「アジャストメント」
2011年・米/ユニヴァーサル・ピクチャーズ
原題:The Adjustment Bureau
監督・脚本:ジョージ・ノルフィ
原案:フィリップ・K・ディック
製作:ジョージ・ノルフィ、マイケル・ハケット、ビル・カラッロ、クリス・ムーア
製作総指揮:ジョナサン・ゴードン、アイサ・ディック・ハケット
人気SF作家フィリップ・K・ディックの短編小説を元に、これまで「オーシャンズ12」や「ボーン・アルティメイタム」等の脚本を手掛けて来たジョージ・ノルフィが脚色し、自ら監督デビュー作としたサスペンス・アクション。主演はこの所好調のマット・ディモン。
将来を嘱望されていた若手政治家デヴィッド(マット・デイモン)はある日、美しい女性、エリース(エミリー・ブラント)と出会い、心惹かれる。しかしエリースとバスの中で再会した直後に、彼は突如現われた黒ずくめの男たちに拉致されてしまい、エリースとは二度と逢うなと命令される。彼らは何者なのか。しかしエリースが忘れられないデヴィッドは、強大な組織に逆らい、自らの手で運命を切り拓いて行く…。
(以下、ややネタバレ注意)
デヴィッドを拉致してすぐに、黒ずくめの男たちは「我々は運命を操作する“アジャストメント・ビューロー(運命調整局)”だ」と自分から名乗っている。
いいのか?そんなに簡単に正体をバラして? まあ運命を調整するだなんて、とても信じられないから、ましてやデヴィドは政治家だから、かえって「こいつら、本当は敵側陣営の奴らで、それを隠す為デタラメ言ってるんだ」としか思えないだろう。そこまで裏を読ん…でるワケないだろう(笑)。
ちょっと疑問なのは、この作品をSFサスペンス、と紹介しているサイト(allcinema等)が多いのだが、違うのではないか。原作がSF作家のフィリップ・K・ディックだからそう思うのも無理はないが、映画を見る限りは、彼らは“天使”に下界を監視させ、人間をコントロールしている“神”のような存在のように思える。超能力も使えるようだし、自動車にはねられてもピンピンしてるし…。
SFだとしたら、“運命を逸脱しないよう監視する”という彼らの目的は、一種のタイム・パトロールのようなものなのか。運命が変わったら、未来の歴史が変わってしまうかも知れないし。
ちなみに、脚本・監督のジョージ・ノルフィは、過去にマイケル・クライトンのタイム・トラベルSF「タイムライン」(2003)の脚本を手掛けている。
だが、彼らのやってる事は、何も介入しなかったら普通にバスの中で出会うはずのデヴィッドとエリースを、調整局員の一人が妨害する…という手はずである。
だったら、これ、逆に運命を無理やり変えようとしているのでは? それとも、未来から来た誰かが歴史に介入して、本来出会うはずのなかった二人がうっかり出会ってしまったので、それを修正に現れたわけなのか?
(となって来ると、まるまる「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だ。あの作品のテーマも“運命は自らの手で切り拓くものである”だったし)
しかし映画を見てても、誰かが介入した為にデヴィッドとエリースが出会った、という風には進んでいない。そもそも、“運命”がメイン・テーマである。どう考えたってサイエンス(科学)とは無縁のお話だ。
だいたい、二人を出会わないようにするのなら、“バスに乗る時にコーヒーをこぼす”なんて回りくどい事をする前に、“トイレで二人が出会ってしまう”方を先に阻止しておくべきでは? とツッ込みたくなってしまう。
やはりこの作品は、SFではなく、運命調整局とは、人間界を超越した、神のような存在だ、と考える方が当っているのではないか(ちなみに公式サイトの紹介でも、“SF”とはどこにも書いていない)。
とすれば、これはフランク・キャプラの名作「素晴らしき哉、人生!」(1946)の、サスペンス・アクション版と言えるのかも知れない。あの作品の“天使”クラレンスは結構人間くさくて、まだ翼ももらえない2級天使だったはずだが、本作の、最初に居眠りしてミスしてしまうハリー(アンソニー・マッキー)もドジで人間くさい。最後はデヴィッドに同情して助けてあげる所も、「素晴らしき哉-」の天使クラレンスとキャラクターはやや重なっているようだ。
ちなみに、デヴィッドが政治家、という点を考察するに、これは同じフランク・キャプラのもう一つの名作「スミス都へ行く」(1939)へのオマージュの匂いもする。あの作品の主人公スミス(ジェームズ・スチュアート)は政治家として理想に燃え、政界の黒幕たちのさまざまの妨害にも屈せず、自ら運命を切り拓いて行く。最後は黒幕一味の一人が遂にスミスの熱意に根負けしてしまい、スミスは勝利する、という展開だが、政界の黒幕たちを本作の運命調整局員たちに置き換えれば、両者はよく似た構造だと言える。
まあ、少々強引かも知れないが(笑)、キャプラの2大名作をふと思い出させてくれただけでも、私には十分楽しめた作品ではある(ちなみに2作品とも主演はジェームズ・スチュアート)。
突っ込みどころは多々あれど、“運命だからと、あきらめてはいけない。どこまでも自分の信念に従い行動すれば、自ずと運命は切り拓けるものなのだ”というテーマは、今の時代だからこそ、心に響くものがある。その点を心して観る事をお奨めする。 (採点=★★★★)
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コメント
作品で二人の運命に介入したっていってましたよ。
介入してかえた運命なのに二人がひかれあうから修正するんだと思います。
投稿: あ | 2011年9月18日 (日) 05:16
すこしネタバレです。
彼女と出会わせないためにコーヒーをこぼさせようとしたのではなく、調整しているところを見せさせないようにしたのではないでしょうか。
またトイレで会わしたのは、黒ずくめの人(天使)。彼女に会わせ演説でデヴィッドに本音を言わせるために会わせました。しかし、彼女はデヴィッドにとって理想の相手、このまま彼女と再会し愛が深まれば、デヴィッドの心は満たされ野望などが消えてしまい、大統領になれないと黒ずくめが危険を感じ彼女と再会させないように妨害した。
黒ずくめは、恋の運命は邪魔したが、デヴィッドが大統領になるための手助けはしていた。しかしデヴィッドの突発的な行動で運命が度々変わってしまった。その運命を黒ずくめが、次期大統領になるデヴィッドの運命を上手く(波紋をなるべく小さく)調整していたと思います。
だらだら書いてすいません
投稿: い | 2011年9月28日 (水) 01:13