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2010年9月30日 (木)

「十三人の刺客」 (2010)

13assassin2010年日本/セディック=東宝
監督:三池崇史
原作:池上金男
脚本:天願大介

1963年に東映で作られた、池上金男(後の小説家・池宮彰一郎)脚本、工藤栄一監督による集団抗争時代劇の傑作を、役所広司主演、三池崇史監督でリメイク。

オリジナルは、私も大好きな作品で、劇場でも5~6回、ビデオでも何回観たか数え切れない。何度観直しても面白い。時代劇映画史に残る傑作だと思う。
公開時は、当時無数に作られていた東映チャンバラ映画の1本と見做された為か、キネ旬ベストテンではなんと31位。得点は5点しかなかった。今から見れば信じられないくらいの低評価である。
だが、時代を経ると共に評価が高まり、カルト的な人気を得て、
文藝春秋社から出ている「洋・邦名画ベスト150・中・上級編」では、邦画のベストワンに選ばれている。

オリジナルが傑作だと、リメイクは大抵駄作になるのが最近のパターン(例;「椿三十郎」、「隠し砦の三悪人」)であるだけに、ちょっと心配したのだが、結論から言って、オリジナルに負けないくらいの秀作になっていた。これは見応えあり。旧作を知ってる人が観ても、十分堪能出来る。

弘化元年(1844年)、明石藩江戸家老間宮図書が、筆頭老中土井大炊頭邸の門前で訴状と共に自決した。これがきっかけとなり、明石藩主松平斉韶(なりつぐ)(稲垣吾郎)の異常性格と暴虐ぶりが幕閣の知るところとなったが、将軍徳川家慶の弟である斉韶には、幕閣は容易に手を出せない。しかし、家慶が翌年に斉韶を老中に抜擢する意向を示したことから、大炊頭(平幹二朗)は暴君斉韶の密かなる暗殺を決意する。大炊頭の命を受けた目付・島田新左衛門(役所広司)は13人の暗殺部隊を編成し、参勤交代により帰国途上の斉韶一行を中山道落合宿で待ち構え、襲撃する計画を立てる。

オリジナルは、“集団抗争時代劇”というジャンルを確立した名作である。クライマックスの、約30分に及ぶ13人対53騎の殺陣シーンが評判となったが、本作では敵の数も300人(と宣伝されているが、劇中では200余名と言っている)にパワーアップ、アクション・シーンも50分に延びている。その分、敵の数を減らす為に、爆薬を使ったり、火のついた松明を背負った牛を暴走させたりの派手な見せ場を増やしており、ダレる所はない。

天願大介による脚本は、オリジナルを尊重し、基本ラインも、セリフも、ほとんどそのまま使用している。じっくり見ると、池上金男のオリジナル脚本がいかに優れていたかが分かる。

だが、旧作と比べ、新作で一番大きく異なるのは、暴君斉韶のキャラクターである。旧作では単なるバカ殿であったが、新作ではかなり饒舌で、侍のあり方、その未来について醒めた目で見ている。かなり頭がいいのである。

徳川幕府が支配する江戸時代は、“いくさの無い時代”である。現代日本は、65年も戦争がない平和な時代と言われているが、江戸時代は260年!もの間、内戦もなければ、外国との戦争も行っていない。武士は年中剣の腕を磨いているが、なぜ剣の鍛錬をするかと言えば、いくさに備えてである。彼らは今で言う“軍人”なのである。

だが、明治維新まで23年後に迫ったこの映画の時代は、もう300年近くもいくさがない。いくさがなければ、剣など何の役にも立たないのだ。主人公新左衛門は、毎日釣りばかりしている。彼の甥の新六郎(山田孝之)は、女遊びと博打にうつつを抜かしている。そして、平山九十郎(伊原剛志)ら、剣の達人たちは、侍としての死に場所を求めている。新六郎にしても、侍としての生き方、死に方が見つけられないからこそ、自堕落になっているのである。

“いくさが無い”という時代は、武士道に殉ずる事を宗とする侍にとっては、“生きがいを見つけられない時代”であるとも言える。

だから、新左衛門の計画に、刺客たちは“やっと自分たち侍の生き場所、死に場所が見つかった”と喜ぶのである。新六郎が進んで計画に参加するのもその為である。

斉韶が暴虐の限りを尽くすのも、あるいは彼らと同様、侍とは何なのか、という答が見つからない、そのやり場のない怒りが根底にあるからではないだろうか。

戦闘が始まると、旧作の斉韶はアタフタ逃げ回っているだけだったが、新作の斉韶は逆に水を得た魚のように目が輝きだす。刺客に襲われてもたじろがない。「これがいくさというものか」とすっかりいくさの魅力にとり付かれ、「余が老中となったあかつきには、再びいくさの世としよう」とまで言い切る。「どうせ徳川の世も永くはない。なぜなら余が終わらせるからだ」と言う斉韶は、なかなかどうして、痛烈な時代の批判者であり、論客である。ただの悪役ではない。“戦わない侍が権威を嵩に来ていばってるだけの腐った時代など、滅びた方がマシ”とでも言いたげである。

斉韶は、あるいは、“戦いの果てに死ぬ”道を見つけたかった為に、暴虐の限りを尽くしていたのではないか。―そうすれば、幕府はきっと自分の暗殺を企むのではないか、その時が、自分の死に場所を見つけられる時だと思ったのではないだろうか。
彼もまた、“侍の生き場所、死に場所”を求め、葛藤していたのかも知れない。…そういう意味では、斉韶は、刺客たちと表裏一体の関係にあると言えるのかも知れない。この点に関しては、本作はオリジナルを超えた、と言えるだろう。

ともあれ、斉韶の存在がこの映画を面白くしているのは間違いない。「ダークナイト」のジョーカーに匹敵する、独自のポリシーを持った魅力的な悪役、と言ったら誉め過ぎ、かも知れないが、この悪役の造型だけでも、この映画が傑作たりえていると言えるだろう。稲垣吾郎、予想を遥かに超える快(怪?)演である。

それだけに、斉韶が新左衛門に斬られ、「痛い、痛い」と泣き喚くのは興醒めだ。それまでの悪の魅力が台無しだ。最期まで、不敵な笑みを浮かべて堂々と死んで行って欲しかった。それだったら5つの満点を与えてもいい。

 
映画の冒頭、「これは広島、長崎に原爆が落ちる100年前の話である」という字幕が出るが、260年戦争がなかった江戸時代が終わった後の100年は、皮肉にも武士の時代が終わったと同時に、西南の役に始まり、日清、日露戦争、第一次、第二次大戦と、日本は戦争ばかりやっていたのである。落合宿の大戦闘も、思えば小さな戦争である。

ともあれ、久しぶりに登場した、チャンバラ大活劇の魅力に満ちたエンタティンメントの秀作であると同時に、いつまでたっても戦争がなくならない人間の愚かさをアイロニーを込めて描き、かつ、バカであっても世襲で権力を引き継ぎ、民衆が苦しむ今の時代のどこかの国の批判(?)にもなっている(笑)、これは見事な本年屈指の傑作である。    (採点=★★★★☆

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(さて、お楽しみはココからだ)

1963年、オリジナルの旧作が作られた背景には、次のような経緯がある。
昭和30年代初期、東映は戦前から活躍していた片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太朗に、歌舞伎界からの若手、中村錦之助、大川橋蔵等を擁して、チャンバラ映画が大ヒット、邦画ダントツのシェアを獲得していた。会社のキャッチフレーズ自体が“時代劇は東映”であり、どんな映画を作っても、劇場はドアも閉まらないくらい観客が詰めかけていた。

だが、テレビ時代の到来で、次第に観客動員は減少の一途をたどり、そこへもって、1961~2年に作られた黒澤明監督の時代劇「用心棒」「椿三十郎」が大ヒット。カッコいいスーパーヒーローが、歌舞伎の様に大見得を切って敵を斬る、陽性の東映チャンバラ映画(旗本退屈男、遠山の金さん、源氏九郎、若さま侍、怪傑黒頭巾…等々)は、リアルで斬新な殺陣の黒澤明監督「用心棒」に人気と客を吸い取られ、一気に衰退に向かう事となった。
焦った東映は、黒澤時代劇に対抗する作品を作ろうと模索し、そんな空気の中で登場したのが、“東映集団時代劇”であり、その代表作が、本作のオリジナルである工藤栄一監督の「十三人の刺客」であった。

そもそも、“数人の腕の立つ侍を集め、砦を築いて数倍の敵を迎え撃ち、相手を殲滅させる”という展開自体、あからさまに「七人の侍」にヒントを得ている。
おまけに、侍のリーダーの名前は島田新左衛門である。「七人の侍」のリーダー、島田勘兵衛から苗字を頂いているのは明白である。
ついでに付け加えるなら、敵の知将、鬼頭半兵衛の名前も、黒澤監督の「椿三十郎」の頭も腕も立つ側用人、室戸半兵衛から拝借したと思しい。お互いに気心が通じながら、最後に対決する展開まで似ている。

オリジナルでは、落合宿の郷士であった木賀小弥太(山城新伍)の役柄を、新作の方は、伊勢谷友介扮する山の民に改変し、侍でない野生の男で、コメディ・リリーフ的な役回りを与える等、「七人の侍」の菊千代(三船敏郎)により近いキャラクターになっている。山の中で菊千代が道案内するシーンもちゃんとある。ついでに、薪で頭をポカリとやられるシーンも…。

もう1作、本作に影響を与えている作品がある。
サム・ペキンパー監督の傑作西部劇「ワイルドバンチ」である。

数人の老境の男たちが、暴虐の限りを尽くすマパッチ将軍率いる、数百人のメキシコ軍相手に戦いを挑む話である。

わずかの人数(4人)で、数百人相手に戦う、ラストの大戦闘シーンが話題を呼んだ。年老いた彼らもまた、死に場所を求めて戦いに挑むサムライなのである。
「ワイルドバンチ」には、“橋に火薬を仕掛け、爆破して、人馬を川に叩き落す”という有名なシーンがあるが、これと同じシーンが本作にも登場する(落合宿に斉韶一行が入った直後)。

さすが「スキヤキウエスタン・ジャンゴ」で、西部劇にオマージュを捧げた三池崇史監督だけの事はある。
なお「ワイルドバンチ」は、西部劇で初めて、撃たれると血が噴出するシーンを盛大に取り入れた作品とされているが、これは黒澤時代劇からの明らかな影響であると言われている。

そんなわけで、本作はオリジナル「十三人の刺客」に、「七人の侍」と「ワイルドバンチ」を巧みにブレンドした作品、とも言えるのである。

但し、「七人の侍」と大きく異なるポイントは、あちらが“戦国時代を舞台に、百姓の為に戦う浪人たち”という、ヒューマニスティックな視点を持っていたのに対し、「十三人の刺客」は、“いくさが無くなった徳川時代を舞台に、将軍の弟を暗殺する、政治抗争劇”であるという点である。'60年安保闘争後の、時代の空気を反映しているとも言える。考えれば、“政府の要人を暗殺する”というテーマ自体、十分政治的である。

まったくの偶然だが、ケネディが暗殺されたのは、この映画が公開される2週間前である(ケネディ暗殺は1963年11月22日、「十三人の刺客」の公開は1963年12月7日)。

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2010年9月24日 (金)

「彼女が消えた浜辺」

Aboutelly_2  
2009年・イラン/配給=ロングライド
原題:Darbareye Elly (英語原題:About Elly)
監督・脚本:アスガー・ファルハディ

第59回ベルリン国際映画祭・最優秀監督賞を受賞した、イラン製ミステリー・タッチの人間ドラマの秀作。

テヘランからほど近いカスピ海沿岸のリゾート地に、週末旅行にやって来たセピデー(ゴルシフテェ・ファラハニー)たち3組の家族。その中には、セピデーが誘ったエリ(タラネ・アリシュスティ)という女性もいた。美しい浜辺で、しばらくは楽しいひとときを過ごすが、子供の一人が海で溺れ、それと時を同じくして、エリは忽然と姿を消してしまった。エリは、子供を助けようとして溺れたのか、それとも黙って失踪したのか。だが彼女の実体は誰も知らず、謎は深まるばかりだった…。

イラン映画も成熟したものだ。アッバス・キアロスタミが脚光を浴びる事となった秀作「友だちのうちはどこ?」(87)にしろ、マジッド・マジデイ監督の「運動靴と赤い金魚」(97)、同じく「少女の髪どめ」(2001)にしろ、バフマン・ゴバディ監督「酔っ払った馬の時間」(2000)にしろ、我が国に入って来るイラン映画は、貧しい子供たちの生活ぶりや、過酷な環境の下で懸命に生きる下層階級の大衆の姿をドキュメンタルな視線で描いた社会派ドラマが目立っていた。

もっとも、79年のイスラム革命以後、イラン映画には厳しい検閲体制が敷かれていた為(特に女性が肌や髪を露出することが禁じられていた事もあり)、あまり大人たちが登場しない子供の世界を描いた方が検閲が通り易い、という事情もあったようだ。まあ、“貧しい暮らしの中でたくましく生きる人々”という題材はウケ易い事もあるが…。

ところが、本作では中産階級の家族たちが、思い切りバカンスを楽しんでいる。貧乏の影はどこにもない。おまけにミステリー・タッチである。フランス映画だ、と言われても信じてしまいそうだ。本作で、イラン映画のイメージは大きく変わりそうだ。

 
(以下ネタバレあり)
映画は、前半は全員で建物内部を掃除したり、その後はバカンスを楽しむ様子を淡々と描いているので、やや退屈である。

ただ一人の部外者であるエリも、ゲームをしたりで少しづつ3組の家族たちと打ち解けて行く。

だが2日目に、エリは一足早く帰ると言い出し、この辺りから、エリと家族グループの間に少しづつ軋みが生じ始める。

やがて、子供の一人が海で溺れていると、別の子供が親たちに知らせに来て、そこから物語は俄然急転し、スリリングな展開となる。

それまでフィックスで捉えていたカメラが、一転、手持ちに変わり、激しく揺れ始めるのも効果的。

溺れた子供はかろうじて救出され、一命を取りとめるが、今度はエリがいない事に気付く。

エリは何処に消えたのか。子供を助けようとして溺れたのか、それとも黙って帰ったのか。海に船を出し、捜索する一方、警察もやって来る。

その警察の事情聴取の過程で、誰もエリの本名も、その実態も知らない事が判って来る。彼女は何物なのか。

唯一、彼女を誘ったセピデーだけがおおよその事を知っているようだ。エリはセピデーの娘が通う保育園の保母さんで、婚約者がいるらしい。だが、実は婚約者とは別れたがっていた事も判明する。

イランは戒律が厳しくて(肌を露出しないというタブーはやや解除されてるようだが)、婚約者のいる女性が他の男性たちと旅行するのもタブーである。…にもかかわらず、セピデーは彼女を旅行に誘い、エリもその誘いに乗った。

セピデーの狙いは何なのか。エリはなぜ婚約者がいるのに、バカンスに参加したのか。謎は深まるばかりだ。

(ここから完全ネタバレにつき隠します。映画を観た方のみ反転させてください)
謎を解くカギは、いくつかの周到な伏線にある。

離婚したバツイチのアーマドが、車の中でエリと話すうち、離婚の原因として、「永遠の最悪より最悪の最後の方がまし」と言う。

これが実は、エリの失踪の引き金になっているのではないか。婚約者に嫌気が差していただろうエリは、結婚で“永遠の最悪”の結果になるよりは、婚約を解消する方がベターだという方向に心が傾いたのだろう。

それを決定づけるのが、浜辺での凧揚げである。

凧を空高く揚げている時のエリの顔は、開放感に輝いていた。あの凧のように、自由になりたい…。

そこでネックになるのが、イランの厳しい戒律と古い因習である。簡単には婚約は解消出来ない。自由を求めようとすれば、抑圧され、身動きが取れなくなる

どうやったら、婚約者の前から姿を隠し、しかも追いかけられずに済むか。彼女は思案した。

その時、目の前で子供が溺れた。子供を見ていて、と頼まれたのに、凧揚げに夢中になって、子供をほったらかしにしてしまった。

このままでは、責任を問われる。それに恐らく、彼女は泳ぎが得意ではなかったのかも知れない。

とっさに思いついたのは、“溺れた子供を助けようとして、波にさらわれ、死んだ”というシナリオである。これなら、責任を問われずに済むし、婚約者からは逃れ、追いかけられる事もない。一石二鳥である。
完全に、自分は自由になれるのだ。あの凧のように…。

こうして彼女は、子供の救出で皆が大騒ぎしているドサクサに紛れて、こっそりと町に向かったのである。カバンも携帯も、溺れたのなら持って行けないのでそのまま置いて行ったのだ。

海から上がった死体は、多分別人だろう(警察も言っている通り、潮流のない内海で溺れたら、死体は元の砂浜に打ち上げられるはず。離れた場所まで流される事はない)。婚約者が死体を見た時は、顔は半分髪に覆われ、それも全部を見せていない。エリかどうかは観客にも判らない。婚約者も、あいまいな態度で本人と確認した様子はない。この辺は演出も巧妙にボカしている。

(↑ ネタバレここまで)

それよりも秀逸なのは、エリの行方不明をきっかけとして、仲の良かった家族、夫婦の間に、少しづつ亀裂が生じて行くさまを、実にリアルに、かつ辛辣に描いている部分である。

ある者は他者を非難し、ある者は責任を逃れようとうろたえ、あるいはごまかし、嘘を重ね、それぞれにエゴをむき出しにして行く。婚約者も感情を露わにするが、家族の一人を殴り、血だらけにするシーンで、こうした粗暴な性格が、エリが別れたがる理由ではないかと思わせる辺りも秀逸。

一見、不条理な展開を配する事によって、この映画は現代の不安、人間の心に潜む闇(冒頭の狭苦しい暗い空間の映像も象徴的だ)を巧みに掬い上げ、かつ人間のエゴ、欺瞞性、政治体制への鬱屈、自由への願望…等、さまざまなテーマをも網羅し、鋭く追及する事に成功している。

自動車の車輪が砂に食い込み、空転するシーンが中間とラスト、2度登場する。これも暗示的だ。砂の味気なさ、空転し噛みあわない車輪…。うまい幕切れである。

エリが消えた理由については、観た人がそれぞれ、いろんな推測をするといい。私の考えも1つの推測に過ぎない。観る角度によって、また違うものが見えて来るかも知れない。そういう映画は好きだし、また面白い。

イラン映画の新しい方向性を示す、これは見事な秀作である。アスガー・ファルハディ監督、次回作が楽しみな才能がまた一つ誕生した。     (採点=★★★★☆

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2010年9月20日 (月)

「悪人」

Akunin2010年・日本/東宝
監督:李 相日
原作:吉田 修一
脚本:吉田 修一、李 相日

芥川賞作家・吉田修一の同名ベストセラーを、原作者自身と「69 Sixty Nine」「フラガール」の李相日監督が共同で脚本化し、李相日が監督も手掛けた話題作。主演の深津絵里は本作でモントリオール世界映画祭の主演女優賞を受賞した。

長崎に住む土木作業員の祐一(妻夫木聡)と、佐賀に住む紳士服量販店店員の光代(深津絵里)は、携帯の出会い系サイトで知り合い、やがて強く惹かれ合って逢瀬を重ねる。だが祐一は、今世間を騒がせている福岡の女性殺害事件の犯人が自分であることを告白する。二人は当てのない逃避行を続けるのだが、警察の追及は日増しに強くなり…。

重く、心に響く秀作だ。原作も素晴らしいが、映画は原作者が脚色に加わった事で、さらにテーマが凝縮されて見応え十分となった。今の所私にとって、本年度のベストワン作品である。

 
祐一は人を殺した。
単にその事実だけを捉えるなら、祐一はまぎれもなく悪人である。

だが、“悪”とは何なのか。祐一は本当に悪で、被害者は善と呼べるのか。

ちょっとしたはずみで悪の道に入ってしまう人間もいれば、根っからの悪人で、巧妙に法の網の目をかいくぐってのうのうと生き延びている人間もいる。人を悪の道に陥れる人間もいる。さらに、犯罪こそ犯さないが、“悪意”に満ちて人の心を傷つける人間もいる。

どちらが本当の悪人なのだろうか。…映画はその問題点を鋭く抉り、根源的な問いかけを行っている。

(以下ネタバレあり)
事件の被害者、保険外交員の佳乃(満島ひかり)は、出会い系サイトで知り合った祐一の目の前で、平然と金持ちの大学生・増尾(岡田将生)の車に乗り込む。が、自分が増尾家の玉の輿に乗れるものと勝手に思い込んで、増尾を呆れさせる。
無神経で独りよがりで、空気が分からない、バカ女を満島ひかりが絶妙に巧演。本当に凄い女優になったものだ。

増尾の方もそれに輪をかけて高慢ちきで鼻持ちならないボンボン。頭に来たら女でも車から蹴落とす粗暴な奴だ。こちらも、これまでは役者としての印象が薄かった岡田将生が見違えるほどの好演。

そして、蹴落とされた佳乃を助けようとした祐一は、佳乃から「人殺し」と呼ばれ、逆上して首を絞めてしまう。
だが、そういう事態を招いてしまったのは増尾であり、佳乃の方なのだ。彼らが産み出した、増幅する“悪意”が、根は善良であったであろう祐一に見えない影として圧し掛かり、そして不幸な事件は起きる。

だがそんな佳乃も、表の顔は仕事をきっちりこなすよき社会人であり、また父親・佳男(柄本明)の前では素直で明るく振舞う親孝行な娘である姿を見せている。
そういう生活のディテールをきちんと描いた脚本の秀逸さも見逃せない。人間とは、こうした二面性も持っている不可解な生き物なのである。

そして、光代もまた表の顔は、紳士服量販店で働くごく普通の社会人であるが、内面では孤独を抱え、出会い系サイトによってしか、他人と心を通わせられない。

祐一と出会う事によって、やっと光代は真実の愛を得たと感じるが、その相手が殺人犯だった…というのは実にやるせない。

自首しようと警察署に向かう祐一を、光代は思わず呼び止め、一緒に逃亡する事となる。
せっかく得た、愛する男と、もう離れたくない。…そんな短絡的なエゴが、結局は祐一をさらに“悪人”の道へ導く事となる。
自首すれば、情状酌量で刑期は6~7年くらいだろうに。それが待てず、結果的に祐一の罪を重くしてしまった光代も、ある意味では“悪人”と言えるのではないか。

その他、彼らを取り巻く人間たちにも、その周囲にも、さまざまな悪意が見え隠れする。

祐一の母(余貴美子)は、祐一が幼い頃に息子を棄てている。彼女もまた、悪意に満ちた存在である。

その祐一を、母に代わり育てた祖母・房枝(樹木希林)は、人の良さを付け込まれ、騙されて高額な漢方薬を買わされる。
振り込め詐欺やこうした詐欺商法等、善良な人間を騙す悪意は現代の世の中に満ち溢れている。
また、知る権利を盾に取って、房枝の元に押し寄せ、彼女を晒し者にするマスコミの傍若無人の取材ぶりも、晒される側にとってはまさに悪意そのものであろう。

一方で、殺された佳乃の父・佳男(柄本明)は、やり場のない怒りを、娘が殺される要因を作った増尾にぶつける。
佳男はその時、スパナを握りしめている。威嚇するだけのつもりだろうが、まかり間違えれば逆上して増尾を傷つけ、死に至らしめる可能性だってあっただろう。そうなれば、今度は佳男が、悪人になってしまうのだ。
善良な人間であっても、いつ何かのはずみで、悪人になるかも知れない。祐一が現にそうである。

どんな人間の心にも、悪意は内在しているのかも知れない。

 
逃亡の果てに、祐一たちは灯台にたどり着き、そこに身を寄せる。

闇の中で光を放つ灯台は、この底知れぬ闇が覆う現代において、人がすがりたい、一筋の光を象徴しているのだろう。

クライマックスにおいて、遂に警官隊が彼らを囲んだ事を察知した祐一は、突然、「俺はおまえが思っているような人間じゃない」と叫び、光代の首を絞める。
これは、おそらく次のような思いなのだろう。

このまま警察に捕まったら、世間は光代を“殺人犯を助け、一緒に逃亡した悪女”と見做し、糾弾するだろう。
そうなれば、光代自身も、悪人とされてしまう。
光代の首を絞める事によって、“悪人は自分一人で、彼女は騙された被害者”という認識を世間に示したかったのではないか。

光代を助ける為に、祐一は進んで、悪人というレッテルを貼られる事を望んだのだろう。
これこそ、光代に対する祐一の、究極の愛の表現と言えるのではないか。

“進んで、悪である事を引き受ける”という主人公の行動は、クリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト」を思い起こす。

あの作品でも、“善良な人間の心の奥底にも、悪意は潜在している”というのがテーマであったし、最後でブルース・ウェインは、“光の騎士”の正義を守る為、デントの悪を引き受け、自ら“闇の騎士”として生きる事を決意する。
両作は、その展開や“善と悪の考察”という奥深いテーマ性において、よく似ていると言える。

「悪人」の原作は2007年発表で、「ダークナイト」の公開は2008年。似ているのは偶然だろうが、日米で同時期(「ダークナイト」の製作開始は2007年)に、似通ったテーマの傑作が作られていたという事実は興味深い。現代を象徴する重いテーマであるからこそだろう。

 
多様で、複雑なそれぞれの人物像を深く、緻密に構成した脚本が素晴らしい。本年度の最優秀脚本賞候補だろう。
原作者が、まず長尺の原作を再構成し、人物を整理してタイトに仕上げ、それをさらに李相日監督が原作者と旅館に篭もって練り直したそうだが、やはりいい脚本を仕上げるには、そのくらいの手間は掛けて欲しい。手間をかけない、穴だらけの脚本が多過ぎる。

そうした脚本作りは、映画全盛期の巨匠たちの作品においてはよくあった事で、例えば小津安二郎監督が野田高梧氏と、黒澤明監督が橋本忍氏、菊島隆三氏、小国英雄氏等と共に、みんな旅館に篭もって書いていた。山田洋次監督も、共同脚本家と同じような作業を行っている。こうした脚本作りの手法は、是非他の方も実践して欲しいと思う。

この見事な脚本の意図を完璧に理解した出演者たちが、それぞれのベストとも言える見事な演技を見せている。主演二人も絶品だが、周りを支える樹木希林、柄本明、満島ひかり、岡田将生…全員に最優秀助演賞を差し上げたい。久石譲氏の音楽、名手種田陽平氏の美術もそれぞれ一級品。
李相日監督は、爽快な「フラガール」から一転、重厚で骨太な人間ドラマの演出にも冴えを見せ、今や日本を代表する映画作家になったといえるのではないか。最優秀監督賞も決まりである。

ラストに至るまで、片時も目を離せない、見応えある、本年最高の秀作である。必見!      (採点=★★★★★

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2010年9月12日 (日)

谷啓さん追悼

Tanikei クレージー・キャッツのメンバーだった、谷啓さん(本名・渡部泰雄(わたべやすお))が、9月11日、亡くなられました。享年78歳。

私は、ずっと昔から個人的に谷啓さんの大ファンです。クレージー・キャッツの中でも一番好きでした。

というのは、理由がありまして、まずイニシャルがK.T.で、私と同じ。さらに私の名前にも“”の字があって(ブログのニックネーム、“Kei”もそこから)、そんなわけで親近感が強く、まだクレージーが東宝・無責任シリーズでブレイクする前(テレビの「シャボン玉ホリデー」に出てた頃)から、注目しておりました。

そんなわけで、亡くなられたと聞いて凄くショックでした。まだまだお元気だと思っていたのに…。いずれ小林信彦さんが詳しい追悼記事を書いてくださるでしょうが、以下、私なりの思い出を列記したいと思います。

 
谷さんは、高校時代からトロンボーンを始め、中央大学在学中の1953年、原信夫とシャープスアンドフラッツに入団。その後、フランキー堺とシティ・スリッカーズを経て、昭和31年、ハナ肇や植木等がいた、ギャグ入り演奏が売り物のクレージー・キャッツに加入しました。

なお、芸名は、米国の人気喜劇役者、ダニー・ケイをもじったものです。

クレージーの中での谷さんのキャラクターは、親分肌で豪放磊落なハナ肇、調子よい無責任男の植木等、といった陽性キャラに対して、どことなくシャイでハニカミ屋、カラ元気を装っているが、突っ込まれるとタジタジとなる…といった、ちょっと不思議な持ち味がありました(実際に、子供の頃から大変な恥ずかしがり屋だったそうです)。
それをうまく生かしたのが、あの有名なギャグ、“ガチョーン”でした。窮地に追い込まれたり、困った時に、“ガチョーン”で解決してしまうというのは、ある意味、弱者の開き直り的、かつシュールなギャグであるとも言えるでしょう。

私生活でも相当な恥ずかしがり屋だそうで(結婚に際しても、長年交際しながら、恥ずかしがり屋の谷さんが一向にプロポーズしないため、夫人の側からプロポーズしたというエピソードもあります)、そういった、シャイな人柄も、私にとっては親しみを感じさせる存在でした。

映画の方では、クレージーの人気上昇に比例して、1963年頃から出演が多くなって来ます。ちょっと面白いのは、内田吐夢監督、中村錦之助主演の時代劇大作「宮本武蔵」5部作の3、4作目に、赤壁八十馬役で出演している点で、原作ではこの男、とんでもない悪党なのですが、映画では何故か人のいい、憎めない役柄になっております。巨匠・内田監督が、クレージーの一員で、役者としての経験はまだ浅い谷さんを、なぜこんな(しかも原作とは異なる)役柄に抜擢したのか、ちょっと気になります。

1964年には、クレージー人気急騰もあって、なんと主演作も含めて、12本!もの映画に出演しております。しかも同じ年にテレビでは「天下の若者」という連続ドラマ(2年半も続きました)に主演してるのです。無論その間、「シャボン玉ホリデー」等のバラエティにもレギュラー出演してるわけですから、よくまあ身体を壊さなかったものです。

あまり知る人は少ないのですが、先般亡くなられた藤田まことさんとの共演作も意外に多く、1964~65年にかけて2本作られた「西の王将東の大将」では、互いにライバル意識を燃やすサラリーマンとして丁々発止の共演。東宝で作られた「てなもんや三度笠」シリーズ3本でも共演しております。
で、この二人が並ぶと、ノッポにズングリという対照的な体型が、アメリカ・サイレント・コメディのデブ・ノッポコンビ“ローレル&ハーディ”を思わせてニンマリさせられました。
谷さんは芸名でも分かるようにアメリカ製コメディにも造詣が深いので、これは意識してのことでしょう。

Abbottcostello2 そう言えば、あの髪型やキャラクターの印象は、これもアメリカ・コメディの凸凹コンビ“アボット&コステロ”の片割れ、ルウ・コステロに非常にによく似ております(ポスターの右がコステロ)。

調べたら、アボット&コステロの「凸凹宝島騒動」という映画の日本語吹替版で、そのコステロの声を担当したのが谷さんなのですね(ちなみにアボットの声は植木等さん)。

こういう、アメリカン・コメディへのリスペクト精神が、クレージーの中でも一味違った、どことなくシュールでカラッとした笑いに繋がっているのではと想像いたします。
今の若いコメディアンに、そうした基礎や素養を教えて、笑いのレベルを引き上げて欲しかったと思います。

 
Kisoutengai 主演映画で私が好きなのは、「クレージーだよ奇想天外」(1966)。地球に調査の為派遣された宇宙人役を演じておりますが、あれよあれよと人気歌手、そして国会議員にまでなって行く過程がもうハチャメチャで無類に面白い。劇場では、アゴが外れるほど笑いました。なお、この作品でも、藤田まことさんと絶妙のコンビで共演しております。
ちなみに、2本立の併映作がこれまた当時人気絶頂の加山雄三主演「アルプスの若大将」という豪華な組み合わせでした。

珍しいシリアスな役柄として印象深いのが、市川崑監督、水谷豊主演の刑事もの「幸福」(1981)における、人のいい野呂刑事役で、ラストで水谷に、ニコッと微笑む姿が今も眼に焼きついています。

後年は「釣りバカ日誌」シリーズの佐々木課長役が有名ですが、是枝裕和監督「ワンダフルライフ」(1999)における、天国への入口の所長役、犬童一心監督「死に花」(2004)における老人強盗チームの一員等の、味わい深い好演も見逃せません。

晩年は、NHK教育の教養番組「美の壺」(2006~2008年)のホスト役でも活躍されました。私も時々観ておりましたが、和服を着て、盆栽や美術品をたしなむ姿は、すっかりご隠居老人が板に付いて、ファンとしては複雑な気持でした。

来る9月20日には、第3回したまちコメディ映画祭in台東で、コメディ栄誉賞を受賞される事になっておりました。是非主席して、元気なお姿を見せていただきたかったのに、叶わぬ事となりました。

Tanikei2 ハナ肇さん、植木等さん、そして青島幸男さんと、1960~70年代を駆け抜けたクレージーとその立役者たちも既にこの世になく、とうとう谷啓さんもいなくなってしまいました。寂しい限りです。

天国で、ハナさん、植木さんと今頃は再会しているでしょうか。

―謹んで、ご冥福を祈りたいと思います。

 

 

 

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2010年9月 8日 (水)

「オカンの嫁入り」

Okannnoyomeiri2010年・日本/角川映画
監督・脚本:呉美保
原作:咲乃月音

第三回日本ラブストーリー大賞ニフティ/ココログ賞を受賞した、咲乃月音の小説「さくら色 オカンの嫁入り」を、「酒井家のしあわせ」で長編デビューした呉美保(オ・ミポ)が脚色・監督した親子人情ドラマの佳作。

当ブログを管理するココログが設定した賞というだけで親近感が沸く(笑)。

 
舞台は大阪の、今どき珍しい、縁側と格子戸がある純日本風家屋。大家のサク(絵沢萌子)が所有する、これら家屋が軒を連ねる一画で、陽子(大竹しのぶ)と月子(宮崎あおい)の母子が住んでいる。サクと一家は家族同然、しょっちゅうサク手作りの和風の料理を、サクがおすそ分けしている。陽子が勤める病院のセンセイ(國村隼)も、月子たちとは家族のような付き合いをしている。
現代日本では、ほとんど消滅してしまったかのような、隣近所同士の人情厚い交流が、ここには存在している。
そう言えば、タイトルからして「嫁入り」と古風だ。

こうしたシチュエーションにおいて、ある日、酔った陽子が、金髪リーゼントの若い男・研二(桐谷健太)を“おみやげ”と称して連れ帰り、「私、この人と結婚する事にしたから」と宣言する所から物語りは始まる。

いきなりのあり得ない状況を設定して、観客に、これからどうなるのだろうと期待と不安を抱かせる。物語の掴みとしては上々だ。

面白いのは、この冒頭から、いくつもの謎が設定されている事だ。
①陽子は、何故唐突に、自分の息子のような年齢(30歳)の男と結婚すると言い出したのか。
②月子は、何故研二に対してああまで拒絶反応(嫌悪感に近い)を示すのか。多少は気持が動転しているにしても、自宅を飛び出すほどの事はないと思えるが。そもそも月子はどうも働いてさえいないようだ。
③物腰は丁寧で思いやりもある好青年の研二は、何故金髪リーゼントのヤンキーのような格好をしているのか。

そして、物語が進むにつれて、彼ら彼女ら一人一人にそれぞれ、心の内面に秘密がある事が明らかになって行く。

関西弁のトボけた会話が、ともすれば暗くなりがちな物語にユーモアと心の温かさをもたらしている。浪花の人情コメディといった味わいだ(かといって吉本新喜劇ほど泥臭くはない)。

(ここから、ネタバレになります。未見の方はお読みにならないでください)

 

やがて回想で、②の理由…1年前、月子は会社の同僚に、ストーカーまがいに付きまとわれたあげく暴力を加えられ、PTSDで電車に乗ることさえ出来なくなっていた事が判明する。
一種の引き篭もりなのだが、顔見知りの人とは普通に会話出来、犬を連れての散歩も出来るので、最初のうちは観客はその事に気付かない。彼女が研二を避ける理由もそれで納得出来る。…そこで物語は、彼女がその精神的後遺症をいかに克服するかという、新たなサスペンスに移行する。

③の研二のスタイル。これはセンセイが実は気付いていた。これはなんとジェームズ・ディーンの格好なのだと言う。研二のばあちゃんが病院で亡くなる直前、ジェームズ・ディーンに会いたいと言い出し、そこでディーンの外見を真似て喜ばせてあげたのだが、ばあちゃんが亡くなってもなんとなくそのままになったのだという。
研二の、心の優しさが伝わるいいエピソードである。今どき珍しい、本当に思いやりと慈愛の精神に溢れた素敵な若者である。陽子が惚れたのも理解できる。

Jamesdean_2 そうか、ジミー・ディーンか。古い映画を多く観ている私でも気付かなかった。ちなみに、金髪リーゼントに赤いジャケットという扮装は、ディーンの代表作「理由なき反抗」のものである(右参照)。

この作品を選んだ作者の意図も理解出来る。月子の、母の結婚話への猛反撥はまさに“理由なき反抗”(笑)だし、この映画の冒頭で、ディーンは研二の初登場シーンと同様、泥酔して登場するのである。

 
そして物語の後半、陽子は実は末期ガンであと1年の命である事が判明する。
ここから物語は、残されていた謎を次々と解明して行く展開となる。

陽子の夫(=月子の父)は、月子が生まれる前に亡くなっている。月子は父への思いが強く(母との、父の位牌争奪戦が巧みな伏線)、その為か、陽子はこれまで再婚話も全部断って来た。センセイもアタックしたようだが、2度とも断られている。
それなら、白無垢を着たいのなら相手はセンセイでもいいような気がするが、あまりにも家族同様の(と言うか月子は父親同然の)付き合いをしているので今さらという気なのだろう。

で、陽子が白無垢を着たいと言い出すのは、死ぬ前の願望でもあるのだろうが、もう一つ、自分が死ぬまでに、月子のトラウマをなくして、普通の生活に戻って欲しい…さらには男性恐怖症も克服して新しい家庭も持って欲しい、という願望も込められている気がする。
「白無垢の着付けに行くのに、月子に(電車に乗って)一緒に行って欲しい」と言うのがそれを証明している。
研二を家に連れ込んだのも、若い男性への恐怖心を解きほぐす目的が第一だった可能性がある。

そういう、心底から子を思う母の気持が分かって来るにつれ、深い感動が押し寄せる。反抗する月子の手を掴み「私はこの手を離しませんでぇ」と叫ぶシーンには涙が溢れた。

月子がやっと電車に乗るシーンは、時間をかけ、丁寧に撮られている。やっぱり戻るのでは、というサスペンスを孕み、エイッと飛び乗って母と笑い合うシーンではこちらもホッとして、やがてジワジワと安堵感と感動が広がる。

白無垢を着て、陽子が月子に「長い間お世話になりました」と語るシーンは映画ファンに既視感を呼び起こす。
そう、小津安二郎監督の秀作「晩春」のラストシーンとそっくりだ。但し立場は逆転している(向こうは、娘が父に語る)。

そう思えば、“母と娘の二人暮らしで、母の為を思って結婚しない娘を、なんとか結婚させようと母が尽力する”という小津監督の「秋日和」と、この映画はとてもよく似ている。

「秋日和」では、娘(司葉子)にふんぎりをつかせる為に、亡父の友人たちが結託して、(原節子)の結婚話を持ち出すのだが、実はこれはダミーで、娘が結婚を決心した後、母はやはり独身を通す。「晩春」でも同じく、父(笠智衆)は本当はその気はないが、娘に自分の再婚話を匂わせている。

そう思うと、研二との結婚話は、月子のトラウマ解消の為の作り話ではなかったか、という一面も見えて来る。

原作では、陽子は心底研二を愛していて、結婚も本心であるかのように思えるのだが、映画ではわりとサラリと描かれていて、どちらとも取れるような描き方である。後は観客の判断に委ねているのだろう。ある意味、見方を変えて、2度楽しめる映画であるとも言えるだろう。

 
宮崎あおい、大竹しのぶの着実な演技も見事だが、絵沢萌子や國村隼等、周囲を固める役者たちもうまい。芸達者な俳優たちの演技合戦は安心して観ていられる。桐谷健太もよく頑張っている。

古い日本家屋、人々の温かい人情、子を思う母の愛情、と、この映画には、今や失われつつある(いや、とっくに失われているのかも知れない)、日本と日本人の美点、心の故里が丁寧に描かれている。
現代では、近所付き合いもほとんどなくなり、高齢者が亡くなっていても気付かない、いや、親子の殺し合いすら日常茶飯事になってしまっている。悲しい事である。
そんな時代だからこそ、この映画に涙し、感動する気持を失ってはならないと思う。傑作とまでは言わないが、心が温かくなる、いい映画である。多くの人に観て欲しいと切に願う。    (採点=★★★★☆

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(付記)

この作品、予告編でも、チラシでも、[陽子がガンで1年の命である]をバラしている。

これは絶対間違いである。重大なネタバレである。この事実を知らないで観るのと、知って観るのとでは、受ける印象がまるで違ってくる。知ってしまうと、ありきたりの難病ものみたいに受け止められかねない。
私は幸い、予告編もチラシも見ずに映画を鑑賞したのでよかったが、見てたら印象が変わっただろう。こういう事は絶対に今後止めて欲しい。

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