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2011年3月31日 (木)

「ランウェイ☆ビート」

Runwaybeat2011年・日本/配給:松竹
監督:大谷健太郎
原作:原田マハ
脚本:高橋泉
プロデューサー:齋藤寛朗
エグゼクティブプロデューサー:間瀬泰宏

原田マハのケータイ小説を、「とらばいゆ」「NANA」の大谷健太郎監督が映画化した青春ドラマ。脚本は「ある朝スウプは」で日本映画監督協会新人賞を受賞した新鋭高橋泉。

…と、原作はともかく、若手注目株の高橋泉+大谷健太郎の名前につられて見に行ったのだが、ガックリ。どうしようもない駄作である。

 
高校2年の塚本芽衣(桜庭ななみ)のクラスに、“ビート”こと溝呂木美糸(瀬戸康史)が転校してくる。天才的なファッションセンスを持つビートを中心に、クラスメイトたちは文化祭のファッションショー成功させるべく奮闘を開始するが、折しも学校は廃校の危機に直面していた…。

作品のパターンとしては、矢口史靖監督の「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」、猪股隆一監督「書道ガールズ!! わたしたちの甲子園」等の高校部活もののバリエーションである。いずれも、笑えて泣ける爽快な感動作で、とりわけ「ウォーターボーイズ」は興行的にもスマッシュヒットだっただけに、文化祭の出し物を、より若者向けのファッションショーに置き換えて、何匹目かのドジョウを狙おうという魂胆が感じられる。

それで多少は面白く見れるのならいいのだが、ただいろんなウケる要素をあれもこれもとってつけたように羅列しただけで、お話の整合が全然取れていない。支離滅裂、お粗末極まりないシロモノと言うしかない。

並べてみよう。高校の部活+ファッションショー+引き籠り+イジメ+難病+三角関係+父親との確執+アパレル企業間戦争+学校の廃校問題
よくまあ思いつくままにぶち込んだものである。しかも、どれも底が浅く、有機的な連携も出来ていないから話が繋がらなくなってる部分さえある。

(以下ネタバレあり)
だいたい、学校の文化祭での催し、という設定だったはずなのに、いつの間にか校外でどこやらの施設を借りて、ものすごく大がかりな規模になってる。準備期間も、いったい何カ月かかってるのやら。その上大手アパレル会社が妨害活動をするに至っては、いつの間に高校文化祭が企業戦争に発展したのかと呆れるばかり。

ビートが転校して来た学校は生徒不足で近々廃校になるという話もヘンだ。それだったら舞台となる町は、過疎化が進む地方都市といった所だろう。
ところが、ビートの父も、ライバル会社も、まるで六本木ヒルズのような高層ビルに事務所を構えているし、同級生でファッションモデルのミキが仕事場とする写真スタジオや雑誌社も、家から車で通える所にあるようだ。ビートの幼馴染だというきらら(水野絵梨奈)が入院している病院だって、かなり設備の整った立派なものである。
これでは、どうみたって学校のある場所は東京のような大都市またはその近くでないとおかしい。後先何も考えずに設定してるとしか思えない。

この他にも、この学校には芽衣のクラス以外に生徒はいないのかとか、勉強そっちのけでファッションにうつつを抜かしてて、先生も親たちも誰も反対しないのかとか(普通の親なら勉強しろと怒るだろう)、校庭をバカでかいファッション会場に改造して、他の野球部やサッカー部は何も言わないのかとか、ツッコミどころを挙げて行けばキリがないくらいだ。

 
まあどうせ若者向け作品なのだから、多少のザツな所は目をつぶってもいいとは思う。

だが、私がこの作品で許せないと思ったのは、金銭感覚のどうしようもないルーズさである。

いったい、この大規模なファッションショーにかかったお金はどこから出たのだろうか。教室に何台も置かれたミシンとか、何十と並んだマネキンの列はどうやって揃えたのか(この高校は洋裁学校か(笑))。
親たちは散髪屋とかもんじゃ焼き屋とか、ごく庶民的で金など持ってなさそうだし、ビートの父は金出す雰囲気ではないし。そもそも資金集めに苦労するエピソードがまったくないのはあまりに不自然。

「ウォーターボーイズ」は、費用と言えば海パンだけだし、「スウィングガールズ」や、これも部活青春ものの傑作「青春デンデケデケデケ」では、どちらも楽器を買う為に生徒たちがアルバイトして資金を稼ぐくだりがきちんと描かれている。
細部のリアリティを手抜きしては、感動など得られるはずもない。当り前の事である。

他にも、ビートが父からカードを渡され、学生服屋でカードが使えない為、仕方なく祖父の作った詰め襟服を着ていたのが、数日後にはいつの間にかブレザーの制服を着ている。どうやってこれを買ったのか。ここにも金銭感覚の無頓着さが出ている。それなら中途半端に詰め襟を着ているシーンなど出さない方がいい。

 
何かを得ようとすれば、必ず代償が伴う
。派手な事をしようとすれば、派手になるほど代償が膨らむ。金がかかるなら、働いて代償を得なければならないし、その分勉強する時間が犠牲になる。それをカバーする為には、寝る時間や、遊ぶ時間も犠牲にしなければならない。
未成年の若者たちにはなおの事、その大事さをきちんと伝えなければならない。それが大人の役目である。素敵な青春映画には、そうした事がきちんと描かれているはずである。

前述の「青春デンデケデケデケ」では、アルバイトするシーンは無論の事、上達するまでの猛特訓の積み重ねとか、祭りが終わった後の空虚感とか、大学受験勉強とかのシーンも丁寧に描かれている。それらもあって、この作品は青春映画の傑作となった。

その他の前記高校部活ものにしても、いずれも、目標に向けて、ひたむきに努力し、練習・訓練を積み重ね、汗を流す、その事の大切さがきちんと描かれている。

本作には、そうした視点が、ほぼ皆無である。汗を流し、努力する事もなく、人がデザインした服を着て見栄を張るだけ。それをカッコいいと若者に感じさせてしまうのは困った事である。細部の手抜きや、人物描写の薄っぺらさなどの難点も、これに比べたら大した問題ではない。

 
こんな映画の製作に、松竹やTBSや新聞社等の大手会社が係っている点も問題である。「最後の忠臣蔵」で有望株として注目された桜庭ななみも、本作では全く精彩を欠いている。大谷や髙橋泉なども含め、日本映画の将来を担う人材を潰すつもりなのだろうか。

昔なら、辣腕プロデューサーがいて、脚本に欠陥部分があれば徹底的に直させたものである。そんな人材も今はいない。このままでは、日本映画の将来が不安になって来る。

興行的にはベタコケのようだが、こんなものは見せない方が正解である。本年度のワースト候補に挙げたい、困った作品である。     (採点=×

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2011年3月27日 (日)

「漫才ギャング」

Manzaigyang2011年・日本/配給:角川映画
監督・原作・脚本:品川ヒロシ

初監督作品「ドロップ」で、興行面のみならず作品的にも大成功を収めたお笑い芸人の品川ヒロシが、再び自らの原作を脚色し、監督も務めた異色の青春コメディ。

結成10年目の売れないお笑いコンビ「ブラックストーン」のボケを担当する飛夫(佐藤隆太)は、ついに相方の保(綾部祐二)から解散を宣告されてしまう。ヤケ酒でトラブルを起こして警察に連行された飛夫は、留置場で出会った、日々ケンカに明け暮れるストリートギャングの鬼塚龍平(上地雄輔)にツッコミの才能を見出し、コンビを組もうと強引に誘い、漫才コンビ「ドラゴンフライ」を結成する。新たな目標を見つけてやる気を取り戻した飛夫は、元カノの由美子(石原さとみ)ともヨリを戻し、借金も返済して、ついに迎えた初舞台も見事成功させるのだが…。

デビュー作「ドロップ」は、青春映画の見事な秀作で、私は批評で、“第2回監督作品も是非発表して欲しい。そう思わせる、キラリと光るものが、本作には確かに感じられた”と褒めたのだが、本作の内容を聞いてちょっと不安になった。

というのは、同じお笑い芸人出身の映画監督、北野武や竹中直人らは、シリアスな題材の作品については見事な秀作をいくつも発表しているのだが、得意なはずのコメディ作品を撮ると、途端にグダグダの失敗作(北野=「みんな~やってるか」、竹中=「山形スクリーム」)を作ってしまうのである。

「山形スクリーム」のあまりの酷さに私は、“お笑い出身の監督は、コメディ映画を作るべきではない”とまで断言してしまったくらいである。

そんなジンクスがあるので、品川監督が第2作の題材に、得意分野の“お笑い”を選んだ事に、一抹の不安を抱いてしまったのである。

だが、私の心配は全くの杞憂であった。本作はまたしても、感動を呼ぶ佳作に仕上がっていた。

成功の最大要因は、お笑いを題材にしているとは言え、基本的には“夢を追い求める青春映画”に仕上げている点にある。

お笑い芸人としての成功を夢見る飛夫。だが相方のコンビ解消案に、その夢は潰え去ろうとしている。

片や龍平は、ただ喧嘩に明け暮れるだけで、明日の事も考えていなかった。

その二人が留置所で出会い、飛夫は失いかけた夢を再び取り戻そうとし、また龍平も、こんな自分でも何か夢を持つ事が出来るのではないかと思い始める。
出会いが、二人のそれぞれの人生をも変えようとしているのである。

その彼らを取り巻くさまざまな登場人物も、うまく的確に配置されていて、脇に至るまで無駄がない。
最初はエゲツナイ奴だと思っていた、借金取りの金井(宮川大輔)も、後半になるにつれ、意外にもいい奴である事が分かって来るなど、キャラクター設定がうまい。
ほんのチョイ役かと思っていた、ガンダムオタクの小淵川(秋山竜次)が、最後に意外な形で絡んで来る辺りも秀逸。

龍平が、飛夫の夢を壊さない為に、悪辣な城川(新井浩文)の苛めにもじっと耐える辺りも泣ける。そして終盤、飛夫までも巻き込もうとした城川の卑劣さに、遂に龍平の怒りが爆発し、後始末を金井らに託して城川たちに殴り込みを掛けるクライマックスに至るのだが、よく考えればこれ、昔懐かしい任侠映画の筋書きにそっくり。品川監督、かなりの映画通とみた。

飛夫の内心のモノローグを、モノクロのズームアップで処理したり、前作でもうまく取り入れていた、ハイスピードとコマ落しをミックスしたアクション・シーンなど、絶妙の編集テクニックにも唸らされる。

最後のオチも秀逸。単なるサクセス・ストーリーでなく、夢を追う事の厳しさ(それは自身の体験にも裏打ちされてるのだろう)を描きつつ、それでも夢を捨てない事の大切さもきっちりと訴えている(それにしても最後の相方は誰だ?)。
エンドロールの、ボケとツッコミのカーテンコールも楽しい。品川監督、映画のツボを実によく心得ている。

 
私は、最近のお笑いにあまり興味がないので、楽しめるか心配だったのだが、そんな私でも十分笑え、楽しめた。お笑いに興味がある人も、興味がない人でも、誰でも楽しめる、青春人情コメディの秀作としてお奨めしたい。

それにしても品川監督、北野武でも失敗したコメディ作品でも見事成功している点から見ても、将来は北野武をも上回る、日本映画を代表する一流監督になれる資格は十分である。
お笑い芸人にしておくのはもったいない。是非プロの映画監督の道を歩まれる事を、強く望みたい。   (採点=★★★★

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2011年3月21日 (月)

「トゥルー・グリット」

Truegrit2010年・米/配給:パラマウント
原題:True Grit
監督・脚本:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
製作:スコット・ルーディン、ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
製作総指揮:スティーブン・スピルバーグ、ロバート・グラフ、デビッド・エリソン、ミーガン・エリソン
原作:チャールズ・ポーティス

1969年に作られた、ジョン・ウェイン主演の西部劇「勇気ある追跡」を、「ノーカントリー」等のジョエル&イーサンのコーエン兄弟がリメイク。製作総指揮には、スティーブン・スピルバーグも名を連ねている。

父親を殺された14歳の少女マティ(ヘイリー・スタインフェルド)は犯人を追跡するため、隻眼で元は凄腕だが、今は大酒のみで自堕落な連邦保安官ルースター・コグバーン(ジェフ・ブリッジス)を雇う。気の強いマティはコグバーンに無理やり同行し、別件で同じ悪党を追うテキサス・レンジャー、ラビーフ(マット・ディモン)も加わり、3人の危険な追跡劇が始まった…。

コーエン兄弟の監督という事で、どんな毛色の変わった西部劇になるかと思ったが、意外や実に本格的・正統西部劇に仕上がっていたので感心した。ジョン・ウェイン主演のオリジナルにもオマージュを捧げたシーン(口に手綱を咥え、両手に銃を持って対決する)もあり、オリジナルが大好きな私にはそれだけでも感動ものである。

マティに扮したヘイリー・スタインフェルドが素晴らしい熱演。あどけない顔なのに、葬儀屋と駆け引きしてコグバーンを雇う費用を捻出する辺り、大人も顔負けである。

このシークェンスが、最初はマティを子供扱いしていたコグバーンが、次第に彼女を対等に扱うようになり、二人が心を通わせて行く伏線にもなっている辺りもうまい展開である。

マット・ディモンも、「ヒア アフター」とは一転、西部の風景に見事に溶け込んでいる。

そしてジェフ・ブリッジス。「クレイジー・ハート」で素晴らしい復活を見せたばかりか、今度は風格あるウエスタン・ヒーローを豪快に演じ、またまた男を上げている。ジョン・ウェインが演じた前作のコグバーンとも全くひけを取っていない。秀作「ラスト・ショー」(71)で、遅れて来たアメリカン・ニューシネマの残像を引きずっていたブリッジスが、こんな渋い老年ヒーローを演じるまでになった事に感慨深いものがある。
ちなみに、「ラスト・ショー」の中で、文字通りラスト・ピクチャー・ショーを飾っていたのが、ジョン・ウェイン主演「赤い河」であったのも、何かの因縁であろうか。共演者の中に、ジョン・ウェインとの共演作も多い西部劇の名優、ベン・ジョンソンの名前があるのもまた興味深い。

クライマックスの、悪党一味との決闘シーンも、まさにこれぞ西部劇。久しぶりに興奮した。やるじゃないかコーエン兄弟。

そして終盤、ガラガラヘビに噛まれたマティを、医者に連れて行く為にコグバーンが必死で馬を駆けるくだりも印象的だ。
美しい星空の下、少女の命を助ける為に走り続ける老ヒーローの姿に、西部男の心意気を見る。

ラストの後日譚も印象深い。あれから25年を経て、その後のマティとコグバーンの顛末が語られる。ウェインのオリジナル作品にはないエピソードであるが、ここは実は原作通りであり、コーエン兄弟も言っているが、これは“原作に忠実な映画化”なのである。

これを描く事によって、西部のヒーローの悲しい末路、並びに“復讐には代償が伴う”本作のテーマをくっきりと印象付けている。

カッコいい西部劇であったウェイン主演の前作とは明らかに異なる、人間の運命、憎悪の連鎖の空しさ、といった、9.11以降のアメリカの空気、をも敏感に反映していると言えよう。今世紀に、コーエン兄弟があえてリメイクにチャレンジした意味も十分納得出来る。

爽快な正統西部劇として楽しむも良し、コーエン兄弟映画の新たな展開として見るも良し、本年を代表する見事な秀作としてお奨めしたい。    (採点=★★★★☆

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(で、お楽しみはココからだ)

既に一部の評論家も指摘しているが、本作には、チャールズ・ロートン監督のカルト的秀作「狩人の夜」(1955)へのオマージュも巧みに盛り込まれている。

Nightofthehunter_2ご存じない方の為に解説すると、これはビリー・ワイルダー監督「情婦」等の名演でも知られる俳優、チャールズ・ロートンが初監督を担当し、ロバート・ミッチャムが不気味な殺人犯を演じたサスペンス映画である。共演にはリリアン・ギッシュ、シェリー・ウィンタース等の名優が並ぶ。

だが、公開当時は興行的にも当らず、批評家からも黙殺され、我が国でも劇場未公開に終わった不幸な作品である。ロートンも監督作はこれ1作に終わった。

が、後年、F・トリュフォー等一部の映画人が激賞し、やがてカルト的な人気を得て再評価の機運が高まり、我が国でも1990年に至ってようやく劇場公開される事になった、いわく付きの作品である。

後年の映画にも多大な影響を与えており、ミッチャムの両手の指に彫られた刺青、“LOVE”と“HATE”は、スパイク・リー監督の「ドゥ・ザ・ライト・シング」の中で、巨大ラジカセを肩にかついだレディオ・ラヒームが両手に着けているリングに、そのまま引用されている。
また、マーティン・スコセッシ監督「ケープ・フィアー」で、ロバート・デ・ニーロの身体に彫られた「TRUTH」と「JUSTICE」の刺青もこれの引用と言われている。

 
で、本作へのオマージュの件だが、本作で随所に流れる、「永遠(とわ)なる腕(かいな)に身をゆだね」という歌詞の賛美歌(聖歌503番「主の御手に頼る日は」という題名の曲)は、「狩人の夜」の中で印象的に使われており、「狩人の夜」を気に入った映画ファンならすぐにピンと来るだろう。

Nightofthehunter1_2そして映像的にも、この作品には、地平線を行く馬に乗った男のシルエット(写真1)とか、星空の下、河を流れて行く兄妹の船(写真2)とかの印象的な名シーンがあるのだが、これらに似たシーンが「トゥNightofthehunter2_2ルー・グリット」でもちゃんと登場しているのは、映画を見れば自明である。

思えば、ミッチャムが演じた、どこまでも執拗に追って来る不気味な殺人鬼のイメージは、コーエン兄弟の「ノーカントリー」の殺人者、ハビエル・バルデム演じるアントン・シガーに、巧妙に投影されているのかも知れない。

なお「狩人の夜」は、2007年に「カイエ・デュ・シネマ」誌が発表した「世界で最も美しい100本の映画」では、第2位に選ばれている。
ちなみに、1位はオーソン・ウェルズ監督「市民ケーン」である。
人気の高さを窺い知る事が出来るだろう。

どうでもいいが、この1位、2位の作品、どちらもでっぷり太った性格俳優(笑)の初監督作品で、どちらも公開当時は批評・興行共に惨敗、後年再評価される、といった共通点があるのが面白い。

映画ファンなら、見ておいて損はない秀作である。興味があれば是非。

 

原作本

 

 

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2011年3月17日 (木)

被災地の方々に、お見舞い申し上げます

今回の東北・太平洋沖地震で被災された方たちには、心からお見舞い申し上げます。

地震から1週間が経ちましたが、まだまだ行方不明の方も数多く、加えて福島原発事故の問題が、重く心にのしかかっております。

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2011年3月13日 (日)

「英国王のスピーチ」

Kingsspeech2010年・英・オーストラリア/配給:ギャガ
原題:The King's Speech
監督・脚本:トム・フーパー
脚本:デビッド・サイドラー
製作:イアン・キャニング、エミール・シャーマン
製作総指揮:ジェフリー・ラッシュ、ティム・スミス、ポール・ブレット、マーク・フォリーニョ、ハーヴェイ・ワインスタイン、ボブ・ワインスタイン 

現イギリス女王エリザベス2世の父ジョージ6世にまつわる感動のエピソードを、コリン・ファース主演で映画化した歴史ドラマ。監督は英テレビ・ドラマ演出家で、2005年にはヘレン・ミレン主演の「エリザベス1世 ~愛と陰謀の王宮~」でエミー賞ミニシリーズ作品賞等、数々の受賞歴がある39歳の俊英トム・フーパー。第83回米アカデミー賞で作品、監督、脚本、主演男優賞を受賞した。

英国王ジョージ5世の次男ヨーク公(コリン・ファース)は、幼い頃から吃音というコンプレックスを抱え、人前に出ることを極端に恐れる内向的な性格となり、成人してからも自分を否定し続ける人生を送っていた。吃音を克服すべく、何人もの言語聴覚士の治療を受けるものの一向に改善の兆しは見られない。そんな夫を心配する妻エリザベス(ヘレナ・ボナム・カーター)が最後に頼ったのはスピーチ矯正の専門家というオーストラリア人のライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)。彼は王子に対しても遠慮のない物言いで次々と風変わりな治療法を実践していく。そんな中、国王に即位した兄エドワード8世が、王室が認めない女性との愛を貫き、突如王位を返上してしまい、結局彼はジョージ6世として王位を継承せざるを得なくなるのだが…。

 
実話をベースにした、イギリス王室の歴史ドラマ、というふれ込みから、少々硬い作品と思われがちだが、なかなかどうして、よく観れば、娯楽映画の基本パターンもきちんと押さえた、見事なエンタティンメントの快作に仕上がっている。

この、娯楽映画の基本パターンという点について、もう少し詳しく説明すると、
この映画のストーリー展開には、過去のいろんな典型的、秀作娯楽映画との類似性が至る所に見られるからである。

一例を挙げると、例えば周防正行監督「シコ、ふんじゃった。」、あるいは矢口史靖監督「ウォーターボーイズ」などがその代表作である。
これらの作品のストーリー展開をかいつまんで述べると、
①主人公がひょんな事から、あるいは行きがかりや好奇心から、特定のプロジェクトに参加する。
②だが、本人の技術不足や経験不足から、最初の挑戦は大失敗し、主人公は落ち込む。
③だが、やがてリベンジを誓い、周囲の励ましに支えられたり、よき仲間と出会い、猛特訓を繰り返す。そのプロセスで、主人公は人間的にも成長して行く。
④そしてクライマックスの大舞台で、見事大成功(大勝利)を収め、ハッピーエンド。

…こうしたパターンの作品は、他にも李相日監督「フラガール」、あるいは大林宣彦「青春デンデケデケデケ」、最近の例では昨年のラデュ・ミヘイレアニュ監督「オーケストラ!」等々、枚挙に暇がない。いずれも、上記①~④のパターンは着実に押さえられており、それぞれに楽しく、感動的な秀作ばかりである。
(この点は過去の「フラガール」「オーケストラ!」で解説済)

 
で、本作に戻ると、まず冒頭、大英帝国博覧会において、主人公は国王の代理でスピーチをするハメになるのだが、生来の吃音が災いし、大失態をやらかす。
ここは上記の②のパターン通りである。

やがて、妻のエリザベスの励ましがあったり、言語療法士ライオネルと出会い、猛特訓を繰り返す辺りも③のパターンそのままである。
ジョージとライオネルとの間に、友情にも似た強い絆が生まれてくる辺りも、前記の作品との共通性がある。
そして最後のクライマックス、国民に向けたラジオ放送、ここで主人公ジョージ6世はヒットラーと戦う決意を述べた一世一代の名演説を披露し、多くの人を感動させる。ここはまさに④のパターン通りである。

いかがだろうか。本作が娯楽映画の王道パターンをきちんと踏まえている事が分かるだろう(国になるを描いているから、これが本当の王道だ(笑))。

実はその前に、戴冠式の宣誓を無難にこなしており、そこで終わってもいいのだが、“ヒットラーとの対決姿勢”をクライマックスにもって来る辺りがうまいのである。これは、吃音を克服しただけでなく、ジョージ6世が、まさに人間的成長を遂げ、毅然とした自己主張をする事によって、名実共に国民の為の、本当の国王となった事を示しており、それ故に大きな感動を呼ぶのである。

(さて、お楽しみはココからだ)
このラストシーンで思い出すのが、チャップリンの代表作「独裁者」(40)である。
Dictator 独裁者と瓜二つのユダヤ人のチャップリンが、マイクの前でドイツ国民に演説するのだが、最初はオズオズ、訥々と話し始める。
だが、次第に熱を帯びて、堂々と、人間の自由と尊厳を奪うファシズムを痛烈に非難する素晴らしい演説に至る。

本作でも、ジョージ6世は、最初は訥々と、やがて次第に熱を帯びて、ナチス・ドイツに対する毅然とした声明を発表する。
国民はそれを聞いて惜しみない拍手を寄せるのだが、この流れも「独裁者」とよく似ている。

おそらく、脚本にも参加したトム・フーパー監督の頭には、このチャップリンの名作のラストが浮かんでいたに違いない。

もう一つ、アルフレッド・ヒッチコックの代表作「海外特派員」(40)との類似性もある。
Foreigncorrespondent この作品のラストでも、主人公(ジョエル・マクリー)はドイツによるロンドン空襲のさなか、ラジオ局マイクの前で、ナチス・ドイツに対して国民が立ち上がるよう語りかけるのである。

奇しくも、「独裁者」、「海外特派員」とも同じ年、1940年製作で、共に、ナチス・ドイツがどんどん勢力を伸ばしていた、まさにその戦時下で、痛烈なナチス批判をしている所が凄い。この勇気ある行動そのものが、ジョージ6世の勇気ある演説と底流で繋がっているようにも、私には思えるのである。

ちなみに、チャップリン、ヒッチコック、どちらもイギリス出身である。

 
ジョージ6世を演じたコリン・ファース、ライオネルを演じたジェフリー・ラッシュ、共に見事な名演である。ファースのアカデミー賞受賞は当然だが、ラッシュも助演賞に値する名演技である。受賞を逃がしたのは惜しい。エリザベス妃を演じたヘレナ・ボナム・カーターも、いつもと違い落ち着いた気品ある演技を見せている。俳優陣がみな素晴らしい。見応えある、そして静かな感動を呼ぶ秀作であるが、そこに私の大好きな、娯楽映画の王道パターンが巧みに網羅されているのだから、もうこれは満点を付けざるを得ない。お奨め。     (採点=★★★★★

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