「春との旅」
2010年・日本:ティ・ジョイ=アスミック・エース配給
原作・脚本・監督:小林 政広
「バッシング」(05)、「愛の予感」(07)で知られる小林政広監督が、10年前から企画を温め、8年かけて脚本を仕上げた執念の力作。主演の仲代達矢は、「約150本の出演作品の中で、5本の指に入る脚本」と絶賛したと言う。
北海道で漁師をしていた忠男(仲代達矢)は、足を痛め、今は19歳の孫娘の春(徳永えり)と二人で暮らす。春の勤めていた小学校が廃校となり、失職した事から、春は東京に出て仕事を探そうとするが、足の不自由な忠男を一人には出来ない。忠男も、若い春の将来を考え、悩んだ末に二人は、忠男の世話を頼むべく、疎遠だった姉兄弟を訪ねる旅に出る…。
老後をどう生きるか…という、切実なテーマに迫った意欲作である。旅は北海道から始まり、東北、仙台を回って、最後にまた北海道に渡る。典型的なロードムービーである。
(以下、ややストーリーに触れます)
忠男には、4人の姉兄弟がいるのだが、どうも忠男は自分勝手に、気ままに生きて来たようで、どの兄弟からも快く思われていない。偏屈で、相手が気を悪くするような言葉を平気で言ってしまう。
最初に訪ねた長兄の重男(大滝秀治)の所でも横柄な態度で、重男に「それが人に物を頼む口の聞き方か!」とたしなめられる。
だが、重男夫婦も高齢で、やがて老人ホームに入るつもりである事が分かる。
去って行く忠男たち二人を、重男と妻(菅井きん)が、これが最後の別れであるかの如く涙を堪えながら見送る姿がさりげなく捉えられ、憎まれ口を叩きあっても、心の中には断ち難い肉親の情がある事を伝えている。
こうした、愛憎半ばする微妙な心の葛藤は、その後の長女茂子(淡島千景)、末の弟・道男(柄本明)の所でも、態度の違いはあれど同様に展開される。
茂子は、「春ちゃんはここで働いてもいいけど、あなたは一人で生きて行きなさい」と突き放す。
だが、秀逸なのは、この箇所における脚本の見事さと、その意図を十分に読み取ったベテラン俳優の演技である。
表面的には、やさしく諭すように言い、春に対する思いやりも感じられる茂子だが、内心は“こんな偏屈な弟に、働きもせず居候されるのは周囲にも迷惑だ”という気持があるようにも感じられる。
その茂子の気持も悟っているかのように、忠男は、「姉ちゃんには頭が上がらない」と、あっさり諦めて去って行く。
道男の所でも、大喧嘩をやらかして、また居られなくなってしまう。
ここでも、去り際に道男夫婦は、忠男たちにそっとした気遣いを見せている。
これらの微妙な心の綾が、巧妙な伏線となってラストに、忠男の本当の心情が明らかになって行く。
(以下、ネタバレです。映画を観た方のみ反転させてください)
忠男は、実はこの旅を、姉兄弟たちとの最後の別れを交わす旅と考えていたのかも知れない。
ひょっとしたら、自分の命も、あまり長くはない、と予感していたフシもある。
だから、最初から、彼らの世話にはなるつもりはなかったのだろう。だからわざと偏屈で、相手を怒らせるような態度を取っている。
現実には、彼らも忠男を世話する余裕はなかったから好都合だった。
姉兄弟との別れ際は、それ故、いずれも情感に溢れた、しみじみとした切なさに満ちた演出が施されている。演技のうまいベテランを配した事も相乗効果となっている。
その事が証明されるのは、春の父親・真一(香川照之)の牧場に行った時である。
真一の妻・伸子(戸田菜穂)は、血の繋がっていない忠男に、お義父さんと一緒に暮らしたい、と申し出る。
それに対し、忠男はやんわりとその申し出を辞退する。
願ってもない申し出なのだし、旅の目的(と最初は思われた)であった、“誰かの世話になる”願いが叶うわけだから、(特に、自分勝手な人間であったなら余計)喜んでこの申し出を受けるはずである。
それを辞退したという事は、“誰の世話にもならない”強い意思の表れであると考えるのが妥当だろう。
無論、いろいろな人と触れ合う事で、頑なな心が解きほぐれて行った、と解釈する事も出来るが、77歳にもなった老人が、このくらいの旅で人間性がそう簡単に変わるものではない。
ラストで、忠男が電車の中で突然倒れたのは、私は、すべての人と最後の別れを交わし、思い残す事はなくなった忠男の死、と考えれば納得が行くのである。
(↑ ネタバレここまで)
春が、旅の間中、読んでいた文庫本は、林芙美子原作の「放浪記」だそうだ。
“花の命は短くて、苦しき事のみ多かりき” という名文句で記憶される「放浪記」を旅の友、としている事自体が、忠男の運命を象徴しているような気がする。
この映画でもう一つ、印象的なのは、女性の生き方、である。
男性がいずれも、つっけんどんだったり、ぶっきらぼうであるのに対し、忠男が旅の途中で出会う女性はどれも清楚で、思いやりがあって、強く前向きに生きている。
2番目に出会う、刑務所に入っている三男の内縁の妻・愛子(田中裕子)は、流行らない食堂をずっと守って、夫の出所を待ち続けている。その、不幸にもめげずたくましく生きる彼女の人生に、忠男も春も心打たれる。
長女・茂子も、一人で旅館を切り盛りし、信念を持って毅然とした生き方を貫いている。忠男が頭が上がらないのも当然である。
そして、春の父の後妻である伸子は、血が繋がっていないにもかかわらず、一番忠男に思いやりの心を示している。
こうした女たちと触れ合う事によって、最も感化され、成長するのは春である。
自分と同性の女たちの力強い生き様から、春はさまざまな事を学んで、最初は持て余していた忠男を、最後には自分が面倒を見て生きてゆこうと決心する。
この映画は、春という女性の、心の成長の物語であるとも言えるのである。
春に扮した徳永えりが、最初はオドオドとした仕草に、子供っぽいガニ股歩きをしているのも、他人と触れ合う機会が少なく、未熟な半人前の人間である事を強調させる為の計算なのだろう。…ただ、ちょっとやり過ぎな気がしないでもないが。
全体的には、小津安二郎監督の「東京物語」を思い起こさせる。
家族の絆の脆さ、老人の老後の人生、人間のエゴイズム、そしてロードムービー…と、共通する要素は多い。
一番老人に優しい心遣いを示す、肉親でない伸子のキャラクターも、「東京物語」の紀子(原節子)を思わせる。
それにしても、俳優が豪華である。
仲代達矢に、大滝秀治、菅井きん、淡島千景、田中裕子…と昭和の名優勢揃いである。無論、柄本明、香川照之、小林薫、戸田菜穂らの脇も申し分ない。
やや難点を挙げれば、俳優がセリフを喋っている時、その顔が画面に写らず、画面外から声が聞こえて来るシーンが何箇所かあった。
セリフを喋る俳優の表情も映画では重要である。小津映画をリスペクトするなら、俳優が喋るシーンは律儀なまでにバストショットでその表情を捉えた小津演出を見習って欲しい。
あと気になったのは、佐久間順平の音楽である。いい曲である事は認めるが、全編にわたって高らかに響りっ放しで、耳障りである。もう少し抑えた、静かな音楽の方が良かったと思う。
ともあれ、人生とは、生きるとは、老いる事とは、…さまざまな事を考えさせてくれる力作である。 (採点=★★★★☆)
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コメント
いやあ、素晴らしいレビューですね。
そうか、あの老人には最初からそういう覚悟があったのか。
そうですよね。
あの歳になって、あの偏屈さで、あの程度のことで感化されるはずはない。
戸田菜穂は原節子。
そうか、そうですよね。
投稿: えい | 2010年5月23日 (日) 09:35
◆えいさん
コメントありがとうございます。
私の作品論は、多少独断が入っておりますので、監督が読んだら、「そりゃ考え過ぎだよ」と笑われるかも知れません(笑)。
それはともかく、この映画には、よく観るといくつもの謎があるのですね。
・忠男は、冒頭の出発時、何故あんなに怒っているのか。
・長兄の家では、何故あそこまで相手を怒らせるような言葉を吐くのか。
・春は、今どきの若い女の子にしては何故あんなに子供っぽい服装や歩き方なのか。
・何故誰も(特に若い春は)携帯電話を使っていないのか。
・ラストシーンの忠男はあれからどうなったのか。
…等々
その謎を、観客にいろいろと考えさせる事も、作者の意図だと思うのです。
投稿: Kei(管理人) | 2010年5月26日 (水) 02:13