(2009年:松竹/監督:松岡 錠司)
予告や宣伝文句を見る限りでは全然触手が湧かなかったのだが、監督が「バタアシ金魚」や「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~」の松岡錠司、脚本が「おくりびと」の小山薫堂、という豪華スタッフ陣につられて観に行ったのだが…
ガッカリどころの話ではない。脚本が酷い!これがあの「おくりびと」で多くの人を感動させた小山薫堂の脚本とは信じられない。別人が書いとしか思えないくらい、ズサンで穴だらけで気合の入っていないシロモノである。
日本版「フランダースの犬」とコピーにあるのだが、これではラストがどうなるか観る前から分かってしまい興醒めである。
では、どういう経緯を経て、雪の日の夜、少年が犬と死んでゆくのか…、そこを無理なく観客に納得させ、素直な涙を流させるよう持って行かないといけないのだが、その辺りにまったく説得力がない。少年の心の変遷も画面からは見えて来ない。ツッ込みどころだらけである。
(以下ネタバレあり。ご注意ください)
難点はいくつもあるが、まず各人物のキャラクターがどれも中途半端。
主人公の貧乏な草太(森本慎太郎)と、会社経営・有馬政光(香川照之)の娘、早代(桑島真里乃)との淡い恋が物語の中心なのだが、“禁じられた恋”と刺激的なタイトルなのに、どう見ても単なる幼な馴染みで、付き合いが子供っぽ過ぎて相思相愛には見えない。
二人で炭焼小屋で隠れて会ってるのに、草太は絵描きに夢中で早代をほったらかし。早代も足を投げ出して寝そべってるだけ。互いの感情が全然読み取れない。
二人が仲良くしてるシーンは、多くの人の目に触れてるはずだが、そもそも男女同権の現代ならともかく、舞台となる昭和11年頃は、「男女七歳にして席を同じうせず」ということわざがあったように、小さな子供でも男女が仲良くするのは厳禁の風潮があったはず。
ましてや、片や貧乏少年と片や金持ちの娘。身分差別も厳しい時代である。
前述の炭焼小屋に、突然政光がやって来るのも唐突。二人が小屋にいるのをどうして知ったのかも疑問だが、この時に、政光の口調が柔らかく諭すようで、あまり激怒しているようにも見えないのも不自然。本来なら草太を殴り飛ばし、折檻してもおかしくはない。
この政光は、時には草太の身元引受人みたいな事までやってるし、クリスマスの日には、草太に早代と会ってもいいような口ぶりも見せる。なんとも掴みどころのない人物だ。キャラクターが中途半端である。
早代の母親・きよ(壇れい)のキャラもヘン。何故か草太を道で待ち構えていて、豪華なご馳走の重箱を渡したり、早代が草太に会いに行こうとすると、「草太にあげなさい」と手織りのマフラーを託けたりするのである。
あまりに物分りが良過ぎるし、手回しも良過ぎる。そこまで草太に構う理由が分からない(ひょっとして、草太の実の母親はこの人なんじゃ?とさえ思ってしまう(笑))。ご馳走を用意するのはいいが、そこを草太たちが通りかかるとなんで知ったのか?マフラーの件も含め、まるでエスパーだ(笑)。
早代の同級の子供たちが、最初は草太を馬鹿にして苛めてたのに、途中から俄然仲良くなり、草太の為にわざわざ山を越えて一緒に絵の具の材料の土を探しに行くのだが、これもどうして彼らの心境が変わったのか、まったく描かれていない。
あの時代、貧乏人に対する差別意識は相当高く、そういう大人の意識が子供たちにも伝播していたはずである(私の子供時代ですら、貧乏な子供はほぼ全児童から苛められていた)。「スタンド・バイ・ミー」を拝借したかったのだろうが、全体の流れや時代の空気とマッチしていない。
草太の実の父・萩尾(浅野忠信)が、サーカスのピエロという事が中盤で分かるが、このキャラクターがまた中途半端。父である事を隠したまま、一緒に“夜空色”の絵の具の元を探しに行ったりするのだが、何で名乗らないのか、何故一緒に暮らそうとしないのかが分からない(サーカスで転々としてるからと見る事も出来るが、貧乏で小学校すら通えない我が子を、通常ほっとけるだろうか)。
そもそも、草太の祖父(中村嘉葎雄)は悪い咳をしてるし、先行きが長くないのは誰が見ても分かる。なら、祖父は草太を誰かに面倒を見てもらう事を考えてないといけないし、父も草太たちを観察してたわけだから祖父の様子は気づくはず。なのにサーカスが去って行く時、父は別れの挨拶すらしていない。祖父が死んだ後の事を、誰も考えてないのだろうか。不自然極まりない。
草太の、雪中での死も不自然。何で祖父の家に帰らない?稼ぎネタの炭も豊富のはずだから、暖を取る事だって出来る。家が焼けて無くなった、とするなら分かるが。
戦前だって児童相談所のようなものはあるだろうし、身寄りが無くなればどこかが引き取るべきである。「困った事があれば相談しなさい」と言う炭屋のおじさんだっているし。政光も、草太の学校設備損壊代金を弁償したり、身元引受までするくらいなら、彼を引き取ればいいだろうに。…とにかく、この状況で草太が死ぬに至る要素は見当たらない。
あれは草太の自殺だ、という解釈もあるようだが、それにしたって、その心境に至る伏線や草太の心の変遷が全然描かれていないのは脚本の不備である。…無理矢理「フランダースの犬」の話に持って行こうとして、前後の辻褄が合わなくなっている。
元々「フランダースの犬」は、“死ねば神に召される”というキリスト教思想が根底にあるから、少年が天国へ行く事を望んでいる、という展開も合理的に納得出来るのである。だが本作では、宗教的な側面はまったく描かれていないから不可解なのである。
だが、この映画で一番問題なのはそんな細かい事よりも、“なぜ現代から過去を回想する必要があるのか”、及び“昭和11~12年を舞台とする意味はどこにあるのか”という2点に尽きる。これが脚本を見る限り、全く配慮されていない。
冒頭で、現代の早代は謎の老紳士から分厚い原稿を渡され、それには草太と早代の物語が書かれている。そこから映画は回想に入るのだが…
普通なら、“そこには、早代が知らない謎が隠されており、ラストで早代は真相を知って号泣する”とかいう風に持って行くのが常道だろう。だけどそこに書かれていたのは、全部早代が知ってる事ばかりで、しかも途中で途切れている。それどころか、謎の男性は「この続きを教えてください」と早代に頼むのには口アングリ。あの原稿は何の価値もなかったわけだ。肩すかしである。
実はこれを書いたのは[ピエロだった草太の父]なんだそうだが、なんで二人の事をこんなに細かく知ってるのだろうか?二人との接点はほとんどないはずである。神でもない限り、知る由もない。
お話はいかにも古くさく、現代とのつながりはほとんど感じられない。何故現代パートを入れたのか、意味が分からない。
早代の孫娘の教訓にしたい、という意図でもあるのかと思ったが、現代の早代の家はわりと裕福そうだし、娘だって生活に困ってなさそうで、仕事が面白くないと不満を言ってるだけである。このキャラクター設定も中途半端。草太の不幸な運命を知った所で、生き方を変えるようにも思えない。そもそも、草太の最期を知っているのはこの祖母の早代だけなのだから、早代がいつでも孫に話せばいいだけであって、結局の所、老紳士(山本學)の登場は何の意味も持たない。
さらに、昭和11~12年という時代背景が、全然描かれていない。昭和11年と言えば2・26事件があった年だし、翌年夏には後の日中全面戦争につながる盧溝橋事件が起きている。若い男性はどんどん徴兵されて中国に送られるなど、日本中が騒然としていた時代である。―なにしろ、昭和12年夏には芸術家たる小津安二郎や山中貞雄にまでも赤紙が届き、中国戦線に出兵させられたくらいである。山中はそのせいで中国で戦病死した。
いくら東北の田舎町だろうと、徴兵はあるはず。無論サーカス団だろうと、住民登録があれば住居地に赤紙は届く。
むしろ、草太の父が、息子を引き取ろうと考えた矢先に赤紙が届き、中国戦線に送られて子供と会えなくなった…とする方が自然だし、戦争が草太を不幸な運命に追いやった、という展開の方が泣けるのではないか。
まあとにかくこの映画は、“貧乏と子供と動物”という3大要素を盛り込めば客が来るだろう、という安易な助平根性が露骨に垣間見える駄作である。まだ昔の低予算プログラム・ピクチャーの方が、監督や脚本家にも職人が揃っていて、観客は素直に感情移入出来た。厳しい言い方だが、本作はそのレベルにも到達していない。
これが、新人監督や、テレビ局のディレクターやテレビドラマ作家が作ったのなら、その程度だと思って怒る気にはならない。
だが、監督はこれまでも秀作を作ってきた松岡錠司であり、脚本は数々の映画賞総ナメの小山薫堂である。レベルの高い仕事ぶりが求められて当然である。
さらに、プロデューサーとして椎井友紀子の名前がある。これまでも阪本順治監督と組んで、「顔」、「KT」、「闇の子供たち」その他の優れた作品を世に送り出して来た名プロデューサーである。
こういうスタッフが揃って、この気の抜けた仕事ぶりはなんだ!。映画には泣けなかったが、その事が情けなくて泣きたくなった。
最近の日本映画の悪い風潮として、脚本家の質がひどく落ちているのだが、そんな中で期待を一身に集めているはずの小山薫堂ですらこの有様では、暗澹とした気持にならざるを得ない。採点は、期待を大きく裏切ったペナルティである。大いに反省して欲しい。 (採点=×)
ランキングに投票ください →
最近のコメント