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2009年3月30日 (月)

「愛のむきだし」

Ainomukidasi (2009年・ファントム・フィルム/監督:園 子温)

これは、凄い映画である。出て来る人間がほとんど全員、異常というか変態。題名からしてヘンな日本語だ。

しかも上映時間がなんと237分!4時間である(途中で10分の休憩が入る)。異常に長い。

だが、全編を貫く異様なテンション、パワフルな映像に身じろぎもせずに観入ってしまい、気が付けばあっという間に終わっていた。

これは、本年屈指の力作であり、傑作である。観ておいて損はない。料金も高い(当日2,500円、シニアでも1,800円)が、「チェ」「レッドクリフ」Part1、Part2をいっぺんに観たと思えば決して高くはない。

原案・脚本・監督は「自殺サークル」「奇妙なサーカス」など、異形の問題作を作ってきた鬼才・園子温。本作は第59回ベルリン映画祭にて、国際批評家連盟賞&カリガリ賞をW受賞。

主人公は敬虔なクリスチャン一家に育ったユウ(西島隆弘)。神父の父(渡部篤郎)は、妖艶な女サオリ(渡辺真起子)に溺れ、やがて逃げられる。そのショックから、父はユウに懺悔を強要するが、懺悔のために毎日『罪作り』をエスカレートさせるうち、ユウは女性の股間を狙う盗撮のエキスパートになって行く。そしてある日、ユウは運命の女性ヨーコ(満島ひかり)と出会い恋に落ちる。一つ屋根の下で済むようになった彼ら一家に、やがて怪しげなカルト教団の魔の手が迫る…。

 
牧師の父の女狂いに始まり、強制懺悔、アクロバティックな盗撮、盛大なパンチラ、男どもをなぎ倒すヨーコの大アクションに至って、やっとメイン・タイトルがバーンと出るが、なんとこの時点で1時間が経過!!ここまでの展開も相当紆余曲折だが、お話はさらに壮大なスケールで突き進み、オウムを思わせるカルト教団の策謀がからんで、最後にやっとヨーコとユウの至高の愛が成就するまで、まさに波瀾万丈、4時間近い上映時間にもかかわらず、ほとんどダレる事もなく、食い入るように画面を見つめた。

よく考えれば、パンチラ、盗撮、勃起、オナニー、変態、同性愛…と、かなり下品で猥雑なネタばかりなのだが、それにもかかわらず、観終わって崇高な気分に充たされる。―それは、早くに母を亡くしたユウが、理想の女性“マリア”に巡り合うことを夢見続けている、その思いが、全編を通しての一貫したテーマになっているからである。父が牧師であり、胡散臭い宗教団体もからむなど、“宗教は本当に人を救えるのか”、というテーマも見え隠れする。

まとめて言うなら、この映画は、下品さと猥雑さ、いかがわしさこそが人間の本質であり、それらを突き抜けた向こうにこそ、至純の、崇高な愛の姿があるのだ、というお話なのである。ユウの、迷い、悩み、傷つき、心がズタズタになりつつも、最後に本物の愛を得るまでの、これは心の旅であり、愛の冒険の物語なのである。

ユウを怪演した西島隆弘や、カルト教団の悪意を代表するコイケを演じた安藤サクラ、いずれも熱演だが、パンチラ(と言うより丸見え)・アクション、下着姿、オナニー、レズまで堂々とやってのけた満島ひかりがなんと言っても素晴らしい。ラスト間際の、聖書の一節を延々とワンカットで喋るシーンも圧巻。ついこの間は、金子修介監督の「プライド」でも、底辺から這い上がるふてぶてしく逞しい女を快演したばかり。TVの「ウルトラマンマックス」でアンドロイドの可愛い娘を演じていた頃からは見違えるほどの大飛躍である。ちょっと早いけれど、私の本年度の主演女優賞は、彼女に決まりである。

題名通り、これはむきだしの人間の本性に迫る愛と感動のドラマである。長尺で、観るのに体力を必要とするが、出来れば劇場で観て欲しい。今のところ、私の本年度邦画ベストワン。必見である。      (採点=★★★★★

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(お楽しみはココからである)
ユウが友人にそそのかされ、女装するくだりで、その服装が黒の帽子に黒のロングコート、名前を“さそり”と名乗るその姿は、'70年代の東映アクション、「女囚さそり」シリーズの梶芽衣子のファッションを思い起こさせる。'70年代の映画を観ている人には懐かしいシーンである(梶芽衣子ファンの中には、むしろそのファッションの原型、日活の「野良猫ロック」シリーズを思い出す方もあるだろう)。

それから考えると、本作にはその他にもいくつか、東映B級セクシー&アクション映画(総称してピンキー・バイオレンスと呼ぶのだそうな)へのオマージュを見つける事が出来る。

まず、セーラー服姿のヨーコの、パンツを派手に見せながらの大立ち回りは、池玲子、杉本美樹らによる「女番長(スケバン)」シリーズを連想させる。

ユウがチンコを勃起させ、ズボンの中でテント立ちさせているお下劣なシーンは、内藤誠監督、梅宮辰夫主演の「ポルノの帝王」シリーズにそっくりなシーンがある。勃起したチンコをシルエットで画面一杯に写し出す爆笑シーンもちゃんと登場している。

そもそも、下品かつ猥雑な場面を満載する事によって、作品に活力とバイタリティと、ハジける笑いをもたらすという構図は、「女番長」シリーズの生みの親であり、東映ポルノ・コメディ路線を確立させた、鈴木則文監督の作品に多く見られる作風である。しかも鈴木監督の作品には、“下品さ、下俗さの中にこそ究極の愛の姿がある”という、本作にも通じるテーマを持つ作品がいくつかあるのである(興味ある方は、鈴木監督が日活ロマンポルノで撮った「堕靡泥の星・美少女狩り」を参照されたし)。
さらには、多岐川裕美のデビュー作でもある鈴木監督の東映作品「聖獣学園」は修道院が舞台であり、キリスト教、懺悔、レズ、十字架…と、本作と共通するキーワードもいくつか登場している。
あと、チンコのテント立ち…も、「トラック野郎」シリーズ(文太がチンコ立ててウロウロするシーンは抱腹絶倒)など、鈴木作品ではお馴染みである。

園子温監督は、ひょっとしたら鈴木則文監督(並びに東映ピンキー・バイオレンス映画)の隠れたファンではないだろうか。一度聞いてみたいものである。

園子温監督自身による原作本

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2009年3月22日 (日)

テレビ「相棒 -シーズン7-」最終回

Aibou19 昨年の劇場版公開をきっかけに、テレビ版にすっかりハマッてしまった。

最新の、シーズン7も欠かさず観ていたし、昼間に再放送している旧作もビデオに録って追いかけているが、数が多過ぎて、まだ観ていない作品も多い。全部の観賞が終わるのはいつの事やら…

さて、シーズン7では、途中で、相棒の亀山(寺脇康文)が卒業、以後は杉下(水谷豊)が一人で事件を追うというパターンが最終回まで続いた。8年も続いたので、ここらでリニューアル…という事なのだろうか。

亀山がいなくなったエピソードでは、回によって1回限りの新相棒が登場したり、杉下一人の単独行動があったりと、いろいろ目先を変えていたが、改めて思うのは、亀山の存在がシリーズにおいて、かなり大きかったという点である。

前回、テレビシリーズについて書いた時(こちら参照)にも指摘したが、沈着冷静、クールな杉下に対して、ややオッチョコチョイ、ホットな熱血漢という亀山のキャラクターは、殺人があり、死体がころがる陰鬱なストーリー展開の中で、ユーモラスな色取りを添えて画面を明るくする功績があった。彼の妻(鈴木砂羽)との漫才のような掛け合いにも笑わせてもらった。
また飲み込みが遅い亀山に、杉下が簡潔に説明する事によって、視聴者に対する分かり易い解説・案内にもなっていた。

無論、脚本も演出もそれなりに工夫していたし、ゲストの相棒役にも亀山に似たキャラクターを与えてなんとかカバーはしていたが、長いシリーズの間に培われた、二人の間に醸し出される信頼関係、男の友情…といった要素が剥落していたのは如何ともし難かった。

そんな中、異色作は全編、ほとんど水谷豊と岸恵子の二人だけの芝居で見せた第15話「密愛」。

密室トリックも登場し、岸恵子との演技合戦もなかなか見応えがあって、好きな作品なのだが、ここまで来ると「相棒」と言うよりは、まるで別の作品、例えば「古畑任三郎」シリーズの1編を観ているようで、なんか違和感が残ってしまった。

 
さて、そんなシーズン7も最終回は2時間スペシャル版であり、また次回シーズンから参加する(多分)、新“相棒”、神戸尊(及川光博)が初お目見えした点でも見逃せない1編。

埼玉の山奥を舞台に、殺人を暗示する1枚の点描画をめぐり、杉下の推理が冴える。脚本はシリーズ生みの親、輿水泰弘に、演出も同じく和泉聖治と万全…のはずなのだが、いま一つ面白くなかった。

お話は悪くないのだが、2時間になった分、間延びした感じ。1時間でも十分なお話。

瞬間記憶する特殊な能力を持った少年が描いた絵がキーとなるのだが、いくら特殊能力とは言え、写真のように人物が判断出来たり、上り框の形状の違いまで見分けられたりするのはちょっと無理。そもそも“動物”だけに注意してて、そこまで描けるものだろうか。

それと、最終回という事でレギュラー・メンバーを登場させる必要からか、捜査1課の3人が特に用事もないのに現地までノコノコやって来るのにも無理がある。1課ってそんなにヒマじゃないでしょう。

肝心のミッチー扮する新相棒だが、キャラクター設定にちょっと違和感。

クールで、ダンディで、スマート…というんじゃ杉下のキャラとほとんど同じ。おまけに杉下曰く「端々に官僚臭さが漂う」イメージでは、ユーモラスな色取りにもなり難いし、そもそもコンビとしてやって行けるのだろうか。ちょっと不安である。

やや思慮に欠ける面もちょっとだがありそうなので、回を追うごとに、おトボケのユーモラスな味が出ればいいのだが。

だが、これも杉下曰く、「君は亀山君の代わりには、なれませんよ」。

そんなわけで、人間ドラマ部分は輿水脚本らしく、見応えはあったが、前述のような不満な点がいくつか感じられて、なにかスッキリしない最終回でありました。

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2009年3月20日 (金)

「ジェネラル・ルージュの凱旋」

Generalrouge(2009年・東宝/監督:中村 義洋)

昨年の「チーム・バチスタの栄光」に続く、海堂尊原作の医療ミステリーの映画化。

前作は、私にはイマイチだった。原作はなかなか面白かったが、映画化に際しアレンジした点がうまく嵌っていなかった気がする。原作では中年男性だった不定愁訴外来医師の田口を、若い女性に変えたのも、映画的には面白い発想なのにストーリーに生かせていなかったし、ソフトボール試合もあまり意味がなかった。ラストの展開もモタついていたように思う。唯一、ロジカルモンスター・白鳥(阿部寛)の存在はユニークでちょっと面白かった。

ミステリーに限らず、小説を映画化する場合、原作の面白さは、作者の文体や筆力(勢い)による場合が多く、基本的に、書かれた文字を読者の頭でイメージ化する小説と、すべてが“絵(=ビジュアル)”を中心に進行する映画とは異なるものである。その為、トリック部分などは文章で読めばごまかされてしまうが、映像化すると意外につまらなかったりする。
昔、森村誠一原作の「超高層ホテル殺人事件」を映画化した時、原作ではなるほどと思った密室トリックが、映像にするとあまりにショボくてガックリした事がある。

従って、映画化には、そうした、映像面での配慮をきちんとしておかないと成功しないように思う。松本清張原作を多くシナリオ化した橋本忍は、その点実にうまかった。後半を原作とはまったく変えて、イメージ映像と音楽を主体にした「砂の器」などは顕著な成功例だろう。

そんなわけで本作も観る前にはかなり不安があった。そもそも脚本が、「REDSHADOW 赤影」「ドラゴンヘッド」「252‐生存者あり‐」と、トンデモ駄作づいてる斉藤ひろしが前作に引き続き担当しているから余計不安であった。

ところが、期待していなかったせいか、本作は予想に反してよく出来ていた。前作よりずっと面白い。

 
舞台は前作と同じ東城大学医学部付属病院。ある日田口医師(竹内結子)の元に、『救命救急の速水センター長は医療メーカーと癒着している』という差出人不明の内部告発文書が届く。院長の依頼を受け、調査に当たった田口は、速水が当の医療機器メーカーの営業マンからこっそり紙袋を受け取る現場を目撃するが、やがてその営業マンが病院屋上から転落死する事件が起き…

面白さの一因は、ジェネラル・ルージュの異名を取る、救命救急センター長・速水(堺雅人)のキャラクターの秀逸さだろう。救急患者をすべて拒まず受け入れ、部下の反感を買いつつも、泰然と構え、いつもチュッパチャプス(飴玉)を舐めている。いったいこの男は天才なのか、賄賂を受け取る悪人なのか、俄然興味津々となる。

そして、同じ主旨の内部告発文書が、厚生省役人の白鳥の所にも、こちらはワープロ打ちで届いていた。何故2通あるのか、何故片方は手書きなのか、それは誰が書いたのか、医療メーカー営業マンの転落死は事故か自殺か、はたまた殺人か…

謎や人物設定を前作と比べ、単純化した分、展開もスリリングで引き込まれる。田口が若い女性である点や、ソフトボール試合が、今回は伏線としてうまく生きている。そして白鳥が相変わらずのキャラで楽しませてくれる。今回は足を怪我し、鬼警部アイアンサイドばりの車椅子探偵役であるのも楽しいし、彼の気配を本能的に感じる田口のリアクションがマンガ的ギャグで笑わせてくれる。ここらは前作を観ていないと面白さは半減する。必ず前作で予習すべし。

そしてクライマックスの、倫理委員会での真相究明から、休む間もない救急臨戦態勢への怒涛の展開が見事。ビジュアル的にも見せ場満点で、映画としてのスケール感も出ている。また、ここでの白鳥の鋭い名探偵ぶりも、千両役者ばりに決まっている。歌舞伎なら大向うから掛け声が上がるところだ。

さらにエンディングがまた素晴らしい。昼行灯かと思われた田口の、速水に対する粋な処置もいいが、ラスト30秒(ぐらいかな?)のオチが絶妙で思わず膝を打った。これはハリウッドの都会派コメディにはよく見られる、いわゆる反復ギャグなのだが、日本映画でこんな粋なラストは珍しい。かつてはダサイと洋画ファンから蔑まれていた日本映画もここまで向上したかと、私は思わず感慨に耽った(と言ったら褒め過ぎか(笑))。

 
謎がからむミステリー展開の中に、さまざまな人間ドラマや、現代の医療が抱える諸問題も散りばめ、全体としてウエルメイドでユーモラスな味わいに満ちた社会派エンタティンメントの快作となっているのはお見事。斉藤ひろしさん、ちょっと見直しましたよ。

速水に扮した堺雅人が快演。脇役でありながら主役を食う存在感を見せる。―ただ本人はいいのだが、顔が優しいのが唯一の難点。もう少し得体の知れない凄みと怪物性が感じられる役者だったら満点だっただろう。惜しい。ともあれ、最近のミステリー映画の中では上出来の快作である。     (採点=★★★★

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(で、お楽しみはココからである)

原作者の海堂さんによると、1作目「チーム・バチスタ-」を書いた時は、最初主役は田口だけだったのだが、途中でどうしても話が前に進まなくなって途方に暮れたそうである。その時、変人にして怪人・白鳥という人物を新たに創造した事でどんどん筆が進み出したのだそうだ。

このエピソードは、黒澤明監督の「七人の侍」において、脚本チームが途中で、百姓と侍をどう融和させるかという部分で詰まってしまい、まったく筆が進まなくなったが、三船敏郎扮する“菊千代”というジョーカーを創造した事によって一気に話が進み出した…という逸話を思い出させる。
なるほど、白鳥は菊千代か―と得心が行ったのだが、よく考えれば、白鳥を演じた阿部寛は、黒澤リメイク「隠し砦の三悪人」で、オリジナルで三船敏郎が演じた真壁六郎太役を演じている…というのも、奇しき因縁ではある。 

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2009年3月13日 (金)

「パッセンジャーズ」

Passengers(2008年・アメリカ/監督:ロドリゴ・ガルシア)

美しいセラピストが、事故にまつわる不可解な謎に巻き込まれていく心理サスペンス。

飛行機事故で奇跡的に生還した5人の乗客。セラピストのクレア(アン・ハサウェイ)は彼らのカウンセリングを任されるが、事故の際の証言が少しづつ食い違う。やがて彼らの周囲に不審な人物が現れ、また日を追うごとに生存者の姿が消えて行く。クレアは、航空会社が事故原因の真相を隠蔽するために、生存者の口封じを行おうとしているのではないかと推測するが…

登場人物が、みんな謎めいて見える。生還者のうちの一人、エリック(パトリック・ウィルソン)は事故に遭ってるのに不思議に明るいし、航空会社の担当者(デヴィッド・モース)はいかにも胡散臭く、クレアの隣人のオバさん(ダイアン・ウィースト)は妙に親切でかえって気持ち悪いし、…と、なにやら大きな陰謀が隠されているように見えて出だしはまずまず。

こういうミステリー・タッチの作品は、いかに巧妙に伏線を撒くか、観客をいかにうまくミスディレクションに導くか―がポイントとなる。その点では導入部は成功している。

この映画のポイントは、ラストに明かされる驚愕の真実である。ネタバレになるので書けないが、あまり考えずに観ていればうまく騙される人もいるだろうし、伏線部分を注意して見ている人は早々と気付くだろう。

残念なのは脚本がいささか弱い。脚本のロニー・クリステンセンはこれまでTVムービー数本程度の実績しかないようで、例えばカウンセリング・シーンがあっさり過ぎる。生存者の過去や、心の傷を丁寧に描くなど、もう少し登場人物のキャラクターをきちんと掘り下げて描いておればもっと面白くなっただろうに、惜しい。「彼女を見ればわかること」のロドリゴ・ガルシア監督も、この脚本では腕の揮いようがなかっただろう。

(以下重要なネタバレですので隠します)
実は、クレアも5人の生還者も、みんな死んでいた…というのがオチで、これは明らかにM・ナイト・シャマラン監督の「シックス・センス」からのいただきだろう。主人公がセラピストで、自分が死人だった事に最後でやっと気付く…という点まで似ている。ただ、主要登場人物が全員死人だった…という点が目新しいところか。よく考えれば、最初に病院に行ったクレアが、すれ違う人に声をかけても無視される…というシーンや、生存者がみんなかすり傷ひとつ負ってない…という辺り、ちゃんと伏線になっている。

ただ、おかしなツッコミどころも目に付く。クレアが車を運転するシーンがあるが、あの車は一般の生者には見えてるのだろうか。見えてれば無人の車が走ってる事になり、騒ぎになるだろう。それとも、車も幽霊?(笑)。

クレアが、飛行機に乗ってた事を全然覚えていないのも変。5人の生還者はみんな事故の記憶があるし、事故現場でウロウロしてたのに、彼女だけは家で寝てて、しかも上司(これも死人)からの電話を受けている。何故彼女だけが特別なのか、その理由を説明しておく必要があったのでは。

…と言う具合に、欠点も多いが、しかしラストにおいて、すべての謎が一挙に解明され、同時にクレアとエリックの、悲しいラブストーリーにホロリと泣かされる辺りはエンディングとしては悪くない。
↑ネタバレここまで

まあ、細かい所で難点もあるが、出演者はアン・ハサウェイ以外はあまり有名どころは出ていないし、製作費も、浜辺の事故機の残骸以外には大して金はかかっていないようで、コスト的にも低予算の作品である。配給もメジャーではない。

つまりは、昔で言う、B級映画(プログラム・ピクチャー)なのである。上映時間からして、93分とB級サイズである。

そう考えれば、2番館か地方公開で、お目当ての作品(話題作)を観に行って、その併映作としてまったく予備知識もなく、期待もせずに観たなら、結構楽しめるだろう。大阪で言うなら、新世界国際劇場で、3本立で観た人はきっと予想以上に楽しめたに違いない(笑)。

まああまり期待せず、白紙の気持ちで、細かい事を気にせずに観る事をお奨めする。B級映画は、B級なりの楽しみ方があるのである。    (採点=★★★

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2009年3月 5日 (木)

「チェンジリング」

Changeling (2008年・ユニヴァーサル/監督:クリント・イーストウッド)

クリント・イーストウッド、もう79歳!にもなるというのに、精力的に新作映画を発表し、しかもここ数年、「ミスティック・リバー」(03)、「ミリオンダラー・ベイビー」(04)、「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」(06)と、監督する作品がことごとくキネ旬ベストワン、又は2位を獲得している。

これは凄い事で、あの黒澤明監督ですら、55歳で監督した「赤ひげ」が最後のベストワン作品である。以後も作品は作ってはいるものの、「赤ひげ」までの傑作群から受けた感銘にはほど遠い。

それに比べてイーストウッドの場合は、むしろ年齢を重ねるごとに、より作品的密度、パワーが増大している気がする。
上記の作品群の出来を見れば一目瞭然だが、最新作「チェンジリング」を観て、さらに驚いた。

なんとまあ、さらに凄い傑作になっている!おそるべしイーストウッド。脱帽だ。

 
1928年、ロサンゼルスの電話交換手クリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)の9歳の息子ウォルターが失踪し、5ヶ月後にまったく別の子供が戻って来た。クリスティンは息子ではないと主張するが、警察は取り合わず、逆にクリスティンを精神病院に放り込んでしまう。…

息子は何処に消えたのか、帰って来た息子と称する男の子は何者なのか…と、ミステリー・タッチの出だしだが、やがて物語が進むうち、当時のロサンゼルス警察の怠慢と、信じられないような傲慢ぶりが露わになって行く。警察に反抗する人間は強引に精神病院に送り込んでしまうのだ。これが実話だというのだから怖い。

物語の中心となるのは、ひたすら、息子を探し求める母親、クリスティンの強い意志である。警察の嵩に来た横暴に対し、息子への愛を支えとして、毅然と戦いを挑み、やがて支援者の応援にも助けられて、遂に裁判において警察の誤りを認めさせ、戦いに勝利する。

まさにイーストウッドらしい、力強い作品である。
まだまだ女性差別が根強い20世紀初め、弱い立場の主人公が立ち向かうのは、真実をどうにでも曲げて、弱者を屈服させる強大な権力機構。とても勝ち目のないような戦いである。それだけに、最後において弱者が強大な敵に逆転勝利する…という展開はまさにエンタティンメントの王道である。

それは丁度、イーストウッドが得意とする西部劇のパターンにも近い。ボスが牛耳る町でたった一人敵に立ち向かい、最後に勝利する…という映画が、西部劇全盛の頃にいくつも作られていたはずである。代表的な例が、ジョン・スタージェス監督の「ガンヒルの決斗」であるが、イーストウッドの「許されざる者」自体、彼が対決する相手は町を支配する保安官(ジーン・ハックマン)だった。

やがて息子を含め、多くの子供を誘拐、殺してきた殺人鬼が捕まる。その犯人の死刑執行前日、クリスティンは犯人と面会し、ここでも毅然と対決するのである。「地獄へ堕ちろ!」と叫ぶクリスティン。そのセリフが象徴するように、これもまた彼女なりの“決闘”なのである。

実話がベースではあるが、そうした西部劇パターンを巧みに隠し味にしてあるから、暗い、やり切れない話であるにも係らず、観賞後の後味は爽快である。こういう作劇、演出のうまさはイーストウッドならでは。見事である。

特に素晴らしいのはエンディングである。遂に息子は見つからなかったが、それでも、“どこかに息子は生きている、いつか自分の元に帰って来る”という“希望”を心に抱き、クリスティンはロスの街の雑踏に紛れて行く。当時を精密に再現した街の風景が、これが真実の物語である事をさらに強調する。

どんな悲しい境遇であろうとも、“希望”を失ってはいけない。その支えとなっているのは、子を思うひたむきな母の愛である。…このラストには涙が溢れた。アンジェリーナ・ジョリーが、芯が強くブレないが、決してエキセントリックにもならず、抑えた名演技を見せて見事。

イーストウッドの、丁寧で、ピンと一本張り詰めた、重厚さと繊細さが絶妙のバランスを保っている演出の見事さにはただ感心するばかりである。

過去のイーストウッド作品を振り返れば、77年の「ガントレット」は、警察上司の立場がまずくなる裁判の検事側証人の女性(ソンドラ・ロック)を、ラスベガスからフェニックスまで連行する話で、これも警察権力の腐敗を扱っていた。
その他、大統領(=権力者)の殺人現場を目撃した盗みのプロの孤独な闘いを描く「目撃」(97) だとか、冤罪をテーマとした「トゥルー・クライム」(99)であるとか、前掲の「許されざる者」だとか、イーストウッド作品には“公権力の横暴・腐敗に一人立ち向かうヒーロー”というパターンの作品がいくつもあることに気付く。
そういう意味では本作もまぎれもなく、一貫してブレず、同テーマを追求し続けるイーストウッド作品に他ならないのである。

蛇足だが、ラストでクリスティンは、アカデミー賞作品賞を、フランク・キャプラ監督の「或る夜の出来事」(34)が受賞すると予想し、見事的中する。一見、本作のテーマと関係ないように見えるが、ここにもイーストウッドらしい隠し味がある。
フランク・キャプラと言えば、アメリカ的理想主義を掲げた作品を多く作っており、代表作が、“汚職に染まる悪徳政治家にたった一人で戦いを挑んだ正義感溢れる男”の物語である「スミス都へ行く」(39)である。強大な権力者の策謀の罠にはめられ、窮地に陥るが、周囲の人たちの助けを得て、最後に勝利する…という物語展開は、まさに本作と重なるテーマを持つ。ある意味、本作はイーストウッドが、「スミス都へ行く」にオマージュを捧げた作品なのかも知れないのである。     (採点=★★★★★

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(お楽しみはココからだ)
イーストウッド作品を見て感じるのは、黒澤明監督と同じ匂いである。

もともと、黒澤作品「用心棒」のいただき、「荒野の用心棒」で一気にスターダムにのし上がったイーストウッドであるが、「ダーティ ハリー」にも、黒澤作品「野良犬」のテイストが感じられる(もっともこれは同作の脚本をリライトしたジョン・ミリアスが、黒澤信奉者である事を知れば納得できるのだが)。

そして何より、黒澤明自身、「生きる」ではお役所仕事の無気力さを痛烈に批判し、「生きものの記録」では原爆実験、「悪い奴ほどよく眠る」では官僚の汚職事件、「赤ひげ」では医療制度の貧困…等、常に“国家や権力者の怠慢、腐敗の構造”に鋭い批判の眼を向け続けて来た作家なのである。

そう考えると、前掲の、死刑が決まった犯人が処刑の前日、クリスティンに面会したいと申し出、二人が対面するシーンは、黒澤の「天国と地獄」のラストシーンの権藤と竹内の対面シーンへのオマージュとも取れるのである。犯人が、「地獄に堕ちたくない」とブルブル震え出すところまで似ている。テーマ自体が、“子供の誘拐”と共通しているのは、偶然ではないだろう。

 
(*)
イーストウッドへのインタビューをまとめた「孤高の騎士 クリント・イーストウッド」(フィルムアート社)を読むと、イーストウッドが黒澤に心酔している事がよく分かる。以下引用。「黒澤の映画は大好きだ。特に初期のものだ。『七人の侍』から『赤ひげ』の頃だね」
そして私は気付かなかったが、自作の「真夜中のサバナ」および「トゥルー・クライム」には共に、一つの事件を複数の視点でフラッシュバックするシーンがあるのだが、これはなんと、「羅生門」からの引用なのだそうだ。「(共通点を指摘され)そうだ。『羅生門』みたいに三つの別々の視点からね。『羅生門』は、当時見て素晴らしい映画だと思ったが、今見ても素晴らしい。黒澤は時代をはるかに先取りしていた」(同書より) 

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