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2010年4月30日 (金)

「月に囚われた男」

Moon 2009年・英:ソニー・ピクチャーズ配給
原題:MOON
原案・監督:ダンカン・ジョーンズ
脚本:ネイサン・パーカー

カリスマ・ロック歌手デヴィッド・ボウイの息子で、CMクリエイターとして実績を重ねて来たダンカン・ジョーンズの長編映画デビュー作。本作でいきなり英国アカデミー賞作品賞にノミネートされ、最優秀新人賞を受賞した他、数多くの新人監督賞を受賞した話題作。

近未来、宇宙飛行士であるサム・ベル(サム・ロックウェル)は地球最大の燃料会社ルナ産業との3年契約により、単身月に派遣され、エネルギー源ヘリウム3を採掘して地球へ送る作業に従事していた。地球には妻と3歳が彼の帰りを待っている。その契約もあと2週間で終わりという日、サムは作業中に事故を起こしてしまう。基地内の診療室で目覚めた後、彼は誰もいないはずの基地内に、もう一人の自分がいる事に気付く…。

…というストーリーを聞いて、私は何やらとても知的好奇心をくすぐられた。誰もいない宇宙空間で、たった一人で3年も暮らすなんて、私にはとても耐えられない。発狂するかも知れない。

主人公サムは、ひょっとしたら本当に神経がおかしくなって、幻影を見たのかも知れない(現に、直前に別の人間を幻視している)。
あるいは、ドッペルゲンガーが登場したのかも知れない。だとすると、とても哲学的な作品になる可能性すら秘めている。

“私”とは何なのか。客観的な目で、自分という存在を見つめ直す事から、彼は新たな自己を発見する事が出来るのか。―あるいは、広大かつ無限の宇宙全体から見れば、人間とはいかなる存在であるのか…いくらでも、考える余地はあるだろう。
そういう、あれこれを考えさせてくれるだけでも、この映画が作られた値打ちは十分にある。

 
(以下ネタバレあり。注意)

やがて真相が明らかになると、哲学とはあまり関係がなく、要するに企業の自分勝手な都合が原因だったという話になる。

簡単に言えば、サムのクローン人間を多数作って、スペアとして保存していたという事である。

人間を派遣すれば、特殊勤務だから報酬も多額になる。しかも、もしそいつが事故で動けなくなったら、代わりの人間がすぐに見つかる保証はなく、採掘作業に大きな支障が生じてしまう。死んだら補償額も莫大なものになる。また3年ごとの往復の渡航費用もバカにならない

そういったリスクを考慮したら、またコスト削減を考えたら、企業論理としては、“人間を派遣するのでなく、クローンを多数置いといて3年ごとに次々交換して行けば、人件費は払わなくて済むし、途中で事故れば、そいつは死なせてすぐに次のクローンを働かせれば、作業に穴が開く事もないし無駄がない”という結論になるのも当然だろう。

その為に、クローンは3年で寿命が尽きるように作られている。元からいたサムが血を吐き、次第に衰弱して行くのはそれが原因である。恐らくその方が、クローン製造コストが安くつくのだろう。

それまでは、基地の長距離通信機が壊れていて、地球との交信はできないと聞いていたのだが、それに疑いを抱いたクローンのサムが通信機を見つけ、地球の家族と連絡を取ると、娘はすっかり大人になっていて、しかも父親は傍にいるという(多分、本物のサムなのだろう)。

つまりは、クローン人間の記憶も、過去にクローンの製造時に、人為的に植えつけられたものなのである。娘の年齢経過からして、恐らくはクローンたちは15年ほど前に一斉に量産され、その当時の、本物のサムの記憶を移植されたのだろう。悲しい事にクローンたちは3年ごとに、当初の記憶をリセットしては、目覚めを繰り返して来たのである。通信機が故障しているというのは、その事がバレない為の細工である。

…なんとも冷酷な企業論理だと言えよう。テーマは、利潤追求を最優先する巨大企業のエゴへの批判がメインとなる。…哲学テーマを期待したのに、えらく分かり易い話になってちょいと拍子抜けではある。

しかし、それでもこの映画は面白い。一時的にせよ、いろいろと知的好奇心をくすぐられ、人間という存在について考えされてくれたからである。

またいずれにせよ、文明批判、人間のエゴ批判という、いかにもイギリス的な辛辣な風刺が効いている。

二人のクローン・サムが、最初は相手を互いに自分のニセ物と思い、疑心暗鬼に陥ったり、いがみ合ったりするが、やがて真相を知り、次第に協力し合い、互いを思いやる心すら芽生えてくる。

死んで行く第1のサムを、第2のサムが優しく看取るシーンは感動的ですらある。“自分自身を見つめ直す”という当初のテーマは、しっかりと生きているのである。

 
製作費はわずか500万ドル(低予算と言われた「第9地区」のさらに6分の1である)だそうで、SFXは確かにあまり金はかかってはいない。CGもほとんど使われておらず、レトロな味わいすらある(ただ、二人のサムが交錯するシーンは、CGを使ってるのだろうが違和感がなく見事なSFXである)。

また隠し味として、'70年代以前に作られていた、クラシックなSF映画へのオマージュも感じられる。
宇宙空間で孤独と向き合う人間の幻視や哲学的テーマは、A・タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」を思わせるし、たった一人で黙々と作業する姿は、ダグラス・トランブル監督の「サイレント・ランニング」の影響を感じさせる。短い命の人造人間の運命は「ブレードナンナー」だろう。人間性を無視した組織への反逆と脱出は、これも低予算のジョージ・ルーカスの出世作「THX1138」を思わせる。
そして全体的には、キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」へのオマージュが濃厚だ。人工知能ガーティ(声はケヴィン・スペイシー!)はHALを思わせるし、哲学性なテーマも共通するし、あの作品のラストには、もう一人の自分と遭遇するシーンもある。白っぽい月面の描写も心なしか似てるように思える。

 
最近のSF映画は、CGを多用したビジュアルや、アクションを満載した、派手で見世物的な作品が幅を利かせているが、本作のような、地味だが考えさせてくれるSF映画もあっていいと思うし、映画史的にも、そのようなSF映画がいくつか作られて来て、SFというジャンルの、幅の広さ、奥行きの深さを見せ付けて来たし、SF映画の発展にも寄与して来たのではないかと思う。
例えば、ドン・シーゲル監督の「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」などは低予算でSFXもほとんど使われていないが、“最も知的なSF映画”として高く評価されている。また、フランソワ・トリュフォー監督がイギリスで撮った「華氏451」も、優れた文明批評SF映画としてファンは多い。

本作も、まぎれもなく、そうした低予算・知的SF映画の1本として、記憶に残る作品だと言えよう。やや理屈に合わない所も確かにあるが、奥深いテーマと、メッセージ性を強調した為にやや細部に破綻をきたしたとも言える。その程度は、作品の性質からは私は目を瞑ってあげたいと思う。

父親の威光に頼らず、強い作家性を打ち出した作品を完成させた、ダンカン・ジョーンズ監督の今後が楽しみである。期待して見守りたい。   (採点=★★★★

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2010年4月24日 (土)

「第9地区」

District9 2009年・米:ワーナー/ギャガ配給
原題:District 9
監督:ニール・ブロムカンプ
脚本:ニール・ブロムカンプ/テリー・タッチェル
製作:ピーター・ジャクソン

昨年度の、雑誌「映画秘宝」のベストテンにランクインしていたので、気になっていた作品。「少林サッカー」を始めとして、翌年公開予定作品で、ここのベストテンに早々と入選した作品には掘り出し物が多いので、いつもチェックしているのだが、今回も大当たりだった。
これは本年屈指の、特にSF映画ファンなら必見の秀作である。

南アフリカ・ヨハネスブルグ上空に巨大UFOが出現して28年。地球に難民としてやって来たエイリアンたちは、スラムのような「第9地区」に居住させられていたが、地球人とのトラブルに手を焼いた南ア政府は、超国家機関・MNUを使ってエイリアンたちを別地区に移住させようとする。その責任者に選ばれたMNUエージェントのヴィカス(シャルト・コプリー)は、あるエイリアンの小屋で、奇妙な液体を浴びてしまい、その時から彼の身体は次第に変異を起こし始めてしまう…。

エイリアンものと言えば、古典的な侵略ものか、友好的なもののどちらかが大半で、本作のような、終始一貫しての“難民もの”というのは珍しい(東宝「地球防衛軍」('58)のように、住む星を失った宇宙人が登場するものも、基本的には侵略ものである)。

また本作には、新しい発想のさまざまなギミックが用意され、それらを観るだけでも充分面白い。
例えば、手持ちカメラを多用した、ドキュメンタルな映像である。ピーター・ジャクソン率いるWETA・ワークショップがVFXを担当していることもあり、始終揺れるフレームの中で、リアルな質感で描かれるUFOやエイリアンは、実在するそれらをハンディ・カメラで取材したのではと思えるほど迫真性がある。
しかもそれらの映像の多くが、ニュース報道番組や、街頭のモニター・カメラの映像として登場する。従って余計リアリティが感じられる。うまい着想である。

さらに、舞台がアパルトヘイト(人種隔離政策)で悪名高い南アフリカである。上空から映し出されるエイリアン居住区は、みすぼらしいスラム街そのものである。エイリアンたちも、差別され迫害されて来た黒人さながらに貧しく、過酷な生活を送っている。
エイリアンたちを別地区に移住させる…という事は、即ち“隔離”を意味する。国家機関(MNU)の実行する作戦は、そのままアパルトヘイトの暗喩に他ならない。人類がエイリアンたちを、シュリンプ(エビ)と呼ぶのも、他国から移住して来た(あるいは強制連行されて来た)黒人や朝鮮人や中国人を差別し、特定の蔑称で呼んで来た過去の歴史を嫌でも思い起こさせる。彼らは、そうした移民外国人の暗喩でもあるのだろう(移住した外国人を昔、我が国政府は“エイリアン”と呼んでいた時代があった事を思い出す)。

立ち退き承諾のサインをもらおうと、ヴィカスたちがエイリアンと交渉するくだりは、お役所仕事そのまんまでなんともおかしい。

こうした、痛烈な皮肉やユルいギャグが巧みに網羅されている一方で、抵抗するエイリアンたちを容赦なく痛めつけたり射殺したり、エイリアンの卵の巣を火炎放射器で焼き尽くすといった、ハードかつ残酷な描写もある。それらがドキュメンタルなニュース画像で描かれるだけに、余計生々しい。

だが、ヴィカスが、恐らくは怪我した左手からエイリアンのDNAが体内に入った為に、次第に身体に変異を生じる辺りから、映画は、元の身体に戻ろうと苦闘するヴィカスと、クリストファーと呼ばれるエイリアンとその子供との、奇妙な共闘と連携の物語が芯となって行く。

ヴィカスが浴びた液体の入った筒は、実はエイリアンのスペースシップを起動させる燃料が入っており、それを取り戻したいクリストファーは、協力すれば元の身体に戻してやるとヴィカスに約束する。

それまで、エビと呼んで他の人間たちと同様、エイリアンを差別して来たヴィカスは、クリストファーに協力するうちに、次第に彼との間に友情のようなものが生まれて来る。

ヴィカスと共にMNUの研究所に侵入したクリストファーは、研究所内で、生体実験にされていた仲間のエイリアンを発見し、愕然とし、しばし立ちすくんでしまう。その姿を見て、ヴィカスの心は痛む。

こうした描写を積み重ねる事によって、映画は、“いったい、野蛮で、自分勝手なエゴイストはどっちなのだ”という痛烈なメッセージを我々に突きつけるのである。

映画の出だしで、グロテスクな風貌のエイリアンに最初は嫌悪感を抱いていた我々観客は、やがてヴィカスに感情移入し、さらに次の段階で心情がクリストファーらエイリアンに移って行き、最後はクリストファーたちが人類の妨害を撥ね退け、無事宇宙船に戻り、旅立つ事を祈る気持すら生まれて来る。

冒頭と最後で、地球人とエイリアンそれぞれに寄せる心情がこれほど180度逆転してしまう映画は初めてではないだろうか。

この映画のユニークな点はそこにある。

人間とは、自分勝手で、自分を中心にしか物事を見ないから、差別や虐殺等を歴史の上で産み出して来たし、反面、目の前にある情報に簡単に扇動(あるいは洗脳)されてしまう弱さも一面で持っている。

これはそうした人類の愚かさを、呵責なきまでに皮肉った、痛烈な文明批判、人類批判映画なのである。
それを、“ニュース・ドキュメンタリー手法で描く宇宙人SF映画”という、ジャンル・クロスオーバー的な、しかしあくまでエンタティンメントの枠組みの中で作り上げたところに、この映画のユニークさがある。

また、随所に、映画史に記憶に残るSF映画へのオマージュを仕込んである所も楽しい。

上空に停止する巨大なUFOは無論「インデペンデンス・デイ」だし、ヴィカスの変身は、デヴィッド・クローネンバーグ監督の「ザ・フライ」を思わせるが、左手がまるで爬虫類か虫のように黒く不気味に変形している様は、「ザ・フライ」のオリジナルである古典SF「蝿男の恐怖」(1958)へのオマージュではないかと思う。ヴィカスが中に入って操縦するロボットは、わが「ガンダム」「機動警察パトレイバー」か。

The_fly  
これが長編第1作となる監督のニール・ブロムカンプは、'79年南アフリカ共和国生れの若干30歳。18歳でカナダに移住し、CMや短編映画を数多く撮って来たが、26歳の時作った「Alive in Jo'burg」という、僅か6分半の短編SF映画がピーター・ジャクソンに認められ、ジャクソンが資金面のバックアップを行い、3,000万ドルという、VFX満載のSF映画にしては低予算作品ながら(「アバター」の約8分の1だ(笑))、興行成績では全米初登場第1位となり、最終的に米国内だけで1億5,600万ドルを稼ぐ大ヒットとなった他、先頃のアカデミー賞でも作品賞にノミネートされるなど、大反響を巻き起こした。

才能を認めた製作者のバックアップによる、その幸運なサクセス・ストーリーといい、まったく新しいSF映画の誕生といい、彼こそはまさに、ジョージ・ルーカス、スティーヴン・スピルバーグ以来の超大物新人ではないだろうか。今後の活躍を大いに期待したい。     (採点=★★★★☆

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2010年4月18日 (日)

「誘拐ラプソディー」

Yuukairapsody 2009年・日本/角川映画
監督:榊 英雄
原作:荻原 浩
脚色:黒沢 久子

荻原浩の同名小説を、北村龍平監督作品(「VERSUS」等)の常連役者で知られ、最近では監督業にも進出した榊英雄が監督した、人情コメディの佳作。

前科者で借金苦で、仕事も何もかもうまく行かず、自殺にも失敗した中年ダメ男、伊達秀吉(高橋克典)。ところが、乗って来た勤務先の車(デカデカと社名が書かれている)に、家出した6歳の少年・篠宮伝助(林遼威)が忍び込んでいた。伝助が大きな邸宅に住んでいる事を知った秀吉は、伝助の身代金を篠宮家に要求する計画を思いつき、実行に移すが、伝助の父は、なんと暴力団篠宮組の会長だった…。

 
着想が面白い。“誘拐した子供の父親が、ヤクザの親分だったら”というのが基本構想で、相手は警察よりもやっかいだ。カネを返したところで見逃してくれそうもない。さて、結末はどうなるか、ワクワクさせられる。

また、子供の方は家出して、家に帰りたがらず、自分から秀吉にくっついて来る。しかも結構こまっしゃくれていて、頼りない秀吉の方が伝助に振り回されたり、時には伝助が秀吉の危機を救う場合すらあったりする。
(誘拐された方が、誘拐した方を逆にリードする、という展開は、岡本喜八監督の秀作「大誘拐」を思い起こさせる)

この2つの要素が巧みに撚り合わされ、結果としてウエルメイドな楽しいコメディに仕上がっている。脚本(黒沢久子)がいい。

(以下多少ネタバレあり)
刑務所仲間のシゲさん(笹野高史)が、秀吉の妄想の中に現れ、誘拐を成功させる為の鉄則を伝授する辺りも、ユーモラスなアクセントになっている。

身代金受け渡し方法は、黒澤明監督の「天国と地獄」へのオマージュになってるのも楽しい。いろいろ言う人もいるが、身代金を安全に受け取る方法としては、古典的だけれどもこれが一番利にかなっている。このアイデアを編み出したクロサワはやっぱり偉大である。

 
だが、この映画の面白さは、生きる希望を無くしたダメ中年男と、父親からの愛情が希薄だった少年という、(家庭環境は正反対だが)それぞれに人生の歩み方を見失いかけている二人の男が、誘拐という冒険ゲームを通じて、お互いからさまざまの事を学び、絆を深め、成長して行く人間ドラマになっている点である。

秀吉は、どんな絶望的な状況になっても、パートナーと助け合い、必死で頑張れば、人生は決して悪いもんじゃない事を学び、伝助は、裕福な篠宮家の中では決して体験できなかった、素敵な冒険の日々を過ごし、貴重な人生経験を体得するのである。

ツレションも、キャッチボールも、野宿も、そして空地で夜空の星を眺め、美しいと感じる事も、これまでは誰も教えてくれなかった事だ。

秀吉が、最初は「家へ帰れ」と言って邪魔に思っていた少年と一緒に行動するうちに、次第に情が移り、友情が深まり、やがて二人は実の親子のように離れられなくなる…という展開は、チャップリンの代表作「キッド」以来のよくあるパターンだが、それでもホロリとさせられる。

寝ている伝助を、車からそっと降ろし、立ち去ろうとするけれど、グズグズしているうちに気付かれて失敗する、というくだりも「キッド」を思わせる。

実はシゲさんの誘拐の鉄則には、[顔を覚えられた子供は始末しろ]というのがあるのだが、伝助に情が移った秀吉はどうしてもそれは出来ない。
前科者とは言え、秀吉は本質は善人なのである。

 
そして感動的なのが、ラスト間際、伝助と池端で遊んでいる時に、子供の身を案じた伝助の母(YOU)から電話がかかって来るシークェンス。

ディスプレイには「ママ」と表示されているから、母親からの電話である事は分かっている。

すぐに電話を切り、電源をオフにすれば逃げおおせたかも知れないのに、秀吉はあえてその電話に出て、長々と対話する。…つまりこの時点で、秀吉は無意識にせよ、逃げ回る事を止めたのかも知れない。
(その直前に、デジカメ写真を撮ってと伝助に頼まれ、切っていた携帯の電源をオンにしていた事が、巧みな伏線になっているのもうまい)

塾の講師のふりをして話をする母親に、秀吉は、子供が無事で、たくましくなった事を告げる。まるで実の父親のように…。「ツレションが出来るようになったんですよ」と伝える秀吉の言葉は感動的である。―この辺りから、私の涙腺は緩み放しである。

案の定、GPSで逆探知され、ヤクザ一味がやって来て秀吉は捕まってしまい、危うく始末される所を、伝助の機転で助かる。それまではほとんど活躍の場がなかった黒崎刑事(船越英一郎)が、ここでうまく場をさらう辺りも秀逸。

そして、秀吉と伝助の別れがやって来る。このシークェンスでは、もう涙が溢れて止まらなくなった。まさかこんなお話で、泣かされるとは思わなかった。

「男の約束」というキーワードが、うまく活用されている。時間をたっぷり与えて、二人の別れの場をセットしてやる黒崎刑事も、結構人情家であるようだ。

伝助が意外に格闘技に強い所など、ご都合主義的展開もなきにしもあらずだが、これはファンタジー・コメディであると割り切れば問題ない。

出演者も、それぞれ役柄にうまくはまっていて、安心して見ていられる。伝助の父親でヤクザの会長が哀川翔、その一の配下の組長がコワモテの菅田俊。これ以上のハマリ役はないだろう。伝助の母親役のYOUも、あまり前面には出て来ないが、ラストの泣かせどころで存在感を見せる。伝助を演じた林遼威が、大人と対等に渡り合う達者な演技を見せる。刑事役の船越英一郎は儲け役。

難点を1点だけ。伝助に「おばあちゃんの所へ連れて行ってあげる」と約束したのに、いつの間にか忘れられてしまっている。「約束は守るのが男だ」というのが重要なキーワードだけに、なんとか連れて行ってあげて欲しかった。
このおばあちゃんが、父親も頭の上がらないゴッドマザーで、秀吉を気に入ったおばあちゃんが「この人に手を出したら承知しないよ!」と息子を一喝し、秀吉が助かる…という展開だったらなお小気味良かったのに。配役は、草笛光子さん辺りが適役ではないか。

 
決して秀作ではないが、笑わせて、ハラハラさせられ、最後は泣ける、B級テイストのプログラム・ピクチャーとしては及第点である。

映画全盛期には、このような、安心して楽しめるB級ピクチャーが2本立てで無数に量産されていた。玉石混交で、駄作も多かったが、数多い作品の中には意外な掘り出し物も結構あった。

こうしたウエルメイドなB級映画は、もっと作られていいのではないか。そうした作品で経験を積み上げ、やがて一流監督に成長して行く人材も、そんな中から生まれて来るのではないか。

それにしても、製作トラブルがあったとは言え(薬物死亡事件で重要な役の俳優が逮捕された)、さして宣伝もされず、小規模でひっそり公開されたのは残念(私が観たのは朝11時の回だけの上映。新聞の映画案内にすら掲載されていなかった)。こういう小品佳作は、もっと大事にして欲しいと思う。

ともあれ、榊英雄監督には、次回作にも期待しておこう。   (採点=★★★★

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2010年4月11日 (日)

「息もできない」

Breathless 2008年・韓国/ビターズ・エンド、スターサンズ配給
原題:똥파리/英題:Breathless
脚本・監督:ヤン・イクチュン

新しい人材が続々登場している韓国映画界から、またしても凄い映画がやって来た。
ヤン・イクチュンという、インディーズ映画界ではそこそこ知られた男が、製作・脚本・監督・主演・編集まで一人でこなした、長編映画監督デビュー作。本作で、世界中にセンセーションを巻き起こし、東京フィルメックスで最優秀作品賞と観客賞の2冠に輝いた他、国際映画祭・映画賞で25もの賞を受賞したという。いろんな批評でもかなり評判がいい。これは観ずばなるまい。
大阪では4月10日封切。で、早速初日に観てきた。

これは本当に凄い。傑作だ。今の所、今年のマイ・ベストワンである。

 
まず、出だしがいい。夜の街で一人の女性を殴り続ける男を、主人公のサンフン(ヤン・イクチュン)が叩きのめす。が、その直後、助けた女にも殴りかかり、「なんで殴り返さないんだ!」と怒鳴りつける。

たったこれだけのシークェンスで、観客は一度に次のような事を知る。
①まず、主人公は相当に粗暴で、すぐに暴力を実行する男である。
②ただ、弱いものに暴力を振るう奴には激しい怒りを覚え、弱い人間を助ける義侠心は持ち合わせている。
③ただし、理不尽な暴力に反抗しない人間も、許せない、という屈折した心を持っている、少し変わった男である。

最近の韓国映画は、「母なる証明」でも顕著だが、冒頭の短いツカミのエピソードで、主人公の性格から、映画の方向まで簡潔に伝える脚本作りが実にうまい。日本映画は見習うべきである。

本作も、この冒頭のエピソードで、主人公のキャラクターを鮮明に打ち出すと同時に、彼の人間形成に及ぼしたであろう辛い過去をも想起させ、また、最後に示されるであろう彼の運命まで予想させる。秀逸なイントロである。

(以下、ややネタバレ注意)
実際その通り、サンフンは子供時代、父親に母と妹を殺されている。その父親の暴力に幼いサンフンは抵抗出来ず、見かねて止めに行った妹はその為父に刺し殺されてしまった。
“あの時、自分が父に立ち向かっておれば…” その悔悟がトラウマとなって、サンフンは暴力を憎みつつも、自分もまた暴力を振るう事でしか、自分の存在を主張出来ない男となったのである。

借金の取立を生業とする事務所の仲間も殴りつけ、社長だろうと誰だろうと、何かと言うと、「クソ野郎」という汚い言葉を投げる。

粗暴な男だが、どこかに優しさも内在している。だがその思いをうまく伝えられない、不器用な男なのである。

そんな彼が、偶然一人の女子高生、ヨニ(キム・コッピ)と知り合う。サンフンに臆する事なく突っ張り返すヨニを、サンフンは殴り倒すが、彼女が目覚めるまで傍にいるという、変わった優しさも持ち合わせている。

ヨニもまた、粗暴な弟ヨンジェ(イ・ファン)と、ベトナム戦争帰りで精神を病んだ父との家庭生活で心が荒んでいる。
互いに似た境遇の二人は、これをきっかけに、やがて心を通わせて行く。このくだりもうまい。

仲間はずれにされている甥っ子の面倒を何かと見たり、仲良くなった甥の仲間たちと無邪気に遊ぶシーンも、サンフンの心優しい一面を伝えて心和む。

カメラもまた、手持ちで始終揺れ続け、荒々しく躍動する。

サンフンの、父親への屈折した思いの表現も秀逸である。父を憎み、「殺してやる」と言いながら、その父が自殺を図った事を知ると、病院に担ぎ込み「俺の血を全部抜いて輸血しろ」と叫ぶ。…血の絆は、憎んでも断ち切れないのである。

その後、漢江の川べりにヨニを呼び出し、彼女の膝を枕に慟哭するシーンには涙が溢れた。この美しいシーンは、長く映画ファンの心に残り続けるかも知れない。
サンフンは、本当は、優しく、傷つき易い男なのである。…人間とは、そんな悲しい生き物なのである。

ヨニと触れ合う事で、サンフンは少しずつ人間的に成長し、暴力世界から足を洗おうとするが、ラストには悲劇が待ち受けている。
(以下ネタバレ)
皮肉にも、サンフンから、暴力で生きる道を教えられたヨンジェに彼が報復されるとは。ラストで、冒頭のサンフンと同じように、強制立ち退き作業に従事するヨンジェの姿を捕らえて映画は終る
暴力にしか生きる道を見いだせない男がまた一人、サンフンを継承するかのように誕生する、このラストはシニカルで、かつ悲しい。

 
こういう映画を以前に観たことがあるな、と考えていたら、思い至った。

深作欣二監督の代表作、「人斬り与太/狂犬三兄弟」(1972・東映)である。
主人公(菅原文太)は徹底して凶暴で、親分だろうと組の仲間だろうとお構いなく逆らい、暴力を振るう。拾った女(渚まゆみ)は無理矢理強姦する。とんでもない男である。
だが、女はそんな文太を愛するようになる。文太も、いつしか女に心を寄せるようになるが、最後は凄惨な死を迎える。
彼もまた、暴力でしか己を表現出来ない男なのである。
無論、カメラは手持ちで、激しく揺れる(尤も、深作監督の代表的なアクション映画はほとんどそうなのだが)。

その深作が、本来は監督する予定だった、北野武の監督デビュー作、「その男、凶暴につき」(89)からの影響も、本作は受けていると思える。
冒頭の、夜のホームレス暴行事件と、その犯人の高校生を徹底的に痛めつける主人公(ビートたけし)というツカミ部分もよく似ている。
この主人公も徹底して暴力的である。同僚だろうと上司だろうと、キレると無茶苦茶暴れまくる。…だが、精神を病んだ妹にはとことん優しい面も見せる。

暴力的な主人公+「狂犬三兄弟」の凶暴性の中の純愛+「その男―」の歪な家族の絆…というDNAが、本作に受け継がれているように私には思えるのだが、どうだろうか。
本作の暴力描写に抵抗を感じる方もいるようだが、深作の「狂犬三兄弟」に比べたらまだ優しい(笑)。

 
自宅を抵当に入れてまで、この作品の完成に執念を燃やした、ヤン・イクチュン監督の思いがほとばしる、これは本年屈指の傑作である。必見。    (採点=★★★★★

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(付記1)
本作の英題は“Breathless”。邦題はほぼそのままだが、これはジャン・リュック・ゴダール監督のフランス・ヌーベル・バーグの代表作「勝手にしやがれ」の原題でもある。手持ちカメラ、刹那的に生きる男の不器用な恋愛、悲劇的な結末…と、共通する要素も多い。ちなみに、ヨニがサンフンに対して、「勝手にすれば!」とつぶやくシーンも要チェック。

(付記2)
小説の方で似た作品を探せば、花村萬月の一連のハードボイルド作品、中でも「笑う山崎」が、女をいきなり殴るシーンから始まる、暴力的な男が主人公である点がよく似ている。その暴力描写のエグさには辟易するが、それにもかかわらず全編を貫く“凶暴性の裏に隠された一途な愛の姿”に感動を覚える秀作である。

 

DVD「人斬り与太・狂犬三兄弟」

DVD「その男、凶暴につき」

小説・花村萬月「笑う山崎」

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