若い人向け雑誌…といった所でしょう。
(ちなみに、日本映画のスター・ファン向け雑誌としては、「スクリーン」を出してる近代映画社が発行する「近代映画」がありましたが、現在は「KINDAI」と雑誌名を変え、どちらかと言うと映画よりもジャニーズ・タレントが中心で、もはや映画雑誌とは言いかねます)

何故このような雑誌が売れてるかと言うと、そもそも昔の映画観客は、映画の内容よりも、出演しているスター目当てで映画館に通っていたのです。人気スターが出ておれば、乱暴な言い方をすれば、映画の中身などどうでもいいといった感じだったのです。

これは、映画創世記からの一貫した流れで、戦前はエロール・フリン、ダグラス・フェアバンクス、グレタ・ガルボ、戦後はジェラール・フィリップ、アラン・ドロン、オードリー・ヘップバーン、スティーブ・マックィーン…と、超有名スターが映画雑誌の表紙を飾り、彼ら、彼女らが出演していれば映画はいつも大ヒットしたものです。

無論、日本映画も、戦前はバンツマ、アラカン、林長二郎(後の長谷川一夫)、田中絹代、山田五十鈴、戦後は、特に全盛を誇った昭和30年代には、日活なら石原裕次郎、小林旭、吉永小百合、東映は中村錦之助、大川橋蔵、片岡千恵蔵、市川右太衛門、大映は市川雷蔵、勝新太郎、山本富士子、東宝は三船敏郎、加山雄三、松竹、東宝掛け持ちで原節子…と百花繚乱。映画人気は、ひとえに映画スター人気のおかげだったわけです。

彼らの出演作の中には、一流監督の映画史に残る名作もありますがそれらはごく僅か、大半は毎回ワンパターンの、他愛ない娯楽映画でした。
逆に、小津安二郎や黒澤明、木下恵介などの一流監督が、芸術性の高い映画でも、とにかくも作れたのは、原節子、三船敏郎、佐田啓二・高峰秀子などの人気スターを主演にしていたからです。

日本映画が1970年代以降急速に衰退し、ジリ貧になって行ったのは、スターの賞味期限が切れ、新しいスターが登場しなくなった(と言うよりも、スターを作り出す努力をしなかった)のが大きな原因であると言えます。

洋画はその点、常に新しいスターが誕生したし、話題作りもうまかった事もあり、どんどんシェアを伸ばして行きます。

 
'70年代後半から、角川春樹が登場し、邦画界に角川映画ブームが巻き起こりましたが、これもヒットの要因は、薬師丸ひろ子、原田知世、松田優作といったスターを中心に据えた戦略のおかげです。

その角川春樹が薬物問題を起こして消えた後は、日本映画はさらに低迷を続け、1980年代末期には、遂に配給収入における邦・洋のシェアが逆転し、洋画シェアが全体の50%を越え、これはつい最近まで続きました(最大で、洋画シェアが73%に達した事もあります)。

一時は、日本映画はどん底状態でした。何よりも、ファッショナブルさを求める若い人に、日本映画は徹底的に嫌われました。日本映画の話をすると、「日本映画?ダサイ、暗い、ショボイ、貧相」と散々バカにされ、ほとんどの若い子は100%洋画しか見ない状態でした。ひどいのになると、「日本映画を見る」と言ったら、「えー、日本映画って、ヤクザもんとポルノばっかでしょ?」と蔑まれ、日本映画ファンは変わり者扱いされた、そんな時代だったのです(信じられないでしょうが、事実です(笑))。

ここ数年、日本映画が復活の兆しを見せ始めたのは、色々理由が考えられますが、主だったものでは、
① シネコンが普及し、邦画・洋画の上映館の区別が薄れて来て(昔はブロック・ブッキングで邦画は(一部例外を除いて)邦画専門館でのみ上映されてました)、さらに洋画が混んでれば、邦画でも観ようか…という選択肢も出て来た。
② 邦画にも若いスターが登場し、映画自体もファッショナブルな感覚のものが作られるようになって若い観客の抵抗がなくなった。
③ テレビ局が、ヒットしたテレビドラマを映画化し、テレビとの相乗効果でそれらの作品がヒットするようになった。

等が挙げられるでしょうが、特に②が大きいでしょう。小栗旬、松本潤、松田翔太などの若手スターが登場して、彼らの主演する「クロースZERO」、「花より男子FINAL」が予想外の大ヒットを記録したのもその為でしょう。

日本のスターを扱ったファン雑誌も増え、もう昔のように「日本映画、暗い、ダサい」とも言われなくなりました。最近では、「スクリ-ン」、「ロードショー」誌ですら、日本映画の話題がかなり取り上げられているくらいです(数年前までは、これら雑誌に日本映画が取り上げられる事は限りなくゼロでした)。日本映画不遇の時代を知っている私にとっては、隔世の感があります。

反対に、、洋画シェアが落ち込んで来たのは、洋画の刺激的なCG・SFX映画が飽きられて来た事と、もう一つは、新しいスターが登場していない事が理由でしょう。トム・クルーズ、キアヌ・リーブスは賞味期限切れ、シュワちゃんは政界に進出、新進のオーランド・ブルームは線が細い…何より、60歳を超えたハリソン・フォード、S・スタローン、50歳代のブルース・ウィリス主演の人気シリーズを復活せざるを得ない状況が、スター不在の深刻さを物語っています。

 
「ロードショー」誌が部数を落として来て、遂に休刊に至った理由は、この他にも、競争相手の増加(スターの動向中心の映画ファン向け雑誌は、今では2大誌以外に「CUT],「FLIX」、「MOVIESTAR」なども参入し、乱立気味)、インターネット、モバイルの普及により、人気スターに関する情報収集ルートが多様化し、映画雑誌に頼らなくてもスターの動向・ニュースが容易に入手可能になった事…等が挙げられるでしょう。

しかし、一番の理由は、もう昔の、“洋画スター(これは、はっきり言ってアメリカ、ヨーロッパに限定されます)を看板にして映画雑誌が売れた時代は終わった”…即ち、洋画スターにあこがれた時代の終焉…が最大の理由ではないかと私は思っております(外国映画スターの国籍も多様化し、ジャッキー・チェン、レスリー・チャン、チャン・ドンゴンと、アジア・スターが台頭した事も、同じような顔をした日本人俳優への抵抗感の払拭に役立っていると思えます)。
仮に新しい洋画スターが登場したとしても、昔ほど飛びつく人は少ないのではないでしょうか。

そうした時代の変化を端的に象徴したのが、「ロードショー」休刊ではないか…というのが私なりの結論です。

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2008年9月 1日 (月)

「アクロス・ザ・ユニバース」

Acrosstheuniverse (2007年・レボルーション・スタジオ/監督:ジュリー・テイモア)

「ライオン・キング」でブロードウェイ・ミュージカルに新風を巻き起こした女流演出家、ジュリー・テイモア監督による、ビートルズの名曲33曲をそのまま使った青春ミュージカル。

1960年代、イギリスのリバプール(=ビートルズの出身地)からアメリカへ、父親を捜しにやってきたジュード(ジム・スタージェス)は、ひょんな事からアメリカの若者マックス(ジョー・アンダーソン)やその妹ルーシー(エヴァン・レイチェル・ウッド)と知り合う。彼らはニューヨークで音楽を志す若者たちとも交流を重ね、やがてジュードはルーシーと恋に落ちるが、マックスはベトナムへ派兵され、ルーシーは反戦運動に身を投じ、彼らは時代変革の大きな波に飲み込まれて行く…。

取り上げられたビートルズの歌曲は、歌詞はオリジナルのままだが、実にうまく物語に溶け込んでいる。おそらく、ほとんどすべてのビートルズ曲の歌詞をチェックし、物語に合う曲をピックアップしつつ、歌詞に合わせて物語をアレンジしたのだろう。
友情を歌う「ウイズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンド」、革命が大切かい?と皮肉る「レボルーション」、落ち込んだジュードを慰める「ヘイ・ジュード」(元々はジョン・レノンの息子を慰める為ポールが作った歌)などは特に効果的に物語に絡んでいる。
「アイ・ウォント・ユー」など、元々は愛の歌なのに、ベトナム徴兵の為の兵士募集の歌になっているのには笑った。
「抱きしめたい」「オール・マイ・ラビング」なども、原曲はアップテンポのロックだが、スローテンポのラブ・バラード風にアレンジされていて胸キュンとなる。ビートルズ・ファンにはたまらない。

登場人物の名前も、ほとんどがビートルズの曲名から採られている。ジュード、ルーシー、プルーデンスは劇中で歌われる曲の中にあるのですぐ分かるが、家主で歌手のセディ(ディナ・ヒュークス)は、「セクシー・セディから。マックスは、多分マックスウェルズ・シルバー・ハンマー」からだろう。マックスがセディと初対面した時、「ハンマーは持ってる?」と意味不明の質問をされるが、この題名を知ってればニヤリと出来るはず。
中盤のパーティで紹介される、ドクター・ロバート(なんとU2のボノが演じている)は、ジョンの作った「ドクター・ロバート」から。ちなみに、ドクター・ロバートはニューヨーク(ロンドンという説もあり)に実在した、ロック歌手にドラッグを調達していた医師である(Wikipedia参照)。こういうエピソードを知っていると、余計映画が楽しめるのである。
ドクター・ロバートが走らせるバスは「マジカル・ミステリー・ツァー」(ポールの案に基づくテレビ映画)に登場するバスとそっくりなのも芸が細かい。

ラストの屋上ライブは、映画「レット・イット・ビー」を見ている人には、懐かしさで胸いっぱいになるだろう。

ついでだが、セリフの中にも、あちこちに曲のタイトルが出てくる。
最初の方で、「64歳まで働くとは…」というセリフが出てくるが、これはポールの作った曲「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」から。
プルーデンスが最初に登場した時にジュードが言う「彼女はバスルームの窓から入って来た」。これもポールの曲「シー・ケイム・イン・スルー・ザ・バスルーム・ウィンドゥ」のタイトルそのまんま。
字幕でははっきりしないが、この他にもビートルズの曲名をさりげなくセリフに入れていると思われる。

 
しかし、この映画のポイントは、やはり60年代に吹き荒れたカウンター・カルチャー(無論ビートルズ旋風を含む)、反体制ムーブメント等の時代のうねりを巧妙に網羅し、60年代という時代を振り返っている点にある。
ベトナム戦争の泥沼化、それに伴う反戦運動の盛り上がり、大学紛争、ヒッピー、ドラッグ、LSD、サイケデリック・ファッション…思えば大きな時代の変革期であった。ルーシーの仲間たちが学園闘争の敗北から過激化し、爆弾闘争へと突き進む過程は、我が国の連合赤軍が辿った道を彷彿とさせる(その世界的な流れを感覚として受け止めないと、何故連赤が誕生したのか、理解出来ないだろう)。

60年代末期のアメリカン・ニューシネマの傑作群、「イージー・ライダー」「真夜中のカーボーイ」「いちご白書」を連想させるシーンもいくつかある。ヒッピー、ドラッグ、サイケデリックな映像は「イージー-」だし、ニューヨークのみすぼらしい風景は「真夜中の-」、学園紛争シーンは「いちご白書」とそっくりだ(ご丁寧に、警官隊に鎮圧される大学は「いちご-」の舞台と同じコロンビア大学である)。

そんなわけで、この映画は、ビートルズ・ファンは必見であるのみならず、60年代に青春を送った、特に、いわゆる全共闘世代の人たちには、当時を思い出し、泣ける事間違いなしの必見作なのである。…逆に、当時を知らない若い人には、延々と続くサイケな映像など、退屈で辟易するかも知れないが…。

私はと言えば、ビートルズの大ファン、LP、CDはほぼ全部持ってるし、当時の世相も体験しているので、ついでに「いちご白書」も大好きな作品なのでもう大感激。個人的には★★★★★を進呈したいが、ぐっと抑えて…。でも公平に見ても、(採点=★★★★☆)は妥当な、本年屈指のミュージカル映画の快作である。 

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(で、お楽しみはココからだ)
原案・脚本を担当したディック・クレメント、イアン・ラ・フレネの名前には見覚えがある。イギリス出身で、初期の頃にはマイケル・ウイナー監督のちょっとユニークな佳作「ジョーカー野郎」(66)、「脱走山脈」(68)も手がけている。息の長いコンビである。

その後にこの2人が脚本を手がけたのが、アラン・パーカー監督の佳作「ザ・コミットメンツ」(91)。あの作品も、ダブリンでバンド活動をする若者たちを描いており、“音楽に青春を燃やす若者群像”というテーマは共通している。

さらにその7年後、“20年ぶりに復活をめざす伝説のロック・バンドの姿”をコミカルに描いて注目された、「スティル・クレイジー」(98・ブライアン・ギブソン監督)の脚本を手がけたのもこの2人。

両作とも、微妙にビートルズと、それ以後に雨後のタケノコのように誕生したイギリス・ロック・グループの残像を思わせる若者たちが主人公である。
またこの人たちが脚本を書き始めた頃がビートルズ最盛期である事から、おそらく2人は、イギリスにおいてビートルズの誕生から解散までもずっと目撃して来たものと思われる。ロック・ミュージックにも造詣が深そうだし。
そう考えれば、本作に両名が起用されたのも、十分納得出来るのである(しかし40年以上も同じコンビを続けている脚本家チーム…というのも珍しい)。

(9/3 付記)
興味があってクレメントのフィルモグラフィを調べていたら、面白いものを見つけた。

'83年製作の「冒険・冒険・大冒険/ホラ吹きキャプテンの大冒険」、'85年製作の「レゲエdeゲリラ」(共に日本では劇場未公開。ビデオのみ発売)。いずれもディック・クレメントが監督を担当している作品だが、どちらも、製作総指揮がなんとジョージ・ハリソン!。
「バンディットQ」(テリー・ギリアム監督)などを製作した、ハリソン率いるハンドメイド・フィルムズ作品である。

前者は脚本にはタッチせず、監督のみ(イアン・ラ・フレネはプロデュースのみ)の作品だが、後者はラ・フレネと共同で脚本も手掛けている。
特に、「レゲエdeゲリラ」の方には、ジョージ・ハリソン、リンゴ・スターが出演し、エリック・クラプトンまでゲスト出演して、なんとラストではこのメンバーでバンド・セッションまで行っているそうだ。

つまりは、クレメント=ラ・フレネのコンビは、「アクロス-」の20数年も前に、既に(元)ビートルズとは接点があったという事なのである。

作品的には、両作とも他愛ない(と言うかかなりくだらなさそう(笑))コメディのようで、ビデオも廃盤になっているようだ。

しかし「レゲエdeゲリラ」の方は、ビートルズ解散後では珍しい、ジョージとリンゴ共演作という事もあって(主演がマイケル・ケインというのもすごい。よく出たなぁ(笑))、俄然観たくなってTSUTAYAで探したが、残念ながら置いてなかった。

とりあえずインプットしておこう。どっかのテレビで深夜にでもやってくれないかな。

 

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