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2011年5月30日 (月)

「ブラック・スワン」

Blackswan 2010年・米/配給:フォックス・サーチライト・ピクチャーズ
原題:Black Swan
監督:ダーレン・アロノフスキー
原案:アンドレス・ハインツ
脚本:マーク・ヘイマン、アンドレス・ハインツ、ジョン・マクローリン
製作:マイク・メダボイ、アーノルド・W・メッサー、ブライアン・オリバー、スコット・フランクリン

「レスラー」で名を上げたダーレン・アロノフスキー監督による、バレエ界を題材とした心理スリラー。主演のナタリー・ポートマンが、第83回米アカデミー賞の主演女優賞を獲得した。

ニューヨークのバレエ団に所属するニナ(ナタリー・ポートマン)は、元バレリーナの母(バーバラ・ハーシー)が成し遂げられなかった夢を果たすべく、厳しいレッスンを積み重ねていた。そんなニナに「白鳥の湖」のプリマを演じるチャンスが巡ってくるが、新人ダンサーのリリー(ミラ・クニス)が現れ、ニナのライバルとなる。役を争いながらも友情を育む2人だったが、やがてニナは自らの心の闇にのみ込まれていく…。

母親の期待を背負い、プリマに抜擢してくれた舞台監督トーマス(ヴァンサン・カッセル)の厳しい指導、さらに主役を奪われかねないライバルの猛追…と、ニナはさまざまなプレッシャーにさいなまれる。

加えて、トーマスはニナに、白鳥を演じるには十分だが、黒鳥(ブラック・スワン)を演じ切るには官能的表現が足りないと言う。

いくら努力し、練習を積み重ねても、黒鳥になりきれないニナ。彼女はいつしか、精神に異常をきたし始める。

 
この、白(善人)だけでは駄目だ、黒(ダークサイド)も演じられないと完璧とは言えない、という葛藤は、いろんな過去の作品を連想する事が出来る。

例えば、手塚治虫原作マンガ「鉄腕アトム/電光人間の巻」では、悪役・スカンクが「アトムは完全ではない。なぜなら悪い心を持たないからだ」と言う。善の心も、悪の心も、両方の心を兼ね備えているのが完璧な人間なのだという事である。

手塚治虫は以後も、“人間の心に潜む善と悪という相反する二つの心”というテーマの作品を「バンパイヤ」、「MW-ムウ」と描き続けて行く。

クリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト」でも、ホワイト・ナイトだったハービー・デントがジョーカーにそそのかされ、善悪二面をそのまま顔半分づつに持ったトゥー・フェイスに変身する。

「スター・ウォーズ/シスの復讐」では、最初は正義の戦士であったアナキンは、パルパティーン卿にそそのかされ、恋人アミダラを救いたいが為にダークサイドに落ちてしまう。ここでも、“善の心だけでは足りない、悪の心も兼ね備えてこそ完全だ”という手塚作品のテーマに似たファクターが垣間見える。…そのアミダラ役を演じたのが、本作のヒロイン、ナタリー・ポートマンだったというのも奇しき因縁である。

 
閑話休題(ここからネタバレ注意。一部隠しています)
ニナは黒鳥になり切ろうとさまざまなチャレンジを行う。そのプロセスで、それまでの無垢な心を持った、表の自分とは別の、悪意を持ったもう一人の自分が顕在化して来る。

これを的確に映像として表現する手段として、が効果的に使われている。手前の実像とは別に、鏡の中の虚像が別の動きを始める。

これは映像効果としては、リナが次第に精神に異常をきたしている事を観客に伝える伏線にもなっているのがうまい。

そして、リリーが自分のプリマ役を奪うのではないかと妄想したニナが、リリーの体を突き飛ばした先にもがある。

この場面における出来事(殺人)は、後にすべて妄想である事がラストで明らかになるのだが、鏡の中は、錯乱したリナにとっては虚像(妄想)である、との前述の伏線が巧妙に生かされている。

ここで鏡が割れる、という事は、ニナの心が完全に壊れた事も意味している。

さらに、鏡に映る姿は、もう一人の(悪意を持った)自分である故、ニナが刺した相手は、実は鏡の中のもう一人の自分なのである。

だから、クライマックスのバレエで、白鳥(善の心)から、黒鳥(邪悪な心)に変身し、完璧な演技を終えた時、鏡の中にいたもう一人の自分の姿も実体化し、リナは刺した相手が実は自分自身であった事を知るのである。

 
映画という表現手段が面白いのは、そこに描かれているのが、実体なのか、主人公の心の中の幻想なのかが観客には区別がつかない点である。文章なら、主観的内面表現と、客観的表現との微妙な違いが読者の判断材料にもなる場合があるだけに。
ズルいと言えばズルいのだが。

本作は、この特性を最大限に生かし、巧妙に観客を幻惑し、めくるめく妖しい世界にリードし、魅了し続けるのである。

そうした演出テクニックもうまいが、やはり圧巻なのはナタリー・ポートマンの、まさに、ほとんど主人公ニナと一体化したかのような鬼気迫る演技、並びにバレエである。幼少の頃にバレエを習っていたとは言え、バレエ・シーンの演技は本物のバレリーナが踊ってるかのようである。アカデミー主演女優賞も納得だ。
ダーレン・アロノフスキー監督、「レスラー」にも感動したが、今作ではさらに映像テクニックと、人間心理の内面を鋭く抉る奥行きの深さ、それぞれにおいて卓抜な演出力を見せ、堂々たる一流監督の仲間入りを果たしたと言える。次回作がさらに楽しみだ。

なお、ニナの母親役を演じたバーバラ・ハーシー。懐かしい名前である。ニューシネマの佳作「去年の夏」(1969)、マーティン・スコセッシ監督の出世作「明日に処刑を…」(1972)という2本の作品に主演し、鮮烈な印象を残した青春スターだった。残念ながらそれから以後は作品にも恵まれず、すっかり忘れられた存在だった。本作は彼女にとっても久しぶりの復活作と言えるのではないか。「レスラー」のミッキー・ロークと言い、アロノフスキー監督は忘れられた過去のスターの再生が得意のようである。      (採点=★★★★☆

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2011年5月25日 (水)

「大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇」

Ookike2011年・日本/配給:ギャガ
監督:本田隆一
原作・脚本:前田司郎

劇団「五反田団」の人気劇作家、前田司郎の同名小説を、原作者自身の脚本により映画化。監督は「GSワンダーランド」の本田隆一。

同棲生活4年目にして、ようやく結婚したものの、はや倦怠感漂う大木信義(竹之内豊)と咲(水川あさみ)の新婚生活。そんなある日、近所のスーパーで出会った怪しい占い師(樹木希林)に勧められ、1泊2日の温泉付き“地獄ツアー”へ出かけることに。だが2人は、旅先で次々と不思議な出来事や奇妙な人々に遭遇し……。

前田司郎という名前は知らなかったのだが、調べると、2008年、戯曲「生きてるものはいないのか」で第52回岸田國士戯曲賞受賞、2009年、小説「夏の水の半魚人」で三島由紀夫賞受賞…と、なかなかの経歴。「生きてるものはいないのか」の書評では、“とぼけた「死に方」が追究されまくる脱力系不条理劇”とあり、本作もまた、なんともトボけた脱力コメディである。あまり期待しないで観に行けば、結構楽しめるウエルメイドな拾いものの佳作である。

主演の信義・咲夫婦に、コメディアンでもお笑い芸人でもない竹之内豊と水川あさみをキャスティングしているのがまず面白い。コメディアンが、オーバーな演技をして笑わせるばかりがコメディではない、と常日頃思っている私には、これはうまくツボに嵌った。

冒頭から、新居を構えたばかりなのに、荷物は解かない、料理を作るのも面倒くさい、炊飯ジャーはどこへ行ったか行方不明、となんとなくのんびり、まったり、ユルユル感が漂う。
こういう夫婦だから、「地獄旅行?なんとなく面白そう」と、普通ならアホか、と思える案内にもホイホイ乗ってしまういいかげんさもつい納得してしまう。

以後、全編こうしたトボけた、ユルユル、脱力感が充満したまま、のんびりしたテンポで地獄めぐり旅行が進んで行く。
(以下ネタバレあり)

どうやって地獄に行くのかというと、これがスーパーの屋上に何故か置いてある、汚らしいバスタブの水の中に飛び込むだけ(笑)。

本来は死んだ人間しか行けないはずの地獄に、生きた人間が一泊旅行で簡単に行けてしまうのもヘンだ。しかもツアー客も結構多くて賑わっている。

そして、地獄の風景や登場する人間(?)も、やっぱりヘンである。
我々がイメージとして持っている地獄(例えば、閻魔大王とか血の池地獄など)とはどこか違うのだが、考えれば誰も“地獄”の風景を見た人間などいないのだから、誰がどのように想像しようと、描写しようと、まったく自由である。

この作品で描かれる地獄は、原作者の前田司郎が、自由に、奔放にイメージを膨らませた、原作者の脳内イメージと言っていい。ハマるか、ノレないかは観客の自由である。私は結構ハマった。この独特のユルユル感がなんとも心地よい。

無論、既存の地獄イメージも、多少は反映されている。赤い顔、青い顔の地獄の住人は、赤鬼青鬼のイメージだろうし、ビーフシチュー温は、色合いからしても血の池地獄を思い浮かべる事ができる。でっかい“ツノ切り”なる道具が置いてある事からして、赤い住人も青い住人も本来ツノは生えていたのだろう。

笑えるのが、赤い顔のでんでんが何人も出てきて追いかけられるくだり。「冷たい熱帯魚」を観ている人には、捕まったら透明にさせられるのでは(笑)と、思い出して笑えるやらコワいやら。頭髪の薄い、同じ顔をしたでんでんが集団で押し寄せるこのシーン、ジョン・マルコビッチが何人も登場する「マルコビッチの穴」を思い起こさせる。

地獄の甘エビ料理が出て来る夕食シーンもおかしい。ホテルの世話係、イイジマ(荒川良々)が真面目な顔をして、ゴム管を叩きつけるシーンのおかしさは抱腹絶倒。ユルいけれどもダサくはない、不思議なコメディ・センスが、ハマれば実に楽しい。

 
しかしこの作品、単なるナンセンス・コメディに留まってはいない。後半、青い顔のケイコ(橋本愛)に案内されて向かったナイトマーケットでの、ケイコの2人の弟たちも加わっての夜店めぐりシーンには、不思議な懐かしさが溢れている。
それらは、今では都会ではほとんど見られなくなった、秋祭りの縁日や露店、夜市の光景にそっくりである。思えば、昔の秋祭りにはいかがわしい見世物小屋が立てられたりしていたものだが、それらはどことなく地獄めぐりに近い妖しさがあったようにも思える。

いつしか、弟の一人と仲良くなった信義は、まるで親子のように楽しそうにジャレ合い、心を通わせる。赤い人の小屋に忍び寄り、追いかけられたりのささやかな冒険もあったりする。

ユルユル感漂う作品のムードも、実は人とのつながりも、心の触れ合いも薄れた、この今の時代に対する痛烈なアイロニーが込められているのかも知れない。だとしたら、意外とあなどれない作品だと言える。

妻を追いかけて地獄にやって来たイイジマも、寂しそうな顔を見せるケイコたち兄弟も、この現世では居場所を失い、心の拠り所を求めて地獄にやって来た、心寂しき人たちの象徴なのだろう。

生きているとは何なのか、夫婦とはどうあるべきなのか…、さまざまな事を考えさせられ、最後はほっこりとした爽やかな気分に包まれる、これは不思議な魅力を持った小品佳作である。    (採点=★★★★

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(で、お楽しみはココからである)
うっかり見逃しそうだが、ナイトマーケットのある店先に飾られていた写真に、故・丹波哲郎の顔があった。

丹波哲郎と言えば、「大霊界 ― 死んだらどうなる」などの映画製作で、霊界の案内人として知られており、これは監督も意識して登場させたのだろう。

Jigoku その丹波哲郎と地獄とは、もう一つ繋がりがある。石井輝男監督の、そのものズバリ、「地獄」(1999)という映画の中で、丹波哲郎は、同じ石井輝男作品「亡八武士道」で演じた凄腕の浪人、明日死能役として再登場し、赤鬼・青鬼たちをバッタバッタ斬り殺して大暴れするのである。

低予算で、地獄のセットもチープだったが、石井監督らしい熱気に溢れた、ちょっと楽しい地獄映画であった。本作と併せて観ると、より楽しめるだろう。

もう一つおマケ。同じ石井輝男監督の代表作で、超ナンセンス・コメディの快作に「直撃地獄拳・大逆転」(1974)という作品がある。題名に“地獄”が付いてるだけでなく、この作品にも丹波哲郎が重要な役で出演しており、最後は美味しい役どころで場面をかっさらって行く。何かと丹波哲郎は、地獄に縁があるようだ。

DVD 石井輝男監督「地獄」

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2011年5月15日 (日)

「アンノウン」

Unknown2011年・米/配給:ワーナー・ブラザース
原題:Unknown
監督:ジャウム・コレット=セラ
原作:ディディエ・ヴァン・コーヴラール
脚本:オリバー・ブッチャー、スティーブン・コーンウェル
製作:ジョエル・シルバー 、レナード・ゴールドバーグ、アンドリュー・ローナ
製作総指揮:スーザン・ダウニー、 ピーター・マカリーズ、サラ・メイヤー、スティーブ・リチャーズ

「片道切符」で'94年のゴンクール賞を受賞したフランス人作家・ディディエ・ヴァン・コーヴラールの原作を、「96時間」のリーアム・ニーソン主演により映画化したアクション・ミステリー。監督は「エスター」のジャウム・コレット=セラ。

植物学者のマーティン・ハリス博士(リーアム・ニーソン)は、学会に出席するため、妻エリザベス(ジャニュアリー・ジョーンズ)とベルリンに降り立った。ホテルへ着いたところで忘れ物に気付いた彼は妻を残し、タクシーで空港へと引き返すが、途中で交通事故に遭い、4日間もの昏睡状態に陥ってしまう。病院で意識を取り戻したマーティンは学会が開かれるホテルへ向かうが、彼を待っていたはずの妻はマーティンを“あなたは誰?”と言い放ち、彼女の傍らにはマーティンを名乗る見ず知らずの男がいた…。

設定がまず面白い。事故で昏睡し、目が醒めたら記憶の一部が失われていて、妻からは自分を知らないと言われ、他に自分を証明してくれる人間は誰もいない…という状況は、まるで悪夢である。フランツ・カフカの小説に出て来るような、不条理劇である。
さあこれは、夢なのか、あるいは巨大な陰謀に嵌められたのか、とまず観客をワクワクさせるには十分な出だしである。

さらに状況として面白いのは、舞台が外国(ドイツ)である為、言葉が通じない=コミュニケーションが取れないというハンディである。
似た作品としては、ハリソン・フォード主演の、フランスを舞台とした「フランティック」(1988)がある。こちらも学会出席の為に異国にやって来て、荷物はなくするし、言葉が通じないし、という共通点がある。原作者は参考にしたのかも知れない(本作の原作は2003年発表)。

こうして、窮地に追い詰められた主人公が、さらに何故か殺し屋?に命を狙われる、という展開が追い討ちをかける。

何故妻は自分を知らないと言うのか、命を狙われる理由は、と謎だらけ。どうオチをつけるのか、ミステリー・ファンには興味津々の展開。派手なカー・チェイスがあるのは、プロデューサーとして「マトリックス」「インベージョン」ジョエル・シルバーが一枚噛んでいるせいである。

映画未見の方はここまでで、後は読まないように。ややオイオイと言いたくなる突っ込みどころもあるけれど、まあ十分楽しめる快作である。

(以下、ネタバレあり。読みたい方はドラッグ反転してください)
少々ご都合主義なのは、マーティンの残っている記憶が、妻と愛し合うシーンくらいで、さらにフランク・ランジェラ扮する、米国にいるコールという男についての記憶が、信頼出来る友人、という部分だけという点。

実はマーティン自身も、妻も、コールも、伝説的な暗殺組織の一員で、学会で画期的な発表をする予定の教授の研究データを盗み、暗殺するという計画に参加していた事が後に判明する。

“主人公が実は悪人グループの一味だった”というのは新趣向で、それ自体は面白いアイデアである。

が、それならなんで戻った記憶が、仮想で作り上げた、善良な学者、という部分だけなのか。コールの姿を見たら、犯罪計画の一部でも思い出しそうだが、その記憶が戻るのは、ほとんど終盤になってからである。

記憶が戻ってからは、マーティンは今度は犯罪計画を阻止しようと懸命に行動する。…って、あれれ、いつのまに正義に目覚めたのか。

記憶が戻って、残忍な犯罪者としてのアイデンティティが蘇えり、協力者となったジーナ(ダイアン・クルーガー)を殺そうとする…というサスペンスが加わったら、これも面白いのだが。

どこかで、マーティンが実は足を洗おうと心に決めていたが、組織から抜ければ殺されるので苦悩していた、という設定を入れておけば納得出来たのではないか。

…とまあ、突っ込みどころはいくつかあるが、自分の子供が突然行方不明となり、周囲の皆が「そんな子供はいなかった」と証言する、似たような不条理設定から始まる「フォーガットン」が、最後は唖然とするトンデモ展開となったのに比べたら、本作は一応サスペンスとしてきちんとまとめていた点は評価出来る。

ともかく、ダレる所なく、ハラハラさせられながら一気に最後まで突っ走る、ミステリー・ファンも満足出来るサスペンス・エンタティンメントの水準作としてお奨めしたい。 (採点=★★★★

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(で、お楽しみはココからである)
本作をゆっくり思い直して見ると、あちこちにヒッチコック映画へのオマージュらしき部分があり、ヒッチコック・ファンであれば余計楽しめる作品になっている。

Torncurtain1 まずはヒッチの代表作「引き裂かれたカーテン」(1966)。夫が学者である夫婦(ポール・ニューマンとジュリー・アンドリュース)が、当初は学会に参加するという目的で出発し、やがて(当時の)東ドイツ・ベルリンにやって来る…という出だしが、本作の設定とほぼ同じ。ご丁寧に真の目的が、高名な教授の研究データを盗み取る、という点までそっくりである。

本作には、元東ドイツ秘密警察・諜報機関(シュタージ)にいた、ユルゲン(ブルーノ・ガンツ)という男に協力を求めるシーンがあるが、「引き裂かれたカーテン」でもこの諜報機関らしき組織に所属する凄腕の諜報員が主人公を苦しめる。

本作には、アラブの王子の暗殺計画が途中で浮上する、という展開があるが、ヒッチの「知りすぎていた男」(1956)では、夫婦が、秘密組織の要人暗殺計画に巻き込まれる事となる。

時限爆弾がいつ爆発するか、というサスペンスフルな展開から思い出すのが「サボタージュ」(1936)。

「北北西に進路を取れ」(1959)では、主人公(ケーリー・グラント)が秘密組織のスパイ活動に巻き込まれ、言っている事が周囲の誰からも信用されない、という窮地に追い込まれる。

戦前の代表作「バルカン超特急」(1938)では、スパイ組織の陰謀で、列車から一人の貴婦人がいなくなり、やはりこちらも主人公がいくら言っても誰も信用してくれず途方に暮れる、という展開となる。ご丁寧にも、主人公が頭を怪我して、その後遺症で思い違いをしているのだと疑われる場面まである。

本作の監督、ジャウム・コレット=セラは、過去にも「蝋人形の館」(2005)、「エスター」(2009)と、ショッキングなホラー・サスペンスを発表しており、多分ヒッチコックの信奉者ではないかと私は思っている。

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2011年5月 5日 (木)

「八日目の蝉」

8thdays2011年・日本/松竹=日活・配給:松竹
監督:成島 出
原作:角田 光代
脚本:奥寺 佐渡子

直木賞作家・角田光代の同名ベストセラー小説を、「孤高のメス」の成島出監督により映画化。脚本は「時をかける少女」「サマーウォーズ」(共に細田守監督作)、「パーマネント野ばら」と良作が続く奥寺佐渡子。

生まれてすぐに誘拐され、犯人の女・希和子(永作博美)によって4歳になるまで育てられた秋山恵理菜(井上真央)。両親のもとには戻ったものの、両親とはギクシャクした関係のままに育つ。21歳となり、親と離れて暮らす彼女は、妻子ある男の子供を身ごもってしまう。恵理菜はやがて、訪ねてきたルポライターの安藤千草(小池栄子)とともに、希和子との4年間の逃亡生活を辿る旅に出る…。

誘拐は罪が重い犯罪のはず。当然世間も希和子を厳しく糾弾する。捕まった彼女の裁判の様子も淡々と描かれる。
そればかりか、元の生活を取り戻した後も、恵理菜の家庭は、決して癒えない深い傷を負ったままである。

まさに、この冒頭のシークェンスで見る限り、希和子は恵理菜たちの幸せな家庭を壊した、許されざる“悪人”である。

だが、本当に彼女は悪人だったのか…。映画は、恵理菜の荒んだ現在の生活ぶりと並行しながら、希和子と、彼女に薫と名付けられた恵理菜との、4年間に及ぶ逃避行の生活ぶりを丹念に描いて行く(テーマといい、罪を犯した人間のあてなき逃避行といい、昨年の傑作「悪人」と重なる要素は多い)。

そこから、やがて見えて来るのは、希和子という女性が限りなく注ぎ続けた、母の愛の美しさである。これには泣ける。男の私でもボロボロ泣いた。これは、本年屈指の、泣ける感動の秀作である。

(以下ネタバレあり。未見の方はご注意ください)
希和子は、最初は誘拐するつもりはなかった。たまたま両親が外出する所を見つけ、子供の顔を見たいが為に侵入しただけである。
そこで、赤ん坊のあどけない笑顔(これが本当に可愛い)を見たら、ついフラフラと連れて行きたくなっただけである。

希和子も、恵理菜の父親との不倫で妊娠し、生みたかったが男に言いくるめられ、中絶手術の後遺症で二度と子供を産めない体となった、可哀相な女である。本来であれば、彼女は母親になっていたはずである。
だからこそ、赤ん坊がいとおしい。それなのに、もう二度と赤ん坊を抱けない。…母親としての悲しみと、愛の強さが、あどけない赤ん坊を目にして燃え上がった…その結果の誘拐劇なのである。彼女にも同情する余地はある。
この辺り、さすがは女性原作者・女性脚本家ならではのきめ細かさである。

最初の頃は、引付けを起こしたように泣く赤ん坊をやや持て余し気味。だが、成長し3~4歳頃になると、もう可愛くて仕方がない。希和子は次第に、本当の親そのままに子供への愛が深まって行くのである(4歳の薫を演じた渡邉このみちゃんが実に可愛い)。

個人的な事になるが、私も、妻と一緒に2人の子供(共に女の子)を育てたが、その経験から見ても、この辺りの子育てに関する親の気持はまったくの同感。
子供は、この頃(4歳頃まで)が一番可愛い。目に入れても痛くない、とはまさに実感である。― 逆に、この0~4歳の頃を子供と一緒に暮らせなかった母親には、子供への愛情が欠落してしまう事も大いにあり得る。母・恵津子(森口瑤子)が恵理菜に愛を注げない理由もこれで十分納得出来るのである。

希和子が薫の為に歌って聞かせる「見上げてごらん夜の星を」の歌もうまい使い方である。
この中の歌詞には、“手をつなごう僕と、追いかけよう夢を、二人なら、苦しくなんかないさ”というくだりがあるが、まさに、二人でいるからこそ、苦しい時でも乗り切れる、希和子と薫に対する励ましと希望の歌になっているのである(今回の東日本大震災に関して、サントリーCMのチャリティ・ソングに使われているのも、これが励ましと希望の応援歌だからだろう)。

逃避行の果てにたどり着いた、小豆島におけるシークェンスはこの作品の白眉。

希和子は、薫(恵理菜)に、美しいものをいっぱい見せてあげようと心に決める。
山の上から見る、おだやかな瀬戸内海の美しさ。中山春日神社での、中山農村歌舞伎のあでやかさ。そして、中山千枚田の、松明を灯した虫送りのシーンの美しさには感嘆。

日本人であれば、誰もがそうした日本の昔ながらの風物詩に心動かされるだろう。
それらの風景を薫に見せる事によって、希和子と薫との、母子の絆は、確かに強まって行く。

観客はいつしか、この親子がいつまでも離れずに、幸せになって欲しいと望むようになっている事に気付くだろう。…つまり、希和子に寄せる感情が、冒頭とは180度変わってしまっているのである。映画のマジックである。

それだけに、ラストの船着場での、別れのシーンは胸に迫る。深い愛情で結ばれていた母子が引き離されるこのラストには、誰もが涙してしまう。だが、それは、いつかはやってくると希和子も覚悟していた別れなのである。

その直前、写真館で母子の記念写真を撮るのも、いつか来る別れの日の為に、せめてかけがえのない日々の思い出を残しておこうとする思いからであろう。― これが、ラストで画竜点睛として効いている。
現在の恵理菜が、写真館を見つけ、希和子との美しい想い出を蘇えらせるラストでまた泣ける。ここで、真っ白な印画紙に、母子の姿が次第に浮かび上がって来るシーンが、恵理菜の心に過去の記憶が蘇える事とのダブルミーニングになっているのが秀逸。文学と違って、鮮烈な映像(小豆島の美しい風景も)が強いインパクトを与える映画の強味が如何なく発揮された名シーンである。脚本のうまさがここでも光る。

恵理菜もまた、父のいない子を産む事になるであろうが、母(=希和子)の愛の強さを知った今は、きっとその子を、深い愛で育てて行く事になるであろう。

この映画が素晴らしいのは、時代がどう変わろうとも、どんな状況に置かれようとも、母が子に寄せる愛情は、強く、美しく、かけがえのないものであり、それが蝉の一生のように、短く、はかないものであればあるほど、その愛はより強く輝きを放つのだという事を、この映画は力強く訴えているからである。

脚本が素晴らしい。2章に分かれた原作を解体し、過去と現在を巧みに縒り合わせて、感動のラストに収斂して行く構成の見事さに唸った。奥寺佐渡子は、原作を映画的に再構成する技術では、今の日本で最高の部類に入るのではないか。今年の最優秀脚本賞はほぼ決まりではないかと思う。
この名脚本を得て、人間の業の深さと、母の愛の強さを着実に描き切った成島出の演出もお見事。「孤高のメス」に続き、成島出はまたも素晴らしい、心に沁みる感動作を作り上げた。終盤の丹念かつきめ細かい演出振りは、風格すら感じられる。

小豆島の美しい風物描写は、いつまでも忘れられないだろう。日本人であれば、是非見ておくべき、これは本年屈指の力作である。     (採点=★★★★★

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(さて、お楽しみはココからである)

この映画を見て、過去の日本映画の秀作を思い出す人は結構いるようだ。成島監督も、そうした名作をある程度は意識しているのかも知れない。

例えば、「映画と出会う・世界が変わる」ブログの哲0701さんは、小豆島の風景から、木下恵介監督の「二十四の瞳」を思い出し、回想で描かれる親子の旅の描き方は、まるで「砂の器」(野村芳太郎監督)であると書いている。
私も見ててそれを思い出した。特に、二人が旅する土地の風景の美しさ、親子が引き離されるシーンの泣ける演出、過去と現在を巧みにオーバーラップさせつつ真相が明らかになって行く脚本のうまさなど、「砂の器」との共通点は多い。

また、タニプロさんのブログでは、阪本順治監督の「顔」(2000)を挙げている。女性が逃避行を続ける様を観ているうちに、観客もいつしか彼女に感情移入をしてしまい、どこか応援してしまうような思いにさせられる…という点は確かに共通している。この事は川本三郎さんもキネ旬4月上旬号のコラムで書いている。

同じコラムで川本さんは、前述の「見上げてごらん夜の星を」の歌についても触れている。これは、'63年に松竹で作られた同名の映画「見上げてごらん夜の星を」(番匠義彰監督)の主題歌でもあるのだが、これも心温まる、ちょっぴり泣ける映画であった。

私は、後半の恵理菜の“自分探しの旅”のくだりで、'79年の前田陽一監督「神様のくれた赤ん坊」を思い出した。
見知らぬ女に6歳の子供を押し付けられた渡瀬恒彦と桃井かおりのカップルが、その子の父親探しの旅の過程で、桃井が自らの記憶にある子供の頃の風景を思い出して行く、とても心温まる素敵な映画であった。
血の繋がらない子供を連れて旅するうちに、いつしか子供に対する愛情が湧いて来るという流れ、そして自分探しの旅、と、共通項は多い。

他人の子供と一緒に暮らすうちに、次第に本当の子供に対するような愛情が芽生えて来る、という点では、小津安二郎監督の「長屋紳士録」(47年)を思い出す事も出来る(これも川本さんが指摘している)。

・・・さて、こうやって挙げて来て、これら作品すべてに共通する点がある事に気が付いた。

実はこれらは、すべて松竹製作・配給作品なのである。「顔」もあまり知られていないが、れっきとした松竹作品である。

「八日目のもまた、松竹配給作品である。そう考えると、本作にも松竹の伝統である、“家族の物語”、そしてもう一つの松竹映画のお家芸“ロードムービー”2つの要素が共に散りばめられている事に気付く。

松竹で数多くの監督作を発表した、清水宏監督は「有りがたうさん」「按摩と女」等のロードムービーの秀作があるし、山田洋次監督も「家族」「幸福の黄色いハンカチ」「十五才・学校Ⅳ」とロードムービーの傑作をいくつも生み出している。前述の「砂の器」、「神様のくれた赤ん坊」、「顔」もロードムービーである。

そう言えば、本作の小豆島で製麺業を営んでいる平田満と風吹ジュン夫婦の、純朴で人情味溢れる生活ぶりは、まるで「男はつらいよ」のワンシーンのようである。

本作が松竹で配給されたという事は、そういう意味では必然であったのかも知れない。

 

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