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2010年6月29日 (火)

「ダブル・ミッション」

Spynextdoor 2009年・米/ライオンズゲイト=リラティヴィティ・メディア
原題:THE SPY NEXT DOOR
監督:ブライアン・レヴァント
脚本:ジョナサン・バーンスタイン、ジェームズ・グリア、グレゴリー・ボイリアー

ジャッキー・チェンのハリウッド進出30周年記念作品。…と謳ってはいるが、別に特別に金をかけてるわけでも、あるいはお祝いに誰かがゲスト出演してるわけでもない。気軽に楽しめる、コメディ・アクション映画である。

ただし、冒頭にセピア調モノクロで、過去のジャッキー主演(「プロジェクト・イーグル」「ラッシュアワー1,2」「タキシード」)のワンシーンが引用されており、ファンとしては懐かしさがこみ上げ、感慨深いものがある。
でも、引用するなら、もう少しジャッキーの代表作にして欲しかった気もするが…。まあこれは、ジャッキーの役柄が“永年CIAで活躍してきた敏腕エージェント”である故、そうした経歴を紹介する為にスパイ・アクション的シーンを探して来た結果なのかも知れないが。

それよりも個人的には、そのシーンにカブる音楽が、ジョニー・リヴァース歌う同名のテレビドラマ主題歌「秘密諜報員」(原題Secret Agent Man。ベンチャーズの演奏でも有名)であったのが懐かしい。

表向きはペンのセールスマン、実はCIAエージェントのボブ・ホー(ジャッキー・チェン)は、これまでいくつもの危険な任務をこなして来た。ボブはある日、隣家に住むシングルマザー、ジリアン(アンバー・ヴァレッタ)に一目惚れし、スパイ稼業から引退を決意するが、ジリアンの3人の子供たちが、ダサい外見のボブとの結婚に猛反対。そんな時、ジリアンの父が入院し、ジリアンは付き添う為、実家に帰る事となる。ボブは子供たちと仲良くなるチャンスとばかり、3人の子供たちの面倒をみる事を引き受けるが、好奇心旺盛な長男のイアンが、ボブのパソコンからロシア当局の秘密データをダウンロードしてしまった事から、彼らは国際スパイ組織に狙われるハメになる…。

スパイである事を隠す為、ボブが普段はメガネをかけてダサいオヤジに見せている…というあたり、「スーパーマン」を初めとしてこの手のヒーローものではよくある設定。確か「蘇える金狼」の松田優作もそんな感じだった。

この外見の為に、子供たちがなかなかボブになついてくれない、という物語の伏線になっているのがうまい。

お話は他愛ないのだが、3人の子供たちのキャラクター設定がそれぞれによく出来ている。年頃の長女ファロン(マデリン・キャロル)は、実は先妻の子で、ジリアンは継母である為、どうしても彼女を“ママ”と呼べずにいる。長男のイアン(ウィル・シャドレイ)はいたずら好きでよく問題を起こす。次女のノーラ(アリーナ・フォーレイ)は天真爛漫でこれまたボブを手こずらせる。

この子供たちが、ボブとの触れ合いの中で、徐々に心が解きほぐれて行き、またボブに何度も危機を助けてもらううちに、次第に強い絆で結ばれて行くのだが、このプロセスが丁寧でホロリとさせる。ボブがスパイである事を知って、ジリアンは怒り、絶縁を宣言するのだが、今度は逆に子供たちが懸命に努力して、ジリアンとボブの仲を繋ぎ止めようとする。
ファロンが最後に初めてジリアンを「ママ」と呼ぶシーンは泣かせる。

只のドタバタ・コメディには終わっていない。親と子の絆の大切さ、そして子供の為に、愛の為に戦うジャッキーの奮闘ぶりにちょっとハートがウルウルしてしまう、素敵なコメディの快作であった。
さすがは、「ベートーベン」、や「ジングル・オール・ザ・ウェイ」等の、ハートフルな動物ものや子供ドラマが得意なブライアン・レヴァント監督だけの事はある。

無論、多少衰えたとは言え、まだまだ健在なジャッキーのアクロバティックなアクションも見応えはあるし、今となってはレトロなスパイの小道具も楽しい。好奇心旺盛な長男のイアンに秘密兵器を隠されてしまい、仕方なく家の中の冷蔵庫やフライパンを使って敵と戦うアクションも笑える。
長男の名前、イアンは、007の原作者、イアン・フレミングから拝借したのかも知れない。

古くからのジャッキー・チェン・ファンにとっては、過去のジャッキー映画に登場したアクション・スタントがさりげなく引用されているシーンを探すのもお楽しみである(少しだけ紹介すると、自転車のアクションは「プロジェクトA」、脚立を使ったアクションは「ファイナル・プロジェクト」、デパート内の垂れ幕飛び移りは「ポリス・ストーリー/香港国際警察」だろう。冷蔵庫アクションもどこかで見た記憶が…)。

エンド・ロールでのNG集も、ジャッキー映画ではお馴染み。やっぱりこれがなくちゃね。

…といったわけで、本作はまさにジャッキー・チェン映画の集大成といった趣で、初期の頃からのジャッキー・チェン・ファンは必見の楽しい作品である。

昨年のシリアスな「新宿インシデント」は、陰惨なシーンが多くてやり切れなかった。元々、バスター・キートンやハロルド・ロイド等のサイレント・スラップスティック・コメディへのオマージュをふんだんに盛り込んで成功して来ただけに、やはり彼には陽気なコメディ・アクションが肌に合っている。“引退”がキーワードになっている本作だが、いつまでも体の続く限り、アクション・コメディを作り続けて欲しい。

 
なお、日本ではハリウッド進出30周年、と騒いでいるが、本作の製作年度は2009年。厳密には30周年ではない。

で、2009年を基準にするなら、実は2009年は、1979年に我が国で初めてジャッキー・チェン主演作が公開されてから30周年に当るのである。

その記念すべきジャッキー・チェン本邦初登場作品は「ドランク・モンキー 酔拳」(78)。なんと、東映の邦画番線で、菅原文太主演の「トラック野郎/熱風5000キロ」(79)の2本立の添え物(悪く言えば付録)であった。

当時は誰もジャッキー・チェンなんか知らなくて、輸入した配給会社(東映洋画部)も興行的に自信がなかったのだろう。ジャッキーのルックスも、整形前で鼻がデカかった(失礼)せいか、ポスターも、「ルパン三世」で若者に人気があったモンキー・パンチの描いたイラストが主体であまり素顔は表に出さず、とにかく当るとは誰も思っていなかったフシがある。

ところが公開されるや、その軽快でアクロバティックなカンフー技が俄然評判となって、メインの「トラック野郎」を上回る人気を博し、以後、「××モンキー ○○拳」という題名のジャッキー・チェン主演カンフー映画が続々公開される事となったのである。…早や、あれから30年も経ってしまったのかと、感慨ひとしおである。

そんなわけで、個人的には本作は、ジャッキー本邦デビュー30周年作品、と呼ぶ方がふさわしいのではないかと思っているのである。    (採点=★★★★

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2010年6月22日 (火)

「アウトレイジ」

Outrage 2010年・日本/オフィス北野=ワーナー配給
監督:北野武
脚本:北野武
撮影:柳島克己
音楽:鈴木慶一
プロデューサー:森昌行、吉田多喜男

作る度に常に話題を振りまく、鬼才・北野武監督の、15作目に当る新作。

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2010年6月16日 (水)

「孤高のメス」

Kokounomesu 2010年・日本/東映配給
監督:成島 出
原作:大鐘 稔彦
脚本:加藤 正人

現役の医師である大鐘稔彦の同名ベストセラー小説の映画化。監督は「フライ、ダディ、フライ」「ミッドナイト イーグル」等の成島出。

原作は文庫本で全6冊にも及ぶ大作。作者本人も手がけたと言う、「エホバの証人」の無輸血手術など、豊富なエピソードが網羅された、現代の医療制度の問題点も突いた話題作である。

観る前は、深刻な暗い話かなと思っていた。山崎豊子原作「白い巨塔」みたいな作品かとも想像した。

ところが観て驚いた。なんと爽快で心温まるエンタティンメント感動作だった。何度も泣いた。これは意外なと言っては失礼だが、掘り出し物の泣ける秀作である。お奨め。

 
素晴らしいのは、主人公・当麻鉄彦(堤真一)のキャラクター造形である。ピッツバーグ大学で外科手術を学んだという天才的な医師で、手術の腕前は超一流、それでいて少しも偉ぶらず、名誉も欲にも無関心、ただ患者の命を救う事だけを信念とし、困難な手術に取り組んで、周囲の人々の信望を集めて行く。…まるで、「赤ひげ」と「ブラック・ジャック」を足したような理想のキャラクターである。

傑作なのは、「手術は編み物にも似て根気がいる作業、だから演歌が似合う」と語り、手術中に都はるみのカセットを流したり、彼を気に入った市長(柄本明)がセッティングした見合いの席でも、まったく気付かないで周囲を呆れさせる。
こういうユーモラスでトボけたキャラクター設定が、主人公の人間的な奥行きの深さを示すと同時に、暗くなりがちな物語に明るさと爽やかさをもたらしている。

膨大な原作から、当時(1989年)まだ法的に認められていない脳死肝移植にポイントを絞り、ダイナミックに再構成した脚本(加藤正人)が素晴らしい。最近でも、「雪に願うこと」「クライマーズ・ハイ」成島出と共作)など、骨太の力作が目立つベテラン加藤正人だが、本作はそれらをも超えた見事な出来である。本年度の最優秀脚本賞候補だろう。

映画は、かつて地方病院の看護師を勤めていた中村浪子(夏川結衣)が亡くなった現代からスタートし、その息子・弘平(成宮寛貴)が、彼女が残した、20年程前に書かれた日記を読む事で、浪子の目から見た当麻鉄彦の人間像とその行動が語られるという構成。ラストに、何故現代からスタートし、回想形式にしたか、その理由が見事なオチで示される。秀逸!

時代は1989年、ある地方都市の市民病院が物語の舞台となる。大学病院から出向して来た、横柄で腕は大した事のない野本外科医長(生瀬勝久)が牛耳るこの病院では、医療ミスや無気力・怠慢が横行し、看護師たちも情熱を失いかけている。しかし大学病院に医師派遣を頼らざるを得ない病院側は、なすすべもない。

そんな町に、フラリと現れた当麻は、着任早々、外科医長が手に負えず、大学病院回しになりかけた患者の手術を成功させ、その後も次々難手術を見事にこなして行く。
命を助けられた患者からは感謝されるが、それでいて少しも偉ぶらない。病院に勤務する多くの医師や看護師は当麻に心酔し、浪子もその人間性に魅かれて行く。

医療とは本来どうあるべきか、を問い直す社会派ドラマとしてもよく出来ているが、凄腕の医師が、モラルも技術も荒んだ病院を建て直し、人々に勇気を与えて行く、これは“正義のヒーロー”が活躍する、エンタティンメント・ドラマにもなっているのが素晴らしい。

当麻の力になりたいと、メスを渡すタイミングを練習したりする浪子は、いつしか彼に尊敬以上の念を抱き、また、人の命を助ける医療従事者としての矜持を取り戻して行く。
本作はまた、浪子の、心の成長の物語でもあるのである。

ある日、市長が末期の肝硬変で倒れる。助ける為には生体肝移植しか道がないが、それはドナーの命を危うくする危険なオペでもある。

そんな折、小学校教師で、浪子とも仲がいい武井静(余貴美子)の息子が交通事故で脳死に陥る。福祉活動に従事し、人の為に役に立ちたいと言っていた息子の遺志を生かす為、静は当麻に、息子の臓器提供を涙ながらに申し出る。だが法整備が出来ていない当時では、脳死肝移植は犯罪行為として刑事処罰の対象になりかねない。

彼を快く思わない野本医長はマスコミに情報を洩らし、当麻を病院から追い出そうとする。生瀬勝久が絵に描いたような悪役を演じているが、そういう狡すっからい人間も確かにいるだろうなと思わせるリアリティがあるのが逆に怖い。

情報を得た警察まで登場し、「刑事告発するかも知れない」と脅しをかけて来る。だが、当麻は全くひるまない。彼には、それが法に触れるかどうかは大した問題ではないのである。
彼の内面には、目の前に助かる命があるなら、どんな事をしても助けようとする、医者としての使命感があるのみである。

そこから先の物語はここでは書かないが、私はこれ以降、もう泣きっぱなしであった。感動で何度も涙を拭った。

泣ける理由は、命の尊さをストレートに訴えた直球展開にある。

命は、かけがえのない、尊いものである。自殺者が毎年3万人を越え、命の軽さが蔓延する現代において、例えマスコミで叩かれようとも、法律で罰せられようとも、医者として、とにかく人の命を救いたい…その事だけにひたむきに全力を傾ける当麻の行動は、ひときわ胸をうつ。まさに彼こそ、孤高のヒーローなのである。

 
人によっては、あまりに理想的過ぎる、そんな人間は現実にはいない、と醒めた見方をする人もいるだろう。

だが、この物語はフィクションである。正義のヒーローが活躍するフィクションに、人は喝采を送って来たのではないか。現実には起こり得ない話であっても、せめてドラマの中に、人は高い理想の姿を追い求めたいのである。―いつの日か、その理想が現実になる時を夢見て…。

私は、本作を観て、フランク・キャプラのいくつかの名作を思い出した。キャプラ作品には、理想を追い求めるヒーローが人々を感化し、その理想が実現する物語が多い。「スミス都へ行く」「素晴らしき哉、人生!」「オペラ・ハット」等々である。彼の作品も、理想主義的過ぎて現実味に乏しい、と揶揄されたものだが、それでも多くの人を感動させ、今もなお名作として語り継がれている。

当麻のような医師は、現実にはいないだろう。…だが、いて欲しい、という願望は多くの人の心にある。そんな理想の姿が映画館の大画面に展開するからこそ、そして自分は、そんな人間にはなれない、という慙愧の思いがあるからこそ、涙を呼ぶのである。

ラストシーンがとてもいい。(ここからはネタバレに付隠します)
現代に戻って、母の日記を読み終えた弘平は、とある地方の病院に医師として赴任する。ちょうど20年前の当麻のように。

院長を待つ間、弘平はボードに置かれた、都はるみのCDを見つける。観客は、あれ、ひょっとして、と思う。
そして、机の上に、当麻が浪子たちと撮った最後の記念写真を弘平が見つける。

ここで観客はジワーっと心が温かくなるはずである。

地方病院を去った当麻が、その後どうなったかを、観客も知りたいはずである。
これらのショットを見せる事で、観客は、当麻が地方病院のトップにまでなっていた事を知って、ホッとし、良かった…と感動する。

さらに、浪子から当麻の人間的素晴らしさをずっと聞かされていただろう弘平が、当麻と同じ道を進んだ事にも感動する。
当麻の姿が見えない点も憎い演出である。
静も言っていたが、“人は、つながっている”事を示す、日本映画らしからぬ、まさにキャプラ的、心温まる素敵な名シーンである。

(ネタバレここまで)
ダサい、と言われていた日本映画も、こんな粋でウィットに富んだしゃれたラストシーンを描けるようになった…その事も私の胸を熱くした。

当麻を飄々と演じた堤真一が素晴らしい。彼の最高の演技である。…そして、余貴美子がやはりいい。「おくりびと」「ディア・ドクター」、そして本作と、奇しくもここ3年続けて、“命と向き合った感動の傑作”に助演して作品の力となっている。前記2作は共にキネ旬ベストワンとなり、映画賞を独占したが、本作も十分狙える位置にある。

成島出監督も、前作とは見違えるような風格ある、どっしりとした演出ぶりが光る。そして重ねて言う、脚本が見事。観ておいて損はない。イチ押しである。   (採点=★★★★☆

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(さて、お楽しみはココからだ)
本作には、もう一つ、西部劇的な隠し味があるのもお楽しみである。

なにしろ、腕の立つヒーローが、とある地方の町にフラリと現れ、凄腕を発揮してたちまち町の人々から慕われ、いくつかの正義を実行し、悪を駆逐し、そしてまたフラリと去って行く…というお話である。

「シェーン」を代表とする、正統西部劇のパターンそのままである。ヒロインがヒーローにほのかな思いを抱き、その息子も男に畏敬の念を抱く所まで「シェーン」そっくりである。

当麻が、あっという間の早業で手術を成功させ、悪役医長が形無しになる展開も、まさに目にも止まらぬ早撃ちで悪人どもの度肝を抜く、例えば「荒野の用心棒」などのパターンそのままである。

刑事告発する、と刑事が脅すくだりも、町のボスの息のかかった悪徳保安官が主人公を、難癖つけて逮捕しようとする、B級ウエスタンによくあるパターンを彷彿とさせる。

特に西部劇らしいのは、最初に当麻が登場するシーンである。
大きなトランクを引きずった当麻が、後姿で登場し、市民病院を見上げる。

この、主人公が最初に、後姿で登場するシーンも、西部劇ではお馴染みである。
前述の「シェーン」も、「荒野の用心棒」も、フランコ・ネロ主演「続・荒野の用心棒」も、いずれも主人公の最初の登場シーンは、後姿である。そう言えば「荒野の用心棒」の元ネタとなった、黒澤明の「用心棒」もまた、主人公は後姿で登場する。
特に「続・荒野の用心棒」では主人公ジャンゴは、大きな棺桶を引きずって登場するのだが、当麻が引きずる大きなトランクがこの棺桶を連想させてニヤリとさせられる。

当麻が病院を去るシーンもいい。当麻に一言礼を言いたい浪子が、「わたし、都はるみが大好きです」と言うシーン、これは「映画がはねたら、都バスに乗って」ブログのジョーさんも指摘しているが、ジョン・フォード監督「荒野の決闘」で、ヘンリー・フォンダ扮するアープがヒロインに、「私はクレメンタインという名前が大好きです」と告げるシーンを思い起こさせる。
ちなみに、「荒野の決闘」の、アープに友情を示す印象的なサブ・キャラクターは、医者でもあるドク・ホリディである。

この映画が、社会派的なテーマを持ちつつも、爽快な後味があるのは、西部劇のパターンをうまく取り込んでいるせいかも知れない。

(そう思っているのは私やジョーさんだけではないようで、キネ旬の特集号を読んだら、脚本家の桂千穂さんも、これはウエスタンだと指摘していた)

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2010年6月12日 (土)

「座頭市 THE LAST」

Zatohichi 2010年・日本/フジTV=東宝
監督:阪本 順治
原作:子母澤 寛
脚本:山岸 きくみ 

勝新太郎の当り役であった“座頭市”の、“これが最後”とのふれ込みによる映画化。

…であるのだが、主演がSMAPの香取慎吾なのにはガックリだ。あの天才、勝新太郎が心血を注いで自らのライフワークとした、稀代のヒーローを演じるには、経験も貫禄も不足している。最低でも、ある程度時代劇映画に出演して、殺陣の基礎が出来ている役者でなければ。
監督が贔屓の阪本順治でなかったら、多分観なかっただろう。阪本監督なら、人気タレントに頼った安直な企画でも、なんとかしてくれると淡い期待を抱いたのだが…。

香取慎吾は、思ったほど悪くはない。よく頑張ってるとは思う。貫禄不足であっても、映画として面白く作られておれば評価するのにやぶさかではない。

だが、映画の出来はなんともお粗末だった。ガックリどころではない。今年のワースト候補である。阪本順治作品としても最低の出来だ。

酷い出来となった要因はいくつかあるが、一番酷いのは脚本である。酷すぎる。書いたのは山岸きくみ。聞いた事がない。調べたら、映画のシナリオはこれまで「カタクリ家の幸福」(2001)1本だけだという。三池崇史監督のケレン味のある演出以外に見どころのない凡作だった。
ほとんど実績もなく、ましてや時代劇の脚本など書いた事もない新人に依頼するなんて、製作者は映画をナメてるとしか思えない。

 
さて、脚本のどこが悪いかと言えば、“中途半端”……この一言に尽きるだろう。あらゆる展開において中途半端である。

(以下、ネタバレあり)
まず、市の行動心理が中途半端。最愛の妻を失い、身も心も疲れ果て、故郷の村に舞い戻って、旧友の柳司(反町隆史)の元に身を寄せ、どうやらもう刀は捨てて堅気の生活を始める…のかと思ったら、さして心の葛藤もなく、あっさりと博打場に顔を出したり、刀を振り回したりの豹変ぶり。何を考えてるのかさっぱり分からない。
舞台となる場所がこれまた中途半端。最初は田植えを手伝ってるから農村だと思ってたら、いつの間にか舞台が漁村になって、柳司たちは魚を獲っている。台詞の中にも“百姓ども”とかの言葉が出てくるのだが、百姓は魚を獲らない、それなら“漁師”と呼ぶべきだ。悪役の天道一家が港を作ろうとして、漁師たちに立ち退きを求める、という展開にするのであれば、舞台は漁村だけに絞るべきだろう。

市の妻、タネ(石原さとみ)の命を奪った虎治(高岡蒼甫)のキャラクターがまた、どうしようもない中途半端。最初の登場で「市を斬れば名が上がる」とそそのかされて、市に突進し、誤ってタネを刺してしまうのだが、てっきり功名にはやるチンピラだとばかり思ってたら、なんと天道の息子だという。それならほっといても二代目を次いで親分になれるだろう。なんで、まかり間違えれば市に斬られるリスクを犯そうとするのか意味不明。
その虎治が、日頃は花の絵ばかり描いている、という人物描写も中途半端。それならヤクザの親元に居候などせずに、どこか静かな土地に移ればいいだろうに。ところが冒頭では刀を握って市を斬ろうとするし、ラストでは不思議なことに[拳銃]を握ってる。いったいそれはどこで手に入れたのか、何で絵描きが持ってるのか。その伏線もなく、唐突この上ない。そもそもこの男は、絵描きになりたいのか、ヤクザになりたいのか、どっちなのだ。

市にニセの嘆願状を託し、囮に使おうとする柳司の行動も中途半端。自分が嘆願状を届けようとするのはいいが、天道に市が右の道(行き止まり)を行ったと情報を流すのは逆効果。右が行き止まりというのは土地の人間なら知ってるわけだから、案の定それが囮とすぐに見破られてしまう。黙ってこっそり行く方がマシだった。
しかも、代官所に向かうのかと思ってたら、役人の方が村にやって来る。この後のグダグダ展開は書くのもイヤになる。
さらに、行き止まりだという右の道を行った市が、追って来たヤクザと斬りあっていたら、いつの間にか左の道に出て来て役人や柳司と鉢合わせしたのにはズッこけた。いったい地理関係はどうなってるのだろう。ワープしたのだろうか(笑)。

出てくるその他の脇の人物も、中途半端なのが多い。その際たるものが、中村勘三郎扮する賭場の中盆。えらく貫禄があるし、市に言葉をかけるので、てっきりもう一度終盤に出て来て見せ場を作るのかと思ったら、なんと出番はそれっきり。名優を、なんというもったいない使い方をするのか。
原田芳雄扮する医者らしき男も大して意味のある役ではない。この二人、まるまる出番をカットしても全然影響ないだろう。

 
そもそも、脚本家は「座頭市」という作品や、その人物像をどれだけ研究したのだろうか。何本かでもシリーズ作品を観ていたら、こんなヘンテコなストーリーにはならないはずだ。
冒頭で、市はヤクザたちに追われている。「市を斬れば名が上がる」とも言われている。つまりは市は、裏社会では名が知れた凶状持ちである。この設定は、カツシン版にも確かに出て来る。
それなら、ヤクザで賭場も開いている天道一家が、座頭市を知らないはずがない。顔を知らなくても、異様な雰囲気の按摩がどこからともなく流れ着いたのなら、座頭市ではないかと疑うのが普通だろう。ところが天道親分(仲代達矢)は市を呼び止め、肩を揉ませる無防備ぶりで、子分も誰も疑わない。ノンキ過ぎるのではないか。ましてや市を知る虎治もいる事だし。

カツシンが演じた座頭市は、メクラというハンディを乗り越え、目にも留まらない剣さばきで向かうをなぎ倒し、何十人が束になっても敵わない、化け物のような異形のスーパー・ヒーローである。とにかく強過ぎるのである。

敵が、あらゆる作戦を練ろうと、どんな卑怯な手を使おうと、罠を仕掛けようと、まるで歯がたたない。何人立ち向かおうと、次々切り倒し、市の方はほとんど傷を負う事もない(市が手傷を負ったのは、殺した男の妹に、手向かわずに斬られた「座頭市海を渡る」、三船敏郎の用心棒と対決した「座頭市と用心棒」他、強敵と闘った数作だけである)。そんな、天下無敵の超人ぶりに、観客は喝采を送ったのである。

本作の市は、そんな強さが感じられない。冒頭でも、ラストでも、強いとも思えないヤクザと斬り合っただけでかなり深い手傷を負っている。

おまけに、あっさり頭を殴られたり、ラストでは近寄ったチンピラに気付かず、刺されている。そんな事は、少なくともカツシン版では絶対にあり得ない。
というのは、市は(視覚以外の)五感が異様に研ぎ澄まされ、反射神経が並外れているからである。殴りかかられても、ヒョイとかわすだろうし、ましてや近寄る相手に気付かないはずがない。現に、1作目の「座頭市物語」では、やはりラストで、刀を捨てた市に近付いたヤクザをあっさりかわし、川に叩き込んでいる。

まあ、監督としては、人間的な弱さを持つ側面も描きたかったのかも知れないが、それなら“座頭市”でなく、オリジナル・キャラクターにすべきだろう。

そもそも、純陽性チャンバラ大活劇(であったはず)に、インディーズ出身で、社会派の問題作を多く手掛けて来た阪本順治を監督に起用したのが間違いである。起用するなら、チャンバラ映画やB級活劇をこなして来た、職人監督にまかせるべきであった。

どうも最近、力量はあるが、それまで時代劇を撮った事のない、どちらかと言えばアート系、又は社会派に近い監督に時代劇を撮らせ、ことごとく失敗するケースが多いように思う。「椿三十郎」の森田芳光、「カムイ外伝」の崔洋一、そして本作の阪本順治である。
3人とも、キネ旬でベストワンを獲得した事がある。順に「家族ゲーム」「月はどっちに出ている」「顔」が対象作品。いずれも社会情勢を見据えた問題作で、チャンバラ映画を撮るタイプの監督ではない。そう言えば昔、大島渚監督に大川橋蔵主演の「天草四郎時貞」を監督させ、ものの見事に大失敗した事もあった。

パーツとしては、いくつか印象的なシーンもある。冒頭の竹林の決闘シーンはシャープだし、桜吹雪の下をタネと歩くシーン、倍賞千恵子扮する老婆ミツと市との雪道での別れのシーンも絵になっている。
しかし、パーツは良くても、全体の構成が歪でガタピシなのでは話にならない。映画としては欠陥品である。

 
だが私は、香取慎吾も、荷が重過ぎた山岸きくみも、阪本順治監督も、責める気はない。すべての責任は、元々適任でない人材を起用したプロデューサーにある。誰かと見れば「少林少女」「アマルフィ」の亀山千広(昨年度の「映画秘宝」はくさい映画賞で見事特別功労賞を受賞)、それに「スノープリンス 禁じられた恋のメロディ」(こちらは、はくさい映画賞の最低作品賞受賞)の椎井友紀子であった。ワーストになる予兆はあったわけである。まもなく再開される、「映画秘宝」連載「日本映画縛り首」でもまず間違いなく槍玉に挙げられるだろう。
それにしても、亀山氏はともかく、阪本監督と組んで数々の秀作を送り出して来た椎井プロデューサーの最近の体たらくはどうした事か。期待しているからこそ採点も辛くなる。猛反省を促したい。     (採点=

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(6/23 付記)
6月21日発売の「映画秘宝」最新号を見たら、上記に書いた「日本映画縛り首」のリニューアル新連載が開始されていた。タイトルは「日本映画仕分け人」(笑)。ワースト映画も仕分けの対象か(笑)。メイン仕分け人はガースこと柳下毅一郎氏が前シリーズに引き続いての続投。ご苦労さまです。

で、栄えある第1回のトップバッターが、私の予想が見事に当って「座頭市 THE LAST」。見事にぶった斬ってくれてます。脚本についても「何を考えたらこんな脚本を書けるのか聞いてみたい」とバッサリ。まったく同感なのですが、ここまでケチョンケチョンにケナされると、逆に同情したくなります。まあ本年度のワーストテン入りは確定でしょう。

悪をバッサバッサと斬りまくるのが、座頭市映画の面白さだったわけですが、必殺仕分け人・ガース氏にアベコベにバッサリと一刀両断されてしまったのではシャレにもなんないですねぇ(笑)。

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2010年6月 6日 (日)

「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」

Vengeance 2009年・香港=フランス/配給:ファントム・フィルム
原題:復仇  英題:Vengeance
監督:ジョニー・トー
脚本:ワイ・カーファイ

「ザ・ミッション-非情の掟-」「エグザイル/絆」等のスタイリッシュなフィルム・ノワールで知られるジョニー・トー監督の新作。

本作もまさに前記2作の流れを汲む、フィルム・ノワールの快作である。

ただし、前2作とやや異なるのは、主演がフランスの超人気歌手・ジョニー・アリディだという点。
元々、トー監督に限らず、香港フィルム・ノワールは、本家フランスのフィルム・ノワール(ノワール自体フランス語)に多大な影響を受けている。
おそらくトー監督は、自分の作品の原点でもある、そうした作品群をリスペクトする意味で、フランス人俳優を起用したのだろう。主役に予定されていたのが、元々はフィルム・ノワールとも縁が深いアラン・ドロンであったという事実もそれを裏付けている(これについてはお楽しみコーナーでも詳述)。

配給会社もそれを意識したのか、最近突如復活したフランス・フィルム・ノワール「あるいは裏切りという名の犬」「やがて復讐という名の雨」(共にオリヴィエ・マルシャル監督)等と見まがうかのような邦題をつけている。

 
さて、映画が描くのは、原題(復仇/Vengeance)通り、復讐である。

ジョニー・アリディが扮するのは、フランスで料理店を経営するフランシス・コステロ。ある日マカオに住む、コステロの娘夫婦一家が襲われ、娘の夫と最愛の孫が惨殺され、娘も瀕死の重傷を負う。復讐を誓ったコステロは単身マカオに飛び、ふとした事から出会った3人の殺し屋クワイ、チュウ、フェイロクに、犯人探しを依頼する…。

設定として面白いのは、主人公コステロが、かつては名うての殺し屋であった過去を持ち、しかも頭に銃弾が残った後遺症で、徐々に記憶を失いかけている点、それと、コステロの“復仇”の相手が、実はクワイたちの属する組織のボスであった、という点である。

全人生を賭けた復讐の情念が、やがて頭の中から消えてしまうのではないか、という恐怖。それでも復讐は成し遂げられるのか、というサスペンスを孕んで、物語はラストのバイオレンスになだれ込んで行く。

そして見逃せないのは、クワイたちが、復讐の相手が自分たちのボスである事を知って、どう考え、どう行動するか、という点である。

組織への忠誠を取るか、それとも、依頼された仕事は狙う敵が誰であろうとも遂行すべきか…。
これが、この作品の重要なポイントである。

(以下ややネタバレあり)
殺し屋たちは、迷わず後者を選ぶ。
それは、いつしか、彼らとコステロの間に生れた、男同士の熱い友情が背景にあるからである。

コステロの、残された悲しい運命と、家族への思いに心打たれたクワイたちは、どこまでも、―例え組織から自分たちが狙われようとも、コステロとの、男の約束を果たそうとする。

これは泣かせる。まさにタイトル通り、“約束の銃弾”が炸裂するのである。

Vengeance2_2 そしてクワイたちが組織によって抹殺された事を知ったコステロは、今度は彼らの友情に報いるべく、単身ボスの元に殴り込みをかけるに至る。
…それはまさに、自分の娘たちの為であると同時に、クワイたちへの友情の証しでもある、二重の復讐なのである。

娘への復讐を忘れかけているのに、何故クワイたちの事は忘れないのか、という疑問も湧くが、これは、頭では忘れても男たちの心意気が詰まったハートは忘れない、と考えれば腑に落ちるだろう。

 
印象的なシーンはいくつかあるが、まず一つは、コステロがクワイたちを、惨劇のあった娘の家に案内するシーンである。

まだ血痕の残る家の中をゆっくり巡るうち、おぞましい惨劇の様子がフラッシュバックされる。
Tsuisou ここで私は、ロベール・アンリコ監督の隠れた秀作、「追想」フランス映画)を思い出した。

ナチス・ドイツによって、最愛の妻(ロミー・シュナイダー)を無残に殺された主人公(フィリップ・ノワレ)が、その復讐を果たそうとする物語だが、惨劇のあった邸内を見回って行くうち、主人公がその惨劇の様子を追想するさまが、フラッシュバックで描かれる。

“復讐”というキーアイテムと、主人公が目撃してはいないはずの惨劇シーンが、まるで眼前に繰り広げられているかのようにフラッシュバックされる、という共通項があるこの作品を、恐らくはトー監督が参考にしている可能性は高いだろう。
ちなみに、アンリコ監督作品には、男の友情が泣かせる「冒険者たち」(アラン・ドロン主演!)という傑作や、フィルム・ノワール色が濃い、J・P・ベルモンド主演「オー!」などがある、という点も要チェック。

もう一つ印象的なのは、その後のシーンで、コステロが、冷蔵庫の中の材料を使って料理を作り、クワイたちに食べさせるシーンである。

トー作品では、食事をするシーンがよく出てくるのだが、ここでは、依頼人がわざわざ作ってくれた料理を、心して食べる事によって、コステロと殺し屋3人組との間に、ビジネスを越えた深い男の友情が生れたのだろう。

ラスト間際にも、今度はコステロがクワイの家で、子供たちに囲まれて食事をするシーンが印象的に描かれる。
この、食事のお返しが、目的を果たせず倒れたクワイたちから、コステロがボス襲撃実行を引き継ぐという、友情のお返しに繋がっている、と見るのも面白い。

そう言えば、黒澤明監督の「七人の侍」においても、勘兵衛が湯気の立ち上る白い飯を手に取って、「この飯、おろそかには食わんぞ」と言うシーンがある。

相手から出された、心尽くしの食べ物を受け取る事によって、そこに“見返りを求めずに、他人を助ける男たちの心意気”が生れる事を黒澤明は描いているのかも知れない。
黒澤作品に限らず、深作欣二監督の「県警対組織暴力」の中でも、菅原文太扮する刑事が、松方弘樹扮する、組長を射殺し逃亡中のヤクザを助け、飯を食べさせてやるのだが、その後で松方が、泣きながら、食べた後の茶碗を丁寧に洗っている印象的なシーンがある。以後、二人の間には不思議な友情が生れる事となる。

洋の東西を問わず、食事を通して男の絆が生れる、という作品が少なからずある、という事は、研究に値するのではないか。

 
クワイを演じたアンソニー・ウォンが、「エグザイル/絆」に続いていい味を出している。ジョニー・アリディも見事にジョニー・トー世界に溶け込んでいる。スタイリッシュなアクション・シーンもいつもながら素晴らしい。男の哀愁とダンディズムに満ちた、これはジョニー・トー監督作の中では一番好きな作品である。   (採点=★★★★☆

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お楽しみはココからだ)
さて、本作を語る上で、どうしても外せないフランス・フィルム・ノワールの秀作がある。

ジャン・ピエール・メルヴィル監督「サムライ」(67)である。

主演はアラン・ドロン。寡黙だが腕の立つ殺し屋、というこの主人公の名は、ジェフ・コステロ。…本作のジョニー・アリディが扮した、元殺し屋である主人公と同じ苗字である。

主人公役には、元々アラン・ドロンを予定していた、という事から察しても、トー監督が本作の主人公を、「サムライ」の主人公コステロが、もし死なずに生きていていたなら(ドロンのコステロは最後に警官に射殺される)…という設定でこの物語を進めたかったのかも知れない。ドロン主演ならその点ピッタリだっただろう。

さらに、「サムライ」には、次のようなシーンが登場する。

コステロ(ややこしいから、以下ジェフという)が首尾よく仕事を終え、廊下に出た時、一人の黒人歌手とバッタリ出会い、顔を見られてしまう
その後、警察がジェフを容疑者の一人として連行し、黒人歌手を含めた目撃者たちに面通しをさせる
黒人歌手はその時なぜか、ジェフは目撃した犯人ではないと証言するのである。

黒人歌手を本作のコステロ、ジェフをクワイたちに置き換えれば、本作のコステロとクワイたちとの最初の出会いのくだりとそっくりである。
つまりは本作は、アラン・ドロン主演作「サムライ」に、トー監督がオマージュを捧げた作品、と見る事も出来るのである。

ジャン・ピエール・メルヴィル監督はフランス・フィルム・ノワールの巨匠であり、代表作には「サムライ」以外では、「ギャング」(リノ・ヴァンチュラ主演)、「仁義」「リスボン特急」(どちらもアラン・ドロン主演)等があり、いずれも、寡黙な殺し屋やギャングが主人公で、描かれるのは非情な暗黒街組織、男同士の友情、固い絆、あるいは裏切り…等、トー作品をはじめ、香港フィルム・ノワールに通じるファクターが沢山盛り込まれている。
多分に、当時全盛だった我が国の任侠映画ともカブる要素があり、その事もあるのだろうが、「仁義」という、東映任侠映画まがいの邦題を付けられた作品があるのが、今となっては懐かしいやら苦笑させられるやら…。

ちなみに、「仁義」は、トー監督自身の手によるリメイクの話も一時あった(現在は頓挫)というエピソードも、大変興味深い。

DVD[サムライ」

DVD「仁義」

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