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2009年5月31日 (日)

「重力ピエロ」

Juuryokupiero (2009年・ROBOT=アスミック・エース/監督:森 淳一)

直木賞候補にもなった、伊坂幸太郎のベストセラー小説を、秀作「Laundry」の森淳一監督が映画化。

仙台市内で、壁や構築物への謎の落書き(グラフィティ・アート)と、放火事件が頻発する。大学院で遺伝子を研究する泉水(加瀬亮)と、落書き消しの仕事をしているその弟の春(岡田将生)は、この二つの間に関連性があること、さらに落書き文字が暗号になっている事に気付き、事件の解決に乗り出すが、その裏には24年前に彼らの家族に起きたある悲しい出来事が絡んでいた…

伊坂幸太郎の小説は、一風変わった、独特の味わいがある。デビュー作の「オーデュボンの祈り」からして、未来を予言するカカシが殺人事件の被害者になる―という、何とも奇妙な作品だし、「アヒルと鴨のコインロッカー」といい、「フィッシュストーリー」といい、どれも一筋縄では行かない、しかし一旦ハマれば中毒になってしまいそうな、ユーモアありミステリーありの、独自の世界観に満たされた不思議な世界が展開する。

そんな伊坂作品の中では、本作はわりと普通の(?)、家族をめぐるジンワリと心に響く、初期の代表作である。

原作を読んだ時は、“これは映画にしにくいな”と感じた。冒頭の「春が二階から落ちて来た」という、文学史に残りそうな名文からして、これは、小説として読んでこそ味わいのあるお話であり、映像化したら作品イメージが壊れてしまうのではないか、と危惧した。

しかし、さすがは「Laundry」で独自の味わいある作品世界を構築した森監督、原作の持ち味(もしくは伊坂ワールド)を壊すことなく、見事に映像化に成功し、なおかつ森淳一作品としても成立させている。原作を先に読んだ方にもお奨めの力作である

 
前述の、「春が二階から落ちて来た」の出だしを、きちんと画にしただけでも秀逸。ここで一気に作品世界に入って行ける。

落書きに描かれたアルファベットが、遺伝子配列の暗号になっている事に泉水が気付く辺りから、謎解きミステリーになって行き、その過程で24年前の連続レイプ事件との関連性が炙り出されるにつれ、春の忌まわしい出生の秘密が明らかになって行くが、やがてお話はミステリーよりも、泉水と春と父との、深い絆に結ばれた家族愛の物語が中心となって行く。

(以下、ネタバレ部分がありますので、映画を未見の方はお読みにならないでください)

春が子供の頃から、絵の天才であった事、泉水が大学院で遺伝子を研究している事から、放火犯人が誰かは、勘のいい観客ならほぼ見当がつく。ただ難しいのは、小説ではなかなか気付かない事が、“画”になると観客には分かってしまうという点である。落書きアートの絵があまりにも上手過ぎ、なおかつ観客は、子供時代の回想で、春が展覧会で金賞を取った絵を見ている。この絵を見れば、あの見事な落書きを描いたのは、春以外にいない事に容易に気付いてしまう。むしろ泉水がなかなか気付かないのが不思議なくらいである。

しかし謎解きは本流ではない。映画は泉水の赤ん坊時代から、二人の仲の良い子供時代を経て現在に至るまでの、泉水と春の成長、それを優しく見守る父(小日向文世)と母の姿を丁寧に描き、どんな不幸な出来事があろうとも崩れない、家族の固い絆が胸をうつ。

この父が、母と初めて知り合う回想シーンにおいて、大変な状況なのに悠然と構えている、という彼の性格が、後の物語の重要な伏線となっている辺りが秀逸。

小日向文世の存在感が見事。いつも笑顔を絶やさない、自分の死期を悟っても、ただ泰然と構えていて、そして家族の中心であり続ける父親像を演じてサマになる役者は、彼以外に思いつかない。一歩間違えれば、ただ気の弱い小心な人間に見えてしまう所を、実は芯が強い、包容力のある理想の父親と思わせるのは、簡単なようで相当難しい。

加瀬亮と岡田将生の兄弟の演技も見事である。鈴木京香の母親も含め、それぞれが役柄を完全に把握し、ドラマに厚味をもたらしている。

そしてレイプ犯、葛城を演じる渡部篤郎である。これがまた見事。ほとんど反省の色を見せず、自分勝手な論理をまくし立てる唾棄すべき悪人を完璧に演じている。刑期を終えているとは言え、泉水たち家族にとっては許されざる存在である。兄弟が殺意を抱くのも当然ではある。…だが、その悪の論理が、自分勝手に生きている多くの人間の本性でもある所が怖い。ともあれ、「愛のむきだし」と本作で、本年度の助演男優賞は確定であろう。

 
人によっては、放火、殺人の春が、裁かれないのは納得が行かないと感じるかも知れない。

だが、伊坂作品の多くがそうであるように、この物語はファンタジーである。彼の描く舞台はほとんどが仙台という実在の街なのだが、物語が進むうち、次第にこの街が、どこでもない、異世界に見えて来る。

ちょうど、リドリー・スコット監督が「ブラック・レイン」の舞台として選んだ、大阪の町が、明らかに大阪でロケしているにもかかわらず、まるで、「ブレード・ランナー」の未来世界(ロサンゼルス)に見えて来るように…。

だから、落書きをしてても、放火しても、どこにも人間の姿(警察も)が見えないという不自然さも、ファンタジーなら納得出来るのである。

「二階から飛び降りる」春にしても、普通なら足を挫くか、大怪我するだろうに、平然としているのもファンタジー的である。

あるいは、超イケメンで、しかも頭脳優秀で、絵の天才でもある“春”そのものが、現実を超越した、天使のような存在なのかも知れない。

ラストで、冒頭と同じシーンで締めくくった演出もうまい。この、「二階から落ち」ても平然としていられるシーンが、題名の由来でもある、「愛さえあれば、重力さえも消してしまえる」という名文句ともリンクしているのである。まさに文学的なエンディングと言えようか。見事。

 
原作の持つテイストを見事に映像として定着させた、これは素敵な秀作である。原作者も、映画の出来栄えに満足しているそうである。

個人的に1点だけ不満を。原作では父親も、入院中のベッドにいながら事件を推理する(安楽椅子探偵のようである)のだが、映画ではそれが省略されていた。これがあれば、父親の人物像がさらに魅力を増したのに。そこがやや残念。    (採点=★★★★☆

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(付記)
製作に「タイヨウのうた」「ALWAYS 三丁目の夕日」(小日向文世好演!)と、爽やかな家族愛を得意とするROBOTが参加している点にも注目。ついでながら、アカデミー短編アニメ賞を受賞して話題の「つみきのいえ」(これも家族がテーマ)もROBOT製作作品である。

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2009年5月21日 (木)

「60歳のラブレター」

Loveletterfrom60 (2009年・松竹/監督:深川 栄洋)

某銀行が毎年行っている、1枚のはがきに綴る応募企画「60歳のラブレター」に着想を得て、「ALWAYS 三丁目の夕日」「キサラギ」の古沢良太がオリジナル脚本を書き、「真木栗ノ穴」等の深川栄洋が監督した、3組の熟年男女が織り成すさまざまな人生模様を描くオムニバス風ドラマ。

60歳前後という人生の節目を迎えた人たちが、ふと立ち止まって、人生を見つめなおしたり、第2の人生を始めようとしたりする、言わば大人のラブストーリー。団塊の世代が次々と定年を迎えている今の時代に、タイムリーな企画と言えよう。

中心的に描かれているのが、大手建設会社の専務取締役を、60歳を期に退職し、離婚することになった橘孝平(中村正俊)とちひろ(原田美枝子)。これに、夫が糖尿を患い、口喧嘩しながら励ましあう魚屋夫婦(イッセー尾形と綾戸智恵)、愛妻に先立たれ娘と暮らす医師・静夫(井上順)と、翻訳家として活躍する麗子(戸田恵子)との遅咲きの恋…の3組のカップルのドラマが微妙にすれ違いながら進行する。

脚本が、「キサラギ」など、絶妙に交錯する人間ドラマを得意とする古沢良太だけあって、いろんな波風を立てながらも、紆余曲折を経た後、それぞれタイプの異なるラブレターを契機として、収まる所に収まるドラマ展開は手馴れたもの。深川栄洋の演出も丁寧で、ベタつかず、爽やかで後味のいい作品に仕上がっている。

一番ジンと来たのが、魚屋夫婦。ビートルズのコピー・バンドとその追っかけ…という馴れ初めがいかにも団塊世代らしくて面白いし、喧嘩しながら、文句を言いながらも実は仲がいい夫婦というのが、3組の中で一番リアリティがあって観客目線に近く親近感を感じさせる。夫がジョギングの帰り、いつもウインドーで指をくわえて眺めていた、27万円もするマーチンD28のアコースティック・ギター(ビートルズのポールが愛用していた)が絶妙の小道具として使われ、“やはり夫婦は以心伝心だな”と改めてしみじみと思わせる。一番庶民的だけど、実は一番理想としたい夫婦像であるのかも知れない。私もビートルズ世代であるだけに、“ミッシェル”には泣かされてしまった。映画初出演のジャズシンガー・綾戸智恵が意外にも魚屋のカミさんがよく似合っていたのには新鮮な驚き。

 
これに比べると、他の2組は少々ドラマが作り過ぎの感無きにしもあらずで、特に中村扮する
橘孝平に関するエピソードの、リアリティのなさは問題。大手ゼネコンの専務が、あと数年はガッポリ役員報酬をもらえるはずなのに、あえて退職して不倫相手と、不安定なベンチャーを起業したりするだろうか(下記、付記参照)。おまけに、退職してもまだ自分の力が通用すると過信している辺り、かなり甘チャンである。さらに、離婚してるのに、未練たらしくノコノコ元妻の家の前をうろついたりするなんて不自然すぎる。

こういう、身勝手で自信過剰の甘ったれは、とことんドン底に叩き落してやるべきである。堕ちる所まで落として、そこでやっと目が覚めて、本当に必要としていたのは元の妻だった…と気付いてこそ感動のドラマになっただろう。

さらに、後半で発生するベンチャー会社の危機も、リスク管理が出来てなさ過ぎだし、それを回避するために孝平が取った奥の手も、あまりにリアリティに欠ける(あんな事したらもっときついしっぺ返しを食らうだろう。ゼネコンを舐めてはいかんぜよ)。

そんなわけだから、本来「幸福の黄色いハンカチ」並みの感動を呼ぶはずだったラストの孝平の行動が、ドラマの中で浮いてしまっていて、感動にほど遠い事となる。これは計算違いであろう。30年かかって手元に届いたラブレターのエピソードが感動的なだけに、この誤算は惜しい。

それにしても、「地下鉄に乗って」(浅田次郎原作)、「象の背中」、それに本作と、涙と感動のドラマになるべき作品に、なんでいつも“主人公の不倫”を持ち込むのだろう。結局どれも主人公の人物像を薄っぺらにし、ドラマをぶち壊す結果にしかなっていないのに…。

脚本も、監督も共に30歳代。この題材なら、主人公たちと同世代の(いわゆるアラ還の)脚本家、監督にまかせた作品を観たかった気がする。

…とまあ不満はあるが、綾戸智恵と井上順が予想外の好演だったし、アラに目をつぶれば、ジンワリ感動できる大人のドラマになっていた事は評価したい。団塊の世代以上の方にはお奨めの佳作…という事にしておこう。    (採点=★★★☆

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(付記)
少し気になったのが、作品紹介記事でも公式HPでも、専務取締役である孝平の退職を、“定年退職”としている点。

普通、役員には定年はない。最近ボチボチ導入する所が出て来ているが、それでも最短で65歳である。私のいた会社は専務が70歳くらいまで就任していた。そこまで行かなくても、大抵は一般社員より長く在籍する。専務取締役が60歳で退任するケースは稀である。60歳なら、早期退職の部類である。

ここでは、重役にしたりせず、ヒラ部長で十分だったのではないか。それだと60歳での定年退職でスジが通るのだが。…うーむ、性格だろうか、こんな事が気になって仕方がない(苦笑)。

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2009年5月17日 (日)

「THE CODE/暗号」

Thecode (2008年・日活/監督:林 海象)

2005年に公開された映画、「探偵事務所5~5ナンバーで呼ばれる探偵達の物語」の続編。

なおこの「探偵事務所5」シリーズは、05年からインターネットシネマとしても配信されており、現在までに50話ほどが作られ、100万人を超える視聴者数を記録しているという。

残念ながら前作は観ていないが、林海象監督と言えば、永瀬正敏主演による、「我が人生最悪の時」に始まる映画版3作が作られた「私立探偵 濱マイク」シリーズ(後にテレビでも放映)など、私立探偵ものを多く手掛けており、そもそも自分のプロダクション名を“映像探偵社”とする等、探偵にこだわり続ける作家なのである(濱マイクという名前も、ミッキー・スピレイン原作による、探偵マイク・ハマーのもじりである)。

「濱マイク」シリーズもわりと楽しんだ方なので、本作もちょっと期待したのだが…。

 
冒頭いきなり、川崎市内で時限爆弾を使った同時多発爆破テロが起こり、装置の解除キーが暗号となっていて、それを探偵事務所5に所属する天才的暗号解読のプロ、コードナンバー507号(尾上菊之助)が次々と解読し、爆破を未然に防いで事件を解決に導く…というアヴァンタイトル部分のツカミはスピーディでまずまず。シリーズのレギュラー陣もほんの数カットながら大勢登場するので、シリーズ・ファンには楽しいだろう(なお、映画館で上映していたのが、林監督の長編デビュー作「夢みるように眠りたい」(探偵事務所の501役・佐野史郎が主演)というお楽しみもある)。

だが、本編に入り、507が上海に飛んで、複雑な暗号に秘められた、旧日本軍が隠した財宝の争奪戦に巻き込まれる…という展開になると、俄然テンポがゆるくなる。

敵の上海地下マフィアの連中が、揃ってマヌケだし、銃は近距離でもまったく命中しないし、背中に暗号の刺青を持った謎の美女・美蘭(メイラン・稲森いずみ)の中国語はタドタドしいし、財宝に近づく人間を、ゴルゴ13も真っ青の命中率で次々射殺する謎の男(松方弘樹)の年齢がどう考えても辻褄が合わないし(終戦時30歳前とすると、現在は90歳手前だろう。あんなに機敏に動けるわけない(笑))…といったツッ込みどころは、まあB級アクションと割り切れば見過ごしてもいい。

だが、肝心の暗号が、何やら数字をやたら羅列してるだけでどんな暗号なのかがさっぱり判らないし、それを507が解読するプロセスも観客にはまったく示されず、何か分からないうちに解読が済んでる…というのでは欲求不満になる。「とにかく507は天才だから」というだけでは説得力がない。

暗号もの、と言えば、古くはエドガー・アラン・ポオの「黄金虫」があり、我が国では伊沢元彦の「猿丸幻視行」が有名。最近ではダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」がある。
いずれも、暗号がどうやって解読されたか、そのプロセスがちゃんと読者にも示され、読者も参加してパズルを解いて行くかのような快感があった(「映画の方の「ダ・ヴィンチ・コード」は、長い原作を端折り過ぎて、原作未読の人にはちょっと辛かったが)。

わざわざ、タイトルが「THE CODE/暗号」と大きく出たのだから、ここは有名な暗号小説を真似てでも、観客参加型の暗号解読ミステリーにして欲しかった。

で、結局は暗号解読はざっと流して、宍戸錠対松方弘樹の、老人同士のガンアクション、に落ち着くという展開は、オールド・ファンには懐かしいが、そういう昔の俳優を知らない観客や、「探偵事務所5」シリーズのファンには物足りない、アクションもユルユル、謎解きも中途半端、というしまらない出来になっていたのは残念である。

そういう意味では、これは昔の、宍戸錠が活躍していた頃の、日活や大映や東映のB級活劇を楽しんだ世代には、それらへのオマージュや細かい裏ネタを探して懐かしみ、楽しむ作品と言えるだろう(それらについては後述の恒例お楽しみコーナーを参照)。

林海象監督も、おそらくそれらや、内外の探偵活劇に思い入れがあるのだろう。それはいいのだが、映画としては、昔を知らない人でもそれなりに楽しめ知ってる人は余計楽しい…という作品に仕上げるのが、プロの仕事ではないだろうか。採点は、作品そのものは★★程度だが、個人的にはいろいろ楽しめた分をおマケして…   (採点=★★★

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(では、お楽しみはココからである)
コードナンバー・500の、会長役を演じているのが、宍戸錠(役名も宍戸会長)であるのは、ちゃんと意味がある。

Tantei_23 宍戸錠の日活時代の代表作で、私立探偵役を演じたのが、大藪春彦原作「探偵事務所23」シリーズ。鈴木清順監督の「くたばれ悪党ども」(63)をはじめ2作が作られた。

で、2+3=5である。…つまり本作の主人公が属する“探偵事務所”とはすなわち、宍戸錠主演“探偵事務所23”(にじゅうさんではなく、ツースリーと読む)へのオマージュなのである(これも暗号か?(笑))。事務所名が、単に“5”であり、宍戸錠が事務所の最高幹部であるのは、そういうわけなのである。

細かい所では、宍戸会長が上海警察の幹部に会いに行った時、名刺代りに渡すのが、スペードのエースの中央に“JOE”と印刷したトランプだったりするし(宍戸錠の日活時代のニックネームは“エースのジョー”)、錠さんが西部のガンマンもどきに、ガンベルトを腰に巻き、拳銃をクルクルと回してストンと収める仕草は昔と変わらず、錠さん主演の和製西部劇(早撃ちは「シェーン」のアラン・ラッド並みだと宣伝された)を楽しんだ私などはウルウルしてしまった。

本作を配給したのが、“日活”であるのも嬉しい。

 
で、彼の恩師であり、陸軍中野学校の元スパイ、椎名次郎役を松方弘樹が演じているのも、同様に意味がある。

Nakanogakkou 中野学校の元スパイ、椎名次郎とは、'60年代、大映で作られたスパイ活劇「陸軍中野学校」シリーズの主人公である。演じたのは故・市川雷蔵。66年の「陸軍中野学校」(増村保造監督)を第1作として、5本が作られた人気シリーズである(1作目のみ主人公の役名は三好次郎。椎名次郎は2作目から定着する)。

で、何故松方なのかと言うと、ちょっと込み入った事情がある(笑)。

実は、雷蔵は大映のドル箱スターでありながら、病魔に冒され、'69年に37歳の若さで急逝してしまう。

慌てたのは大映である。稼ぎ頭のスターを失い、おまけにその前年には、ポスター序列で揉めた事が原因で、やはりドル箱の田宮二郎を当時のワンマン社長・永田雅一がクビにしてしまい、稼げるスターは勝新太郎しかいなくなっていたのである。

困った大映は、スターを多く抱える東映に頼み、当時やや精彩を欠いていた松方弘樹を借りて来て、市川雷蔵の後釜に据えようとしたのである。

なにせ、移籍第1作が、雷蔵の代表作「薄桜記」(59)のリメイク「秘剣破り」である。

そして以後は、雷蔵のヒット・シリーズを片っ端から松方主演で量産する。ざっと挙げると…
“眠狂四郎”シリーズ 「眠狂四郎円月殺法」「眠狂四郎卍斬り」(いずれも69年)
“若親分”シリーズ  「二代目若親分」(69)…そのまんまだ(笑)
“忍びの者”シリーズ 「忍びの衆」(70)

しかしそれでも大映の凋落を食い止める事は叶わず、松方の助っ人も焼け石に水で、大映は'71年に倒産してしまい、松方はたった2年足らずで東映に戻る事となる。

で、雷蔵2世(を会社がもくろんだ)松方弘樹が、雷蔵のヒット・シリーズ(2作止まりは除く)中、唯一主演映画化出来なかったのが、くだんの椎名次郎が活躍する「陸軍中野学校」シリーズなのである。

本作の松方が演じた椎名次郎役は、つまりは40年ごしにようやく実現した、幻の雷蔵の当たり役の再演だったのである。本人は感慨深いものがあるのではないだろうか。

 
最後にトリビアなネタを一つ。日活時代に宍戸錠が主演した冒険活劇に、「三つの竜の刺青」(61・野口博志監督)というのがあり、3人の男女の肌に彫られた刺青を寄せると、莫大な金塊の在り処が分かるというストーリーで、宍戸錠+莫大な金の財宝+在り処を示した刺青…と、本作との共通項がいくつかあり、最後も金塊が眠る洞窟での銃撃戦…という所まで似ている。本作のヒントになった可能性は大いにあり…と思う。残念ながらビデオもDVDも出ていないようだ。興味ある方は、CSかなんかで放映された時はお見逃しなきよう。

 

DVD 劇場版第1作 「5ナンバーで呼ばれる探偵達の物語」

DVD 宍戸錠主演 「探偵事務所23・くたばれ悪党ども」

DVD 市川雷蔵主演「陸軍中野学校」シリーズ(1、2作目)
  

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2009年5月 8日 (金)

「チェイサー」

Chaser (2008年・韓国/監督:ナ・ホンジン)

04年に韓国で実際に起きた連続殺人事件をベースに、猟奇殺人犯と、元刑事の追跡劇を緊迫感溢れるハイテンション演出で描き切ったサイコ・スリラーの傑作。

元刑事のオム・ジュンホ(キム・ユンソク)が経営するデリヘル店から、女たちが相次いで姿を消してしまう。ジュンホは電話番号を手掛かりに、店の客だった青年チ・ヨンミン(ハ・ジョンウ)を追い詰め、ヨンミンは容疑者として警察に逮捕されるが、証拠不十分で釈放されてしまい……。

韓国映画の猟奇サスペンスと言えば、ポン・ジュノ監督の傑作「殺人の追憶」を思い出すが、本作はさらに走る、追いかける…というハードな追跡劇の要素も絡ませ、「殺人の追憶」に勝るとも劣らない緊迫感と完成度を見せる。

これが当年35歳の、新人監督の長編デビュー作だというから凄い。R指定(19歳未満不可)にもかかわらず韓国で観客動員数500万人以上を記録し、大鐘賞の作品、監督、主演男優賞など6部門に輝いたという。

無名の新人監督の、ノースターによる地味な作品でも、出来が良ければ大ヒットする、韓国の映画事情が我が国から見れば羨ましい。

 
登場人物のキャラクター造形が出色。主人公のジュンホが、元刑事ながら、今はしがない出張売春業を営んでいるというのが面白い。姿を消した風俗嬢を探すのも、多額の前金を渡しているという商売上の理由からだし、刑事時代のクセで、捕まえたヨンミンをボコボコに痛めつけるなど、かなり粗暴な性格である。犯人のヨンミンが、実は恐るべき殺人鬼なのだが、一見やさ男で平凡な人間に見える所が余計怖い。ヒッチコックの傑作「サイコ」の犯人、ノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)を思い起こさせる。

ジュンホが、最初は商売の損得だけで犯人探しをしていたのが、失踪したキム・ミジン(ソ・ヨンヒ)の幼い娘を成り行きから連れて行動するようになってから、この娘の為に、母親のミジンを必死で探すようになる心境の変化が面白い。

(以下ネタバレにつき隠します)
監禁されたミジンが、必死の思いでようやく逃げ出し、観客がホッとしたのもつかの間、ヨンミンに見つかり、惨殺されるという救いのない展開に愕然となる。

このやり切れなさは、デヴィッド・フィンチャーの「セブン」以来ではないだろうか。

しかしその、ジュンホの、ミジンを救えなかった無念さが執念となって、警察でも捜せなかった、独自捜査によるヨンミンのアジト発見に繋がって行くのである。この展開が見事である。

ラストで、ベッドに眠るミジンの娘を見つめるジュンホが、やがて彼女の父親代わりになるであろう事を暗示させる幕切れに、やり切れない物語に対する僅かな救いを見て、観客はようやくホッとするのである。その点、「セブン」や「殺人の追憶」よりは後味は爽やかである。
(ネタバレここまで)

警察の無能ぶりの描き方も容赦ないが、犯人を捕まえても物的証拠が見つからなければ、12時間以内に釈放しなければならない…というシステム上の問題点も炙り出される。殺したと自供しながら、のらりくらりとアジトの住所はなかなか教えないヨンミンのしたたかさに、刑事捜査の限界も感じさせられる。

全編、異様な緊迫感に満ちた、現代社会の底知れぬ闇を描いた犯罪サスペンスの傑作である。素晴らしいデビューを飾った大物新人監督、ナ・ホンジンの今後にも大いに注目したい。必見である。    (採点=★★★★★

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(お楽しみはココからだ)
これを観て思い出すのが、クリント・イーストウッド主演の「ダーティハリー」(1作目)である。

猟奇連続殺人犯、サソリはハリーに捕まるものの、ハリーが自供させるのに暴力を使った事で、違法捜査だと検事局に叩かれ、サソリを釈放せざるを得なくなる。あまつさえ、サソリはわざと自分の顔をボコボコにしてハリーに殴られたと訴え、ハリーは捜査からも外されてしまう。

…犯罪捜査システムの不合理で、犯人である事が分かっているのに釈放せざるを得なくなり、そして結局新たな被害を招いてしまう展開が、本作と良く似ている。ご丁寧にも、ボコボコにされた犯人の、顔の腫れ上がり具合までソックリである。
「ダーティハリー」のストーリーも、実際にあったゾディアック事件をモデルにしており、両作は似通った構造を持った作品であると言える。

(5/10 追記)
思い出した事があるので追加。

本作と「ダーティハリー」とは、もう一つ接点がある。
本作の中で、何度か、夜の坂道の向うに、教会の赤いネオンの十字架が映し出される。ジュンホが使い走りの男に、「あの教会の付近まで、鍵の合う家を探せ」と命令してるし、ラストではその教会が重要な手がかりとなる。

「ダーティハリー」でも、ケバケバしいネオンの、教会屋上の広告塔の下で犯人との銃撃戦があるし、サソリにおびき出されたハリーが、夜の公園でサソリに散々痛めつけられるシーンの背後には、白いコンクリート製の巨大な十字架がそびえ立っているのである。

ついでながら、やはり猟奇女性連続殺人事件が登場する、イーストウッド監督・主演作「ブラッド・ワーク」の冒頭にも、夜の暗闇の中に、白いネオンの十字架が浮かび上がっている。この十字架のネオンは以後も何度か登場する。

“猟奇連続殺人事件と十字架(あるいは教会)”は、イーストウッド映画を解く重要なキーである気がする。
(この点に興味がある方は、中条省平さんの労作「クリント・イーストウッド -アメリカ映画史を再生する男」増補文庫版(筑摩書房・2007年刊/ちくま文庫)をお読みになる事をお奨めする)

これだけ共通点が多いのは偶然ではない気がする。ナ・ホンジン監督は、クリント・イーストウッド監督を密かに敬愛しているのではないだろうか。

 

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2009年5月 3日 (日)

「グラン・トリノ」

Grantrino(2008年・ワーナー/監督:クリント・イーストウッド)

ついこの間「チェンジリング」で感動したばかりだと言うのに、イーストウッド監督・主演の最新作「グラン・トリノ」でまた泣けた。なんでこんなに次々と 傑作を連発出来るのだろう。イーストウッドには映画の神様が宿っているとしか思えない。

朝鮮戦争でも戦った経歴のある主人公、ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)は、デトロイト近郊の街に住み、定年に至るまでフォードの自動車工場で働いて来た。長年連れ添った妻も亡くなり、退屈な日々を過ごすウォルトの唯一の楽しみは、愛車の'72年型フォード・グラン・トリノを磨き、ビールを飲みながら眺めること。ある日ギャングにそそのかされた、隣家に住むモン族の少年タオ(ビー・バン)がこの愛車を盗みにガレージに侵入するが、ウォルトに見つかり逃げ出してしまう。この事がきっかけで、やがてウォルトはこの少年を一人前の男に育てようとするが、ギャングの嫌がらせは次第にひどくなって行く…。

彼の生き方は白人優位主義で、黒人やアジア人に対して差別意識を持っている。黒人の不良どもに平然と「クロ」と言い、隣に越して来たモン族の家族にもあからさまな不快感を示す。

頑固一徹で、アメリカ経済の象徴である自動車産業、フォードで勤め上げたウォルトに対し、息子は日本(=アジア)のトヨタに勤めている。その為、息子たちとも疎遠になっている。

そんな、孤独な老人が、タオ少年を鍛えるプロセスを通して、次第に心がほぐれ、タオたちと親しくなり、人生の終焉において、自らの心に秘めていた忌まわしい思い出に決着をつけ、ある行動を起こす。

生と死、人生というものについて、深く考えさせる、これは問題作であり、傑作である。

 
(以下、ややネタバレ的な内容があります。未見の方はご注意ください)

映画を観ていると気付くが、本作には、これまでイーストウッドが製作・主演して来た映画のさまざまな要素がいっぱい詰まっている。

悪い奴がのさばるのを黙って見ておれず、タオや、彼の姉スー(アーニー・ハー)が不良に絡まれている所を見つけると、銃を構える素振を見せて助け出す。カッコいい決めゼリフを吐く所も、まさにダーティハリーそのもの(庭でギャングどもが暴力を振るっている時に、ライフルを構え言うセリフ「俺の庭から出て行け」は、彼が演じて来た西部劇ヒーローをも連想させる)。

未熟な若者を鍛え、一人前に育てる…というパターンも、これまでの自身の監督・主演作「センチメンタル・アドベンチャー」「ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場」「ルーキー」などで何度も描かれている。「センチメンタル・アドベンチャー」にはまた、“病気で死期の迫った男が、若者に大切な事を教え、死んで行く”という本作に通じるテーマが含まれている。
なお、「ハートブレイク・リッジ」の主人公も、朝鮮戦争の従軍経験者である。

年老いて一線を退いた男の、最後の戦い…は「許されざる者」だし、戦争から還った男の一生続くトラウマ「父親たちの星条旗」でも描かれている。

そして、最近のイーストウッド映画に顕著な、“贖罪”というテーマ(「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」など)もやはり本作に登場している。

ついでながら、ラストの、ウォルトの体を突き抜ける無数の銃創は、一瞬「ペイルライダー」の主人公の体に刻まれた銃創痕を連想させたりもする。

 
ある意味、本作はイーストウッド映画の集大成であると言えるかも知れない。

しかしこの映画が描こうとしたものは、もっと奥が深い

ウォルトは、古いアメリカが守り通して来た価値観を今も正しいと思っている男である。いや、これまで思って来た。

“世界の警察”を自認するアメリカという国家そのまま、どこの国の人間だろうと、暴力を振るう奴らには暴力で報復する(それはまた、イーストウッドが演じて来たマカロニ西部劇の主人公や、ダーティハリーなどの暴力派ヒーロー像とも重なる)。

モン族のギャングたちがタオを痛めつけた事を知ると、彼は報復としてギャングの一人の家に押し入り、こっぴどく痛めつける。

こうすれば、ギャングたちはおとなしくなる…と信じて行った、彼なりのこれは正義なのである。

だが、その結果は、却ってもっと悲惨な結果を招いてしまう。…それを知ったウォルトは激しく己を責め、拳骨を血だらけにして壁を、棚を殴りつける。

暴力に、暴力で贖うことが無意味であることを、老人は初めて思い知るわけなのである。
そこに、彼が朝鮮戦争で、まだ年端も行かない若い朝鮮兵士を殺した忌まわしい記憶が蘇える。

そこで(もう自分の命も短いと知った)彼がとった行動は…報復に報復を繰り返す、空しい復讐の連鎖を断ち切る事であった。

この決断には涙が溢れた。これはまさに、イーストウッドの、アメリカ国家戦略に対する異議申し立てであり、痛烈な批判である。

アメリカ国家は、9.11に対する報復としてイラクに攻め入り、イラク国民を苦しめたフセインをやっつけて、アメリカ流の正義を貫いた。
だが、イラクが平和になると思ってとった行動が、逆に混迷を招いて、泥沼の紛争は今も続き、アメリカも多くの兵士を失い、また帰還兵の心の荒廃まで招いてしまった(それらを描いた作品としては「勇者たちの戦場」「告発のとき」「さよなら。いつかわかること」等がある。ちなみに、「告発のとき」は「ミリオンダラー・ベイビー」「父親たちの星条旗」の脚本家、ポール・ハギス監督作であり、「さよなら。-」音楽をイーストウッドが手掛けているという事実も興味深い)。

自分たちが正しいと信じて行って来た、力の誇示で物事を解決する時代はもう終わっているのではないか。報復の連鎖は空しさしか生まないのではないか…。ウォルトは、命を賭けてその事を示した。その決断には深く心を打たれる。

これからの時代を生きて行く若者に、本当の男とはどう生きるべきなのかを身をもって教え、行動した、そのカッコいい男の生きざま、死にざまにシビれた。
これぞまさしく、イーストウッドでなければ描けない世界である。

彼こそ、まさにアメリカの、最後の勇者であり、本当の意味での心やさしきヒーローなのである。

 
それにしても、78歳!という年齢で、1年に2本も、それもどちらも素晴らしい、心をゆさぶる秀作を作り出したイーストウッドの作家としてのタフさには心の底から感服する。参った。必見!    (採点=★★★★★


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(付記1)
西部劇ヒーローの先輩、ジョン・ウェインも、晩年ガン末期で余命いくばくもない時、やはりガンで死期が近い事を知った主人公が命を賭けて行動する西部劇「ラスト・シューティスト」に遺作として出演した。

共に、西部劇のヒーローとして、アメリカの正義を体現してきた俳優が、晩年において共に壮絶な男の死にざまを描いた作品を遺した事は興味深い。もっとも、イーストウッドはまだピンピンしてて、これからも力作を作り続けるだろうが。
ちなみに同作の監督は、イーストウッドの恩師でもあるドン・シーゲルである。これも不思議な縁である。


(付記2)

本論からは外れるので、上には書かなかったが、ウォルトと、彼の2人の息子との心のすれ違いが丁寧に描かれている点にも着目したい。

父親がフォードに勤めているのに、親元を離れ都会に移り住み、ライバル(であり、蔑視するアジア産業)のトヨタに就職している点も不愉快であるし、妻の葬儀に来た孫たちの服装、態度にも我慢がならない。

息子たちは、やっかいな父を老人施設に入れようとするが、ウォルトは激怒し彼らを追い返す。

こうした親子の断絶を描いた秀作が、我が日本映画にある。

小津安二郎監督の「東京物語」である。

両親を田舎に残し、大都会・東京で暮らす息子たち。久しぶりに東京にやって来た両親にも、そっけない態度を取り、体よく温泉旅館に追いやる。親子の間に横たわる断絶感がもの寂しい。

「グラン・トリノ」が、主人公の妻の葬儀から始まるのに対し、「東京物語」は妻の葬儀で物語が終わるのも対照的である。

葬儀の合間に、厚かましく親の形見分けの話をするシーンも、両方の作品にあるし、主人公の老人が本当に心を許したのが、血の繋がらない人間(「グラン-」ではタオ、「東京-」では息子の未亡人・紀子)で、共に形見をプレゼントする所も共通する。

妻に先立たれ、一人孤独を噛み締めながらも、残りの人生を息子たちに頼らずに、田舎の寂れた町で生きて行く道を選んだ老人。…いろいろと共通する要素は多い。

 
…それにしても、イーストウッド映画を観て、小津安二郎作品を思い起こす事になるとは…思っても見なかった(苦笑)。

 

中条省平著・「クリント・イーストウッド-アメリカ映画史を再生する男」(ちくま文庫)

 

 イーストウッド作品を独自の視点で分析した、イーストウッドの長年のファンは必読の名著。
2001年に刊行された同題の単行本の増補改訂版だが、新たに書き下ろされた補章「二十一世紀のイーストウッドは十字架の彼方に」が面白いので、前単行本をお持ちの方にもお読みになる事をお奨めする。

 

 

 

 

 

  
「ユリイカ」イーストウッド特集号

 

ジョン・ウェインの遺作。ドン・シーゲル監督

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