映画の脚本について考える
前回、「TAJOMARU」の、特に脚本について酷評させてもらったら、お二人の方からコメントで、あの脚本は市川森一氏の書いた第1稿が、製作費がかかる割に芸術的過ぎる…と製作委員会(特にフジテレビ)からクレームがつき、プロデューサーの山本又一朗氏がほとんど書き直したものだと教えていただいた。
出来が悪い脚本を修正して良くする、のであれば問題はないのだが、“素晴らしい出来”(山本P談)だった第1稿の脚本が、書き直してこんな酷い出来になったのなら、本末転倒である。
同じような事が「アマルフィ 女神の報酬」でも起きている。真保裕一氏の書いた第1稿には、イスラム系のテログループが登場するのだが、クレームが出るのを怖がったのか、これらのエピソードをカットして脚本が大幅に書き直され、真保氏が降りた為にクレジットから脚本家名が消えるという前代未聞の椿事を巻き起こしている(ちなみに、これにもフジテレビが噛んでいる)。
こちらのケースも、元の脚本はそれほど悪くはなかったのだろうが、書き直された為に突っ込みどころだらけの支離滅裂なシロモノになっている。
昔はこんな事はなかった。…と言うより、シナリオライターの書いた脚本はもっと尊重され、ほとんど書き直される事はなかった(稀に、部分的に良い方向に修正される事はあったが)。
そもそも、脚本は映画の基本設計図である。プロのシナリオライターが時間をかけて綿密に作り上げたものである。ヘタに触れるものではない。建築設計図を無視して素人があちこち手を加えたら、地震が来たら倒壊してしまうような家が出来上がってしまいかねない。
これらの他にも、今年の作品だけを見ても、「感染列島」、「真夏のオリオン」、「MW-ムウ」、それに「カムイ外伝」―と、脚本の不出来な作品が目立つ。脚本家の質が落ちて来ているのかも知れない。
かつて、黒澤明監督は、「いい脚本があれば、誰が監督しても立派な映画が出来るが、出来の悪い脚本はどんな素晴らしい監督が撮っても凡作にしかならない」と言っていた。黒澤作品の傑作の多くは、黒澤を含めた超一流の名脚本家が4人も5人も集まって、何ヶ月もかけて徹底討論して完成され、黒澤監督は演出の際には、基本的にはほとんど脚本を直さずに撮ったという。
映画の父と呼ばれた牧野省三は、「一スジ(脚本)、二ヌケ(映像)、三ドウサ(演技)」と言って、脚本が一番大事、と強調していた。
ヒッチコックは、脚本と、それに基づく絵コンテが出来上がれば、もうそれで「私の映画は撮る前にすでに完成しているのだ」と言ったそうだ。後は絵コンテの通り、粛々と撮ればいいのだから、という事のようである。
これらの先人の言葉を聞いても、脚本がいかに大切かがよく分かる。
まず、時間をかけて、じっくり脚本を練り、しっかりしたものを作るべきである。それでも不満足であれば、さらにプロの脚本家に手直しさせて、より完璧な脚本を完成させる。こうすれば誰が演出しても、見応えのある力作が出来るだろう。…少なくとも、ワーストに挙がるような酷い映画はまず出来っこないだろう。
製作会社やプロデューサーは、この原点に帰って、いい脚本家を育て、いい脚本が出来るよう配慮すべきである。出来の悪い脚本を使ったなら、そこそこヒットはしても、良い観客を失い、将来的にはマイナスになると思う。
…と考えているところに、現在発売中の雑誌「ドラマ」10月号に、市川森一氏のロングインタビューが掲載されていた。
この中で市川氏は、「映画の脚本は、誰かが書いたものを、分業で複数の人間が携わって、より完璧な脚本作りを目指す、いわゆるハリウッド方式の、システマティックなやり方でいい」、「自分の脚本も、よりよい物になるのであれば、手を加えて直されても構わない」、「そうして出来あがった脚本は、現場では変えるべきではない」という意味の事を言っている。今回、山本Pに、直して構わないと言ったのは、そういうポリシーを貫いたからなのだろう。
さすがは大人である。よい脚本を作る為にはどうしたらいいかがよく分かっている。
そして、「アマルフィ」の、クレジットに脚本家の名前を掲載しなかった問題を、脚本の重要性を軽視しているという観点から厳しく責め立てている。
ほとんど私と同意見であり、感銘を受けた。「TAJOMARU」評で市川さんを責めたのは、大変申し訳なかった。お詫びしたい。
それにしても、シナリオ界の重鎮と言っていい市川さんの、良い脚本作りの為の、こうした提言が日本映画界では生かされていないのが残念である。プロデューサーの方々(特に駄作の多いフジテレビ!)は、肝に銘じていただきたい。
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