「私は貝になりたい」
1958年、テレビ黎明期の同名秀作ドラマ(演出:岡本愛彦)の、2度目の劇場版リメイク。同作の脚本を手掛けた橋本忍が、50年ぶりに自らリライトを行った。
橋本忍と言えば、私たちの世代にとっては畏敬の念を禁じ得ない、雲の上の人のような存在である。
デビュー作がいきなり、ヴェネチア映画祭グランプリを獲得した「羅生門」。以後、黒澤明のよき片腕として「生きる」、「七人の侍」、「蜘蛛巣城」、「隠し砦の三悪人」等のメイン脚本家として活躍し、その他では、「真昼の暗黒」、「白い巨塔」、「上意討ち-拝領妻始末」がいずれもキネマ旬報ベストワンを獲得。「生きる」を含めればベストワン4回!さらに「切腹」、「日本のいちばん長い日」、「風林火山」、「日本沈没」、「八甲田山」、松本清張原作「黒い画集-あるサラリーマンの証言」、「張込み」、「影の車」、「砂の器」…とまあ、どれも映画史に残る傑作揃い。
ある意味、戦後の日本映画史そのものといった存在で、しかも90歳になる今も現役で、本作の脚本も手掛けているのがまた凄い。
(それにしても、96歳で健在の新藤兼人、106歳まで長生きした「座頭市物語」等の犬塚稔といい、シナリオ・ライターは監督よりうんと長命であるようだ(笑)。現に、上記に挙げた作品の監督は全員、今はこの世にいない)。
さて、岡本愛彦演出のテレビ版は、当時大変な反響を呼び、その勢いで翌'59年には、橋本忍自身の監督第1回作品として映画化もされた。
そんな思い入れの深い作品のリメイクにあたって、自作を直さないという橋本が、今回は大幅な書き直しを行い、いくつかのエピソードが追加され、岡本版(90分)よりもなんと50分も時間が長くなっている。
オリジナルは昔見て、うろ覚えだが、本作に追加されているのは、
①主人公豊松(中居正広)が妻房枝(仲間由紀恵)と出会い、旅の末に高知の今の町で理髪店を開業するまでの回想
②面会に来た妻子との金網越の触れ合い(赤ん坊の指にキスするシーンが印象的)
③房江が除名嘆願書の署名を集める為、赤ん坊を背負い、方々を歩き回るシーン …あたりではないか。
その他、矢野中将が、処刑の際に言い残す言葉も長くなっているようだ。
特に①と③にはかなりの時間が割かれている。
この2つのシークェンスについては、いずれも日本各地でロケされ、中でも①では海を望む岬の風景、③では紅葉の山々や、雪深い村などの大自然の風景…が丹念に描かれ、私などはつい、橋本プロ作品(橋本忍脚本)「砂の器」や「八甲田山」等を連想してしまった。そう言えば、監督の福澤克雄はテレビ版「砂の器」の演出(なんと主演も中居正広)を手掛けていたのも奇しき因縁か。
観る前は、主演の二人がどうも軽い印象で、少々心配だったのだが、思った以上に良い出来で、特に中居が鬼気迫る迫真の演技。仲間由紀恵も夫を愛する妻役を好演。ロケが効果的で、雄大な自然の中における、人間というちっぽけな存在の悲しさがよく表現されていた。
豊松の、妻や、我が子に対する深い愛、妻の献身的な愛情…もよく描かれている。
その、家族の幸福を無残にも奪い去ってしまう、戦争の理不尽さが浮かび上がる。福澤克雄の演出も、これが劇場第1作とは思えないくらい、堂々たる“映画”になっている。
その点では、よく出来た作品になっている…と言えるだろう。
…だが、観終わって、引っ掛かりを感じた事がある。
それは、題名の持つ意味である。
黒澤明は、橋本が監督した劇場版の脚本について、「橋本よ、これじゃあ貝にはなれねぇんじゃないかな」と批判したそうだ。
橋本は、この言葉がずっと心に残っていたと言い、それが前述のような、大幅なリライトに繋がった事はよく分かる。
だが、それが、黒澤の批判に対する答えになっていただろうか。
豊松は処刑に際し、次の遺書を残した。「今度生まれ変わるなら、人間になんかなりたくない。牛か馬か。いやそれでも人間にひどい目にあわされる。いっそ、深い海の底の貝にでも…。貝だったら、兵隊にとられることもない。戦争もない。房江や、健一や直子の事を心配することもない。どうしても生まれ代わらなければならないのなら、私は貝になりたい……」
この遺書から感じられるのは、深い人間不信である。すべての人間が信じられない、人間とは付き合いたくない…という底知れぬ絶望を感じたとしか思えない。「房江や、健一や直子の事を心配することもない」に至っては、家族の絆すら放棄したいと言っているのである。
これほどの思いに至るなら、豊松は、信用していた、あらゆる人間から裏切られたか、冷たい仕打ちを受けたか、いずれにせよ、人間嫌いに陥った事になる。
だが、ドラマでは豊松は、軍隊では痛めつけられ、裁判では死刑宣告されたものの、同房者には親切にされ、矢野中将(石坂浩二)とも心が打ち解けあい、看守のアメリカ兵にも優しくされ、そして何より、200人の助命嘆願書を集めてくれた妻・房江には感謝しても感謝しきれないほどの思いを感じた事だろう。
彼の事を心配してくれる村の人々も含め、この映画には、何だか善意の人ばかりが登場している。
私の受け止め方としては、裁判では理不尽な結果が出たであろうが、彼を支えてくれた多くの人々の善意や誠意を受け入れ、死に際しての遺書は、「房江や、健一や直子を愛している。お前たちの事は忘れない。自分を支えてくれた多くの人、とりわけ妻・房江の献身には深く感謝する」くらいの事を書いても良かったのではないか。「人間になりたくない、海の底の貝になりたい」という、人間不信に満ちた遺書とはどうしても繋がらないのである。
生きて行く事は厳しい。戦争はもっと過酷である。豊松は、内地での戦闘訓練だけで終戦を迎え、戦地には赴いていない。戦地に行けば、そこは地獄である。「野火」、「軍旗はためく下に」等の作品に見るように、兵士は爆撃に怯え、飢餓に苛まれ、やがては手足をもがれ、のたうち、苦しみながら、家族を思い、死んで行ったのである。遺骨は今も遥か南方に残されたままの兵士も数多くいる。
…そうした地獄の中で死んで行った兵士たちに比べれば、とりあえずは戦後の数年間を家族と共に平和に生き、飢える事もなく、生き地獄を味わう事もなく、周囲の善意に包まれ、死んで行った豊松は、まだ幸福な方ではないか。
全ての人間を恨むのは、筋が違っているのではないだろうか。
黒澤明が、「これじゃあ貝にはなれない」と言ったのは、そうした、戦争の愚かしさに対する怒り、人間が歴史の上で犯した過ちに対する深い絶望感―が描けていない…という事ではなかったか、と思えるのである。
(思えば、黒澤は自作の「羅生門」、「生きものの記録」、「悪い奴ほどよく眠る」等で、人間不信、人間に対する絶望と怒り―を一貫して描いて来た作家である。奇しくも、すべて橋本忍との共作である)
橋本忍は、おそらくは優しすぎる作家なのだろう。「砂の器」では、原作では冷酷な殺人犯である和賀英良を、原作とはガラッと変えて、同情すべき人物にしてしまった事からもその事が覗える。
黒澤の指摘に答えるべく、追加した部分は、人の善意と、妻の献身ぶりがより強調された、やや甘い内容となり、結果として余計黒澤の指摘から遠ざかった、「貝になれない」作品になってしまったのだとしたら、皮肉な結果と言わざるを得ない(もっともこれらは私の独断で、黒澤の意図がどこにあったかは誰も判らない)。
と、やや厳しい意見になってしまったが、橋本忍が日本映画界に残した偉大な功績が色あせるわけでは、決してない事は強調しておきたい。 (採点=★★★★)
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コメント
私も同じ事を感じました。
良く出来た映画ではあるのですが、タイトルの遺書、つまりは豊松の最期の心情が、どうしても物語に合致しない。
オリジナルとは細かい点は結構変わっているのですが、この根本的な部分には手は付けられなかった様ですね。
まあここをいじると「私は貝になりたい」じゃなくなってしまうのですけど。
投稿: ノラネコ | 2008年12月 2日 (火) 23:44
こんにちは。
>黒澤の指摘に答えるべく、追加した部分は、人の善意と、妻の献身ぶりがより強調された、やや甘い内容となり、結果として余計黒澤の指摘から遠ざかった、「貝になれない」作品になってしまったのだとしたら、皮肉な結果と言わざるを得ない
まさにここに尽きるでしょうね。
厭戦、絶望を描くのに、
普通の反戦、ヒューマニズムの罠に陥ってしまった。
今の時代、イノセンスな反戦映画やヒューマニズム映画を作るのは、
とても難しくなっている気がします。
とはいえ、それでも
この映画が世間に広く受け入れられ、
大ヒットしているとしたら、
それはそれで喜ばしいことなのかもしれませんが……。
投稿: えい | 2008年12月 6日 (土) 14:23
>ノラネコさん
>まあここをいじると「私は貝になりたい」じゃなくなってしまうのですけど。
そういう事ですね。オリジナルの根本をいじると、元の作品とは別の作品になってしまう。結局元の作品に、今風の泣ける要素を追加して膨らませただけに終わった…と言えるでしょう。
演出も、俳優もみんな凄く頑張ってるのにね。
>えいさん
>それでも、この映画が世間に広く受け入れられ、大ヒットしているとしたら、
それはそれで喜ばしいことなのかもしれませんが……。
中居正広が出演してて、番宣に出まくっているおかげかも知れません(笑)。
良くも悪くも、スター映画で、中居君が予想以上の熱演で頑張った成果が現れていると言えましょう。
オリジナルは、作品のテーマが反響を呼んで話題になったのですが、今は、テーマだけで客を呼ぶのは、難しい時代になったとは言えるでしょう。
中居君目当てで見に来て、それで見た後、作品のテーマを考えてくれるようなら有難いのですが…。
投稿: Kei(管理人) | 2008年12月 8日 (月) 01:26