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2009年2月27日 (金)

「おくりびと」受賞で思うこと― ピンク映画出身である事を何故隠すのか

Okuribito3 「おくりびと」がアカデミー外国語映画賞を受賞して、マスコミも映画館も大賑わいである。

暗い話題が多い最近では、大変明るいニュースであるし、古くからのファンである滝田洋二郎監督にも、心から祝福を送りたい。

…であるが、少々文句を言いたい事。

あまりテレビを見ている方ではないので、他ではどうだったか知らないが、TBSの「NEWS23」や「みのもんたの朝ズバッ!」等における、滝田監督の経歴紹介で、いずれも、学校卒業後、“映画製作会社に助監督として入社”の後、いきなり“'85年の「コミック雑誌なんかいらない!」で注目される”と飛んでいるのである。

その間、数多くのピンク映画を監督して来た事は、まるで無視されているのである。無論その映画製作会社が、ピンク映画プロダクションである事も伏せられている。

具体的に言うと、高校卒業後、'74年にピンク映画専門のプロダクション、獅子プロに入社、助監督として多くのピンク映画製作現場で修業の後、81年、「痴漢女教師」で監督デビュー。
以後、85年に「コミック雑誌なんかいらない!」(公開は86年2月)で一般映画(この呼び方も気に入らないが)に進出後も、'87年までの間に、ピンク映画25本、日活にてロマンポルノを2本監督している。

単にエロ映画を撮っていたというだけではない。厳しい条件下で映画作りのノウハウを学び、修業した、そのキャリアの積み重ねが、その後の一般映画で実を結んだ―という事なのである。

滝田監督だけではない、現在一線で活躍している映画作家の中に、ピンク映画を作っていた人が少なからずいるのである。

例を挙げると、
今や作る作品どれもベストワンの、日本を代表する作家・周防正行(デビュー作は小津映画のパロディ「変態家族 兄貴の嫁さん」)、
「光の雨」「火火」に、今年は「禅 ZEN」で気を吐く高橋伴明(ピンク歴はその数約50本!)、
テレビ「相棒」シリーズが大人気で映画もヒットした和泉聖治(こちらもピンク映画を60本近く量産)、
「パッチギ!」でベストワンを獲得した井筒和幸も、デビュー作は「いくいくマイトガイ 性春の悶々」。
海外でも評価が高く、昨年は「トウキョウソナタ」が評判となった黒沢清も、「神田川淫乱戦争」等のピンク監督作がある。
その他、「感染列島」瀬々敬久「がんばっていきまっしょい」磯村一路、変わった所では、「まんが日本昔ばなし」の文芸担当を経て「出張」「1万年、後…。」などを監督した沖島勲もピンク出身である。
そうそう、今や映画解説者?のカントクこと山本晋也も無数のピンク映画を監督している(その数は180本を超える!)。「未亡人下宿」シリーズはコメディの傑作。

昨年は「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」で話題を呼んだ若松孝二は、ピンク映画界の伝説的巨匠。'63年に「甘い罠」でデビュー後、夥しい数のピンク映画を量産。そればかりか、65年には若松プロを興し、高橋伴明や大和屋竺、足立正生、沖島勲等、多くの人材を育成した。

ざっとこんな所で、これに日活ロマンポルノ出身の金子修介根岸吉太郎中原俊…を加えたら、日本映画界の屋台骨を支えているのが、他ならぬこうしたピンク、ポルノ出身監督だという事になる。まさに人材の宝庫である。

だから、ピンク映画を撮って来た事は、誇っていいと思う。隠す事はない。

だが、世間には、いまだ厳然として(特定の職業、人種などにおいても)差別意識が残っている。

かつてロマンポルノがヒットしていた頃、巨匠・小林正樹監督は「ロマンポルノなんてものは、あれは映画じゃない」と言ったそうだ。

それを聞いた当時新進のシナリオ・ライター、桂千穂氏は「絶対小林監督を許さない」と激怒し、進んでロマンポルノの脚本を手掛けるようになった。そしていくつかの傑作ロマンポルノの脚本を残している。

また、ある高名な映画評論家氏は、ロマンポルノに主演した伊佐山ひろ子がキネマ旬報の主演女優賞を受賞した時、「ポルノ女優に主演賞を与えるような映画賞の選考委員は辞退する」と公言したそうである。
(高慢な評論家はいるもので、深作監督の「仁義なき戦い」がキネ旬でベスト2位に選ばれた時、ある評論家は「ヤクザ映画がベストワンにならなくて良かった」と真顔で言ったそうな)

そんな風潮がまだ残っているからこそ、日本の誇りとなった監督が、ピンク映画出身である事を隠そうとしているのだろう。

だから私は、滝田監督がピンクを撮っていた頃、地元に帰省した時、両親も含めて周囲の人がどんな反応を示したか興味がある。是非マスコミは取材して欲しい。

「おくりびと」の中で、広末涼子扮する妻が、「触らないで、汚らわしい!」と言うシーンがあるが、脚本にあるとは思うが、これは案外、滝田監督が若い頃、地元の彼女あたりにひょっとして「ピンク映画作ってるの?汚らわしい」と言われた経験があって、それが反映されているのでは…とふと思ってしまったのである。冗談ですが(笑)。

ともあれ、マスコミは、“ピンク映画こそが人材育成の場になっている”事をもっと取り上げてもいいのではないか。そこから、“人材育成の為には、日本映画の将来の為にはどうすればいいか”をみんなで考えるようになればいいと思っている。

 

さて、なぜピンク映画から人材が育つのかと言うと、簡単な事で、低予算(1本当り300~500万円と言われている)、タイトなスケジュールの中で苦労しながら、いかに観客を喜ばせる作品を作るか…という経験を経て、映画作りのノウハウを学んで行くからである。先輩監督からも教えられる事があるし、厳しい環境を経験すれば、精神的にもタフになる。場数を踏むほど、娯楽映画作りのコツもマスター出来るわけである。

これはピンクに限らず、例えば深作欣二、降旗康男、佐藤純弥等といった骨太エンタティンメントの秀作を手掛ける監督たちも、かつては厳しい環境の中で無数のB級アクション、ヤクザ映画を撮って来た…という経験が大いに役立っているのである。

外国においても、現在活躍しているフランシス・F・コッポラ、マーティン・スコセッシ、ジョナサン・デミ、ロン・ハワード、ジェームズ・キャメロン、ピーター・ボグダノヴィッチといった監督たちは、ことごとくB級映画の帝王と呼ばれたロジャー・コーマンの元で、低予算、ハードスケジュールでこき使われながら、映画作りを学んでいる。
…洋の東西を問わず、厳しい環境であるほど、人間は鍛えられ、成長するものである。

撮影所システムが機能していた昔は必ず、新人はそうやって数年間の下積みの助監督修業を経験し、うるさい監督にシゴかれ、一本立ちして行ったものである。

今はそういう修業の場がほとんどない。従って、娯楽映画作りの基本が出来ていないから、頭でっかち、少しも面白くない駄作、凡作が氾濫している。そのうち、ピンクやB級映画で育った前述のような職人監督がいなくなってしまったらどうなってしまうのか。…考えたらコワい事である。

これから映画監督を目指す若い人は、滝田監督の成功をならって、ピンク映画で修業してみてはどうか。いやむしろ、出来の悪い監督も、一度ピンク映画現場に放り込んでやればいい。鍛えられると思うよ。いやマジで(笑)。

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滝田監督の、日活ロマンポルノ作品(後2本は獅子プロ製作・日活配給)

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2009年2月23日 (月)

快挙!「おくりびと」アカデミー賞受賞

Okuribito2 第81回アメリカ・アカデミー賞の外国映画賞に、日本から参加した「おくりびと」が決まりました。

素晴らしい事です。かつて、名誉賞として外国語映画に賞が与えられていた時代には、黒澤明監督「羅生門」、衣笠貞之助監督「地獄門」、稲垣浩監督「宮本武蔵」が受賞した事はありましたが、1956年に正式に“外国語映画賞”が創設されてからは、日本から出品された作品が外国語映画賞を受賞したのは、これが初めてです。まさに快挙と言えましょう。

(なおニュースによっては、日本人の受賞は初めてとしているものがありますが、1975年にソ連映画として出品された、黒澤明監督の「デルス・ウザーラ」が受賞しています)

いずれにせよ、この作品を昨年度のベストワンに推した他、いろいろと推薦活動もやって来た(ヨコハマ映画祭にも寄稿しました)私にとっても、とても嬉しい事です(作品評はこちらを参照)。

この作品には、とりわけ思い入れがあります。一昨年、父を亡くしたばかりで、ラストシーンで、大悟(本木雅弘)が、亡くなった父(昨年亡くなられた峰岸徹さんが演じていたのも奇縁です)を丁寧におくるシーンではボロボロ泣いてしまいました。

無論、それもありますが、作品の完成度の高さにも感銘を受けました。
特に、さりげなく描かれる、“命への讃歌”が見事でした。空を飛ぶ鳥、川を遡る鮭の群れ、等の躍動する生命感、人間に食される生き物たち(川に帰されるタコ、フグの白子)、そして、妻・美香(広末涼子)の胎内に宿る新しい命…。

命とは、かけがえのない尊いもの。だから、大切な人の命が失われた時は、丁寧に、心を込めておくってあげることが大切な事…という主題が、とても心に響きました。

このテーマが、外国の人にも素直に伝わった、その事が、とても素晴らしいと思いました。そう言えばこの作品は、モントリオール世界映画祭でもグランプリを受賞しています。

かつての、1950年代に名誉賞を受賞した3本は、いずれも時代劇です。また5年前にノミネートされ、惜しくも受賞を逃した「たそがれ清兵衛」も時代劇でした。

以前は、そうした、エキゾチックな時代劇を出した方が受賞し易い…という風潮がありましたが(カンヌでも「楢山節考」、「影武者」等が受賞)、本作のような、現代日本を舞台に、人間の生と死というテーマに正面から取り組んだ秀作が世界の人々に評価された事も、また素晴らしい事だと思います。

 
もう一つ、短編アニメーション部門で、加藤久仁生監督の「つみきのいえ」が受賞した事も素晴らしい出来事です。

長編アニメは、宮崎駿や押井守等が活躍している事もあって、レベルの高さは世界的に知られていますが、短編については、実はアカデミー賞においては日本はまったく未開の分野でした。

これまでは、やっと2002年に、山村浩二監督の「頭山」がノミネートされたきりでした(受賞は逃す)。

作品も、断片をテレビで見ただけですが、手づくり感があって柔らかな色彩で、ちょっとフレデリック・バックのタッチを思わせます。テーマも、地球温暖化がちょっぴり入ってタイムリーでした。

両作に共通する事は、人間が抱える、普遍的な、かつ時代の流れを的確に捕らえたテーマを、温かい感触で丁寧に描いている点だと思います。

ハリウッド的な、膨大な制作費をかけ、CGバリバリ、メカニカルで冷たささえ感じる作品が幅を利かせてきた映画作りに、ようやく見直しの機運が高まって来た事(作品賞、監督賞を制したのが、超低予算でCG臭も感じさせない「スラムドッグ$ミリオネア」である事が象徴的です)が、タイムリーに幸いしたのかも知れません。

日本映画は、むしろこうした方向(低予算でも、心のこもった丁寧な作品作り)をこそ目指すべきでしょう。皮肉な事に、大手製作会社が巨額の宣伝費をかけて鳴り物入りで公開している大作が、「少林少女」「隠し砦の三悪人」「252 -生存者あり‐」「感染列島」と、CGだけ派手で中味はワーストテン上位独占のトホホな作品ばかり…というのが何とも笑えますし、困った事です。今頃ハリウッド(の悪い傾向)を追っかけてこんなくだらないものを作っていては、せっかく「おくりびと」で高まった評価を落とすばかりか、世界の笑いものになります。世界の恥さらしは中川前財務大臣一人で十分だと思いますが(笑)。

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2009年2月21日 (土)

「ベンジャミン・バトン -数奇な人生-」

Benjaminbutton (2008年・WB=Par/監督:デヴィッド・フィンチャー)

80歳の肉体を持って生まれ、年齢を経るごとに若返って行く、数奇な生涯を歩んだ男の一生を描いた感動の物語。

小説家のマーク・トウェインが「もし80歳で生まれて、ゆっくりと18歳に近づいていければどんなに幸せだろう」と語った事にインスパイアされ、F・スコット・フィッツジェラルドが書いた短編小説を元に、「フォレスト・ガンプ」でアカデミー脚本賞を受賞したエリック・ロスが脚色、「セブン」「ゾディアック」のデヴィッド・フィンチャーが演出を担当した。

普通では、体が若返って行くなんて事はありえない。だからこれはファンタジーであり、“人の一生とは、生きるという事は何なのだろうか”という壮大なテーマについて深く考えさせてくれる、大人の寓話である。

 
物語は、死の床にある一人の女性、デイジー(ケイト・ブランシェット)が、彼女が深く愛した主人公ベンジャミン・バトン(ブラッド・ピット)の一生を回想する形式で描かれる。

彼女はその前に、第一次大戦で息子を失った盲目の時計技師が、“もし時間が逆に流れたら、戦争で死んだ息子が帰って来るかも知れない”…という思いで、逆周りに針が回転する大時計を作った話を語る。

このエピソードは、本筋とは関係はないものの、80歳で生まれ、若返るベンジャミンの一生もまた逆回転の人生であり、逆に回る時計がそれを象徴しているわけだが、同時にもう一つの大事なテーマ、“時の流れの無常”をも浮かび上がらせていると見る事が出来る。

おそらくは、マーク・トゥエインが上記のような言葉を語った理由には、“老いて行く事への悲しみ”があったのではないかと思う。

人間は、歳を取るにつれて、老いを意識するにつれて、“若さを取り戻せたら”、“人生をもう一度やり直せたら”、“過去の自分に戻れたら”、等を考える。
年齢を経ても創作意欲が旺盛な作家であれば、自らの願望として、そうした物語を創案するケースも多々ある。
“不老不死”
をテーマとした作品が度々作られるのは、その為である。

若返る秘薬をめぐるコメディ「永遠に美しく」(92・ロバート・ゼメキス監督)という映画もあったし、手塚治虫は「火の鳥」で何度か、永遠の命(未来編)、若返る男(宇宙編)をテーマとした作品を発表している。

手塚と言えば、「ふしぎなメルモ」でも若返りの薬が登場するし、「鉄腕アトム」にも“若返りガス”で赤ん坊になってしまうエピソードが登場している。どうやら若返りは、手塚の永遠の願望であるようだ(笑)。

マーク・トゥエインも、「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」など、子供たちの冒険物語を多く書いているが、これも若さへの、少年時代への憧憬なのかも知れない。
“まだ人間として未熟な子供時代は、どんな体だろうと関係ないが、60歳を過ぎても、まだまだこれから人生を謳歌したい、エネルギッシュに創作に励みたいと思うその年代こそ、若い肉体が欲しい”…そうした思いが、冒頭の言葉には込められているのかも知れない。

 
さて本題に戻るが、80歳の肉体を持って生まれたベンジャミンは、その醜い体にショックを受けた父親に捨てられ、老人介護施設で働く黒人女性のクィニー(タラジ・P・ヘンソン)に拾われ、育てられる事となる。

やがてベンジャミンは成長するにつれて、彼と同じ容貌の、施設で暮らす老人たちが次々と亡くなって行くさまを目撃する。…人生の終焉を迎えた老人たちと対照的に、ベンジャミンは、まるでそれら老人たちの命を吸収するかのように、若返って行くのである。

ベンジャミンは、やがて施設を出て、さまざまな人たちと出会い、別れ、恋を知り、人生とは何かを学んで行く。
しかしその人生は、「フォレスト・ガンプ」のように波乱万丈でもなく、歴史上の人物と出会う事もなく、ごく普通の、平凡な人生である。肉体の変化以外は…。

そうした、我々と同じ普通の一生であるがゆえに、“人生とは、人の生涯とは何なのだろうか”というテーマが、よりリアリティをもって我々の心に迫って来るのである。

そうした人生の中で、彼はデイジー(ケイト・ブランシェット)という女性と出会う。後に彼女はベンジャミンの生涯の伴侶となるのだが、幼い時の二人の付き合いは、単なる、孤独な老人と子供の交流のようにしか見えない。デイジーも子供の頃は、ベンジャミンの肉体の秘密を知らず、彼を本物の老人、としか思っていなかったはずである。

ベンジャミンが若返り、デイジーが大人へと成長して、両者の容貌が近づくにつれて、ようやく二人は本当の恋を知る事となる。

そして、ベンジャミンがどんどん若くなり、デイジーが老人になるにつれ、再び両者に微妙なズレが発生し、二人は離れ離れとなる。
ベンジャミンにとっては、老いさらばえて行くデイジーに比べ、若い肉体を獲得して行く自分の姿を見せ続けるのは忍びない…という思いがあったのかも知れない。

これが、幼い時から二人とも同じように子供→大人→老人…という普通の肉体の変化を辿っていたなら、二人は幼馴染みからの付き合い、ごくありふれた結婚生活を経て、やがて老いて死ぬまで共に寄り添い、普通の生涯を送ったかも知れない。

ここで、トゥエインが語った、“ゆっくりと18歳に近づいていければどんなに幸せだろう”という言葉が、実は誤りである事が鮮明となる。

やはり人間は、普通に成長し、若い青春時代に同世代の異性と恋をし、共に老いて行くのが幸せなのである。

では、ベンジャミンの人生は不幸だったのか…それも違う。

ベンジャミンとデイジーが、ほぼ同時代の容貌と肉体を持っていた、40歳代に、二人は燃えるような恋をする。…それは、同じ肉体でいられる時間が短いがゆえに、その限られた、かけがえのない時を真摯に生き、愛し合えた事を示している。少なくとも、その短い時間の間、二人は至福の時を過ごしたはずなのである。

人生は短い。その中でも数奇な運命を持った二人のそれは、さらに短い、それゆえ凝縮された人生を歩んだと言えるのである。

時は残酷である。至福の時間はあっという間に過ぎて行き、そして決して戻っては来ないのである。

それでも人は生きて行く。人は限りある時間を、かけがえのない人生を、精一杯に生きて行かなければならないのである。

ついでだが、デイジーが事故でバレリーナの夢を断たれるエピソードにおいて、“もしもあの時…だったら”という言葉が繰り返し出てくるが、これもまた、前掲のテーマ“過ぎ去った時は決して戻って来ない―時の流れの無常観をより際立たせて、印象的である。

 
いつものケレンを封印し、デヴィッド・フィンチャーは、ベンジャミンの不思議な人生を、落ち着いた、風格をさえ感じさせる見事な演出で描いて見せる。格段に進歩した特殊メイクとCG技術が、奇想天外な物語にリアリティを持たせ、人生について考えさせる、素晴らしい映画を誕生させた。これはフィンチャーの、これまでの最高傑作であろう。まだ早いが、今年のベスト3に入れたい秀作である。     (採点=★★★★★

(付記1)
アカデミー賞が2日後に発表されるが、個人的には作品賞、監督賞、脚色賞、そして視覚効果賞,メイクアップ賞は当確である。助演女優賞も育ての母クィニー役を好演したタラジ・P・ヘンソンに個人的にはあげたいが、強敵が多いので無理かな。ブラピは特殊メイクとCGのおかげが大きいので主演賞とは言えないだろう。蛇足になるが、撮影賞、美術・装置賞はイーストウッドの「チェンジリング」が取りそうな気がするが…。

(付記2)
ブラピは、デビュー当時“ロバート・レッドフォードの再来”と騒がれたが、本作の後半で見せる、CGによる20歳代のブラピの顔は、本当に若い頃のレッドフォードによく似ている。
で、本作の原作者、F・スコット・フィッツジェラルドの映画化作品「華麗なるギャツビー」の主演が、そのR・レッドフォードである。これもまた、数奇な因縁ではある。

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2009年2月14日 (土)

「007/慰めの報酬」

007nagusameno (2008年・ソニー・ピクチャーズ/監督:マーク・フォースター)

スパイ・アクション映画の原点、007シリーズの第22作。

本作は、前作「カジノ・ロワイヤル」のラスト・シーンの1時間後から始まる、シリーズ初めての続編もの。…の為、シリーズに欠かせない、銃口に向けてボンドが銃を発射するお馴染みのオープニングもなく(但しラストにはちゃんと登場してるので安心のほど)、いきなり凄絶なカーチェイスが始まる。以後も矢継ぎ早にアクションが展開し、めまぐるしくてストーリーがよく飲み込めない。これは予習として、前作をもう一度見直しておく必要があるだろう。少なくとも、ジャンカルロ・ジャンニーニ扮するマティスとボンドとの関係は、前作を観ておかないと分かり辛いので要チェック(て言うか、続編にするんだったら、前作とあまり間を空けずに公開すべきだろう)。

それと、原作に比較的忠実で、アクションの切れ味も良く、初期シリーズへのオマージュもあっていろいろ楽しめた前作に比べて、本作は「チョコレート」「ネバーランド」などの非アクション系のマーク・フォースターが監督、脚本に「クラッシュ」等のポール・ハギスが参加しているせいもあってか、ニヤリとさせてくれるお遊びシーンも少なく、アクション・シーンは前作以上に“ジェイソン・ボーン”シリーズからの影響がモロに感じられて、少々息苦しくなるほど。
ちなみに、ジェイソン・ボーンもジェームズ・ボンドも、イニシャルはどちらも“J・B”である(笑)。

ただ、まったくお遊びシーンがないわけではなく、ボンド・ガールの一人、フィールズ(ジェマ・アータートン)が敵に襲われ、全身に真っ黒なオイルを塗られて死んでいるシーンは、3作目「ゴールドフィンガー」における、女が全身に金粉を塗られて死んでいるシーンの明らかなオマージュだろう。ここだけはニンマリさせられた(が、あの作品を知らない観客には、何であんな殺し方してるのか意味不明だろうが)。

上司であるM(ジュディ・デンチ)がボンドを見る目が、まるで“やんちゃできかん坊の我が子をハラハラしながら見守っている母親”のようで、ちょっと新しい展開ではある。この関係も今後どうなるか興味深い。

それにしても、時の流れを感じさせるのは、ボンドが使う秘密兵器も、敵の目的も、ほとんどマンガかSFまがいの世界だった初期シリーズに比べて、荒唐無稽さは影を潜め、すごく現実味を帯びてしまっている点である。

例えば、ボンドが、敵と通じている人物を確認する手段として、カメラ携帯で顔写真を撮って本部にデータ転送するシーンが出て来るのだが、20年以上前だったら、「おお、すごい秘密兵器だ」と感心しただろうが、今ではそんなもの、小学生だって持っている携帯デジカメで全部まかなえてしまうのだ。エレクトロニクスの進化は目覚しいものがある。
そう言えば、「ゴールドフィンガー」にはボンドカー、アストン・マーティンにカーナビと、発信機を仕掛けた車の位置が分かるGPSが搭載されていて、当時は夢の秘密兵器だ―と感心したものだが、今じゃとっくに実用化されてて珍しくもない。つまりは、若い映画ファンが現在において初めて映画「ゴールドフィンガー」を観賞しても、“秘密兵器”だとは全然思わないし、ワクワクする事もない。今の人は可哀相である(笑)。

敵の企みも、本作では、水の乏しいボリビアでの水資源利権―即ち、ネオコンや多国籍企業が現実に考えそうな事で、かつての、世界征服を企み、地下や海中に巨大な要塞を築いたり、原爆を盗んで莫大な金を要求したり、米ソを挑発して第三次世界大戦を仕掛けたり、…といった荒唐無稽でバカバカしくて笑えた悪の組織の計画が今では懐かしく思える(これらについては後述)。

 
そんなわけで本作は、“007シリーズ”と意識しなければ、アクション映画としては十分楽しめる出来ではある(但し前作よりは多少落ちる出来)。
が、初期シリーズにまだ思い入れがある古くからの映画ファンにとっては、ショーン・コネリーをはじめ初期のボンド役者がかもし出していた、イギリス紳士としての“お洒落さ”、“粋さ”、“ダンディズム”…が感じられない事に物足りなさを覚える事だろう。例えばボンドが、敵を殺した後、花瓶の花をポイっと死体に乗せてあげたり、一仕事終わると、必ずボンド・ガールを抱き寄せ熱いキスを浴びせたり…という、初期シリーズにあったお遊びや笑えるゆとりが欲しいところである。

まだボンドがスパイに成り立て…という設定であるので、これからシリーズが進むごとに大人のゆとりが生まれ、ユーモアやシニカル・ジョーク、はたまた、Qのような発明係による新兵器…等が登場する事を期待したい。    (採点=★★★☆

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(お楽しみはココからだ―“007の世界”論)
初期の007シリーズは、スパイ・アクションではあるのだが、同時に、冒険アクションでもあったのである。例えば、“秘密任務を帯びて敵陣深く潜入し、敵の要塞を大爆破させ、悪を殲滅する”という展開が1作目「ドクター・ノオ」、5作目「007は二度死ぬ」、6作目「女王陛下の007」、9~10作目など頻繁(はんざつじゃないよ(笑))に登場している。

こうした展開は、アリステア・マクリーン原作「ナバロンの要塞」や、カーク・ダグラス主演「テレマークの要塞」、我が国では山中峯太郎原作「亜細亜の曙」などと内容的に共通しており、いずれも冒険アクションの傑作として名高い。

原作者のイアン・フレミング自身も、Wikipediaなどでは“冒険小説家”として紹介されている。

1作目「ドクター・ノオ」の悪役は、中国人のノオ博士(ジョゼフ・ワイズマン)。ジャマイカ沖に浮かぶ要塞基地を根城に、多数の部下を従え、陰謀を企てている設定はまさに冒険小説の悪玉そのもの。

このノオ博士、片腕が義手という辺りもまさに怪人。…と言うより、カンの鋭い人はたちどころに、ブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」が、悪役の設定といい、敵基地の設定といい、まるごと「ドクター・ノオ」のパクリであることに気付くだろう(ついでながら「燃えよドラゴン」に決まる前に仮題として名付けられていた邦題が、そのものズバリ「浮かぶ要塞島」であった事を知る人は少ない)。

 
ジェームズ・ボンドの特徴としてはもう一つ、女と見れば見境いなくたらし込む色男、プレイボーイの要素も欠かせない。

無論この要素は原作にもあり、「ロシアより愛をこめて」ではその技能?を活用し、ソ連情報部の女を篭絡して暗号解読機を持ち出す任務を任される。実は敵の罠である事が後に分かるのだが…。
そういう意味では、胸毛を蓄え、フェロモン芬々のショーン・コネリーはまさに適役ではある。

フレミング原作の方の「私を愛したスパイ」は、映画とはまるで異なり、全編ほとんどエロ描写のポルノ小説まがいである(笑)。

映画「ゴールドフィンガー」では、ボンドは敵に捕まったというのに、ゴールドフィンガーの片腕、プッシー・ガロア(この名前も笑える)を口説き落とし、篭絡しようと必死になっている。…そのおかげでプッシーを味方につけて(これが本当の返りだ(笑))、かろうじて逆転勝利するのだが、もしプッシーをたらし込めなかったら敵の策略は成功し、ボンドは間違いなく死んでたのだから、芸ならぬ下半身は身を助く…である。そういう意味ではボンドの下半身も立派な秘密兵器だ(笑)。
情報部の人間にしてからが、ボンドが敵の牧場でプッシーを口説いている所を双眼鏡で覗いて、「さすがはボンド君だ、相変わらずやっちょるわい」と感心してるのだから大らかなものである(捕まってるんだから早く助けに行かんかいっ)。

こういう楽しい場面も、007シリーズの人気の要素なのだが、5作目「007は二度死ぬ」になると荒唐無稽も極まれり…で突っ込みどころ満載。敵のブロフェルド率いるスペクターは、日本を舞台に、巨大ロケットを飛ばして米ソのスペース・シャトルをパックリ飲み込み、米ソを戦争に巻き込ませようとする。その秘密基地はなんと休火山の内部をくり抜いて作ってるのだからスケールがでかい。
それらを作る巨額の金をどうやって調達したのだと突っ込みたい所だが、そんなのは序の口、ボンドを助ける、タイガー田中(丹波哲郎)率いる日本の特務機関(無論税金でまかなってる)の工作員は全員忍者!なのだからまさにマンガ。しかも敵に追われたボンドを助けるのに、ヘリから巨大な磁石をぶら下げ、それで敵の自動車をガチャンと吊り上げて海に放り込んでしまうのだ(忍者といい、そんなのに税金使うなよ(笑))。

さらには、ボンドが敵の目を欺く為に、カツラ被って日本人!に変装したり、とどめはクライマックスで敵基地にタイガーの忍者部隊が攻め入って、刀と手裏剣で敵をバッタバッタとなぎ倒す。もう大爆笑。

忍者の一人が、まだ戦闘中なのに、敵を斬るや、刀をクルクル回してパチン、と鞘に収め、タタタタ…と走り去ったのにはあ然、私は椅子からズリ落ちたよ(笑)。
もうこうなると、ほとんどタランティーノの「キル・ビル」の世界である(笑)。「ラスト・サムライ」で明治維新に忍者が登場するくらい、可愛いものである。

最初に観た当時は、あんまりな展開にクソミソに貶したものだったが、今となっては却って微笑ましくて、結構好きだったりもする。…ちなみにこれの脚本を書いたのが、「チャーリーとチョコレート工場」で知られるロアルド・ダール
なるほど、金持ち大国(米ソ)をおちょくって嬉々としてるブロフェルドや、オモチャ工場のようなスペクターの要塞は、金持ちガキをイビるチャーリーと、そのチョコレート工場に通じる所がある…のかも知れない。

最近のボンド・シリーズが、これらの反省から、シリアスなアクションを目指しているのはよく分かるのだが、あまりにシリアス過ぎても息苦しい所がある。

007の原点が、冒険アクションである事を考えれば、夢とファンタジーの、遊び心に満ちた初期のシリーズもまた、紛れもなく007映画の世界なのである。…ちなみに、「007は二度死ぬ」は、一部では007の“裏ベスト1”とも言われているそうな。

そういう、シリアスと荒唐無稽、リアルな現実世界と夢溢れる冒険活劇世界、ユーモアとシニシズム…等のさまざまな要素が渾然一体…となっている所に、息長く続いている007シリーズの人気の秘密があるのかも知れない。

 
1~20作目各2枚組アルティメット・エディションDVD

初期シリーズDVD(ショーン・コネリー主演)

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2009年2月 8日 (日)

「マンマ・ミーア!」

Mammamia (2008年・ユニヴァーサル/監督:フィリダ・ロイド)

1999年にロンドンで初演されて以来世界170都市で上演され、3,000万人以上を動員した大ヒット・ミュージカルの映画化作品。イギリスでは「タイタニック」の興行記録を追い抜いて歴代興収トップに躍り出たという。監督は舞台演出も手掛けたフィリダ・ロイド。

「ダンシング・クィーン」等で知られる、ABBAのヒット曲をミュージカル・ナンバーとして用いており、構成としては昨年の、やはりビートルズのヒット・ナンバーを散りばめた「アクロス・ザ・ユニバース」に近い。
但し、あの作品が60年代末期の混沌とした世相を背景に、やや暗いムードの作品であったのに対し、こちらは徹底してノー天気で明るくて他愛ない、ハッピーな作品に仕上がっている。

エーゲ海に浮かぶギリシャの小島で、20歳のソフィ(アマンダ・セイフライド)は結婚式を間近に控えていた。父のいない家庭で育ったソフィの願いは父親とバージンロードを歩くこと。母親ドナ(メリル・ストリープ)の日記を内緒で読んだソフィは、父親の可能性があるドナの昔の恋人3人に、ドナに内緒で招待状を送るが…

…というストーリーはあるけれど、要するに基本はミュージカル・コメディ。軽快なABBAのヒット・ナンバーに乗せてメリル・ストリープ始め、出演者が歌い、踊る楽しいミュージカル・シーンに心浮き浮き、のめり込んでしまえばこっちのもの、あっという間に1時間48分が過ぎてしまう。

ポップで明るい曲調に加え、美しいギリシャ・エーゲ海を背景にしている事もあって、ダンス・ナンバーが始まると、一緒に踊り出したくなるほどの高揚感に包まれる。
特にストリープ、もう60歳になろうとしているのに、歌い、踊り、飛び跳ね、歳を感じさせないパワフルなパフォーマンスぶりには恐れ入る。役の上でも、若い頃に産んだ20歳の娘がいる(つまり40歳頃)という役柄で、その事を突っ込む人もいるようだが、役になり切って楽しそうに演じ、歌い踊る姿を見ているうち、そんな事は気にならなくなる。さすがは名女優である。

お話は前述の如く、単純で他愛なく、最後はハッピー・エンドで終わるから安心して観ていられる。ABBAのファンは無論のこと、ミュージカル映画ファンなら十分堪能出来る、まさに王道を行くミュージカル映画の快作である。

 
―ただ、この映画を楽しめなかった人が意外に多いようで、それはお気の毒というか、残念である。
そこで以下は、この映画をどう楽しむか、という点について語りたいと思う。

まず、この映画はミュージカルである。出演者が突然陽気に歌い、踊り出し、回りの人たちも一緒になって踊る…という展開に違和感を感じてしまう人は、ハナから蚊帳の外である。「ラリってんじゃないか」とのたまう方に至っては論外で、そういう人はもう二度とミュージカルについて語らない方がいいと思う。

ミュージカルは、元々は舞台におけるレビュー(タップなどを踊りながら歌う)・ショーから始まって、単純な男女の恋愛等のお話が適当に繋ぎ合わされ、やがてストーリー性のあるものに発展して行ったもので、お話よりは歌と踊りがメインなのである。つまりはショー・ビジネスの世界である。観客はお気に入りのスターの歌と華麗なダンスだけを堪能して、ストーリーなんかは見終わればきれいに忘れているのである。日本で言えば宝塚歌劇を思い浮かべれば分かり易いだろう。

そういう、舞台ミュージカルに慣れ親しんでいれば、まず抵抗はないだろうが、舞台に馴染みがない映画ファンであれば、1940~50年代に一世を風靡したMGMミュージカルを是非観ていただきたい。

私も、ミュージカル大好きになったのは、MGMミュージカルのおかげである。入門としては、MGMミュージカルのアンソロジー集「ザッツ・エンタティンメント」シリーズが最適である。未見の方は、騙されたと思ってPart1から順に観てください。豪華なレビュー、フレッド・アステアやジーン・ケリーの優雅なダンス、シド・チャリシーの妖艶な踊り、エスター・ウイリアムスの呆れるほど豪華で贅を尽くした水中レビューの数々…ハマること請け合いである。これで「つまんない」と思う人は「マンマ・ミーア!」は観ない方がいいでしょう。

これにハマった人は、次に「ザッツ・-」にも一部が出て来るジーン・ケリー監督(S・ドーネンと共同)・主演の「雨に唄えば」、アステア主演の「イースター・パレード」「バンド・ワゴン」を観る事をお奨めする。もう完全にMGMミュージカルにノックアウトされるはずである。

これらの作品も、いずれも単純で他愛ない、陽気で楽しいお話ばかりである。観終わっても、覚えているのはアステアやケリーのウットリするダンス・ナンバーばかり。「雨に唄えば」ではラスト間際、本筋とはまったく関係ないレビューだけを繋げた“ブロードウエイ・バレー”が延々1713分も続く。極端に言えば、物語部分を全部カットして、ミュージカル・シーンだけの映画に編集し直しても十分楽しい(それじゃまんま「ザッツ・エンタティンメント」ですが(笑))。

ただ、立川志らく師匠のようにMGMミュージカル大大ファンになると、逆にストリープがいくら熱演しても、アステアやジャンジャー・ロジャースやシド・チャリシーなどの優雅で華麗なダンスと歌に比べれば見劣りしてしまい、辛い点数になってしまうようである。なかなか難しいものである(笑)。今の時代、アステアもJ・ケリーも存在しないのだから無いものねだりなのだが…。そう言えばシド・チャリシーの訃報を聞いたのは昨年だった。

ついでに言うなら、ミュージカルはその後、「ウエスト・サイド物語」が登場し、ストーリーを重視した、社会派的なものが時代を席巻するようになり、陽気でノー天気なMGMミュージカルは衰退してしまう。それはあたかも、リアルな黒澤時代劇の大ヒットによって、陽気で明るい東映時代劇が息の根を止められたのと呼応しているかのようでもある(時代も、共に1961年頃とまさに一致している)。

現在のミュージカルも、「オペラ座の怪人」とか「シカゴ」「レント/RENT」のように、やや暗めのものや社会派的なものが幅を利かせており、かろうじて「ヘアスプレー」が、かつての陽気でノー天気なミュージカルを思い起こさせる作りになっているだけである。

「マンマ・ミーア!」は、そんな、古き良き時代のミュージカルの伝統を引き継ぐ作品であり、特に9.11以降、なんとなく殺伐とした時代の空気の中で落ち込んでいた人たちを元気付けるパワーに満ち溢れている。元々舞台ミュージカルに慣れ親しんでいるイギリス、アメリカの人たちが熱狂するのも当然で、何度でも観たくなるリピーターも沢山いるのだろう。そうでなければ「タイタニック」を上回る観客が詰め掛けるはずもないのである。ロンドンでの上演では、劇場内がディスコ状態になってしまったというから驚きである。

私が観た劇場内では、歌に合わせて拍子を取って体を揺らせたり、小声で口ずさんでいる人が結構いた。ABBAのファンなのかも知れない。観客がみんなそんな調子で踊りだしたら、相乗効果でもっと楽しくなるかも知れない。

ともかく、映画は、自分から映画の世界に入り込んで楽しまなければ損である。ABBAのポップで快活なリズムに乗って、風光明媚なエーゲ海の島にいる気分に浸れば、ストリープの歳も、ピアース・ブロスナンの歌のヘタさも全然気にならなくなる。

物語が終わった後のエンド・ロールでも、カーテンコールよろしく、ストリープ中心のオバさんトリオが歌い、踊るシーンもまた楽しい。歳を取ろうが、若々しい気持ちさえ失わなければ、心はいつまでも歳を取らないのである。―そう、お楽しみはまだまだココからなのである。   (採点=★★★★

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2009年2月 1日 (日)

「感染列島」

Kansenrettou (2009年・東宝/監督:瀬々 敬久)

新型ウイルスが日本中に蔓延し、数百万人もの人が死滅する未曾有の事態の中で、人々を救う為に奮闘を続ける医師たちの姿を描いたパニック・サスペンス・ドラマ。

未知のウイルスが蔓延する恐怖を描いた映画は、これまでにも数多く作られてきた。小松左京原作のSF大作「復活の日」もあれば、サスペンスフルな正統もの「アウトブレイク」、はたまたゾンビもののバリエーション「28日後」「28週後」から、ほとんどの人類が死滅した後の世界を描く「アイ・アム・レジェンド」に至るまで、枚挙にいとまがない。映画化し易い題材であるとは言える。

本作は、かなり正攻法で、ウイルスに立ち向かう医師、公的機関の人たちの仕事ぶりや奮闘ぶりを描いている。
インフルエンザが数年ぶりに猛威を振るいそうなのに、ワクチンの絶対量が足りない、という我が国医療体制の現実に対する問題提起にもなっており、その意味でも作られた意義は大きい。

そんなわけで、物語が始まった時には、私は、これは最近では珍しい、社会派的テーマをもった骨太の力作ではないか…とかなり期待したのである。

 
だが、話が進むに連れて、映画はおかしな方向に迷走を始める。こういうテーマの作品であるならば、医学的にみて矛盾や無理な点がないよう、徹底したリサーチを行い、丁寧に物語を構成し、脚本を作るべきであろう。

だが、どう見ても、我々素人が見てもおかしな、突っ込みどころが一杯出てくるのには困った。

例えば、明らかにこのウイルスは空気感染で、当然感染患者が出た病院は隔離され、感染者と疑われる人間は一切外部には出してはいけないはずである。…当然ながら患者に接触した医師もである。現に、WHOから派遣されて来たメディカルオフィサー・小林栄子(壇れい)は、早速病院の隔離を実行している。

そのわりに、主人公の医師、松岡剛(妻夫木聡)は簡単に病院を抜け出し、森に入ったり、中盤ではなんと海外にまで出かけてしまう。

一番最初に、ウイルス感染者と接触したのが松岡なのだから、こいつが一番危険人物ではないか。現に同僚医師(佐藤浩市)は感染し、あっさり死亡してしまうし。

いくら主人公だからといって、こんないいかげんな事では困る。南方の島では、防護服もつけずに患者たちの集団に囲まれてるし…。

感染しにくい体質…ということもあるかも知れないが、そういう説明もない。仮にそうだとしても、無防備な場面が多いのは考えもの。伏線なり、脚本に周到な配慮が足りない。

一番問題なのは、感染源の人物である。(以下ネタバレにつき隠します)
そもそもは、南方の島で医療に従事していた医師(嶋田久作)が、ウイルスに感染したかも知れないのに、日本に帰って、家族に接触したのが発端なのだという。

おまえのせいで300万人も死んだんだよ!と思いっきり突っ込んでしまった。

しかも、帰る途中、駅で咳き込み、血を吐いてる。その時、医療機関に連絡してればもっと早く原因が分かっただろうに。医者としてあまりに軽率―を通り越してほとんどアホである。
(ネタバレここまで)

真面目な意図を持った作品なのだから、出来るだけ多少の突っ込みどころも目をつぶってあげよう…と思って我慢していたが、さすがにこれには呆れた。

他にもおかしいのが、国家の専門医療機関でも見つけられなかったウイルス病原体を、モグリ?のウィルス研究者(カンニング竹山)が見つけるのも不思議。そもそもこの人物には、もっと誠実そうな役者をキャスティングすべきなのに、なんでコメディアンなのか。

個々の人物に関するエピソードくらいまでは良いとしても、“最初の感染者の登場”、“ウイルスの発見”、“感染源の特定”といった日本全体の命運を左右する重大事が、すべてが松岡の周囲のみで起きる…という展開は、いくら彼が主人公でもやり過ぎ。ご都合主義も極まれり、である。

他にもヘンなのは、市立病院に勤め、感染した女性看護師に娘を連れて会いに来た夫(田中裕二=爆笑問題)が、病院の手前で鉄柵と守衛に阻まれ、会うことが出来ないのに、同じ病院に入院している、養鶏業者の娘に会いに来た同級生の男の子は、簡単に病院通用口手前まで来れてる
同じ病院のはずなのに、この違いはどういうわけか。こんな矛盾に何で誰も気が付かないのか。

絵的にも、街にゴミが散乱し、車がひっくり返っている、「28日後」にそっくりなシーンがあるが、感染すると凶暴になり、暴徒化するあの映画と同じ事が起きるわけがないだろうに。いろんなウイルス・パニック映画の映像を適当に継ぎはぎしたかのようである。これでは却って映画が安っぽくなってしまう。

これ以後も、プロのメディカル・オフィサーであるはずの栄子が、地方に出張して感染に気付く…というマヌケな事をやらかしたり、松岡と栄子が、テレビ電話で別れの愁嘆場を延々とやったり(「ミッドナイト・イーグル」に続き、またもや日本映画の悪いクセ)、手が離せないほど忙しい患者診療をほったらかして栄子に会いに行ったりと、もう支離滅裂。

ベタな泣かせどころをあちこちに無理やり突っ込むのは、もういい加減にして欲しい。真面目な社会派ドラマどころか、安っぽいお昼のメロドラマ以下である。

とにかく、毎度のことだが、脚本が粗雑過ぎる(監督の瀬々敬久が兼任)。
瀬々はこれまで、「雷魚」「HYSTERIC」「ユダ」など、低予算のインディペンデント映画で注目されている、気鋭の作家の一人だが、いきなりこんなビッグバジェット作品を手掛けるには経験不足である。もっとベテランの職人脚本家にまかせるべきだった。瀬々が悪いと言うより、起用したプロデューサーの責任である。

過去のディザスター・ムービーを振り返ると、あの1作目の「日本沈没」(森谷司郎監督)の脚本は、大御所・橋本忍が書いてるし、題名も似てる「地震列島」(大森健次郎監督)の脚本はなんと新藤兼人である。「復活の日」(深作欣二監督)もベテラン高田宏治が執筆している。

日本映画が斜陽だと言われていたあの時代ですら、スケールのある大作には、ベテランの職人脚本家を起用していたのである。プロデューサーが田中友幸とか角川春樹といったツワモノであったせいもあるが…。

 
そんなわけで、企画・題材の選び方は悪くないし、同じパニックものでも、「252」のように酷い作品ではない。大作をまかされた瀬々監督もよく頑張っている。

それだけに、脚本家の選定ミスが痛い。いい脚本さえあれば、もっと感動出来る力作に仕上がったに違いない。そこが惜しい。

今の日本にこの手の大作を書ける脚本化が少ないのも事実だが、1昨年「茶々 天涯の貴妃」を手掛けた高田宏治もいるし、原田眞人や加藤正人など、もっと適任者はいると思う。…それよりも、作品全体を統括し、脚本もチェック出来る、田中友幸や天尾完次(「十三人の刺客」、「二百三高地」等)クラスの実力プロデューサーが不在である事の方が問題だと思う。人材育成の必要を痛感せざるを得ない。     (採点=★★

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(2013.2.24 付記)

この映画が公開されてからもう4年も経ち、今ごろ書くのは、気の抜けたビールみたいで気が引けるのですが、
以前にこの映画に関して、下のコメント欄に何人かの方から、「栄子(壇れい)が亡くなって松岡が農道を泣きながら走るシーンで、空にUFOが飛んでいる」とのご指摘がありました。

ちょっと気にはなりましたが、映画の出来がヒドかったので二度と観る気が起きず、そのうち忙しさに紛れて忘れてしまってました。
出来が良ければ、DVDでも借りて確認したかも知れませんが。

ところが先月、下のコメント欄に当記事に関するご指摘があって、お返事した際に、そのUFOに関するコメントを見てその事を思い出しました。

細かいことが気になる私ですので(笑)、一応“感染列島 UFO”で検索してみた所、当時他にもこの件に関して結構話題になっていた事が分かりました。
ところが、その正体については、今もって不明のままのようです。どれも“あれはUFOでしょうか?”、“何か知ってる方がいらっしゃったらコメントください”とかまでは書かれているのですが、結局分からずじまいになってるようですね。

Yahoo知恵袋にも、2件ほどこの件に関する質問が寄せられてましたが、いずれも「分からない」で終わってます。

それで、これについて遅まきながら調べてみようと思い、幸い図書館にDVDがあったので、借りて観てみました。

結論から言いますと、画像を静止し、コマ送りで観て確認したら、ものの数秒ですぐに判明しました(笑)。

Kansenufo

上の画像を見ていただければ分かりますが、あれは、2本の電線の間にブリッジ固定されている金属板が、太陽光で反射したものでした。
おそらく、電線が強風に揺れると2本が接触してショートする危険性があるので、接触しないように設置されたものでしょう。
途中から見えなくなったのは、移動した為反射光が届かなくなったからでしょう。

撮影時に、レールを敷いて移動撮影していれば、ずっと電線の間にあるのが分かったでしょうが、この映画では手持ちカメラで撮影してますので映像がブレて、あたかも飛行しているかのように見えてしまったのでしょうね。

UFOを信じている方には申し訳ないですが、UFOの正体って案外こんなものが多いのでしょうね。

しかし、DVDの静止画像を注意して見ればすぐ分かるはずなのに、なんで今まで誰も気付かなかったんでしょうか。

そんなわけで、これまで気になって夜も眠れなかった方、安心しておやすみください(笑)。

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