「彼女が消えた浜辺」
2009年・イラン/配給=ロングライド
原題:Darbareye Elly (英語原題:About Elly)
監督・脚本:アスガー・ファルハディ
第59回ベルリン国際映画祭・最優秀監督賞を受賞した、イラン製ミステリー・タッチの人間ドラマの秀作。
テヘランからほど近いカスピ海沿岸のリゾート地に、週末旅行にやって来たセピデー(ゴルシフテェ・ファラハニー)たち3組の家族。その中には、セピデーが誘ったエリ(タラネ・アリシュスティ)という女性もいた。美しい浜辺で、しばらくは楽しいひとときを過ごすが、子供の一人が海で溺れ、それと時を同じくして、エリは忽然と姿を消してしまった。エリは、子供を助けようとして溺れたのか、それとも黙って失踪したのか。だが彼女の実体は誰も知らず、謎は深まるばかりだった…。
イラン映画も成熟したものだ。アッバス・キアロスタミが脚光を浴びる事となった秀作「友だちのうちはどこ?」(87)にしろ、マジッド・マジデイ監督の「運動靴と赤い金魚」(97)、同じく「少女の髪どめ」(2001)にしろ、バフマン・ゴバディ監督「酔っ払った馬の時間」(2000)にしろ、我が国に入って来るイラン映画は、貧しい子供たちの生活ぶりや、過酷な環境の下で懸命に生きる下層階級の大衆の姿をドキュメンタルな視線で描いた社会派ドラマが目立っていた。
もっとも、79年のイスラム革命以後、イラン映画には厳しい検閲体制が敷かれていた為(特に女性が肌や髪を露出することが禁じられていた事もあり)、あまり大人たちが登場しない子供の世界を描いた方が検閲が通り易い、という事情もあったようだ。まあ、“貧しい暮らしの中でたくましく生きる人々”という題材はウケ易い事もあるが…。
ところが、本作では中産階級の家族たちが、思い切りバカンスを楽しんでいる。貧乏の影はどこにもない。おまけにミステリー・タッチである。フランス映画だ、と言われても信じてしまいそうだ。本作で、イラン映画のイメージは大きく変わりそうだ。
(以下ネタバレあり)
映画は、前半は全員で建物内部を掃除したり、その後はバカンスを楽しむ様子を淡々と描いているので、やや退屈である。
ただ一人の部外者であるエリも、ゲームをしたりで少しづつ3組の家族たちと打ち解けて行く。
だが2日目に、エリは一足早く帰ると言い出し、この辺りから、エリと家族グループの間に少しづつ軋みが生じ始める。
やがて、子供の一人が海で溺れていると、別の子供が親たちに知らせに来て、そこから物語は俄然急転し、スリリングな展開となる。
それまでフィックスで捉えていたカメラが、一転、手持ちに変わり、激しく揺れ始めるのも効果的。
溺れた子供はかろうじて救出され、一命を取りとめるが、今度はエリがいない事に気付く。
エリは何処に消えたのか。子供を助けようとして溺れたのか、それとも黙って帰ったのか。海に船を出し、捜索する一方、警察もやって来る。
その警察の事情聴取の過程で、誰もエリの本名も、その実態も知らない事が判って来る。彼女は何物なのか。
唯一、彼女を誘ったセピデーだけがおおよその事を知っているようだ。エリはセピデーの娘が通う保育園の保母さんで、婚約者がいるらしい。だが、実は婚約者とは別れたがっていた事も判明する。
イランは戒律が厳しくて(肌を露出しないというタブーはやや解除されてるようだが)、婚約者のいる女性が他の男性たちと旅行するのもタブーである。…にもかかわらず、セピデーは彼女を旅行に誘い、エリもその誘いに乗った。
セピデーの狙いは何なのか。エリはなぜ婚約者がいるのに、バカンスに参加したのか。謎は深まるばかりだ。
(ここから完全ネタバレにつき隠します。映画を観た方のみ反転させてください)
謎を解くカギは、いくつかの周到な伏線にある。
離婚したバツイチのアーマドが、車の中でエリと話すうち、離婚の原因として、「永遠の最悪より最悪の最後の方がまし」と言う。
これが実は、エリの失踪の引き金になっているのではないか。婚約者に嫌気が差していただろうエリは、結婚で“永遠の最悪”の結果になるよりは、婚約を解消する方がベターだという方向に心が傾いたのだろう。
それを決定づけるのが、浜辺での凧揚げである。
凧を空高く揚げている時のエリの顔は、開放感に輝いていた。あの凧のように、自由になりたい…。
そこでネックになるのが、イランの厳しい戒律と古い因習である。簡単には婚約は解消出来ない。自由を求めようとすれば、抑圧され、身動きが取れなくなる。
どうやったら、婚約者の前から姿を隠し、しかも追いかけられずに済むか。彼女は思案した。
その時、目の前で子供が溺れた。子供を見ていて、と頼まれたのに、凧揚げに夢中になって、子供をほったらかしにしてしまった。
このままでは、責任を問われる。それに恐らく、彼女は泳ぎが得意ではなかったのかも知れない。
とっさに思いついたのは、“溺れた子供を助けようとして、波にさらわれ、死んだ”というシナリオである。これなら、責任を問われずに済むし、婚約者からは逃れ、追いかけられる事もない。一石二鳥である。
完全に、自分は自由になれるのだ。あの凧のように…。
こうして彼女は、子供の救出で皆が大騒ぎしているドサクサに紛れて、こっそりと町に向かったのである。カバンも携帯も、溺れたのなら持って行けないのでそのまま置いて行ったのだ。
海から上がった死体は、多分別人だろう(警察も言っている通り、潮流のない内海で溺れたら、死体は元の砂浜に打ち上げられるはず。離れた場所まで流される事はない)。婚約者が死体を見た時は、顔は半分髪に覆われ、それも全部を見せていない。エリかどうかは観客にも判らない。婚約者も、あいまいな態度で本人と確認した様子はない。この辺は演出も巧妙にボカしている。
(↑ ネタバレここまで)
それよりも秀逸なのは、エリの行方不明をきっかけとして、仲の良かった家族、夫婦の間に、少しづつ亀裂が生じて行くさまを、実にリアルに、かつ辛辣に描いている部分である。
ある者は他者を非難し、ある者は責任を逃れようとうろたえ、あるいはごまかし、嘘を重ね、それぞれにエゴをむき出しにして行く。婚約者も感情を露わにするが、家族の一人を殴り、血だらけにするシーンで、こうした粗暴な性格が、エリが別れたがる理由ではないかと思わせる辺りも秀逸。
一見、不条理な展開を配する事によって、この映画は現代の不安、人間の心に潜む闇(冒頭の狭苦しい暗い空間の映像も象徴的だ)を巧みに掬い上げ、かつ人間のエゴ、欺瞞性、政治体制への鬱屈、自由への願望…等、さまざまなテーマをも網羅し、鋭く追及する事に成功している。
自動車の車輪が砂に食い込み、空転するシーンが中間とラスト、2度登場する。これも暗示的だ。砂の味気なさ、空転し噛みあわない車輪…。うまい幕切れである。
エリが消えた理由については、観た人がそれぞれ、いろんな推測をするといい。私の考えも1つの推測に過ぎない。観る角度によって、また違うものが見えて来るかも知れない。そういう映画は好きだし、また面白い。
イラン映画の新しい方向性を示す、これは見事な秀作である。アスガー・ファルハディ監督、次回作が楽しみな才能がまた一つ誕生した。 (採点=★★★★☆)
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