「奇跡」 (2011)
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2011年・日本/配給:アスミック・エース
監督:山下敦弘
プロデューサー:青木竹彦、根岸洋之、定井勇二
原作:川本三郎
脚本:向井康介
元・朝日新聞社記者の川本三郎による同名のノンフィクションを、「リンダリンダリンダ」、「天然コケッコー」の山下敦弘監督により映画化。
この映画は、(私も含む)ある年齢層以上の人たちにとっては、重苦しい題材である。
若松孝二監督「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008年)を観た時にも感じたが、感想を書こうと思っても、なかなか筆が進まない。「実録・連合赤軍-」はとうとうアップする事が出来なかった。
本当は、あの時代の空気や時代背景から書き進めるべきであるが、それを書いてたらもの凄く長い文章になってしまうし、ますます気が重くなるのでやめておく。
この作品についての的を射た丁寧な評論は、もう既に雑誌等でいくつか出ているので、興味のある方はそちらをお読みになる事をお奨めする。
例:『キネマ旬報』2011年6月上旬号「マイ・バック・ページ」総力特集、『ユリイカ』2011年6月号 特集 =山下敦弘「マイ・バック・ページ」の<青春>
(特に、「ユリイカ」の、社会学者の大澤真幸氏による「なんでおれ(たち)はあいつのことを信じちゃったのか?」は読み応えあり)
それよりも、私にとって本作が気が重い理由はもう一つあって、私が、ずっと昔から川本三郎さんの大ファンで、評論集はほとんど読んでいるし、あのきめ細やかで含蓄に富んだ温かみのある文章には、いつも魅了されて来た点にある。
だから、川本さんを本当は悪く言いたくはないのだが、本作に描かれているあの事件での川本さんの行動は、時代の空気に流された点を割り引いたとしても、愚かで、情けない行為であった。いまの川本さんと同一人物とは、思えないくらいである。
原作「マイ・バック・ページ-ある60年代の物語-」も読んだが、はっきり言って、読みたくなかった本である。川本さんの著作の中で、一番つまらない。
自分史の中の、汚点とも言うべき過去を、包み隠さず正直に並べている点は評価出来るとしても、自己弁護、責任回避が目立ち、不快である。
反体制活動家に共鳴し、支援したり匿おうとする風潮はあの時代、マスコミや文化人や一般市民にもあったのは事実である(本書にも出て来る、朝日新聞が逮捕状の出ている東大全共闘議長の山本義隆-映画では唐谷義朗-を警察に隠れて移送した点にも端的に現れている)。
だが、安田講堂陥落を契機に、学生運動がどんどん過激になり、内ゲバを繰り返し、武力闘争を行うようになった時点で、もうそれは反体制活動ではなく、目的を失い、自壊し、やみくもに暴走する只の反社会集団でしかなくなってしまった(それが行き着く所まで行き着いてしまったのが、連合赤軍事件である)。
川本さんたちに接触して来た、京浜安保共闘を名乗るK(映画では梅山)は、非合法活動であるのにマスコミに情報を垂れ流している時点で、先輩記者(映画では中平)が見抜いたように、偽者である。ただ目立つ事をやって、世間をあっと言わせたいだけのクズである。秋葉原の通り魔殺人犯と変わりはない。
それを、CCRの歌が好きで、宮澤賢治の童話を愛読しているということだけで、Kを信じてしまうなんて、川本さん、甘過ぎるよ。
銃器を集めて、武装決起をしようとするKらの行動は、分かり易く言うならテロであり、犯罪である。オウムの地下鉄サリン事件のミニ版である。そういう情報を知ったのなら、新聞社が決断するよりもっと早く警察に伝えるべきであった。―そうしておけば、事件は未然に防げたし、Kの仲間は殺人犯にならずに済んだし、何よりも自衛官の命が奪われる事もなかった。ニュースソースの秘匿だなんていうのは、言い訳にしか聞こえない。
この本でガッカリするのは、自分の浅はかな行動が遠因で、人一人の命が奪われてしまった、その重さが感じられない点である。
こんな原作を、今の時代に映画化する理由が最初は分からなかった。だから、観たいという気も起きなかった。山下敦弘監督でなかったら、多分観ないままでいたかも知れない。
だが、重い腰を上げて、観に行って良かった。良く出来ている。
何より、原作を大胆にアレンジして、苦い青春の敗残の物語にまとめ上げている。一人称で語られた原作に対して、映画は、原作ではほとんど語られていない、K=梅山(松山ケンイチ)の実体をきちんと描いているし、主人公・沢田(妻夫木聡)についても、かなり批判的に、醒めた目で描いている。これによって、いつの時代にもある、時代に抗おうとして敗れて行く若者の未熟さ、人間の自分勝手さ、愚かさを普遍的に描いた、優れた人間洞察ドラマになっている。新聞社の先輩たちや、京大全共闘の滝田修(映画では前園勇)などに著名俳優を使わず、リアリティ溢れる人物造形を行っているのも出色。
一番良かったのは、自衛隊朝霞(映画では朝霧)駐屯地における、被害者の自衛官が刺され、死ぬまでの様子を、時間をかけて克明に描いている点である。原作では希薄だった、“理不尽に奪われた、人一人の、命の重さ”が、きっちり描けているのである(注1)。
こうした、客観的描写は、山下監督が'76年生まれで、あの時代を体感していないからこそ描けたのだろう。全共闘世代の監督なら、こんなにクールな視線では描けなかっただろう。
ラストも見事だが、これについては後述する。
山下敦弘監督の、作家としての成長が感じられる力作であった。
(さて、お楽しみはココからだ)
もう一つ、別の角度から、この作品を眺めたいと思う。
私が最初に川本さんの名前を知ったのは、キネマ旬報1970年8月下旬号に掲載された、「『男はつらいよ』をめぐる作家山田洋次の人間的研究」座談会である。白井編集長(当時)、山田宏一氏らと共に、川本さんもこの座談会に出席し、寅さんの魅力について熱っぽく語っていた。読む限り、相当の「男はつらいよ」ファンだったようだ。当時の肩書きは「週刊朝日・記者」である。
この他にも川本さんは、キネ旬増刊号の「男はつらいよ」特集に作品論(というかラブレター)を寄せている。以下抜粋。
「柴又までヒマがあると歩きに行った」 「一時は本気で柴又に下宿しようと思った」 「サクラさんにしたって、心のどこかにはお兄ちゃんだけはいつまでも夢見るバカであり続けて欲しいという気持があるのです。そしてそれはファンの夢でもあります」
「寅さん」映画への偏愛ぶりを見ても、この当時から、川本さんは、下町の庶民に対する熱い思い入れがあったのだろう。映画にも出て来る、記者の身分を隠して、テキヤの人たちをルポした「東京放浪記」にも、そうした社会の底辺にいる人たちへの愛着があったように思う。
こちらへの思いをずっと持ち続けていたら、Kに深入りする事もなかったのではないか。
だが、1971年秋、Kと接触してから、川本さんの興味は下層庶民から、夢想的革命家に移ってしまったようだ(ちなみに、上記「男はつらいよ」特集号への寄稿は1971年5月)。
で、本作のラストで、沢田は立ち寄った飲み屋で、冒頭の、潜入ルポで一緒にテキヤの仕事をしていたタモツと再会する。
タモツは結婚し、子供までいる。きちんと、地に足をつけた社会生活を営んでいる。
「あれからどうしてたの?」と優しく問いかけてくれる。
「ジャーナリストにはなれたの?」と訊かれて、沢田は「いや、なれなかった」と答え、そして激しく慟哭する。
このシーンは出色である。私もここで泣いてしまった。
ここで、沢田が泣く理由については、いろんな見方がある。それは、観た人それぞれが感じればいい事である。
私の見方は以下の通りである。多少、捻りすぎかも知れないが、お許しいただきたい。
映画「男はつらいよ」では、毎回ラストは、寅さんが旅の途中で、誰かと再会するシーンで締めくくられる。
それは、旅役者一座であったり、面倒を見てあげた人であったり、テキヤ仲間であったりするのだが、共通するのは、心を寄せ合った下層庶民である点である。
こうした、山田映画における再会シーンで、一番感動的なのは、1966年の「なつかしい風来坊」である。
かつて親しくなった、季節労働者の風来坊(ハナ肇)と、ふとした誤解から別れてしまった小役人の男(有島一郎)が、左遷されて行く旅の列車の中で、今は結婚し、子供も出来ている風来坊とバッタリ再会する。
幸せそうな家族を見て「よかった、本当によかった」と有島は言い、ポロポロと泣くのである。
お気付きのように、このラストシーンと、本作のラストはとても似通っている。
寅さんと、山田洋次映画の大ファンであり、元々は社会の底辺にいる人たちに限りない愛着を寄せていた川本さんが、スクープを焦るあまり、革命家気取りの男に心を寄せてしまい、いつしか、かつて一緒に釜の飯を食った、下層の人たちの事も忘れてしまっていた。
沢田の涙は、その、忘れていた下層庶民の人―タモツに再会し、「僕が本当に心を寄せるべきだったのは、社会の底辺で、地道に働き、貧しくとも家族と仲良く暮らしているこうした人たちではなかったのか」という事を改めて認識した、その悔悟の涙ではなかっただろうか。
山下監督と、脚本の向井康介が、山田洋次映画を意識したかどうかは定かでないが、この映画を観た川本さんは、きっと、かつて愛した「男はつらいよ」のラストシーン(あるいは「なつかしい風来坊」)を思い出し、泣いたに違いない。そう思いたい。
原作を読んで、雑誌の表紙モデル・倉田眞子(忽那汐里)と同様に、「嫌な感じがする」と思っていた私は、映画を観て、少しは胸のつかえが下りた。いい映画を作ってくれた山下監督に敬意を表したい。 (採点=★★★★☆)
(注1)
山下監督は、インタビューで次のように答えている。
「脚本の向井(康介)がいきなり『自衛官が死んだこと、どう思います?』って訊いたときに、川本さん、言葉に詰まったというか・・・ちょっとなにも答えられなくなってしまって・・・。原作読んでもそうなんですよね。川本さん、逮捕のくだりって冷静じゃないというか」
「自衛官が死んだということを軸に置いて、そこを映画としてきっちり見せれば、全体ができるのかな、と。なおかつ川本さんにそれを観てほしいな、と・・・。川本さん、そこにずっとフタをしてきたと思うんで」
引用元記事 → http://lmaga.jp/article.php?id=692
原作本「マイ・バック・ページ-ある60年代の物語」
雑誌「ユリイカ」 特集 = 山下敦弘とマイ・バック・ページ
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2011年・米/ユニヴァーサル・ピクチャーズ
原題:The Adjustment Bureau
監督・脚本:ジョージ・ノルフィ
原案:フィリップ・K・ディック
製作:ジョージ・ノルフィ、マイケル・ハケット、ビル・カラッロ、クリス・ムーア
製作総指揮:ジョナサン・ゴードン、アイサ・ディック・ハケット
人気SF作家フィリップ・K・ディックの短編小説を元に、これまで「オーシャンズ12」や「ボーン・アルティメイタム」等の脚本を手掛けて来たジョージ・ノルフィが脚色し、自ら監督デビュー作としたサスペンス・アクション。主演はこの所好調のマット・ディモン。
将来を嘱望されていた若手政治家デヴィッド(マット・デイモン)はある日、美しい女性、エリース(エミリー・ブラント)と出会い、心惹かれる。しかしエリースとバスの中で再会した直後に、彼は突如現われた黒ずくめの男たちに拉致されてしまい、エリースとは二度と逢うなと命令される。彼らは何者なのか。しかしエリースが忘れられないデヴィッドは、強大な組織に逆らい、自らの手で運命を切り拓いて行く…。
(以下、ややネタバレ注意)
デヴィッドを拉致してすぐに、黒ずくめの男たちは「我々は運命を操作する“アジャストメント・ビューロー(運命調整局)”だ」と自分から名乗っている。
いいのか?そんなに簡単に正体をバラして? まあ運命を調整するだなんて、とても信じられないから、ましてやデヴィドは政治家だから、かえって「こいつら、本当は敵側陣営の奴らで、それを隠す為デタラメ言ってるんだ」としか思えないだろう。そこまで裏を読ん…でるワケないだろう(笑)。
ちょっと疑問なのは、この作品をSFサスペンス、と紹介しているサイト(allcinema等)が多いのだが、違うのではないか。原作がSF作家のフィリップ・K・ディックだからそう思うのも無理はないが、映画を見る限りは、彼らは“天使”に下界を監視させ、人間をコントロールしている“神”のような存在のように思える。超能力も使えるようだし、自動車にはねられてもピンピンしてるし…。
SFだとしたら、“運命を逸脱しないよう監視する”という彼らの目的は、一種のタイム・パトロールのようなものなのか。運命が変わったら、未来の歴史が変わってしまうかも知れないし。
ちなみに、脚本・監督のジョージ・ノルフィは、過去にマイケル・クライトンのタイム・トラベルSF「タイムライン」(2003)の脚本を手掛けている。
だが、彼らのやってる事は、何も介入しなかったら普通にバスの中で出会うはずのデヴィッドとエリースを、調整局員の一人が妨害する…という手はずである。
だったら、これ、逆に運命を無理やり変えようとしているのでは? それとも、未来から来た誰かが歴史に介入して、本来出会うはずのなかった二人がうっかり出会ってしまったので、それを修正に現れたわけなのか?
(となって来ると、まるまる「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だ。あの作品のテーマも“運命は自らの手で切り拓くものである”だったし)
しかし映画を見てても、誰かが介入した為にデヴィッドとエリースが出会った、という風には進んでいない。そもそも、“運命”がメイン・テーマである。どう考えたってサイエンス(科学)とは無縁のお話だ。
だいたい、二人を出会わないようにするのなら、“バスに乗る時にコーヒーをこぼす”なんて回りくどい事をする前に、“トイレで二人が出会ってしまう”方を先に阻止しておくべきでは? とツッ込みたくなってしまう。
やはりこの作品は、SFではなく、運命調整局とは、人間界を超越した、神のような存在だ、と考える方が当っているのではないか(ちなみに公式サイトの紹介でも、“SF”とはどこにも書いていない)。
とすれば、これはフランク・キャプラの名作「素晴らしき哉、人生!」(1946)の、サスペンス・アクション版と言えるのかも知れない。あの作品の“天使”クラレンスは結構人間くさくて、まだ翼ももらえない2級天使だったはずだが、本作の、最初に居眠りしてミスしてしまうハリー(アンソニー・マッキー)もドジで人間くさい。最後はデヴィッドに同情して助けてあげる所も、「素晴らしき哉-」の天使クラレンスとキャラクターはやや重なっているようだ。
ちなみに、デヴィッドが政治家、という点を考察するに、これは同じフランク・キャプラのもう一つの名作「スミス都へ行く」(1939)へのオマージュの匂いもする。あの作品の主人公スミス(ジェームズ・スチュアート)は政治家として理想に燃え、政界の黒幕たちのさまざまの妨害にも屈せず、自ら運命を切り拓いて行く。最後は黒幕一味の一人が遂にスミスの熱意に根負けしてしまい、スミスは勝利する、という展開だが、政界の黒幕たちを本作の運命調整局員たちに置き換えれば、両者はよく似た構造だと言える。
まあ、少々強引かも知れないが(笑)、キャプラの2大名作をふと思い出させてくれただけでも、私には十分楽しめた作品ではある(ちなみに2作品とも主演はジェームズ・スチュアート)。
突っ込みどころは多々あれど、“運命だからと、あきらめてはいけない。どこまでも自分の信念に従い行動すれば、自ずと運命は切り拓けるものなのだ”というテーマは、今の時代だからこそ、心に響くものがある。その点を心して観る事をお奨めする。 (採点=★★★★)
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