「おとうと」
「母べえ」に続く、山田洋次監督、吉永小百合・笑福亭鶴瓶主演のトリオによる、市川崑監督の名作「おとうと」(60)にオマージュを捧げたホームドラマの秀作。
東京郊外のとある商店街で小さな薬局を営む吟子(吉永小百合)は、夫を早くに亡くした後、女手一つで一人娘の小春(蒼井優)を育てて来た。ある日、小春の結婚式に吟子の弟・鉄郎(笑福亭鶴瓶)が突然現れ、泥酔して披露宴をメチャクチャにしてしまう。兄から絶縁宣言された鉄郎をそれでもかばう吟子だったが、鉄郎の恋人だと名乗る女が借金返済を求めて吟子の薬局に現れ……。
冒頭、戦後の日本の事件を写したニュース・フィルム等が流れ、吟子を含む日本人が辿って来た歴史を振り返るシーンにちょっと驚いた。山田映画は、“寅さん”に代表される、メルヘン的ハートフル・コメディ路線と、「家族」、「息子」、「母べえ」等の、現代日本の矛盾や、現実の厳しさを描く社会派路線の2大潮流があるのだが、本作はどうやら、寅さん的人物が繰り広げる、人騒がせコメディと見せかけて、実は日本の現実に切り込むドキュメンタルな視線も併せ持つ、一筋縄では行かない新たな方向を見出したようだ。79歳にもなって、さらに進化する山田洋次には感服する。なおこの冒頭の歴史断片の合間にさりげなく、「家族」に登場する大阪万国博風景や、「男はつらいよ」の寅さんの姿を挿入し、ニヤリとさせてもくれる。
賢い姉と、周囲に迷惑をかけまくる愚かな弟、という組み合わせは、明らかに「男はつらいよ」のバリエーションである。市川崑作品へのオマージュを盛り込みつつも、全体としては紛れもなく山田洋次映画になっている。
鉄郎が酔ってしまって、小春の結婚式を台無しにしてしまうシーンは、「男はつらいよ」1作目で、酔ってさくら(倍賞千恵子)の見合いをぶち壊してしまうシーンのリフレインである。結果として、エリートとの見合い結婚よりも、町内に住む職人とのささやかな結婚を選ぶ結末まで、テーマや全体の構成は「男はつらいよ」1作目をほとんど踏襲していると言える。
だが、「男はつらいよ」では、キップの良さや、江戸っ子の粋さで観客の共感を呼んだ寅さんに比べて、鉄郎はあまりに非常識で人間的にダメな男である。その後も、多額の借金で、吟子の意志とは言え、彼女のわずかの蓄えも吐き出させたりで、遂には吟子からも愛想をつかされる。山田洋次の、この男に対する容赦ない厳しい視線にも驚かされる。
それでも、鉄郎が重病を患い、ホスピスに収容されたと知ると、吟子は大阪に駆けつけ、鉄郎の最期を看取る。
この終盤のシークェンスは、二人の手を結んだリボンや、最後に食べさせる鍋焼きうどん等、ほとんど市川崑作品そのままである。
市川作品に感動した人なら泣けるだろう。あの作品にも描かれていた、“絶ち難い肉親の情、家族の絆”が、ここでもストレートに描かれる。
例えどうしようもない人間でも(極論すれば殺人を犯した人間でも)、血を分けた家族の絆は断ち切る事は出来ない。…それが人間の性(さが)である。
縁を切った、としても、誰にも看取られない最期というのはあまりにも可哀想である。“最期を看取る”事は、どんな確執があろうとも、わだかまりを捨てて、人間として行ってあげる神聖な儀式ではないだろうか(だから小春もわざわざ東京から駆けつける)。同じ松竹配給の「おくりびと」にも通じるテーマである。
(以下ややネタバレに付き一部隠します。読みたい方はドラッグ反転してください)
私が特に印象的だったのは、エンディングである。前半では鉄郎に厳しく当って結婚式への招待にも反対し、また吟子からは「姉弟の問題ですからお義母さんには関係ありません」とピシャリと言われていた加藤治子の義母が、ラストではボケが始まっており、鉄郎が死んだ事も知らず、そんな義母が、「可哀相だから鉄郎さんも結婚式に呼んでおやり」と優しく言い、それを聞いた吟子が台所で涙を流すシーン。
無垢の心に戻った時に、初めて人間は、あらゆる憎しみも消えて、他人に限りない愛情を示せるようになるのかも知れない。
人間とは、哀しく、切ない生きものである。このエンディングに込めた作者の思いに、私は落涙した。じっくりかみ締めて欲しい、素敵な名シーンである。…思えば、日本人と、日本の家族のあるべき姿を一貫して描いて来たのが山田洋次であった。
「男はつらいよ」シリーズは、渥美清の死によって未完のまま終了したとも言えるのだが、あるいは山田洋次は、「男はつらいよ」シリーズのファイナル版を作るとしたら、このような結末を構想していたのかも知れない。なにしろ、テレビ版「男はつらいよ」のラストでは、寅さんは奄美大島でハブに噛まれて、相棒の佐藤蛾次郎(本作でもワンシーン出演)に看取られて死んで行くのである。
冒頭の寅さんワンシーン登場だけでなく、終盤における、ホスピスの集会室でも、「男はつらいよ」何作目かのビデオが流されていた(後方の棚にも「男はつらいよ」シリーズのVHSビデオが並んでいる)。
寅さん映画の、幻の最終回、と見れば、この映画は寅さんファンにも捧げられているとも言えるのである。
相変わらずの、丁寧に作りこまれた脚本(山田監督と、助監督の平松恵美子との共作)、人情厚い下町の人たちや、ホスピスに収容された身寄りのない病人たち、それを献身的に診療する医者…等、社会の片隅で生きている名もなき人たちに注ぐ、作者の温かい視線にも涙せざるを得ない。大人が観るべき、珠玉の人間ドラマの秀作である。
私が入った映画館は、平日にもかかわらずほぼ満員。ほとんどが60歳以上の中高年ばかりだった。この世代が本当に観たいのは、こういう映画である事がよく分かる。
それにしても、ここ最近の山田映画は、人間の臨終(前作「母べえ」のラスト)、高齢者のボケ(「たそがれ清兵衛」の草村礼子、「隠し剣 鬼の爪」の倍賞千恵子、本作の加藤治子)等、老いと死に関する切実なテーマを描くケースが増えて来ている…ように感じるのだが。 (採点=★★★★☆)
(さて、お楽しみはココからだ)
この映画が、市川崑監督の同名の映画にオマージュを捧げているのは、エンドロールの字幕でも明らかだが、それ以外にも、他の名匠の傑作へのオマージュがいくつか見られる。
冒頭の、結婚式前夜のシーンで、高野家の誰もいない廊下を、ローアングルで捉えたカットが数秒映し出される。
小津安二郎映画のファンならすぐ気付くだろうが、これは小津映画によく登場するカットである。この他にも、地上30cmくらいにカメラを据えたローアングル・ポジションのカットが何度か登場する。
薬局の裏にある高野家の間取りが、小津映画では馴染みの畳、フスマ、縁側がある、今では少ない純日本家屋であるのも意識しての事だろう。
また終盤では、吟子の部屋のテーブルの上に、赤いケトル(やかん)が置かれているが、この赤いケトルも小津映画にはなくてはならない小道具である。
一人娘の結婚式自体が、小津映画では繰り返し登場するパターンだし、小津の「秋日和」(60)は、主人公は夫を亡くした後も再婚しない未亡人(原節子)で、ラストでは娘が結婚式を挙げる。また脇役として、この家族にそれとなく世話を焼く悪友トリオ(佐分利信、中村伸郎、北竜二)が登場しているが、本作にも、高野家に世話を焼く、昔は吟子に気があったらしい近所の人々(笹野高史、森本レオ)が登場している。
次に、鉄郎初登場のシーンでは、鉄郎は借り物の紋付袴の裾をからげ、扇子を持って式場に駆け込んで来るが、同じように主人公が、借り物でツンツルテンの紋付を着て、扇子を持って小走りに将棋大会会場に駆け込むシーンから始まるのが、伊藤大輔監督、阪東妻三郎主演の名作「王将」(48)である。
鉄郎は坂田三吉の大ファンで、姪に“小春”と名付けたり、結婚式では村田英雄の「王将」を歌っている。「王将」の三吉は借金を重ねて家族に愛想をつかされるし、ラストでは妻の小春が通天閣の見える部屋で息を引き取る。
ちなみに、阪東妻三郎は、山田洋次が愛してやまない「無法松の一生」で主人公を演じた名優でもある。鉄郎の人物像には、「王将」のバンツマ演じる三吉のキャラクターも幾分反映されているのではないか。
ついでに言ってしまうと、「みどりのいえ」における、身寄りのない人や行き倒れた人を収容し、手厚く最期を看取る医者たちの姿は、黒澤明監督の「赤ひげ」(65)を思わせる。「人間の臨終ほど荘厳なものはない」というセリフもあの作品に登場する。
市川崑、小津安二郎、伊藤大輔、黒澤明…昭和20~30年代を代表する名監督ばかりである。「母べえ」で稲垣浩監督の名作「無法松の一生」(43)にオマージュを捧げた(詳細は「母べえ」評参照)山田洋次の事、本作にも市川作品以外にも、いろんな名作へのオマージュが隠し味で盛り込まれていても不思議はない…と思うのだが、いかがだろうか。
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