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2010年5月30日 (日)

「パーマネント野ばら」

Permanentnobara_22010年・日本:ショウゲート配給
監督:吉田 大八
原作:西原 理恵子
脚本:奥寺 佐渡子

西原理恵子の人気コミックを、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」「クヒオ大佐」の吉田大八監督が映画化。主演は北野武監督作「Dolls(ドールズ)」以来、8年ぶりとなる菅野美穂。

高知県の小さな港町。離婚の末に一人娘を連れて故郷に出戻ったなおこ(菅野美穂)。彼女の母・まさ子(夏木マリ)が経営する美容室「パーマネント野ばら」に集まる女性たちの悲喜こもごもの恋愛模様をバックグラウンドに、物語はなおこの新しい恋の行方を追って行く…。

この所、西原理恵子原作ものの映画化が続いている。「いけちゃんとぼく」「女の子ものがたり」。片やせつないファンタジー、片や女の子3人の友情の物語。…で、本作はそれぞれの要素が巧みにブレンドされている。まさにサイバラ・ワールド。
しかし、完成度においては、前記2作をはるかに凌ぐ、本年屈指の秀作に仕上がっている。

 
まず、素晴らしいのは、主人公を取り巻く、脇の人物たちの個性の豊かさである。
それぞれに悲喜こもごもの人生を背負い、それぞれにドラマがあり、時には怒り、悲しみ、それでもおおらかに、かつ逞しく生きている。

なおこの幼なじみで、フィリピンパブを経営するみっちゃん(小池栄子)は、亭主の浮気にブチ切れ、車で跳ね飛ばすムチャクチャぶりだし、もう一人の幼なじみ、ともちゃん(池脇千鶴)は男運が悪くて、寄って来る男が全員ロクでなし。

「接吻」でも怪演した小池栄子が、ここでもエキセントリックな存在感を示す。その他の人たちもみんなハマリ役。キャスティングが絶妙である。

そして極めつけ、なおこの母が経営する美容室(タイトルはこの美容室の名前)の常連客である、オバちゃんたちが絶品だ。大きな体格にパンチパーマで、寄ると触ると男の話にシモネタ話。チンコチンコと下品な発言をしまくっている。

その内の一人が、パンチパーマをフワフワ髪に変え、男を誘い、ラブホテルに男をドン、っと放り込むくだりは爆笑ものだ。まるでイタリア製の艶笑コメディ映画を思わせる。男の体格が女とは対照的にヒョロリと細いのも見事なキャスティング。

男たちが、どれも生活感がなく、ダラシないか、どこかぶっ壊れている(ともちゃんの旦那はギャンブル狂いの末に野たれ死ぬし、みっちゃんの父親は、チェーンソーで木製電柱を切り倒すという壊れっぷりだ)のに対し、女たちはたくましく、生活力豊かに生き、そして男どもを強烈にリードする。

そうした女たちの、猥雑でたくましい生き方は、森崎東監督の「女生きてます」シリーズを連想させる。…そう言えば森崎監督は、沖山秀子とか倍賞美津子とか春川ますみとか、体型の太い(失礼!)女優を好んで起用する傾向がある。

そんな、賑やかで生活力に溢れた周辺の人間群像ドラマがきちんと描かれているからこそ、この町に戻って来て、町の人と溶け込めず、行き場所(=生き場所)がなくさまよい続ける、なおこの孤独が次第に浮き彫りになって行くのである。

(以下ネタバレにつき隠します)
なおこは、高校教師のカシマ(江口洋介)と逢い、恋を育んでいるのだが、次第に、奇妙な謎が浮かび上がって来る。カシマの姿が、途中で消える事が多々あるのだ。

実は、カシマは既に死んでいる事が最後に判明する。

それまでに、いくつかのヒントや伏線が巧みに配されているので、決して反則ではないし、うまく作られている事に感心する。

だが重要なのは、この作品はそういうどんでん返しのトリックを売りにする作品では決してないという点である。

この事実が判明する事によって浮かび上がるのは、なおこの深い孤独感である。

それは、カシマが旅館からいなくなった後、なおこが公衆電話からカシマに電話をかけ、「うち、寂しゅうてたまらんの。何でこんなに寂しいがや…」と泣き崩れる名シーンでも明らかである。

人間は誰もみな、寂しい存在である。寂しいから、人を求め、人を恋する。裏切られても、それでも人を求めずにはいられない。

野ばら美容室に集まって来るオバちゃんたちも、実は寂しいのである。だから集まって来ては、他愛もない下ネタ話に花を咲かせるのである。

なおこは、結婚していた男に愛想を尽かし、戻って来た故郷の町で、新しい男を求めようとする。
だが、幼なじみのみっちゃんも、ともちゃんも、男に失敗している。町の男たちはみんなろくでなしばかりだ。かといって、オバちゃんたちのようにふてぶてしく居直る事も出来ない。

なおこは現実世界の男たちに幻滅し、そして今はこの世にいない、理想の男=カシマに恋し、それを現実と思い込もうとするのである。

空想の世界に浸り、永遠の理想の男に恋する事で、なおこは寂しさから逃れる事が出来るのだ。

みっちゃんたちも、それを知っていて、そっと彼女を見守っているのである。

哀しく、切ない話である。

その、なおこの孤独感を強調する為に、映画は最後まで秘密を明かさないで置くのである。途中でバラしてしまっていたら、最後の感動は今一つ弱まっていただろう。

最初は、ぶっ飛んだ、ヘンテコな登場人物ばかりの中で、なおこだけがマトモな人間であるように見えるのだが、実はなおここそが、マトモでなかった、というオチは皮肉である。

ちょっと残念なのは、同じトリックを使った映画が今年初め、行定勲監督によって作られ、先に公開されてしまっている点である。その為あっちを先に観た人は、既視感に襲われる事となったかも知れない。
(↑ネタバレここまで)

最後のシーンがいい。なおこの一人娘、ももちゃんが、母を探し、波打ち際にやって来る。

母を呼ぶももちゃんの声に、なおこはゆっくり振り返る。

その、なおこの顔がとてもいい。…恋に恋する女から、子供を思う母の顔に戻った瞬間である。

この娘が傍にいる限り、なおこの孤独は、癒されるかも知れない。…そうであって欲しいと、願わずにはいられない。

 
いくつかの名セリフも印象的だ。

「男の人生は、真夜中のスナックや」

「人は二度死ぬがやと。一度目はこの世におらんようになった時。二度目は人の心の中におらんようになった時」

どちらも原作にある。但し後者を口にするのは、原作ではともちゃんではなく、お祖父さんである。

 
人間という存在の、おかしさと哀しみ、その底にある孤独感を、見事に描き切った、吉田大八監督の、これまでの最高作である。無論、原作にない、カシマのエピソード等を巧みに網羅し、再構成した奥寺佐渡子の見事な脚本も特筆しておきたい。お奨め。     (採点=★★★★☆

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2010年5月26日 (水)

「書道ガールズ!! わたしたちの甲子園」

Shodougirls 2010年・日本:日本テレビ=ワーナー
監督:猪股 隆一
脚本:永田 優子

四国・愛媛県で、高校書道部の生徒たちが、地元の町興しのために「書道パフォーマンス甲子園」を発案し、評判を呼んだ実話を元に、「マリと子犬の物語」の新進猪股隆一監督が映画化。

監督は無名だし、あまり期待はしていなかったのだが、意外と言っては失礼だが、感動した。エンタティンメントのツボをきちんと押えた、思わぬ拾い物の佳作である。

 
舞台は愛媛県東部の、四国有数の製紙工場がある町、四国中央市(旧伊予三島市)。本土連絡架橋が出来ても、却って四国から岡山方面に通学生や買い物客が流出し、四国の町にはこの映画にあるように、シャッター通りと化した商店街が目立つ。

そんな、寂れ行く町に元気を取り戻すべく、町興しに一役買う為の一大イベント実現に向けて、若い女の子たちが力を合わせて奮闘し、見事成功に導く…という展開は、あの大ヒット作「フラガール」のパターンだ。
しかも「青春デンデケデケデケ」から「がんばっていきまっしょい」「スウィングガールズ」へと続く、高校生たちがクラブ活動に青春の発露を見いだす、これまたヒット作パターンまで盛り込んでいる。面白くなるのは当然である。ちなみに「青春デンデケデケデケ」も「がんばっていきまっしょい」も本作も、いずれも舞台は四国である。

主人公は、四国中央高校書道部の部長・里子(成海璃子)。父親は厳格な書道家で、里子自身も常に自己にも周囲にも厳しさを求め、その為部員は次々と退部して行き、残ったメンバーは頼りない男子3名を含め8名。しかも実力のある美央(山下リオ)は母親の病気の為休部状態。そんな時、臨時教師として赴任し、書道部顧問となった池澤(金子ノブアキ)が、部員募集と称して書道パフォーマンスを実行した事から、部員の一人、清美(高畑充希)はたちまちその魅力に取り付かれてしまう…。

普通の、オーソドックスな書道は、退屈で若い女子高生にはつまらないだろう。ましてや、チームワークとはまったく無縁で、孤高の道を追い求めねばならず、かと言って剣道のように対面勝負するわけでもない。里子自身も、己の道を見失いかけている。

だから、音楽に合わせて、全身を使って派手に自己表現が出来る書道パフォーマンスに、清美がスポーツのような爽快感を感じてのめり込むのも当然だろう。
せいぜいA3サイズか、それを継ぎ足す程度の狭い紙の中に閉じ込められている書道に比べて、畳数畳分もあるデカい紙の上で、しかも複数のメンバーが力を合わせ、思いっきり跳ね回れる書道パフォーマンスは、まさに若さの躍動に他ならないのである。

最初は、自分の求めていた書道とあまりに違うこのパフォーマンスにとまどい、反撥していた里子も、清美の、水を得た魚のような躍動ぶりに次第に感化され、頑なな心がやがて解きほぐされて行く。

清美の父の家業である文具店も閉店し、この町を去らざるを得なくなり、また老職人が作る手漉き紙も需要がなくなり、やはり工房を閉めざるを得なくなる。町はどんどん寂れるばかりである。こうした、地方都市の厳しい現状を、抑制の効いた視線で捕らえている所もいい。

彼女たちが遂に一念発起し、「書道パフォーマンス」開催に向けて走り出すのは、町興しという目的もあるが、同時に、本当に大切な事は、“人間は一人では何も出来ないが、みんなが力を合わせれば、どんな困難をも乗り越える事が出来る”、という事を理解したからに他ならない。
だから、母の為に書道をあきらめかけていた美央にも、「全員が揃わなければ意味がない」と、仲間に戻る事を呼びかけるのである。

ベタな展開ではあるが、ここは泣かされる。

里子たちが、紙の中央に大きく書くのは、“再生”の2文字である。そう、この物語は、町の再生への願望であり、壊れかけていた仲間の友情の再生でもあり、道を失いかけていた、里子や、教師・池澤の心の再生の物語でもあるのである。

ラストの、全国から集まった高校生たちの「書道パフォーマンス甲子園」シーンは圧巻である。実際の書道パフォーマンス参加チームが実演しているのだから迫力がある。

町のどこからでも見える、巨大な製紙工場の煙突がアクセントとなっているのもいい。五所平之助監督の「煙突の見える場所」(53)を思い出した。

仲間の一人、清美が遠くの町へ去って行ったり、書道パフォーマンスなどもっての外と池澤に抗議に来た里子の父が、目を輝かせて練習に取り組む里子たちの姿を見て、応援へと心変りしたりと、「フラガール」と似た箇所もいくつかあるが、これはまあご愛嬌。

惜しむらくは、シナリオ(TVドラマで活躍の永田優子)が練れていない。副部長の篠森香奈(桜庭みなみ)や、苛めの過去を持つ小春(小島藤子)や、里子がほのかに心を寄せる高田(市川知宏)などの人物像が浅いし、最後に池澤が町を去るシーンも捻りがない。書道パフォーマンス実現に対する高校側のリアクションがほとんどないのも不自然。この高校には、池澤以外に先生がいないのだろうかと思ってしまう。
こういう所を、出来れば、映画のベテラン脚本家に細部を肉付けしてもらえれば、もっと傑作になったに違いない。それなら満点にしてもいいくらいだ。もったいない。

それでも、感動しウルウルしたのは事実である。このくらいのレベルの作品がどんどん登場してくれれば、日本映画はもっと面白くなるだろう。ウエルメイドな佳作として、お奨めしたい。     (採点=★★★★☆

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(付記)
この作品の舞台となった四国中央市は、「青春デンデケデケデケ」の舞台となった香川県観音寺市とは、電車で15分くらいの距離で、とても近い。ちなみに、2箇所ほど登場する電車の行き先は、どちらも「観音寺行き」であった。

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2010年5月22日 (土)

「春との旅」

Harutonotabi 2010年・日本:ティ・ジョイ=アスミック・エース配給
原作・脚本・監督:小林 政広

「バッシング」(05)、「愛の予感」(07)で知られる小林政広監督が、10年前から企画を温め、8年かけて脚本を仕上げた執念の力作。主演の仲代達矢は、「約150本の出演作品の中で、5本の指に入る脚本」と絶賛したと言う。

北海道で漁師をしていた忠男(仲代達矢)は、足を痛め、今は19歳の孫娘の春(徳永えり)と二人で暮らす。春の勤めていた小学校が廃校となり、失職した事から、春は東京に出て仕事を探そうとするが、足の不自由な忠男を一人には出来ない。忠男も、若い春の将来を考え、悩んだ末に二人は、忠男の世話を頼むべく、疎遠だった姉兄弟を訪ねる旅に出る…。

 
老後をどう生きるか…という、切実なテーマに迫った意欲作である。旅は北海道から始まり、東北、仙台を回って、最後にまた北海道に渡る。典型的なロードムービーである。

(以下、ややストーリーに触れます)
忠男には、4人の姉兄弟がいるのだが、どうも忠男は自分勝手に、気ままに生きて来たようで、どの兄弟からも快く思われていない。偏屈で、相手が気を悪くするような言葉を平気で言ってしまう。

最初に訪ねた長兄の重男(大滝秀治)の所でも横柄な態度で、重男に「それが人に物を頼む口の聞き方か!」とたしなめられる。

だが、重男夫婦も高齢で、やがて老人ホームに入るつもりである事が分かる。
去って行く忠男たち二人を、重男と妻(菅井きん)が、これが最後の別れであるかの如く涙を堪えながら見送る姿がさりげなく捉えられ、憎まれ口を叩きあっても、心の中には断ち難い肉親の情がある事を伝えている。

こうした、愛憎半ばする微妙な心の葛藤は、その後の長女茂子(淡島千景)、末の弟・道男(柄本明)の所でも、態度の違いはあれど同様に展開される。

茂子は、「春ちゃんはここで働いてもいいけど、あなたは一人で生きて行きなさい」と突き放す。

だが、秀逸なのは、この箇所における脚本の見事さと、その意図を十分に読み取ったベテラン俳優の演技である。

表面的には、やさしく諭すように言い、春に対する思いやりも感じられる茂子だが、内心は“こんな偏屈な弟に、働きもせず居候されるのは周囲にも迷惑だ”という気持があるようにも感じられる。

その茂子の気持も悟っているかのように、忠男は、「姉ちゃんには頭が上がらない」と、あっさり諦めて去って行く。

道男の所でも、大喧嘩をやらかして、また居られなくなってしまう。

ここでも、去り際に道男夫婦は、忠男たちにそっとした気遣いを見せている。

これらの微妙な心の綾が、巧妙な伏線となってラストに、忠男の本当の心情が明らかになって行く。

(以下、ネタバレです。映画を観た方のみ反転させてください)
忠男は、実はこの旅を、姉兄弟たちとの最後の別れを交わす旅と考えていたのかも知れない。
ひょっとしたら、自分の命も、あまり長くはない、と予感していたフシもある。

だから、最初から、彼らの世話にはなるつもりはなかったのだろう。だからわざと偏屈で、相手を怒らせるような態度を取っている。

現実には、彼らも忠男を世話する余裕はなかったから好都合だった。

姉兄弟との別れ際は、それ故、いずれも情感に溢れた、しみじみとした切なさに満ちた演出が施されている。演技のうまいベテランを配した事も相乗効果となっている。

その事が証明されるのは、春の父親・真一(香川照之)の牧場に行った時である。

真一の妻・伸子(戸田菜穂)は、血の繋がっていない忠男に、お義父さんと一緒に暮らしたい、と申し出る。

それに対し、忠男はやんわりとその申し出を辞退する。

願ってもない申し出なのだし、旅の目的(と最初は思われた)であった、“誰かの世話になる”願いが叶うわけだから、(特に、自分勝手な人間であったなら余計)喜んでこの申し出を受けるはずである。

それを辞退したという事は、“誰の世話にもならない”強い意思の表れであると考えるのが妥当だろう。

無論、いろいろな人と触れ合う事で、頑なな心が解きほぐれて行った、と解釈する事も出来るが、77歳にもなった老人が、このくらいの旅で人間性がそう簡単に変わるものではない。

ラストで、忠男が電車の中で突然倒れたのは、私は、すべての人と最後の別れを交わし、思い残す事はなくなった忠男の死、と考えれば納得が行くのである。
(↑ ネタバレここまで)

春が、旅の間中、読んでいた文庫本は、林芙美子原作の「放浪記」だそうだ。

花の命は短くて、苦しき事のみ多かりき” という名文句で記憶される「放浪記」を旅の友、としている事自体が、忠男の運命を象徴しているような気がする。

 
この映画でもう一つ、印象的なのは、女性の生き方、である。

男性がいずれも、つっけんどんだったり、ぶっきらぼうであるのに対し、忠男が旅の途中で出会う女性はどれも清楚で、思いやりがあって、強く前向きに生きている。

2番目に出会う、刑務所に入っている三男の内縁の妻・愛子(田中裕子)は、流行らない食堂をずっと守って、夫の出所を待ち続けている。その、不幸にもめげずたくましく生きる彼女の人生に、忠男も春も心打たれる。

長女・茂子も、一人で旅館を切り盛りし、信念を持って毅然とした生き方を貫いている。忠男が頭が上がらないのも当然である。

そして、春の父の後妻である伸子は、血が繋がっていないにもかかわらず、一番忠男に思いやりの心を示している。

こうした女たちと触れ合う事によって、最も感化され、成長するのは春である。

自分と同性の女たちの力強い生き様から、春はさまざまな事を学んで、最初は持て余していた忠男を、最後には自分が面倒を見て生きてゆこうと決心する。

この映画は、春という女性の、心の成長の物語であるとも言えるのである。
春に扮した徳永えりが、最初はオドオドとした仕草に、子供っぽいガニ股歩きをしているのも、他人と触れ合う機会が少なく、未熟な半人前の人間である事を強調させる為の計算なのだろう。…ただ、ちょっとやり過ぎな気がしないでもないが。

 
全体的には、小津安二郎監督の「東京物語」を思い起こさせる。

家族の絆の脆さ、老人の老後の人生、人間のエゴイズム、そしてロードムービー…と、共通する要素は多い。

一番老人に優しい心遣いを示す、肉親でない伸子のキャラクターも、「東京物語」の紀子(原節子)を思わせる。

 
それにしても、俳優が豪華である。

仲代達矢に、大滝秀治、菅井きん、淡島千景、田中裕子…と昭和の名優勢揃いである。無論、柄本明、香川照之、小林薫、戸田菜穂らの脇も申し分ない。

やや難点を挙げれば、俳優がセリフを喋っている時、その顔が画面に写らず、画面外から声が聞こえて来るシーンが何箇所かあった。
セリフを喋る俳優の表情も映画では重要である。小津映画をリスペクトするなら、俳優が喋るシーンは律儀なまでにバストショットでその表情を捉えた小津演出を見習って欲しい。

あと気になったのは、佐久間順平の音楽である。いい曲である事は認めるが、全編にわたって高らかに響りっ放しで、耳障りである。もう少し抑えた、静かな音楽の方が良かったと思う。

ともあれ、人生とは、生きるとは、老いる事とは、…さまざまな事を考えさせてくれる力作である。   (採点=★★★★☆

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2010年5月16日 (日)

「アリス・イン・ワンダーランド」

Aliceinwonderland 2010年・米:ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ
原題:ALICE IN WONDERLAND
監督:ティム・バートン
原作:ルイス・キャロル
脚本:リンダ・ウールヴァートン

ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」、「鏡の国のアリス」をベースに、19歳になったアリスの新たな冒険を描いた作品。監督は「チャーリーとチョコレート工場」のティム・バートン。ジョニー・デップが、バートンと7度目のコンビを組んでいる。

 
原題は原作と同じだが、年齢は原作の6歳から19歳に変わっており、原作、並びにディズニーによる原作に忠実なアニメ映画化「不思議の国のアリス」(1951)のお話から13年後に、アリスが再びワンダーランドを訪れる…という、映画オリジナル・ストーリーである。

原作は、ワンダーランドに迷い込んだアリスが、いろんなクリーチャーや、トランプをイメージしたキャラクターと出会い右往左往するだけの、ほとんど筋らしい筋もない、ナンセンスの極みとでも言うべきマカ不思議な作品である。

子供にも判り易いのが基本のディズニー・アニメの中でも本作は異色で、そのシュールかつナンセンスな展開に、子供たちにはあまり評判は良くなかったはずである。

原作は有名な童話なので、ここでバラしてしまうけれど、アリスが体験した不思議なお話は、実は“すべてアリスが見た夢だった”というのがオチ。アニメの方でも、[空想好きなアリスが花畑でまどろんでいるうちに夢の世界に入ってしまい、ラストでは女王たちに追いかけられ、最初に入って来たドアにたどり着き鍵穴から覗くと、眠っている自分を発見し、やがて姉の呼ぶ声で目が覚める]という展開になっている。

ところが本作では、気に入らないヘタレ男との結婚話に嫌気がさした時に、時計を持ったウサギを見つけ、それを追いかけてワンダーランドに迷い込む。
つまり本作におけるアリスの冒険は、夢ではなく、ワンダーランドは実在している、というのが基本ラインとなっている。

そして、オリジナルでのキャラクター、マッドハッター、芋虫のアブソレム、チェシャ猫、トランプの女王(本作では赤の女王)などはそのまま登場し、マッドハッターたちは“救世主であるアリスが戻って来るのを待ちわびていた”ことになっている。

原作や、アニメ版を知っている観客はここで混乱する事になる。
いったい、このお話は“アリスの夢”なのか、現実なのか…。

夢であるなら、アリスはいったい何時眠ったのか(そんな描写も、伏線もなかったと思う)。ラストでも、アリスは穴から這い出て、そのまま家族の元に戻って来る。…夢から醒める描写はない

現実であるなら、原作やアニメで明示されていた、“すべてはアリスの夢だった”という前提が崩れてしまう事になる。おまけに、アリスは6歳の時にワンダーランドに言った事を覚えていない。…確かアニメ版では、夢から醒めた後、姉に、夢の中で見た冒険を興奮して喋っていた筈なのだが…。

そして物語も、予言の書に示された救世主と名指しされたアリスが、悩んだ末に救世主となる事を引き受け、鎧に身を包んで勇ましく赤の女王(ヘレナ・ボナム=カーター)や、その手先であるジャバウォッキーに戦いを挑み、見事勝利する…という、よくあるヒロイック・ファンタジー通りの展開となる。

こういうパターンって、'80年代に我が国で、OAV(オリジナル・アニメーション・ビデオ)が全盛だった頃にさんざん作られた魔界ファンタジーものと同工異曲で、ほとんど新味はない。…今どきこんな使い古されたストーリーを、シュールさとナンセンスが持ち味の「不思議の国のアリス」に持ち込むとはねぇ。

こういうお話にするのなら、ティム・バートンよりは、テリー・ギリアムに監督させた方がまだマシだったかも知れない。
…ちなみに、テリー・ギリアムは知る人ぞ知る「アリス」おタクである。'77年にはそのものズバリ、ルイス・キャロル原作とクレジットされた「ジャバウォッキー」という作品を監督している。

 
そんなわけで、ルイス・キャロルの原作、及びディズニー・アニメ「不思議の国のアリス」が大好きな方にはなんとも不満の残る作品になっている。

かと言って、ティム・バートンらしさも出ていない。なんせ製作はディズニー・ピクチャーズである。バートンは雇われ監督に徹したのかも知れない。おかげで、ティム・バートン監督作品としては過去最大のヒットになってるのは皮肉である。

ただ、バートン・ファンならニヤリとする箇所はいくつかある。
ウサギを追いかけて木の根っこにある穴に落ちるシーンで、背後にそそり立つ巨木が、バートン作品「スリーピー・ホロウ」に登場する朽木と、不気味な捻じ曲がり方がそっくり同じであったり、マッドハッターのお茶会のシーンで、背後にこれまた「フランケンウィニー」に登場したような風車の残骸があったりする。…ただ、3Dメガネをかけていると画面が暗すぎて、この風車がほとんど判別出来ないのは困りものだが…。    (採点=★★★☆

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(さて、お楽しみはココからだ)
そんなわけで、作品としてはイマイチの出来であったが、あちこちに仕込まれた小ネタで私は結構楽しむ事が出来た。

その小ネタとは、“宮崎アニメ・オマージュ”である。そもそもディズニーには宮崎アニメ・フリークがいるのは有名な話である。

まず、“予言の書に書かれた、救世主としての戦う少女”は、「風の谷のナウシカ」だろう。アリスの甲冑姿はトルメキアの女王クシャナに似てるし、そう思えば赤の女王の忠実な部下、ハートのジャック(クリスピン・グローヴァー)はクシャナの忠実な部下、クロトワとキャラがかぶっている。

その頭の異様にデカい赤の女王は、「千と千尋の神隠し」における、湯婆婆を思わせる。ちなみにアニメ版「不思議の国のアリス」の方では女王の頭は普通の大きさである。

その赤の女王の宮殿には、直立するカエルの一団がいるが、これも「千と千尋-」の、油屋で働くカエル男を嫌でも連想させる。

また、アリスが途中でモンスターに傷つけられ、右腕に醜い傷跡が残っているのは、「もののけ姫」のアシタカの、タタリ神によってつけられた右腕の傷を思わせる。ジャバウォッキーは「もののけ姫」のシシ神を連想させるし、そしてシシ神と同じく、首を切り落とされる

 
だが、「アリス」と宮崎アニメとの関連はもっと溯る。アニメ版「不思議の国のアリス」を見直して思ったのは、
宮崎駿監督のアニメ作品自体が、「不思議の国のアリス」からかなりヒントを得ている”のではないかという点である。

Totoro1_2 「となりのトトロ」で、妹のメイが、庭で不思議な生き物(小トトロ)を見つけ、後を追いかけて森の中に迷い込み、ヘンな穴にころがり落ちてトトロに出会う。ご丁寧にその後、メイは姉に揺り動かされて眠りから目を覚ますのである。

そう思えば、大きな顔と口に、自由に姿を消す事が出来、空も飛ぶ事が出来、普段は木の上にいる猫バスは、チェシャ猫のキャラクターとほとんどそっくりである。

また「千と千尋の神隠し」では、千尋は奇妙なトンネルを通って(トンネルも“穴”である)、不思議の国に迷い込む。

Senntochihiro 舟に乗ってやって来る神様のうち、春日さまの一団は平たい長方形で(右参照)、「アリス」のトランプ兵を思わせる。その他、頭(カシラ)だとか巨大な坊だとかのマカ不思議なキャラクターも、いかにも「アリス」的キャラである。

…とまあ、「アリス」からヒントを得たと思しきキャラクターやストーリー展開がいくつも見つけられる。宮崎作品には、「クラバート」とか「ゲド戦記」などの海外ファンタジーからの影響が見られるので、「アリス」からも影響を受けている可能性は大いにあるだろう。

その宮崎アニメから、今度は「アリス・イン・ワンダーランド」が影響を受けているとするなら誠に興味深い。ことによったら、宮崎アニメが「アリス」からヒントを得ているだろう事を、ディズニー・スタッフ(あるいはティム・バートン)も感じていて、意識的に逆輸入したのかも知れない。

…とまあ、こうやって、いろいろ想像を巡らせれば、映画はもっと楽しめるし、本編が期待外れであっても、料金分は楽しんだ気になれるのである。

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2010年5月 9日 (日)

「オーケストラ!」

Leconcert2009年・フランス:GAGA配給
原題:LE CONCERT
監督:ラデュ・ミヘイレアニュ
脚本:ラデュ・ミヘイレアニュ/アラン=ミシェル・ブラン/マシュー・ロビンス

フランス・パリでの初公開時、「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」を破ってオープニングNO.1を記録した、笑いと涙と感動の大傑作音楽ドラマ。

ロシアのボリショイ交響楽団で、かつては天才指揮者と持てはやされていたが、今では劇場清掃員に身をやつす中年男アンドレイ・フィリポフ(アレクセイ・グシュコブ)。そんなある日、パリのシャトレ劇場から届いた出演依頼のファックスを目にしたアンドレイは、とんでもない考えを思いつく。それは、彼と同様に落ちぶれてしまったかつての仲間を集めて偽のオーケストラを結成し、ボリショイ代表として夢のパリ公演を実現させようという突拍子もない計画だった。果たして、彼の夢は実現するのだろうか…。

何の変哲も愛想もないタイトル(何とかならなかったか)に、無名の監督・出演者(せいぜい「イングロリアス・バスターズ」で注目されたメラニー・ロランと、フランスの名優ミュウ=ミュウくらいしか知った名前はない)…。も一つ観る気が起きなかったのだが、批評がわりと高評価で、かつ予告編がちょっと面白かったので連休中に観に行った(梅田ガーデンシネマ)。

そしたら、なんと超満員。13時の回は立ち見席も完売(この劇場は自由席)。次も、その次の回も満席だとかで、とうとう日を改める事にした。この劇場での立ち見は何度か経験したが、立ち見でも観れなかったのは初めて。相当人気があるようだ。

で、連休が終わった平日に観にいったのだが、やはりほぼ満員。そして、観終わって…。

面白い!!。そして笑えて、泣けて、胸が一杯になって、エンドでは映画の中の聴衆と同じく、スタンディング・オベーションでブラボー!と叫びたくなった。これは、今年最高の感動作だ。これまでは「息もできない」を本年度ベストワンにするつもりだったが、それを抜いて、本作を(今の所は)本年度ベストワンに推したい。

どこが面白いかと言えば、一杯あり過ぎて一言ではとても言えないのだが、それでも一言で言うなら、“この映画には、エンタティンメントとしての要素がすべて詰まっている”という事になる。その理由はおいおい述べて行く。

 
まずは、この映画のポイントは、“負け犬の烙印を押され、鬱屈の日々を送る人たちが、一念発起して仲間を集め、努力を重ね、さまざまな困難を乗り越えて、遂に最後に大勝利する”…という、娯楽映画の王道パターンを見事に踏襲している点にある。

例えば、「メジャー・リーグ」「シコ、ふんじゃった。」「少林サッカー」、あるいは「フラガール」…と、この手の作品には傑作が多いのだが、本作もその例に漏れない。

次に、上の梗概にあるように、この映画には“本物に成りすました偽者が、巧妙に作戦を立て、本物を出し抜き成功を目指す”という、いわゆるコン・ゲーム的な面白さも盛り込まれている。そこには当然、“いつバレるか”という、ハラハラ、ドキドキのサスペンス要素も含まれる事となる。ドイツ兵に化けて敵陣に乗り込むといった戦争サスペンス物(「イングロリアス・バスターズ」等)はその典型だが、むしろコメディ・ジャンルに傑作が多い。ジャック・ブラックが偽者の教師に扮した「スクール・オブ・ロック」はその代表的傑作。最初は笑わせて、最後のコンサート・シーンで感動させる展開は、本作ともよく似ている。いわば本作は、「スクール・オブ・ロック」クラシック・コンサート版であるとも言える。
…この2つの要素だけでも十分過ぎるほど面白い。

ハラハラドキドキはそれだけではない。寄せ集めたメンバーは30年ロクに演奏してないし、旅費も楽器も服もない。期限は2週間しかなく、パスポートもビザもそんな短期では取得出来ない…。パリに着いたら着いたで、メンバーはパリ見物に繰り出してリハーサルにも帰って来ない。アンドレイは何度も演奏会中止のピンチに立たされる。さらにはボリショイ楽団の支配人もバカンスでパリにやって来る…。
まさに、次から次に襲い来る危機また危機。まるで「インディー・ジョーンズ」である(笑)。

もう一つ、アンドレイはソリストとして、フランスで活躍するアンヌ=マリー・ジャケ(メラニー・ロラン)を強力に指名する。
アンドレイが大事に保管していた箱の中には、二つに折れた指揮棒と、アンヌ=マリーに関する資料やCDが…。
アンヌのマネージャー、ギレーヌ(ミュウ=ミュウ)もアンドレイとは旧知らしい。いったいアンドレイとアンヌとの関係は?
――といった具合に、いくつもの謎を秘めた、ミステリー的要素も含まれている。

さらには、ストーリーの背景に、1980年の旧ソ連、当時のブレジネフ政権がユダヤ人排斥の政策を強行、ユダヤ系の演奏家たちも例外なく排斥されることになり、アンドレイらは、彼らを擁護しようとした事から当局に睨まれ、仕事も音楽も失う結果となった…という、非人道的なソ連・スターリニズムへの激しい怒りがある。…この作品は、コミカルな描写を交えつつも、実は政治に翻弄された芸術家の悲しい運命、そして雌伏を経ての夢への飽くなき挑戦(リベンジ)”を主題としているのである。

 
なんとも欲張った展開である。だが素晴らしいのは、それらの要素を巧みに縒り合わせ、笑わせたり、ハラハラさせつつも、物語はアンドレイや仲間たちの夢を乗せて、クライマックスのコンサートに向けて突き進み、最後の、12分間に及ぶチャイコフスキーの協奏曲演奏シーンに、すべての謎解きとカタルシスと興奮を詰め込んで、観客を酔わせ、感動させる、見事な演出の妙にある。

言わば、監督自身がこの映画の指揮者となって、自在にタクトを振るい、出演者たちを統率して、見事なコンサート(映画)を成功させたのである。

(ここからネタバレあり、注意。一部隠します)
30年前、アンドレイはソ連共産党によって、指揮棒を折られ、ボリショイ楽団指揮者の夢を断たれ解雇されるのだが、その際、当時楽団の天才的女性ヴァイオリン奏者だったレアは、ユダヤ系であったばかりに極寒のシベリアに送られ、非業の死を遂げた事がやがて明らかになる。

アンドレイは、レアと組む事が夢だった。彼女と組めば、最高の音が出せる。…だが、その夢は叶わなかった。

アンヌ=マリーは、実はレアの娘だった。だから、アンヌと組む事は、アンドレイの30年越しの夢の実現なのである。

なかなか戻って来なかった楽団員が、「レアのために」という携帯メールを受け取った途端に、一斉に戻って来る。
レアは、アンドレイのみならず、楽団員のミューズであり、また夢の象徴でもあったのだろう。

自分を、レアの単なる代用だと誤解したアンヌが、一時は中止を申し出るが、ギレーヌの置手紙を呼んだアンヌが、ギリギリで戻って来る辺りもハラハラさせる。…そしてようやく演奏会が始まる。

このラスト12分の演奏会シーンが素晴らしい。最初はさすがに30年のブランクとリハーサルなしのぶっつけ本番のせいか、何ともよれよれの音でまたまたハラハラさせるが、アンヌのソロが始まった途端に、ビシッと1本芯が通ると言うか、見事なアンサンブルを発揮する辺りが感動を呼ぶ。

その演奏中にカットバックで、レアの悲痛な運命、赤ん坊だったアンヌの国外移送とその後という過去、さらには、楽団の未来までもが描かれるのが鮮やかで、かつ心ときめく。うまい演出だ。

12分の演奏シーンの中に、アンドレイ、楽団員の夢、希望を乗せ、そして叶わなかったレアの夢が乗り移ったかのようなアンヌの素晴らしい演奏が渾然一体となって、観客の感動をいやが上にも盛り上げる。もう涙、涙の洪水となる。2ヶ月特訓したという、メラニー・ロランの演奏ぶりも迫真の演技。
演奏が終わった瞬間の、興奮と感動と、爽やかな涙は、一生忘れられないだろう。

 
監督のラデュ・ミヘイレアニュは、1958年生まれのユダヤ系のルーマニア人で、80年(この物語の発端!)に、当時のチャウシェスク独裁政権から逃れて亡命、フランスで映画の仕事に就いたという。

この映画のテーマである、“人間の自由と尊厳を奪う独裁政治体制への怒り”は、まさにミヘイレアニュ監督自身の体験に裏打ちされているのである。その事を知れば、余計感動的である。

登場人物も、脇に至るまでうまくキャラクターが振り分けられていてそれぞれに魅力的。アンドレイの相棒を務める、ちょっと太目のサーシャを演じたドミトリー・ナザロフが、陰に陽にアンドレイを助ける、いい役回りを好演しているし、ギレーヌ役のミュウ=ミュウがいつもながらうまい。アンドレイの指揮棒をへし折った、コチコチの共産党員、イワン・ガヴリーロフ(ヴァレリー・バリノフ)にも、最後の最後においしい役を与えているのも見事なバランス配置である。彼が「神よ、いるなら助けてください」と祈るシーンは、笑わせつつもジーンと来る。

 
夢を実現するのは、とても難しい。いくつもの困難が立ちはだかる。そして挫折し、夢を諦めてしまう人もいるだろう。

だけど、この映画では、とても実現出来そうもないような夢を、何年間もずっと忘れずに追い求め、どんな困難にも諦めず、夢に向かって突き進み、とうとう夢を実現してしまう、奇跡の物語が描かれる。

そう、歳を重ねて老いようとも、苦難の生活に喘いでいようとも、絶望の淵に居ようとも、それでも、夢を忘れずに、小さな努力を日々積み重ねていれば、いつの日か、夢が叶う日がやってくるかも知れない…。

この映画は、そんな、夢を忘れかけていた人々に、夢を見る事の大切さをもう一度教えて、勇気を与えてくれるきっかけになるかも知れない。…そんな事さえ考えさせてくれる、これは素敵な秀作である。必見!     (採点=★★★★★

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(付記)
脚本チームの一人、マシュー・ロビンスは、S・スピルバーグの実質監督デビュー作「続・激突!カージャック」(74)、の原案・脚本を担当し、スピルバーグ製作総指揮の「ニューヨーク東8番街の奇跡」(87)では監督を勤めている。

スピルバーグと縁浅からぬマシュー・ロビンスが加わっているというのも面白い。そう言えば「ニューヨーク東8番街の奇跡」は、老人夫婦の家にある夜奇跡が訪れる、楽しいSFファンタジーの快作でしたな。

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2010年5月 5日 (水)

「ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲」

Zebraman2 2010年・日本:東映
監督:三池 崇史
脚本:宮藤 官九郎

6年前に、同じスタッフ・主演で製作された「ゼブラーマン」の続編。

舞台は前作から15年後の2025年、東京は新都知事、相原(ガダルカナタカ)が君臨し、ゼブラシティと名前を変え、朝夕5分の「ゼブラタイム」には殺人・犯罪がOKとなる魔都に変貌していた。そのゼブラシティの片隅で、かつて世界を救った男、ゼブラーマンこと市川新市(哀川翔)は記憶を失った状態で目を覚ましたが、丁度その時ゼブラタイムが始まった。新市はゼブラポリスに追いかけられ、銃弾を浴びてしまう…。

前作は、ヒーローにあこがれる冴えない中年男が、子供の為にヒーローになろうと努力を重ね、最後に本物のヒーローになるという、感動の物語なのだが(作品評はこちら)、本作はある意味、かなりおフザケ度合いが高い。前作に素直に感動した人は、少しガッカリするかも知れない。
その分、いつもの三池節は炸裂している。全身黒づくめでエロっぽいゼブラクィーン(仲里依紗)がフェロモンを撒き散らすし、くだらないギャグは随所に登場するし、そしてラストのオチには唖然となる。「DEAD OR ALIVE 犯罪者」「FULL METAL 極道」「極道恐怖劇場・牛頭」等のマカ不思議な三池ワールドにハマっているファンなら狂喜するだろう。そんな人にはおススメである。
反対に、前作に感動し、「これは是非子供と一緒に観なければ」と思ったお父さんは要注意。子供に見せられないシーンがあります(笑)。

(以下ネタバレあり)
冒頭のクレジットからしてフザけている。三池の肩書きはなんと「現場監督」(笑)。クレジットの間、ゼブラクィーンが歌うPVが流れるのだが、これがなかなかカッコよくて一気にノセられる。

それにしても、ついこの間の「時をかける少女」では、清楚で可憐なヒロインを演じていた仲里依紗が、本作では妖艶でパンクなゼブラクィーンを怪演している。とても同じ俳優とは思えない。今年の演技賞を賑わす事は間違いない。

 
前作では、単にシマウマをアレンジしたヒーローだから「白黒つけるぜ」とミエを切っていただけなのだが、本作ではまさに白と黒を、“善悪の象徴”とした発想が秀逸である。

新市は遠心分離機にかけられ(この発想も凄い)、悪の心を持った黒ゼブラと、善の心の白ゼブラに分離してしまう。つまりはゼブラクィーンは、新市の分身であるわけなのだ。この辺りは、黒いスパイダーマンが登場する「スパイダーマン3」や、やはり人間の善悪2面性をテーマとした「ダークナイト」とも共通する、奥深いテーマになりうるファクターなのだが、さすが三池監督、高尚な作品に仕上げる意思は毛頭ない。とことんくだらなく、バカバカしい作品にする事だけに集中している。

クライマックスは、やはり前作に登場した巨大エイリアンとの対決となるのだが、この辺りからお話はかなりいい加減となる。相原の計画は行き当たりばったりだし、ゼブラクィーンはとことん白ゼブラとガチンコ対決するのかと思いきや、共同戦線を張ってエイリアンと対決する方向に向かうのもちょっと拍子抜け。
新市はゼブラクィーンに、「エイリアンを退治するには合体するしかない」と提案する。ここで三池ファンなら即座に「DEAD  OR ALIVE FINAL」のラストの、竹内力と哀川翔の“合体”を想起してしまう所なのだが、新市が取り出したのがなんとまあ[センベイ布団に2つのマクラ]であったのには大爆笑(そんなのドコにあったのだ(笑))。絶妙のタイミングで挿入される“STOP THE AIDS”のテロップも笑える。

ラストのオチも、実にくだらない。「白黒つかないんで、[丸く収めたぜ]」のセリフにも大爆笑。それじゃ落語のオチだよ(笑)。

このラストには異論もあるかも知れないが、三池映画ならアリだろう。そもそも三池監督には、“高く評価されたら、その評価をどん底に突き落としてやろう”というアマノジャク精神がある。

「DEAD OR ALIVE 犯罪者」が、バカバカしいラストにもかかわらず、意外と高評価を受けると、シリーズ最終作「DEAD  OR ALIVE FINAL」では実にくだらない唖然とするエンディングを持って来たりする。前作「ゼブラーマン」が本来は“コスプレおたくの中年オヤジが、熱中し過ぎたあげくに本物の仮面ヒーローになる”というバカバカしいお話であったのに、感動したという賛辞が増えると、こんなバカバカしい続編を作ったりする。本格フィルム・ノワールの佳作「極道黒社会 RAINY DOG」(これも哀川翔主演)の直後に、バカバカしい「FULL METAL 極道」を作り上げてしまう…。それが三池崇史という作家なのである。

まあこの映画は、バカバカしさを楽しむ作品と割り切るべきだろう。仲里依紗のエロいゼブラクィーンぶりを堪能できるだけでも、お金を払った値打ちはある。エイリアンの触手が失神したゼブラクィーンの肌を舐めるシーンは、一昔前のアダルトOAVへのオマージュのようでもある。

前作に登場した名セリフもうまく使われているが、前作の一番感動するセリフ「信じれば、夢はかなえられる」が、うまく使いこなされていなかったのがやや残念。

それはともかく、“くだらないお話を、全精魂込めて一生懸命作る”という事も、私は立派な仕事だと思う。

石井輝男という職人監督がいたが、ポルノだろうとグロだろうとコメディだろうと、とにかく何でも手を抜かずに作っていた。カンフー・ブームの最中に、石井監督の元にカラテ映画を作れというオファーが来た。
とりあえず「直撃!地獄拳」という千葉真一主演のカラテ映画を仕上げたが、あまり面白くなく、自分でも満足出来なかった。だが会社は引き続き続編を作れと言って来た。
そこで石井監督が取った作戦は、これを徹底してフザけたコメディに換骨奪胎する事であった。かくして「直撃!地獄拳・大逆転」という、コメディ映画史上に残るカルト傑作が誕生した。この映画のバカバカしくかつシュールなギャグは今や語り草である。

三池監督は、石井輝男監督の精神を、いい意味で受け継いでいるのではないかと思う。バカバカしさも、突き抜ければカルトに至る事もある。…本作も、そんな作品に位置付けられる可能性を秘めていると言えるだろう。     (採点=★★★★

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