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2009年11月28日 (土)

「僕らのワンダフルデイズ」

Wondafuldays (2009年:角川映画/監督:星田 良子)

ガンで余命半年である事を知った中年男が、残された人生をどう生きるか苦悶した末に、高校時代に打ち込んだバンドを再結成し、家族に“音”を残そうと奮闘する姿を描くハートウォーミング・コメディ。

このストーリーを聞いた時、「あれ?黒澤明の不朽の名作『生きる』とよく似てるな」と思った人も多いはず。

本人は医者から告知を受けたわけではないが、偶然からそうに違いない、と確信する出だしもよく似ているし、あれこれと悩んだ末に、何か、生きて来た証(あかし)をこの世に残そう、と思い立つプロセスもほとんど同じ。

では「生きる」のように重苦しい展開か、と思いきや、どうも様子が違う。…そう、これは深刻な社会派ドラマではなく、冒頭に記した如く、中高年世代に元気を与えてくれる、心が温かくなる笑いと涙の人情コメディなのである。

(以下、ネタバレがありますので注意)
「家族には告知してある」と医者が言うわりには、主人公・藤岡徹(竹中直人)の妻も子供たちもいたって能天気だし、妻の欠伸による涙や、サービス券の有効期限が切れた事による溜め息、などを徹がいちいち悪い方に誤解したりするシーンがあったりで、これは徹の勘違いだろうと途中でほぼ予想はつく。

徹は、高校時代のバンド仲間と連絡を取り、無理矢理彼らを巻き込んで、高校時代のバンド“シーラカンズ”を再結成し、アマチュア音楽コンテスト『全国ナイスミドル音楽祭』(実在する)出場に向けて猛特訓を開始する。

バンド・メンバーのキャラクター設定がいい。酒屋の栗田(段田安則)は老母の介護、不動産屋の渡辺(斉藤暁)は火の車の事業、広告代理店の営業部長・山本(宅麻伸)は厳しい業界内で激務をこなし…と、それぞれに悩みを抱え、仕事に追われ、何かを見失いかけている。人生も半ばを過ぎれば、誰しもがぶち当る壁である。

最初は徹の熱意に負けて参加したものの、上記のような事情を抱え、みんな本音の所はそれどころではない。いらだち、一時は分裂しそうにもなるが、練習を積み重ねるうちに、自分たちの内部に、かつての青春時代の熱い心がよみがえり、やがて全員一丸となってコンテスト出場を目指して行く展開は、王道パターンながら手堅い。同じ中高年世代である私は胸が熱くなってジーンと来た。

やがて、実はガンで死を宣告されていたのは山本である事が判明する。…ここの所は、徹と山本が同級生で、高校時代のバンド仲間で、同じ病院に同時期に入院し、同じ主治医で、しかも同じ日に退院する、というのはあまりに偶然が重なり過ぎてやや不自然(それでいて病院内で一度も出会わない)。まあこれはお話自体、一種のファンタジーと考えて割り切るべきだろうが、もうちょっと工夫が欲しい所。

この山本が、仕事一筋の“猛烈サラリーマン”(もう死語かも知れない(笑))で、部下にも厳しく、家庭をもあまり顧みなかったタイプの男だったのが、死を宣告された後、残された日々を仲間とバンドに打ち込めた事で、徹に感謝し、心の平穏を取り戻して行くプロセスが泣ける。

黒澤作品「生きる」の渡辺勘治(志村喬)に当るのは、徹ではなく山本だったわけである。
「生きる」を観ている方なら、あの映画を思い出しながら感慨に耽ってもいいだろう。この映画は、“ハートフル・コメディ版「生きる」”であるとも言えるかも知れない。

コンサート当日のアクシデントとハラハラ・ドキドキも、まあお約束のようなもの。笑いながらも、人生について考えさせられ、観終わってちょっぴりハートが温かくなる、ウェルメイドな中年青春コメディの佳作である。

監督の星田良子はテレビ・ディレクター出身で、映画の演出はこれが2作目だそうだが、意外に笑いと泣かせの緩急が自在で、ソツなくこなしている点はお見事。脚本(西村沙月・福田卓郎)も悪くない。今の日本映画ではよく出来てる方だろう。

奥田民生が、この映画の為に書き下ろしたメンバーの持ち歌も、いかにも高校生のアマチュアバンドが作ったようなテイストがあって悪くない。演奏シーンは、それぞれ本当に俳優たちが演奏している。猛特訓したそうで、これも聴き物。竹中はちょっとハシャぎ過ぎのような気もするが、まあ許容範囲。

ただ、アメリカにいる旧メンバーに代ってドラムで参加する稲垣潤一が、セリフも棒読みだし、いま一つ存在感に乏しい。「辛い時ほど、笑っていないと幸せが逃げて行く」などの名文句を吐く、メンバーの精神的支柱となるべきキャラクターであるのだから、もう少し味のある、渋いバイプレイヤーを起用すべきではなかったか。どことなく謎の存在であるから、最後に意外な正体が判明する…といったサプライズがあっても良かったように思う。     (採点=★★★★

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2009年11月25日 (水)

「沈まぬ太陽」

Shizumanutaiyou (2009年:角川映画/監督:若松節朗)

「白い巨塔」「華麗なる一族」「不毛地帯」など、巨大な組織や政治の闇を鋭く描いた社会派作品で知られる山崎豊子の同名ベストセラー小説の映画化。
ナショナル・フラッグと呼ばれる巨大航空会社を舞台に、組合活動で会社に睨まれ、パキスタン、イラン、ケニアと、僻地への理不尽な転勤を強いられながらも、自らの信念に従って生きる男を壮大なスケールで描いた社会派ヒューマンドラマ。

会社名は国民航空と架空になっており、一応フィクションだと強調されてはいるが、メインとなるジャンボ機墜落事故では、大阪行き123便御巣鷹山に墜落…という具合に、実在の地名や便名が使われており、これは明らかにモデルは日本航空と誰でも判る。しかも主人公恩地元(渡辺謙)には元日航社員のモデルがいる。労働組合委員長を二期務め、懲罰人事でカラチ、テヘラン、ケニアに10年間赴任させられ、帰国後はジャンボ機事故の後、経営建て直しの為招かれた新会長に会長室部長に抜擢され、会長解任後にアフリカに再赴任する…といった具合に、ほぼ小説そのままの経歴を持つ。但しモデルの人物が御巣鷹山事故の遺族係に任命されたという事実はなく、これは作者の創作。
描かれた内容には事実に反する部分があると日航側が作者に抗議しているとも聞くが、これは、あくまで恩地元という、自分の信念を曲げずに愚直に生きた男の半生を描いたフィクション・ドラマとして楽しむべきだろう。なおモデルに興味ある方はネットで“小倉寛太郎”で検索してみてください。

それにしても、物語の中では国民航空が政治家とも癒着し、賄賂を捻出したり、ドル先物の為替予約で大損を出したり、都合のいい事を書いてくれるマスコミを接待したり、等の乱脈経営ぶりを容赦なく描いている。総理をはじめとする政治家のモデルも容易に想定出来る。よくまあここまで描けたものだと、原作者である山崎豊子さんの不撓不屈ぶりにも敬意を表したいが、これを映画化するにはもっと骨が折れただろう。マスコミもスポンサーのご機嫌は損ねたくないだろうから協力はし難い。実際、映画の公開について、JALは、マスコミに宣伝をしないように圧力をかけていたらしい(こちらを参照)。その為か、製作委員会には、大作と言えば大抵参加しているテレビ局、新聞社は1社も入っていない

そうした万難を排して、映画化に漕ぎ着けた角川映画の頑張りにも敬意を表したい。

そこで問題となるのが、全5冊にも及ぶ膨大な原作を、いかにして休憩を含め3時間22分という時間内に収め、しかも原作の良さを損なわずにすむか、という課題である。
結論として脚本を担当したベテラン、西岡琢也は実にうまく原作を整理し、枝葉を切り取り、見事なシナリオを書いた。冒頭、ナイロビでの象狩りと、帰国後の恩地に対する重役の苛めぶりと、御巣鷹山事故までを並行して描き、事故の直後にメイン・タイトル、そして23年前の労組活動から左遷に至る流れと事故処理を並列で描く…という展開のうまさには唸った。これで観客は、原作では気が滅入り、やや退屈もするアフリカ編を一気に通過して映画の世界に入って行ける。

最近、脚本の酷い映画ばかり見せられていたので、この、テキパキと展開しつも、原作の勘所はきちんと押えて、なおかつ社会派ドラマの骨格を崩す事なく、感動のドラマに仕上げた西岡脚本の見事さには特に感嘆した。今年の最優秀脚本賞に推薦したい。…もっとも、昔は橋本忍(白い巨塔)、山田信夫(華麗なる一族、不毛地帯)、菊島隆三、新藤兼人、笠原和夫…と、これくらいのシナリオを書ける脚本家はいっぱいいたのだが…。

映画の恩地は、モデルと比べやや美化されて描かれていると感じなくもないが、フィクションと割り切れば、波乱万丈の物語としてはこれで充分だろう。「詫び状を書けば日本に帰してやる」と唆されても、昔の仲間を裏切る事は出来ず、自らの矜持を守る為に、毅然と誘惑を刎ねつける恩地の男の意地には泣けた。

これは、特に、企業や組織内において、心に自身の矜持を持ち(あるいは持ちたいと願い)、上層部に不満を抱きつつも、家族の為、仲間の為、ぐっと堪えて思いを秘め、仕事に邁進する、サラリーマンや公務員の人たちにとっては涙なくしては観られないドラマである。

恩地のような生き方をしたい、だが自分に置き換えて、会社の陰湿な懲罰人事に何処まで耐えられるだろうか…とても真似は出来ない。そういう、忸怩たる思いを抱く人もいるだろう。

そういう、男の辛さを、この映画を観て感じ、夫の背中を見直したくなる奥方もいるかも知れない。…ともかくこの映画は、半官半民企業と政治の世界の癒着・乱脈ぶりに改めて憤りを感じるもよし、男の仕事とは、男の生き様とは何なのか、家族はそんな父あるいは夫をどう支えて行くべきなのか、等、いろんな事を考えさせてくれる。

組織内で働く人たちと、その家族の人たちは必見の良質ドラマとしてお奨めである。

ただ、この映画で食い足りない点を挙げると、悪役の人物描写が類型的でステレオタイプに留まっている点である。特に行天四郎(三浦友和)は、「白い巨塔」で言うなら、財前五郎に当たる人物である(名前からして五郎に対する四郎である)。恩地とは同期で気が合っていたはずのこの男の、転向に至る内面の苦闘、その心の闇、人間の業をこそ描いて欲しかった。関連会社の社長にまで上り詰めた八馬(西村雅彦)の絵に描いたような悪役ぶりもありきたりで興醒めである。
ラストの八馬の解任、行天の地検特捜部連行で物語を締めた事によって、悪が粛清されたかの如き安易な幕引きになっているのも惜しい。現代に至る、JALの経営体質、政治の暗部も容赦なく描いてこそ、時代を見据えた傑作になったかも知れないのに。残念である。

そういう点では、これがテレビ出身でまだ3作目の若松節朗監督の力量の限界でもある。「白い巨塔」をはじめ、「金環蝕」「華麗なる一族」「不毛地帯」と、多くの社会派の力作を手掛けた山本薩夫のようなタイプの監督が不在であるのが、返す返すも無念である。     (採点=★★★★

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(お楽しみはココからだ)
この映画を観て、もう一つ連想したのが、'50年代のハリウッドで起きたマッカーシー旋風、いわゆる赤狩り騒動である。この事件については、デ・ニーロ主演の「真実の瞬間(とき)」、マッカーシー批判のジャーナリスト、エドワード・マローを主人公にした「グッドナイト&グッドラック」、ジム・キャリー主演の「マジェスティック」等の映画が作られているのでそれらを参照して欲しいが、本作と共通するのは、“権力者の不当な圧力によってパージさせられた男の、自己の信念を貫き通した不屈の戦い”がテーマとなっている点である。本作の恩地も、まさに彼らと同様、アカのレッテルを張られ、パージさせられた男であると言える。

ある映画人は、自ら転向声明を出し、仲間の名前を売って映画界に返り咲く事が出来た。エリア・カザンが代表例で、その為カザンが後にアカデミー特別賞を受賞した時は、カザンに反撥する映画人の中には抗議の意志を示す為、腕を組み座ったままの人もいた。

反対に、自らの矜持を示す為、非米活動調査委員会において、証言したり、召喚されることを拒んだ映画人も多くいた。こうして、自己の信念を貫き通した映画人の多くがハリウッドから追放され、永く実名では映画製作に携わる事が出来なかった。エイブラハム・ポロンスキーやダルトン・トランボなどが代表例で、ポロンスキーは69年に「夕陽に向って走れ」を撮るまで、21年間も監督作品を発表出来なかった。トランボは名前を隠し、変名で「黒い牡牛」、「ローマの休日」などの脚本を書いて糊口をしのぎ、実名が使えるようになったのは'60年の「栄光への脱出」からである。

いずれも、毅然と信念を貫いたが故に、10年前後の間、辛酸を舐めた辺りは本作の恩地の苦闘ぶりとも共通する。またカザンの転向ぶりに、行天四郎の転向と栄達との類似性を見る事も出来る。

事実に即しているとは言え、両者の類似性は興味深い。ハリウッド・赤狩り旋風に興味があり、トランボたちの戦いぶりに共感する方は、本作をもっと楽しめるに違いない。

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2009年11月19日 (木)

「人生に乾杯!」

Jinseinikanpai (2007年:ハンガリー/監督:ガーボル・ロホニ)

珍しいハンガリー映画。
封切時時間がなくて見逃していたのだが、幸いな事に、好評につきアンコール上映されていたのでやっと観る事が出来た。

ハンガリー映画は、本国では結構作られているのだが、ルートが狭い事もあって、我が国にはほとんど輸入されていない。これまで輸入されて話題になったのは、1965年製作のミクロシュ・ヤンチョー監督「密告の砦」(我が国公開は1977年)、1981年のアカデミー外国語映画賞を受賞した、イシュトヴァン・サボー監督の「メフィスト」、1999年のサボー監督「太陽の雫」(公開は2002年)くらいではないだろうか。

こうした作品群を並べると、なんだかアート系の硬い作品しか作っていないように見えるが、本作はなんともトボけて楽しいエンタティンメントの快作であった。もっとこういう作品を見つけて紹介して欲しいものである。

 
50年代末期、運命的に出会った共産党員の運転手エミル(エミル・ケレシュ)と伯爵令嬢のヘディ(テリ・フェルディ)は結婚し、幸福な人生を送る。だが、それから50年、わずかの年金だけでは生活できず、家賃も滞り、思い出のイヤリングすら借金のかたに手放す有様。切羽詰ったエミルはついに郵便局強盗を実行するが…。

エミルは81歳で、腰痛に悩んでいるし、ヘディは70歳。この老人カップルがボニーとクライドよろしく、連続して銀行強盗をやってのけるというシチュエーションがまず秀逸。老人が窓口で、やんわりと「金を出してください」とお願いするものだから、係員もフラッと金を出してしまう。銀行に押し入り、ギャング映画を気取って凄んで見たら、昼休みで誰もいない…という辺りも笑える。

(以下、ややネタバレもあります。ご注意ください)
伏線もなかなか行き届いている。家主が滞納家賃の催促で玄関前にいるのを、外出から帰ったヘディが見つけるや、平然と隣人のふりをするしたたかなポーカーフェイスぶりも楽しいが、これが後半の、ヘディが警察を出し抜き、エミルの銀行強盗に加担する展開を無理なく観客に納得させる伏線となっている。

エミルの愛車が、旧ソ連製のチャイカという無骨な車であるのも効いている。おそらくエンジンだけは馬力があるのだろう。そのおかげで、砂利だらけの急坂もなんなく登ってまんまと警察の追跡を逃れてしまう辺りもうまい。

この老人たちが銀行強盗を繰り返すニュースを見て、大衆がエミルたちを支持し応援する展開も無理がない。それは、エミルたちの行動が、年金だけでは生活出来ない、この国の老人福祉政策に対する抗議でありレジスタンスだという風に彼らが捉えているからである。

それを理解する為には、この国で1956年に、当時のソ連の横暴と支配に対して、民衆による大規模な蜂起―いわゆる“ハンガリー動乱”―が発生した、という歴史的事実を知っておくといい。理不尽な権力の横暴に抵抗して来たハンガリー国民のDNAが、この老人たちの反国家的行為にシンパシーを感じる大衆の心理に受け継がれていると考えても、あながち不自然ではない。
物語の発端が、そのハンガリー動乱の数年後であるという点は、それ故重要な布石である。この時ヘディを助けたエミルの行動も、ソ連に従属する共産党政府への反抗心が背景にあると考えれば納得が行く。なお東ドイツに先駆け、東欧圏でいち早く民主化を成功させたのもハンガリーである。

社会主義国家、キューバ出身の友人が彼らを全面的に支援する辺りも面白い。考えればキューバもカストロ、ゲバラと、大国の横暴に一貫して抵抗して来た国である。

(以下完全ネタバレ)
ラストは、警察がバリケードとして用意したブルドーザーに突入、という、これまたアメリカン・ニューシネマの傑作「バニシング・ポイント」そのままの結末…となるのだが、その後の展開は観てのお楽しみ。どこまでも人を食っている。ここでも、やたらデカい熊のヌイグルミを大事に車に積んでいる辺りが周到な伏線となっている。
(ネタバレここまで)

とにかくこの作品は、いかにもハンガリーらしい、のどかさと、したたかな国家への反逆精神に溢れたクライム・コメディの快作である。

が、笑いつつも、年金問題はわが国でも切実な課題である事を思えば、笑ってばかりもいられないのである。

ともあれ、意表をついた楽しい映画を作ってくれた新人(これが長編デビュー作)、ガーボル・ロホニ監督、並びによくぞ輸入してくれた配給会社に乾杯!    (採点=★★★★☆

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(付記)

あまり話題にならなかったが、2007年にハンガリー映画「君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956」(2006)がひっそり公開されている。'56年のハンガリー動乱を背景に、歴史と政治に翻弄される若者たちの悲劇を描いた骨太ドラマである。

この50年のハンガリーの歴史に、きちんと向き合おうという姿勢が出ており、それは、民主化はしたけれど社会福祉整備は遅れ、老後の不安がつきまとう現代の政治状況に対する批判が感じられる本作とも、どこかでリンクしているのかも知れない。

ちなみに、この映画の製作者は「ターミネーター3,4」「ランボー1~3」等のアクション大作で知られるアンドリュー・G・ヴァイナ、原案・脚本は「氷の微笑」「ショーガール」等で知られるジョー・エスターハスである。このお二人、ハリウッドで活躍しているが、どちらも出身はハンガリーである。ヒットメイカーであるお二人が、儲けを度外視して、こうした母国の歴史を描いた作品を手がけるあたり、見上げたものである。

も一つついでに、ハンガリー出身で、ハリウッドで活躍した映画人には、「カサブランカ」(43)等の名作で知られるマイケル・カーティス、ヒッチコック監督の「白い恐怖」(45)、W・ワイラー監督の「ベン・ハー」(59)の音楽で知られる作曲家、ミクロス・ローザがいる。

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2009年11月16日 (月)

「のんちゃんのり弁」

Noriben (2009年:キノ・フィルムズ/監督:緒方 明)

「独立少年合唱団」「いつか読書する日」などのどっしりした構えの力作を連発して来た緒方明監督の新作は、珍しくコミック原作の人情コメディ。
しかしさすが安定感のある緒方監督、新ジャンルの挑戦も無難にこなし、若妻の人間的な成長をテンポよく描き、ハートフルな佳作に仕上がっている。

主人公は、やっと30歳を越えた、のんちゃん(佐々木りお)という幼稚園児を抱えた世間知らずの人妻・永井小巻(小西真奈美)。夫は自称・小説家だがロクな稼ぎのないグータラ亭主・範朋(岡田義徳)。ある日小巻はとうとう亭主に愛想をつかし、娘を連れて東京・下町の実家に出戻り。働き口を見つけようとするが、都合のいい条件ばかり出しては見つかるわけもなく、たちまち就職活動は行き詰まる。そんな時、のんちゃんに持たせた手作りのお弁当が評判になって…。

これまで、おとなしい、地味な役柄の多かった小西真奈美が、ここでは一転、ダメ亭主に三くだり半突きつけ、自立を目指し、自分の“居場所じゃなく、行き場所を見つける”為に涙ぐましい奮闘ぶりを見せる。

下町の商店街で働く人たちの人物描写も、「男はつらいよ」を連想させる味わいで悪くない。
そして何より、小巻の娘、のんちゃんが可愛い。彼女のくったくのない演技が一服の清涼剤となって、一歩間違えると陰惨なドラマになりかねない小巻と範朋夫婦の骨肉の争いをも中和する役割を果たしている。

ラストは、いろいろ波風もあったが、周囲の人たちの応援にも支えられ、一応小巻が弁当屋を開業し、新しい人生の道を歩み始めたところでエンド。
自立する女性、自分探し、というテーマを、下町人情、当世就活事情、弁当グルメなどの要素も巧みにミックスして自在に描いた緒方演出はさすがに的確である。

 
…と、ここまでは普通の映画紹介。
ここからは、久しぶりに、視点を変えて映画を観てみることとする。

 
主人公は、間違いなく小巻である。―にもかかわらず、題名が何故「小巻のり弁」でなく「のんちゃんのり弁」なのか。

これは見方を変えれば、娘の、のんちゃんの目から見た物語である、とも言えるのである。

実際、主人公であるはずの小巻は、あまり誉められた存在ではない。
自立しようとする志はいいのだが、就活の面接で10時から14時までという甘い勤務を希望したり、資格も持たないくせに自分に都合のいい条件を出してはことごとく面接でアウト。友人に紹介された飲み屋の仕事も、水商売の常識に無知で1日で辞めてしまう有様。要するに世間知らずの甘ちゃんである。

夫の範朋もグータラのダメ亭主ではあるが、我が子のんちゃんに対する愛情は人並み以上で、小巻と別れない理由ものんちゃん可愛さにあるようだ。…つまり、決して夫婦の一方に肩入れした作りにはなっていないのである。

のんちゃんも、出来れば両親が別れないで欲しいと、小さな胸を痛める。けなげに、明るく振舞い、母にも父にも対等に心を寄せる姿がいじらしい。
この、のんちゃんの繊細な思いやりに比べれば、小巻と範朋夫婦はどっちも自己中心的で身勝手なダメ人間でしかない。

その身勝手ぶりが顕著に現れるのが、ラスト間際の夫婦の大立ち回りで、世話になってる小料理屋“トトヤ”の店内をめちゃくちゃにしてしまう。普通は、頭に血が昇ってても“店に迷惑をかけられないから表で話をしよう”くらいは言うだろうに。しかものんちゃんが見てる前でである。

その直後、小巻はトトヤの主人・戸谷(岸部一徳)に「弁当屋を開くのに店先貸してください」と頭を下げる。どのツラ下げて言えるのだろうか。厚かましいにもほどがある。

結局は小巻は、母親(倍賞美津子)やトトヤの主人を含め、周囲の善意に頼らなければ自立も出来ないダメ人間なのである。

一応ラストでは弁当屋を開店したが、この調子では事業として成功させるのは難しいのではないか…とも私には思える。―ただ、この視点が原作にもあるのか、監督の緒方明の創意によるものなのかは不明ではあるが。

ともあれ、のんちゃんの明るさが、この映画を救っている。のんちゃんが不在であったなら、夫婦喧嘩はもっと陰惨であろうし、小巻はイヤな女にしか見えなかったかも知れない。緒方演出は強いてのんちゃんを目立たせようとはしていないけれど、この物語を支える影の主役は、私はのんちゃんに他ならないと思っている。

 
戸谷が小巻に語りかける説教も奥が深い。「何かを得ることは何かを失うこと」「捨てたくないからって全部抱えてりゃ、みんな腐らせちゃうんだよ」。

そう、小巻は自立し、店を持つ事は出来たけど、のんちゃんの目から見れば、彼女にとってかけがえのない、“親子3人、一つ屋根の下で暮らす、幸福な家庭”は永遠に失われてしまうのである。

そう考えれば、この映画のラストは少しもハッピーエンドではない。人間のエゴをやんわりと批判し、“自分の道を歩み、夢を追うとは何を得、何を失う事なのか”というテーマに迫った、これは苦い後味の残る辛口ドラマなのである。   (採点=★★★★☆

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2009年11月11日 (水)

「ロボゲイシャ」

Robogeisha1  

(2009年・角川映画/監督:井口 昇)

海外で製作したスプラッター・アクション「片腕マシンガール」が逆輸入され、予想外のヒットとなった井口昇監督が、今度は日本国内で監督した、これまたギャグと脱力パロディ満載のSFアクション。

芸者の姉、菊奴(長谷川瞳)に蔑まれ、付き人として惨めな人生を送っていたヨシエ(木口亜矢)が、その潜在能力を謎の製鉄会社の御曹司ヒカル(斎藤工)に見込まれ、姉と共に芸者姿の暗殺マシンとして育成されるが、日本征服を企むヒカルたち悪の組織の正体を知ったヨシエは彼らに敢然と戦いを挑む…。

前作は、海外のオタク向けに、シ、テンプラ、ヤクザ、ニンジャ、等のレトロ的日本趣味を網羅していたが、本作も出てくる出てくる、ゲイシャ、フジヤマ、サムライ、ハラキリ、天狗、セーラー服、チャンバラ、巨大ロボット…と、こちらもガイジン好みの日本的要素をゴッタ煮でぶち込んだ、楽しい快作に仕上げている。公式HPに解説文を寄せている江戸木純氏に言わせると、「戦略的国辱映画にして究極のジャパン・エクスプロテイション・ムービー」という事なのである。

Robogeisha2 前作同様、SFXはチープだし、冒頭の掴みエピソードは本筋と全然リンクしてないし、アクションもゆるいし、“ロボゲイシャ”といいながら、ヨシエの体は単に部分改造を施したサイボーグに過ぎないのだが(サイボーグとタイトルにありながら実態はロボットだった「僕の彼女はサイボーグ」とは正反対(笑))、シーンによってはターミネーターを思わせる赤いセンサー主観映像があったり、ロボコップよろしくチーチーと機械音を出したりで、いつから全身がロボットになったのだ?…といった具合に、ツッ込みどころは満載である。

だが、そんなチープさも、辻褄の合わなさも、B級らしさを醸し出す為に井口監督はわざとやってるのだろう。まさに確信犯である。

むしろ、ここには、井口監督が子供の頃から見てきたであろう、ゲテモノSF、怪獣映画、戦隊もの、忍者もの、ロボット・アクション、等を含めたB級、C級アクションへの思い入れをぎっしり詰め込んで、観客と共に楽しもう、という1本芯の通ったスタンスがある。

それは、井口監督が敬愛してやまない鈴木則文監督が、'70年代に東映で量産して来た、エロ、グロ、下ネタ、パロディ、ギャグを満載したサービス精神溢れるB級アクション作品群に共通するファクターでもある(そう言えば鈴木則文さんのフィルモグラフィには「温泉スッポン芸者」などの“芸者もの”があったなあと思い出す。案外ヒントはこの辺か(笑))。

ヒカルの父親で、悪の組織のボスを怪演してるのが、懐かしや志垣太郎(「狼の紋章」他)、その一味に娘たちを拉致された家族会のリーダーの老女がこれまた懐かしい生田悦子(かつては「命果てる日まで」(66)などの松竹女性映画の可憐なヒロイン)、その家族会の一員に竹中直人!と役者が結構豪華だったりする。

美女をはべらせたり、核兵器を弄んだり、拉致家族の会が出て来たりと、明らかにこの親子、某北の独裁国家を思わせたりもするのも笑える。

ヨシエの改造された下半身が戦車となってハイウェイを疾走し、ビルの壁を垂直に走ったり、敵の城!が巨大なロボットにトランスフォームしたり(「大魔神」を思わせる)、ビキニに丸髷の美女たちが尻から刀を出したり、とまあやりたい放題。

そのB級C級活劇へのオマージュといい、下品さといかがわしさに満ちたコテコテのサービス精神といい、井口監督は日本のクエンティン・タランティーノを目指している、と言っていいかも知れない。

 
しかし、本作は単なるバカ映画に終わってはいない。全編を通して、姉と妹の憎悪と確執の愛憎劇が作品のコアとなっており、最後は果てしなき戦いの末の和解へと収斂して行く、姉妹の愛と哀しみのドラマにもなっている。

その物語は、あたかも、鈴木則文監督の直弟子である関本郁夫監督による、やはり姉妹の愛憎劇の傑作「天使の欲望」(79)を彷彿とさせたりもするのである…と書けばちょいとほめ過ぎか(笑)。

 
とにかく、これは楽しんだもの勝ちである。人によってはバカバカしさについて行けない方もいるかも知れないが、こういうのはタラちゃんのグラインドハウスものと同様、ガハハハと笑いながら突っ込んで、お祭り騒ぎで楽しめばいいのである。そうした楽しみ方の出来る映画ファンにはお奨めの快(怪?)作である。

ただ、海外製ゆえタブーを思いっきり無視した前作に比べると、本作は日本の製作委員会(なんと角川映画がメイン)が作ってる為か、血まみれスプラッターも、首チョンパの切り株シーンもない、比較的女性や子供でも見られる作りになっている(キャッチコピーは「ギリギリ、デートに使える映画」だそうだ(笑))。その辺りが前作のファンには、やや物足りないかも知れない。    (採点=★★★★) 

 
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(付記)
関西では、天六のホクテンザ2のみでの上映。ここは今年は「鎧 サムライゾンビ」を上映したりと、本作の雰囲気にピッタリの劇場。また公式ブログ等では、同劇場の絵看板が写真入りで紹介されたりと、結構人気のある劇場である。まだ行った事のない方は、話のネタに一度見に行ってあげてください。客が少ないのによく頑張ってます。

(追記)
その後ホクテンザは2010年に閉館され、同館が入ってた天六ユウラク座ビルも2012年閉館され、公式ブログも削除されました。
なお上記記事にある劇場絵看板の映像は、当ブログの天六ユウラク座閉館記事の最後の方で見る事が出来ますので、興味ある方は覗いてください。

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2009年11月 6日 (金)

「母なる証明」

Mother_2 (2009年・韓国/監督:ポン・ジュノ)

「殺人の追憶」「グエムル-漢江の怪物-」と、1作ごとにレベルの高い傑作を生み出して来たポン・ジュノ監督が、またまた傑作を作り上げた。絶対お奨めの見事な秀作である。

静かな田舎町で暮らす母(キム・ヘジャ)と、その息子トジュン(ウォンビン)。トジュンは、やや知恵遅れだが、小鹿のような目を持った純真な青年。ある日、女子高生の惨殺死体が発見され、現場に残された遺留品からトジュンが容疑者として逮捕される。弁護士も頼りにならない。息子の無実を信じる母は、自ら犯人探しに乗り出す事を決意するが…。

脚本が実に見事である。(以下、ややネタバレがありますのでご注意ください)
まず冒頭で、明るく広々とした野原で踊る母の姿が描かれる。なぜ彼女は踊っているのか…その疑問は物語が進む事で明らかになるのだが、この冒頭の掴みで、この母親が、どこかに少し異常な性格を内在しているのではないか、と、ふと観客に思わせもする。それが伏線にもなっているのである。
また物語が始まると、この明るさと対比して、暗い家の奥で黙々と薬草を裁断する母の姿が描かれる。明から暗へ、このコントラストも見事だし、この母親がどこか心に深い闇を抱いているのではないかとも想像させる。…うまい出だしである。

その後の、トジュンがベンツに轢かれそうになり、トジュンと友人のジンテ(チン・グ)がベンツを追ってゴルフ場まで行く、という、一見本筋とは関係ないエピソードにも、実はかなり重要なポイントが含まれている。このシークェンスで、気弱で他人に流され易いトジュン、行動的で面倒見はいいが荒っぽいジンテ、息子の危機に我も忘れてしまう(指を切った事にも気付かない)母親…という登場人物たちのキャラクターを一気に紹介すると共に、トジュンの拾うゴルフボール、池に投げ捨てたゴルフクラブ―等の小道具が後に重要なアイテムになる…といった具合に、実は寸分の無駄もなく、巧みに構成されている事に唸らされる。

バス停で、トジュンが立小便をしている所を、母がじっと見つめている(視線の先は彼の一物だ)シーンも重要だ。トジュンと母の異様な関係も匂わせるし、バスが行った後、母は立小便の跡をそっと隠そうとするが、これも“息子の不始末を無理やり隠そうとする”母の性癖をさりげなく描く事で、後の伏線になっているのである。その他、あちこちに仕掛けられた何でもないようなエピソードが、すべて後半部への伏線になっている辺りも憎いくらいに小気味良い。…まったく、呆れるほどに脚本が秀逸である。
(どこかの、お粗末な脚本でガッカリさせられる最近の日本映画の脚本家は、この映画の爪の垢を煎じて飲むといい)

トジュンが殺人犯人として留置させられた後の、母が自ら犯人探しを進めるうちに、疑わしい人物が浮かんでは又消える、というプロセスも、上質のミステリーを読んでいるかのようにスリリングで澱みがない。

その過程で、少しづつ、母と息子の間の、隠された闇が次第に明らかになって行く辺りも巧妙である。

(以下完全ネタバレに付き隠します)
母は、実はトジュンが5才の時に、農薬を飲ませて心中を図った事実が明らかになる。…この事は母がトジュンに対し、ずっと負い目になっていた事を示している。…何しろ、一度は最愛の息子を殺そうとしたわけなのだから。…その贖罪の為には、息子を守る為には、殺人だろうと何だろうと、母はやりかねないであろうという事を、観客は充分に納得するのである。…これが、冒頭から薄々感じられた、母の狂気の正体なのである。

だから、捜索の結果、遂におぞましい真実…犯人はトジュンだった…にたどり着いた時に、母が取った行動も、衝撃的ではあるが、観客には充分理解出来るのである。…なんと見事な、絶妙に計算され、構築されたシナリオである事か。

ここまででも充分、ミステリーとしても良く出来ているが、さらに最後、もう一度どんでん返しが用意されている。

母が、焼け跡に置き忘れてきたものを、トジュンが母に届ける。「大事なもの、忘れちゃダメじゃないか」…。

それまで、一見、純朴でピュアな心を持っているように見えたトジュンの、本当の正体が浮かび上がる。…トジュンに感情移入していた観客は、ここで打ちのめされてしまうはずである。

なんとまあ、意地悪く人間を見つめる作者であることか。…だが、「殺人の追憶」でもそうした底意地の悪さを見せたポン・ジュノならではである。…そう言えば「グエムル―」でも最後、もう少しで助かるはずの少女を殺してしまったし…。
(ネタバレここまで)

犯人探しミステリーとしてもよく出来ているが、物語を通して浮かび上がるのは、人間という存在そのものの愚かしさ、哀しさである。

真相が分かって見ると、被害者の少女もまた、心に闇を抱えていたわけであり、無論、母も、そしてトジュンも、心の中は闇で充たされていた事が分かる。

そしてラストで、母はバスの中で、踊りの輪の中に入って行く。…冒頭の踊りともリンクしているわけだが、意味合いは大きく異なる。

母は、心におぞましい闇を抱えたまま、それでも生きて行かざるを得ない。息子の為にも…。その決意が、この熱に浮かされたような、ラストの踊りに込められているのである。逆光で、顔が見えなくなっている様が象徴的である。

人間という、か弱くもあり、愚かで、またふてぶてしい、不可思議な生き物の表も裏も照射し、容赦なく生木を剥ぐように描き切った巨匠、ポン・ジュノの、これは最高作ではないかと思う。その鋭い刃の切っ先は、我々自身にも突きつけられているのである。見事な傑作である。必見!。     (採点=★★★★★

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(付記)

原題は、単に“MOTHER”=母 であるのだが、これに「母なる証明」という邦題を付けた配給会社のセンスは素晴らしい。ベスト邦題賞を与えてもいいくらいである。

子供の為には、地獄にだって堕ちる覚悟も厭わない…。それが母親の存在証明である事を、この邦題はズバリ指摘しているのである。いや、人間という存在の証明でもあろう。そういう事まで、映画を観終わって考えさせてくれる。見事な題名である。

この邦題から、「人間の証明」という映画の事もふと思い出した。1977年の角川映画(監督は佐藤純彌)であるが、思えばこの作品もまた、自らのエゴの為に殺人を犯してしまう、一人の母親の心の闇を描いた作品であった。殺したのが[自分の子供]だった、というのがなんとも皮肉な事ではあるが…。

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2009年11月 4日 (水)

「さまよう刃」

Samayouyaiba (2009年・東映/監督:益子 昌一)

人気作家、東野圭吾のベストセラー小説の映画化。

最愛の一人娘を無残に殺された父親が、少年法によって現在の日本の法律では犯人を極刑に出来ない故に、復讐を誓い、自ら犯人たちを追詰めて行く。

題材としては面白い。現実に少年法の壁で、犯人を死刑に出来ないばかりか、数年経てばまた社会に舞い戻ってくる(未成年者には更正の機会を与えるという大義名分も理解出来ないではないが)現行の司法制度の問題点に怒りを覚える被害者家族は少なくないだろう。そういう点では、こうした社会派テーマに切り込もうとする意欲は買える。

だが、映画として観てみると、せっかくの題材を生かし切れていない。一番の問題は、私が常々指摘している、脚本の弱さである。

(以下、ネタバレになります。未見の方は注意ください)
まず、主人公・長峰(寺尾聰)のキャラクターが全然描けていない。彼はどんな職業に就いて、どのような役職で、どんな性格なのか、娘に対してどのくらい愛情を注いでいるのか…まずは冒頭で、最低このくらいの事は短いエピソードを繋いで描いておくべきである。そうでないと、観客はこの主人公に感情移入出来ない。

そもそもこの主人公は、ほとんど喋らない。人との付き合いもない。感情を露わにする事もない。普通の人間だったら(家族が他にいなかったとしても)友人とか親類とか、誰かとのコミュニケーションがあるだろうに。まるで引き篭もりみたいで、不気味ですらある。
それでいて、最初の、犯人の少年を刺すシーンでは、全然物怖じせずに、まるでスパイ映画の主人公並みの俊敏さである。いったいどんな仕事をやってるのだろう(まさか「96時間」の主人公のような仕事??)。

密告する少年は、どうやって長峰の自宅の電話番号を知ったのだろうか。なんで警察でなく、都合よく復讐を心に秘めている長峰に電話したのか、その辺のプロセスが描かれていないので疑問符だらけとなる(原作ではちゃんと描いているのだが)。

警察の対応も間が抜けている。長峰が信州方面に向かった事が分かっているのなら、ホテル、ペンションに手配写真を配布するなり、検問を強化するなりの事は当然しなければいけないだろうに。
長峰がほとんど素顔でペンションに泊まるのも疑問。通報してくれと言わんばかりである。最低、あの目立つヒゲはきれいに剃り落すべきでは(しかし寺尾聰、どの映画に出ても、いつも同じ不精ヒゲなのはいかがなものか…)。

ペンションの管理人である山谷初男が、いつ長峰の正体を知ったのか、なんで彼に、人を殺す道具である猟銃を渡して手助けするのか、その心理の変化のプロセスも全く描かれていないから、すべてが唐突で、ご都合主義に見えてしまう。

密告少年も、この管理人も、犯人が川崎駅に現れる事を教える刑事の織部(竹野内豊)にしても、こうした協力者が1人でもいなかったら長峰の復讐も成立しなかったはず…というのがいかにも弱い。
―て言うより、この人たち、無理矢理長峰に人殺しをさせる方向に持って行く為だけに登場したような気が…。

 
小説は、登場人物のキャラクターや、その内面や、心の声や、置かれている状況もすべて文章で説明出来る。だから主人公の行動にも読んでいて説得力が生まれる。

だが、映画となると、すべてを映像で説明しなければならない。それに加え、時間も足りないから、原作を端折る事にもなる。
そこを工夫して、物語に説得力を持たせるのが脚本の腕の見せどころとなるのだが、最近のダメな日本映画の脚本は、そこの所がほとんど手抜きである。

冒頭にも書いたが、何気ない日常描写を積み重ねながら、登場人物のキャラクターを丁寧に描写し、細かい伏線を網羅し、それらがラストに向かって一つ一つ、解きほぐすように全貌を現して行く、丁寧な脚本作りが望まれる(その点、韓国映画「母なる証明」は、そうした要素が網羅された、脚本作りのお手本のような、寸分の隙もない見事な出来である)。

ビデオに映る娘の姿を見た時の、寺尾聰の迫真の演技はなかなかのもので、一番の見せ場ではあるが、そこだけしか見どころがないというのも困ったものである。

脚本・監督は新人の益子昌一。まだほとんど実績のないこの人に脚本までまかせたプロデューサーの見識を疑う。監督が新人なら、脚本は錬達のベテランに書かせる等のバランスをとるべきであった。益子監督が悪い訳ではない。適正な人材配置をコントロール出来ない、プロデューサー不在の現行システムに、一番の問題があると私は思う。

…と思ってスタッフを調べてみたら、なんとまあ、「製作」が14人!、「企画」3人、「プロデューサー」3人、「プロデュース」1人…プロデューサーらしき人間が21人!もいる。製作委員会が出来る前の昔は、社長が名前を出してるケースでも、製作・企画としてクレジットされてる人は多くても3人どまりだったし、筆頭プロデューサーは、脚本から現場まで、隅々まで目を光らせていた。人数が増えた分だけ、プロデューサーたる責任の所在がボヤけてしまってるのではないか。

そこそこ観客が集まるからといって、こんな事をしていては、作品の質は低下する一方となるだろう。猛反省を促したい。    (採点=★★

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