「オカンの嫁入り」
第三回日本ラブストーリー大賞ニフティ/ココログ賞を受賞した、咲乃月音の小説「さくら色 オカンの嫁入り」を、「酒井家のしあわせ」で長編デビューした呉美保(オ・ミポ)が脚色・監督した親子人情ドラマの佳作。
当ブログを管理するココログが設定した賞というだけで親近感が沸く(笑)。
舞台は大阪の、今どき珍しい、縁側と格子戸がある純日本風家屋。大家のサク(絵沢萌子)が所有する、これら家屋が軒を連ねる一画で、陽子(大竹しのぶ)と月子(宮崎あおい)の母子が住んでいる。サクと一家は家族同然、しょっちゅうサク手作りの和風の料理を、サクがおすそ分けしている。陽子が勤める病院のセンセイ(國村隼)も、月子たちとは家族のような付き合いをしている。
現代日本では、ほとんど消滅してしまったかのような、隣近所同士の人情厚い交流が、ここには存在している。
そう言えば、タイトルからして「嫁入り」と古風だ。
こうしたシチュエーションにおいて、ある日、酔った陽子が、金髪リーゼントの若い男・研二(桐谷健太)を“おみやげ”と称して連れ帰り、「私、この人と結婚する事にしたから」と宣言する所から物語りは始まる。
いきなりのあり得ない状況を設定して、観客に、これからどうなるのだろうと期待と不安を抱かせる。物語の掴みとしては上々だ。
面白いのは、この冒頭から、いくつもの謎が設定されている事だ。
①陽子は、何故唐突に、自分の息子のような年齢(30歳)の男と結婚すると言い出したのか。
②月子は、何故研二に対してああまで拒絶反応(嫌悪感に近い)を示すのか。多少は気持が動転しているにしても、自宅を飛び出すほどの事はないと思えるが。そもそも月子はどうも働いてさえいないようだ。
③物腰は丁寧で思いやりもある好青年の研二は、何故金髪リーゼントのヤンキーのような格好をしているのか。
そして、物語が進むにつれて、彼ら彼女ら一人一人にそれぞれ、心の内面に秘密がある事が明らかになって行く。
関西弁のトボけた会話が、ともすれば暗くなりがちな物語にユーモアと心の温かさをもたらしている。浪花の人情コメディといった味わいだ(かといって吉本新喜劇ほど泥臭くはない)。
(ここから、ネタバレになります。未見の方はお読みにならないでください)
やがて回想で、②の理由…1年前、月子は会社の同僚に、ストーカーまがいに付きまとわれたあげく暴力を加えられ、PTSDで電車に乗ることさえ出来なくなっていた事が判明する。
一種の引き篭もりなのだが、顔見知りの人とは普通に会話出来、犬を連れての散歩も出来るので、最初のうちは観客はその事に気付かない。彼女が研二を避ける理由もそれで納得出来る。…そこで物語は、彼女がその精神的後遺症をいかに克服するかという、新たなサスペンスに移行する。
③の研二のスタイル。これはセンセイが実は気付いていた。これはなんとジェームズ・ディーンの格好なのだと言う。研二のばあちゃんが病院で亡くなる直前、ジェームズ・ディーンに会いたいと言い出し、そこでディーンの外見を真似て喜ばせてあげたのだが、ばあちゃんが亡くなってもなんとなくそのままになったのだという。
研二の、心の優しさが伝わるいいエピソードである。今どき珍しい、本当に思いやりと慈愛の精神に溢れた素敵な若者である。陽子が惚れたのも理解できる。
そうか、ジミー・ディーンか。古い映画を多く観ている私でも気付かなかった。ちなみに、金髪リーゼントに赤いジャケットという扮装は、ディーンの代表作「理由なき反抗」のものである(右参照)。
この作品を選んだ作者の意図も理解出来る。月子の、母の結婚話への猛反撥はまさに“理由なき反抗”(笑)だし、この映画の冒頭で、ディーンは研二の初登場シーンと同様、泥酔して登場するのである。
そして物語の後半、陽子は実は末期ガンであと1年の命である事が判明する。
ここから物語は、残されていた謎を次々と解明して行く展開となる。
陽子の夫(=月子の父)は、月子が生まれる前に亡くなっている。月子は父への思いが強く(母との、父の位牌争奪戦が巧みな伏線)、その為か、陽子はこれまで再婚話も全部断って来た。センセイもアタックしたようだが、2度とも断られている。
それなら、白無垢を着たいのなら相手はセンセイでもいいような気がするが、あまりにも家族同様の(と言うか月子は父親同然の)付き合いをしているので今さらという気なのだろう。
で、陽子が白無垢を着たいと言い出すのは、死ぬ前の願望でもあるのだろうが、もう一つ、自分が死ぬまでに、月子のトラウマをなくして、普通の生活に戻って欲しい…さらには男性恐怖症も克服して新しい家庭も持って欲しい、という願望も込められている気がする。
「白無垢の着付けに行くのに、月子に(電車に乗って)一緒に行って欲しい」と言うのがそれを証明している。
研二を家に連れ込んだのも、若い男性への恐怖心を解きほぐす目的が第一だった可能性がある。
そういう、心底から子を思う母の気持が分かって来るにつれ、深い感動が押し寄せる。反抗する月子の手を掴み「私はこの手を離しませんでぇ」と叫ぶシーンには涙が溢れた。
月子がやっと電車に乗るシーンは、時間をかけ、丁寧に撮られている。やっぱり戻るのでは、というサスペンスを孕み、エイッと飛び乗って母と笑い合うシーンではこちらもホッとして、やがてジワジワと安堵感と感動が広がる。
白無垢を着て、陽子が月子に「長い間お世話になりました」と語るシーンは映画ファンに既視感を呼び起こす。
そう、小津安二郎監督の秀作「晩春」のラストシーンとそっくりだ。但し立場は逆転している(向こうは、娘が父に語る)。
そう思えば、“母と娘の二人暮らしで、母の為を思って結婚しない娘を、なんとか結婚させようと母が尽力する”という小津監督の「秋日和」と、この映画はとてもよく似ている。
「秋日和」では、娘(司葉子)にふんぎりをつかせる為に、亡父の友人たちが結託して、母(原節子)の結婚話を持ち出すのだが、実はこれはダミーで、娘が結婚を決心した後、母はやはり独身を通す。「晩春」でも同じく、父(笠智衆)は本当はその気はないが、娘に自分の再婚話を匂わせている。
そう思うと、研二との結婚話は、月子のトラウマ解消の為の作り話ではなかったか、という一面も見えて来る。
原作では、陽子は心底研二を愛していて、結婚も本心であるかのように思えるのだが、映画ではわりとサラリと描かれていて、どちらとも取れるような描き方である。後は観客の判断に委ねているのだろう。ある意味、見方を変えて、2度楽しめる映画であるとも言えるだろう。
宮崎あおい、大竹しのぶの着実な演技も見事だが、絵沢萌子や國村隼等、周囲を固める役者たちもうまい。芸達者な俳優たちの演技合戦は安心して観ていられる。桐谷健太もよく頑張っている。
古い日本家屋、人々の温かい人情、子を思う母の愛情、と、この映画には、今や失われつつある(いや、とっくに失われているのかも知れない)、日本と日本人の美点、心の故里が丁寧に描かれている。
現代では、近所付き合いもほとんどなくなり、高齢者が亡くなっていても気付かない、いや、親子の殺し合いすら日常茶飯事になってしまっている。悲しい事である。
そんな時代だからこそ、この映画に涙し、感動する気持を失ってはならないと思う。傑作とまでは言わないが、心が温かくなる、いい映画である。多くの人に観て欲しいと切に願う。 (採点=★★★★☆)
(付記)
この作品、予告編でも、チラシでも、[陽子がガンで1年の命である事]をバラしている。
これは絶対間違いである。重大なネタバレである。この事実を知らないで観るのと、知って観るのとでは、受ける印象がまるで違ってくる。知ってしまうと、ありきたりの難病ものみたいに受け止められかねない。
私は幸い、予告編もチラシも見ずに映画を鑑賞したのでよかったが、見てたら印象が変わっただろう。こういう事は絶対に今後止めて欲しい。
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コメント
他のブログで知ったのですけど、研二ってどっかで聞いた名前だなあと思ってましたが、沢田研二から取られたみたいですね。ジュリーの最初の結婚相手はザ・ピーナッツの姉で本名日出代(=陽子)。妹の本名が月子なんですね。色々凝ったことしてるんだ、と感心しました。
投稿: 佐藤秀 | 2010年9月10日 (金) 08:05
◆佐藤さん
私も、“研二”って沢田研二かな?とは思ったのですが、ザ・ピーナッツまでは思い至りませんでした。
言われて見れば、ピーナッツの姉妹の本名、伊藤日出代、月子だったのを思い出しました。
原作者の咲乃月音さん、なかなかやってくれますねぇ。情報ありがとうございました。
投稿: Kei(管理人) | 2010年9月12日 (日) 23:03