「パーマネント野ばら」
2010年・日本:ショウゲート配給
監督:吉田 大八
原作:西原 理恵子
脚本:奥寺 佐渡子
西原理恵子の人気コミックを、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」、「クヒオ大佐」の吉田大八監督が映画化。主演は北野武監督作「Dolls(ドールズ)」以来、8年ぶりとなる菅野美穂。
高知県の小さな港町。離婚の末に一人娘を連れて故郷に出戻ったなおこ(菅野美穂)。彼女の母・まさ子(夏木マリ)が経営する美容室「パーマネント野ばら」に集まる女性たちの悲喜こもごもの恋愛模様をバックグラウンドに、物語はなおこの新しい恋の行方を追って行く…。
この所、西原理恵子原作ものの映画化が続いている。「いけちゃんとぼく」、「女の子ものがたり」。片やせつないファンタジー、片や女の子3人の友情の物語。…で、本作はそれぞれの要素が巧みにブレンドされている。まさにサイバラ・ワールド。
しかし、完成度においては、前記2作をはるかに凌ぐ、本年屈指の秀作に仕上がっている。
まず、素晴らしいのは、主人公を取り巻く、脇の人物たちの個性の豊かさである。
それぞれに悲喜こもごもの人生を背負い、それぞれにドラマがあり、時には怒り、悲しみ、それでもおおらかに、かつ逞しく生きている。
なおこの幼なじみで、フィリピンパブを経営するみっちゃん(小池栄子)は、亭主の浮気にブチ切れ、車で跳ね飛ばすムチャクチャぶりだし、もう一人の幼なじみ、ともちゃん(池脇千鶴)は男運が悪くて、寄って来る男が全員ロクでなし。
「接吻」でも怪演した小池栄子が、ここでもエキセントリックな存在感を示す。その他の人たちもみんなハマリ役。キャスティングが絶妙である。
そして極めつけ、なおこの母が経営する美容室(タイトルはこの美容室の名前)の常連客である、オバちゃんたちが絶品だ。大きな体格にパンチパーマで、寄ると触ると男の話にシモネタ話。チンコチンコと下品な発言をしまくっている。
その内の一人が、パンチパーマをフワフワ髪に変え、男を誘い、ラブホテルに男をドン、っと放り込むくだりは爆笑ものだ。まるでイタリア製の艶笑コメディ映画を思わせる。男の体格が女とは対照的にヒョロリと細いのも見事なキャスティング。
男たちが、どれも生活感がなく、ダラシないか、どこかぶっ壊れている(ともちゃんの旦那はギャンブル狂いの末に野たれ死ぬし、みっちゃんの父親は、チェーンソーで木製電柱を切り倒すという壊れっぷりだ)のに対し、女たちはたくましく、生活力豊かに生き、そして男どもを強烈にリードする。
そうした女たちの、猥雑でたくましい生き方は、森崎東監督の「女生きてます」シリーズを連想させる。…そう言えば森崎監督は、沖山秀子とか倍賞美津子とか春川ますみとか、体型の太い(失礼!)女優を好んで起用する傾向がある。
そんな、賑やかで生活力に溢れた周辺の人間群像ドラマがきちんと描かれているからこそ、この町に戻って来て、町の人と溶け込めず、行き場所(=生き場所)がなくさまよい続ける、なおこの孤独が次第に浮き彫りになって行くのである。
(以下ネタバレにつき隠します)
なおこは、高校教師のカシマ(江口洋介)と逢い、恋を育んでいるのだが、次第に、奇妙な謎が浮かび上がって来る。カシマの姿が、途中で消える事が多々あるのだ。
実は、カシマは既に死んでいる事が最後に判明する。
それまでに、いくつかのヒントや伏線が巧みに配されているので、決して反則ではないし、うまく作られている事に感心する。
だが重要なのは、この作品はそういうどんでん返しのトリックを売りにする作品では決してないという点である。
この事実が判明する事によって浮かび上がるのは、なおこの深い孤独感である。
それは、カシマが旅館からいなくなった後、なおこが公衆電話からカシマに電話をかけ、「うち、寂しゅうてたまらんの。何でこんなに寂しいがや…」と泣き崩れる名シーンでも明らかである。
人間は誰もみな、寂しい存在である。寂しいから、人を求め、人を恋する。裏切られても、それでも人を求めずにはいられない。
野ばら美容室に集まって来るオバちゃんたちも、実は寂しいのである。だから集まって来ては、他愛もない下ネタ話に花を咲かせるのである。
なおこは、結婚していた男に愛想を尽かし、戻って来た故郷の町で、新しい男を求めようとする。
だが、幼なじみのみっちゃんも、ともちゃんも、男に失敗している。町の男たちはみんなろくでなしばかりだ。かといって、オバちゃんたちのようにふてぶてしく居直る事も出来ない。
なおこは現実世界の男たちに幻滅し、そして今はこの世にいない、理想の男=カシマに恋し、それを現実と思い込もうとするのである。
空想の世界に浸り、永遠の理想の男に恋する事で、なおこは寂しさから逃れる事が出来るのだ。
みっちゃんたちも、それを知っていて、そっと彼女を見守っているのである。
哀しく、切ない話である。
その、なおこの孤独感を強調する為に、映画は最後まで秘密を明かさないで置くのである。途中でバラしてしまっていたら、最後の感動は今一つ弱まっていただろう。
最初は、ぶっ飛んだ、ヘンテコな登場人物ばかりの中で、なおこだけがマトモな人間であるように見えるのだが、実はなおここそが、マトモでなかった、というオチは皮肉である。
ちょっと残念なのは、同じトリックを使った映画が今年初め、行定勲監督によって作られ、先に公開されてしまっている点である。その為あっちを先に観た人は、既視感に襲われる事となったかも知れない。
(↑ネタバレここまで)
最後のシーンがいい。なおこの一人娘、ももちゃんが、母を探し、波打ち際にやって来る。
母を呼ぶももちゃんの声に、なおこはゆっくり振り返る。
その、なおこの顔がとてもいい。…恋に恋する女から、子供を思う母の顔に戻った瞬間である。
この娘が傍にいる限り、なおこの孤独は、癒されるかも知れない。…そうであって欲しいと、願わずにはいられない。
いくつかの名セリフも印象的だ。
「男の人生は、真夜中のスナックや」
「人は二度死ぬがやと。一度目はこの世におらんようになった時。二度目は人の心の中におらんようになった時」
どちらも原作にある。但し後者を口にするのは、原作ではともちゃんではなく、お祖父さんである。
人間という存在の、おかしさと哀しみ、その底にある孤独感を、見事に描き切った、吉田大八監督の、これまでの最高作である。無論、原作にない、カシマのエピソード等を巧みに網羅し、再構成した奥寺佐渡子の見事な脚本も特筆しておきたい。お奨め。 (採点=★★★★☆)
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