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2009年7月20日 (月)

「モンスターVSエイリアン」

Monstersvsaliens_2 (2009年・ドリームワークス/監督:ロブ・レターマン、コンラッド・バーノン)

「シュレック」シリーズ等で、ピクサーと並ぶ、CGアニメーションの2大勢力となったドリームワークス・アニメーションが送り出した、パロディ満載の楽しいCGアニメの快作。

結婚式当日、スーザンは、宇宙から飛来した隕石の影響で巨大化してしまい、政府の秘密基地に移送される。そこには、各地から集められたモンスターたちが監禁されていた。その隕石のエネルギーを狙うエイリアンが地球に襲来し、スーザンたちは地球を守るため、エイリアンと闘うこととなる…

お話は単純、人間からは怖がられているモンスターたちが、力を合わせて悪いエイリアンを退治し、地球に平和を取り戻す…という王道パターン。子供から大人まで、誰でも楽しめるSFアクション・アニメであるが、全編、いろいろなA級・B級とりまぜたSF映画のパロディやオマージュがぎっしり詰まっており、古いSF映画ファンには余計楽しめる仕掛けとなっている。

モンスターたちは、それぞれ'50年代B級SF映画のパロディになっている。
隕石の放射能(?)の影響で巨大化する女…は、'58年の「妖怪巨大女」(原題:Attack of the 50Foot Woman)。
半人間、半魚のミッシング・リンクは'54年の「大アマゾンの半魚人」(原題:Creature From the Black Lagoon)。
頭がゴキブリのコックローチ博士は、'58年の「蝿男の恐怖」(原題:The Fly)。
スライム状のボブは、これも'58年の「マックイーンの絶対の危機(ピンチ)」(原題:The Blob)。ボブという名前は、原題のBLOBから1文字抜いただけ。
そして巨大な虫(実は蛾)のムシザウルスは、'61年の東宝作品「モスラ」である。

50footwoman_2  

これだけでも、SF映画ファンには応えられないが、さらに「未知との遭遇」「スター・ウォーズ」「インディペンデンス・デイ」など、最近のファンでも分かり易いネタも散りばめられているし、ゴールデン・ゲート・ブリッジでの大バトルは、レイ・ハリーハウゼン特撮の「水爆と深海の怪物」('55)を連想させる。

大統領が、うっかり核ミサイル発射ボタンを押しそうになるギャグは、キューブリックの「博士の異常な愛情」を観ておれば、余計笑えるだろう。

しかし単なるギャグ・アクション・ドラマにとどまらず、巨大化したスーザンが、最初はモンスターとして人間たちから疎外され、マイノリティの悲しみを味わった後、信じていたフィアンセの態度を知って、最後は人間に戻る道を捨て、モンスターとして生きる事に誇りを抱くようになる…という、スーザンの成長の物語にもなっているのがいい。

(以下ネタバレ)あわや危機一髪の時、羽が生えたムシザウルスが救援に駆けつけるシーンは、「スター・ウォーズ」1作目(エピソードⅣ)のハン・ソロの同様なシーンを彷彿とさせる、この手のアクションのお約束であるが、やはり手に汗握り、ワクワクさせてくれる。その伏線として、少し前の所で、倒れて動かなくなったムシザウルスが白い繭に覆われるシーンが一瞬出てくるが、これも「モスラ」1作目を観ている人なら、すぐにピンと来るだろう。

そんなわけで、この映画は、小さな子供が観ても充分楽しめるが、昔のSF映画を好きな中高年の大人は、さらにオマージュ部分で楽しめるおマケも付いた、あらゆる世代にお奨めの快作である。なお、3D立体バージョンもあるが、私が観たのは2D版。でも面白さは2D版でも変わらないだろう。     (採点=★★★★

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(お楽しみはココからだ)

モンスター連合軍が、宇宙から襲来したエイリアンと戦う…という展開、これは実は、'60年代の東宝怪獣映画に何度か登場するパターンである。

最初は、'64年の「三大怪獣・地球最大の決戦」。いがみ合ってたゴジラとラドンが、モスラの仲立ちでチームを組んで、金星から襲来した宇宙怪獣・キングギドラと戦う。キングギドラもエイリアンと見做せば、パターンは本作の前半部とよく似ている。

その次の「怪獣大戦争」('65)では、文字通りエイリアンのX星人がキングギドラを使って地球侵略を試み、最後はゴジラ、ラドンに撃退される。X星人がどう見ても人間そのまんまというのがご愛嬌。

さらに'68年の「怪獣総進撃」では、怪獣の数も11匹!に増加し、ゴジラ、アンギラス、モスラ、バラゴンなどの怪獣が、エイリアンのキアラク星人の操るキングギドラ(まただ(笑))と大バトルを繰り広げる。

おそらく本作は、こうした東宝怪獣映画へのオマージュにもなっているものと思われる。

特に「怪獣総進撃」は、“国家機関が、捕獲したモンスターたちを1ヶ所(怪獣ランド)に集め、隔離している”という設定で、クライマックスでは“モンスターたちが一致協力してエイリアンの差し向けた怪獣を撃退し”、“最後はモンスターたちは怪獣ランドに戻って行く”というオチも含め、本作との類似点は多い。

その証拠としては、本作の字幕版を観ていれば分かるのだが、向ってくるスーザンたちに対し、エイリアンのボスが、クローン・エイリアンの部下たちに、"Destroy All Monsters!" と命令する。

これ、実は「怪獣総進撃」の、英語題名なのである。

アメリカの映画ファンで、ゴジラ・ファンであるなら、これ聞いただけですぐピン、と来るはずである。

私は字幕版観てたので、すぐ分かったが、吹替版を観ていたら気付かなかったかも知れない。これから観る方は、是非字幕版で、確認していただきたい。

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2009年7月13日 (月)

「ウルトラミラクルラブストーリー」

Urutramiraclelovestory (2009年・日活/監督:横浜 聡子)

「ジャーマン+雨」という風変わりな作品で日本映画監督協会新人賞を受賞した31歳の新進監督、横浜聡子の、劇場長編映画第1作。

青森県のある田舎町。水木陽人(松山ケンイチ)は祖母の柴田もつ(渡辺美佐子)と農業を営んでいた。ある日、町に保育士の神泉町子(麻生久美子)がやって来て、幼稚園で働き始める。町子は、恋人、島田要(ARATA)を事故で失っていた。陽人はそんな町子に一目惚れし、つきまとうが、そのストーカーまがいの行動に町子は困惑する。ある日、興味半分で土に埋まった陽人は農薬を被ってしまい、急におとなしくなってしまう。

実は観る前は、僅かの事前情報から判断して、少し頭の弱い青年と、恋人を失った女とのピュアなラブストーリーだとばかり思っていた。

(以下、ネタバレしますが、映画を観る前に必要な情報だと思いますので書いてしまいます。読まれる方はそのつもりで…)

ところが、どうも途中から、“これは違うな”と思い始め、首のない要が登場してからは??となり、ラストのオチには唖然としてしまった。

これは明らかに、“普通”の作品ではない。俗に“難解映画”と呼ばれるジャンルの作品である。

初めからそういった作品である事を知っていれば、それなりの心構えで観るので、また違った感触を得たかも知れない。これから観る方は、そういう映画である事を承知の上で映画館に行っていただく事をお奨めする。

 
では、面白くないかというと、そうではない。見方を変えれば、これはとても刺激的で、ユニークな異色作である。

確かに、訳の分からない映画ではあるが、訳が分からない映画=駄作・失敗作ではない。例を挙げれば、S・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」は、公開当初は観客のみならず、評論家ですらさっぱり分からんと不評だったが、今ではオールタイム・ベストテンでベストワンになるほどの古典的名作として評価が定まっている。
鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」も難解だが、その年のキネ旬ベストワン、日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞するなど、名作の誉れが高い。

そんなわけで、これはそういった作品と同様、作者の意図を、さまざまなキーワードを基に読み解く事によって、いろんな楽しみ方が出来る作品なのである。デヴィッド・リンチや、鈴木清順や、三池崇史監督作品を好きな方なら、この作品も楽しめるはずである(と思う)。
では、私なりの解読を…

 
この映画は、生者と死者が交じり合うドラマである。首のない体で歩く要は、明らかに死者である。また農薬(=)を浴びた陽人はやがて心臓の音がしなくなる。この時点で陽人も、体は死んでいるのである。首のない要は、“”を失っているが、心臓が止まった陽人は逆に体は死んで脳だけが生きている存在である。つまり陽人は、生者と死者との境界にいるのである。
ラストで脳をクマに食わせる事によって、陽人は心も体も死んでしまった事になるのである。

青森が舞台…という点もミソである。青森は死者の霊を呼び寄せる恐山のイタコが存在する土地であり、もともと生者と死者との境界があいまいな土地である。町子も、死んだ要の気持を知りたくて青森にやって来て、藤田弓子扮するイタコに会う。

そういう点では、この作品は、前述の「ツィゴイネルワイゼン」と似たスタンスを持っている。あの作品も、途中から生者と死者の境界があいまいになって行き、“生きてる者は死んでいて、死んでる者は生きている”というテーマが鮮烈に打ち出されていた。

本作は、言わば21世紀の(もしくは平成の)「ツィゴイネルワイゼン」とでも言える作品なのである。

ラストで、何故クマに脳を食わせるのか…と疑問を抱く人もいるだろうが、東北地方やアイヌ文化では、クマは神の使い…とされていた事を知っていれば納得が行くだろう。弥生時代の津軽(青森)では、クマ意匠の遺物が多数出土しているそうだが、これも当時のクマ信仰によるものだ、という説がある(出典:陸奥新報・2008/1/21)
(ちなみに、神代(くましろ)辰巳監督の名前のように、“神”を“クマ”と読ませるのも、そこに由来しているのだそうだ)

陽人の脳を、神の使いであるクマに引き渡す事によって、陽人の魂は神に召されたのである。

 
もう一つの裏テーマは、何事にも束縛されない自由人(陽人)と、常識やルールに縛られ、定められた規格の中でしか生きて行けない現代人とを対比させ、“生きているとはどういう事なのか”を考えさせる事にある。

(名前もそれらの暗喩になっている。陽人とは太陽の子=即ち自然児を示し、町子は、町(=都会)からやって来た子、即ち常識やルールに束縛された現代人を示す。要は、その両者をジョイントする扇の要の位置にいるのである)

陽人が作る野菜は、農薬を使わない(葉っぱに青虫が這うシーンが冒頭に出て来る)。自然のままの野菜である。陽人も言ってみれば奔放に生きる自然児である。

だが、現代人である町子と一緒になりたいが為に、農薬を浴びる。つまりは、自然児である事をやめて、束縛された現代人に同化しようとするのである。農薬を浴びた後、陽人が奔放さを失い、常識人に近づいた言動になるのはそれ故である。

自由人である事を自らの意思で止めてしまった陽人は、自らの生きる拠り所を失ってしまう。従って彼は必然的に死ななければならないのである。しかし、町子への思いはせつないほどに強い。よって、身体は死んでも、精神(=脳)だけはなおも生き続けるのである。

自由人、自然児の時の陽人を、生きた人間とするなら、その対極にある、町子たち束縛された現代人は、果たして生きていると言えるのか…(前掲の「ツィゴイネルワイゼン」のテーマを思い起こすべし)

…という具合に読み解いて行けば、これは我々現代人にとって、とても刺激的で考えさせられる作品であると言えよう。

以上は、私なりの解釈だが、観た人がそれぞれ、自分なりにいろいろと考え、さまざまな解釈や作品解読を行えばいい。それに賛同するもよし、異論を唱えるもよし。ブログでも、いろんな解釈が出ているようだが、それらを読み比べてみるのも一興だろう。…もっとも、こういう映画は、あまり理論詰めに解釈してしまうと、却ってつまらなくなってしまうかも知れない。何も考えず、感じるままにまかせる方でもいいのかも知れない。

あと褒めておきたいのが、子供に対する演技指導である。ほとんど素人の子なのだが、実に自然で、芸達者な俳優の演技に引けを取らない(これは前作でも感じた)。新人監督で、ここまできちんと演出出来る人は少ない。松山ケンイチの、見事に役に同化した演技も素晴らしい。

 
――と、一応褒めたうえで、残念な点がいくつか。

まず、細かい所までもう少し、周到に伏線を張っておくべきである。ラスト間際で、突然陽人が猟師にクマと間違われて射殺されるのだが、これが唐突。前段で、クマがよく出没するとか、クマは神の使い、と言うさりげない会話を挟んでおくとかしておくべきである。

陽人は明らかに知的障害であり、落ち着きがなく、キレるとその辺のものを手当たり次第に投げ飛ばすなど、普通の生活になじまない様子である。一方でトラックを運転するシーンがあるが、あんな情緒不安定では免許試験に合格出来ないと思えるのだが。

農民とケンカして、トラックの野菜をぶち撒けるシーンがあるが、これはやり過ぎ。野菜を作っている農家の人間は、大事に育てた野菜を粗末に扱う事などあり得ない。陽人のキャラクター設定について、もう少し整合性を持たすべきである。

ラストの、クマに脳を放り投げた後の町子の表情が、微笑んでいるように見えるのだが、これで良かったと思っているのか、とりあえずクマの注意をそらしてホッとしているのか、いま一つ読み取れない点も残念。これが小説かシナリオなら、町子の気持ちを文章で表現出来るのだが、映画は映像だけで伝えなければならず、従って心の中までは、観客に伝え切れないのである。ここは工夫が必要だった。

そういう難点が生じるのは、やはり実作経験の少なさが原因だろう。鈴木清順も、三池崇史も、B級プログラム・ピクチャーを量産し、そうした中からやがて「けんかえれじい」「中国の鳥人」などの、丁寧で評論家からも評価される力作を産み出すに至っている。そうした監督としてのキャリアを積んでいるからこそ、そこからの逸脱にも説得力が生まれるのである。

 
脚本・監督の横浜聡子は、キネマ旬報誌で「天才候補!?」と冠されるくらい、その才能を評価されているのだが、「天才」でなく、「候補」(それも!?付き(笑))となっている点が微妙である。

つまりは、才能は認めるが、まだまだ原石の状態で、これからの切磋琢磨で、本物の天才になるか、はたまた未完の大器で終わってしまうのか、まだ未知数…という事なのだろう。

しかし、日活など製作委員会がからんだ商業映画の枠内で、これだけの奇怪な作品を作り上げてしまうのもある意味大したものである。…もっとも、脚本をきちんと吟味出来るプロデューサーがいなくなった今の時代だからこそ可能だったとも言えるのだが。

まだ商業映画はこれが第1作。次作でどのように成長するか、見守って行きたいと思う。      (採点=★★★★☆

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2009年7月 8日 (水)

「ディア・ドクター」

Deardoctor (2009年・エンジンフイルム=アスミック・エース/監督:西川 美和)

「ゆれる」で高い評価を得た、西川美和監督の新作。

都会の医大を出た若い研修医・相馬(瑛太)が、山間の僻村に赴任して来る。ここでは人の良さそうな伊野(笑福亭鶴瓶)が、村唯一の医者として奮闘している。病気を抱えたさまざまな老人を治療し、話し相手まで引き受ける伊野は、村人から大きな信頼を寄せられていたが、ある日突然、伊野が失踪する。警察が捜査するうちに、伊野のある秘密が明らかになって来る…。

「蛇イチゴ」「ゆれる」でもそうだったが、西川監督は、人間をじっくりと観察し、その行動を通して、人間という存在そのものの不可思議さ、哀しさを容赦なく暴いて行くのが得意のようである。

前作までは、全体にピンと張り詰めた緊張感が漂い、見てて息苦しくなる部分もあったが、本作では(舞台はいつもと同じ田舎なのに)鶴瓶というキャラクターのおかげもあるが、どことなくトボけたユーモアが絶妙にブレンドされ、作品にさらに厚味と風格が加わった。この作家はどんどん進化しているようだ。

(以下ネタバレあり)

伊野は実は偽医者なのだが、夜は医療関係の書物を読みあさり、勉強もしているし、何よりその人当たりの良さ、相手を包み込むような優しい応対によって、患者の心を解きほぐす事にも力を注いでいる。気軽に往診に出向き、孤独な老人の話相手にもなってあげる。

医者というのは、むしろそうあるべきだろう。2時間待たされて、診察は3分…という、現在の都会の診療システムでは、身体は治せても、心の病は治せない。

法律的に見れば、伊野の行為は犯罪なのだろうが、だが、免許を持ったどんな医者よりも、伊野の方がずっと人間的に魅力があり、山間の僻村には望まれるべき存在である。医療制度の現実と矛盾に鋭く斬り込む西川監督のアプローチが冴える。

若い相馬も、やがて伊野の人柄に惚れ、研修が終わった後も、伊野の元で働きたいと申し出る。だが伊野は「自分はそんな立派な人間ではない」と言う。いつかはがばれるだろうという不安が伊野を苛む。

この、伊野と相馬の関係は、黒澤明監督の「赤ひげ」を想起させる。赤ひげの人柄に心服した若い保本は、出世を捨て、養生所に骨を埋めると決意を述べるが、赤ひげは「わしを買いかぶるな。わしは下劣な人間だぞ」と保本をたしなめる。

伊野は、現代の赤ひげであろう。…だが、伊野が偽医者と知った後の村人や相馬のリアクションに、人間を厳しく凝視する西川監督のシニカルな視線が感じられる。

余貴美子が、「おくりびと」に続いてまたも見事な助演ぶりを見せる。医療経験は伊野より確かで、陰ながら伊野を助ける。おそらくは、伊野が偽医者である事も見通しているのではないか。それが、逆に伊野にとって知らず知らずプレッシャーになっていた事も感じられる。

鳥飼かづ子(八千草薫)という独り暮らしの未亡人と、伊野との交流も味わい深い。このかづ子に頼まれて、伊野はの胃カメラ写真をかづ子の末娘、りつ子(井川遥)を見せる事となる。偽物を使ったを共有する事によって、伊野とかづ子の間に共犯関係が生まれ、これが、ラストのニンマリさせられるオチの伏線にもなっている。…西川監督の構成力の巧みさには、いつもながら感服させられる。

伊野が突然失踪する理由はボカされているが、観客がいろいろと想像するのも映画を観る楽しみの一つである。

おそらくは、りつ子の母に対する冷たい態度に、かづ子に頼まれた嘘をこれ以上つき通すのに耐えられなくなり、ついでに自分の嘘にも耐えられなくなった…というのが妥当な所であろうが、
もう一つ、かづ子の病状の進行は、もうこの村では処置出来ず、都会の総合病院に入れざるを得ない。―従って、この村でいる限りは、伊野はかづ子の傍に居てやれなくなる…と考えたとも取れる。

その想像が正しいかどうかは、ラストシーンを見て、観客が判断すればよい事である。

 
ともかくも、これは本年屈指の秀作である。形だけの本物よりも、心のこもった偽者の方がずっと価値があるという、アイロニカルなテーマに迫り、かつ社会的な問題を提起しつつ、人間の存在をハートフルに見つめるという離れ業までやってのけている。まったく西川美和、おそるべし。    (採点=★★★★☆

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(お楽しみはココからである)
―以下は私の独断と偏見(またはお遊び)です。まあこういう観方もあっていいのではないかと。

この映画を観てて感じたのは、山田洋次作品との類似性である。

本作の構成は、“正体不明の男がフラリとある町にやって来て、町の人々を助けるが、ある日またいずこともなく去って行く”…という、昔からある風来坊もの(西部劇や、日活無国籍アクション等)のパターンを巧妙にアレンジしてあるのだが、山田洋次作品にもそうしたパターンの作品が多い。

山田の出世作となった「馬鹿まるだし」がそうだし、前述パターンの典型である西部劇「シェーン」を換骨奪胎した「遥かなる山の呼び声」は、いろんな点で本作との共通点が多い。主人公の高倉健は、フラリと町に現れ、未亡人の倍賞千恵子に陰ながら援助の手を差し伸べ、彼女にほのかな思いを寄せるが、実は高倉は警察に追われる殺人犯だった…という話で、秘密を背負っている点、共に未亡人に思いを寄せている点、そしてラスト間際で、未亡人の前にそっと姿を見せるという辺りなど、似ている点が散見される。

ヒットシリーズ「男はつらいよ」にも、寅がある田舎の村に現れ、いつの間にか村人に慕われ未亡人に恋をしたり、ラストでひっそり姿を消す…という展開がよく登場した。

Kutibuewofuku 中でも、「口笛を吹く寅次郎」という作品では、寅はやはり田舎の町にやって来て、お寺に居ついてしまい、檀家の人にもすっかり気に入られ、あげくに偽の坊主となってありがたい法話を聞かせるまでになる。で、やはりある日そっと姿を消してしまう。

おそらく、寅の語る法話は、本物の坊さんが語るどんな法話よりも面白くて、人の心を打ったのではないか。

つまりここでも、偽者が、資格を持つ本物よりも本物らしく見え、人の心を掴んでいるのである。
それはとりもなおさず、建前、格式や法律に縛られ、本当のものが見えなくなっている現代人への痛烈な皮肉にもなっているのである。

本作の、人情味と善意に溢れ、人を疑う事を知らない村の人々の純朴ぶりも、山田洋次映画ではお馴染みのパターンである。

山田洋次と言えば、落語の大ファンで、小さん師匠の為に落語の台本を書いたり、落語ネタの「運がよけりゃ」という映画も撮っているが、本作でもかづ子が夫の遺品の落語のカセットを聞くシーンが出て来るし、冒頭の食物を喉に詰まらせた老人を死んだと思い、伊野が死体を抱きかかえる辺りは、落語の古典「らくだ」を思わせる。ちなみに、やはり山田作品の長屋ものの「一発大必勝」ではなんと、死人を抱いて踊っているうち、その死人が生き返ってしまうのである。

主役を演じた鶴瓶が本職は落語家だし、本作を挟んで「母べえ」「おとうと」と、山田洋次作品に連続出演しているという事実もまた興味深い。

 
(蛇足)

偽者が本物に勝ってしまうというシニカルなコメディが、実は昭和7年に既に作られている。

監督作「赤西蛎太」や「無法松の一生」の脚本で知られる、伊丹万作の監督作品「国士無双」である。

片岡千恵蔵扮するニセモノが、本物の将軍家御指南番と二度勝負して、二度とも勝ってしまうという痛快ナンセンス・コメディ。残念ながらフィルムは現存していないが、'86年に保坂延彦監督が、中井貴一主演でリメイクしており、DVDも出ているので興味ある方はご覧になってはいかが。

なお、伊丹万作と山田洋次とは、「母べえ」を通じて繋がりがある…というのも、これまた奇妙な縁である(拙作品評参照)。

(7/10追記)
思い出した事があるので追記。

先程書いた山田洋次映画との関連で、「男はつらいよ」シリーズの事をなんとなく思い起こしていたら、
八千草薫も、寅さんのマドンナの一人であった事を思い出した。

10作目の「寅次郎夢枕」がそうで、しかもこの作品は実は、シリーズのターニング・ポイントとでも言うべき重要な位置を占めている。

どういう事かというと、この作品までは、寅さんはいつもマドンナに相手にされず、フラれてばかりだったのが、この作品で初めて、マドンナの方が寅さんのプロポーズを受け入れるという新パターンが登場するのである。

Yumemakura1八千草薫扮する千代は、寅の幼馴染で気軽に冗談を言い合う仲である。で、千代に惚れた気の弱い男の代わりに寅が、そいつと結婚してやってくれ、と千代に伝えるのだが、それを寅からのプロポーズと勘違いした千代が、「あたし、寅ちゃんとなら一緒に暮らしてもいいわ」と受けてしまい、予想もしなかった寅は「冗談言うんじゃねえよ」とそれを断ってしまうのだ。

重要なのは、その時千代は「あたし、寅ちゃんと一緒にいると、なんだか気持ちがホッとするの」とも打ち明けるのである。

これは、本作における、かづ子の、伊野に対する思いと酷似してはいないだろうか。

八千草薫を、本作に起用したのは、案外偶然ではないような気がするのだが、いかがだろうか。

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