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2011年7月30日 (土)

「モンスターズ/地球外生命体」

Monsters2010年・イギリス/配給:クロックワークス
原題:Monsters
監督・脚本・撮影:ギャレス・エドワーズ
製作:アラン・ニブロ、ジェームズ・リチャードソン
製作総指揮:ナイジェル・ウィリアムズ、ニック・ラブ、ルパート・プレストン

英TV界でVFXの仕事に携わってきた新鋭ギャレス・エドワーズ監督が、製作費わずか1万5,000ドル(約120万円)で作り上げ、長編監督デビューを果たした事で話題となったSF怪獣映画。

地球外生命体のサンプルを採取したNASAの探査機が、大気圏突入時にメキシコ上空で大破。その直後から謎のモンスターが増殖し、メキシコの半分が危険地帯として隔離される。それから6年後、メキシコでスクープを狙うカメラマンのコールダー(スクート・マクネイリー)は、上司から現地でケガをした社長令嬢のサマンサ(ホイットニー・エイブル)を、アメリカ国境まで送り届けろとの命を受ける。2日後にはアメリカ軍が国境を閉鎖してしまうという中、コールダーとサマンサは、モンスターたちを避けながら国境を目指すのだが…。

超低予算で作られ、後に世界配給され話題となった映画では、1992年に、わずか7,000ドルで作られたというロバート・ロドリゲス監督「エル・マリアッチ」がある。あちらは本当にチープで素人っぽい出来だったが、生きのいい演出が認められ、ロドリゲス監督は後にハリウッドに進出、メジャー監督となった。
ちなみに、「エル・マリアッチ」もメキシコが舞台。エドワーズ監督も本作の成功でハリウッドに呼ばれ、新ハリウッド版「ゴジラ」の監督に大抜擢されたそうだ。“メキシコを舞台に超低予算映画を作った監督は出世する”というジンクスが生れそうだ。

あまり期待はしていなかったのだが、映画は観てみないと分からない。思ったよりもきちんとした出来で、サスペンスとラブロマンスが絶妙にブレンドされ、最後に意表をつく感動も用意されており、結構楽しめる、意外な拾い物の力作であった。

低予算をカバーする為、モンスターの姿をチラチラとしか見せず、また現地で採用した素人を登場させている事もあって、全体にセミ・ドキュメンタリーを観ているような臨場感があり、それがスリリングな効果をもたらしている。

荒れた画質に、手ぶれするカメラ。そして一瞬フレームに入ってくる怪獣の姿…と、やはりドキュメンタルな映像で話題となった「クローバーフィールド/HAKAISHA」「第9地区」などとも雰囲気は共通する。

だが本作がユニークなのは、怪獣はむしろ背景で、メインとなるのは、アメリカを目指す旅を続ける中で、最初は反目しあっていた男女が、絶望的な状況の中で力を合わせ、さまざまなトラブルを乗り越え、やがては次第に惹かれ合って行くという、ハリウッド映画の1ジャンルでもあるロードムービー・ラブストーリー(これについては後述)としても見ごたえのある作品になっている点である。

(以下ややネタバレあり)
コールダーは下っ端のフリー・カメラマン、一方のサマンサは新聞社の社長令嬢。身分の違いは歴然としている。その上彼女にはフィアンセがいる。サマンサは最初は露骨にコールダーに対して上から目線で、相手にもしたくないのだが、女でケガもしている以上、一人旅は無理なので仕方なく付き添いを認めているだけである。

だが、時にはコールダーに助けられたり、世話を受けたり、また道中で道端に倒れている死体にそっと服を被せる等、優しい一面を見せるコールダーに対し、サマンサが少しづつ心を開いて行くプロセスが丁寧に描かれているのがいい。

一度は、一人分だけの切符が手に入り、ここで二人は別れるのか、と思いきや、切符が盗難に会って、結局また二人旅になる、という展開も面白い。このくだり、困っていると見るや運賃を吹っかける(なんと一人1万ドルだ)アコギな親父が笑わせたり、男女の心理の綾や、伏線が巧みに絡んでいて秀逸。
ここで、二人の運賃の為、サマンサは婚約者からもらったダイヤの指輪を思い切りよく手放すのだが、ここでサマンサは婚約なんて半分どうでもいい、という気持ちになっているようにも見え、それが二人の結末をも暗示させる伏線になっている。うまい。

さまざまな困難を乗り越え、とうとうアメリカ国境にやって来た時、二人はもう互いに心を許す気持ちになっている。それを後押しするのが、二人が目撃する、2匹のモンスターの愛の交流、であるというのが面白い。光を放ちながら接触し合うモンスターの交愛は神秘的な神々しさに満ちており、その光景に触発されてか、二人はキスを交わすのである。

二人の間に身分の違い、という障害はあるけれども、下等生物であるモンスターだって愛し合えるのだから、同じ人間同士、愛し合っていけない、という理由はない。さて、二人はどうやってこの障害を乗り越えるのか、それは観客の想像に任せよう、という粋な終り方も楽しい。

莫大な製作費をかけたハリウッドの物量SF侵略物が次々と作られているけれど、ほとんど予算をかけない本作の方がむしろ心に沁みた。
宣伝文句では、“クエンティン・タランティーノ、ピーター・ジャクソン、リドリー・スコットらがこぞって絶賛”とあるけれど、それも納得の出来である。

ギャレス・エドワーズ監督、次は本作の数千倍(?)の製作費をかけた「ゴジラ」の監督を任されるようだけれど、初心を忘れずに丁寧な作品作りに邁進して欲しい。今後が最も期待できる監督の一人として、一押ししておこう。

 
なお、本作の製作国もイギリスである。昨年の「月に囚われた男」(ダンカン・ジョーンズ監督)といい、今年の「アリス・クリードの失踪」といい、イギリス作品は、低予算で登場人物もごく少数ながら、捻った、面白い作品が次々登場しているのはちょっと面白い傾向である。     (採点=★★★★

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さて、お楽しみはココからである)
本作を観ていて、クラシック映画ファンならすぐに思いつく作品がある。

Ithappenedonenight フランク・キャプラ監督の1934年作品「或る夜の出来事」である。
同年のアカデミー賞、主要5部門(作品・監督・主演男優・主演女優・脚色賞)を受賞した名作である。

この映画のヒロイン(クローデット・コルベール)は、大富豪の令嬢であり、勝手に婚約されられた事に怒って船から脱走、一人旅をするのだが、ひょんな事から彼女との二人旅をする事になるのが失業中の新聞記者クラーク・ゲーブル。

ゲーブルはお高くとまったコルベールに手を焼き、時には喧嘩したり、ヒッチハイクをしたりしながら旅を続け、やがて次第に惹かれ合って行く

…と、こう書くだけでも、二人のキャラクターといい、話の展開といい、よく似ている。

それだけではない。1人分の切符が手に入った後、一晩モーテルに泊まるシーンで、コールダーはサマンサに「良かったら一つの部屋に泊まらない?何もしないし。心配なら間をカーテンで仕切るから」と提案するのである。結局没にはなるけれど。

このセリフで、「或る夜の出来事」を観ている人なら、有名な“ジェリコの壁”(二つのベッドの間にロープを張り、毛布で壁を作る事)のシーンを即座に思い出すだろう。このセリフからも、エドワーズ監督、明らかに「或る夜の出来事」にオマージュを捧げている事が分かる。

結末は、…二転三転しながらも二人は身分の壁を乗り越えて結ばれる。

この結末を知っていれば、恐らくは本作におけるコールダーとサマンサの恋も、障害を乗り越えて成就するのではないか、とハッピー・エンドを予測する事も可能である。エドワーズ監督、そこまで考えてたとしたらなかなかしたたかではある。

 
Dogora_2 も一つちなみに、モンスターのデザイン、東宝のSF怪獣映画「宇宙大怪獣ドゴラ」(1964)に登場する宇宙からのモンスターとなんとなく似ている。本作のモンスターは触手で自動車等を持ち上げるのだが、“ドゴラ”も触手で船やら橋やらを持ち上げる。体から光を発している所も共通する。

エドワーズ監督は本作の成功で、ハリウッド版「ゴジラ」に抜擢されるのだが、案外このモンスターの造形で、東宝怪獣映画に詳しい、と思われたのではないだろうか…とふと想像したくなるが、さて、当っているかどうか。

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2011年7月24日 (日)

「大鹿村騒動記」

Oosikamura2011年・日本/配給:東映
監督・企画:阪本順治
脚本:荒井晴彦、阪本順治
原案:延江浩

7月19日に亡くなった、原田芳雄の文字通り遺作。阪本順治監督のデビュー作「どついたるねん」(1989)以来、多くの阪本作品に出演して来た原田が、コンビ7作目にして初めて、そして最後の主演を果たした、阪本作品としても珍しい群像コメディの秀作。

追悼記事はこちら

長野県・大鹿村でシカ料理専門店を営む風祭善(原田芳雄)。彼は毎年、300年の伝統を誇る村歌舞伎の舞台に立つのを生き甲斐にしており、今年も稽古に余念がない。そこへ18年前に駆け落ちして村を出奔した善の妻の貴子(大楠道代)と幼馴染の治(岸部一徳)が戻ってくる。貴子は認知症を患い記憶を失っており、治は善に貴子を返すと申し出、台風も近づく中、村にはさまざまな騒動が巻き起こる…。

亡くなった翌日、劇場に観に行った。出来るだけ冷静に観ようとしたが、ダメだ。原田の顔がアップになる度、涙がポロポロ流れた。嗚咽を堪えるのに必死だった。既に撮影当時もガンが進行していたらしいが、画面にはそんな気配が微塵も感じられなかった。死ぬ直前まで、役者としての仕事をまっとうした原田芳雄。つくづく、凄い俳優だったと思う。

舞台となる大鹿村は、長野県に実在する村で、クライマックスで演じられる村歌舞伎“大鹿歌舞伎”も実際に上記の通り300年以上上演されて来た本物である。善が主役を張る演目「六千両後日文章 重忠館の段」もこの村でしか上演されないものだという(大鹿歌舞伎の公式サイトこちらを参照)。

原田芳雄は、以前ドラマで村歌舞伎の役者を演じた事があり、それ以来大鹿歌舞伎に魅せられて、次の作品は是非これを映画にしたいと熱望していたという。
最後の最後で、自らのこの企画が実現し、主役も演じられて、ある意味では本望だったのかも知れない。

この大鹿歌舞伎は、映画で描かれたように、村の人たちが手作りで、観客席は屋根なし、境内にゴザを敷き、役者も観客も心から舞台を楽しんでいる。公式ページにも記載されているが、まさに“芸能の原点である「心と心が触れ合う場」を生み出”しているのである。原田が惹かれたのも、分かる気がする。

映画は、大鹿歌舞伎の練習に余念がない原田演じる善と、認知症を患い記憶をなくした善の妻貴子、親友を裏切り貴子と駆け落ちした治、の3人の男女のトボけた掛け合いを中心に、善の店で働く事になった雷音(冨浦智嗣)、貴子の父の義一(三國連太郎)、その他の村の人々が絡んでドタバタ騒動を繰り広げ、最後の歌舞伎公演のクライマックスになだれ込んで行く。

のどかな村を舞台にした、面白うて、やがて悲しき人間喜劇…。ベテラン荒井晴彦(阪本順治と共作)の丁寧に練られた脚本、阪本順治の腰の座った演出、演技派の名優による絶妙の掛け合い、等が相まって、コメディとは言え、骨太の人間ドラマとしても見応えがある。

名優たちのアンサンブル・コメディと言えば、やはり早逝した川島雄三監督の、一連の群像コメディ(「幕末太陽傳」(1957)、「貸間あり」(1959)、「喜劇とんかつ一代」(1963)等)を思い出す(あの頃は、森繁にフランキー堺、三木のり平、山茶花究等、本当に芸達者な名優がいたなあ)。
楽しくて、大笑いして、やがて生きる事の悲しさ、せつなさ、そして人間という生き物の愛おしさ…までも感じさせる、今の時代ではほとんど作られなくなった、チャーミングな大人のコメディに仕上がっている。それだけでも素晴らしい事だと思う。最近ちょっとパワーダウン気味だった阪本監督にとっても久々の力作と言えよう。

そして、隠れたテーマとなっているのが、“忘れない事の大切さ”である。

貴子は昔の事を忘れてはいるが、それでも、かつて善と夫婦で演じた歌舞伎のセリフだけは覚えている。そしてやがて嵐の日、昔の記憶を取り戻すのだが、それは善を裏切った、忌まわしい過去も思い出す事を示しており、貴子はいたたまれず姿を消す。
それでも善は優しく貴子を許し、一緒に舞台に立つ事を勧める。過ぎた過去は忘れて、前に向き合う事の大切さが示される。

一方、貴子の父・義一は、シベリア抑留の痛ましい記憶を今も心の奥にしまっている。その死んで行った、多くの同志を忘れない為に、木彫りの仏像を彫って墓に添えている。

歌舞伎という伝統芸能を守り続ける事も、いいものをいつまでも忘れずに残して行くという意味で大切な事だと思う。

そして我々観客も、原田芳雄という名優がいた事を、忘れないようにしたいと思う。

エンドロールで、映画の中のいくつかのシーンがスチール写真で紹介されるのだが、原田芳雄の姿がアップになった時はまた涙が溢れた。阪本監督も、原田自身も、この作品が原田芳雄の遺作、になる事を予期していたのかも知れない。

遺作が、悲しかったり、重い作品でなく、楽しくて、ほのぼのと笑える作品であった事が救いである。原田芳雄さん、数多くの、素敵な作品をありがとう。安らかに…。     (採点=★★★★☆

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2011年7月20日 (水)

原田芳雄さん 追悼

Haradayoshio 大好きだった俳優・原田芳雄さんが、7月19日午前9時35分、肺炎のため東京都内の病院で亡くなられました。享年71歳。

ショックです。声も出ません。

1963年。俳優座の養成所に入り、舞台俳優としてキャリアをスタート。俳優座に入り、映画俳優としては1968年、「復讐の歌が聞える」(山根成之・貞永方久共同監督)でデビュー。以後、出演作品は100本を超えます。

 
私が最初にその姿をスクリーンで観たのは、1970年の日活映画「反逆のメロディー」(澤田幸弘監督)でした。

物語としては、いわゆるヤクザ映画なのですが、びっくりしたのはそのスタイル。
当時のヤクザものは、主人公は時代に関わらず髪は短く刈上げ、現代が舞台の場合はまず背広にネクタイが定番。

Hangyakunomerody ところが、原田芳雄は、長髪にサングラス、素肌にジージャン、ジーンズといういでたち。ジープを疾駆し、ぶっきらぼうな喋り方で荒っぽい行動。まるで既製のヤクザ映画をぶっ壊すかのような鮮烈な登場ぶりでした。

当時、長谷部安春や藤田敏八監督らによる、不良少年・少女たちが自由奔放に暴れる「野良猫ロック」シリーズを中心とした、いわゆる“日活ニュー・アクション”が台頭し、コアな映画ファンの耳目を集めていた頃。そこに、まさにニュー・アクションの真打ち、として登場した本作に、我々映画ファンは熱狂しました。原田芳雄はそうして、またたく間に我らのヒーローとなったのでした。―無論、澤田監督の斬新な演出にもよる所は大きいとは思いますが。

同年の「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」では渡哲也と共演。藤田敏八監督の軽快な演出も相まって、ここでもワイルドな存在感は健在でした。

ところが、同じ藤田監督によるシリーズ最終作「野良猫ロック 暴走集団'71」で原田芳雄は、なんとドテラ姿で登場。これがまた、不思議とサマになっていました。とにかく、既製のスタイルをぶち壊そうとする意欲に溢れていた、と言えるのかも知れません。

以後も、やはり藤田敏八監督、桃井かおりと初共演の「赤い鳥逃げた?」(73)、黒木和雄監督「竜馬暗殺」 (74)と、強烈な存在感を示した意欲作に主演、原田芳雄は映画ファンの心を掴んだばかりか、多くの新人俳優たちにも影響を与え続けました。

一番影響を受けたのが、松田優作。「アニキ」と慕い、デビュー当初はとにかく原田芳雄の演技、喋り方から風貌に至るまで、ほとんどマネをしていたほどです。出世作「最も危険な遊戯」(78年・村川透監督)ではその原田への傾倒ぶりが伺えます。なにしろ「暴動集団'71」でお馴染みのドテラ姿も登場するほどです(笑)。

原田がいなかったら、松田優作もあれほどのスターに成長しなかったかも知れません。

その後も、黒木和雄監督(「祭りの準備」「原子力戦争」「父と暮せば」等)、鈴木清順監督(「悲愁物語」「ツィゴイネルワイゼン」等)、若松孝二監督(「キスより簡単」「われに撃つ用意あり」等)、そして「どついたるねん」から、遺作「大鹿村騒動記」までの阪本順治監督など、多くの個性派監督に重用され、晩年に至るまで、ずっと個性的な名優の地位を保ち続けたと言えるでしょう。

個人的に好きな作品を挙げれば、「反逆のメロディー」、「赤い鳥逃げた?」、「われに撃つ用意あり」、「鬼火」(1996年・望月六郎監督)あたりでしょうか。

その他、強烈な印象を残しているのが、五社英雄監督「闇の狩人」 (1979)。中盤で原田は、敵陣に殴り込みをかけるのですが、その前に、着物の両袖を引っ張ってビリリと破り、油紙をクルクル巻いて鉢巻代りにし、敵陣では次々と襖に体当たりして突き進んで行くのです。このシークェンスの豪快さとカッコ良さは一見の価値ありでしょう。

最後に異色作を紹介。黒木和雄監督「原子力戦争 Lost Love」 (1978)。この冒頭で原田はなんと、福島第二原子力発電所にアポなしで侵入。明らかにカメラに向かって警備員が制止している場面があり、内容も“原子炉のメルトダウンを引き起こしかねない事故を隠蔽する電力会社。それを告発しようとした技師は謀殺される”という、まさに今の時代、必見の作品と言えます。

原田芳雄の死去に関連して、ユーチューブの再生回数が急増しているとのこと。追悼を兼ねて、この機会に是非テレビでも再放映、あるいは劇場で再公開していただきたいものです。 ↓

 
ともあれ、多くの名作を残して、我々映画ファンを楽しませてくれた原田芳雄さんに、心から哀悼の意を表したいと思います。お疲れ様でした。安らかに…。

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DVD「反逆のメロディー」

DVD[竜馬暗殺」

DVD「祭りの準備」

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2011年7月14日 (木)

「アリス・クリードの失踪」

Alicecreed2009年・イギリス/配給:ロングライド
原題:The Disappearance of Alice Creed
監督・脚本:J・ブレイクソン
製作:エイドリアン・スタージェス
製作総指揮:スティーヴ・クリスチャン、マーク・サミュエルソン

誘拐事件をテーマとしたサスペンスの傑作。監督のJ・ブレイクソンは、当年34歳。高校時代から短編映画を撮り続けては映画祭に出品し、脚本家としても活躍していたが、自ら書き上げた本作の脚本で長編監督デビューを果たし、各地の映画祭で絶賛された。

富豪の父親をもつ20代の女性アリス・クリード(ジェマ・アータートン)は、2人組の男、ヴィック(エディ・マーサン)とダニー(マーティン・コムストン)に誘拐され密室に閉じ込められる。男たちは多額の身代金を手に入れようと企むが、ふとした事から、完璧だったはずの計画がほころび始める。

たった3人しか登場人物がいないが、巧みに張られた伏線、小道具の見事な使い方、物語は二転三転、まったく先が読めない展開…と、まず緻密に構築された脚本の見事さに唸る。

演出も冒頭から快テンポ。全くセリフがなく、短いカッティングで、二人の男が誘拐の為の道具、部屋を周到に準備して行くシークェンスが積み重ねられる。これだけで、観客はこれから何が起きるのか、興味津々となる。

(以下ネタバレあり。注意)
二人の男のキャラクター設定もうまい。中年のヴィックは、その沈着・スピーディで手際良い行動からして、相当修羅場をくぐって来た事が分かるし、計画を立てたのもほとんどがこの男である事が一目瞭然。一方、若いダニーはどことなく落ち着きがなく、不安を覗かせて、こうした犯罪に慣れていない様子。完全にヴィックがリーダーで、ダニーは命令に従っているだけの手下という関係である。

従って、ミスをするのもダニーの方で、うっかりアリスに後ろを見せた為に逆襲されるハメとなる。

が、面白いのはここからで、実は[ダニーはアリスの恋人だった事が判る。これ以降、当初は全くに被害者だったはずのアリスが、ダニーと手を握り、2人で如何にしてヴィックを出し抜くか、という主客の転倒が起きる]。

見事なのは、ここでアリスが発射し床に転がったピストルの薬莢、壁にめり込んだ弾丸、そして警察に連絡しようとしてアリスがポケットに入れた携帯、等のちょっとしたアイテムが、すべて後のサスペンスに繋がって行く展開のうまさである。

さらにうまいのが、ヴィックとダニーが、実は[ゲイの関係]であった事が分かるシーン。

これがまた、新たな謎を生むわけで、[アリスとも恋人だったダニーは、いったいノーマルなのか本当のゲイなのか。ヴィックを騙す為にゲイのふりをしていたのか、あるいは本当は女に興味はないが、金を手に入れる為にアリスに近づいたのか…]、つまりは、ダニーが本当に騙そうとしている相手は、ヴィックなのか、アリスなのか、観客にはまったく分からなくなって来るのである。

やがて、壁の弾丸、アリスが持っていた携帯から、ヴィックはダニーに騙されていた事を知る。
ここから以降は、互いに疑心暗鬼、3人が3人、それぞれに相手を疑い、騙し、裏切り、首尾よく手に入れた200万ポンド(約2億6千万円)は、いったい誰の手に渡るのか、息もつかせぬハラハラ、ドキドキの展開となる。

これから後は映画を観てのお楽しみ、結末は書かないが、エンディングも秀逸。そして、最後にようやく、タイトルの意味も判る事となる。見事なサスペンスの傑作だ。

 
これがイギリス映画である事も注目である。

イギリス・サスペンス映画と言えば、アメリカ映画とは一味違う、キッチュで少し毒があって、どことなく洒落ているのが特徴である。

古くは、「マダムと泥棒」(1955)という、完全犯罪がちょっとした事から破綻して、最後に全員が自滅するブラックな犯罪コメディの快作がある。

また、ダニー・ボイル監督のデビュー作「シャロウ・グレイブ」(1994)は、大金をめぐって3人の男女の人間関係が崩れて行くサスペンスである。
低予算に、よく練られた脚本、気鋭の新人のデビュー作、と、本作との共通点は多い。

なにしろ、イギリスと言えば、傑作「第三の男」を生んだ国である。

本作は、そうしたイギリス犯罪映画の伝統も、うまく引き継いでいると言えよう。    (採点=★★★★

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(さらに、お楽しみはまだある)
全体として感じるのは、ジョエル&イーサンのコーエン兄弟作品と共通するテイストである。

人間の欲と愛憎がからみ、二点三転する物語展開は、「ブラッド・シンプル」を思わせるし、誘拐事件と、金に絡む騙し合い、殺し合いは「ファーゴ」を思わせる。

ちょっとした小道具を、うまく利用してサスペンスに繋げる語り口も、「ブラッド・シンプル」における、置き忘れたライターの使い方を想起させてくれる。

ちなみに、コーエン兄弟作品「レディ・キラーズ」は、前掲のイギリス映画「マダムと泥棒」のリメイクである、という点も見逃せない。

Millerscrossing また、深い森の中で、ヴィックがダニーに拳銃を突きつけるシーンの絵柄は、コーエン兄弟の代表作「ミラーズ・クロッシング」の有名なシーン(右写真)と構図がそっくりだったりする。

ブレイクソン監督は、コーエン兄弟のファンであるのかも知れない。
が、コーエン兄弟自身が、「レディ・キラーズ」リメイクの例を見ても、イギリス犯罪映画をこよなく愛している気配を感じる。両者が互いを引き付け合うのは、むしろ当然なのかも知れない。

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2011年7月 2日 (土)

「あぜ道のダンディ」

Azemichi2011年・日本/配給:ビターズ・エンド
監督:石井裕也
脚本:石井裕也
製作:狩野義則、熊澤芳紀、為森隆、定井勇二、百武弘二、久保田修
プロデューサー:宇田川寧、柴原祐一 

「川の底からこんにちは」で、2010年度ブルーリボン賞監督賞を史上最年少の27歳で受賞した石井裕也監督の最新作。

北関東の地方都市で配送業の仕事をする50歳の宮田淳一(光石研)は妻を早くに亡くし、大学浪人中の息子・俊也(森岡龍)と高校3年の娘・桃子(吉永淳)を男手一つで育てて来た。しかし、不器用で人付き合いも苦手な淳一は子供たちとも疎遠なまま、唯一の親友・真田(田口トモロヲ)と飲んでグチをこぼす毎日。そんなある日、淳一は胃の痛みを感じ、妻と同じ胃ガンではないかと思い悩む。一方では、俊也と桃子がそろって東京の私大に合格し、親元を離れる日がやって来る…。

妻を早くに亡くし、男手一つで子供を育てて来た中年男が、ある日自分はガンで余命いくばくもないと思い、残された人生について悩む…
というストーリーを聞くと、これは黒澤明の名作「生きる」(1953)ではないかと映画ファンならすぐに思い浮かぶ。

せっかく育てた子供も、親の事など我関せず、のように見える辺りも似ているし、何より主人公の淳一が腹を押さえ、痛そうに歩く姿が「生きる」における志村喬の名演技を髣髴とさせる。

Ikiru そう言えば、淳一が友人の真田から借り受けたソフト帽は、「生きる」でも主人公がいつも被っていたし、ラストでも効果的に使われる(通夜の席で警察官が拾ったと言って届けてくれる)重要なファクターになっていたはず。

が、似ているのはそこまで。後半はぐっと違う展開となり、「生きる」とはまた別の感動が押し寄せる。

(以下、ややネタバレあり)
石井裕也監督は、弱冠28歳でありながら(しかもオリジナル・シナリオ)、年頃の子供を持った50歳男の心情を実に的確に描いている。

「川の底からこんにちは」でも顕著だった、必死に生きる姿が微妙なズレを呼んで笑いに転化する、絶妙な演出は本作でも健在だ。

主人公は不器用で、娘や息子ともうまくコミュニケーションを取れない。息子はゲームにハマっているし、娘は友人に援助交際に誘われている。父親はヤケになって酒を飲んでは周囲にカラむ…。

最悪の状況である。いつ悲劇に突き進んでもおかしくない。

が、丁度父親の世代と、子供たちの世代との中間(どちらかと言うと子供たちに近い)に位置する石井監督は、父親の心情を丁寧に描く一方で、子供たちも実は父親の気持を、心の片隅では分かっているのだ、というポジティブな描き方に軸足を乗せて行く。
そして、必死になって子供たちとコミュニケーションを取ろうと努力する父親の思いが、やがては両者の溝を埋めて行くのである。

前作と同様、“どん底にあっても、努力すれば人は立ち直れる”というテーマを、石井監督はここでも追求している。舞台も前作同様、あぜ道が広がる地方都市である。

石井監督はインタビューで、「この時代、誰しもが『男なんて、みんな駄目だ』と気づいてしまったし、正直僕もそう思います。でも駄目だろうが情けなかろうが、敗北してボロボロになろうが、男は男を気取って堂々と生きていくしかないのです。その覚悟こそが男の純情、美意識なのではないかと思います」と語っている(公式サイトより)。

まことに、男とはつらいものである。中高年になれば尚更だ。でも、“敗北してボロボロになろうとも、男を気取って生きて行くべきだ”という監督の主張はとてもよく理解出来る。

そういう点では、“カッコ悪く、負けてばかりだけれど、それでも「渡世人のつれえ所よ」と男を気取って生きている”「男はつらいよ」の主人公、寅さんの生き様を想起する事も出来る。主人公が思い込み、早とちりする所も似ているし。

そう言えば、寅さんもソフト帽がトレードマークだった。

ソフト帽は、カッコ悪く生きる男の、ダンディズムの象徴なのかも知れない。

 
前作ほどのインパクトはないけれど、男の生き方、家族の絆、という深遠なテーマにオリジナル・シナリオで取り組み、しみじみとした味わいと余韻を残した本作も、私はとても気に入っている。石井監督は、着実に進化している。次作がますます楽しみだ。
年頃の子供を持つお父さんなら、是非観ておくべき、そして人生に疲れかけた方なら、ちょっぴり元気になれる、素敵な佳作である。お奨め。     (採点=★★★★

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(で、お楽しみはまだある)

“ダンディ”という言葉で思い出すのは、谷村新司の名曲「ダンディズム」である。
http://j-lyric.net/artist/a000498/l00652e.html

この中に次のような歌詞がある。

♪息子よ、いつの日かこの酒を
古びた止まり木の片隅で

息子よ、いつの日かこの時が
君の想い出に変わる頃
俺は遠くの酒場で グラスをあげ 笑ってる…

歌おう 私の愛する妻の歌
人生は束の間の祭り
せめて人を愛せよ ダンディズム♪

…男が、息子を、そして妻を思い、人生の何たるかをしみじみと語りかける、本作のテーマとも繋がっていると思える、素敵な詩である。まさに男のダンディズムである。まあ、ちょっとカッコ良過ぎるが(笑)。

谷村新司「ダンディズム」

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