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2011年4月29日 (金)

「ダンシング・チャップリン」

Dancingchaplin2011年・日本/配給:アルタミラピクチャーズ、東京テアトル
監督・構成・エグゼクティブ・プロデューサー:周防正行
振付:ローラン・プティ
音楽:チャールズ・チャップリン、フィオレンツォ・カルビ、J・S・バッハ、周防義和

フランスの巨匠振付師ローラン・プティが、名ダンサー、ルイジ・ボニーノのために創作した、チャールズ・チャップリンを題材としたバレエ「ダンシング・チャップリン」の舞台を、周防監督の妻の草刈民代も参加してフィルムに収めた、文字通りの記録映画

「Shall we ダンス?」(96)、「それでもボクはやってない」(2007)等で今や日本を代表する名匠となった周防監督だが、一般劇場映画の監督作は、'89年の「ファンシイ・ダンス」以降昨年までの21年間にわずか4本と、超寡作である。
ファンとしては、日本映画に活力を与える為にも、もっと映画を撮って欲しいと切に願う(それにしても、その4本中3本がキネ旬ベストワン!なのだ)。

さて、その周防監督待望の新作はドキュメンタリー・フィルム。もっとも、かつて伊丹十三監督「マルサの女」のメイキング・ビデオを任せられた時、これをタイトルも「マルサの女をマルサする」とし、映画制作の舞台裏を克明に追った、むしろ優れたドキュメンタリー作品に仕上げた実績のある人である。故に本作も、さすが周防監督ならではの、見事な映画作品に仕上がっていた。

映画は2部構成になっており、第1部「アプローチ」は、企画の立ち上げから始まり、やがて参集した世界のトップダンサーがリハーサルを重ね、舞台に臨むまでの60日間を追った、まあ一種のメイキングである。
第2部「バレエ」は、その本番の演目を収録した本編。見どころは何と言ってもその本編であり、優雅に、ダイナミックに踊り、躍動するダンサーたちの舞いはまさに芸術。素晴らしい!。見事。

もともとの題材となったチャップリンの映画も素晴らしいが、それをベースとして、ダンスの振付を創案したローラン・プティ、それをダンサーとして完璧にこなしたルイジ・ボニーノと、その彼を取り巻くこれまた素晴らしいダンサーたち、さらに、それらのダンスを卓抜な演出力で映画に昇華させた周防正行……。

まさに、超一流のアーティスト、クリエイターたちの火花散るコラボレーションが相乗効果となって、これはバレエという枠、映画という枠を超えた、見事な総合アートとして屹立しているのである。

警官たちのダンスを舞台でなく、野外で撮りたいと言う周防監督に対し、「だったら映画は中止だ」と宣言するプティ。
…それぞれのクリエイターとしてのこだわりがぶつかり合うこのシーンをちゃんとフィルムに捕らえ、前半のメイキングに組み入れているのが面白い。これによって観客は否が応でも、本編が凄い真剣勝負になる事を予感し、観客もまた真剣に画面に向かい合う気持になるのである(ローリング・ストーンズのコンサート・ドキュメント「シャイン・ア・ライト」の中で、監督のマーティン・スコセッシとストーンズたちがセット・リストをめぐって火花を散らすシーンを思い出した)。

さて、第2部の本編は、以下の13のパートで構成されている。

1.チャップリン~変身
2.黄金狂時代 
(黄金狂時代)
3.二人の警官
4.ティティナを探して 
(モダン・タイムス)
5.チャールストン 
(犬の生活)
6.外套
7.空中のバリエーション
8.小さなトゥ・シューズ 
(ライムライト)
9.警官たち
10.キッド    
(キッド)
11.街の灯   
(街の灯)
12.もし世界中のチャップリンが手を取り合えたら
13.フィナーレ

( )内は元となった映画の題名。

チャップリンの映画の大ファンであるなら、オリジナルのシーンを思い出して、より感動が深まるだろう。
ローラン・プティもルイジ・ボニーノも、実に見事にチャップリン映画の真髄を理解し、自家薬籠中の物にしている。

ほぼオリジナルの物語を再現したような「黄金狂時代」や「キッド」、「街の灯」は普通に楽しいが、圧巻はソロを中心とした優雅なダンスが見られる「ティティナを探して」、「外套」、「空中のバリエーション」である。バレエに興味がない私でも、ただただ圧倒され、陶酔させられた。カメラ・アングルも、バスビー・バークレー風の俯瞰撮影など、さまざまに工夫が凝らされているのはさすが。

笑ったのが、ボニーノが首にチュチュ(バレエ用スカート)を巻き、手にトゥ・シューズをつけ、これを足に見立てて踊る「小さなトゥ・シューズ」である。
メイキングにも出て来るが、これは「黄金狂時代」でチャップリンがコッペパンにフォークを刺し、それを足に見立ててダンスを踊る有名なシーンへのオマージュである。…と同時に、これはバレリーナの再起を老チャップリンが見守る「ライムライト」をも思わせ、笑いながらも思わず目頭が熱くなる。

「ティティナを探して」の、ボニーノによる椅子を相手のダンスも凄い。椅子が人格を持った生き物のように見えて来る。
私はこれを見て、MGMミュージカルで、フレッド・アステアが帽子掛けとダンスを踊る名シーンを思い出した(アンソロジー「ザッツ・エンタティンメント」でも見る事が出来る)。
ボニーノはまさにここでは、フレッド・アステア化しているのである。アステアも映画史に残る、素敵な名ダンサーだった。

Dancingchaplin2 合間に2箇所で、息抜きのように登場する警官のダンスも楽しい。周防監督がプティと揉めた、屋外撮影シーンである(どうやらプティが折れたか。それとも無断で撮って、後でプティに見せて納得させたか)。新緑が広がる草原での、縦横に躍動するダンスは、狭い舞台空間でのダンスでやや息苦しくなった観客をホッとさせ、開放感に浸らせてくれる。映画としてのリズムを知り尽くしている周防監督の狙いが正しかった事が裏付けられていると言えよう。

ちなみに、チャップリンが有名になる前からハリウッドのサイレント・スラップスティック(いわゆるドタバタ)・コメディでは、警官が道化役となって主人公と追っかけっこを繰り返す作品が無数に作られ(無論チャップリンの初期短編作品にも登場する)、警官たちは撮影所の名前を取って“キーストン・コップス”と呼ばれていた。
「警官たち」はこれら、キーストン・コップスへのオマージュにもなっている。初期のサイレント・スラップスティック・コメディに愛着のある人は余計楽しめるだろう。

そしてフィナーレ。ここも野外撮影であり、「モダン・タイムス」のラストのように、ボニーノは寂しそうな後姿を見せつつ去って行く。映画の終わりを、かつダンスの終わりを惜しむかのように…。

今はもう、チャップリンも、アステアもこの世にはおらず、60歳を迎えたルイジ・ボニーノもやがて引退する。

だが、映画は永遠に残る。舞台では見られなくなろうとも、その記録を焼き付けた映画は、これからも何度も上映され、DVDやBRとなっていつでも観る事が出来る。

相手役を務めた草刈民代もバレリーナとしては引退しており、この作品はまた、彼女の最後の記録でもあるわけなのだ。
ある意味ではこれは、周防正行にとっての愛妻へのラブコールであるとも言える。草刈民代は、最高のパートナーを得た、幸福な人であると言えよう。

バレエ・ファン、チャップリン・ファンは必見の秀作であるが、それらのファンでなくても十分感動させられる。
なぜなら、生身の人間の肉体が作り出す芸術の素晴らしさは、それらが鍛えぬかれ、磨き上げられた本物である故に、真の感動を呼ぶからである。
CGやSFXがいくら幅を利かせようとも、その感動を超える事は絶対に不可能なのである。

欲を言えば、メイキングを削ってでも、本編のバレエ部分をもっと見たかったという思いがしきりである(オリジナルの舞台では20演目あるそうだ)。

本当に、何度も繰り返し観たくなる素晴らしいアートである。DVDが出たら即座に買いたくなるだろう。すべての、芸術を愛する人にお奨めの、これは素敵な傑作である。    (採点=★★★★☆

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2011年4月24日 (日)

テレビ「JIN -仁-」

Jin

演出:平川雄一朗
原作:村上もとか『JIN -仁-』(集英社「スーパージャンプ」)
脚本:森下佳子

2009年10月~12月に日曜劇場枠で放送され、好評を博した同名ドラマの完結編。

テレビドラマをめったに見ない私も、このドラマは初回から欠かさず見ていた。

その理由は、原作者の村上もとかが、私のお気に入りマンガ「龍-RON-」の作者であったからである。

「龍-RON-」は、昭和初期から終戦間際までの激動の時代を生きた若者・龍を主人公にした大河歴史ロマンで、石原莞爾、甘粕正彦、、周恩来やダライ・ラマ等の歴史上の著名人物や、溝口健二、小津安二郎、山中貞雄らの映画人(一部仮名)も物語に密接に関わっており、その壮大なスケールと緻密な人間ドラマに圧倒された傑作であった(詳細はこちら)。

そんなわけだから、かなり期待して見ていたが、期待以上にドラマの方も良く出来ており、特に主人公が医者という事で、命の大切さ、生きることの意味も真摯に問いかけられており、そこに激動の幕末に生きた人たちの青春群像、さらにはタイムスリップによる、歴史を変えてしまう事へのサスペンスまで加わって、実に盛りだくさん、かつスケールの大きなドラマが展開する。

感動的なのは、医師として、命を救う事の使命感に溢れ、一方では特効薬も医療器具もない時代の中で、救える命も救えなかった無力感に苛まれ、悩みつつも、やがて時代の波の中で人間的に成長して行く主人公・仁の心の変遷が丁寧に描かれている点である。

坂本龍馬や緒方洪庵、勝海舟、今回の第二部からは佐久間象山、西郷隆盛、近藤勇、さらに原作ではこの後徳川慶喜、福澤諭吉なども登場する、歴史ドラマとしても見応えがある。

17日の第1回で特に感動したのは、咲(綾瀬はるか)の母、栄(麻生祐未)が生きる希望を失い、「生きていたくもございませぬ。生きていて何の望みがありましょうか」と死にたがっている所に、母を失いながらもけなげに生きる少年・喜市(伊澤柾樹・好演)が「死んだらダメなんです。神様は 乗り越えられる試練しか与えないんです!生きてるからこそ、笑える日も来るんです」と語りかけるシーン。子供らしからぬ、ちょっとアザといセリフと言えなくもないが、やっぱりドッと泣かされた。

このセリフは、考えようによっては、今回の東日本大震災で、絶望に打ちひしがれている人たちにも向けた言葉とも言えるのではないか。
「神様は 乗り越えられる試練しか与えない」…私ごときの人間が偉そうに言える資格はないが、逆境にあろうとも、絶望の淵にあろうとも、それでも試練を乗り越えて、生きる望みは捨てないで、と祈りたい。「生きてるからこそ、笑える日はきっと来る」…この言葉を心の支えにして欲しい。

収録されたのは大震災前かも知れないが、放映が大震災から1ヶ月余り後の時期であったのはいいタイミングである。

是非多くの人に見て欲しい。きっと勇気を与えてくれるはずである。

 
作家の堺屋太一氏は、今回の災害を「第三の敗戦」と呼んでいる。第一は薩英戦争から開国、明治維新に至った幕末期、第二は文字通り太平洋戦争の敗戦、そして今回である。

確かに、どれも未曾有の国難である。…それでも、第一、第二とも日本は乗り越えて発展を遂げて来た。希望はきっとあると望みたい。

で、考えれば、村上もとか原作の2大歴史ドラマは、「龍-RON-」が太平洋戦争、「JIN-仁-」が幕末と、奇しくも堺屋太一氏言う所の第一、第二の敗戦、が舞台となっている(題名がこれまたどちらも、人名1字にアルファベットの組み合わせという共通点がある)。

原作者も予期しなかった、何か大きな偶然が働いているようにも思える。

「JIN-仁-」の、今後のドラマ展開にも大いに期待したい。

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(付記)
これから見る人にご忠告。第一部を見ていないと人物関係が分かり辛いと思う。DVDで復習をお奨めする。ついでに幕末期の歴史を予習しているとより面白く見れるだろう。

ところで、龍馬の恋人、お龍が一向に登場する気配がないが、史実ではもうそろそろ龍馬と出会っているはずである(佐久間象山暗殺は元治元年(1864年)7月11日。龍馬がお龍と出会ったのは同年5月。二人が内祝言を挙げたのは同年8月)。出さないのは、何か意図があるのか、単に出し忘れてるだけか?

(関連記事)  「龍-RON-」

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2011年4月17日 (日)

「わたしを離さないで」

Neverletmego2010年・英=米/配給:20世紀フォックス
原題:Never Let Me Go
監督:マーク・ロマネク
原作:カズオ・イシグロ
脚本:アレックス・ガーランド
製作総指揮:アレックス・ガーランド、カズオ・イシグロ、テッサ・ロス
製作:アンドリュー・マクドナルド、アロン・ライヒ 

「日の名残り」で英文学界最高峰のブッカー賞を受賞した、日本生まれのイギリス人作家カズオ・イシグロの原作を、ロビン・ウィリアムズ主演「ストーカー」(2002)の新鋭マーク・ロマネク監督が映画化。

外界から隔絶された田園地帯に佇む寄宿学校ヘールシャム。キャシー(キャリー・マリガン)、ルース(キーラ・ナイトレイ)、トミー(アンドリュー・ガーフィールド)の3人を含むここの生徒達は、小さい頃からずっと一緒に、ある目的を持つ“特別な子ども”として育てられていた。18歳になってヘールシャムを出た3人は、農場のコテージで共同生活を始める。キャシーはトミーに密かに心を寄せていたが、ルースとトミーが恋人同士になったことで友情が崩壊していく。

イシグロ作品らしい、静かな余韻を持つ佳作である。

舞台は1970年代となっているが、この時代に人間の平均寿命は100歳になったと字幕が出る。つまりは別の世界、パラレルワールドのお話である。

(以下ネタバレがあります)
ヘールシャムの生徒たちは、何故親がいないのか、何故腕にセンサーのような機器を付け、監視され、外に出る事を許されないのか…。

さまざまな謎を孕んでいるが、やがて徐々に真相が明らかになって来る。

実は彼らは[クローン人間で、普通の人間に、臓器を提供するドナーとして作り出された生命体]なのである。

いかにもSF的な設定で、フィリップ・K・ディック原作の「ブレードランナー」のレプリカント(人間が作り出した、短い命しか持たない人造人間)をも思わせる。

だが、さすがブッカー賞作家の文芸作である。SF的な展開とはならず、悲しい運命を背負った少年少女たちが、それでも“人間らしく”人を愛し、生きることの意味を問いかけ、運命に立ち向かう姿を静謐な、淡々とした語り口で描いている。

人間のエゴイズム批判や、文明批判の方向に行く事も、描き方によっては出来るはずだが、そうはならず、彼らは反抗する事も、人間を恨む事もなく、静かに運命を受け入れて行くのである。

ただ一つ、“2人が本当に愛し合っていることが証明できれば「提供」を猶予される”という噂話が広がり、トミーたちは僅かの生きる可能性にすがろうとするのだが、これも最後に残酷な結末が待っている。

魂の存在とは、命とは何なのか、愛は無償の行為なのだろうか、人間は幸福を追い求めるあまり、何か大切な物を失いかけているのではないか…。物語はさまざまなテーマを問いかけている。

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これだけでも十分見応えあるドラマなのだが、あの東日本大震災を経過した後で振り返って見ると、また別の視点からこの映画を見直す事が出来る。

大震災後、海外のメディアから“日本人は未曾有の大災害の中でも、冷静に立ち振る舞っている”と賞賛された事は記憶に新しい。
絶望的な状況にあっても、冷静に運命を受け入れ、耐え忍んでいる。

これは、基本的に日本人の資質・体質なのだろう。あの戦争でも、“耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ”国民である。
また、北陸地方の人たちは、大雪に見舞われ、三陸沖を何度も津波が襲っても、放射能汚染の危険に晒されても、それでも故郷を離れたりはしない、漁の仕事を捨てたりはしない。
“自分が生まれた土地が故郷であり、何があってもこの土地は捨てない”とばかりに、ひたすら、いつか戻れる日を待ちわびる姿には胸を打たれる。

この、“過酷な運命に抗う事なく、それを静かに受け入れる”という日本人的な考え方は、「わたしを離さないで」という作品に確実に反映されているように私には思える。

イシグロは日本生まれの日本人であり、日本人のDNAを確かに受け継いでいる。また監督のマーク・ロマネクは原作を理解する為、成瀬巳喜男をはじめとする50~60年代の日本映画を数多く観たという。

そう言えば、本作には成瀬の「浮雲」にも通じる、日本的“諦観”の概念が感じ取れるように思う。

 
もう一つ、今回の地震で福島第1原子力発電所が大事故を起こし、原発の危険性が改めてクローズアップされたが、この事故の教訓としては、
“科学文明の発達は、果たして人間にとって幸福なのだろうか”という点が挙げられる。

人間は貪欲な生き物である。本作の隠れたテーマである、“いつまでも長生きしたい”という欲望が、クローン人間という悲劇の存在を生み出したのと同様に、“電気エネルギーの無尽蔵な使用”という欲望が原子力発電を生み出し、それが今回の、福島のみならず、多くの人たちの生活を奪うという悲劇を招いた。
“人間の果てしない欲望を充たす為に生み出された科学の成果が、別の悲劇を生んでいる”という本作のテーマは、まさに今回の原発事故の教訓とも重なっていると言える。

偶然ではあるが、東日本大地震が起きた、丁度同じ頃に本作が公開されたという事に、何か運命的な繋がりを私は感じ取ったのだが、あなたはどう思われるだろうか。    (採点=★★★★☆

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2011年4月10日 (日)

「塔の上のラプンツェル」

Rapentwel2010年・米/ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ
原題:Tangled
監督:ネイサン・グレノ、バイロン・ハワード
原作:グリム兄弟
製作総指揮:ジョン・ラセター
製作総指揮/アニメーション・スーパーバイザー:グレン・キーン
脚本:ダン・フォーゲルマン

グリム童話の「ラプンツェル(髪長姫)」を映画化した、ウォルト・ディズニー・スタジオの長編アニメ第50作。

原作は、記念すべきディズニー長編アニメ第1作「白雪姫」グリム兄弟。50作目に至って、原点に回帰したと言えるだろう。総指揮を務めたジョン・ラセターの絶妙なチョイスに、まず拍手。
ちなみに、「シンデレラ」、「眠れる森の美女」もグリム兄弟原作と勘違いしそうだが(よく似た話はグリム童話にもあるが)、両作とも正式にはシャルル・ペロー原作である。

逃亡中の盗賊フリン・ライダーは、山奥の谷にそびえ立つ高い塔を見つける。好奇心から塔に入ったフリンは、髪が驚くほど長い不思議な少女ラプンツェルと出会う。彼女は18年間、塔の中だけで生活してきたが、フリンとともに外の世界へ冒険の旅に出ることになる。

映画では、ラプンツェルは赤ん坊の時、魔女ゴーテルによってお城からさらわれたプリンセスという設定だが、原作では普通の庶民の娘。逆に男の方は原作では王子さまなのだが、映画では泥棒に変更されている。お話も、“塔の上に、髪の長い女の子が幽閉されていた”という基本設定以外は、大幅にストーリーが改変されている(ちなみに、原作の初版ではかなりきわどいセックス描写もあるそうな。本当に怖いグリム童話だ(笑))。

この改変は、「白雪姫」を始めとして、基本的に“プリンセスもの”が多いディズニー・アニメの王道路線を継承した故だろう。サブキャラに、カメレオンとか馬とかの動物を配したのも、いかにもディズニーらしい。ミュージカル風に歌い出すシーンもあり、過去のディズニー・アニメのエッセンスが巧みにまぶされている。

ちょっと気になったのが、本作が3DCGアニメである点。せっかく前作(49作目)で「プリンセスと魔法のキス」という、久しぶりの2D手書きセル・アニメを復活させたのに、またCGアニメに戻るのかと少々不安になった。

だが、さすがラセター、CGとは言え、キャラクター・デザインはセル・アニメ時代のそれにかなり近くなっているし、動きやギャグもセル・アニメのタッチをかなり取り入れている。観ているうちに、気にならなくなっていた。ディズニーが3DCGアニメを製作するのは個人的には反対であったが、このくらいの仕上がりなら十分満足である。

むしろ本作は、手書きセル・アニメのシンプル感、手書きならではの温かみ、高揚感を継承しつつ、それを3DCGの技術で、よりクオリティ、奥行きの深さを高めたという点で、ディズニー・アニメの一つの到達点、であると言えるかも知れない。

 
(以下ネタバレあり)

ヒロインは、元気いっぱい、幽閉されていても、外界への好奇心は旺盛だし、毎年自分の誕生日になると夜空いっぱいに現れる不思議な灯りの正体をいつか確かめることを夢に見ている。フリンが塔に侵入して来るとフライパンでノックアウトしてしまう。

そのフリンを道案内に、謎の灯りの正体を求めて、ラプンツェルは初めて塔を抜け出し、冒険の旅に出る。思えば、“男と女の冒険の旅”は、前作のモチーフでもあった事を思い出す。

そして定番ではあるが、さまざまな試練、困難、危機を共に乗り越え、二人の絆が深まって行く展開はやはり楽しく、ワクワク、ハラハラさせられる。

ようやく、お城の近くの湖にたどり着き、夜空に無数の不思議な灯り=ランタンが舞うシーンは、3D効果も相まってとても幻想的でこの上なく美しい。このシーンを観るだけでも料金だけの値打ちはある。ここは是非劇場で、メガネ付3Dで観賞する事を推奨したい。

音楽担当も、前作はピクサー作品が多いランディ・ニューマンであったが、本作では「リトル・マーメイド」以降のディズニー・アニメではお馴染みのアラン・メンケンが戻って来たのも、ファンとしては嬉しい限りである。

これぞまさしく、ディズニー・アニメの本領発揮。前作に引き続き、楽しくて、夢があって、ロマンスがあって、感動のラストを迎える、見事な完成度を持ったエンタティンメントの一級品である。   (採点=★★★★☆

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(お楽しみはココからだ)

本作には、過去のディズニー・アニメからの引用もいくつか見る事が出来る。

二人が途中で出会う海賊たちは、一人は片腕がカギ爪義手になっている事からも分かるように、ディズニー・アニメの古典「ピーター・パン」に出て来る、カギ爪のフック船長をリーダーとする海賊たちへのオマージュだろう。

魔女が姫の前に立ちふさがり、ヒーローがその姫を守る、というパターンも、「眠れる森の美女」「リトル・マーメイド」等、ディズニー作品では定番とも言える。
そう言えば、「リトル-」のアリエル姫も、好奇心旺盛で、やがて外界へ冒険の旅に出るというお話であった。

ラストでは、[死んだはずのフリンの頬に、ラプンツェルの涙が落ちると生き返る]辺りも、「白雪姫」のラスト(死んだと思われた姫に王子がキスすると生き返る)の(男女を逆転させた)オマージュになっている。

つまりは、本作は子供たちを楽しませるだけでなく、永くディズニー・アニメを観て来た大人であるほど、余計楽しい作品に仕上がっている。

まさに、ディズニー長編アニメ第50作目にふさわしい、記念作品と言えるだろう。

なお、ジョン・ラセターは大の宮崎駿ファンであることが知られているが(ラセターが原案・製作総指揮を担当した「トイ・ストーリー3」トトロがゲスト出演していたのは周知の通り)、フリンのキャラ設定を原作の王子さまから泥棒に変えたのは、宮崎作品「ルパン三世/カリオストロの城」へのオマージュなのかも知れない。王女クラリスも、高い塔の上に幽閉されていたし。ラストではフリンは見事にプリンセスのハートを奪って行った(笑)。

配給会社が邦題を「塔の上のラプンツェル」としたのも、宮崎アニメの近作「崖の上のポニョ」に引っかけた可能性がある。

とまあ、いろいろと連想を膨らませてみるのも、映画をより楽しむ方法である。試してみてはいかが。

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