「母なる証明」
「殺人の追憶」、「グエムル-漢江の怪物-」と、1作ごとにレベルの高い傑作を生み出して来たポン・ジュノ監督が、またまた傑作を作り上げた。絶対お奨めの見事な秀作である。
静かな田舎町で暮らす母(キム・ヘジャ)と、その息子トジュン(ウォンビン)。トジュンは、やや知恵遅れだが、小鹿のような目を持った純真な青年。ある日、女子高生の惨殺死体が発見され、現場に残された遺留品からトジュンが容疑者として逮捕される。弁護士も頼りにならない。息子の無実を信じる母は、自ら犯人探しに乗り出す事を決意するが…。
脚本が実に見事である。(以下、ややネタバレがありますのでご注意ください)
まず冒頭で、明るく広々とした野原で踊る母の姿が描かれる。なぜ彼女は踊っているのか…その疑問は物語が進む事で明らかになるのだが、この冒頭の掴みで、この母親が、どこかに少し異常な性格を内在しているのではないか、と、ふと観客に思わせもする。それが伏線にもなっているのである。
また物語が始まると、この明るさと対比して、暗い家の奥で黙々と薬草を裁断する母の姿が描かれる。明から暗へ、このコントラストも見事だし、この母親がどこか心に深い闇を抱いているのではないかとも想像させる。…うまい出だしである。
その後の、トジュンがベンツに轢かれそうになり、トジュンと友人のジンテ(チン・グ)がベンツを追ってゴルフ場まで行く、という、一見本筋とは関係ないエピソードにも、実はかなり重要なポイントが含まれている。このシークェンスで、気弱で他人に流され易いトジュン、行動的で面倒見はいいが荒っぽいジンテ、息子の危機に我も忘れてしまう(指を切った事にも気付かない)母親…という登場人物たちのキャラクターを一気に紹介すると共に、トジュンの拾うゴルフボール、池に投げ捨てたゴルフクラブ―等の小道具が後に重要なアイテムになる…といった具合に、実は寸分の無駄もなく、巧みに構成されている事に唸らされる。
バス停で、トジュンが立小便をしている所を、母がじっと見つめている(視線の先は彼の一物だ)シーンも重要だ。トジュンと母の異様な関係も匂わせるし、バスが行った後、母は立小便の跡をそっと隠そうとするが、これも“息子の不始末を無理やり隠そうとする”母の性癖をさりげなく描く事で、後の伏線になっているのである。その他、あちこちに仕掛けられた何でもないようなエピソードが、すべて後半部への伏線になっている辺りも憎いくらいに小気味良い。…まったく、呆れるほどに脚本が秀逸である。
(どこかの、お粗末な脚本でガッカリさせられる最近の日本映画の脚本家は、この映画の爪の垢を煎じて飲むといい)
トジュンが殺人犯人として留置させられた後の、母が自ら犯人探しを進めるうちに、疑わしい人物が浮かんでは又消える、というプロセスも、上質のミステリーを読んでいるかのようにスリリングで澱みがない。
その過程で、少しづつ、母と息子の間の、隠された闇が次第に明らかになって行く辺りも巧妙である。
(以下完全ネタバレに付き隠します)
母は、実はトジュンが5才の時に、農薬を飲ませて心中を図った事実が明らかになる。…この事は母がトジュンに対し、ずっと負い目になっていた事を示している。…何しろ、一度は最愛の息子を殺そうとしたわけなのだから。…その贖罪の為には、息子を守る為には、殺人だろうと何だろうと、母はやりかねないであろうという事を、観客は充分に納得するのである。…これが、冒頭から薄々感じられた、母の狂気の正体なのである。
だから、捜索の結果、遂におぞましい真実…犯人はトジュンだった…にたどり着いた時に、母が取った行動も、衝撃的ではあるが、観客には充分理解出来るのである。…なんと見事な、絶妙に計算され、構築されたシナリオである事か。
ここまででも充分、ミステリーとしても良く出来ているが、さらに最後、もう一度どんでん返しが用意されている。
母が、焼け跡に置き忘れてきたものを、トジュンが母に届ける。「大事なもの、忘れちゃダメじゃないか」…。
それまで、一見、純朴でピュアな心を持っているように見えたトジュンの、本当の正体が浮かび上がる。…トジュンに感情移入していた観客は、ここで打ちのめされてしまうはずである。
なんとまあ、意地悪く人間を見つめる作者であることか。…だが、「殺人の追憶」でもそうした底意地の悪さを見せたポン・ジュノならではである。…そう言えば「グエムル―」でも最後、もう少しで助かるはずの少女を殺してしまったし…。
(ネタバレここまで)
犯人探しミステリーとしてもよく出来ているが、物語を通して浮かび上がるのは、人間という存在そのものの愚かしさ、哀しさである。
真相が分かって見ると、被害者の少女もまた、心に闇を抱えていたわけであり、無論、母も、そしてトジュンも、心の中は闇で充たされていた事が分かる。
そしてラストで、母はバスの中で、踊りの輪の中に入って行く。…冒頭の踊りともリンクしているわけだが、意味合いは大きく異なる。
母は、心におぞましい闇を抱えたまま、それでも生きて行かざるを得ない。息子の為にも…。その決意が、この熱に浮かされたような、ラストの踊りに込められているのである。逆光で、顔が見えなくなっている様が象徴的である。
人間という、か弱くもあり、愚かで、またふてぶてしい、不可思議な生き物の表も裏も照射し、容赦なく生木を剥ぐように描き切った巨匠、ポン・ジュノの、これは最高作ではないかと思う。その鋭い刃の切っ先は、我々自身にも突きつけられているのである。見事な傑作である。必見!。 (採点=★★★★★)
(付記)
原題は、単に“MOTHER”=母 であるのだが、これに「母なる証明」という邦題を付けた配給会社のセンスは素晴らしい。ベスト邦題賞を与えてもいいくらいである。
子供の為には、地獄にだって堕ちる覚悟も厭わない…。それが母親の存在証明である事を、この邦題はズバリ指摘しているのである。いや、人間という存在の証明でもあろう。そういう事まで、映画を観終わって考えさせてくれる。見事な題名である。
この邦題から、「人間の証明」という映画の事もふと思い出した。1977年の角川映画(監督は佐藤純彌)であるが、思えばこの作品もまた、自らのエゴの為に殺人を犯してしまう、一人の母親の心の闇を描いた作品であった。殺したのが[自分の子供]だった、というのがなんとも皮肉な事ではあるが…。
| 固定リンク
コメント
もちろん「殺人の追憶」や「グエムル」も大好きで素晴らしい映画でしたが、「ここまできたのかあ」と思ってしまいました。
デヴィッド・フィンチャー「ベンジャミン・バトン」を観た時と似た感覚です。
投稿: タニプロ | 2009年11月12日 (木) 01:49