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2010年2月27日 (土)

「パレード」

Parade 2010年:日本/ショウゲート配給
監督:行定 勲
原作:吉田 修一
脚本:行定 勲

第15回山本周五郎賞を受賞した、吉田修一の同名小説を、「GO」や、先ごろ公開の「今度は愛妻家」等で知られる行定勲監督が映画化。

映画配給会社に勤める直樹(藤原竜也)、売れないイラストレーターの未来(香里奈)、大学生の良介(小出恵介)、無職の琴美(貫地谷しほり)ら4人は、直樹のマンションでルームシェア生活を送っていた。どこか上っ面だけのように見えながらも、バランスの取れた人間関係を保っていた彼らの前に、あるとき男娼を自称する正体不明の男、サトル(林遣都)が現れる。その頃、町では女性連続暴行事件が多発していた…。

「今度は愛妻家」という秀作を発表したばかりの行定勲監督が、立て続けに快作を連打した。ファンとしては喜ばしい事である。

都会でルームシェアをしている…という設定がまず面白い。若い男女ばかりであるのに、彼らの間にセックスや愛情の交歓は不在である(他所ではセックスしてるのだが)。まるで寮生活を送っているかのような、そのくったくの無さは、同じ小出恵介、林遣都が主演した、駅伝を目指す青春ドラマ「風が強く吹いている」を思い起こさせる。

5人の登場人物の、年齢と職業、キャラクターもうまく分散配置されている。
年齢の順に紹介すると、直輝は28歳で、一番まともな職業に就いている(それが映画配給会社というのが微妙だが)し、健康にも異常に気を使い、夜のジョギングを欠かさない。
24歳の未来は“自称イラストレーター”。収入は不安定のようであり、酒癖が悪い。サトルを連れ込んだのも彼女だが、酔っていて全然覚えがない(サトルがどうやって未来と意気投合したのか、実は不明であり、少し不気味ではある)。
23歳の琴美はフリーターで、さらに生活は不安定。テレビに出ている俳優に恋している。
21歳の良介は大学生で、バイトで食っているが、よくサボるし、年上のOLと寝たり、フワフワとしたモラトリアム生活を送っている。

つまりは、同じ部屋で共同生活を送りながらもこの4人は、固いサラリーマンから、定職を持たない根無し草的若者まで、まるで生活基盤も性格も異なり、そうしたいつ崩れるかも知れない不安定さの上に、危ういバランスを保っているのである。

そうした環境の中に、4人の誰とも異なる、異分子としてのサトルが闖入することにより、共同生活に微妙な化学反応が起きる。

サトルは、一番年下であるが、実は社会のダークな部分を一番巧妙に世渡りして来た人物で、一番謎を秘めている。近隣で多発している女性連続暴行事件の犯人ではないかと、4人の同居人たちも、我々観客も疑ってしまう。彼の参入で、平穏で変化のない青春モラトリアム・ドラマが、次第に異様なサスペンス・ドラマの容貌を帯びて来る。

先が読めない、徐々に緊迫感が高まって行く展開の中で、反面、政治家も出入りする、胡散臭い謎の隣人が、緊張の中の息抜きの役割も果たす。まさに緩急自在の行定演出は快調である。

サトルを演じた林遣都がいい。これまでの、健全で明るいスポーツマンのイメージを覆す、翳りのある複雑な人間像を見事に表現している。その他の役者もみんな上手い。
香里奈や貫地谷しほりは、個人的にはこれまで上手いとは思っていなかったが、本作では自然体で作品に溶け込み、見事な存在感を見せる。見直した。

サトルが彼らの生活を評して、「上辺だけの付き合いなんだね」と語るが、映画は、その上辺からは見えない、それぞれの心の闇を次第にあぶりだして行く。未来が、レイプシーンばかりを集めたビデオを所有している事が、サトルの探索によって判明する辺り、まさにその闇の顕在化である。コワい。

(ここから完全ネタバレにつき隠します)
ラスト間際になって、近隣における女性連続暴行事件の犯人が明らかになる。多分彼らの中に犯人がいるだろうとは予測がつくのでそれほどショックは受けないが、一番常識人だと思っていた直輝だったとは意外である。

だが、考えようによっては、ある程度自由気儘で、束縛をあまり受けないフリーターや学生に比べて、会社の歯車として組み込まれているサラリーマンが、実は一番窮屈でストレスが溜まり易い人種である事は高度成長時代から言われていた事である(手垢の付いた言葉だが、“管理社会”というキーワードを思い出す)。

そう考えれば、未来がレイプ・ビデオを所有している理由も納得出来る。彼女も直輝らに次いでストレスが溜まり易い人種なのである。正体をなくす程泥酔するのもその為なのだ。

だが、もっと意外なのは、暴行を目撃したサトルが直輝に、「大丈夫ですよ。どうせみんな知っているでしょうから」と言うくだりだ。

考えれば、直輝は毎晩のようにジョギングと称して夜中に部屋を離れている。女性暴行事件があった日時に、アリバイがないのは誰か、と推理を働かせれば、薄々感づく事なのかも知れない。

未来たちが直輝を見つめながら「直輝も行くんでしょう」と尋ねるのは、“私たちはみんな共犯者なのよ”という意思表明なのだろう。
そして、キャメラがゆっくり引いて行って、映画は終わる。

本来はマンションの主で、彼らのリーダーだったはずの直輝と、サトルも含めたその他の住人との立場がまるで逆転してしまうラストはシニカルだ。見事な幕切れである。 

ネタバレここまで)

人間関係とは何か、人の繋がりとは、そして、人間の心の内に隠された闇を、人はどうコントロールしながら生きて行くのだろうか…。さまざまな事を考えさせてくれる、これは問題作である。

怖いと評判の原作では、5人の登場人物ごとに章を立て、それぞれが1人称で心の内面を語るのだが、映画は同じように章立てながら、客観的に若者たちを観察するかのように描く。
小説と違って、心の中が見えないだけに余計怖い。原作の意図を的確に掌握し、それを映画的に巧みに再構成した脚本(も行定勲)、演出が見事。

今年に入っての、行定勲監督の復活はファンとして嬉しい。この好調を今後も持続してくれる事を望みたい。      (採点=★★★★☆

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2010年2月23日 (火)

「新しい人生のはじめかた」

Atarasiijinsei 2009年 英:パラマウント・ヴィンテージ
監督:ジョエル・ホプキンス
原題:LAST CHANCE HARVEY

NYで暮らす62歳のCM作曲家・ハーヴェイ(ダスティン・ホフマン)は、離婚後疎遠だった娘の結婚式に出席するためロンドンにやってくるが、どこか居心地が悪く、帰国しようとするが、飛行機に乗り遅れてしまう。翌日の飛行機を待つ間、ハーヴェイは婚期を逃して恋に臆病になっている女、ケイト(エマ・トンプソン)と偶然に知り合う。やがて二人は親しくなり、行動を共にするうちに熟年の恋が芽生えて…

最近よく目にする、50歳を越えた男女の恋の物語。脚本、監督は、まだこれが長編2作目だという新進ジョエル・ホプキンス。丁寧に作られた脚本に、落ち着いた演出。特に大きな事件が起きるわけではないが、60歳を越えたって、まだまだ人生はこれから始められる、というテーマが中高年世代には泣かせる、なかなか見応えある佳作。テームズ河畔など、丹念にロケしたロンドンの風物も見どころ。熟年以上の世代の観客にはお奨めである。

 
ダスティン・ホフマンは今年72歳!役柄はそれより10歳も若いが、違和感がない。62歳、と言えば我が国ではまさに団塊の世代。その世代には、特に感慨深いものがあるだろう。

そして何より、ダスティン・ホフマンと娘の結婚式…とくれば、あの名作「卒業」(67)を思い出さずにはいられない。「卒業」と言えばアメリカン・ニューシネマの代表作。この作品で一躍有名になったホフマンは、その後も「真夜中のカーボーイ」「ジョンとメリー」「小さな巨人」と、ニューシネマの傑作群に次々主演、ニューシネマ以後も、「パピヨン」「大統領の陰謀」「クレイマー、クレイマー」「レインマン」等の映画史に残る名作に立て続けに主演、現在に至るまで常に第一線で活躍して来た。

同じようにニューシネマの傑作群で頭角を現した、ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、ジョン・ボイトなどが、ニューシネマ衰退後は精彩を欠いて、助演に回ったり、忘れられた存在になっているのに対し、ホフマンの活躍ぶりは特筆に価する。

ましてや、ハリウッドの映画スターと言えば、背が高くハンサム、が通り相場であるのに対して、背が低く、それほど美男子でもないホフマンである。…そういう意味でも、ホフマンという役者は、ハリウッド映画史の中でも、まさに特異なスターであると言える。

 
さて、そういったホフマン出演作の流れの中に本作を置いてみると、また興味深い傾向も見る事が出来る。

「卒業」のラスト、エレイン(キャサリン・ロス)を教会からかっさらって首尾よくバスに飛び乗り…普通のハリウッド映画なら、笑顔で見つめ合う二人のアップを捉えて映画は終る…はずであるのだが、マイク・ニコルズ監督はここでちょいと意地悪な演出を施している。

バスに乗り込んだ二人を撮るキャメラは、その後もずっと二人の表情を捉えたまま。やがてホフマンの顔に、放心したような、不安な表情が現れて来る。

果たしてその後の二人は、幸福な人生を送れるのだろうか、という事をふと考えさせてくれる。…ハッピー・エンドで終れば、その後の二人の人生についてなど考える余地はなかったそれまでのハリウッド映画とは、明らかに異なるエンディングであった。

その予感は、「卒業」から12年後に現実のものとなる。「クレイマー、クレイマー」(79)では、その頃から社会問題化した、“離婚と子供の養育”というテーマに正面から向き合って、見事アカデミー作品賞を受賞する。ちなみに脚本・監督は、ニューシネマの代表傑作「俺たちに明日はない」の脚本を書いたロバート・ベントンであるという事実も興味深い。この作品もまた、時代と真摯に向き合った秀作である。

これは、言ってみれば「卒業」の、その後の二人…であるとも言える。あの時のホフマンの、先行きの不安を予感させた表情が、ここではしなくも現実のものとなっている、と考える事も出来るのである。

そして本作では、離婚し、妻とも子供とも別れた男が、初老期を迎え、新しい、第二の人生を始めようとする。まさに「クレイマー、クレイマー」の、そのまた後の人生の物語であるとも言える。そのきっかけが、娘の結婚式…映画「卒業」へと、グルッと回って戻ってきたようなものである。それらすべてに、ダスティン・ホフマンがからんでいるというのも、不思議な巡り合わせを感じる。

「卒業」…「クレイマー、クレイマー」…そして本作、を、青春時代から老年期までの、大河の如き人生の一連の大きな流れ、として見比べてみるのも面白いかも知れない。ダスティン・ホフマンの、42年間の年輪を重ねた顔の変遷も見比べながら…。そういう映画の楽しみ方も、また面白い。    (採点=★★★★

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2010年2月13日 (土)

「インビクタス/負けざる者たち」

Invictus (2009年:ワーナー/監督:クリント・イーストウッド)

まもなく80歳!になるクリント・イーストウッド監督による、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ大統領と同国代表ラグビーチームの白人キャプテンが、ワールドカップ制覇へ向け奮闘する姿を描く、感動のドラマ。

昨年、「チェンジリング」「グラン・トリノ」という、各映画賞を独占する秀作を連打したイーストウッド監督、もうトシなんだから一服すればいいのに、休む間もなく、またまた傑作を作り上げた。どこまで走り続けるんだ、このジイさんは。

 

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2010年2月 9日 (火)

「カティンの森」

Katyin(2007年:ポーランド/監督:アンジェイ・ワイダ)

ポーランドの巨匠、アンジェイ・ワイダ監督が、戦後封印されて来た、「カティンの森事件」と呼ばれる、第二次大戦中のソ連兵士によるポーランド軍将校虐殺事件を、事実に基づいて映画化した渾身の作品。

冒頭、ドイツ軍に追われ、大勢の難民が移動しており、その中には、小さな娘、ニカを連れて夫を探すアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)の姿がある…。このシーンで、古い映画ファンなら、ルネ・クレマン監督の名作「禁じられた遊び」を思い起こす人もいるだろう。
大国が起こした戦争で、犠牲となるのはいつも名もなき大衆であり、小さな子供である。
あの作品は、そんな戦争への激しい怒りに満ちた傑作であったが、本作もまた、ポーランドという小国が、第二次世界大戦の只中で、ドイツとソ連両国に踏みにじられて来た歴史への静かな怒りに満ちている。

「カティンの森事件」とは、1943年、ソ連領へ侵攻したナチスドイツ軍によって、カティンで、夥しい数(1万人を超えるとも言われる)のポーランド軍将校の虐殺遺体が発見された事件を指し、その真相は、ソ連軍による大量虐殺であったわけなのだが、終戦後ソ連はその事実を隠蔽し、敗れたドイツ軍に濡れ衣を着せた。何ともやり切れない事件である。これはソ連による、二重三重に卑劣な犯罪である。

物語は、アンナ一家が、ソ連軍に連行されたまま行方が分からなくなった夫、アンジェイ大尉の帰りを待ち続ける姿を中心に、さまざまに、この事件によって心に傷を負った人々や、事件の真相を追い求める人たちの姿を並列して描く。

エピソードが複雑に交錯する上に、ポーランドの歴史を知っていないと要領を得ない所もあって、筋を追うのに多少難儀するかも知れない。

だが、圧巻なのはラスト、アンジェイ大尉が残した手帳が遺族のアンナの元に戻り、そこに書かれた日記を元に事件を再現したシークェンスである。

連行されて来た将校たちが、狭い部屋に連れ込まれ、まるで家畜を屠殺するかの如く、一人づつ後頭部を撃ち抜かれ、流れた血はバケツで洗い流され、死体は外に運び出される。…それらが一連の流れ作業のように、静謐に、淡々と進むだけに余計おぞましい。

いくら戦時中であるとは言え、人間とは何故かくも残忍、冷血になれるのだろうか。

ナチスのホロコースト、南京大虐殺、ベトナム・ソンミ村虐殺…20世紀に起きたこれら大量虐殺事件は、ある程度はもう周知の事実として一般的に認識されている。
だが、この「カティンの森事件」は、こうした戦争犯罪にある程度関心を持っている人でも、あまり知らなかった事実ではないだろうか。

歴史上には、まだまだこのような残酷で非人間的な、悲しい事実が隠されているのかも知れない。

ワイダ監督の父親は、実際にこのカティンの森の虐殺で命を落としており、ワイダ監督は映画作家としてデビューした頃の1950年代半ばにこの事件の存在を知り、自ら映画化を希望していたが、当時のポーランドはまだソ連の衛星国であり、国内ではこの事件を語ることはタブーとされていた。

1990年、冷戦終結に至って、ようやくこの事件の封印が解かれ、真相が明らかになったが、ワイダ監督の映画化の執念が結実するまでに、さらに17年の時を要した。

こうした歴史的事実をふまえてこの映画を観ると、ワイダ監督の事件の映画化に賭けた熱い思いに心を打たれ、映画が終っても、しばらくは万感の思いが胸にこみ上げる。

映画における事件の描写は、残酷で目を背けたくなる。
だが、目をそらすべきではない。我々と同じ、人間が行った、悪魔のような仕業を、しっかりと目に焼き付け、二度とこのような事件を起こしてはならない。…その事を胸に刻むべきである。

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さて、アンジェイ・ワイダ監督と言えば、映画ファンにとっては懐かしい名前である。

Ashanddiamond1 1959年に我が国で公開されたワイダ監督の「灰とダイヤモンド」(57)は、ポーランドにおける、ドイツ降伏直後の混乱期を舞台に、一人の青年・マチェック(ズビグニエフ・チブルスキー)の、テロリストとしての孤独な戦い、そしてラストのパセティックな死に様までを描いた、映画史に残る傑作である。

密かに心を寄せるクリスチナとの短い逢瀬、人を殺す事への葛藤、苦悩等を描いて、これは悲痛な青春映画としての側面も持っており、私も含めて多くの映画青年を感動させ、今や古典的な名作として位置付けられている。…なにしろ、もう50年も前の作品である(私が観たのは20歳代になってからであるが)。

だが、上記のような映画「カティンの森」製作背景を知ると、あの名作「灰とダイヤモンド」が作られた時には、ワイダ監督は、「カティンの森事件」の真実をすでに知っていた事になる。

上記にもあるように、当時からワイダ監督は、カティンの森事件の映画化を望んでいたのだろうが、それが叶わなかった為に、抵抗運動という題材を通して、戦争の非情さ、戦争によって狂わされる人間の運命”を描いたのだろう。よく観直せば、ソ連の息がかかった当時の新政府に対する批判が込められているのが見て取れる。ワイダ監督としては精一杯の抵抗だったのだろう。

自分の父が理不尽にも殺されたカティンの森事件…ワイダ監督はこの真実を描くために、数多くの映画を撮りながら、50年待ち続けたのかも知れない。そのワイダ監督、今年83歳!まさに執念の映画化である。
そういう意味では、本作はまさにワイダ監督でなければ成し得ない、ワイダ監督によって作られるべき映画なのである。

 
そう思って本作を観ると、「灰とダイヤモンド」と本作との繋がりを思わせるシーンが1箇所ある。

「灰とダイヤモンド」の中で、マチェックがクリスチナと、教会の廃墟で逢うシーンがある。

Ashanddiamond2 このシーンで、キリスト像が逆さにぶら下がっている印象的なシーン(右)があるが、
映画「カティンの森」でも、冒頭の方で、アンジェイ大尉を探してアンナたちが教会にたどり着き、そこで愛する人の上着を見つけるのだが、その中には、キリスト像がくるまれている。

あのシーンには、どういう意味があるのか、映画を観た後でもしばらくは判らなかったが、「灰とダイヤモンド」について調べていた時、あのキリスト像のシーンを思い出して納得した。両作は、イコンとしてのキリスト像を通して繋がっているのである。…思えば、イエス・キリストもまた、当時の権力者によって目をそむけたくなるような残虐な方法で殺されている(メル・ギブソン監督「パッション」が思い浮かぶ)。

50年という時を超えた、ワイダ監督の、あの戦争への思いの深さに心打たれる。心して観るべき秀作である。     (採点=★★★★☆

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(付記)

対ナチ・レジスタンスとテロリズム、という共通項で、デンマーク映画「誰がため」は、「灰とダイヤモンド」に似た構造の作品だと言える。見比べてみるのも面白いだろう。

で、大阪では、偶然にも「誰がため」「カティンの森」同じ日(1月9日)に封切られている。これも不思議な縁である。

 

VHS「灰とダイヤモンド」
DVDは出ていないみたい。リリース希望。

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2010年2月 3日 (水)

「おとうと」

Otouto (2009年:松竹/監督:山田 洋次)

「母べえ」に続く、山田洋次監督、吉永小百合・笑福亭鶴瓶主演のトリオによる、市川崑監督の名作「おとうと」(60)にオマージュを捧げたホームドラマの秀作。

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