「八日目の蝉」
2011年・日本/松竹=日活・配給:松竹
監督:成島 出
原作:角田 光代
脚本:奥寺 佐渡子
直木賞作家・角田光代の同名ベストセラー小説を、「孤高のメス」の成島出監督により映画化。脚本は「時をかける少女」、「サマーウォーズ」(共に細田守監督作)、「パーマネント野ばら」と良作が続く奥寺佐渡子。
生まれてすぐに誘拐され、犯人の女・希和子(永作博美)によって4歳になるまで育てられた秋山恵理菜(井上真央)。両親のもとには戻ったものの、両親とはギクシャクした関係のままに育つ。21歳となり、親と離れて暮らす彼女は、妻子ある男の子供を身ごもってしまう。恵理菜はやがて、訪ねてきたルポライターの安藤千草(小池栄子)とともに、希和子との4年間の逃亡生活を辿る旅に出る…。
誘拐は罪が重い犯罪のはず。当然世間も希和子を厳しく糾弾する。捕まった彼女の裁判の様子も淡々と描かれる。
そればかりか、元の生活を取り戻した後も、恵理菜の家庭は、決して癒えない深い傷を負ったままである。
まさに、この冒頭のシークェンスで見る限り、希和子は恵理菜たちの幸せな家庭を壊した、許されざる“悪人”である。
だが、本当に彼女は悪人だったのか…。映画は、恵理菜の荒んだ現在の生活ぶりと並行しながら、希和子と、彼女に薫と名付けられた恵理菜との、4年間に及ぶ逃避行の生活ぶりを丹念に描いて行く(テーマといい、罪を犯した人間のあてなき逃避行といい、昨年の傑作「悪人」と重なる要素は多い)。
そこから、やがて見えて来るのは、希和子という女性が限りなく注ぎ続けた、母の愛の美しさである。これには泣ける。男の私でもボロボロ泣いた。これは、本年屈指の、泣ける感動の秀作である。
(以下ネタバレあり。未見の方はご注意ください)
希和子は、最初は誘拐するつもりはなかった。たまたま両親が外出する所を見つけ、子供の顔を見たいが為に侵入しただけである。
そこで、赤ん坊のあどけない笑顔(これが本当に可愛い)を見たら、ついフラフラと連れて行きたくなっただけである。
希和子も、恵理菜の父親との不倫で妊娠し、生みたかったが男に言いくるめられ、中絶手術の後遺症で二度と子供を産めない体となった、可哀相な女である。本来であれば、彼女は母親になっていたはずである。
だからこそ、赤ん坊がいとおしい。それなのに、もう二度と赤ん坊を抱けない。…母親としての悲しみと、愛の強さが、あどけない赤ん坊を目にして燃え上がった…その結果の誘拐劇なのである。彼女にも同情する余地はある。
この辺り、さすがは女性原作者・女性脚本家ならではのきめ細かさである。
最初の頃は、引付けを起こしたように泣く赤ん坊をやや持て余し気味。だが、成長し3~4歳頃になると、もう可愛くて仕方がない。希和子は次第に、本当の親そのままに子供への愛が深まって行くのである(4歳の薫を演じた渡邉このみちゃんが実に可愛い)。
個人的な事になるが、私も、妻と一緒に2人の子供(共に女の子)を育てたが、その経験から見ても、この辺りの子育てに関する親の気持はまったくの同感。
子供は、この頃(4歳頃まで)が一番可愛い。目に入れても痛くない、とはまさに実感である。― 逆に、この0~4歳の頃を子供と一緒に暮らせなかった母親には、子供への愛情が欠落してしまう事も大いにあり得る。母・恵津子(森口瑤子)が恵理菜に愛を注げない理由もこれで十分納得出来るのである。
希和子が薫の為に歌って聞かせる「見上げてごらん夜の星を」の歌もうまい使い方である。
この中の歌詞には、“手をつなごう僕と、追いかけよう夢を、二人なら、苦しくなんかないさ”というくだりがあるが、まさに、二人でいるからこそ、苦しい時でも乗り切れる、希和子と薫に対する励ましと希望の歌になっているのである(今回の東日本大震災に関して、サントリーCMのチャリティ・ソングに使われているのも、これが励ましと希望の応援歌だからだろう)。
逃避行の果てにたどり着いた、小豆島におけるシークェンスはこの作品の白眉。
希和子は、薫(恵理菜)に、美しいものをいっぱい見せてあげようと心に決める。
山の上から見る、おだやかな瀬戸内海の美しさ。中山春日神社での、中山農村歌舞伎のあでやかさ。そして、中山千枚田の、松明を灯した虫送りのシーンの美しさには感嘆。
日本人であれば、誰もがそうした日本の昔ながらの風物詩に心動かされるだろう。
それらの風景を薫に見せる事によって、希和子と薫との、母子の絆は、確かに強まって行く。
観客はいつしか、この親子がいつまでも離れずに、幸せになって欲しいと望むようになっている事に気付くだろう。…つまり、希和子に寄せる感情が、冒頭とは180度変わってしまっているのである。映画のマジックである。
それだけに、ラストの船着場での、別れのシーンは胸に迫る。深い愛情で結ばれていた母子が引き離されるこのラストには、誰もが涙してしまう。だが、それは、いつかはやってくると希和子も覚悟していた別れなのである。
その直前、写真館で母子の記念写真を撮るのも、いつか来る別れの日の為に、せめてかけがえのない日々の思い出を残しておこうとする思いからであろう。― これが、ラストで画竜点睛として効いている。
現在の恵理菜が、写真館を見つけ、希和子との美しい想い出を蘇えらせるラストでまた泣ける。ここで、真っ白な印画紙に、母子の姿が次第に浮かび上がって来るシーンが、恵理菜の心に過去の記憶が蘇える事とのダブルミーニングになっているのが秀逸。文学と違って、鮮烈な映像(小豆島の美しい風景も)が強いインパクトを与える映画の強味が如何なく発揮された名シーンである。脚本のうまさがここでも光る。
恵理菜もまた、父のいない子を産む事になるであろうが、母(=希和子)の愛の強さを知った今は、きっとその子を、深い愛で育てて行く事になるであろう。
この映画が素晴らしいのは、時代がどう変わろうとも、どんな状況に置かれようとも、母が子に寄せる愛情は、強く、美しく、かけがえのないものであり、それが蝉の一生のように、短く、はかないものであればあるほど、その愛はより強く輝きを放つのだという事を、この映画は力強く訴えているからである。
脚本が素晴らしい。2章に分かれた原作を解体し、過去と現在を巧みに縒り合わせて、感動のラストに収斂して行く構成の見事さに唸った。奥寺佐渡子は、原作を映画的に再構成する技術では、今の日本で最高の部類に入るのではないか。今年の最優秀脚本賞はほぼ決まりではないかと思う。
この名脚本を得て、人間の業の深さと、母の愛の強さを着実に描き切った成島出の演出もお見事。「孤高のメス」に続き、成島出はまたも素晴らしい、心に沁みる感動作を作り上げた。終盤の丹念かつきめ細かい演出振りは、風格すら感じられる。
小豆島の美しい風物描写は、いつまでも忘れられないだろう。日本人であれば、是非見ておくべき、これは本年屈指の力作である。 (採点=★★★★★)
(さて、お楽しみはココからである)
この映画を見て、過去の日本映画の秀作を思い出す人は結構いるようだ。成島監督も、そうした名作をある程度は意識しているのかも知れない。
例えば、「映画と出会う・世界が変わる」ブログの哲0701さんは、小豆島の風景から、木下恵介監督の「二十四の瞳」を思い出し、回想で描かれる親子の旅の描き方は、まるで「砂の器」(野村芳太郎監督)であると書いている。
私も見ててそれを思い出した。特に、二人が旅する土地の風景の美しさ、親子が引き離されるシーンの泣ける演出、過去と現在を巧みにオーバーラップさせつつ真相が明らかになって行く脚本のうまさなど、「砂の器」との共通点は多い。
また、タニプロさんのブログでは、阪本順治監督の「顔」(2000)を挙げている。女性が逃避行を続ける様を観ているうちに、観客もいつしか彼女に感情移入をしてしまい、どこか応援してしまうような思いにさせられる…という点は確かに共通している。この事は川本三郎さんもキネ旬4月上旬号のコラムで書いている。
同じコラムで川本さんは、前述の「見上げてごらん夜の星を」の歌についても触れている。これは、'63年に松竹で作られた同名の映画「見上げてごらん夜の星を」(番匠義彰監督)の主題歌でもあるのだが、これも心温まる、ちょっぴり泣ける映画であった。
私は、後半の恵理菜の“自分探しの旅”のくだりで、'79年の前田陽一監督「神様のくれた赤ん坊」を思い出した。
見知らぬ女に6歳の子供を押し付けられた渡瀬恒彦と桃井かおりのカップルが、その子の父親探しの旅の過程で、桃井が自らの記憶にある子供の頃の風景を思い出して行く、とても心温まる素敵な映画であった。
血の繋がらない子供を連れて旅するうちに、いつしか子供に対する愛情が湧いて来るという流れ、そして自分探しの旅、と、共通項は多い。
他人の子供と一緒に暮らすうちに、次第に本当の子供に対するような愛情が芽生えて来る、という点では、小津安二郎監督の「長屋紳士録」(47年)を思い出す事も出来る(これも川本さんが指摘している)。
・・・さて、こうやって挙げて来て、これら作品すべてに共通する点がある事に気が付いた。
実はこれらは、すべて松竹製作・配給作品なのである。「顔」もあまり知られていないが、れっきとした松竹作品である。
「八日目の蟬」もまた、松竹配給作品である。そう考えると、本作にも松竹の伝統である、“家族の物語”、そしてもう一つの松竹映画のお家芸“ロードムービー”の2つの要素が共に散りばめられている事に気付く。
松竹で数多くの監督作を発表した、清水宏監督は「有りがたうさん」、「按摩と女」等のロードムービーの秀作があるし、山田洋次監督も「家族」、「幸福の黄色いハンカチ」、「十五才・学校Ⅳ」とロードムービーの傑作をいくつも生み出している。前述の「砂の器」、「神様のくれた赤ん坊」、「顔」もロードムービーである。
そう言えば、本作の小豆島で製麺業を営んでいる平田満と風吹ジュン夫婦の、純朴で人情味溢れる生活ぶりは、まるで「男はつらいよ」のワンシーンのようである。
本作が松竹で配給されたという事は、そういう意味では必然であったのかも知れない。
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コメント
こんにちは。
いやあ、書き忘れていました
トラックバック・ズーム。
もっともぼくは、
あの瞬間、
実は『JAWS・ジョーズ』を思い出しました。
ロイ・シャイダーが鮫を観た瞬間のあれです。
「海のそば」つながりからかも…。
投稿: えい | 2011年5月 8日 (日) 14:16
引用をありがとうございます。
写真を撮るシーンは
「明日・tomorrow」を思い出しました。
それにしても松竹映画へのオマージュが
たっぷりで、この作品自体が「八日目の
蝉」になったような気がします。
投稿: 哲 | 2011年5月 9日 (月) 07:40
◆えいさん
コメントありがとうございます。
>トラックバック・ズーム
ラスト間際、船着場で恵理菜が何かを思い出し、歩き始めた時に、恵理菜のサイズは変わらず、背景だけが広がって行くような画面効果の事です。
ヒッチコックが「めまい」で創案し、スピルバーグが「ジョーズ」で応用したテクニックですね。成島監督、隠れたヒッチ・ファンなのかも?
◆哲さん
そうか、「明日・tomorrow」ね。
どちらも、やがてやって来る悲しい結末を予感するかのようなシーンとして効果的でしたね。
映画ファンとしては「死刑台のエレベーター」も思い出してしまいました(笑)。
投稿: Kei(管理人) | 2011年5月11日 (水) 01:58
お邪魔します。
「真っ白な印画紙に、母子の姿が次第に浮かび上がって来るシーンが、恵理菜の心に過去の記憶が蘇える事とのダブルミーニングになっているのが秀逸。」
に大いに同意致します。
ボクも今作のレビューを書きましたので、是非ともトラックバックさせてくださいませ。
投稿: マーク・レスター | 2012年12月29日 (土) 19:50
◆マーク・レスターさん
ご賛同ありがとうございます。
トラックバック了解です。どうぞご遠慮なく。
ただ、こちらへのTBは問題ないのですが、ココログからFC2ブログへのTBはどういうわけか、当面出来ないようです。
そんなわけで、申し訳ありませんがTBいただいても、TBのお返しが出来ません。ご了承ください。
投稿: Kei(管理人) | 2012年12月29日 (土) 23:17
少し時間が空いたのでレコーダーに録画してあった「八日目の蝉(映画)」を見る。
・・・全く分からない。結局何を言いたいのか?
レコーダーから消去した後、何度も頭の中で反芻してみるが、どうにも分からない。確か名作扱いされていた筈。
何か見落としているのだろうかと、検索して色々な感想を読んでみる。
う〜ん。何故か皆、誘拐犯の女が子供を愛していると、勘違いして作品を見ているようだ。
誘拐犯の女は子供の事など一切愛してはいない。
彼女の中にあるのは自分の事だけ。
自分の欲望を満たす為の道具として子供を利用しているだけだ。
子供を本当に愛しているのであれば、その子供が最も幸せになれるであろう両親に返せばいいだけの事。
しかし彼女は子供の幸せよりも、自分の感情を優先している。
つまり彼女は、口では子供を愛していると言い訳しながら、自分の欲望を満たしているだけ。
映画の中では、誘拐犯の女が「子供の為に苦労苦悩している」かの様な描写が繰り返されるが、
彼女は最も楽な道を選んでいるだけ。
子供が産めなくなり、不倫相手とも別れなければならない という苦痛絶望(半分以上は自業自得でしかないが)から逃れる為に(精神安定剤的に)子供を利用しているだけだ。
誘拐犯の女も母親も、子供の事など一切見てはいない。
彼女等の中では、あの子供は「金で買ったペット」程度の認識だ。
母親は、所有者である自分に懐かない(自分を癒さない)ペットに苛立っているだけ。
誘拐犯の女も、買ってきたペットが本当の親を求めてどんなに鳴いても、全くペットの心情を無視する飼い主同様に自分の都合(欲望)しか頭にない。
子供は誘拐犯を愛していた訳では無く、保護者を求める本能に従い、最も身近にいる人間に懐いていたに過ぎない。
最後の誘拐犯の台詞も、子供の為に発した言葉では無く、自分が母親気分(自己陶酔)を味わう為、周りに母親アピールをする為の発言に過ぎない。
そもそも彼女が誘拐しなければ、子供が食べていない状況にはならなかった訳だからね。
本当に子供の心配をする様な人間であれば、そもそも その子供を不幸な状況に陥らせる行動は取らない。
(何故か、誘拐犯の女はシングルマザーに置き換えられているようだ。(勿論そう見せ掛けられているのもあるが)
あの子供は誘拐してきた子供であって、彼女はシングルマザーでは無い。
誘拐犯の最後の言葉も、(子供の事など一切考えていないのに)母親気取りもいい加減にしろ という怒りしか湧いてこなかった。
もしあのまま逃げ続けていれば、あの子供は義務教育すら受けられない。)
単純に映画の感想を言えば、リアリティーが無い。
設定・世界観がどんなに荒唐無稽でも気にならないが、そこで生きている人間(キャラクター)の行動が意味不明では説得力が無くなってしまう。
八日目の蝉に出てくる登場人物は全員が「自分の意思」では無く「シナリオ」に添って動いている。
例えば、
あの状況にいて、戸締まりもせず生まれたばかりの子供を置いて出掛けるだろうか?
(おそらく、ガラスを割って侵入したりすると犯罪色が強くなり、シングルマザーに見せ掛ける事が難しくなるから避けたのではないだろうか?もし合鍵を持っていたとしたら当然鍵を変えるだろうし、用心もするだろう)
主人公の「自分の特殊な状況を誰かに理解してほしい」という心情は理解できるが、それを打ち明ける相手にあれを選ぶだろうか?
あの子が何故ああなのかは後に説明されるが、その前の段階で家に上げたり、心を開く理由が全く分からない。
不倫相手も同様だ。何故?
(配役が逆なら、まだ分からなくもないが)
実の母親も、あまりにも人間的に幼稚過ぎないだろうか?
ようやく帰ってきた子供に、あんな態度を取るだろうか?
(誘拐犯の女をシングルマザー(善)に見せ掛ける為だけに、酷い母親(悪)を演じさせられている様にしか感じない)
この作品に無理矢理 教訓的なものを見出すとするなら、
『例え誰からも愛されていなかったとしても
(おそらく作者的には「誰からも愛されていないと思っていたが、実は愛されていたと気付く事で自分の子供に対する愛情が生み出された」としたかったのだろうが、それは誘拐犯の女が子供を返さない(帰さない)段階で破綻してしまっている)
、自分が誰かを(または自分自身を)愛する事から逃げる理由にはならない』
という事だろう。
結果的に映画の主人公は勘違いとは言え、
(無理矢理ハッピーエンドにしようとした結果)
正解に辿り着けた事になる。
この映画の監督(原作者も?)は、何故か
「人間は、誰かから愛される事で、誰かを愛する事が出来る様になる」
と思い込んでいるが、
誰かを愛する条件に、誰かから愛される必要など無い。
例えば、親(保護者)から愛情を持って育てられた幸せな子供が居る。
しかしその「愛情」は、その親がその子供を育てる場合においての正解に過ぎず、
その子供が自分の子供または誰かを愛する時の正解となるとは限らない。
そもそも愛情とは、その対象に特別な思考・判断を求められるから、人間は「それ」を愛情と呼ぶのではないだろうか。
人真似の愛情は、大抵の場合「自己満足」と認識・評価されるだろう。
「料理は愛情」という言葉もある。
大抵の場合、愛情があれば多少手を抜いても許されるだろう という言い訳に用いられる。
本来は、食べさせる相手の為に労力を惜しまない状態の事であり、手抜きとは真逆だ。
これは、料理に限らず「全ての人間関係」に当てはまる言葉でもある。(人間以外でも同じ)
投稿: 七紙 | 2017年12月17日 (日) 08:16
(続き)
この作品に無理矢理 教訓的なものを見出すとするなら、
『例え誰からも愛されていなかったとしても
(おそらく作者的には「誰からも愛されていないと思っていたが、実は愛されていたと気付く事で自分の子供に対する愛情が生み出された」としたかったのだろうが、それは誘拐犯の女が子供を返さない(帰さない)段階で破綻してしまっている)
、自分が誰かを(または自分自身を)愛する事から逃げる理由にはならない』
という事だろう。
結果的に映画の主人公は勘違いとは言え、
(無理矢理ハッピーエンドにしようとした結果)
正解に辿り着けた事になる。
この映画の監督(原作者も?)は、何故か
「人間は、誰かから愛される事で、誰かを愛する事が出来る様になる」
と思い込んでいるが、
誰かを愛する条件に、誰かから愛される必要など無い。
例えば、親(保護者)から愛情を持って育てられた幸せな子供が居る。
しかしその「愛情」は、その親がその子供を育てる場合においての正解に過ぎず、
その子供が自分の子供または誰かを愛する時の正解となるとは限らない。
そもそも愛情とは、その対象に特別な思考・判断を求められるから、人間は「それ」を愛情と呼ぶのではないだろうか。
人真似の愛情は、大抵の場合「自己満足」と認識・評価されるだろう。
「料理は愛情」という言葉もある。
大抵の場合、愛情があれば多少手を抜いても許されるだろう という言い訳に用いられる。
本来は、食べさせる相手の為に労力を惜しまない状態の事であり、手抜きとは真逆だ。
これは、料理に限らず「全ての人間関係」に当てはまる言葉でもある。(人間以外でも同じ)
投稿: 七紙 | 2017年12月17日 (日) 08:19