「ベンジャミン・バトン -数奇な人生-」
(2008年・WB=Par/監督:デヴィッド・フィンチャー)
80歳の肉体を持って生まれ、年齢を経るごとに若返って行く、数奇な生涯を歩んだ男の一生を描いた感動の物語。
小説家のマーク・トウェインが「もし80歳で生まれて、ゆっくりと18歳に近づいていければどんなに幸せだろう」と語った事にインスパイアされ、F・スコット・フィッツジェラルドが書いた短編小説を元に、「フォレスト・ガンプ」でアカデミー脚本賞を受賞したエリック・ロスが脚色、「セブン」、「ゾディアック」のデヴィッド・フィンチャーが演出を担当した。
普通では、体が若返って行くなんて事はありえない。だからこれはファンタジーであり、“人の一生とは、生きるという事は何なのだろうか”という壮大なテーマについて深く考えさせてくれる、大人の寓話である。
物語は、死の床にある一人の女性、デイジー(ケイト・ブランシェット)が、彼女が深く愛した主人公ベンジャミン・バトン(ブラッド・ピット)の一生を回想する形式で描かれる。
彼女はその前に、第一次大戦で息子を失った盲目の時計技師が、“もし時間が逆に流れたら、戦争で死んだ息子が帰って来るかも知れない”…という思いで、逆周りに針が回転する大時計を作った話を語る。
このエピソードは、本筋とは関係はないものの、80歳で生まれ、若返るベンジャミンの一生もまた逆回転の人生であり、逆に回る時計がそれを象徴しているわけだが、同時にもう一つの大事なテーマ、“時の流れの無常”をも浮かび上がらせていると見る事が出来る。
おそらくは、マーク・トゥエインが上記のような言葉を語った理由には、“老いて行く事への悲しみ”があったのではないかと思う。
人間は、歳を取るにつれて、老いを意識するにつれて、“若さを取り戻せたら”、“人生をもう一度やり直せたら”、“過去の自分に戻れたら”、等を考える。
年齢を経ても創作意欲が旺盛な作家であれば、自らの願望として、そうした物語を創案するケースも多々ある。
“不老不死”をテーマとした作品が度々作られるのは、その為である。
若返る秘薬をめぐるコメディ「永遠に美しく」(92・ロバート・ゼメキス監督)という映画もあったし、手塚治虫は「火の鳥」で何度か、永遠の命(未来編)、若返る男(宇宙編)をテーマとした作品を発表している。
手塚と言えば、「ふしぎなメルモ」でも若返りの薬が登場するし、「鉄腕アトム」にも“若返りガス”で赤ん坊になってしまうエピソードが登場している。どうやら若返りは、手塚の永遠の願望であるようだ(笑)。
マーク・トゥエインも、「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」など、子供たちの冒険物語を多く書いているが、これも若さへの、少年時代への憧憬なのかも知れない。
“まだ人間として未熟な子供時代は、どんな体だろうと関係ないが、60歳を過ぎても、まだまだこれから人生を謳歌したい、エネルギッシュに創作に励みたいと思うその年代こそ、若い肉体が欲しい”…そうした思いが、冒頭の言葉には込められているのかも知れない。
さて本題に戻るが、80歳の肉体を持って生まれたベンジャミンは、その醜い体にショックを受けた父親に捨てられ、老人介護施設で働く黒人女性のクィニー(タラジ・P・ヘンソン)に拾われ、育てられる事となる。
やがてベンジャミンは成長するにつれて、彼と同じ容貌の、施設で暮らす老人たちが次々と亡くなって行くさまを目撃する。…人生の終焉を迎えた老人たちと対照的に、ベンジャミンは、まるでそれら老人たちの命を吸収するかのように、若返って行くのである。
ベンジャミンは、やがて施設を出て、さまざまな人たちと出会い、別れ、恋を知り、人生とは何かを学んで行く。
しかしその人生は、「フォレスト・ガンプ」のように波乱万丈でもなく、歴史上の人物と出会う事もなく、ごく普通の、平凡な人生である。肉体の変化以外は…。
そうした、我々と同じ普通の一生であるがゆえに、“人生とは、人の生涯とは何なのだろうか”というテーマが、よりリアリティをもって我々の心に迫って来るのである。
そうした人生の中で、彼はデイジー(ケイト・ブランシェット)という女性と出会う。後に彼女はベンジャミンの生涯の伴侶となるのだが、幼い時の二人の付き合いは、単なる、孤独な老人と子供の交流のようにしか見えない。デイジーも子供の頃は、ベンジャミンの肉体の秘密を知らず、彼を本物の老人、としか思っていなかったはずである。
ベンジャミンが若返り、デイジーが大人へと成長して、両者の容貌が近づくにつれて、ようやく二人は本当の恋を知る事となる。
そして、ベンジャミンがどんどん若くなり、デイジーが老人になるにつれ、再び両者に微妙なズレが発生し、二人は離れ離れとなる。
ベンジャミンにとっては、老いさらばえて行くデイジーに比べ、若い肉体を獲得して行く自分の姿を見せ続けるのは忍びない…という思いがあったのかも知れない。
これが、幼い時から二人とも同じように子供→大人→老人…という普通の肉体の変化を辿っていたなら、二人は幼馴染みからの付き合い、ごくありふれた結婚生活を経て、やがて老いて死ぬまで共に寄り添い、普通の生涯を送ったかも知れない。
ここで、トゥエインが語った、“ゆっくりと18歳に近づいていければどんなに幸せだろう”という言葉が、実は誤りである事が鮮明となる。
やはり人間は、普通に成長し、若い青春時代に同世代の異性と恋をし、共に老いて行くのが幸せなのである。
では、ベンジャミンの人生は不幸だったのか…それも違う。
ベンジャミンとデイジーが、ほぼ同時代の容貌と肉体を持っていた、40歳代に、二人は燃えるような恋をする。…それは、同じ肉体でいられる時間が短いがゆえに、その限られた、かけがえのない時を真摯に生き、愛し合えた事を示している。少なくとも、その短い時間の間、二人は至福の時を過ごしたはずなのである。
人生は短い。その中でも数奇な運命を持った二人のそれは、さらに短い、それゆえ凝縮された人生を歩んだと言えるのである。
時は残酷である。至福の時間はあっという間に過ぎて行き、そして決して戻っては来ないのである。
それでも人は生きて行く。人は限りある時間を、かけがえのない人生を、精一杯に生きて行かなければならないのである。
ついでだが、デイジーが事故でバレリーナの夢を断たれるエピソードにおいて、“もしもあの時…だったら”という言葉が繰り返し出てくるが、これもまた、前掲のテーマ“過ぎ去った時は決して戻って来ない―時の流れの無常観”をより際立たせて、印象的である。
いつものケレンを封印し、デヴィッド・フィンチャーは、ベンジャミンの不思議な人生を、落ち着いた、風格をさえ感じさせる見事な演出で描いて見せる。格段に進歩した特殊メイクとCG技術が、奇想天外な物語にリアリティを持たせ、人生について考えさせる、素晴らしい映画を誕生させた。これはフィンチャーの、これまでの最高傑作であろう。まだ早いが、今年のベスト3に入れたい秀作である。 (採点=★★★★★)
(付記1)
アカデミー賞が2日後に発表されるが、個人的には作品賞、監督賞、脚色賞、そして視覚効果賞,メイクアップ賞は当確である。助演女優賞も育ての母クィニー役を好演したタラジ・P・ヘンソンに個人的にはあげたいが、強敵が多いので無理かな。ブラピは特殊メイクとCGのおかげが大きいので主演賞とは言えないだろう。蛇足になるが、撮影賞、美術・装置賞はイーストウッドの「チェンジリング」が取りそうな気がするが…。
(付記2)
ブラピは、デビュー当時“ロバート・レッドフォードの再来”と騒がれたが、本作の後半で見せる、CGによる20歳代のブラピの顔は、本当に若い頃のレッドフォードによく似ている。
で、本作の原作者、F・スコット・フィッツジェラルドの映画化作品「華麗なるギャツビー」の主演が、そのR・レッドフォードである。これもまた、数奇な因縁ではある。
| 固定リンク
コメント