「ヒア アフター」
津波に呑まれたが九死に一生を得た、パリ在住の女性ニュースキャスター、マリー(セシル・ドゥ・フランス)、不慮の事故で兄を亡くしたロンドン在住の少年マーカス(ジョージ・マクラレン)、そしてサンフランシスコに住む元霊能者で肉体労働者のジョージ(マット・デイモン)…。この3人が互いの問いかけに導かれるようにめぐり会い、生きる喜びを見出して行く。
これまで、リアリスティックな人間ドラマを描いて来たイーストウッド監督が、“死後の世界”という、何となくオカルトっぽいテーマの作品を手掛けた事に違和感を感じる人もいるだろう。実際私も観る前は、こりゃイーストウッドらしくないな、トシとってそっちの方に関心が行ってるのかな、とちょっと心配になった。
だが、映画を観て杞憂は吹き飛んだ。素晴らしい心に沁みる秀作に仕上がっていた。毎回、新しいジャンルに挑戦して、いとも軽々とクリアしてしまうイーストウッド監督には、心の底から畏敬の念を抱かざるを得ない。
冒頭の津波シーンの迫力にまず驚かされる。全体が淡々と、静かな内容であるので、最初のツカミで観客を引っ張り込んでおこうという戦略は悪くはない。が、どちらかと言うと製作総指揮のS・スピルバーグの意向も入っているのかも知れない。そう言えばイーストウッドとスピルバーグのコラボでは、「父親たちの星条旗」でも壮大なCGシーンがうまく配置されていた。
イーストウッドらしくない作品と思う人も多いだろうが、よく見ればやはりイーストウッドらしい要素が巧妙に配置されている。
マーカス少年は、自分の代りにお使いに出た兄が死んだ事で、兄の死は自分のせいだ、と悩んでおり、もう一度兄に会って、謝りたいと思っている。
つまりは、ここ数年のイーストウッド作品の一貫したテーマである“贖罪”が、ここでもちゃんと描かれているのである。
イーストウッド自身作曲の、ギターを中心とした静かだが心に響く音楽、抑えた色調の撮影、そして、苦悩を抱えながらも、生きる事の大切さを、丁寧かつしみじみと描く、まさにイーストウッド・タッチと呼べる演出は本作でも健在である。
“死後の世界”と書いたが、実は本作には、あからさまなそんなシーンは登場していない。マリーが臨死体験の中で見る不思議な光景も、ぼんやりとしていて、かつ一瞬であり、どちらかと言えば彼女の夢のようにも思える描き方である。
ピーター・ジャクソン監督の「ラブリー・ボーン」とか、ロビン・ウィリアムズ主演の「奇蹟の輝き」(1998)などが、霊界を極彩色で豪華絢爛に描いたのとは大違いである。
(ここからネタバレがあります。一部隠してありますので、映画を観た方のみドラッグ反転させてください)
そして、マット・ディモン扮するジョージの特殊能力…死者を呼び出すというふれ込みで、これまでビジネスをやって来たが、ジョージはそれに嫌気がさして辞めたがっている。
が、映画をじっくり見ると、実は死者の霊も、死者の言葉も画面には一切登場してはいないのだ。
ジョージは、相手に触る事で、その心の中を見る能力は持っている。それで、相手の過去の体験や、亡くなった誰に会いたいのかは知る事が出来る。
その得た情報を元に、ジョージはあたかも死者から話を聞いたごとくに装い、依頼者が望む通りの、死者の言葉を伝えるのである。
つまりは、一種の詐欺である。が、依頼者は自分しか知らない秘密をジョージが知っているので、本当に死者を呼び出したものと錯覚してしまい、ジョージに感謝するのである。
ジョージがこの商売を辞めたがっているのは、霊能師である事にうんざりしたと言うよりは、兄にそそのかされて、他人を騙す事に強い罪の意識を感じているからではないだろうか(つまり、ここにも“贖罪”というテーマが見え隠れする)。
料理教室で知り合ったメラニー(ブライス・ダラス・ハワード)に頼まれ、彼女の触れられたくない過去を知って、結局彼女の心を傷つけてしまう。自分の能力は人を欺くだけでなく、時には他人を傷つける事だってある、という点にもジョージは思い至るのである。
ここでも、よかれと思ってした己の行動が、却って悲惨な結果を招いてしまったことで、激しく己を責めたてる、「グラン・トリノ」の主人公の姿がダブる。
イギリスで出会ったマーカスから、兄の霊を呼び出して欲しいと頼まれても、頑なに拒否するのも、もう他人を騙すような事はしたくない、という思いがあるからだろう。
結局マーカスの熱意に根負けして、マーカスの願いを聞き入れるシーンでも、やはりマーカスの兄の霊が登場するシーンはない。マーカスの心の中を読み、相手に合わせてあたかも兄が喋っているかのように見せかけているだけである。
それで、マーカスの心が解放されるなら、嘘も方便、という事なのである。
そしてマリーの出版サイン会で、ジョージがマリーの手に触れた時見るのは、マリーの過去=津波で溺れた光景-だけである。
その後、ラストでそのジョージが、マリーと会う約束をした場所で幻視するのは、二人の未来である。
つまりは、これまで(他人の)過去とばかり向き合って来たジョージが、ここで初めて、未来(=希望)と向き合う事となるのである。
生きる事はせつない。人は絶望や苦悩を抱え、悩み苦しむ時だってある。
それでも人は生きて行かねばならない。未来がある限り…。
“ヒア アフター”とは、“来世”と訳されているが、直訳すれば、“ここから後”―即ち、“未来”を示しているとも言える。
スピリチュアルな作品と誤解されそうだが、実は全くそんな作品ではないのである。よく見れば、まさにイーストウッドらしい、生きる事と人生の意義を見つめ直す、素敵な心温まる人間ドラマなのであった。
インタビューによれば、イーストウッド監督は、現役最高齢監督のマノエル・デ・オリベイラ監督(最新作「ブロンド少女は過激に美しく」が公開されたばかり)にならって、少なくとも100歳まで監督業を続けるつもりだという。素晴らしい事である。歳を取ったって、まだまだ人間、何だってやれる、と勇気づけられる。
そう、生きている限り、人生のお楽しみは、まだまだこれからなのである。
どうでもいいが、私のブログ名「お楽しみはココからだ」の“ココからだ”って、英訳すれば“ヒア アフター”になるんじゃないか、と気がついて、ニンマリしている私なのであった(笑)。 (採点=★★★★☆)
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コメント
傑作と太鼓判を押すには物語の展開が緩めで気がひけますが、僕もこれは秀作でさすがイーストウッド監督と思い、思わず最後は涙しました。
金子修介監督がTwitterで「演出の教科書」と仰ってたのですがまさにその通りで、何と言うか映画全体に「意志をある演出」を観たなあ。と感じました。
それに品があって上品ですね。私的には前作より好感を持ってます。
投稿: タニプロ | 2011年3月 4日 (金) 01:27
◆タニプロさん
そう、まさに本作には、風格というか“品の良さ”が感じられますね。
これが他の凡庸な監督が撮ると、退屈でスカスカの出来になってしまうでしょうね。
そういう意味では、“庶民の平凡な日常”を描いても、独特の品の良い演出の力で傑作にしてしまう、小津安二郎監督との共通性も感じました。
100歳になったら、どんな映画を撮るのか今から楽しみです。
でもその頃には、私の方が先にあの世に行ってるかも(笑)。
投稿: Kei(管理人) | 2011年3月 7日 (月) 01:40
知らないでおいた方がよい過去や人の全てを知ってしまうことで辛い思いをしてきたという経歴はこの映画の霊能者によらず、厳しい時代に生きている人を少しでも癒したり支えになったりしているカウンセラーやボランティアと同じだと思います。 大切な人を亡くして、その悲しみや絶望を乗り越える力は必ず、人間は皆自分の中にある。
投稿: マヌケ | 2011年10月11日 (火) 12:58
実は過去を見ているだけとは面白い見方ですね。
ただそう仮定した場合、以下の二つの説明が付きません。
①メラニーとまじめにお付き合いしたいのに、わざわざ余計に敬遠されやすい霊能者だと告白した
②マリーに手紙で自分の素性を正直に書いているのでしょう。その世界が見える霊能者と書いていないとわざわざ会いに来ないでしょう。仮に霊能者だと嘘を書いていて、あんな晴れやかな顔にはなる人間はいない。
よって、本当に霊能者だとしたほうが全て説明が付くのではないでしょうか。霊能者も神ではないので、交信しても常に正解を答えられると限らないでしょう。
投稿: ノリ | 2011年10月14日 (金) 10:42
ジョージがマリに書いた手紙の内容は何だったのでしょうか。野暮な質問すみません。
投稿: まさ | 2011年11月16日 (水) 01:12
◆ノリさん
えらく返事が遅くなってしまって御免なさい。(もう忘れられてる?)
さて、ご指摘の件についての私の回答です。
①霊能者という職業は、わりと広く認知されており、商売にもなっているくらいで、職業を聞いて尻込みする人はそんなに多くないでしょう。
しかし、実は人の心が読めるのです…と本当の事を言えば、まず「嘘でしょ?からかってるの?」と軽蔑されるか、もし信用してもらったとしても、今度は自分の知られたくない秘密や過去まで全部ジョージに知られてしまうと思うと、怖くて近寄れないと思われ、彼の元から逃げて行ってしまうのがオチでしょう。
そういうマイナス要素を考えたら、既に世間に知られている、霊能者だと言うのが自然ではないでしょうか。
②ジョージがマリーに書いた手紙の内容は映画では明かされていません。
これは観客が自分で想像するしかないでしょう。
ご指摘のように、
>霊能者だと嘘を書いていて、あんな晴れやかな顔にはならない…
という点から、私は恐らくジョージは、「自分は人の心が読めるのです」と本当の事を書いたのではないかと思います。
しかし、それでこれまで苦しんできた事、マリーの過去を知ったうえで、あなたの苦しみを分かち合いたい、と正直に打ち明け、それでも愛してくれるか、と思いを真摯に伝え、そんなジョージの真意を受け止め、マリーは彼を愛する事に決めたのではないでしょうか。
いかがでしょうか。
まあ、映画の受け止め方、解釈の仕方は人それぞれ、謎の多い映画ほど、いろんな解釈、楽しみ方が出来るのではないか、というのが私の持論です。
ノリさんのように、ジョージはやはり本当の霊能者だ、と思う方がいても当然だし、もしかしたらそれが正しいのかも知れません。でも私は上のように解釈し、それで映画を楽しみました。それでいいのではないでしょうか。
◆まささん
…というわけで、手紙の内容は、私の意見では上に書いたノリさんへのお返事の通りです。
まあ、あえて手紙の文面を見せず、観客にいろいろと想像させたイーストウッド監督はやはり一枚上手だな、と思いますね。
投稿: Kei(管理人) | 2011年12月16日 (金) 00:21
少々的外れに感じる考察は置いておくとして
脚本としての必然性が無いのが致命的
それぞれ中身の無い話の上
魅力も個性も乏しい登場人物
最後に無理矢理合わしただけだもの
そらあんな小さい双子の片割れが死ねば
嫌でも印象にも残るだろう
観る側に委ねるってのは楽なやり方だ
投稿: | 2018年2月24日 (土) 14:13