原田芳雄さん 追悼
大好きだった俳優・原田芳雄さんが、7月19日午前9時35分、肺炎のため東京都内の病院で亡くなられました。享年71歳。
ショックです。声も出ません。
1963年。俳優座の養成所に入り、舞台俳優としてキャリアをスタート。俳優座に入り、映画俳優としては1968年、「復讐の歌が聞える」(山根成之・貞永方久共同監督)でデビュー。以後、出演作品は100本を超えます。
私が最初にその姿をスクリーンで観たのは、1970年の日活映画「反逆のメロディー」(澤田幸弘監督)でした。
物語としては、いわゆるヤクザ映画なのですが、びっくりしたのはそのスタイル。
当時のヤクザものは、主人公は時代に関わらず髪は短く刈上げ、現代が舞台の場合はまず背広にネクタイが定番。
ところが、原田芳雄は、長髪にサングラス、素肌にジージャン、ジーンズといういでたち。ジープを疾駆し、ぶっきらぼうな喋り方で荒っぽい行動。まるで既製のヤクザ映画をぶっ壊すかのような鮮烈な登場ぶりでした。
当時、長谷部安春や藤田敏八監督らによる、不良少年・少女たちが自由奔放に暴れる「野良猫ロック」シリーズを中心とした、いわゆる“日活ニュー・アクション”が台頭し、コアな映画ファンの耳目を集めていた頃。そこに、まさにニュー・アクションの真打ち、として登場した本作に、我々映画ファンは熱狂しました。原田芳雄はそうして、またたく間に我らのヒーローとなったのでした。―無論、澤田監督の斬新な演出にもよる所は大きいとは思いますが。
同年の「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」では渡哲也と共演。藤田敏八監督の軽快な演出も相まって、ここでもワイルドな存在感は健在でした。
ところが、同じ藤田監督によるシリーズ最終作「野良猫ロック 暴走集団'71」で原田芳雄は、なんとドテラ姿で登場。これがまた、不思議とサマになっていました。とにかく、既製のスタイルをぶち壊そうとする意欲に溢れていた、と言えるのかも知れません。
以後も、やはり藤田敏八監督、桃井かおりと初共演の「赤い鳥逃げた?」(73)、黒木和雄監督「竜馬暗殺」 (74)と、強烈な存在感を示した意欲作に主演、原田芳雄は映画ファンの心を掴んだばかりか、多くの新人俳優たちにも影響を与え続けました。
一番影響を受けたのが、松田優作。「アニキ」と慕い、デビュー当初はとにかく原田芳雄の演技、喋り方から風貌に至るまで、ほとんどマネをしていたほどです。出世作「最も危険な遊戯」(78年・村川透監督)ではその原田への傾倒ぶりが伺えます。なにしろ「暴動集団'71」でお馴染みのドテラ姿も登場するほどです(笑)。
原田がいなかったら、松田優作もあれほどのスターに成長しなかったかも知れません。
その後も、黒木和雄監督(「祭りの準備」「原子力戦争」「父と暮せば」等)、鈴木清順監督(「悲愁物語」「ツィゴイネルワイゼン」等)、若松孝二監督(「キスより簡単」「われに撃つ用意あり」等)、そして「どついたるねん」から、遺作「大鹿村騒動記」までの阪本順治監督など、多くの個性派監督に重用され、晩年に至るまで、ずっと個性的な名優の地位を保ち続けたと言えるでしょう。
個人的に好きな作品を挙げれば、「反逆のメロディー」、「赤い鳥逃げた?」、「われに撃つ用意あり」、「鬼火」(1996年・望月六郎監督)あたりでしょうか。
その他、強烈な印象を残しているのが、五社英雄監督「闇の狩人」 (1979)。中盤で原田は、敵陣に殴り込みをかけるのですが、その前に、着物の両袖を引っ張ってビリリと破り、油紙をクルクル巻いて鉢巻代りにし、敵陣では次々と襖に体当たりして突き進んで行くのです。このシークェンスの豪快さとカッコ良さは一見の価値ありでしょう。
最後に異色作を紹介。黒木和雄監督「原子力戦争 Lost Love」 (1978)。この冒頭で原田はなんと、福島第二原子力発電所にアポなしで侵入。明らかにカメラに向かって警備員が制止している場面があり、内容も“原子炉のメルトダウンを引き起こしかねない事故を隠蔽する電力会社。それを告発しようとした技師は謀殺される”という、まさに今の時代、必見の作品と言えます。
原田芳雄の死去に関連して、ユーチューブの再生回数が急増しているとのこと。追悼を兼ねて、この機会に是非テレビでも再放映、あるいは劇場で再公開していただきたいものです。 ↓
ともあれ、多くの名作を残して、我々映画ファンを楽しませてくれた原田芳雄さんに、心から哀悼の意を表したいと思います。お疲れ様でした。安らかに…。
DVD「反逆のメロディー」
DVD[竜馬暗殺」
DVD「祭りの準備」
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