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2009年9月30日 (水)

映画の脚本について考える

Tajomaru2_2 前回、「TAJOMARU」の、特に脚本について酷評させてもらったら、お二人の方からコメントで、あの脚本は市川森一氏の書いた第1稿が、製作費がかかる割に芸術的過ぎる…と製作委員会(特にフジテレビ)からクレームがつき、プロデューサーの山本又一朗氏がほとんど書き直したものだと教えていただいた。

出来が悪い脚本を修正して良くする、のであれば問題はないのだが、“素晴らしい出来”(山本P談)だった第1稿の脚本が、書き直してこんな酷い出来になったのなら、本末転倒である。

同じような事が「アマルフィ 女神の報酬」でも起きている。真保裕一氏の書いた第1稿には、イスラム系のテログループが登場するのだが、クレームが出るのを怖がったのか、これらのエピソードをカットして脚本が大幅に書き直され、真保氏が降りた為にクレジットから脚本家名が消えるという前代未聞の椿事を巻き起こしている(ちなみに、これにもフジテレビが噛んでいる)。

こちらのケースも、元の脚本はそれほど悪くはなかったのだろうが、書き直された為に突っ込みどころだらけの支離滅裂なシロモノになっている。

昔はこんな事はなかった。…と言うより、シナリオライターの書いた脚本はもっと尊重され、ほとんど書き直される事はなかった(稀に、部分的に良い方向に修正される事はあったが)。

そもそも、脚本は映画の基本設計図である。プロのシナリオライターが時間をかけて綿密に作り上げたものである。ヘタに触れるものではない。建築設計図を無視して素人があちこち手を加えたら、地震が来たら倒壊してしまうような家が出来上がってしまいかねない。

 
これらの他にも、今年の作品だけを見ても、「感染列島」「真夏のオリオン」「MW-ムウ」、それに「カムイ外伝」―と、脚本の不出来な作品が目立つ。脚本家の質が落ちて来ているのかも知れない。

 
かつて、黒澤明監督は、「いい脚本があれば、誰が監督しても立派な映画が出来るが、出来の悪い脚本はどんな素晴らしい監督が撮っても凡作にしかならない」と言っていた。黒澤作品の傑作の多くは、黒澤を含めた超一流の名脚本家が4人も5人も集まって、何ヶ月もかけて徹底討論して完成され、黒澤監督は演出の際には、基本的にはほとんど脚本を直さずに撮ったという。

映画の父と呼ばれた牧野省三は、「スジ(脚本)、二ヌケ(映像)、三ドウサ(演技)」と言って、脚本が一番大事、と強調していた。

ヒッチコックは、脚本と、それに基づく絵コンテが出来上がれば、もうそれで「私の映画は撮る前にすでに完成しているのだ」と言ったそうだ。後は絵コンテの通り、粛々と撮ればいいのだから、という事のようである。

 
これらの先人の言葉を聞いても、脚本がいかに大切かがよく分かる。

まず、時間をかけて、じっくり脚本を練り、しっかりしたものを作るべきである。それでも不満足であれば、さらにプロの脚本家に手直しさせて、より完璧な脚本を完成させる。こうすれば誰が演出しても、見応えのある力作が出来るだろう。…少なくとも、ワーストに挙がるような酷い映画はまず出来っこないだろう。

製作会社やプロデューサーは、この原点に帰って、いい脚本家を育て、いい脚本が出来るよう配慮すべきである。出来の悪い脚本を使ったなら、そこそこヒットはしても、良い観客を失い、将来的にはマイナスになると思う。

 
…と考えているところに、現在発売中の雑誌「ドラマ」10月号に、市川森一氏のロングインタビューが掲載されていた。

Itikawa この中で市川氏は、「映画の脚本は、誰かが書いたものを、分業で複数の人間が携わって、より完璧な脚本作りを目指す、いわゆるハリウッド方式の、システマティックなやり方でいい」、「自分の脚本も、よりよい物になるのであれば、手を加えて直されても構わない」、「そうして出来あがった脚本は、現場では変えるべきではない」という意味の事を言っている。今回、山本Pに、直して構わないと言ったのは、そういうポリシーを貫いたからなのだろう。

さすがは大人である。よい脚本を作る為にはどうしたらいいかがよく分かっている。

そして、「アマルフィ」の、クレジットに脚本家の名前を掲載しなかった問題を、脚本の重要性を軽視しているという観点から厳しく責め立てている。

ほとんど私と同意見であり、感銘を受けた。「TAJOMARU」評で市川さんを責めたのは、大変申し訳なかった。お詫びしたい。

それにしても、シナリオ界の重鎮と言っていい市川さんの、良い脚本作りの為の、こうした提言が日本映画界では生かされていないのが残念である。プロデューサーの方々(特に駄作の多いフジテレビ!)は、肝に銘じていただきたい。

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2009年9月24日 (木)

「TAJOMARU」

Tajomaru (2009年・ワーナー/監督:中野 裕之)

芥川龍之介の小説「藪の中」を原案として、乱世の中、運命に翻弄される男女の姿を描いた時代劇。

観る前は不安だらけだった。
まず題名がまたしてもアルファベット。何で日本古来の時代劇なのに、こうもアルファベットにするのか。それも、ことごとく駄作、凡作の山。…そう言えば、同じ「藪の中」を原作にした「MISTY」(1997)というこれまた駄作があったなあと思い出す(もう誰も覚えていないだろう(笑))。そもそも、この題名では“タジョマル”としか読めない。

監督が中野裕之というのも不安材料。デビュー作(だったか?)「SAMURAI FICTION」はまあまあ面白かったのだが、2作目「STEREO FUTURE」でボロを出し、東映に招かれて撮った「RED SHADOW 赤影」が大チョンボ。時代劇をバカにしているとしか思えないワースト映画だった(しかしアルファベットだらけだな)。

それでも観る気になったのは、プロデューサーが山本又一朗、脚本が市川森一という組合せに惹かれたからである。山本又一朗プロと言えば、私にとっては大傑作「太陽を盗んだ男」を作ってくれたという事で今でも尊敬している方である。市川森一も、テレビで「傷だらけの天使」「港町純情シネマ」「寂しいのはお前だけじゃない」、映画で大林宣彦監督「異人たちとの夏」などの秀作を書いた事で記憶に残る方である。こういう人たちが噛んでいれば、少なくとも酷い作品にはならないだろうと予測したのだが…。

 
一応主人公は、「藪の中」に登場する盗賊・多襄丸。ではあるが、実は原作とはほとんど関係ない。まったくオリジナルと言っていいほど別の作品である。“森の中で、侍の夫と妻が盗賊に襲われる”という原作のエピソードが申し訳程度に登場するが、これを入れた為、却ってここだけ全体のトーンと合っていない。こんなのはバッサリはずしてオリジナルで行った方がマシだったのではないか。

中野演出は、思っていたより正攻法で、「赤影」のチャラチャラした演出よりは大分良くなっている。この点は一安心。

だが、問題は市川森一の脚本の方である。これがなんとも中途半端。思いつきであっちこっちからくっつけ継ぎはぎしたような、穴だらけのヒドいシロモノで、これがあの市川森一が書いた脚本だろうかと絶句した。思えば市川が書いた、1昨年のテレビの黒澤明作品のリメイク・ドラマ「生きる」が何とも気の抜けた凡作だった(奇しくも、本作も黒澤監督作品「羅生門」の原作である)。秀作を書いていた昔とは別人のようである。もう才能を使い果たしてしまったのだろうか。

(以下、ネタバレになるので隠します)
問題点は一杯ある。畠山直光(小栗旬)が、絶望したとは言え、何で盗賊の多襄丸の名前を引き継ぐのか意味不明。阿古姫(柴本幸)の性格も中途半端。直光一筋ならずっと彼に付いて行けばいいだけの話しだし、逃げ出して、また兄の元に帰るのが分からない。

一番分からないのが、畠山家を乗っ取ろうとする桜丸(田中圭)の行動で、直光を追い出し、兄を殺害して直光を名乗って当主に収まっていると聞かされるが、畠山家の家臣は何をやってたのだろう。家の中で当主が殺害されたのなら、まず桜丸の行動を疑うべきと思うのだが。
直光が家に戻った途端に牢にぶち込まれるのも不思議。余所者でうさんくさい桜丸の命令に従って、帰った当主を牢に入れる家臣など聞いた事がない。
ラストで直光は、それまで存在感の薄かった家臣の山田に家督を譲るのだが、それほど信頼してる男が何で桜丸のなすがままにしてたのだろう。こいつがしっかりしてたら問題はもっと早く解決してるだろう。
(以下もネタバレあるが、隠すほどでもない)

お白州の辺りから、話がどんどんあらぬ方向に行ってしまって観客はおいてけぼりである。以下突っ込みどころを列記。

金塊のありかを知ってる(はずの)阿古姫を、何で地獄谷に突き落とす?姫と結婚した者が大御所の命令で管領になれるんじゃなかったのか?
女を谷に突き落とすだけなのに、何で全員鎧兜で武装している? 
何で桜丸ら、引き揚げずに朝まで鎧姿で崖の前で待機してる?
谷に落ちたのに、何で骨折すらせずにピンピンしてる?
都合よくぶら下がってる鎖、2人がよじ登れるほどの強度を、どうやって支えてた? (以下多過ぎて省略)

 
登場人物のキャラクターも不鮮明で不得要領。

阿古姫はなんで出だしからずっと仏頂面なのだろう。心理の変化の理由が見えない。

直光も、元祖多襄丸に簡単にやっつけられ、あげくに気絶してる。弱すぎ。かと思えばラストでは、相当剣の腕が立つ桜丸と互角に延々闘ってる。強いのか弱いのかさっぱり分からない。

一番ミスキャストなのが桜丸に扮する田中圭。足利義政が寵愛するくらいなのだから、「御法度」で同じような役柄を演じた松田龍平とか、一昔前のピーターのような、妖艶な美少年でなければならない。少なくとも、小栗旬以上のイケメンでなくてはならないだろう。なのにまるで存在感がない。

結局は、何度も言うが脚本が不出来なせいである。キャラクターの掘り下げが出来ていないし、個々の心理の変化に説得力がない。そしてご都合主義も極まる取って付けた安直な展開。

ラストの、まるで昭和30年代の東映時代劇のような(笑)、予定調和ハッピーエンドにはズッこけた。前半の、ギリシヤ悲劇のような展開とは水と油である。
そう言えば、松方弘樹の人のいい豪傑ぶりもまさに往年の東映チャンバラ活劇そのまんまである(でも本作の重苦しいトーンに合っていない(笑))。

救いは、萩原健一の復活である。さすが、見事な貫禄を見せつけ、存在感をアピールした。今後のさらなる活躍を期待したい。

山本又一朗さん、もっと脚本を見直して、ダメな点をチェックすべきですよ。それがプロデューサーの仕事のはずです。

それにしても、配給はまたもワーナーである。昨年ワースト作品を連発して(やはり横文字時代劇「ICHI」があったね)、「映画秘宝」誌にて見事最低特別賞を受賞したが、今年も健在(笑)である。反省する気はないのだろうか。    (採点=

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2009年9月 7日 (月)

「BALLAD 名もなき恋のうた」

Ballad(2009年・東宝/監督:山崎 貴)

2002年に製作された感動の傑作アニメ、「クレヨンしんちゃん/嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」(監督・原恵一)の実写によるリメイク。

前述の「クレしん/嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」(以下「戦国大合戦」)は、大人も泣ける傑作として、当時大人気を拍した。私もリアルタイムで劇場で観て、ボロボロ泣いてしまった(当時の作品評はこちらを参照)。

アニメだとバカにしてはいけない。映画ファンは絶対の必見作である。迫力の戦闘シーン、戦場に引き裂かれる、悲しくもせつない大人の恋の物語…どれも実写のハリウッド大作にも引けを取らない出来で、なおかつ、しんちゃん親子の家族愛にも感動させられる、文句のつけようのない素晴らしい完成度であった。

私は当時、“こういう作品を実写で映画化出来ない日本映画界は猛反省して欲しい”と、かなり厳しく批判したが、おそらくは山崎貴監督もその事を痛切に感じていたに違いない。
いつか、これを実写でリメイクしたい…という思いは強かった事だろう。

だが、当時はまだ我が国のCG技術レベルが未成熟だったし、またそれをクリアしても、戦闘シーンを含め相当な製作費がかかるだろうし、企画を立てても、製作に踏み切る勇気のある映画会社はなかっただろう。

「ALWAYS 三丁目の夕日」が大ヒットして山崎監督の信頼度も上がり、また日本映画がこの所好調で、実写時代劇大作にも客が呼べるようになって、やっと7年ごしで実写映画化が実現した事は、まことにご同慶の至りである。

 
さて、本作についてであるが、まず良かった点、
戦闘シーンの迫力は期待以上の出来である。相当数のエキストラも使っているし、CG技術はさらに向上し、ほとんどCGらしさは感じられない。
これもCGを駆使した、山城である春日城とその周辺の映像も見事。段々畑の田んぼも実にリアル。驚くのは、城の全景や、城下の地理、城から見下ろす風景等が、アニメ版と、まったくと言っていいほどそっくりである。

槍を、突くのではなく、上から振り下ろすちょっと変わった戦術もアニメ版そのままである。

山崎監督の、原作アニメに対する、深いリスペクトが感じられ、ちょっと感動した。逆に言えば、原監督のオリジナル版は、細かい所まで考証が重ねられた、実に丁寧な作品であった事を今更ながら実感したのである。

廉姫を演じた新垣結衣も、予想以上の好演。清楚だが、凛とした、芯の強い戦国の姫君らしさが充分出ていた。

 
と、ここまでは良かったが、全体として観ると、やや期待はずれ。

クレしんでなく、普通の家族の物語に設定を変えてあるのだが、そうなると奇想天外なタイムスリップ・ファンタジーである作品スタンスと、この普通家族の設定とがうまく溶け込んでおらず、やや水と油になっている。

主人公の少年・真一が毎朝、廉姫の夢を見る…という発端は、実はアニメ版では“いつもきれいなおねいさんと一緒にいたい”という、マセた色ガキ(笑)・しんのすけの願望とリンクしているが故、観客はさもありなん、と納得出来るのだが、学校で苛められている内気な少年、という本作の設定ではここが不自然に見えてしまう。

何故毎日姫の夢を見るのか(しかもアニメ版では家族全員が同じ夢を見る)という理由も、実は野原家の庭が、夢に出て来る、廉姫がいつも佇む池のすぐ近くだった、という事で説明されている(従ってタイムスリップもその庭で起きる)のだが、本作ではその場所が、家から離れた、クヌギの大木の根元に変更されている。これだと姫の夢を見る理由がいま一つ説得力に欠ける。

しんちゃんが天正2年にタイムスリップした後も、しんちゃんの物おじせず、好奇心が旺盛で、大人に対してもズバズバ言ってのける天真爛漫の性格が状況を変えて行くのだが、真一の性格だと、最初に又兵衛と出会う時など、怖くなって逃げてしまいかねないし、家族が恋しくて泣いてしまうのが普通と思えるのだが、割と平然としているのも違和感がある。

真一の両親が、真一が過去にタイムスリップした事をわりと簡単に信じてしまうのも、お話としては弱い。アニメ版だと、これまでもSFありファンタジーあり、世界征服を企む巨悪と対決したり…と、荒唐無稽何でもあり、の世界観が確立しているからこそ納得出来る展開なのである。そこに、家族全員が廉姫の夢を見ている、という伏線がダメ押しで生きて来る。

オリジナルの父親、ひろしは、普段は大人しいが、キレるとムチャクチャ暴走し、息子の為なら火の中水の中も厭わない…というキャラであり、これがラストの自動車による敵陣突入、という展開に生きて来るのだが、本作の筒井道隆扮する父親では、そこまではやりそうもない。これも弱い。

ラストシーンも、オリジナルは例によっての下ネタギャグてんこ盛りで(敵将を倒すのも、しんちゃんの○○チョーである(笑))、大いに笑わされた後での、まったく予想もつかない意外な展開(ギャグアニメだから、又兵衛は死なないとばかり思っていた)であったが故、強烈なインパクトとなって泣けてしまったのだが、本作ではシリアスな展開になった分、オリジナルを未見の人でも多分そう来るだろうと予測出来る結末で、インパクトは幾分弱まった気がする。

そう考えて見れば、オリジナルの原恵一が書いた脚本は、実に練りに練られた寸分の隙もない、秀逸な出来であった事が、今更ながらよく分かるのである。

山崎貴監督の脚本は、そういうきめ細かさを欠いたまま、展開はほとんど原作アニメ版そのままに進んでいる点で問題がある。せめて筒井扮する父親のキャラクターは、もっと型破りの暴走オヤジに設定すべきであったと思う。
これは、彼単独で書かずに、もう少し数人が加わってディテールを詰め直すべきでなかったか。何なら、原恵一にも加わってもらってもよかったと思う。

 
――と、やや辛口の採点になってしまったが、戦闘シーンの迫力には感動したし、やはり元のお話がよく出来ている事もあり、結末は分かっていても何箇所かでは泣けてしまった事もまた事実である。

とにかく、最近では稀な、本格的戦国時代劇大作、かつ泣けるラブストーリーの力作であり、オリジナルを知らない方なら充分楽しめる出来である。少なくとも最近やたら多い、アルファベット入りタイトルの時代劇群「CHACHA 天涯の貴妃」「THE LAST PRINCESS 隠し砦の三悪人」「GOEMON」、ここに多分「TAJOMARU」も入る気がするが(笑))に比べたらずっと出来はいい。
採点が厳しいのはひとえに、「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズで我々を感動させてくれた山崎貴監督への熱い期待ゆえである。

真一が冒険を通して成長し、「もう逃げない」と自転車を走らせるエンディングも、山崎作品らしくていい(彼のデビュー作「ジュブナイル」を想起させる。よく考えればあの作品もタイム・スリップがテーマであった)。

ただ、くどいようだが、比較するならオリジナルの原恵一版「戦国大合戦」の方が出来はずっといい。未見の方で興味のある方は是非レンタルでご覧になる事をお奨めする。   (採点=★★★★

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(さて、お楽しみはココからである)

この作品を観て感じたのは、“黒澤明監督作品に対するオマージュ”である。

黒澤監督自身が、“戦国もの”をこよなく愛しているのは周知の事実である。監督作品に「七人の侍」、「蜘蛛巣城」、「隠し砦の三悪人」、「影武者」、「乱」とズラリ戦国物が並ぶし、脚本のみに限ると、「戦国無頼」、「戦国群盗伝」と、そのものズバリ題名に「戦国」が付いたものが2本ある。

―つまりは、原恵一監督自身が、こうした黒澤戦国時代劇の大ファンであるが故に、映画「戦国大合戦」が誕生したと言えるのである。

山崎監督も、それを強く意識したのだろう。出演俳優を見ても、黒澤映画常連の、香川京子さん(「どん底」、「天国と地獄」、「赤ひげ」他)と、油井昌由樹(「影武者」、「乱」、「まあだだよ」)を重要な役で起用しているし、衣裳担当は黒澤監督の子女、黒澤和子さんである。香川さんと油井さんは「まあだだよ」以来の共演である。

クライマックスの戦闘モブ・シーンは「影武者」、「乱」を彷彿とさせるし、遥か丘陵の向こうに敵の大群が現れるシーンは「七人の侍」を思わせる。

そして、又兵衛(草彅剛)と高虎(大沢たかお)との決闘シーンでは、槍を使っての迫力ある殺陣が展開するが、これは明らかに黒澤監督作品「隠し砦の三悪人」における、三船敏郎と敵将・藤田進との槍の対決へのオマージュだろう。

「影武者」の武田信玄は、本作の又兵衛と同じく、どこからともなく飛んで来た銃弾によって命を落とす事になる

そうそう、廉姫と又兵衛の、身分違いのせつない恋は、「七人の侍」における、勝四郎と信乃の、侍と百姓の娘という、身分違いの悲しい恋にヒントを得ている可能性もありだろう。
いろんな所に、黒澤映画からのアイデアが隠されている気がする。

もう一つ、黒澤時代劇の「蜘蛛巣城」。冒頭、城跡しか残っていない、(恐らくは)現代の蜘蛛巣城跡から映画は始まるが、霧が立ち込め、晴れるといつの間にか戦国時代になっている。そしてラストは再び城跡だけの現代に戻る。
これって、まるで現代から戦国時代にタイムスリップしたように見えるのだが…。
…てのは、ちょっと考え過ぎ?(笑)。

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