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2009年8月27日 (木)

「3時10分、決断のとき」

310toyuma (2007年・ライオンズゲート/監督:ジェームズ・マンゴールド)

1957年製作の西部劇「決断の3時10分(57)の50年ぶり!のリメイク。
原作は、「ジャッキー・ブラウン」等でも知られる犯罪小説作家、エルモア・レナードが初期の頃に書いた短編西部劇小説「3:10 to Yuma」(53)。

かつては狙撃の名手だったが、南北戦争で片足を負傷し、今は妻と2人の息子と共に、アリゾナで小さな牧場を営むダン・エヴァンス(クリスチャン・ベール)。しかし干ばつが続き、借金の取立てに遭って生活は苦しくなり、このままでは土地を取り上げられてしまう窮地に立たされていた。そんなある日、町で捕まった強盗団のボス、ベン・ウェイド(ラッセル・クロウ)を裁判所のあるユマへ連行する護送役を引き受ければ200ドルの報酬が出ると聞き、ダンは家族の生活の為、父親としての誇りの為に過酷な任務に旅立つのだが…

 
オリジナルは、「折れた矢」などのデルマー・デイヴィスが監督し、グレン・フォード(ベン)、ヴァン・ヘフリン(ダン)が主演した、あまり有名ではない、いわゆるB級西部劇である。

しかし、東映任侠映画や、日活アクション映画がそうであったように、低予算のB級活劇でも、無数に作られた中に、キラリと光る力作があったりするものである。

J・マンゴールド監督は、17歳のころにこのこの作品を観て感銘を受け、いつの日か自らの手で映画化したいと思い続けて来たたという。自身が有名な監督になってからもリメイクの企画を出すが、西部劇がほとんど作られなくなった現在ではなかなかゴーサインが出ず、ついに自身のプロダクションで製作することを決意し、執念で完成させた。アメリカで公開された時は初登場1位になったほどの成果を収めたが、我が国では長い間おクラになっていて、本国より2年遅れ、ようやく公開された事は西部劇ファンにとっては喜ばしい。

で、作品だが、面白い!
冒頭、主人公の自宅が襲われ、放火されるアクシデントがあったかと思うと、続いてベン・ウェイド率いる強盗団が駅馬車を襲撃する、いかにも西部劇的シークェンスがあるなど、次々と見せ場が用意され、アクション映画として、滑り出しは上々である。
その後は、捕まったベンを護送する道行きでのさまざまな難関、ベンの逃亡、追跡、脱出…等、これまたサスペンスフルな展開となり、クライマックスでは列車の到着時刻(これが“ユマ行き3時10分”という題名の由来)までに停車場にたどり着かなければならないタイムリミット・サスペンスに、襲い来る敵との大銃撃戦…と盛りだくさんで、まさに娯楽映画の王道。これだけでも充分楽しめる。

だが、この映画の本当の見どころは、題名通りの、ダン・エヴァンスの父親として、男としての勇気ある“決断”である。

 
ダンは牧場経営がうまく行かず、息子たちからもやや白い目でみられている。のっぴきならぬ状況に追い込まれたダンが金の為、家族を残して護送役を引き受けるわけなのだが、そこに14歳の息子、ウィリアムがこっそり後をつけて来る。これがダンの心を変えて行く。

ベンとダンは、護送の道行きを通して、助けられたり助けたりと、次第に心を通わせて行くのだが、百戦錬磨のダンは彼の弱みをも突き、「俺を逃がしてくれたら1,000ドルやろう」と提案する。ダンは迷う。金は欲しいが、金に目が眩んで悪人を逃がせば、ますます息子に軽蔑されるだろう。

この仕事は、金だけではない。男の意地なのである。

ダンは子供たちを深く愛しており、息子に、男とはどうあるべきかを見せる為に、どんなに過酷な状況に追い詰められようと、毅然と悪に対抗しようと決断する。

ダンの部下たちが町にやって来て、ベンを捕らえている男たちに懸賞金をかける。多勢に無勢。町の保安官たちも恐れをなして逃げてしまい、味方は誰もいなくなる。鉄道会社の依頼人から、200ドルはやるから逃げろ、と勧められるが、それでもダンは逃げない。息子の前で、絶対にベンを3時10分の列車に乗せる…と誓う。

ベンはあきれるが、ダンの心意気に惚れたベンは、一緒に駅まで行ってやろうと決める。
ベンもまた、男の決断をするわけである。

ここから後の、敵の銃弾をかいくぐりながら、二人の男が走り、駆け抜けるシークェンスは圧巻である。男の意地と、友情が迸る。手に汗握ると同時に、男たちの心意気に胸が熱くなる。

これはまさに、この所絶えて久しかった、“男たちの熱い心意気のドラマ”である。泣ける。

そしてラスト、ウィリアムがつぶやく「父さん凄い、本当にベンを列車に乗せたよ」のセリフに私はドッと涙が溢れた。

命を賭けて、息子に、父親として、男の真の姿を見せた、ダンの勇気と決断に涙が止まらなかった。素晴らしい傑作である。

男が、命を賭けて、未来ある子供に熱い思いを伝えるドラマ、という点で、これも今年の傑作、イーストウッドの「グラン・トリノ」と共通する要素も持っている。これらと、ミッキー・ローク主演の「レスラー」と合わせて、“泣ける、男たちの心意気のドラマ”3部作と名付けたい。これらが、(製作年度は違うのに)我が国では同じ年に公開された、というのも不思議な巡り合わせである。

 
役者では、ラッセル・クロウがいい。仲間でも平然と殺す悪人であるのに、何故か憎めない。鉛筆でスケッチ画を描くという趣味の良さが、この男のキャラクター造形に厚みを加えている。ウィリアムが、ベンに人間的魅力を感じ、「あんたは本当の悪人じゃない」と言うくだりも、ラストへの伏線になっている。脚本が見事。クリスチャン・ベイルも、やや線が細い気もしないでもないが、クロウを引き立て、最後はおいしい役どころをさらっている。あとベンの片腕の凶悪だが腕の立つガンマン、チャーリーを演じたベン・フォスター、エンドクレジットでやっと気が付いた、老人のガードマン、ピーター・フォンダがそれぞれ味のある好演。役者がみんないい。

これほどの傑作なのに、東京でも1館、関西でも大阪、京都各1館で神戸での公開は未定。評判がいいのだからもっと宣伝して全国規模で公開すべきである。

それでも、根強い西部劇ファンが多いせいか、ミニシアターで公開された初日に出かけたらなんと満席立ち見だった。観客の方がよく分かっている。今後、評判を呼んでシネコンなどで上映館が拡大される事を切に望みたい。映画ファン必見である。     (採点=★★★★☆

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(さて、お楽しみはココからだ)

1957年に公開されたオリジナル版、「決断の3時10分」の冒頭(メイン・タイトル部分)の映像をYoutubeで見つけたので紹介しておく。 ↓
    http://www.youtube.com/watch?v=nkXDLNRVMxY&NR=1

なんと主題歌を歌っているのがフランキー・レイン! 「OK牧場の決闘」 「ローハイド」(クリント・イーストウッドのTV出世作)などの名曲でお馴染みの、あの人である。

この作品は、その頃無数に作られていたB級西部劇の1本であり、それ故ほとんど話題にもならず、キネ旬ベストテンでは完璧に無視され、誰も1点も入れていない。

だが、よく見ればこの作品、過去に作られた西部劇のパターンが巧みに網羅されており、なおかつ後に登場するいろんな西部劇にも本作のエキスが感じられるのである。
そういう意味では、オリジナル版は再評価されてもいいのではないかと思う。

以下、いくつか気が付いた点を挙げておこう。

 
まず、開巻の駅馬車襲撃シークェンスは、ジョン・フォードの名作中の名作「駅馬車」(39)を彷彿とさせる。
(上記Youtubeで観られる、オリジナル版のメイン・タイトル部分の、モノクロで撮影された駅馬車疾走シーンは、フォード版「駅馬車」と見まがうくらいそっくりである)

主人公一家の、牧場を営んでいるが、立ち退きを要求され執拗な嫌がらせを受けている、という設定は、名作「シェーン」(53)ともよく似ている。
ラストにおけるシェーンの、“男とはどうあるべきか”を子供の心に刻み込む為、無謀な決闘に赴く展開もまた本作と共通する(ただしオリジナル版にはこの設定はなく、リメイク版で追加された要素である)。

ちなみに、オリジナル版でダン・エヴァンスを演じたヴァン・ヘフリンは、「シェーン」のあの牧場主を演じた俳優である。
つまりはヴァン・ヘフリン、両作で同じような役柄を演じた事になる。これはむしろ製作者が「シェーン」にあやかったフシが覗える。

これも名作「真昼の決闘」(52)では、12時に到着する列車を待っている設定、町の人々が誰も味方になってくれず、主人公がたった一人で闘わざるを得なくなる…という展開が本作とよく似ている。ちなみに前述のフランキー・レインが、この作品の主題歌「ハイ・ヌーン」をカバーして歌っている、という事実も興味深い。

つまりはオリジナル版は、それまでに作られたいろんな名作西部劇のエッセンスを巧みに取り入れ、消化していると言えるのである。

 
逆にその後作られた、ジョン・スタージェス監督の佳作「ガンヒルの決斗」(59)は、主人公カーク・ダグラスが、親友アンソニー・クインの息子である犯人を捕まえ、列車に乗せて連れ帰る事となり、その列車の到着を待つ間、犯人奪還を狙う一味の執拗な攻撃にさらされる…という話で、「決断の3時10分」から基本アイデアをうまくいただいている気がしないでもないが、豪華スターの競演とスタージェス演出の巧みさで、映画史的にはこちらの方が名作として知られているのは皮肉である。ちなみにフランキー・レインの大ヒット曲で知られる「OK牧場の決闘」を監督したのもジョン・スタージェスである。

また、家族と牧場を営んでいた主人公が、懸賞金目的の為旅立つ…という設定は、クリント・イーストウッドの傑作「許されざる者」(92)にも登場する。

 
こういった具合に、「決断の3時10分」という映画は、よほどの西部劇ファンでない限り、知っている人は少なく、ほとんど忘れられた作品なのだが、上記に述べたように、さまざまな名作西部劇とリンクする普遍的な要素を多く持っており、映画史の上でもう一度見直すべき作品ではないかと私は思う。

ジェームズ・マンゴールド監督がこの作品を忘れられず、執念の末に再映画化にこぎ付けたのも、そう考えると理解出来るのである。
本作の公開を機会に、もう一度「決断の3時10分」に光が当てられる事を、切に期待したい。

 

(8/29 付記)
無類の西部劇ファン、川本三郎さんと逢坂剛さんの共著「大いなる西部劇」(新書館・刊)を読み直していたら、この「決断の3時10分」の話が何度も出て来る。逢坂さんが選んだ、西部劇ベスト10にも、この作品が入っている。西部劇をこよなく愛する逢坂さんの、目のつけ所は違うと感心した。川本さんもこの作品について何度か言及している。

その川本さんの著作「ロードショーが150円だった頃」(晶文社・刊)にも、「決断の3時10分」について語った部分がある。「ガンヒルの決斗」や「真昼の決闘」との類似点についても述べられている。この本を読んだのは随分前で、内容はすっかり忘れていたのだが、私と同じような意見で、我が意を強くした。

ところで、その文章中に、次のような箇所があって驚いた。
ウィノナ・ライダー、アンジェリーナ・ジョリー主演の「17歳のカルテ」(99)の中に、テレビで、この「決断の3時10分」が放映されているシーンがあるのだという。

私もこの作品は観ているのだが、気が付かなかった。さすが川本さんである。

で、この「17歳のカルテ」を監督したのが、他ならぬ本作の監督、ジェームズ・マンゴールドなのである。

監督が、「決断の3時10分」を偏愛して、ついに自らリメイク映画化した事は上に述べたが、自作の中にまでワンシーンを登場させていたとはねぇ。この頃から、リメイクしたいという思いが募っていたのだろうか。興味深いエピソードである。

 

DVD オリジナル版
「決断の3時10分」

そのワンシーンが登場する
「17歳のカルテ」

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2009年8月18日 (火)

「扉をたたく人」

Visitor (2007年・米/監督:トム・マッカーシー)

妻を亡くして以来、心を閉ざして生きてきた老大学教授が、たまたま知り合った移民青年と知り合い、その交流を通して、新しい生き方を模索して行く感動の人間ドラマ。
主人公の大学教授を演じたリチャード・ジェンキンスはアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。
なお当初は、アメリカでたった4館でしか公開されなかったが、クチコミで評判となり、公開6週目には全米興行収入トップ10にランクイン。最終的には270もの劇場で上映され、6か月間のロングランヒットとなったという。

監督のトム・マッカーシーも、主演のリチャード・ジェンキンスも私はほとんど知らなかったし、あまり話題にもならず、細々と公開されていたが、上記のようなニュースを聞いていたので気になって観に行ったのだが…。

素晴らしかった。観ている時よりも、観終わってしばらくしてから感動が広がって来る秀作である。本年度のベスト上位に入れたい。

大学教授のウォルター(リチャード・ジェンキンス)は、妻にに先立たれてからは無気力になり、講義計画書も前年のものを、年度だけ書き換えて使うありさま。そんな彼が、出張先のニューヨークに借りていた別宅を訪れると、見知らぬ移民のカップルがいた。シリアから移住してきたジャンベ奏者のタレク(ハーズ・スレイマン)と、彼の恋人でセネガル出身のゼイナブ(ダナイ・グリラ)の二人。騙されて二重契約であった事が分かり、二人は出て行こうとするが、気の毒に思ったウォルターは、新しい住居が見つかるまで住まわせる事にする。奇妙な3人の同居生活が始まり、ウォルターは次第に彼らに心を開いて行くが、ある日、タレクは不法滞在が判明して強制収容所に留置されてしまう…。

タレクは、ジャンベ(民族打楽器)の叩き方をウォルターに教え、生きる気力を失っていた彼に、生きる活力を取り戻させて行く。

だが、9.11以降、不法滞在者に厳しい目を向けるようになったニューヨークの街は、そんな若者をも法律で縛り、この街から追い出そうとする。不法滞在と言っても、彼の母親(ヒアム・アッバス)がちょっと手続きを怠っただけなのに…。

ウォルターは、杓子定規な移民局の仕打ちに激しく怒る。無気力に生きて来た彼が、初めてアクティブな意志を示した瞬間である。

ウォルターは、心配になってニューヨークにやって来たタレクの母にも力を貸し、やがて二人の間に心の交流が育まれて行く。が、法律は非情に母と子を引き裂いて行く…。

この映画には、悪人は登場しない。役人たちは職務に忠実で、主人公たちは誰もが心優しく、それぞれに精一杯に生きている。…それにもかかわらず、悲劇は起きてしまう。

生きることはせつない。ウォルターのように、生活には困らないのに、伴侶を失ったりで、生きる意欲を失ってしまった人もいれば、差別、貧困、国籍等の壁にぶち当り、生きる事に絶望する人もいる。

それでも、人は生きて行かなければならない。

Visitor2 結末は悲劇だが、ウォルターは、タレクと出会う事によって、閉ざしていた心を開き、残された人生をどう生きて行くべきかを見つける事が出来た。ラスト、駅のホームで、タレクに教わったジャンベを叩くウォルターの姿に、観客は暗い物語にわずかな光明を見る事が出来る。

 
現代が抱える、様々な社会問題をバックに、人との触れ合い、生きるとは何か、という普遍的なテーマを問い詰めた、これは感動の力作である。

邦題がとてもいい。原題は"The Visitor"=訪問者 とシンプルなのだが、“扉をたたく”という事は、自分から行動するニュアンスも含まれる。ウォルターの、閉ざしていた心の扉が、タレクや、彼の母親などによって開かれた事をも暗示する。また、ジャンベという叩く楽器に引っかけていると見る事も出来る。うまい。優秀邦題賞があれば進呈したいくらいだ。

 
この、“妻を失った偏屈な老人が、外国から来た移民の若者と交流する事によって、自分の生き方を見直し、やがて若者を守る為に行動する”という展開は、先頃公開されたクリント・イーストウッドの傑作「グラン・トリノ」とよく似ている。ただし、映画が製作されたのは、本作の方が早い(2007年製作)。似ているのは単に偶然だろう。

しかし、これらといい、ジャック・ニコルソン主演の「最高の人生の見つけ方」といい、老人の生き方を見つめ直すというテーマの作品が、最近(特にアメリカ映画に)増えて来たように思えるが、これはアメリカ映画の一つの成熟なのかも知れない。興味深い傾向である。     (採点=★★★★☆

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2009年8月12日 (水)

「山形スクリーム」

Yamagatascream (2009年・GAGA=YUSEN/監督:竹中 直人)

山形県の過疎化が進むとある村を舞台に、東京からやってきた歴史研究会の女子高生たちが800年の眠りから蘇った落武者やゾンビ化した村人たちに襲われるホラーコメディ。

 
…久しぶりに、途中で退席したくなった(松本某の「大日本人」以来かな)。なんとも酷い作品である。

竹中直人は、映画監督としては「無能の人」「119」「東京日和」と、しみじみとしたタッチの、なかなかの佳作を送り出して来たので、ちょっとは期待したのだが…。ここまで酷いとは想像出来なかった。

思えば、北野武監督も、世界に認められた傑作映画を生み出して来たが、初めて撮ったコメディ「みんな~やってるか」は、しょーもない駄作でガックリしてしまった(しかしそれでも、本作よりはまだ面白かったが(笑))。お笑い出身の監督は、コメディ映画を作るべきではない…という不文律が出来つつあるようだ。

史上最低の映画監督と言われるエド・ウッドが脚本を書いた、「死霊の盆踊り」という、Z級のくだらない映画があったが、本作はまさにあの映画並みの、退屈極まりない駄作である。「死霊の盆踊り」も好きだよ、という物好きな人であればともかくも、普通の映画愛好家にはまずお奨めできない。ご覧になりたい方はその覚悟で。

 
どこがダメかというと、いっぱいあり過ぎてキリがないが、一言で言うなら、竹中直人が一体どんな映画を作りたかったのか、その方向が皆目見えない点である。“ホラー・コメディ”と謳いながら、ホラーにしては全然コワくないし、コメディにしては全然笑えない。ただただ、出演者の気の抜けたダラダラ演技を垂れ流しているだけである。これは苦痛以外の何物でもない。拷問と言ってもいい。

いろんな映画のパロディを満載しているとの話であるが、パロディを入れるなら、もっと上手に網羅すべきである。本来、映画ファンが見たらニンマリ、あるいはガハハと笑いたくなるものであるはずなのに、原典を知っている私が観ても面白くもなんともない。それに、少な過ぎる。

例えば、最初の方で、村の住民が屋台の出店を出しているくだりで、「2つで充分ですよ。分かってくださいよ」と言うシーンがある。
言うまでもなく、「ブレードランナー」の1シーンで聞こえる日本語のセリフなのだが、物語の流れとまったく関係ないし、唐突で、意味不明。前のシーンとも、その後のシーンとも全然繋がっておらず、単に突然ポンと飛び出しただけ。原典を知らない人は、何のことか分からないし、知ってる私でもシラーっとなってしまった。

パロディの基本は、単に出せばいいってもんじゃない。話の流れとうまくリンクさせ、原典を知らない人が観ても面白いし、知ってる人が観れば、余計楽しい…というのが理想的なパロディである。あるいは、映画の作者が原典にとことん惚れ込んでいる事が、画面から伝わって来て、異様なパワーが感じられる…という場合もある。残念ながら、本作にはそのどちらも希薄である(最近の例では、「モンスターVS.エイリアン」は、原典など知らない子供が観てもムチャ楽しいし、パロディにはB級SFへの真摯な愛が感じられて、感動的ですらある)。

最後の方で、由紀さおり扮するボケたバアサンが歌う「老人と子供のポルカ」を聴いた亡霊の落武者の頭が膨らんで破裂する…というシーンがあるが、何でその歌が亡霊の弱点なのかがさっぱり分からない。あれはどういう意味なのか、誰か分かった人がいるだろうか?。

おそらく、ヨーデルのレコードを聴いたエイリアンの頭が破裂する「マーズ・アタック」(ティム・バートン監督)のパロディのつもりなのだろうが、これも伏線もなにもなく、ただ唐突なだけで全然面白さが伝わって来ない。

「マーズ・アタック」のあのシーンは、地球人には無害だがエイリアンには免疫が出来ていないウイルスのおかげで地球が救われるという、SF映画の古典「宇宙戦争」のパロディであり、ヨーデルの甲高い音が超音波のような働きをした…という理由も納得出来る。つまりちゃんと細かい配慮がなされているわけである。

それに対して、本作の「老人と子供のポルカ」は、バアサンが孫の子守唄代わりにスローテンポで歌ってるだけだから、聞いてる方が脱力する(笑)事はあっても、亡霊を破裂させるようなパワーが秘められているとは思えない。
せめて、前段で伏線を敷いておくなり、「これは多分こういう理由に違いない」と誰かに解説させるなり、納得出来る配慮が必要ではないか。

 
お断りしておくと、私は、おバカな作品や、くだらない作品は結構好きである。くだらなくても、楽しかったり、笑えたりする作品はそれなりに評価して来た。しかし本作はくだらないうえに面白くない。笑えない

ホラー・コメディ、あるいはパロディ・ホラーにジャンルを絞っても、例えば、エドガー・ライト監督の「ショーン・オブ・ザ・デッド」は、ジョージ・A・ロメロ監督の“ゾンビ”シリーズへのオマージュになっており、好きな作品である(詳細は作品評参照)。あるいは、深作健太監督の「XXエクスクロス 魔境伝説」も、”笑えるおバカホラー”にカテゴライズされる快作であり、これも大いに評価している。

せめて、この2作くらいのレベルの作品を作ってくれなくては。それにしても竹中直人監督、若手の深作健太に負けててどうする?。

本作のラストの、ゾンビになった村人のその後も、「ショーン・オブ・ザ・デッド」のエンディングのパクリであるのもどうかと思う。

なぜなら、パロディやオマージュは、古典あるいはスタンダードになってる映画をリスペクトすべきだと思うし、優れたパロディ映画は基本的にそのはずである。が、「マーズ・アタック」も「ショーン・オブ・ザ・デッド」も、それ自体がパロディ映画である。
パロディ映画を、さらにパロって(あるいはパクって)どうする? 基本的にパロディの方向が間違っているのである。

 
とにかく、これは映画というより、テレビで充分の学芸会並みのコント集である。

只で見られるテレビならまだいい。そもそも面白くなかったらチャンネルを変えれば済む話である。あるいは録画して、つまらない所は早送りすれば時間の無駄にならないで済む。

ところが、映画は、1,800円という金を払い、劇場で座って観なければならない。早送りも出来ず、つまらなくても、ひたすら忍従しなければならない。大金を払っている以上、どこかで元を取らねばと思うから、途中で出たくても我慢しなければならない。

1,800円という金を取る以上は、それに見合うだけの中味でなければならない。「トランスフォーマー/リベンジ」「劔岳 点の記」と同じ料金を取っているのである。脚本を練りに練って、アイデアを集約して、目の肥えた観客にも満足してもらえる作品を作り出すべきである。笑えぬコント集ごときを劇場にかけて金を取ったりするな!

テレビをバカにしてしまったが、昔は、例えば「巨泉・前武のゲバゲバ90分」という伝説的ギャグ番組があって、台本作家が知恵を出し合って、90分の間に150本!のギャグを詰め込んでいた。CMを除けば、1本当り平均30秒である。出演者も、宍戸錠、ハナ肇、小川知子、朝丘雪路、宮本信子、藤村俊二、コント55号…その他多数、それだけでも壮観である。さらになんと、アニメと実写の俳優との合成シーンまであり、とにかく手間ヒマがかかっていた。
しかもそれを、毎週々々放映するのである。

本作は、只で観られるそうしたテレビ番組にも、志、アイデア、あらゆる面で負けているのである。

とにかく、竹中直人さん、あなたの作品が好きだから、これからも素敵な作品を作ってくれる事を期待するからこそ、辛口になるのですよ。次には、この失点を取り返すべく、名誉挽回の力作を作ってください。あ、コメディはもう結構ですから。  (採点=

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2009年8月 8日 (土)

追悼 大原麗子さん

Ohharareiko 女優の大原麗子さんが亡くなられました。享年62歳。

私は、あんまり熱烈なファンではありませんでしたが、私の好きな2本の作品で印象的な好演をしておられましたので、追悼記事を書かせていただきます。

その2本とは、降旗康男監督「居酒屋兆治」と、山田洋次監督「男はつらいよ・寅次郎真実一路」
寅さんシリーズには、他に「噂の寅次郎」にも出ていますが、「真実一路」の方が出来はいいですね。

で、共通するのは、“儚げでどこか不幸を背負った、清楚な人妻”というイメージです。

 
Torashinjitsuichiro2_2  「寅次郎真実一路」
では、夫に蒸発され、どうしていいか途方に暮れる人妻を演じています。
夫を探して、旅館に二人で泊まった時、泣き崩れる人妻に、寅さんは危うく手を出しそうになり、悶々とします。普通なら不倫のケースです(笑)。

大原さんは、この難しい役柄にピッタリでした。

Izakayachouji「居酒屋兆治」では、兆治(高倉健)の初恋の相手で、結婚しても兆治の事が忘れられず、嫁ぎ先の農場が火事になって情緒不安定になり、ストーカーのように兆治に恨み言をぶつけます。「栄治さん(兆治の本名)、あなたが悪いのよ」というセリフはCMでもよく流れました。

こちらも難しい役柄です。間違えればすごくイヤな女になってしまう所ですが、儚げで不幸を背負っている大原さんのイメージの御蔭で、彼女の悲しみがこちらにも伝わって来ました。

映画ではこれら以外には、市川崑監督の「獄門島」を除いては、あまり印象に残った作品はありません。テレビには多く出ているようですが、私はあまりテレビドラマを見ないのでほとんど分かりません。

 
しかし、テレビで言えば、やはりサントリー・レッドのCM、これが鮮明に記憶に残っています。
これを演出したのが、故・市川崑監督でした。

古い日本家屋をうまく使った、崑さん独特のスタイリッシュな演出で強い印象を残しました。

昨年、市川崑監督が亡くなられた時も、このCMの映像が何度か流れましたが、今回もまたよく流れています。

まさか2年連続して追悼記事で使われるとは、思いもよりませんでしたね。

(参考で、大原麗子サントリーCM集を ↓)
  http://www.youtube.com/watch?v=f2MsT_KHJ0M&feature=related

赤いたすきが黒いバックにシュッと飛ぶシーンは、まさに崑タッチですね。

 
年をとって、円熟味を増しかけた頃に、ギラン・バレー症候群という難病で、1992年以降は一線を退いてしまい、そして誰にも看取られない孤独な死…。

まさに、儚げで、不幸な運命に弄ばれる…という彼女のスクリーン・イメージそのままの悲しい最期でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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2009年8月 2日 (日)

「アマルフィ 女神の報酬」

Amarfi (2009年・東宝/監督:西谷 弘)

フジテレビ開局50周年記念…という事で、全編大々的なイタリア・ロケが行われた、スケール感溢れるサスペンス・ミステリー。監督は、東野圭吾原作ミステリー「容疑者Xの献身」の映画化を成功させた西谷弘。

クリスマス直前、外務大臣のG8参加で準備に追われるイタリアの日本大使館に、外交官黒田(織田裕二)が着任する。同じ頃、日本人観光客、矢上紗江子(天海祐希)の一人娘が失踪する事件が起き、黒田は上司の命令により、イタリア語の喋れない矢上につきそう。そうするうち、犯人から、多額の身代金を要求する連絡が入り、黒田が電話に出るが、やがて事件は予想もしない方向に展開して行く…

出だしはなかなかスリリングで快調である。現地の協力による大掛かりなロケも、これまでの日本映画にはなかったスケールで、イタリアの観光地巡りも兼ねながらの展開は、娯楽映画としてもサービス満点である。

黒田のキャラクターも、ちょっとしたヒントから事件の手掛かりを掴むという、「相棒」の杉下警部を思わせる推理力を発揮する一方、時には現地警察も出し抜いて動き回り、警察や大使館上層部からもクレームを受ける…という逸脱ぶりも見せる。この辺りも杉下を思わせる面白いキャラである。
この調子なら面白い作品になるのでは、と期待した。

 
だが、である。後半に至ると、急激に物語は失速する。何より、前半で見せた、手の込んだ方法で子供を誘拐し、身代金を要求し、「15分以内にどこそこへ行け」と黒田たちを振り回し、被害者をいたぶる、愉快犯的な犯人像と、後半で明らかになる犯人像とが、まるで結びつかない。2本の別の映画を観ているようである。…となると途端に、突っ込みどころも一杯出て来る。

そして、観終わって、唖然とした。目的にたどり着くまでに、あまりに回りくどい方法を用い過ぎ。思わせぶりで、重要かな、と思われる場面は実は全然関係ない…というシーンも多い。しかも7年もかけた…という割りには、計画が穴だらけで、しかも偶然に頼り過ぎである。シナリオがずさんで無茶苦茶である。

(以下ネタバレ)
多少の突っ込みどころは目をつぶってもいい。だが一番肝心な、“大臣の大使館での記者会見というタイミングに合わせて、警備会社のセキュリティを遮断し、大使館に忍び込む”という計画が、あまりに行きあたりばったりなのには呆れた。
①たまたま、黒田が監視カメラの映像を見たいと言い出さなかったら、②映像を見たいと言っても、セキュリティ厳重な中枢部への入室を警備会社に拒否されたら、③許可されても、一般人である紗江子の入室を拒否されたら、④それをクリアしても、ピストルは普通、厳重なセキュリティの中枢部にたどり着くまでに、金属探知機やボディチェックを受けて見つかってしまうはず。⑤さらに、普通の家庭の主婦が、警察相手にピストル向けて、セキュリティ遮断という、プロのスパイでも難しい作業をやれるものかどうか。まず簡単に取り押さえされるのがオチ。
これは、警察がとんでもなくボンクラで、イタリア中の警備を集中監視しているはずの警備会社の管理体制が無茶苦茶いいかげんで、部外者がピストル持って簡単に侵入出来るくらいセキュリティが極端に甘くて、しかも偶然が積み重ならないと、成功なんて絶対に覚束ない。

つまり、失敗の確率が遥かに高いのである。

大使館に忍び込む…というのが目的であるなら、こんな回りくどい事しなくても、初めから大使館に誰か雇われておいて、中から鍵開けさせればいいし、豪華な料理も出てるのだから、料理人なり、仕出しレストランのワゴンの中に隠れて入るなり、あるいはマスコミのカメラマンも入ってるのだから、カメラマンに化けるなり、いくらでも確率の高い方法はあるはずだ。

黒田が、イタリアの警部にピストルを突きつけ脅す、という展開はあまりに荒唐無稽。外交官がこんな事したら国際問題になるよ。まあ事件をまるく収めた事で情状酌量、という事はあるかも知れないが、ご都合主義である。そもそも、外国でこんな大騒ぎを起こした佐藤浩市はその後どうなったのか。ニュースでは外務大臣が辞任した事しか触れられていないが。

私はてっきり、戸田恵梨香演じる、ちょっとおっちょこちょいの大使館研修生・安達が実は犯人一味だった、というドンデン返しがあるのかと思った。それくらいの意外なオチがあれば少しは誉めてあげてもいいのだが(笑)。 (ネタバレここまで)  

 
この映画には、実は脚本担当者のクレジットがどこにもない。その事で、日本シナリオ作家協会が、脚本家名が表示されていないことに対して、フジテレビ側に抗議する声明を発表する…という事態も招いている。これもお粗末な話である。

一応フジテレビ側は、「脚本に携わった真保さんと西谷監督の話し合いでクレジットしないことにした」と発表しているが、なぜそうしたのかの理由が不明である。“実質真保と西谷監督が脚本を担当したが、「一人で書き上げたわけではない」とそれぞれが表示を辞退した”とも言われているが、「一人で書き上げたわけではない」なら、連名にすりゃいいわけで、理由になっていない。

まあ、映画を観れば納得である。真保裕一なら、こんなずさんで穴だらけのストーリーは書かないだろう。おそらくプロデューサーや監督が、観光地巡りや、映画らしい見せ場をあれもこれもと盛り込もうとして、真保の書いた脚本をどんどん変えてしまい、責任が持てない、と真保がクレジットを辞退し、それならと西谷監督も辞退…となったのだろう。あくまで推測だが。

原作は真保裕一となっているが、これはもともとフジテレビが企画した構想に沿って真保裕一がプロットを書き、共同でシナリオを書く一方、そのプロットを元に真保が独自に小説を書き上げたもので、小説と映画とはかなり違っているとの事である。

多分、真保の小説の方は、もう少しきめ細かく、しっかりした出来ではないだろうか。まだ私はそちらを読んではいないが、キネ旬によると、「小説では、イスラム教圏の実在の国の状況が動機となっており、(略)その設定は、イスラム教徒とキリスト教徒が自然に共存したアマルフィという土地の意味を一段と深いものにしている」 「犯人が犯行のシナリオを進める一つのピースとして主人公たちを利用したというくだりは、小説の方が理解しやすい」との事である。

映画では、タイトルのアマルフィが事件とは大して関係がなかったが、なるほど、それなら分かる。それに、上記のように宗教問題を入れるのは、小説では面白いが、不特定多数の観客を呼び込まねばならない娯楽映画ではプロデューサーとしては敬遠したい所だろう。

まあ、分からないではないが、もう少しアラのない、ちゃんとした脚本が作れなかったものか。

 
もう一つ、おかしいのは、公式ホームページのキャッチコピーである。そこにはこうある。

日本人少女失踪から始まった、イタリア大規模連鎖テロ!… 
真実は、世界で一番美しい町にあった…

またストーリー紹介で、黒田はイタリアでのテロ予告を受け、テロから邦人を守るために派遣された。 とある。

映画の中で、そんな事が触れられていたのだろうか。“大規模連鎖テロ”なんて出て来なかったと思うし、“真実が世界で一番美しい町(=アマルフィを指しているはず)にあった”というのも映画とは違う。
だいたい黒田が、テロ予告で派遣されたのなら、たかが子供が迷子になった(最初はそういう話だった)くらいで彼を紗江子の所に回すような余裕はないと思うが。

最初はそういうプロットだったのかも知れないが、出来上がった映画とはかなり異なるこんなキャッチは、早く訂正すべきではないだろうか。この辺にも、製作過程の混乱が露呈している気がする。

 
まあいろいろ突っ込まさせてもらったが、結論として言えるのは、やはりテレビ局が製作した、「相棒-劇場版-東京ビッグシティ(以下省略)の時と同様ご他聞に漏れず、“あれもこれもと欲張って話を詰め込み過ぎて、却ってつまらなくしている”典型的なケースである、という事である。

あの作品も、前半は猟奇殺人事件、中盤は東京マラソン参加者を人質に取った愉快犯、最後は同情したくなる可哀相な犯人…と犯人像がクルクル変るという支離滅裂な出来だった。ご丁寧に、[政情不安地域で家族を見殺しにされ、政府に真相を隠蔽された男の復讐]と、犯行動機まで本作とそっくりなのは偶然だろうか。

そんなわけで、個別に見ればスリリングな見せ場もあるし、役者は豪華だし、イタリア観光も出来るし、と、パーツ1個1個はまあまあだが、全体を通して見るとバラバラで整合が取れていない凡作でありました。
余計な事だが、織田裕二は、「椿三十郎」に続いて、またしても自分のキャラに合わない、無理にツッぱった役柄を必死に演じている…ように見えたのは気のせいかどうか…。     (採点=★☆

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